
内省と遡行
柄谷はおもしろい。どきどきする。経済学以外の部分はあまりわからないが、それでもおもしろい。○松とは、大違いである。
どちらが実践的かと問われたら、後者であるというかもしれない。しかし、可能性は柄谷にあると思う。
柄谷の本を読んでいると脳がかき混ぜられる。自分の視点がずらされているのを感じる。視点の変換はまるで、虚数空間から実数空間を見ているような錯覚に陥る。その「ずらし」はどこにゆくのか。一つの結果が「可能なるコミュニズム」である。しかし、可能なるコミュニズムを可能にするためには、西洋哲学の解体が必要である。人々の意識そのものが位相を変えなければならない。それが、長い闘争の道でしかないのなら、コミュニズムは不可能である。
内省と遡行
ここで描かれているのは、遠近法で象徴される「外部」である。その外部というのは、対象の外ではない。対象の中にある外部である。それは、思考することそのものであり、自分自身の思考である。
言語・数・貨幣
自分の思考が、対象の中に含まれるとき、(外部としての内部となるとき)思考は自己言及的になる。自己言及的な体系は、その中に超越的なものを持ち込み、体系化せざるを得ない。そして、体系化されたときには、その体系を成立させている超越的なものは見えなくなる。
客観的な意識を成り立たせているのは、自己の意識であると考えるとき、自己の意識は、すでにあるかのように考えられる。そして、自己の意識は客観的な意識と同一視できると考えてしまう。
探究
しかし、自己意識とは、表現によって「社会性」を確証する命がけの飛躍を持って成り立つ。飛躍に失敗したとき、自己意識は存在し得ない。
飛躍に成功したとき、意識は社会性を持つことが実証され、その存在と同時に、客観的な意識の存在、つまり共同体性が確認されるのである。
これは、人間にとって本質的なことなのかもしれない。あるいは、西洋的な形而上学の帰結なのかもしれない。私たちは、私たちの思考方法でしかものを考えることが出来ない。しかし、思考方法が異なれば同じものの見方は異なる。「他人」を想定すること、他者、異者を想定できる自己の存在を探究していかなければならない。
