記号論への招待 池上嘉彦著 1984/03/21 岩波新書

記号論への招待 池上嘉彦著 1984/03/21 岩波新書
批判の学としての記号論

「そして、もし人間の精神が自らの創り出した秩序に捕らわれて自由を放棄したり、虚の世界を実の世界に取り違えて気がつかないというような状況に陥るならば、その時は記号論はその虚妄を暴き、再び創造の道に戻らせるというアクチュアルな課題も背負い込んでいる。その意味では、記号論は(自らに対する批判をも含めて)批判の学としての性格を失ってはならないのである。」(P.246)

この本の最後の文章です。とても面白い本です。〈書抜〉では捉えきれませんでした。

記号論

記号学[wiki(JP)](semiology)、記号論(semiotics)(この二つは違うらしい)を基礎から、わかりやすい例を提示しながら説明しています。この〈例〉が素晴らしいです。わかりやすいだけじゃなく、行論の中で、ちゃんと展開するように選ばれています。すごいなあ、と思います。

「記号」と「ことば」は違います。その違いを著者は述べたいのだと思いますが、私はうまく理解することが出来ませんでした。

人間、あるいはその文化を記号という面から説明しています。「文化」は「コード」から成り立っているのでしょう。「ことば」は「音(声)」としての言葉ではありません。「しぐさ」や「道具」なども同じ「コード」です。「人間はコードを創り使う動物」と言ってもいいかもしれません。(「人間は確かに「記号を使う動物」なのである。」P.10)

手話もことばの一つです。

コード("code”)

日本語で「コード」と表示されるものは英語では"chord"や”cord”もあり、その違いはよくわかりません。

コードには「法」「規則」というニュアンスが強くあります。元になったラテン語の”codex”は「写本」、"caudex"は「木の幹」という意味があるそうです。そう捉えるとコードは流動的なものを固定化したもののように感じてしまいますが、著者はそれをあえて「不安定」なもの、変化するもの、として提示することによって、「文化の相対性」を説いているように思います。

同じコードを共有していなければ、意思は通じないし(つまり、コードはすでになければならない)、その共通のコードは変化し、新たに創られなければなりません。なぜなら、記号で表されるもの(記号内容、シニフィエ)は常に変化するものだからです。シニフィアン(記号表現、文字や音声)とシニフィエは「対立」します。シニフィアンそのものをシニフィエにすることが記号論なのですから。「意味作用(記号作用)」は「対象化」です。それなくしては、「語る」ことも「考える」ことも出来ません。

「表裏一体となったシニフィアンとシニフィエの対が「シーニュ」(signe)すなわち「記号」である。」(Wikipedia)

ただそれは、「出来ない」と思っているからです。それも一つの「コード」です。

中心

私たちは、自分を〈中心〉だと思っています。〈主体〉だと思っています。だから、〈客体〉とすることなくして理解することは出来ない、と思っています。「相手の身になって考えろ」とか、「相対化して考えろ」とか言われるときに、すでに〈主体〉としての〈自分〉が前提されています。「表現するもの・されるもの」というとき、そこには「表現する主体」と「表現される客体」が前提されています。「表現されるもの」は「表現するもの」とは独立に存在すると仮定するのが「存在(ὤν)論」の前提でしょう(〈自己〉を〈対象〉とすることは必然ですが、とりあえずは分けて考えるのが今の文化です)。

独立して存在するというのが「イデア」です。プラトンはイデアを知ったときの驚きと戸惑いと悲しみを『国家』で描いているのではないでしょうか(偉そうに書きましたが、未読です(^_^;))。そのプラトンの夢(妄想)をアリストテレスが体系化し、キリスト教と合体して、今につながっているのでしょう。(トマス・アクィナス『神学大全』創文社、全45巻、なんて、読めるわけがありません。)

トマス・アクィナスが崇拝したアウグスティヌスの「自由意志」なんかも、(「個人」と限定することのない)〈主体〉抜きでは考えることも出来ません。

以後、西洋では〈主体〉と〈客体〉の分離・確立と、その逆の(再)融合・統合を目指して哲学も宗教も変遷を重ねてきました。その両面のうち、西洋は前者に、東洋は後者に重点が置かれていたような気がします。

ただ、たんに一方方向に進んできたのではありません。西洋でも宗教が中心だった時代は、宗教そのものにその両面が含まれていたと思います。宗教と科学が分離分離を始めて以降は、前者が全面的になりましたが、それでも「自然に帰れ」のような波が定期的に起こっていたと思います。

私が生きてきた20世紀中頃以降の日本を見ても、中頃から個人と主体、科学が優勢でしたが(鉄腕アトムなど)、20世紀後期は「エコロジー」が台頭してきました。21世紀は「個人」「新自由主義」の時代です。

私が生まれる以前のことは本で読むしかありませんが、たぶん、振り子のように振れてきたのではないでしょうか。未来のことはわかりません。未来はあなた達(私たち)が創るものですから。

コードを知る(識る)こと

コードを知って操る(操られる)というのは、その所属する共同体のコードを知るということです。「一つの言語を習得することは、一つの特定の捉え方ーー一つの「イデオロギー」ーーを身につけることでもあるのである。」(P.9)

でも、あらゆる共同体に言えると思うのですが、文法通りに話をしている人は殆どいません。いわゆる「スラング」で話ができることが、その共同体に所属するということだからです。

言語学が、音韻といいますが、ことばは音韻のつながりではありません。繋がりそのものが意味を表します。それを音韻(発音記号)に還元するのは、表音文字からきています。「柿」を「かき」「kaki」と書いて、発音するというのはちがうと思います。半世紀前に、録音した声をパソコンに取り込んで分解したことがあります。それをつなげれば、なんとなく声らしく聞こえますが、なにかが違います。それは「イントネーション」や「強弱」のせいだと思っていましたが、今は違うと思っています。駅や空港の案内音声はコンピュータで合成されたものらしいですが、あんな喋り方をする人はいません(真似することは出来ます)。つまり、作られた・嘘のことばですが、人間は理解できます。外国語だってある程度聞き分けられるだけの許容量があります。残念なのは、その影響で日本人が文法で会話しつつあるということです。

そして、そのコード、あるいはルールは得てして支配者側のコードであるということです。共通語(「標準語」が持つ差別的なイメージを緩めた用語)に対して、方言は〈有徴〉です(P.242)。言語において、コード(文法)が優先されるということは、支配者のコードが優先されるということです。これが差別の構造です。差別されるのは、決して〈少数者〉ではありません。

著者は、〈有徴〉〈無徴〉という言葉をつうじて、このことを語っているのだと思います。

識字

問題はその先にあります。象徴化機能を持つ人間の言語は「必然的に」差別を生み出すのかどうか、支配・被支配の関係を生み出すのかどうかです。

残念ながら、私は「わたしたちの目から見て」、そのような階層構造のない社会を知りません。

象徴化作用(記号化作用)は言語が本質的に持つものかもしれません。それは対象の一般化(「命名」P.6「普通名詞」P.90)、抽象化、対象化、に繋がります。

指示対象から言語が独立することによって、虚構も可能になります。また、それが「創造性」を生み出します。対象として独立させること、つまり、変化する対象の時間的、空間的な束縛を無くするということですが、それは対象を「固定化」することによって可能になります。

人間の気持ちは変わります。記憶も変わります。共同体を構成する〈個人〉も変わります。そこで、記号内容と記号表現の関係を担保するものは「契約」となります(意味は違いますが、本書でいう「有契性」)。だから、固定化して客観性を持たせるために、「文字」という記号が使われます。

最近は違ってきていますが、契約などと無縁で一生を終える人は多くいます。文字を知っている人が少い社会では、当然です。最近は何もかもが契約です。保険や商品の売買はもとより、インターネットにアクセスするということは様々な約款に同意したことになります。

契約は、独立して平等な個人間(つまり「対等」)で行われるのが建前です。法は法のもと(下)での平等を謳っています。でも、「持つ者」と「持たざる者」とは平等でしょうか。食べるものがないものと、人に分けるだけの食べ物とをもっている人が平等に市場で対面するでしょうか。

スマホやパソコンを買ったときにとても面倒なのは、「使用許諾」画面の連鎖です。OSから始まって、ほぼすべてのソフトの使用は「許諾します」ボタンを押さなければなりません。「書面を読む」ことになっていますが、小さい字で巨大な文章を読む人は殆どいないのではないでしょうか。中にはGPSの使用を強制するものもあって、「おまえ、GPSは関係ないだろうが」と思うものもあります。でも、許諾しないとそのソフトは使えないのです。

ソフト会社とユーザーは対等でしょうか。

学校教育

識字と権力構造とは違うという論者もいます。識字も道具も科学も、それ自体に「悪」や「差別」があるのではなく、その使い方(あるいは使われ方)が問題だ、というわけです。

同じことが「学校教育」にも言えます。学校教育は「文字(識字)の伝達」として、官僚機構を支えるものとして発生し、発達してきたようです。つまりコードを客観化して固定し、永続化するための機構です。

官僚制のユートピア』(デヴィッド・グレーバー著)は名作で、必読書だと思いますが、この側面では弱い気がします。

学校から「ドロップアウト」する人がいます。実態はどうかは別としても既存の学校制度と異なる「フリースクール」もあります。でも、ほとんどの人はドロップアウトもせず、フリースクールにも行きません。ほとんどの人が〈無徴〉になることで、社会は継続されます。

〈有徴〉が「反社会的」存在だということではありません。〈有徴〉の人も、社会機構のなかにしっかりと位置づけられています。

では、「良い(正しい)」学校教育と「悪い(間違った)」学校教育があるのでしょうか。わかりません。原子力発電、原子力爆弾が「科学の使い方」の問題だとは割り切れないのと同じです。

本書の記述

本書は、当然文字で書かれています。そして、内容は〈無徴〉のコードによるものです。そして〈有徴〉については「無徴の側」から描かれます。〈中央〉から〈地方〉を、〈中心〉から〈周縁〉を描こうとしています。〈中心〉は〈安定〉、〈周縁〉は不安定です。〈周縁〉はノスタルジーとして描かれます。

学術書としては「当然」ですね。そこで、「学術」とは「中立」なのか、ということが問われるのですが、上記の通り、わかりません。それが「差別構造」を生み出していると思います。でも、それも「コチラ側(中央)」から見ているからにすぎません。「差別は悪い」というコードのなかにいて、その継続を望んでいるわけです。

「子供に苦労させたくない」という「親の愛情」があります。支配的なコードのなかにいたほうが楽です。「楽な方がいい」というコードのなかにいるからです。「親の愛情」もコードに違いありません。「子育て」なんかはコードの塊です。

それでも、「差別はいけない」「戦争はいけない」「平等」「正義」「民主主義」・・・などの価値観もあります。その価値観通りに行動する「快」の誘惑はとても強いのです。

これを一種の「イデオロギー」だと言われればそのとおりです。だとすれば、あとは「力関係」しかないのでしょうか。それならば「弱いもの」は永遠に負け続けます。

そうじゃない、という希望を〈私〉は持ち続けたいのです。




〈抜書〉

「人間が「意味あり」と認めるもの、それはすべて「記号」になるわけであり、そこには「記号現象」が生じている。」(P.5)

「では、どうして区別するのかーーそれはその犬が自分にとって他の犬とは違った特別の価値をもっているという認識があるからである。(人間に対する命名を考えてみれば、この点はもっと明らかであろう。人間には誰しも名前が与えられるが、犬はそうではない。ーーこれはもちろん大変理由のあることなのである。)特別の名前が与えられることによって、そのものが他でもって代えることができないものであるという意味づけが完了し、自分との関連が確認されるわけである。」(P.6)

「「ブーボー」という記号は、未知のものを捉え、自分との関連で意味づけし、自分たちの世界に取り込もうとする人間の試みの産物である。」(P.7)

「一つの言語を習得することは、一つの特定の捉え方ーー一つの「イデオロギー」ーーを身につけることでもあるのである。」(P.9)

(「アニ」「オトウト」「brother」)「「自然さ」、「不自然さ」というのは、要するに相対的なものにすぎない。」(P.15)

「「実用的機能」では、言語はすでに決まっている一定の意味内容を運ぶ手段である。「美的機能」においては、言語そのものが新しい「意味作用」を生む。」(P.18)

「言語の実用的な機能が人間の文化の秩序を形成し維持する支えとなるものであれば、美的機能の方はそれを揺さぶり、変革し、新しいものを生み出していく創造的な営みと深く関わっているわけである。」(P.21)

「「意味作用」ー「表現」ー「伝達」という系列は、第一のものに「話し手」という関連事項が加わって第二のものに、それにされに「聞き手」という項が加わって第三のものになるというように、順次に包摂の関係を構成している。別の言い方をすれば、「意味作用」は「表現」の前提であるし、「意味作用」と「表現」は「伝達」の前提となる。」(P.32)__自然、主体、客体

「まず、「コード」依存の場合は、受信者は定められた「コード」に従って「解読」すればそれで十分である。それに対し、「コンテクスト」依存の場合は、受信者は「コンテキスト」を参照しながら、発信者がメッセージ作成の際に想定していたと思われる「コード」を逆算(FF)的に推定していることになる。」(P.48-49)

「大切なことは、この「仮説的推論」という操作は、人間が自分のまわの出来事を自分との関連で捉え、それを自分を中(FF)心とする秩序の中で位置づけようとする主体的な営みの基礎にあるものだということである。」(p.61-62)

「いずれにせよ、そこで行われているのは「文化のコード」を作り出す試みである。(LF)このように考えてくれば、この型の営みにおいて起こっているのは、たんに「理想的」なコミュニケーションの崩れたものというようなことではないのは明らかである。むしろ「理想的」なコミュニケーションが文字通り「機能的」な性格のものであるのに対し、こちらのものは本質的に「人間的」のものであると言える。」(P.62)

「「理想的」なコミュニケーションにおいて「意味」といえば、「コード」においてそれぞれの「記号表現」に対して規定されている「記号内容」のことである。」「これに対し、「どういう意味でそんな事を言ったのだろう?」などという場合の「意味」は、話し手の意図したことという意味合いになっている。(これは前者の「意味論的な意味」に対して「実用的な意味」と言ってよいであろう。)」(P.63)

「「メッセージ」を成り立たせるのは、それが何らかの他のことを表しているもの(つまり「記号」)によっ(FF)て構成されているとうことである。」(P.66-67)

「このやり方で、人間は事実上すべてのものを「記号」にすることができる。人間はすべてのものにことばを与えることのできる創造主なのである。」(P.68)

「このことは、記号の二つの側面のうち、「記号表現」の方がわれわれにとって何らかの形で知覚できる対象であるのに対して、「記号内容」の方は必ずしもそうではないということによるのであろう。」(P.69)

「〈感覚〉されるものは〈意味〉を持つのである。」(P.70)

「しかし、「記号内容」がこのように「指示物」に相当すると考えてよいように思えるのは、どちらかというと限られた場合である。伝達の当事者が機械であればなにか適当な処理の方法も考えられようが、人間が使う記号体系であれば、このような形で記号の数をふやしていくと、やがて記憶可能な限界を超え、記号体系として機能しなくなってしまう。例えば、もし「ネコ」という言葉がなくて、すべての猫がそれぞれ別の名前を持っていたら(しかも、つまり、「普通名詞」などというものは存在しなくて「固有名詞」ばかりだとしたら)、そのようなことばはとても使いこなせないということになろう。」(P.90)

「むしろ多くの場合、一つの記号の適用は一個の特定の対象(指示物)にだけ限られるのではなくて、同じ価値を有しているとされる一連の対象(指示物)に適用できるように記号内容が規定されているのが普通である。(P.91)

「これは「記号」と「指示物」の間に「意味」をいう項が入ったということである。」(同)

「もし、「指示物」とうような形ではなく、先程の「意味」という形で「記号内容」が規定されていたら、そのような事態にはならない。新しい対象でも「意味」の規定にあっていれば、記号の適用が可能に(FF)なる。記号は「開いた」世界を相手にすることができるわけである。」(P.92-93)

「つまり、「等価」であると同時に(あるいは「等価」であるが故に)、それぞれの部類の三つの項は相互に排除し合うという「対立」の関係にある。」(P.146)

「しかし、実際には「コードが穏やか」なのではなくて、(FF)人間が絶えず「コードを緩めている」と考えた方が正確なのであろう。前もって決められた一定の出来事に対してのみ反応するというのではなく、既成の枠で捉えられない新しい出来事に際してもその意味を読みとり、新しいコードとして自らの世界に取り入れようという試みがなされる限り、コードは常に「穏やか」なものでしかありえないわけである。」(P.176)

「コンテクストを参照してメッセージを解釈するという営みは、コンテキストを想定してメッセージを正当化するというふうに形を変えて現れてくることもあるわけである。」(P.177)

「しかし、右でいくつかの節にわたって議論したように、人間の〈話す主体〉としての営みを十分に考慮に入れて考えてみた場合、「テクスト」はむしろ、記号からなるそのようなまとまりと〈主体〉との関わり合いの結果としして生み出されるものと解すべきではないかということになる。そうすると、同じ記号から成るまとまりであっても、それがテクスト生産者としての〈主体〉と関わる場合とテクスト解釈者としての〈主体〉と係る場合とでは、生み出される「テクスト」が異なるということも起こりうるわけである。」(P.184)

「日本語は、メッセージとなった「テクスト」の「コンテクスト」に対する自立性が相対的に弱いということによって特徴づけられているように思える。」(P.186)

「この意味では、「ジャンル」とは発信者のメッセージ生産の「意図」ばかりでなく、受信者のメッセージ解釈の「態度」を規定するコード的な機能を持っていると言うこともできる。}(P.189)

「し(FF)かし、ただそれを当り前に表現するのではなくて、「美しく」表現したいという意識が働くはずである。つまり、ただ事務的に何かを伝えればよいというのではなくて、それをいかに伝えるかということが重大な関心事になりうるわけである。」(P.196-197)__whatとhow

「ということは、「美的機能」は必然的に既成のコードを超えるという働きを含むということになる。テクスト生産者の立場から言えば、既成のコードを超えたメッセージの生産、テクスト解釈者の立場から言えば、既成のコードを超えたメッセージの解釈ということ、要するに、「メッセージをコードから解放する」という営みを伴うことになる。」(P.198)

「受信者にそのような確信を抱かせるということ、つまり、「メッセージそのものへの志向性」という状況を作り出すことーーこれはすでに述べた通り、「美的機能」の特質である。」(P.200)

「自分の名前が略字で書かれたり、ダイレクト・メールなどで仮名書にされるのを嫌うという場合も同様である。」(P.210)__活字、印刷の名前

「しかし、そのような実用性とは別に、衣服そのものの価値という美的機能の点(FF)からすれば、革製のコートとビニール製のコートとは同じ「価値」をもつとは言えなくなる。住宅や食物についても同じ議論ができることは、言うまでもないであろう。」(P.210-211)

「批評家の好む言い方を借用するならば、「詩においては、ことばは二度と同じ意味で用いられない」ということである。」(P.212)

「しかも、このような過程が相互に対立するものを完全に打ち消してしまうように働くのではなくて、むしろ対立を通じてさらに新しい意味作用を生むという形で増幅され、その密度を増していく。」(P.215)

「人間というものの持つ限界と可能性ーーそれと見合うような形で「言語」は出来ている。それは特定の目的を能率的に達成するために意図的に作成される「人工的」な言語とは違って、人間という当事者との関わりを通じて生まれてきた「自然さ」を持っている。(そして、「自然さ」はしばしば「必然性」の意味合いを帯びるということも留意しておいてよいであろう。人間の関わるものとして、そうなるより考えられないような特徴を人間の言語は備えているわけである。)__「自然言語」、自然は偶然であり必然。必然・偶然は主観が生み出したもの

「「言語」という記号体系についてこれまで見てきたさまざまな人間の営みーー例えば、自らを取りまく外界の対象や現象に対して自らとの関連という視点から意味づけを行い、コードという形で秩序化する、あるいは、コードに従ってメッセージを作り出したり読みとったりすることによって、その秩序を修正したり、新しい秩序を創造したりする、などーー実は、これらは人間が自らの「文化」との関連であらゆる分野において行っている基本的な営みそのものであると言えないであろうか。」(P.218)

「言語的意味も文化的機能も、いずれもコード(言語のコードと文化のコード)によって規定される記号内容であるからである。」(P.227)__「コード」の優位

「言いかえれば「言語」とは「記号として機能すること」を記号内容とする「記号」である。これが、例えば地球を訪れた異星人の文化記号学者の眼に映る「記号」としての「人間の言語」の姿である。」(P.228)

「目を転じて、日本人の社会的な行動様式を見てみると、「個人」が常に自らを取りまく「周囲」(あるいは「全体」)に同調する形で行動するという傾向が顕著である。いずれの場合も、「個体」がそのまわりものから独立するというよりは、自らの輪郭をぼかし、まわりとの連続性を保つということが起こっている。同じことは、について「外部空間」に対して住まいとしての「内部空間」を区別して明確に画定するより、両者の間に(軒や縁といった形で)両者の交わる緩衝的な空間を配したり、について、「自然物」とそれに文化的な加工を加えた「食物」という対立よりも、後者に自然の趣を多く取り込む工夫をしたり、あるいは、について、「自然」から「身体」を隔離するということばかりではなく、自然の図柄などでなおそれとの連続性を残しておこうとしたりすることなどにも認められよう。」__(P.235)

「これは、言いかえれば、「対立」の仕方が変わればその文化的対象の価値も変わりうる、ということである。」(市電)「洗剤や甘味料でも同じようなことが起こったのは、まだ記憶に新しい。」(P.236)__キリスト教と仏教、アニミズム

「「両義的」な存在は、その問題となるコードとの関連では満足に分類しきれない剰余という性質を持つ。コードの側からすれば、得体のしれないもの、できれば排除してすっきりしたいものということになる。そういうわけで、両義的な存在には特別な文化的価値が与えられることがよく起こる。」(唾液や血)(P.238)__LBGT。障害者は?

「両義的な存在の持ちうる積極的な役割として、創造という側面のあることを示唆する。」(トリックスター)(P.239)

「自らをも含めた文化的世界の構造の把握というレベルにおいても同じ原理が働く。その際のいちばん基本的な対立は〈自分たち〉対〈他者〉という関係であろう。」(同)__対象化。客体化。野蛮は(文字)文化が作ったものか。歴史として残っているのは文字として残っている。山の向こうには〈鬼〉が住んでいるのだろうか。子供の頃から、〈鬼〉や〈幽霊〉が怖かったのは、そう思わせられていたからだろうか。今では、「隣の人」も怖い。

「〈中心〉が秩序化が完全で安定しているのに対して、〈周縁〉は秩序化が不完全で不安定である。〈中心〉がその〈日常性〉の故に〈優位〉に立ち、〈無徴〉であるのに対し、〈周縁〉はその〈非日常性〉の故に〈劣性〉で、〈有徴〉である。 一方、〈中心〉がその完全なコードによる支配のために〈自動化〉しているのに対し、〈周縁〉はコードからの逸脱の故に〈異化〉の様相を呈する。」(P.241)「両者の間には、〈中心〉は自らの秩序を広げて〈周縁〉を排除しようとするし、〈周縁〉は秩序の隙をついて〈中心〉を脅かすという形での緊張が生じる。」(P.242)__〈周縁〉には、周縁の秩序(論理、コード)がある。〈中心〉の秩序と異なっているだけである。逆である。自分たちと同じ秩序を持つものを〈中心〉と呼ぶだけである。なぜ、〈自己〉が中心となるのか。猿(チンパンジー)は鏡で「自分を認識する」と言われるが、見え方は文化に規定されているので、動物と人間だけじゃなく、西洋と東洋、あなたと私で異なる。それを「同じ」と同時に「異なる」と仮定するところに自己が発生する。「リンゴ(A)」と「リンゴ(B)」は同じか。「誰にとって」同じか。「波動」と「粒子」は「誰にとって」異なり、「誰にとって」同じなのか。

「大人ことば」と「子供ことば」、「共通語」(あるいは「標準語」)と「方言」、〈男性のことば〉に対する〈女性の言葉〉「公文書や学術論文に使われるのは基本的に〈無徴〉項である「男性のことば」である。その結果、女性は一種の「二重言語使用者」として振舞うことを余儀なくされる。」(P.243)__「女のいうことはわからない。」「子供のいうことはわからない。」

(祭り)「つまり、一定の空間と時間の枠を設けておいて、その枠内での無秩序の導入を許容するのである。」(P.243)「「遊び」では、一定の「ルール」の下に非日常的な世界が創り出される。それはすぐれた意味での記号によって創り出された虚の世(FF)界である。」(P.243-244)

「その意味では、「詩」はたいへん自由な「祭り」である。「ことば」の上だけでの虚(FF)の世界ーーこれは現実の行動として現れてくる虚の世界に較べると、ずっと危険性が少ないと判断されているのであろう。」(P.244-245)


〈メモ〉

……識字、所属する共同体のコード、支配者側のコード(言語)

子供に言葉を教えること、文字を教えること、学校教育

アーミッシュ、植民地、発展途上国での教育

記号化作用ーー言葉ーー抽象化、一般化ーー指示対象からの独立、虚構ーー文字ーー権力?

プラトンは体育会的?若さ、生を止める留める




⟨impressions⟩

Semiotics as a study of criticism

"And if the human spirit is trapped in the order it creates and abandons its freedom, or if it falls into a situation where it mistakes the imaginary world for the real world and does not notice it, then Semiotics also carries the actual task of uncovering its delusions and returning it to the path of creation. In that sense, semiotics should lose its character as a criticism (including criticism of itself). It does not become. ”(P.246)

This is the last sentence of this book. It's a very interesting book. I couldn't catch it with .

Semiotics

[Semiotics] {W) (semiology) and semiotics (these two seem to be different) are explained from the basics by presenting easy-to-understand examples. This is wonderful. Not only is it easy to understand, but it is chosen to develop properly in the theory. I think it's amazing.

"Symbols" and "words" are different. I would like to mention the difference, but I couldn't understand it well.

Explains human beings or their culture in terms of symbols. "Culture" probably consists of "code". "Word" is not a word as "sound (voice)". "Gestures" and "tools" are the same "codes". It may be said that "human beings are animals that create and use code." ("Human is certainly an animal that uses symbols." P.10)

Sign language is also one of the words.

Code (& quot; code ”)

What is displayed as "code" in Japanese is also "chord" and "cord" in English, and the difference is not clear.

The code has strong nuances of "law" and "rule". The original Latin word "codex" means "manuscript" and "caudex" means "tree trunk". If you think so, the code feels like a fixed thing that is mobile, but the author dares to present it as "unstable" or changing, and "cultural relativity". I think I'm preaching.

If you don't share the same code, you won't be able to communicate (that is, the code must already be), and that common code will have to change and be recreated. This is because what is represented by a sign (symbol content, signifie) is constantly changing. Signifiant (symbol expression, letters and sounds) and signifie are "conflicting". Because it is semiotics to make the signifiant itself a signifie. "Semantic action (symbolic action)" is "objectification". Without it, you cannot "speak" or "think."

"The pair of signifiant and signifie that are two sides of the same coin is a" signe "or" sign ". (Wikipedia)

But that's because I think I can't. That is also a "code".

Center

We consider ourselves the "center". I think it is the . Therefore, I don't think it can be understood without making it an "object". When people say "think in the other person's body" or "think in a relativistic way", "self" as the "subject" is already premised. When we say "what is expressed / what is done", it is premised on "the subject who expresses" and "the object which is expressed". The premise of "existence (ὤν) theory" is to assume that "what is expressed" exists independently of "what is expressed" (it is inevitable that "self" is "object", but for the time being It is the current culture to think separately).

The idea is that it exists independently. Plato may have portrayed the surprise, embarrassment, and sadness of learning about the idea in the "nation" (I wrote it brilliantly, but I haven't read it yet (^_^;)). Aristotle systematized Plato's dream (delusion) and united it with Christianity, which is probably connected to the present. (Thomas Aquinas "Summa Theologica" Sobunsha, 45 volumes, can't be read.)

Augustine's "free will" worshiped by Thomas Aquinas cannot be considered without the "subject" (not limited to "individual").

Since then, in the West, philosophy and religion have undergone changes with the aim of separating and establishing "subject" and "object" and vice versa (re) fusion and integration. On both sides, I feel that the West focused on the former and the East focused on the latter.

But it's not just going in one direction. In the days when religion was the center of the West, I think that religion itself included both sides. After religion and science began to separate, the former became full-blown, but I think there were still waves like "return to nature" on a regular basis.

Looking at Japan since the middle of the 20th century, where I lived, individuals, subjects, and science were dominant from the middle of the century (Astro Boy, etc.), but in the latter half of the 20th century, "ecology" emerged. rice field. The 21st century is an era of "individuals" and "neoliberalism."

I can only read books before I was born, but I think it's probably swinging like a pendulum. I don't know the future. The future is created by you (us).

Knowing (knowing) the code

Knowing and manipulating (manipulating) the code means knowing the code of the community to which it belongs. "Learning a language is also about learning one particular way of thinking-one" idealism ". (P.9)

But, as with any community, few people speak grammatically. Being able to talk in so-called "slang" means belonging to that community.

Linguistics is called phonology, but words are not phonological connections. The connection itself represents the meaning. It comes from phonograms that reduce it to phonetic symbols. I think it is different to write "persimmon" as "kaki" and "kaki" and pronounce it. Half a century ago, I took a recorded voice into a computer and disassembled it. If you connect them, it sounds like a voice, but something is different. I thought it was because of "intonation" and "strength", but now I think it's different. It seems that the guidance voices for stations and airports are synthesized by a computer, but no one speaks that way (it can be imitated). In other words, it is a word that was made or lied, but humans can understand it. There is a certain amount of allowance for foreign languages ​​to be recognized. Unfortunately, the influence is that Japanese people are talking in grammar.

And that code, or rule, is the code of the ruler. In contrast to the common language (a term that loosens the discriminatory image of the "standard language"), the dialect is "signed" (P.242). In a language, the code (grammar) takes precedence, which means that the ruler's code takes precedence. This is the structure of discrimination. It is not the "minority" who are discriminated against.

I think the author is talking about this through the words "signed" and "non-signed".

Literacy

The problem lies beyond that. Whether human language with a symbolizing function "inevitably" creates discrimination, and whether it creates a relationship of domination and control.

Unfortunately, I don't know a society without such a hierarchy "in our eyes".

Symbolization (symbolization) may be inherent in language. It leads to generalization of objects ("naming" P.6 "common nouns" p.90), abstraction, objectification.

By making the language independent of the referent, fiction is also possible. It also creates "creativity". Independence as an object, that is, eliminating the temporal and spatial bindings of a changing object, is made possible by "fixing" the object.

Human feelings change. Memories also change. The that make up the community also change. Therefore, what guarantees the relationship between the sign content and the sign expression is the "contract" (although the meaning is different, the "contract" in this document). Therefore, the symbol "letter" is used to fix it and give it objectivity.

Although it has changed recently, many people end their lives without a contract. This is natural in a society where few people know the characters. Everything is a contract these days. Accessing the Internet, as well as buying and selling insurance and products, means that you have agreed to various terms and conditions.

Contracts are made between independent and equal individuals (ie "equal"). The law stipulates equality under the law (below). But is "the one who has" and "the one who does not have" equal? Will people who have nothing to eat and food that can be divided into people face each other equally in the market?

When you buy a smartphone or computer, the most troublesome thing is the chain of "license" screens. Starting from the OS, you have to press the "Allow" button to use almost all software. It is supposed to "read the document", but I think that few people read huge sentences in small letters. Some force the use of GPS, and some think, "You don't care about GPS." However, the software cannot be used without permission.

Is the software company and the user equal?

School education

Some argue that literacy and power structure are different. Literacy, tools, and science do not have "evil" or "discrimination" in themselves, but how they are used (or how they are used).

The same can be said for "school education". School education seems to have emerged and developed as a "transmission of letters (literacy)" to support the bureaucracy. In other words, it is a mechanism for making the code objective, fixing it, and making it persistent.

"Public Utopia" (written by David Graeber) is a masterpiece and I think it is a must read. , I feel weak in this aspect.

Some people "drop out" from school. Regardless of the actual situation, there are also "free schools" that are different from the existing school system. But most people don't drop out and don't go to free school. Society will continue when most people become "free".

does not mean that it is an "anti-social" entity. People who are are also firmly positioned within the social organization.

So, is there a "good (correct)" school education and a "bad (wrong)" school education? do not understand. It is the same as nuclear power generation and nuclear bombs are not divisible by the problem of "how to use science".

Description of this manual

This book is, of course, written in letters. And the content is due to the code. And about "signed", it is drawn from the "non-signed side". I am trying to draw "region" from "center" and "periphery" from "center". The "center" is "stable" and the "periphery" is unstable. The "periphery" is depicted as nostalgia.

It's "natural" for an academic book. Therefore, the question is whether "academic" is "neutral", but as mentioned above, I don't know. I think that creates a "discrimination structure." But that's just because I'm looking from the "here (center)" side. We are in the code "discrimination is bad" and want to continue.

There is "parental affection" that "I don't want my child to have a hard time". It's easier to be in the dominant code. It's because it's in the code "It's better to be comfortable". "Parental affection" must also be a code. "Parenting" is a block of code.

Still, there are values such as "don't discriminate," "don't war," "equality," "justice," "democracy," and so on. The temptation of "pleasure" to act according to that value is very strong.

That's right if you call this a kind of "idealism". If so, is there only a "power relationship"? Then the "weak" will continue to lose forever.

I want to keep the hope that it isn't.





[著者等(プロフィール)]

池上/嘉彦
1934年京都市に生まれる。1961年東京大学大学院博士課程修了。専攻は言語学、英語学。現在、東京大学名誉教授、昭和女子大学教授



いま広範な学問・芸術領域から熱い視線を浴びている「記号論」。それは言語や文化の理解にどのような変革を迫っているのか―。ことわざや広告、ナンセンス詩など身近な日本語の表現を引きながらコミュニケーションのしくみに新しい光をあて、記号論の基本的な考え方を述べる。分かりやすくしかも知的興奮に満ちた、万人のための入門書。




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