言語なき思考 H.G.ファース著 中村善達訳編 1982/03/20 福村出版

言語なき思考 H.G.ファース著 中村善達訳編 1982/03/20 福村出版

本書について

"Thinking without Language. Psychological Implications of Deafness." by Hans G. Furth New York: The Free Press. 1966 の訳です。

同時期に、誠信書房から『言語なき思考 : 聾の心理学的内含』が染山教潤、氏家洋子訳で出版されています。そちらは実物を見たことがありません。どのような経緯で、二つの出版社から刊行されたのかはわかりません。

本書は、『言葉のない世界に生きた男』の参考文献に列挙されていましたが、邦訳については記載がありませんでした。その時点で、本訳書は出版されていたし、有名な本ですから、記載がなかったの、はなにかその翻訳書出版経緯のせいかもしれません。

研究書です。けっして一般向けの本ではありません。でも、それは内容が難しいということを意味しません。いろいろな実験結果を紹介している部分が半分以上なので、そういうのに興味がある人にはぜひ読んでもらいたいと思います。そして、その実験結果の「解釈」について、皆さんで考えてほしいのです。

本書の訳は、研究書らしい直訳調です。そういう意味では読みやすいとはいえません。でも、その分正確な訳なんだろうと思います。ただ、40年前の訳書なので、その後一般化した日本語訳の語と若干異なるところがありますので、注意が必要です。

もう一つの訳書はどうなのでしょう。機会があれば読み比べてみたいと思います。

自分の本棚でこの本を再発見(^_^;)。後半に入って、私自身の「線引」を発見。昔読んだんですね。覚えてませんでした。

ファースについて

Hans Gerhard Fürth または Hans G. Furth (December 2, 1920/12/2 –1999/11/7)はオーストリア(ウィーン)生まれの心理学者です。ユダヤ人の両親にもとに生まれ、彼自身は16歳でカソリックの洗礼を受けています。ロンドンの王立音楽院を卒業して、音楽家を目ざしていました。イギリスのユダヤ人強制収容所を巡って演奏したりしています。

アメリカに渡り、オタワ大学で心理学を学び、ワシントンのカソリック大学の教授になりました。"Piaget and Knowledge: Theoretical Foundations (published by Prentice-Hall in 1969)"がベストセラーになって、大学のフルタイムの教職を辞めます。

妻のMadeleine Steen Furthとともに公民権運動に参加したりしています。晩年はバッハやベートーベン、モーツアルトなどの曲を弾き、熱心なハイカーで自転車乗りでもありました。シェナンドー国立公園をハイキング中に心臓発作でなくなりました(Wikipediaによる。誤訳は勘弁してください。)。面白そうな人です。

ピアジェ(1896/08/09/-1980/09/16)の研究者らしく(ピアジェのもとで研究を行っていた)、本書もピアジェ理論を基礎に書かれています。

聾児に対する愛

彼を研究に駆り立てていたものは何でしょうか。私の想像でしかありませんが、一つには西欧人、とくにユダヤ人としての厳密さ、そして厳格さ。その厳格さは、カソリック教会の影響を受けて強まったのではないでしょうか。

そして、ユダヤ人であるが故に、自分自身の体験として受けとめなければならなかった強制収容所。それは、一つの逆説として、矛盾として彼の身に降り掛かってきたのではないでしょうか。

さらに、その矛盾の中で生きる「少数者」、その矛盾が一番押し寄せる弱者である「障害者」、つまり「聾者」に対する、思いやりの気持ちではなかったでしょうか。

「昔は、聾者といえば、ものいわぬ動物にたとえられ、精神に異常をきたした人間ということで片付けられていた。法律上、また人間としても、無能力な存在だとみなされていたわけである。こうした見方の背景には、話しことばの存在が、理性をもった生物とそうでない生物とを区別する特徴であるとする考え方があった。」(P.205)

公民権運動に参加したのと同じ感情です。

ただ、そこには弱者が強者に抱く「恨み」や「嫉妬心」(いわゆる「ルサンチマン」)があると思うし、それは同時に「強者」が「弱者」を見る「憐れみ」と「優越感」の視点の裏返しだと思います。ユダヤ教、そしてそれを引き継いだ原始キリスト教の根本思想です。

それは、仏教の「憐愍(憐憫)」の情とはまったく違うと思います。また、それが日本に入ってきたときの「慈悲」や「憐れみ」の情とも異なると思います。そして、西欧文化を輸入した日本では私より前の世代と、私の世代、そして今の若い人の間でも違うような気がします。自己の立ち位置が違うのです。前の世代は、「自己」を横に置いて(自己とは関係なく)、思い遣ることが当たり前でした。若い人にはしっかり「自己」があります。「情けは人の為ならず」の新解釈にそれがあらわれています。

私の世代は、ニーチェとキルケゴールの考えがどちらも分かるのかもしれません。「後ろめたさや恥ずかしさをもちながら弱者を想う」というような感覚でしょうか。ですから、「平等」などという言葉に、なんとなく「いかがわしさ」「偽善的なもの」を感じてしまうのです。

ファースのような西欧の「人権思想」はとてもはっきりしています。「同じものは、認める。違うものは排除する」というものです。障害者や黒人は「人間じゃないもの」とされれば、生かすも殺すも「人間」が決定できます。「所有」と「支配」の思想です。そこで、「人間じゃない人間」の人権を認めるためには、まず「人間の位置」まで彼らを引き上げることが必要です。黒人や女性は、まず「人間」であることを認めなければ、「人権」付与の対象にはなりません。障害者も同じです。彼らも「人間」である、まずはそう定義する必要があります。「言葉がなくてもわたしたちと同じく思考ができる」、これが本書で述べられていることだと思います。

人権とはなにか

私も、「自由」や「平等」は大切だと考えています。そう私が思うのは、私が「弱者」であるからです。もし、私が「強者」で、地位も、お金も、権力も、体力もあったとすれば、このようには考えていなかったかもしれません。

ですから、その自分をもう一度考えてみたときに、「自由・平等」は本当に「正義」なのかということです。「正義」あるいは「正しいこと」は「絶対的」なことなのでしょうか。「絶対的」というのは、「万人に共通」な「普遍(不偏、不変)」の価値、恒常的〔不変的〕な対象として客観的に実在するものなのかどうか、ということです。

「思考はつねに内的に統合された構造に関係づけられる、ということである。思考を記述する最善の方法は、この内的構造の特性を正しく推測することである。こうして、「その場にない」対象の恒常性という概念が、他の対象から区別できる自我の恒常性という考え方に導くのだ、と仮定できよう。対象の恒常性の構造は、安定した自我の形成を対応する相対物として、必要とするのである。」(P.180)「模倣は知るはたらきをもつ人によって生産され、客観的に存在し、それ自身によって既知の対象(object-as-known)を代表するのである。」(P.181)

意識と、思考と、言語との関係に似ているような気がします。私はこの三者についてのファースの考えを理解することができませんでした。ただ、思考の前に「意識なるもの」、思考や言語のもとになる存在を考えていたようです。それは、シグナル、あるいは「感覚」に近いものでした。それは、人間だけじゃなく、感覚をもつ動物全般に共通にあるものです。私にいわせれば、植物にさえあるものです。物理的・化学的反応に近いものかもしれません。そして、人間は思考によってそのシグナルをシンボルに変換します。シンボルになってしまえば、もうシグナルはなくても思考することができます。というか、彼にとっては、シグナルがないこと・シグナルから離れることが思考の本質です。そして、それをもつことが「知性」です。「人間であること」はこの「知性」を持てるかどうかなのです。「言語」はその意識の表出(内的にも外的にも)の手段にすぎません。

この思考のことをファースはウェルナーとカプラン(『シンボルの形成』)を引用して、「思考活動」のもとになる、「象徴的活動」と呼んでいます。「象徴的活動に必要な前提条件は、有機体が、事物を単に生物学的欲求を満たすために反応するものとみなすのでなく、事物を安定したもの、「そこになくても存在するもの」とみなす発達段階だ、というのである。」(P.180)

この、「対象の恒常性の構造は、安定した自我の形成を対応する相対物として、必要とする」(P.180)のです。つまり、「遷り変わる現実の世界」「シグナルの世界」「不安定な世界」「〈無常〉〈万物流転〉の世界」を離れるために〈自我〉、「対象の自己同一性のための自己の自己同一性」が生まれるのです。つまり、〈自我〉を持つものが「人間」なわけです。これが「我思う故に我あり」と同一なことは日本人にはわかりやすいのではないでしょうか。

日本人にとっても、世界と自分、社会と自分は常に問われてきた問題ですが、ブラーフマンとアートマンという形でインドから仏教とともに日本に入ってきた自他の論理は、西欧のものとは別でした。そして、西欧の論理が本格的に入ってきた明治以降、日本における意識の変革が始まりました。夏目漱石は「則天去私」といいましたし、芥川龍之介は「戀愛は唯性慾の詩的表現を受けたものである。少なくとも詩的表現を受けない性慾は戀愛と呼ぶに價ひしない。」(「侏儒の言葉(遺稿)」芥川龍之介全集第九巻1978/04/24岩波書店P.346)といいました。芥川のほうが、西欧の〈自我〉に近づいているように思います。「性慾」という「シグナル」を「戀愛」という「シンボル」として捉えるのが人間だということです。

〈自我〉を持っていれば、その「人(あるいは、動物、ロボット・・・)」がその思考をどのように表すのかは二の次です。肌の色が違っていようが、四足であろうが、異国の言語を話していようが、また、なにも話していなくても、「人間」と「そうじゃないもの」を区別するのは〈自我〉です。「クジラやイルカ」は「哺乳類」であることよりも、〈自我〉があると思われれば、それを「食べること」は「食人(カニバリズム)」と同じです。〈自我〉さえ認めなければ、牛や羊を生のまま食べることも問題にはなりません。

日本人なら、「クジラだって、牛だって、同じ〈いのち〉だろう」と考えるのではないでしょうか。西欧人にとっては「支配・制御」する〈対象〉と〈主体〉の区別がとても大切です。「自分」すら、それを「支配・制御」する〈自我〉の存在が前提となります(『自己への配慮』フーコー)。

「クジラ」と「牛」の取り扱いの差を、「人道的動機によってそうなったというより、むしろ経済的な動機によってであった」(P.17)ということは可能ですが、その「経済的」というものが含む厚み(深さ)は考えなければなりません。

コンピューターが自我を持つ映画、自殺や他殺、脳死や安楽死、犯罪の成立要件なども、西洋的自我の視点から見るのとそうじゃないのとではぜんぜん違うのではないでしょうか。

ファースにとって、黒人や聾者に人格を認めるためには、肌の色と同様に、個別の言語よりもっと深くに「思考」あるいは〈自我〉の存在を認めることが必要だったのだと思います。

言語と思考

わたしたちは、なんとなく「言葉で考えている」と思いがちです。「英語がうまくなりたければ、英語で考えろ」といわれると、「そんな無茶苦茶な」と思いませんか。英語で考えようとすると、私は自分が小学校入学前の状態になったような気がします。そこで、日本語で考えて、それを英語に「翻訳」します。

最近のドラマ(たまに映画)で、気になるのは、やたらと「ひとりごと」が多いということです。役者の音声であったり、ナレーションであったり、とにかく「ひとりごと(内言)」が多いのです。ひどいのになると、今までの経過や現在の状況まで、詳しくつぶやきます。本来は、「ト書き」であって、それを表すのが役者の演技だあったり、演出家の演出であったりするところがすべて「セリフ」になっているのです。むしろ、それが「大衆的」であって、演技や演出にこだわるのは「芸術作品」だと割り切っているようです。視聴者の「考える」手間を省いてくれています。

でも実際は、日常において、思考が言語としてあらわれることは殆どないということです。なにかを食べて「美味しい」とことばで感じることはありますか。「美味しい」という「気持ち・感情」があって、それを表すときに「おいしい」(あるいは、c'est bonとか)という「ことば」を使うのです。それは身振りでも表情でも表すことができます。「あの人がすき」という感情は、日本語がなければ、あるいは「ことば」がなければ「ありえないこと」ですか。ほとんどの人が、「そんなことはない」と思うのではないでしょうか。

シンボルではなくてシグナルの次元では、これは当たり前です。ボールが飛んできたのを避ける、頭を掻く・・・ときに「どちらの方向から、どんなスピードでボールが飛んできて・・・」とか「頭のこの部分がかゆいので、腕を何度の角度で上げて、どのくらいの強さで掻いて・・・」とか考えないのです。事後的に「ボールを避けた」「頭が痒かった」と思うのです。

では、シンボルの世界ではどうでしょう。「怒り」で、「殴りたい」と思う気持ちと、殴ることに対する「罪悪感」、あるいは「迷い」は「ことば」でしょうか。日本語でなければ、「殴りたい」「殴ってはいけない」と考えられませんか。何か、「ことば」よりもっと「深い」ところに、人類に共通の「不変なもの」がありそうな気がします。ファースはそれを〈自我〉として捉えているように思います。

思考と言語

言語以前の何か、「意識や思考」など(さらに言えば〈自我〉)があって、それを表現する手段・道具が言語なのでしょうか。

「言語は、確かにコミュニケーションのために機能する。しかし、言語の最も重要な機能は、遊びや想像とともに、思考の担い手となることである。これは、ピアジェのいう自己中心性の時期であり、また、ヴィゴツキーの内言優位の時期なのである。」(P.195)

ただし、「思考のモデルとしての言語と、思考の手段としての言語との重大な区別」(P.61)ということでいえば、言語の違いは、「思考の手段としての言語」には影響を与えるけれども、「思考のモデルとしての言語」としては影響を与えないと言えそうです。ファースにとっては、〈自我〉あるいは〈真理〉や〈論理〉が言語によって影響を受けるとするならば、人類共通の〈基盤〉が失われます。そうすると、黒人や聾者を「人間」として扱う「論理」が崩れてしまうと感じたのではないでしょうか。

これは、「サピア−ウォーフ仮説」(言語的相対論)と若干異なります。ファースはウォーフについて

「ウォーフの例は、三つの項目に分類できる。①思考の代わりとなる言語、②ある環境刺激を選択的に強調する言語、③思考形式を拘束する言語。」(P.45)

とまとめています。この捉え方は、「言語が思考を決める」的なドグマチックな短絡的捉え方ではありません。ただ、言語が思考に影響を与える、という点では「思考のモデル」が言語によって影響を受けるということそのものです。結果としてファースは

「そこで、思考活動となんらかの言語活動を結びつけることは、あまり重要ではないと思われる。思考活動は、思考を生み出す原理によって内的に統制された活動、としておいた方がよいと思われる。それは、単に内面化された言語習慣によって統制されるものではないのである。」(P.45)

として、言語の違いを軽視します。英語を話す人も、スワヒリ語を話す人も、手話で会話する人も「原理的な違いはない」ということでしょう。みんな人間として尊重されるべきなのです。

では、犬語を話す犬や、コンピューター語を話すコンピューター(あるいはC3POやR2-D2)、バルカン語を話すミスター・スポックはどうでしょうか。かれら(?)を「人間」とみなすかどうかは、ただ一点、〈自我〉があるかどうかです。日本人なら、「この犬喜んでいるよ」とか「幸せそうな死に顔や」とかいう言葉が自然に出てきます。欧米人にとって、ゾンビ、あるいは、ゾンビに噛まれた人を殺すかどうかは〈自我〉があるかどうかで一義的に決まります。生物的な「生き死に」は2次的なのです。

日本語には「私」がありません。というか、ないことはないのですが、たとえば、生徒には「先生はね〜」といい、自分の子どもには「お父さんはね〜」といい、若い女の子には「おじさんはね〜」といいます。相手がいて初めて自分がいるのです。英語なら、すべて「I(アイ)」でしょう。西欧では〈自我〉は絶対的なものですが、日本では「相対的な存在」なのです。「建前と本音」といわれて、最近では非難されることが多ですが、自分が「相対的な存在」である日本では当然なことなのです。どれかが「本当の自分」なわけでなないのです。「どれも」が自分なのです。日本語に「主語」なるものは、ありません。それは、相対的に、存在と環境、つまり〈場〉が決定します。「主語・述語」「主体・客体」などの論理は、そういった言語構造を持つ印欧語(SAE、平均的ヨーロッパ標準語)の言語体系を表したものにすぎません。

言語のない思考

日本語と印欧語の優劣を言っているのではありません。知的だ、とか、論理的だとか言う気もありません。私は、印欧語の思考と日本語の思考は「違う」ということを認めるのです。聾者を健聴者と「同じ」であると(同じく知的、あるいは論理的であると)いう必要はないと思うのです。盲者と肢体不自由児、老人と若者、生まれたばかりの赤ん坊と植物状態の人間・・・「同じ」でなければ、手を差し伸べられませんか。逆に、「論理的」(倫理的、道徳的、経済的、なんでもいいです)な理由がなければ、「姥捨山」を非難し、「老人ホーム」や「監獄」や「病院」や「学校」に閉じ込めれば「後ろめたさ」を感じなくて済みますか。

私は「人付き合い」が苦手です。そうだからこそかもしれませんが、私は〈他者〉との交流・和解の可能性を否定できません。でも、その可能性はファースのように「同じ」というところには求めないのです。〈他者〉は「違う」ものです。違うからこそ〈他者〉なのです。昨日の私と今日の私がちがうように、〈他者〉も変化します。それを「同じ」であることを前提にする社会は私には住みにくいです。カフカの「毒虫」と吾妻ひでおの「不条理」は異なります。朝起きたら別のものになっていたり、ドアを開けた世界が常に異なるというのは怖いです(カフカは自分が変わり、吾妻ひでおはまわりが変わります)。でも、「自己同一性」などは幻想・あるいは希望なんでしょうね。

ある日、突然彼女から「別れましょう」と言われる。「どうして?」と問い詰める私。結局、納得する答えは得られず、私は永久に彼女を引きずるわけです。実は、ちゃんと話をすれば、理由がわかるかもしれないし、それはドラマや小説やワイドショーのネタになるかもしれません。でも、私は思うのです。私自身が彼女と付き合っているときに、彼女と別れたいとか、彼女を嫌だと思ったことはなかったかと。それでも付き合っていたことに、論理的説明や必然性はあったのか、そもそも私と彼女が出会ったのは偶然ではなかったのかと。ちょっと話がずれてきました。

創造あるいは芸術

「成熟した人間の活動のなかには、論理的言語で表現しきれないという意味で、論理的とはいえない活動が多くみられる。しかし、これらの活動は成熟した思考あるいは知能そのものということができるのである。このような活動は、音楽、詩、美術、ダンス等の多様な芸術活動を含んでいる。儀式的、宗教的、瞑想的そして道徳的活動は、論理ではいい表せない活動といえよう。

実際、思考は、それが社会的、情緒的あるいは道徳的であれ、あらゆる人間行動にゆきわたっていよう。われわれは、実際の知的成長のあらゆる領域で、発達と成熟(maturity)を認識することができる。われわれは、これらの「超論理的(preter-logical)」活動が内的な知的統制を表すかぎり、これら人間の諸活動を象徴的と呼ぶことが妥当だと考える。さらに、この活動の意味は、これら活動が関係している思考状態のなかに見出されなければならない。」(P.189)

「超(preter)」の意味はよくわかりません。私は、絵や音楽が好きです。絵は今でもたま〜に書きますが、楽器は何一つできないし、歌もうまくありません。ダンスは足が攣りそうです。

芸術の世界では、少なくとも20世紀以降、日常を離れることと、日常に帰る運動が交互にあらわれています。それは「超論理的」なものなのでしょうか。逆にそれを「知的な活動」として、安心することができるのでしょうか。「知的統制を表す」芸術と、そうでない活動と区別すること、それは単純にいえば、「好きな芸術」と「嫌いな芸術」ということのように思えてしまいます。ファースの好きなバッハやベートーベンと「雨乞いの祈り」と「セックス・ピストルズ」との差は何でしょうか。

「創造的芸術においては、知能は象徴的媒体を、知ることとか感じることといった内的状態の表象へと変換する。ここでは、表象が視覚的媒体、言語的媒体、あるいは音楽的媒体であるのかどうかということが、明らかにある違いを生じさせるのである。論理的思考と異なり、芸術的思考における成熟の標識は、象徴的基礎からの自由の増大ではないのである。」(P.191)

日本には「能」という文化があります。実は私は観たことがありません。きっと退屈しそうだと思うのです。能は「想像的芸術」でしょうか。私の描く絵は、奇をてらっただけの未熟なものですが、なんか、斬新なもの、個性的なもの、つまり「創造的なもの」が芸術のように思っていました。でも、小林秀雄の

「物数を極めて、工夫をし尽くして後、花の失せずところを知るべし」美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。彼の「花」の観念の曖昧さに就いて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされてゐるに過ぎない。肉体の動きに則つて観念の動きを修正するがいゝ、前者の動きは後者の動きより遥かに微妙で深淵だから、彼はさう言つてゐるのだ。(小林秀雄『当麻』筑摩書房

日本文学全集42 「小林秀雄集」 1970/11/01 P.366)

という言葉は衝撃的でした。能は「創造的芸術」ではないと思います。それは「何も足さない、なにも引かない」(『山崎』)ものなのではないでしょうか。そこに「踊り手はいない」し、「踊り手の自我」や「個性」もないように思うのです。バンディット(サンスクリットを使う知識人)の態度も同様です。多くの芸術家、あるいは「すべての人」が「行為の中で、自分の存在がなくなること」を体験しているのではないでしょうか。あるいは、その瞬間を求めているのではないでしょうか。

「作曲プログラム」を作ったことがあります。「ラブレターを書くプログラム」を作ったこともあります。プログラムするためには、音楽やラブレターを「論理化(理論化)」する必要があります。作曲技法や修辞法がありますが、私には理解できなかったし、少しぐらい理論を知ってそれをプログラムしたものより、乱数を使った「偶然の作品」のほうがずっと面白かったです。きっと研究者は「究極の作曲理論」を考えようとしていると思います。

プログラムによって(つまり論理によって)すべての解法が明らかになったゲームがあります。将棋や囲碁も、今ではコンピューターのほうが強いです。ただ、どちらもすべての解法が明らかになったわけではありません。解法が分かったゲームは、考える必要はありません。解法を「記憶」すればいいのです。それはもう「ゲーム」ではありません。

「科学」は、世界の仕組みを解明しようとしています。あくまで「仕組み」です。「構造」と呼んでもいいでしょう。つまり「どのように(How)」世界は成り立っているのか、ということです。そして、いまは宗教や哲学に押し付けられている「なぜ(Why)」はその先にあるかもしれない、程度に考えられているか、まったく考えられません。でも、すべてが「分かっている世界」「論理的に説明できる世界」をみんなが望んでいるのでしょうか。答えがわかっているゲームや結論・結果が分かっている恋愛・人生を生きるということはどういうことなのでしょうか。今日もいくつかのテレビドラマを観ました。古来から、恋愛の話は尽きることがありません。小説もドラマも映画も、作り続けられています。リメイクされる話も多いです。「恋愛」の仕組み、構造がたとえ解明されたとしても、それが「一つの答え」、あるいは「一つのイデア」だったとしても、一人ひとり、別々の、そして一回とは限らない「恋愛」があるのではないでしょうか。

とても面倒ですね。いちいち「考え」なければならないのです。考えることではなくて、解法を教える(つまり覚えるだけの)教育をうけてきて、社会でも答え(結果)だけを求められる生活を送っていると、考えることがとても面倒になります。そして、「情報化社会」と言われる社会の中では、考えなくても答えを提示してくれます。質問する前に答えが提示されることもあります。教えてほしいわけじゃないものもどんどん提示されます(私はビールのCMが映るたびにビールが飲みたくなります)。複数の答えが提示されることもあります。どれにしようかな〜と思いますが、それは考えているのではなくて、選んでいるのです。答えが先回りしてくると、こちらも事前に「答えるべき答え」を見つけ出していたりします。そして、そのとおりの提示があると安心し、違うととても不安になります。怒り出すひともいますが、大抵は「自分が間違っていた」と思います。

だから、いま、問いを発するとすれば、なぜ「芸術は論理で説明できないのか」ということであり、どうして「芸術は創造的でなくていけないのか」ということなのではないでしょうか。

〈自我〉が絶対的な世界。〈主体〉と〈客体〉が分離した世界、〈心〉と〈体〉が分離した世界で、「孤独」から逃れる手段、「疎外」を「失ったもの」を取り戻そうとしているのが、近代以降の芸術なのではないでしょうか。芸術は、常に「間・隙間」に存在します。神と人間、自然と人間との間です。近代の芸術もその一種であることに変わりはありません。しかし、それ以上に、「論理」が「人間の側のもの」であることは、いかに科学の「客観性」を強調しても変わることはありません。





⟨impressions⟩

About this book

"Thinking without Language. Psychological Implications of Deafness. " by Hans G. Furth New York: The Free Press. 1966.

At the same time, Seishin Shobo published "Thinking Without Language: Psychological Internals of Deafness" translated by Norijun Someyama and Yoko Ujiie. I have never seen the real thing there. I don't know how it was published by the two publishers.

This book is listed in the references of "A man who lived in a world without words". However, there was no description about the Japanese translation. At that time, this translation was published and it is a famous book, so the reason why it was not mentioned may be due to the process of publishing the translation.

This is a research book. It is by no means a book for the general public. But that doesn't mean the content is difficult. More than half of the parts introduce various experimental results, so I would like people who are interested in such things to read it. And I want everyone to think about the "interpretation" of the experimental results.

The translation of this book is a literal translation like a research book. In that sense, it's not easy to read. But I think it's an accurate translation. However, since it is a translation 40 years ago, there are some differences from the Japanese translation that has been generalized since then, so be careful.

What about another translation? If I have a chance, I would like to read and compare them.

Rediscover this book on my bookshelf (^_^;). In the second half, I discovered my own "line drawing". You read it a long time ago. I didn't remember.

About Fürth

Hans Gerhard Fürth or Hans G. Furth (December 2, 1920/12/2 – 1999/11/7) was born in Austria (Vienna). I'm a psychologist. Born to Jewish parents, he himself was baptized Catholic at the age of 16. He graduated from the Royal Academy of Music in London and he was aiming to be a musician. He plays around the Jewish concentration camps in England.

He traveled to the United States to study psychology at the University of Ottawa and became a professor at the University of Catholic in Washington. His "Piaget and Knowledge: Theoretical Foundations (published by Prentice-Hall in 1969)" became a bestseller and he quit his full-time college teaching profession.

I participate in the civil rights movement with his wife Madeleine Steen Furth. In his later years he played songs such as Bach, Beethoven and Mozart, and was an avid hiker and bicyclist. He no longer had a heart attack while hiking in Shenandoah National Park (according to Wikipedia, please forgive mistranslations). He looks interesting.

Like a researcher of Piaget (1896/08/09 / -1980 / 09/16) (I was doing research under Piaget), this book is also written based on Piaget theory. ..

Love for deaf children

What was driving him to research? As I can only imagine, one is the rigor and rigor of Westerners, especially Jews. The rigor may have been strengthened by the influence of the Catholic Church.

And because he is Jewish, he had to take it as his own experience. Perhaps it came down to him as a contradiction, as a paradox.

Furthermore, wasn't it a feeling of compassion for the "minority" who lives in the contradiction, and the "disabled", that is, the "deaf" who is the weakest person to whom the contradiction rushes most?

"In the old days, deaf people were likened to unspeakable animals and were dismissed as human beings with mental disorders. Legally and as human beings, nothing. It was considered to be a capable being. Behind this view was the idea that the existence of spoken language was a characteristic that distinguishes between rational and non-reasonable organisms. "(P. .205)

I have the same feelings as participating in the civil rights movement.

However, I think that there is a "grudge" and "jealousy" (so-called "Ressentiment") that the weak have in the strong, and at the same time, the "strong" sees the "weak" "mercy". I think it is the inside out of the viewpoint of "superiority complex". It is the fundamental idea of ​​Judaism and the primitive Christianity that inherited it.

I think that is completely different from the Buddhist "pity". Also, I think it is different from the feelings of "mercy" and "mercy" when it came to Japan. And in Japan, which imported Western culture, I feel that it is different between the generation before me, my generation, and the young people of today. The position of oneself is different. In previous generations, it was natural to put the "self" aside (regardless of the self) and be considerate. Young people have a solid "self". This is reflected in the new interpretation of "compassion is not for people."

My generation may understand both Nietzsche's and Kierkegaard's ideas. Is it a feeling like "thinking about the weak while having guilt and embarrassment"? Therefore, the words such as "equality" somehow make me feel "dumb" and "hypocritical."

Western European "human rights ideas" like Firth are very clear. "I admit the same thing. I exclude different things." If people with disabilities and black people are considered to be "non-humans," they can decide whether to save or kill them. It is the idea of ​​"ownership" and "control". Therefore, in order to recognize the human rights of "human beings who are not humans", it is first necessary to raise them to the "human position". Blacks and females are not eligible for "human rights" unless they first admit that they are "humans." The same is true for people with disabilities. They are also "humans", so we need to define them first. "I can think like we do without words," I think this is what this book says.

What is human rights?

I also think that "freedom" and "equality" are important. So I think because I am the "weak". If I were a "strong man" and had status, money, power, and strength, I might not have thought this way.

So, when I think about myself again, is "freedom and equality" really "justice"? Is "justice" or "right thing" an "absolute" thing? Is "absolute" the value of "universal (unbiased, immutable)" that is "common to all", and is it objectively real as a constant "immutable" object?

"Thoughts are always associated with an internally integrated structure. The best way to describe a thought is to correctly infer the characteristics of this internal structure. Thus, we can assume that the notion of homeostasis of an object that is "not in place" leads to the idea of ​​homeostasis of the ego, which is distinguishable from other objects. The homeostatic structure of the object requires the formation of a stable ego as a corresponding relative. (P.180) "Imitation is produced by a person who has the function of knowing, exists objectively, and represents an object-as-known by itself." (P.181) < br>

I feel like the relationship between consciousness, thinking, and language. I couldn't understand Firth's thoughts on these three. However, before thinking, it seems that he was thinking about "consciousness", the existence that is the basis of thinking and language. It was close to a signal, or "sense". It is common not only to humans, but to all animals with senses. If you ask me, it's even in plants. It may be close to a physical or chemical reaction. Then, human beings convert the signal into a symbol by thinking. Once it becomes a symbol, you can think without a signal anymore. In fact, for him, the essence of thinking is that there is no signal and that he is away from the signal. And having it is "intelligence". "Being human" is whether or not you have this "intelligence". "Language" is only a means of expressing that consciousness (both internally and externally).

This thinking is referred to by Firth as "symbolic activity", which is the basis of "thinking activity", citing Werner and Kaplan ("Symbol Formation"). "The prerequisite for symbolic activity is that the organism does not just consider things to react to satisfy biological needs, but makes things stable," even if they are not there. " It is said that it is a developmental stage that is regarded as. "(P.180)

This" structure of homeostasis of the object requires the formation of a stable ego as a corresponding relative "(P.180). In other words, in order to leave the "changing real world," "signal world," "unstable world," "unusual," and "world of universal distribution," "ego" and "self for the self-identity of the object." "Self-identity" is born. In other words, the one who has "ego" is "human". I think it is easy for Japanese people to understand that this is the same as "I am because I think".

For the Japanese, the world and myself, the society and myself have always been questioned, but the logic of self and others that came to Japan with Buddhism from India in the form of Brahman and Atman is It was different from the one in Western Europe. After the Meiji era, when Western logic began in earnest, a change in consciousness began in Japan. Soseki Natsume called it "Noritenki I", and Ryunosuke Akutagawa said, "Love is a poetic expression of sexual love. At least sexual love that does not receive poetic expression is not to be called love. "(" Words of Poetry (manuscript) "Ryunosuke Akutagawa Complete Works Vol. 9, 1978/04/24 Iwanami Shoten P.346). I think Akutagawa is closer to the "ego" in Western Europe. It is human beings who regard the "signal" of "sexual desire" as the "symbol" of "love".

If you have an "ego", how that "human (or animal, robot ...)" expresses that thought is secondary. Whether you have different skin tones, four legs, a foreign language, or nothing, you can distinguish between "humans" and "non-humans." Is "ego". If a "whale or dolphin" is thought to have an "ego" rather than a "mammal", then "eating" it is the same as a "cannibalism". Eating raw cows and sheep is not a problem, as long as you don't admit "ego".

If you are Japanese, you might think, "Whales and cows are the same" life "." For Westerners, it is very important to distinguish between "object" and "subject" that "dominate and control". Even "self" is premised on the existence of an "ego" that "dominates and controls" it ("Consideration for Self" Foucault).

It is possible that the difference in the treatment of "whales" and "cows" was "due to economic motivation rather than humanitarian motivation" (P.17). We must consider the thickness (depth) that "economical" includes.

The movies where the computer has an ego, suicide and homicide, brain death and euthanasia, and the requirements for establishing a crime are completely different from those seen from the perspective of the Western ego. Isn't it?

For Firth, in order to recognize the personality of blacks and deaf people, it is necessary to recognize the existence of "thinking" or "ego" deeper than individual languages, as well as skin color. I think it was.

Language and Thought

We tend to think that we are "thinking in words". When you are told, "If you want to improve your English, think in English," don't you think "that's crazy"? When I try to think in English, I feel like I was in a state before entering elementary school. So, think in Japanese and "translate" it into English.

In recent dramas (sometimes movies), what is worrisome is that there are a lot of "one person". It's the voice of the actor, the narration, and so on. When it gets terrible, I will tweet in detail about the progress so far and the current situation. Originally, it is "to write", and the acting of the actor and the production of the director are all expressed as "line". Rather, it seems that it is "popular" and that it is "art work" that is particular about acting and directing. It saves the viewer the trouble of "thinking".

But in reality, thinking rarely appears as a language in everyday life. Do you ever eat something and feel "delicious" in words? There is a "feeling / feeling" of "delicious", and when expressing it, the "word" of "delicious" (or c'est bon) is used. It can be expressed by gestures or facial expressions. Is the feeling that "that person likes" "impossible" without Japanese or "words"? I think most people think, "That's not the case."

In the dimension of the signal, not the symbol, this is the norm. Avoid the ball flying, scratch your head ... Sometimes, "From which direction, at what speed the ball flies ..." or "This part of the head is itchy, so how many times do you put your arm? Raise it at an angle and scratch it with how strong it is ... " After the fact, I think "I avoided the ball" and "I had an itchy head."

What about the world of symbols? Is "anger" the feeling of "want to hit" and "guilt" or "confusion" about hitting "words"? If it's not in Japanese, can't you think "I want to hit" or "Don't hit"? I feel that there seems to be something "immutable" common to all humankind in something "deeper" than "words". I think Firth sees it as an "ego".

Thinking and Language

There is something before language, such as "consciousness and thinking" (more specifically, "ego"), and the means and tools to express it are language. is it.

"Language certainly works for communication, but the most important function of language is to be a bearer of thought, along with play and imagination. It is Piaget's period of self-centeredness, and Vygotsky's period of internal dominance. "(P.195)

However," Language as a model of thinking Speaking of "a significant distinction from language as a means of thinking" (P.61), the difference in language affects "language as a means of thinking", but "as a model of thinking". It can be said that it does not affect the language. For Firth, if "ego" or "truth" or "logic" is influenced by language, the "foundation" common to all humankind is lost. Then, you might feel that the "logic" that treats blacks and deaf people as "humans" collapses.

This is slightly different from the "Sapir-Worf hypothesis" (linguistic relativity). Firth talks about Worf

"Worf examples can be divided into three categories: (1) a language that substitutes for thinking, (2) a language that selectively emphasizes certain environmental stimuli, and (3) a thinking style. The language that constrains. ”(P.45)

. This way of thinking is not a dogmatic short-circuit way of thinking that "language determines thinking". However, in terms of the fact that language influences thinking, it is the very fact that the "model of thinking" is influenced by language. As a result, Firth

"Therefore, it seems less important to connect thinking activity with some language activity. Thinking activity is internally controlled by the principles that generate thought. It would be better to keep it as an activity, which is not simply controlled by internalized language habits. ”(P.45)

, Disregard the difference in language. People who speak English, Swahili, and sign language will all say that there is no "principle difference". Everyone should be respected as human beings.

What about dog-speaking dogs, computer-speaking computers (or C3PO or R2-D2), and Balkan-speaking Mr. Spock? Whether or not they (?) Are considered "humans" is only one point, whether or not they have an "ego". For Japanese people, the words "I'm happy with this dog" and "Happy dying face" come out naturally. For Westerners, whether or not to kill a zombie or a person bitten by a zombie is uniquely determined by the presence or absence of an ego. Biological "life and death" is secondary.

There is no "I" in Japanese. I mean, it's not uncommon, but for example, students say "teacher", their children say "dad", and young girls say "uncle". Says. Only when there is a partner can I be. In English, it would be "I". In Western Europe, the "ego" is absolute, but in Japan it is a "relative existence." It is often criticized these days for being called "tatemae and true intentions," but it is natural in Japan, where you are a "relative existence." Not one is the "real self". "Everything" is me. There is no "subject" in Japanese. It is relatively determined by existence and environment, that is, "place". Logics such as "subject / predicate" and "subject / object" merely represent the language system of Indo-European languages ​​(SAE, average European standard language) with such a linguistic structure.

Languageless thinking

I'm not saying the superiority or inferiority of Japanese and Indo-European languages. I don't mean to be intelligent or logical. I admit that Indo-European thinking and Japanese thinking are "different". I don't think it is necessary to say that a deaf person is "the same" as a deaf person (also intellectual or logical). Blind and physically handicapped children, old and young people, newborn babies and vegetative humans ... If they are not "same", can we reach out? On the contrary, if there is no "logical" (ethical, moral, economic, whatever) reason, blame "Ubasute" and "elderly housing", "prison", "hospital" or "school". Do you not feel "backward" if you lock it in?

I'm not good at socializing. That may be the reason, but I cannot deny the possibility of interaction and reconciliation with "others". But we don't ask for that possibility in the "same" place like Firth. "The Other" is "different". Because it is different, it is a "other". Just as I am yesterday and I am today, "others" will change. It is difficult for me to live in a society that assumes that it is the same. Kafka's "poisonous insect" and Hideo Azuma's "absurdity" are different. It's scary that when I wake up in the morning, it's different, and the world where I open the door is always different (Kafuka changes herself, Hideo Azuma changes her surroundings). However, "self-identity" is an illusion or hope.

One day, she suddenly says, "Let's break up." I ask "Why?" After all, I couldn't get her convincing answer and I would drag her forever. In fact, if you talk properly, you may understand the reason, and it may be the story of a drama, a novel, or a variety show. But I think. Did she ever want to break up with her or hate her when I was dating her? Was there a logical explanation or inevitability in the fact that I was dating, or was it a coincidence that I and she met in the first place? The story is a little off.

Creation or art

"Many mature human activities are not logical in the sense that they cannot be expressed in a logical language. However, these activities can be described as mature thinking or intelligence itself. Such activities include various artistic activities such as music, poetry, art, and dance. Rituals and religions. Objective, meditative and moral activities are activities that cannot be expressed in logic.

In fact, thinking goes to all human actions, whether social, emotional or moral. We can perceive development and maturity in all areas of actual intellectual growth. We have these "preter-logical" activities internally. As far as intellectual control is concerned, it is appropriate to call these human activities symbolic. Moreover, the meaning of this activity must be found in the state of thinking in which these activities are associated. (P.189)

I don't really understand the meaning of "preter". I like painting and music. I still write pictures occasionally, but I can't play any instruments and I'm not good at singing. The dance seems to make my legs cramp.

In the world of art, at least since the 20th century, the movement of leaving and returning to everyday life has alternated. Is it "super-logical"? On the contrary, can we be relieved as an "intellectual activity"? Distinguishing between "intellectually controlled" art and non-intellectual activity can be thought of as simply "favorite art" and "dislike art". What is the difference between Firth's favorite Bach and Beethoven and "Prayer for Rain" and "Sex Pistols"?

"In creative art, intelligence transforms a symbolic medium into a representation of an internal state, such as knowing or feeling. Here, the representation is a visual medium, a language. Whether it is a musical medium or a musical medium clearly makes a difference. Unlike logical thinking, the sign of maturity in artistic thinking is not an increase in freedom from a symbolic basis. "(P.191)

There is a culture called" Noh "in Japan. Actually, I have never seen it. I'm sure it's going to be boring. Is Noh an "imaginative art"? The paintings I draw are immature, just strange, but I thought that something novel and unique, that is, "creative", was like art. but

"You should know where the flowers are not lost after you have devised an extremely large number of things." There are beautiful "flowers", and there is no such thing as the beauty of "flowers". The modern aesthetician, who is worried about the ambiguity of his idea of ​​"flowers", is nothing more than a ghost. He modifies the movement of the idea according to the movement of the body, but he says because the movement of the former is far more subtle and profound than the movement of the latter. (Hideo Kobayashi "Toma" Chikuma Shobo

Complete Works of Japanese Literature 42 "Hideo Kobayashi" 1970/11/01 P.366)

is shocking bottom. I don't think Noh is "creative art". Isn't it something that "doesn't add anything, doesn't draw anything" ("Yamazaki")? I don't think there is a "dancer" and there is no "dancer's ego" or "individuality". The attitude of Bandit (an intellectual who uses Sanskrit) is similar. Perhaps many artists, or "everyone," are experiencing "the loss of their existence in their actions." Or maybe you're looking for that moment.

I have made a "composition program". He has also created a "love letter writing program". In order to program, music and love letters need to be "logicalized". There are composition techniques and rhetoric, but I couldn't understand them, and the "accidental work" using random numbers was much more interesting than the one that I knew a little about the theory and programmed it. I'm sure researchers are trying to think of the "ultimate composition theory."

There are games where all the solutions are revealed programmatically (that is, by logic). Computers are now stronger in shogi and go. However, not all solutions have been revealed in either case. You don't have to think about a game that has a solution. All you have to do is "remember" the solution. It's no longer a "game".

"Science" is trying to elucidate the mechanism of the world. It is just a "mechanism". You can call it "structure". In other words, how is the world made up? And now I can't think of the "Why" that is being imposed on religion or philosophy to the extent that it may be beyond. But do we all want a "world that we know" and a "world that can be explained logically"? What does it mean to live in a game where you know the answer, a love affair where you know the conclusions and results, and a life? I watched some TV dramas today as well. From ancient times, the story of love is endless. Novels, dramas and movies continue to be made. There are many stories that will be remade. Even if the mechanism and structure of "romance" is elucidated, even if it is "one answer" or "one idea", each person, separate, and not always "romance" Isn't there?

It's very troublesome. You have to "think" every time. It becomes very troublesome to think if you are educated to teach (that is, just remember) the solution, not to think, and to live a life in which only the answer (result) is required in society. And, in the society called "information society", it presents the answer without thinking. The answer may be presented before asking the question. More and more things I don't want you to tell me are presented (I want to drink beer every time a beer commercial appears). Multiple answers may be presented. I'm wondering which one to choose, but I'm not thinking about it, I'm choosing it. When the answer comes first, we also find out the "answer to answer" in advance. And I feel relieved if there is such a presentation, and I am very anxious if it is different. Some people get angry, but most of the time I think I was wrong.

So, the question now is, "Why can't art be explained by logic?" And not "Why art must be creative." Is not it.

The world where "ego" is absolute. In a world where "subject" and "object" are separated, and in a world where "mind" and "body" are separated, modern times are trying to regain the "lost" of "alienation", a means of escaping "loneliness". Isn't it the art after that? Art always exists in "betweens and gaps". Between God and humans, between nature and humans. Modern art is still one of them. But more than that, the fact that "logic" is "on the human side" does not change no matter how much the "objectivity" of science is emphasized.






まえがき

第一章 問題の所在

「問いの仕方は、それに対するどの解答ーーそれが正しいにせよ、誤りにせよーーの仕方をも限定し、また、方向づける。」(P.14 ランガー『シンボルの哲学』)

第二章 聾者とその言語

「誕生時からもしくは言語習得前から聞こえない人を指している。」(P.17)

「実際のところ、教養のある人であれ、普通の人であれ、つまり社会というものは、伝統的に聾者を人間以下の存在とみなし、教育が不可能で、文化の享受もできず、人間的知性を奪われたものとみなしてきた。われわれの祖先にとっては、人間は言語の助けなしでも原初的水準を超えて発達できるのだ、とは想像もできないことであったろう。(LF)たかが数百年前にこの見方がやっと変わったが、それは、人道的動機によってそうなったというより、むしろ経済的な動機によってであった。」(同)

「もちろん、発語(speech)も読唇(lip reading)も、基本的に言語を知っていることを仮定している。」(P.19)

「聾夫婦に生まれる子どもは、ふつう、耳が聞こえる子どもである。これに対し、聾の子どもは、両親が健聴者の家庭に生まれる割合が高い。」(P.20)__あたり前のことだけど、重要。

第三章 用語の予備的明確化

「本書において、ある人がある概念を達成したとか、ある概念を転移させたということは、彼がその概念の原理に気づいたとか、その概念の言語表現を知っているとかいうことを意味するものではない。それは単に、観察された行動が、「その人はある概念をもっている」ということで適切に表現される、ということを意味するにすぎない。客観的実在に関していうと、そのさまざまな概念は、行動している人から分離したなにかではない。すなわち、ジェームス(James.W.)のいう、「行ったり来たりする、分離した主観的実在」(『心理学原理』第一巻、一九五〇年、一九六ページ)なのである。」(P.28)__重要だし、正しい。でも、それを言うと、観察者の「概念」とは何か、という問題になって、堂々巡りするのではないか。

「病気という概念は、ちょうど「概念」という用語が生きている人の知ることあるいは思考行為を指すのと同じように、生物学的有機体の病的状態を指している。病気という用語も概念という用語も、病んでいる人あるいは考えている人と切り離された分離した存在ではない。」(同)__「新型コロナ騒動」は「病気」を「病状」から切り離してしまった。病状がなくても病気が存在する、ということを意識づけた(保菌者と感染者の区別すら無くなった)。「加害者のいない犯罪」や「被害者のいない犯罪」などの概念も一般化した。まるで、「イデア論」が一斉に開花したようである。概念の「深化」と「単純化」の同時進行。「見えるもの」「外に現れたもの」が絶対化される。フォースならなんと言うだろう。

「「われわれは概念を知っている。われわれは概念を考える(We know a concept; We think a concept)」。この概念という観念からさらに「知ること」あるいは(LF)「考えること」の分離は、おそらく他の単一の原因によるよりも、主として西欧文化史を通じての多くの哲学的論争に対して責任をもっている。西欧哲学といっても、このほかには、イデアの本質に関するプラトンの推測への注釈があるだけではなかろうか。」(P.28-29)

「なぜ、知覚対象あるいは知覚は、知覚の最終結果(FF)を示す抽象語だとすぐ認識されるのだろうか。一方、なぜ概念は思考から離れた客観的実在をもつと考えられるのだろうか。おそらくこれは、知覚の対象となるものがわれわれの感覚に存在し、その結果、主観的過程から分離しようと思わないのであろう。われわれは、概念を対象化する傾向をもつのと同じ理由から、受容器(receptor)がただ単に注意を向けるもの、知覚として登録されるべきものとして注意を向けるだけのなにかを、当然のことかもしれないが、「そこにない」ものとして知覚するような傾向がある。」(P.29-30)

「本書における「概念」という語は、思考行動の人為的で抽象化された単位だと理解される。事実、概念に対してつねに「思考」という語が代置される。」(P.30)

「シンボルは思考もしくは概念に関連する。(FF)それに対し、シグナルは刺激代置物であり、行動を予期したり、行動の引き金となったりする。この区別は、対象を知ることと、対象に反応することとの間の相違にまったくよっている。」(P.31-32)

「知覚は知的に下位の活動というわけではなく、概念的・抽象的思考と対比できるものが、ということの豊富な証拠がある。もしも、われわれの大部分の研究が伝統的な意味での「概念的」行為に集中していたとしても、これは部分的に、知的操作は概念的課題によってより明確に推論できる、非言語的方法が聾者にはずっと容易に適用できる、という事実によっている。」(P.32)

第四章 歴史的展望

「ウォーフの例は、三つの項目に分類できる。①思考の代わりとなる言語、②ある環境刺激を選択的に強調する言語、③思考形式を拘束する言語。」(P.45)

「そこで、思考活動となんらかの言語活動を結びつけることは、あまり重要ではないと思われる。思考活動は、思考を生み出す原理によって内的に統制された活動、としておいた方がよいと思われる。それは、単に内面化された言語習慣によって統制されるものではないのである。」(同)__ウォーフの方が、説明しやすい。言語が先か、思考が先かという問いには答えられないが、言語の前に(奥に)思考があって、それが言語を統制していると考えるのは、プラトニズムを超えていないと思う。それでは、「文化の違い」は幻想だということになる。「本能」が復活しそう。本能を持ち出すのは、説明を放棄することだ。「本能」も西周。「本能寺」とは無関係なようです。

第五章 現代の心理言語学

「社会的規則も、おなじような方法で学習される。性行動さえ、主として成長過程で学習された内的・言語的反応によって統制されていると言われる。異性愛は、主として正しい言語規則を聞いたり学習したりしたことの結果、と考え(FF)られている。同じく言語規則から、社会階層の違いによる性の社会的慣習の相違も説明されることになる。(LF)こうした展開は、本書のテーマと目的にもっともふさわしいものである。人間の言語学習に媒介変数を仮定すること、思考を内的・言語的反応と結びつけることから、人間行動の全領域が、言語媒介を基礎にして形成される。さらに、媒介は、類人猿でも完全に可能なタイプの行動だ、と仮定されている。このようにして、この推論が基づく三つの主要な仮定がある。これらの仮定は次のように述べられる。すなわち、思考は言語に規定される。言語は媒介反応に規定される、媒介反応は条件づけに規定される。」(P.58-59)

「この提案によって、チョムスキーは言語に基づかない思考モデルを探求する研究者の側に身を置いている。このことは必然的に、われわれには言語という手段で習得するのではない知識の体系があり、それは、実際のところ四歳までにすべての人が獲得する自然言語の能力だ、という主張に導くことになる。」(P.60)

(P.60)__チョムスキー。語彙と文法の分離

「この発展は、思考の心理学的理解を深めるであろうか。私は、この動きは言語技能に向けられているので、思考の理解を直接的に深めるものではないと考える。もしも、われわれが、思考のモデルとしての言語と、思考の手段としての言語との重大な区別をきちんとしないならば、思考の形式的構成体を研究するわれわれにとって、こうした動向はむしろ妨げにさえなる。」(P.61)__手段(道具)によって、モデルが変更を被る。いくらモデル(イデア)があったとしても、表現する手段がなければモデルそのものが失われる。

(P.67)__外的刺激、言語の内在化、経験の規則性の表象と組織的な変換。文字に慣れた人にはわからない。言葉で考えると思ってしまう。言語が行動やシグナルではなく、内在化するには文字・黙読が必要。人間は本来言語で考えるのではない。

「内言は、ことばと「純粋」思考との間にあるものである。」(P.70)

第六章 非言語的な検査方法

(P.79)__「くだもの」を知っているだけで、リンゴとなしの違い(同じ)を知っているわけではない。

「このように、質問を与えても、答えるべき内容を知らなかったり、答えを探り出していくことすらわからないような子どもであれば、自分に問われる質問があるということを認識するための知的好奇心でさえ、十分にもっているとはいえないのである。」(P.79)__ケーキを切れない非行少年。三等分できるというのは、それが今の社会にふさわしいだけ。

「聾児が、与えられた課題に失敗したり、ほとんどできなか(FF)ったような場合には、何をしたらよいのかが理解できなかったのではないか、という可能性を考慮しておかねばならない。」(P.80-81)

「さらに、最初の課題が、なんらかの訓練としての意味をもち、検査場面に対する親近性を生じさせている限りにおいて、転移課題を用いれば、少なくとも部分的には被験者の過去経験あるいは経験の欠如を、コントロールすることが可能である。」(P.82)

第七章 概念の発見と統制

「ふつう子どもたちは、それぞれがこういうものだと次元を特徴づける語を学ぶまえに、両極端を表す語を学習している。このようにして、子どもたちは反対性を示すことばの使用に自然に習熟してゆき、六歳までには「反対」という語に関して、言語的に正しい受け答えが容易にできるようになる。」(P.84)

(P.97)__絵という抽象は?

第八章 記憶と知覚

「明らかに、数を書いたり調べたりすることが難しかったり、出来なかったりするため、盲の人たちは数を覚えていなければならないわけで、その結果、書かれた情報をたやすく調べることができる晴眼者よりも、この点に関してずっと多くの修練を積んでいるのである。」(P.110)

「これらの基本的様式は、事物をバラバラの要素の寄せ集めとしてではなく、構造をもった全体として知覚する傾向が人間の心にあることを強調したドイツの心理学に因んで、「ゲシュタルト」法則(Gestalt law)と呼ぶものである。」(P.111)

「聾の被験者がある問題では成績がすぐれていることは、問題状況への対処の仕方に慣れていないことによるかもしれないとも考えられる。こうした場合、健聴者は利用できる言語的媒介の備えが多くあるため、可能な選択の幅が広く、このことが、実際に課題の遂行を妨げてしまうのかもしれないのである。」(P.117)__大切な指摘だけど、それならば、提示時間を長くした実験をすべきであった。

第九章 ピアジェ型の課題

(P.129)__「論理」がなにかを問わずに実験することは無意味。高い思考力=西欧論理ではない。子供だましの課題=>言語がなくても西欧論理が形成される?前提が間違っている=>{通過する=論理的、通過しない=未開}。「大人」「人間」「成長」に対する西欧の考え方。でも、その前提がなければ実験されない。実験そのものが前提を問うところに意味を見いだそう。言語がない思考が問題なのではなく、言語=(ロゴス)=西欧倫理の方を問うこと。未開がだめなのでも非論理がだめなのでもない。

第一〇章 論理的分類

(P.130)__ロシア(シベリア)の農民に対する研究と同じく、有色人種について「未開人にも知性がある」という驚き・傲慢。猿や犬が「〜できる」という驚き・傲慢。その驚き・傲慢に西欧(人間・自己)中心主義がある。植物が言葉や音楽を理解する(反応する)という「驚き」。自然や人間を研究し、解剖し、「自己」に引き込んで理解することで納得(安心)すること。自己の不安、寂しさ、孤独感。研究によって他者を理解すること、他者を自己に近づけるのではなく、自己を他者に近づけること、「自己の鎧」を如何に壊すかということ。子どもや老人は「何もできない、一人前じゃない人間」。子供には人間になる可能性がある。失敗することもあるが。老人にはその可能性がない。発達して「人間になる」という西欧の感覚が日本にも浸透してきた。

(P.134)__Aという狼(熊)とBという狼(熊)は同じなのか。「狼(熊)」では同じだが、性格は違う。だから「物語」になる。同じように怖がる必要はない。

(P.135)__知的=理性的=論理的=ロゴス(ことば)的。前提(仮説)と同じ結果は意味がない(A=A)。違うことが大切。A=B=>A≠A。

(P.140)__日本で育てば日本語を話し、思考する。ドイツで育てば、ドイツ語で。当然、論理的(西欧的思考)も可能である。

第一一章 聾者の思考

(P.148)__二等辺三角形党=>二辺が等しい。正三角形党=>平等と正義

「私は、聾者の側の相対的失敗や成功のパターンは、「聾」あるいは「言語の不十分さ」が思考過程と直接的に結びついているとする心理学的説明と、矛盾していると確信している。ある課題では成功したその聾者たちが、他の課題では失敗したという結果を得ているのに、両方の課題に対し、何らかの包括的な影響が失敗に導くのだとする研究が今日あまりにも多いのである。(LF)たとえ聾者に知的欠陥があるとしても、それは何らかの特定の事態と結びついたものであると考えられ、われわれの研究もその点に関心を集中しているのである。聾者は、構造化されていない知的発見事態ではしばしば不安定であり、したがって、健聴児なら容易でわかりきったものを見るときも、かなり遅いのである。だが、聾者がいったん理解すると、健聴児と同じように原理を理解したり、応用したりすることができる、ということを見出したのである。」(P.140)

「聾者は、言語的不十分さの直接的な結果、あるいは必然的な結果としてそう行動するのではなく、聾者の置かれた社会的環境の結果としてそう行動するのである。この社会的環境には、幼時の家庭状況、受けた教育、健聴地域社会内の聾者の地域社会、それらに伴う社会的態度、偏見、他の環境的要因などを含んでいる。」「その場合われわれは、言語の不十分さと知能の関係よりも、むしろ、社会的環境と知的発達との関係を調べていく必要があることになる。」(P.155)

「もし、現在のわれわれの社会が、かなりの程度の知識、進んでさまざまな事実を調べようとすること、理性的な議論をおこなうといったことによって特徴づけられるとしても、このことが、われわれの先祖よりもわれわれの方がはるかに賢明で知的能力がずっと高い、ということを意味してはいないのである。」(同)__そのとおり。だから、理性的であることで知的であることを判断したり、理性と知性を同一視したりしてはいけないのである。

「それをもっと正確にいうならば、日常のコミュニケーションの驚くほどの不足に関連しているのである。」(P.156)

「聾児はこれらすべての問題場面において、推理能力がないのではなく、推理しようという力がないように思われる。」(同)__劣っている、優れているという判断はどこから生じるか。支配者は被支配者よりも優れているというのと同じではないか。

(P.157)__家庭での保護。教育。

(田舎の子どもたち)「ただ、この子どもたちは、この言語能力を知的な方法で用いていないだけなのである。」(P.161)

第一二章 言語媒介と聾

第一三章 思考と言語の発達

「思考は、最も広義には他の行動と同じく、有機体と環境との相互作用であり、生物学的には有機体の環境への適(LF)応、と理解される。」(P.174-175)

(テイヤール・ド・シャルダン)「彼によれば、人間は対象を認識するだけでなく、自分自身をも認識するのである。」(P.176)__自分自身を認識するのも、それを阻害するのも〈自我〉である。

「知能構造に関するピアジェ理論の最も基本的な特質が、この同一性という考えに密接に関係していることは興味深いことである。ピアジェ理論では、萌芽的知能は、まずは対象の「恒常性〔不変性〕」の獲得、つまりは知覚対象としての存在を超えて認識されるものとして、事物に対して反応する能力の出現として捉えられる。恒常性の獲得には、対象に対して安定的に、しかもそれを同じものとして対応することが必要となる。一方、論理的操作の発現は、対象の別の側面に認められる知覚的変化(見かけ上の変化)に打ち勝って、対象のもつ本質的な側面の同一性について「保存(conservation)」の判断ができることにおいて観察できる。」(P.178)__同一性は、対象の同一性であるとともに、〈自己〉の同一性である。同一性が、同化と異化(差別化)を生み出す。同一性の発見と、差異の発見は同じである。対象の同一性(恒常性)は自己の同一性(恒常性)の投影である。分裂性への恐れ、自己の再取得、隔離された他者性の希求。「アンドロギュノス」。

「フロイトは、人間は主として理性によって導かれるという、人間性について長い間信じられてきた幻想をきっぱりと捨てさったのである。彼は、人間の動機の大半は、広義にはむしろ一種の理性の風刺画であり、自己合理化にすぎないということを示した。彼は、異常性(abnormality)をより正常なものとみなし、正常性(normality)をより異常なものにみてとることによって、理性と非理性の両極端に橋渡しをしたのであった。」(同)

(ウェルナーとカプラン)「象徴的活動に必要な前提条件は、有機体が、事物を単に生物学的欲求を満たすために反応するものとみなすのでなく、事物を安定したもの、「そこになくても存在するもの」とみなす発達段階だ、というのである。」(P.180)

「すなわち、思考はつねに内的に統合された構造に関係づけられる、ということである。思考を記述する最善の方法は、この内的構造の特性を正しく推測することである。こうして、「その場にない」対象の恒常性という概念が、他の対象から区別できる自我の恒常性という考え方に導くのだ、と仮定できよう。対象の恒常性の構造は、安定した自我の形成を対応する相対物として、必要とするのである。」(同)__自我<ー>対象、主体−対象、本質的か。知性。論理。自我をもつことそのものが不安定性の獲得である。自我はつねに、不満で不安定であり、常に求め続ける。

「ピアジェは視覚的心象を、受動的に知覚されら映像と見る一般的な見解の誘惑を退け、むしろ能動的な、延滞模倣(deferred imitation)と結びつけている。」(P.181)

「こうした活動は、オウム返し的模倣ではなく、子どもがこれらの事象に反応する、内的変換の具体的表現なのである。この点で、延滞模倣は、観察可能(FF)な象徴的活動である。いうなればこの象徴的活動は、対象の同一性や構造性を時間的または空間的に広げることにより、認識対象の領域を拡充することである。そこで、模倣こそ、最初の真のシンボルといえるだろう。すなわち、模倣は知るはたらきをもつ人によって生産され、客観的に存在し、それ自身によって既知の対象(object-as-known)を代表するのである。(LF)ピアジェによると、心象は、それが運動感覚的であれ、視覚的であれ、あるいは他の感覚様式であれ、外的模倣に起因する活動に類似した、しかし内的経験化に限定される活動の結果である、縮約された模倣(diminutive imitation)なのである。心象は模倣と類似の機能をもつが、それは全体的筋運動と結びついていないため、自由度が大きく、ずっと容易に利用できるものとなる。」(P.181-182)

「ピアジェ理論では、思考はそれ自体意識の外側にある活動である。われわれが意識する内的事象は、思考の過程ではなく、思考の産物、すなわちシンボルなのである。これらのシンボルは、心象という形や単語という形を取るかもしれない。」(P.182)

(S・K・ランガー『シンボルの哲学』)「さて、すべての魔術的習俗と祭式的習慣とは、生命の保存と増進のためには絶望的に不適当である。」「物理学を知らない野蛮人が山の周囲を踊りまわり、それによって山の精霊に洞窟を開けさせようなどとすれば、私は遺憾ながら次の事実を認めざるをえない。すなわち、心理学者の用いる迷路のなかのネズミさえ、かくも明らかに無益な方法によって血路を開こうとはしないと。また失敗するに決まっているのを冒して、このような実験を数千年にわたって継続させるはずはないし、痴者でもそれよりも敏速に学ぶはずである。」(P.183)

「言語もまた一つのシンボルであり、一つのシンボル体系として、子どもが物理的環境にさらされて空間、時間あるいは因果律という概念を学習するのと同時に、成長途上の子どもが言語的環境との生き生きとした接触によって獲得するものなのである。言語的シンボルは、社会的コミュニケーションの普遍的手段として役立つ、社会経験に対して既成の体系的象徴的表象を提出するという点で、独特なものである。他のシンボルと同様、言語的シンボルの学習と使用は、知るはたらきをもつ子どもの産物あるいは表示物である。」(P.184)

「この子たちは、理由を聞こうとしないし、目前にある現実を額面どおりそのまま受け入れる。ピアジェは、この無批判的な自己関与(self-involvement)の態度を、「自己中心的(ego-centric)」と呼んでいる。この態度は、利己的という語と共通する意味をもつものではない、ということを明らかにしておかなければならない。」(同)

「発生論的にいうならば、フロイトが芸術的創造は原初的な性本能や攻撃本能が転換〔変形〕もしくは昇華したものであると述べるのと同様な意味で、操作的知能は内化された感覚ー運動的活動なのである。」(P.186)

「われわれが強調したい点は、前操作的水準の子どもは「シンボルで(in symbols)」、すなわち、内化され自我関与した感覚-運動的シェマで考えるということは、十分に意味のあることだということである。しかし、操作的水準だと、同様の「〜で考える(to think in)」といういいまわしは、形式的には矛盾した意味をもつ。というのも、操作的思考は感覚ー運動的活動と、どのような特定の結びつきも断っているからである。」(P.187)__「操作的」、つまり、「対象が現前していなくても存在するという観念」については、区別して考えなければならない二面性がありそうだ。「想像」「観念」「予想」「概念」等々を分けること。

「もちろん、論理的思考は成人でさえ比較的まれであって、ほとんどの思考は感覚-運動的もしくは象徴(FF)的活動や自我に動機づけられた活動の中に組み込まれているのである。言語が論理的活動を表現するのに用いられていることや、われわれが日常、さまざまな言語行動をおこなっているという観察からは、とうていこの種の活動のほとんどが操作的思考によって統制されているとは、とても信じられない。(LF)最後に、ランガーがかくもはっきりと明示したように、論弁的論理的思考(discursive logical thinking)」は、発達しつつある人間知能の単に結果の一つであるにすぎない、ということである。大部分の思考は、推論的段階に達することなく、ピアジェやフロイトが述べる象徴的段階にとどまっている。この、人間の知的活動について、その特定の側面を解明することは、ピアジェによって徹底的になされたわけではない。成熟した人間の活動のなかには、論理的言語で表現しきれないという意味で、論理的とはいえない活動が多くみられる。しかし、これらの活動は成熟した思考あるいは知能そのものということができるのである。このような活動は、音楽、詩、美術、ダンス等の多様な芸術活動を含んでいる。儀式的、宗教的、瞑想的そして道徳的活動は、論理ではいい表せない活動といえよう。(LF)実際、思考は、それが社会的、情緒的あるいは道徳的であれ、あらゆる人間行動にゆきわたっていよう。われわれは、実際の知的成長のあらゆる領域で、発達と成熟(maturity)を認識することができる。われわれは、これらの「超論理的(preter-logical)」活動が内的な知的統制を表すかぎり、これら人間の諸活動を象徴的と呼ぶことが妥当だと考える。さらに、この活動の意味は、これら活動が関係している思考状態のなかに見出されなければならない。」(P.188-189)__芸術活動がsuperなのではなく、論理的思考が「劣化した思考」なのだ。知的障害者の美術、サヴァン症候群、「自閉症スペクトラム障害/自閉スペクトラム症」、高機能障害。絵を描く象。

「もし、πに対する知る働きが主観的・自己中心的態度によって歪められていたらば、その人のπについての知識は、未熟な不完全なものとみなされるだろう。(LF)ピアジェが指摘しているように、論理的思考や概念的思考に特有な特徴は、象徴的付随物や自己関与的態度によって歪められない、実在を知的に把握しようとする傾向にある。結局、論理的思考の成熟は、思考がしだいに象徴的表示から自由になっていくことと平行しているのである。」(P.190)__客観性を求める文化。どの文化にも受け入れられる理論(論理)はあるか。いくらか可能性はある?たぶん見つけるのは、〈私〉〈自我〉には困難。私とあなたが理解し合うことができるか。同じ文化であれば、いくらか可能性はある?論理的であることが正しいという文化。

「論理的思考においては、シンボルは知能の本来的機能によって、外に向いたものなのである。人間活動の他の領域では、知能は主観的・個人的経験を最小にするために機能するのではなく、単にこれらの経験の導き手にすぎないのである。」(P.191)

「創造的芸術においては、知能は象徴的媒体を、知ることとか感じることといった内的状態の表象へと変換する。ここでは、表象が視覚的媒体、言語的媒体、あるいは音楽的媒体であるのかどうかということが、明らかにある違いを生じさせるのである。論理的思考と異なり、芸術的思考における成熟の標識は、象徴的基礎からの自由の増大ではないのである。」(P.191)__よくわからない。創造的じゃない芸術、たとえば能などの伝統芸術ではどうなのか。世阿弥。小林秀雄。

「というのも、象徴的活動の結果であるといわれているシンボルは、思考が具体化されたもの(embodiment)であり、それゆえ、思考が客体化されたもの(objectivation)だからである。シンボルは知能の顕在化であり、結果的には、ある種の媒介(運動的、視覚的、言語的)と結びつくことによって客観的実在をもつのである。知覚や概念は、単に抽象化された産物と考えられるのに対して、シンボルは知的過程の客観的産物なのである。」(P.193)

「言語は、確かにコミュニケーションのために機能する。しかし、言語の最も重要な機能は、遊びや想像とともに、思考の担い手となることである。これは、ピアジェのいう自己中心性の時期であり、また、ヴィゴツキーの内言優位の時期なのである。」(P.195)

「ピアジェは、心像、知覚、模倣遊びと同じように、言語について次のように主張している。すなわち、象徴的事象は、人が受動的に対処するような、外から客観的に与えられた状態なのではない。この象徴的事象は、何にもまして知能の内的構造を形に表したものなのである。それは子どもの思考に起因するものであり、思考を起こすための便利な手段と考えるべきではない。シンボルを形成する人間を考えてみれば、これは内化された行為の最終結果であるとみることができよう。事物に命名できるようになるには、対象の恒常性あるいは対象の形成といわれるような、事物の永続性についての基礎知識を前提とする。」(P.196)__時間の考え方、捉え方は言語によって異なる。半過去形、複合過去形ーフランス語。近過去、半過去、遠過去、大過去ーイタリア語。英語でも過去形と完了形がある。

「話すことが観察され、それが書字によって記録されるという意味で、ことばは客観的である。」(P.199)__言葉は客観的ではない。他人が客観物でないと同様に。書かれることによって客観化される。話し手を離れ、時間、空間的に自立する。恒常性、自己同一性は書かれることによって成り立つ。

「同時に、われわれは、健聴児の知的成長のかなりの部分が、言語的象徴よりも非言語的象徴にずっと容易に示されることを認識しているのである。」(P.201)

「このことから、既成の言語的シンボル体系があろうとなかろうと、思考は環境との活発な接触を通して発達するのだ、という結論が導き出されるのである。」(P.202)

「シンボルとしての言語は、行為を説明しない。シグナルは、それ自身で行為を説明し、行為を規定する。シンボルは、決して行為を説明し、あるいは規定することなく、それは知るという状態を代表し、知識によってその行為を説明するのである。シグナルは条件づけられ、直接伝達されていく。しかし、シンボルは内的になされる知る働きの代弁者であって、その産生と理解は、知識を得ることや思考活動に依存しているのである。」(P.204)

第一四章 教育の実際面への示唆

「こうした見方の背景には、話しことばの存在が、理性をもった生物とそうでない生物とを区別する特徴であるとする考え方があった。」(P.205)__言葉の違う民族、世代、赤ちゃん、単純に「人類共通の見方」と決めてはいけない。その国の言葉を話すということは、その国の文化を受け入れるということ。ファノン。

「この考えに従うと、子どもが這い這いをするのを放っておいたら、歩くことを学習しなくなる、ということになってしまう。」(P.206)

「すなわち、聾児が言語獲得に失敗するのは、それを教え始める時期が遅すぎるからであり、教える媒体が不適切なものだからであり、教える方法が不自然だからであり、誤った人から教わっているからなのである。」(P.210)

「言語獲得に適切な時期は、生物学上、三歳ないし三歳半以前であり、この時期はシンボルを形成するための知能が花を開き始める時期にあたる。」(同)__『言葉のない世界に育った男』

「子どもというものは、学習が心的な機能をもち、彼らの思考構造の中に組み込まれていくような場合には、驚くほど学習が可能になってくるものであるが、うちとけた気楽なコミュニケーションと分離してしまった形式的学習は、八歳以前では子どもにとってきわめて奇異なものでしかなく、学習による永続的な効果もほとんど期待できない。」(P.211)

「それはちょうど、ある集団内で守られている奇妙の風俗や習慣といったものが、周囲の人にとっては有害なものとしか受けとめられないのに似ている。」(P.213)

「おそらく、聾者の用いている手話を、われわれの社会における「高度に発達した」音声言語と比較して、対象的に「原初的(primitive)」だといった言葉で片付けてしまうことをせずに、客観的な視点に立って研究していこうとすれば、聾者のもっている個人的なシンボル体系から得るものは少なくないように思う。そのことを抜きにして考えてみても、音声言語を習得する聾者がごく限られているのに対し、手話は実際すべ(FF)ての聾者が習得できているというきわめて重要な事実に対しては、科学のメスを入れるだけの価値が十分あるように思えるのである。」(P.213-214)

「ここでもう一度思いおこしてほしいのは、個々の単語を記憶することよりも、むしろ、構文上の規則を理解することの方が、目下のところ、多くの聾児にとって最大の難関となっているということなのである。」(P.214)__便利=合理的。Syntaxという価値。

「幼稚園から大学に至るまで、思考を伴わない言語学習がいぜんとして幅をきかせている。」(P.217)

「一般に、これまでわれわれは、言語の障害を持つ人びとの劣った面ばかりを指摘することで満足してしまっていた。」(P.219)

第一五章 要約と結論

(一)「思考と言語の相互関係を明確にノベルには、三つの用語「思考」、「シンボル」、「言語」の区別をしっかりしなければならない。」(P.228)

(二) 「ピアジェが示唆しているように、思考はまず、安定した客観的世界の形成の中にあらわれてくる。」(同)

(三) 「「反応すべき対象」が客観的に存在するならば、それがシグナルなのである。」「知覚的に存在しない事象に直接向かっている思考活動は、すべてシンボルを使用する。シンボルこそ、時間と空間を超え、知的適応の範囲を拡大するのに役立つものなのである。」(P.229)

(四) 「知的思考には、内に向けられたものと、外に向けられたものとがある。」(同)

(五) 「論理的思考が発達するにつれ、未成熟さあるいは歪んだ自己中心性がしだいに減少し、それと共に内的・象徴的事象からの自由が増大していく。」(同)

(六) 「思考は、概念をただ単に見るといった受動的状態ではなく、感覚-運動期の外的活動あるいは実行的知能に実質的に類似した活動なのである。」(P.230)

(七) 「言語は、その構造に応じて知能によって同化される。」(同)__むずかしい。

(八) 「(一)、(三)、(五)、(七)の諸項目から、シンボルなしでの思考行動もしくは概念的行動がありうる、ということがわかったであろう。」(同)

(九)「 言語と操作的思考との関係は必然的なものではないし、発達途上の段階でとくに要求されるものでもない。」(同)

(一一) 「右に記した経験不足は言語的無能さと結びついているが、こうした結果は、もしも幼児期に家庭で、また正式な学校教育の中で、非言語的指導法や非言語的コミュニケーションが奨励されるならば、回避できるであろう。」(P.232)

(一二) 「実際のところ、聾児は、第二章に示した一〇%といった低率ではなく、すべての健聴児が生活している社会の言語を学習するのと同じく、すべての者が英語の基礎能力をもてると期待できるのである。」(同)

「最後の結論ということになるが、ここに報告された諸結果が思考理論に対してもつ大きな意義は、論理的-知的思考でも、社会の常用言語に存するシンボル体系の支えを必要としない、と実証したことにある。」(同)

「だが、知能という内的体制は言語体系に依存していない。反対に、既成の言語の理解や使用は、知能構造に依存する。」(同)

「要するに、こうすることによって、言語という外部要因に頼らない思考を、客観的に研究するという行動主義の理念に近づくことになるだろう。そして、思考との関連における言語の機能について、もっと明確な理解がえられるであろう。」(P.233)

__<END>

乱数表が乱数である確率は何%か。乱数表は100%乱数か。乱数表の一部を意図的に書き換えたときに、それは乱数表ではなくなるか。



[]

シェアする

フォローする