零の発見 ー数学の生いたちー 吉田洋一著 1939/11/27(1979/04/20) 岩波新書

零の発見 ー数学の生いたちー 吉田洋一著 1939/11/27(1979/04/20) 岩波新書
1+1=2

『ヨビノリ』で「1+1=2の証明」というのを観ました。ペアノの公理を利用するものです(証明の具体的な内容は省略します)。

そこで、「1」とか「2」というのは、数というより記号だなと思いました。たしかに、漢字で書けば「壱」「弐」です。記号ですよね。だから「△」でも「×」でもいいわけです。

なぜか、0(ゼロ)だけは定義されているんですね(「0」は自然数です)。

実は0も記号です。「ゼロ」でも「オー」でも「丸」でもいいわけです。「★」でもいいのです。

ゼロってなんでしょう。「無」のような気もします。「私の家にはゼロ匹の猫がいます。」というのは「私の家には猫がいない」ということですよね。

ですから、ゼロというのは「否定」なわけです。ゼロが「存在する」というのはどういうことなのでしょうか。

そういえば、読もう読もうと思っていて読んでいない本がありました。本書『零の発見』です。




本書の構成


前半が「零の発見ーアラビア数字の由来ー」、後半が「直線を切るー連続の問題ー」です。

数学史ではありません。数学と文化、社会との関係を描いています。




そろばん


私たちに馴染みのある、そして次第に見なくなっているそろばんの話から始まります。つまり位取りの話です。ヨーロッパでもそろばんは使われていたんですね。そろばんで、玉(珠)が動いていないところが「0」ですね。




10進法なら10個の数字ですべての自然数を表すことができる


「南アフリカのブッシュマンお数詞が一とニとにとどまっていて、それからさきはただ「たくさん」という言葉しかない」(P.18)民俗学も人類学も変わってきているので、この知見が現在も正しいのかどうかはわかりません。必要のない知識は伝わりませんから、その社会のあり方が数え方を規定するでしょうね。

あなたは実際にいくらまでの数を数えたことがありますか。ひつじが1匹,ひつじが2匹,ひつじが3・・・。たとえば、1億円の札束を見たことがある人は多いと思いますが、実際に数えた人は少ないでしょう。1億円を持っている人だってとても少ないと思います。「1億」「1兆」という数字は誰がなんのために必要なのでしょうか。日常生活で必要な数(数えられる数)を考えてみてください。「4にん家族」とか、「ボールペンが5本」とかそんなに多くないんじゃないでしょうか。ポールペンが5本(あるいは100本)あったとしても、実際に一回に使えるのは1本です。「体がいくつあっても足りない」と思っても実際には体は一つしかありませんから。

小麦粉の粒は数えることが難しいけど、ご飯粒なら数えることができそうです。でも、「今朝はご飯を〇〇粒食べた」とは言わないですよね。「朝ごはん、一膳(茶碗一杯)食べた」と言うわけです。

私たちが実感できる(使える)数は決して多くはないのです。私は6T(テラ)のハードディスクを3個もっています。1テラは1,000,000,000,000ですが、数えられる数ではないので、「6テラのハードディスク」という「もの」を「3個」もっているわけで、実際には「6」と「3」という数字しか使っていないことになります。[1][2]

数字の間に「,(コンマ)」がついていますが、これは欧米では「千」をまとまりとしているからです。そしてその「千」が「一まとまり」になって「千個」まとまって次の塊となります。1億円を1円玉でもって歩くことはできません。1万円札というのは、1万を一まとまりにしているわけです。中国や日本4桁ごとに点を打っていました。




筆算と紙


そろばんの衰退は、筆算が盛んになった(電卓ではありません)ことが原因で、筆算のためには大量の紙が必要です。紙は印刷技術に欠かせないものです。ルネサンス、宗教改革、大航海時代等との関係が述べられています。数学はそれ自体で発展(変化)するものではなくて、いろいろな条件が影響するのです。

これがこの本のすごいところで、数学を数学という枠組みでとらえるのではなく、歴史・社会的視点から叙述しています。




小数と分数


後半です。話は進んで、小数と分数の話になります。循環小数の話から、無限級数の話へ。

無限級数のカッコの位置を変えるだけで、0にも1にもなる。「これで万物ガ無からつくられた消息がわかる、といって、随喜に涙を流した数学者もあった、という話が伝わっているのである。(LF)今から考えると、ただ滑稽というよりほかはないが、当人は、それでも、大まじめであったのである。もっとも、こういう話はなにも数学の場合にかぎらずとも、他にもあることであろうし、また、昔のこととばかりもいい切れないように思われる。」(P.71)著者のユーモアと皮肉ですが、私のことを言われているみたいです(笑)。




連続―無限


後半は有理数と無理数の話に移っていきます。そして、『ゼノンの逆理』の話へ。

「ちなみに、貨幣制度がはじまったのも、ギリシャ人の植民地的発展にともなって、地中海沿岸の各都市の間に大規模な商取引がおこなわれるようになって結果であって、この制度もまたイオニアをへて、しだいにギリシャ本土にまでひろまっていったものであった。」(P.94)ちょっと微妙かな。でも、貨幣制度が商取引からはじまったことは間違いないでしょう。


「ギリシャ人から見れば文字は単に記録の具であるにとどまり、思想や知識を伝達する手段としてはとうてい「語られる言葉」のような力を持たないものと考えられていたのである。すなわち「書かれた言葉は生きた命ある言葉の単なる模像、単なる影法師に過ぎない」、生き生きとした真の知識は、たがいに質問に答え、反駁にあい、誤解(FF)を正し、脱漏をおぎなうというふうに、口で語られる言葉をもってする談論の方法によって初めてこれを伝えることができる、というのである。(LF)学校教育と通信教育の優劣というよな問題を考えるとき、・・・」(P.95-96)

この説は、ソクラテスとプラトンの違いを考えるときに明瞭になってきますね。ソクラテスはまさしく問答(対話)に固執しました。でもプラトンは文字マニアでした。(『ソクラテスの弁明』)

プラトンはソクラテスと違っていたというより正反対の考え方を持っていたのかもしれません。「偉大な小心者プラトン」か「変わり者、あるいは変革者プラトン」か。

ここで著者はエス・エチ・ブチァー(1850~1910)の『ギリシャ天才の諸相』(『希臘天才の諸相』、のち『ギリシア精神の様相』)をとりあげます。

この本"Some Aspects of the Greek Genius"は、和辻哲郎・田中秀央の訳がありますが、旧字体のもののようです。読みたいですが・・・。

表語文字(表意文字)と表音文字、文字と芸術の乖離、法律に対する希臘精神の態度など、おもしろいことが満載のようです。

「ギリシャ人は、数学的事実―たとえば、ユークリッド幾何学における諸定理―は数学者がこれを発見するに先だって、すでにそれ自身存在しているものと考えていた、これに反して、現代では、数学的事実は、ポアンカレのいったように、「数学者が―時として数学者の気まぐれがこれを創造する」のであると考えられている、ということができるであろう。」(P.105)これは自然に対する見方そのものの変換ですね。(『いま自然をどうみるか』)

ピタゴラス教団の話。ソクラテスは「ソフィストに反して、客観的な善の概念を確立しようとつとめたのであった。ソクラテス自身は数学そのものには興味をもたなかったといわれるが、ソクラテスが概念に定義を与えること―すなわち、それぞれの概念が何であるかということ、その本質、その内容を述べること―を唱道したことは、以後の数学の方法に多大の影響を与えずにはいなかった。」(P.145)

この後の数学的説明はわかったようで、わからなったです(^_^;)。




零の発見

零の発見については、客観的な事項を述べているだけです。そういう叙述も好ましいと思います。

「ゼロがある」。無があるということは、「無いものは無い」「存在しないものは存在しない」ということです。当たり前のことと思ってしまうまえに、(混乱しそうですが)考える余地はありそうです。

「自然は真空を嫌う」と古代ギリシャ人は考えていたようです。それがヘレニズムを通してキリスト教に引き継がれます。[3]

「無はない」「すべてが有である」という考えは、「有るべきじゃないものを認める」と「有るべきじゃないものはなきものにする」という考えを生みます。どちらにしても、世の中に「有」あるいは「肯定」しかないのは窮屈ですよね。

別の形態や、別の社会を認めるということは大切なことだと思います。私は、「無いものは有る」ではなくて、「無いものは無いままで有る」「否定は有の否定ではなく、否定は有のあり方そのものである」と考えています。




読み終えて

この本が書かれたのが1939年。80年以上も前です。歴史学(考古学)は以後、様々な発見ととともに変化しているようです。しかし、本書が貫いている考え方と方法論はいまも重要だと思います。名著です。




<注>

[1] 私は、PCマニア的なところがあるので、そういうハードディスクをもっていますが、1台「数百万円~数千万円」の車を「数十台」もっていていても、実際に乗れるのは1台だけです。
[2] 1テラコンピュータ用語で実際には十進数で1,099,511,627,776です。
[3] 「エーテル」の存在も必然的に導き出されます。それが否定された後、また現代物理学で形を変えて復活したのはおもしろいです。
[4] 『ゼノンの逆理』はよくわかりません。連続・非連続の話というより、『運動』の話だと思っています。つまり二律背反原則の否定です。「そこにあって、そこにない」、「AでありかつAではない」ということです。これが、「連続の定義」でとらえることができたら素晴らしいのですが。



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