文字の歴史 A. C. ムーアハウス著 ねずまさし訳 1956/03/17 岩波新書

文字の歴史 (1956年) (岩波新書)

この本について(私の本について)、そして友人について

この本は、40年以上前に友人からもらったものです。私の所有する本の三分の一以上は、その友人からもらったものです。残りの半分は(つまり全体の三分の一)は図書館がいらない本を住民に配った「図書館リサイクル」の本です。

その友人は、「本の虫」のような人で、いつでも本を読んでいました。お酒を飲まない人ですが、よく居酒屋に誘いました。すると、居酒屋でも本を読んでいます。下宿でその友人と話をしているとき、電話の呼び出しがあると、「本をもっていって」電話に出るのです。電話しながら本を読んでいたんでしょう。

その友人は、本を大切にするわけではないのです。彼の本の読み方です。本を買ってくると(古本が多かった)、まず「見返し」というか、「遊び」というか、本を開いて最初にある(ない場合もある)何も書いていないページを「破り」ます。まず、本を破ることから彼の本との付き合いははじまるのです。私は、本を「大切」にするので、それには驚きました。「だって、いらないし、本が厚く重くなるから」と彼は言っていました。そのくらいで本が厚くなったり重くなったりしないと思うのですが、本をたくさん持っていると影響があるかもしれません。

彼の女性との付き合い方も、似ているところがあったような気がします。

そして、本の最後のページに「いつ購入したか」を書きます。次に、本のタイトルページに出版年を記入します。訳書であれば、原書の出版年、著者の原語名、等を書き入れます。そして、目次あたりか、表紙の裏、あるいは裏表紙の裏にいつ読んだかを書き入れます。読み初めの日時と読み終わった日時。一回目は①、二回目は②・・・とつけます。この本では、「①77

9/23 -> 9/27 ②・・・」とあります。44年前です。

この本には線引が多くあります。赤いボールペン、赤鉛筆、黒い鉛筆で線が引かれています。どれかは、彼以前の所有者のものでしょうね。今回、私も読みながら線を引きましたが、どれが私の線なのか、わからなくなりそうです。

とにかく彼は本をつねに読んでいるので、当然本がたまります。彼はある程度本がたまると、本をダンボールに入れて捨てるのです!!ええっ!!「どうして捨てるの?」「読んだから」。古本屋に売ればいいと思うのですが、破ったり、線引したりしているので、売れないのでしょう。「じゃあ、もらってもいいか?」「いいよ」というわけで、私が引き取るのです。その本に興味があるわけじゃないのですが、なんか捨てるのは私にはとても「もったいない」と思うのです。

彼が、決して捨てなかった本が一冊あります。ポール・ヴァレリーの詩集です。多分。フランス語なので私にはわかりませんでした。・・・ボードレールの『悪の華』だったかもしれません。自信がなくなりました。

彼の話のつづき

彼は裕福な家庭の子供ではなかったと思います。だって、私と同じ安下宿にいるのですから。学校を卒業してから、彼とは会っていません。40年以上経ってやっと「当時の」彼に近づいた気がします。当時は彼の言うことややることの一つ一つが不思議でした。彼は「理解されない」孤独にあったのかもしれません。私は、そんなことを気にすることもできませんでした。

先日から、『ソフィーの世界』を読み始めました。今日、「ソクラテス」の所まで来たのですが、なんか彼は似ているかもしれません。風貌は違います。背は高いし、痩せ型だし、どちらかというとローマ風のちょっといい顔だし。でも、「理解されなかった」とすれば、ソクラテス的だし、イエス・キリスト的だったような気がします。ゴータマシッダールタはどうだったのかな。

懐かしいです。会って話がしたい気持ちが積もってます。

最近の読書

そんなわけで、私の本は40年以上昔の本が中心です。その間に学問は実績(と言われるもの)を重ねてきました。人々の意識も変わりました。40年前の「当たり前」は、当り前じゃなくなっていることも多いです。ということは、いま「当り前」だと思っていることも、40年後には当り前じゃなくなっているかもしれないということです。悲しいことは、40年前のことは、文献などの資料はたくさん残っているのですが、多くのの人が「忘れてしまっている」ということです。

昔のテレビは電源スイッチがあって、チャンネルがあって、ボリューム(音量調節)がありました。その他にも、画像調整やチャンネルの微調整、等、多くのスイッチやツマミがありました。リモコンができた頃、チャンネルに手が届くのにリモコンを探す、というジョークがありましたが、いまは、チャンネルもボリュームも付いていないテレビが多いです。リモコンが無いと電源すら入れられません。「チャンネルを回す」とか「電話のダイヤルを回す」という表現を実感できる人は少ないと思います。TVアンテナを立てたり、調整したりできる人はどのくらいいるでしょうか。いまはそれらはみんな「電気屋」に頼む、つまり「専門家任せ」ですよね。そして、その「専門家」自体が少なくなってきているように思います。町の電気やさんはどんどん減っています。残っている電気屋さんの多くは、大手の電気屋さんの下請けになっているのはないでしょうか。

たまに、その専門家を呼んで修理をしてもらうことがありますが、大手では、マニュアルが整備されていて、それ通りにするわけです。マニュアルがわかれば、電気や電化製品修理の技術はいらないのです。「ここと、ここを、こういう仕方で検査して・・・」と、あみだ式に検査して、ゴールには「ふるい商品ですね。直すより、新しい商品を買うほうがお得です。安くて性能がいい商品がありますから。」となります。

半年ごとに新製品がでますが、本当に性能が良くなっているんでしょうか。

種類にもよりますが、3年とか5年とかで壊れる電化製品が多い気がします。それ以上に「壊れていなく」ても、規格や性能が合わなくなるものも多いです。いままでの製品はただのゴミになります。デジタル放送で、どれだけの「使えるテレビ」が捨てられたのでしょうか。3Gが使えなくなったら、大量の携帯電話やスマホが捨てられます。

40年前は、「物は壊れるまで使う」というのが当たり前でした。そして、「壊れたら捨てる」と「壊れたら修理する」がせめぎ合っていました。それを何故か覚えている人は少ないのです。それは、最近の製品が「修理できない」「修理することを前提として造られていない」ので、「修理する」という考えは持っていても仕方ないのです。

「修理できない」というのは製造過程の構成の問題です。人間の手がかかる部分は人間の手で修理可能です。

でも、40年前の本は「使えない」ことはありません。100年前の本も、2400年前の古典ギリシアの本も使えないことはないと、私は思います。

この本は『A. C. Moorhouse Writing and the alphabet(London: Cobbett Press, 1946)』の翻訳

今から75年前の本です。戦後すぐの本ですね。ねずまさしが訳したのは1957年ですから、原書の出版から11年経っています。その間に文字に関する学問は変わっているので、ねずまさしがそれを注で補足しています。それから現在までの64年でさらに文字に関する研究は進んでいると思います。最近の研究の成果を知りたい人にはこの本は役に立ちません。

ただ、「文字というものがなにか」を知りたいのであれば、必読の書かもしれません。

文字の学問

文字の学問ってあるんでしょうか。Wikipediaの「学問[wiki(JP)]」を観ると、それらしき学問の分類はないようです。「文献学」「考古学」「比較言語学」「言語人類学」あたりの一分野で研究されているのでしょうか。「yahoo!知恵袋」を見ると「文字の研究をする学問はありますか?」という質問に対して「「言語語学」あるいは「文化人類学」かと思います。」というのがベストアンサーになっていました。でもググっても「言語語学」という項目はありませんでした。

西欧では、古典ギリシア以来「修辞学」等の伝統がありますが、文字が本格的に研究されるようになったのは18世紀以降ではないでしょうか。

ナポレオンのエジプト遠征(1799年)の際に持ち帰ったロゼッタストーンをシャンポリオンが解読したのが1822-24年です。それまでヒエログラフを読める人はいなかったのです。いなかったわけじゃないですよね。書いた人は読めたはずです。でもそれは忘れられてしまったのです。つまり、ヒエログラフは「再発見」されたわけです。

ヒエログラフはまだ読めない(音価のわからない)文字があるようです。文字を解読する人はすごいですよね。発音できない文字を読めるのですから。語学が苦手な私には絶対無理です。でも、それは「ことばには音がある」という先入観が私に染み付いているからです。音価のない言葉もあります。たとえば手話です。手話といっても、「あいうえお」や「ABC」を手であらわす手指日本語(同時法的手話)、手指英語(Signed English)ではありません。日本手話(伝統的手話)やアメスラン(ASL=American Sign Language)のことです。これらは独自の文法をもち、音価のない独自の言語です。

ヒエログラフは「神聖文字」と言われるように、神に向けた文字です。それに音価がある必要はありません。イコンに音価はありません。曼荼羅にも音価はありません。仏像にも音価はありません。

『モナリザ』や『ゲルニカ』にも音価はありません。できることは、「解釈」して「説明」することだけです。だとすれば、その説明には説明者の「主観」が必ず入り込みます。

ハンムラビ法典

「ハンムラビ(ハムラビ)法典」は「目には目を、歯には歯を」という言葉で有名です。どう感じますか。「残酷だ」とか「復讐を煽ってどうするんだ」と思う人も多いと思います。マタイによる福音書第5章38−41には

5:38

『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:39
しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。

5:40
あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。

5:41
もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。

とあります(Wikisource)。「倍返し(半分返し)」というか、博愛の思想でしょうか。

でも、最近の日本でも、被害者の親族が「無期懲役」の判決に対して、「死刑にするべきだ」とか、「いくら殺しても足りない」的な反応があります。私自身も殴られたら、我慢できる時は我慢するけど、カーッとなったときには、1発殴られたら2,3発殴り返さないと気が収まらない、という気持ちになるでしょう。1発殴られたから1発殴り返す、それで「おあいこ(お相子)」、というのはなかなか難しいのではないでしょうか。ハンムラビ法典が作られた頃にも、羊を1匹殺されたときに、相手のもっている羊を全部殺しちゃった、とか、殴られて歯が折れたときに、相手を刺し殺しちゃったとかということがあったのでしょう。「目には目を、歯には歯を」という法律は「復習しなさい」という法律ではなくて、「それ以上やっちゃいけないよ」という規定だというのが、今主流の「解釈」です。ハンムラビ法典で面白いのは

第199条 もし彼がほかの人の奴隷の目を損なったか、骨を折ったならば、彼はその(奴隷の)値段の半額を払わなければならない。

第200条 もし彼(自由人、奴隷じゃない人ーー引用者)がほかの人(自由人)の歯を折ったならば、彼は彼の歯を折らなければならない。

第201条 もし彼がほかの人(自由人)の歯を折ったならば、彼は銀三分の一マナ(約167グラム)を支払わなければならない。

と、「歯」を「銀(お金)」と対等(等価)だとしているところです。いわゆる「弁償金(罰金)」ですね。いまでは「当り前」だと思えますが、「殴られて」「歯が折れた」ことと「銀(お金)」が対等たというのはとても西欧・中東的な発想かもしれません。そうなら、「殴られたら、殺してやりたい」と思う私の発想は、東洋的なのかもしれません。ハンムラビ法典が中東の思想で、同じように中東の思想であるキリスト教と合体してギリシアやローマに伝わる段階で変容を受けたことは間違いありません。ビルを2,3個爆破されただけで、相手の国土を焼け野原にしちゃう欧米の国もありますから。

古典の「解釈」には、現在生きている人の、生きている社会の「主観的判断(感情)」が入るのです。

重大事件?

実は、昨日、ちょっと調子が良かったので、この文章を結構書き進めたのですが(その前日は一行も書けなかった)、今日パソコンを立ち上げてみると、昨日追加したところがすっかり消えていました。2重、3重にバックアップを取っていたのですが、どれにも追加した文章がバックアップされていません。ショックです。ちょっと鬱になりかけていなのが、回復の兆しが見えたかなと思った途端に突き落とされました。

この文章は自作のjavascriptプログラムで書いています。動作がおかしかったのですが、確認できずに中途半端にしていました。それが原因だったようです。何事も中途半端はいけません。

紙にメモしておけば、消えることはなかったのに、と後悔しても消えたデータは戻ってきません。自分で書いたものなので、もう一度書けるはずなのですが、昨日は昨日の気分で書いていますから、同じものは書けないと思ってしまいます。

残る文字と発音(ことば)の変化

文字は、「ことばや気持ちの固定」です。それは、時間や空間を超えていまの私の気持ちを固定化して「だれか」、他の人でもいいし、未来の自分でもいいのですが、に伝えることができます。声が届かないような遠くの人にも伝えることができます。

「文字は手紙を書く必要から生まれたとシュメル人は考えていたことになる。」(『シュメル ー人類最古の文明』カール・セーガン著)。でも、それは「宇宙人」という現代の考えがない時代にありえない記憶です。昔なら「マリヤ様(あるいは魔女)に会った」でしょうか。

「記憶力」というのは、記憶の量と質です。記憶力の高い人がいますが、人間の記憶力には限界があります。発した途端に消えてしまう「ことば」と違って、文字に固定されたもの(これを「記録」と呼びます)はどんどん蓄積することができます。紙がある限り書くことができるし、ハードディスクの容量がある限りデータを保存することができます。この「ある限り」というのが重要で、前述のように「トラブル」があると消えてしまいます。

プラトンの著作は残っていません。『老子』も『論語』も残っていません。『古事記』も『源氏物語』も原本は残っていません。それを今読むことができるのは「写本」があるからです。つまり、再生産されないものはどんどん失われていくのです。ハードディスクのデータも、DVDも、映画のフィルムも、記念写真も「再生産」されないかぎり消えていくのです。ところが、そういう意識はなかなか生まれません。なんか「保存」したら「永遠」に残るように錯覚します。それを「新しいもの」を作ることに一生懸命な、新しいものを作ることによってなりたっている「資本主義の宿命・本性」と言われることもあります。私はそれを否定しません。ただ、そこには文字が持つ「特性」があるように思います。そして、それを「近代までは」多くの人々は受け入れがたいと思ってきたのではないでしょうか。

記録したものは永遠に残る、という「想い」は、〈私〉というものが「永遠」である、ありたい、死ぬことはわかっているが、考えない、という「想い」と共通しているように思います。

発音(ことば)の変化

文字は変化せずに残り続けますが、「ことば」の方は変化してきます。昨日の私と今日の私が違うように。10年前の私と10年後の私(もう存在しないかも)が違うように。

日本でテレビの本放送が始まって、約70年です。70年前のニュースの音声を聞いたら、きっと「古いな」と感じるでしょう。それは音質の問題だけじゃないと思います。ことばは変わっていくのです。

日本では「キリギリス」と「コオ(ホ)ロギ」、「鈴虫」と「松虫」が入れ替わったりしています(「コオロギは昔キリギリスだった? 虫の呼び名の謎」日経電子版)。実体が入れ替わることはまれでしょうが、対象が変化するのは当たり前です。音価やイントネーション、発音の長さはどんどん変化します。日本語の母音体系が「あいうえお」の5音ではなくて8音だった(『日本語の起源』大野晋著)影響は今も残っています。私はむしろ、文字がことばに与えた影響もある(相互作用)と考えています。テレビ放送が始まってからの変化は皆さんが気づいていることだと思うのですが。方言の衰退とともに地方文化の衰退が懸念されていますが、方言はもともと「50音」には収まりません。文字(50音)で表されるように、TVや小説に書かれるように、言葉が変わっているようです。

「英語のなかでは十二通りの母音があるが、そのアルファベットは、ラテン語と同数の五箇しか母音記号をもっていない。」(P.119)

もともと、アルファベットでは英語を表現することはできないのです。フランス語やドイツ語は「アクサン」や「ウムラウト」で補っていますが、英語にはそういうものすらありません。

さらに、ことば自体が変化することによって、二つの文字が同じ音価を表したり、一つの文字が二つの音価を表したりすることになります。綴りと発音はつねに乖離していくのです。

「英語の綴方がそれほどひどいのはなぜだろうか、またこれをどう始末したらよいのだろうか。

表音式綴り方の体系というものは、何れを問わず、たえず改革がつづけられないかぎり、やがては時代おくれになってしまう、ということを心にとめておくがよい。この事実は、その体系の性質自体から生ずるものである。(中略)しかしあらゆる言語の音は変わりやすいものである。」(P.120)

英語では、アルファベットがわかっても、多くの単語は「暗記」しなければ読めないということです。私の外国語アレルギーは、学校で英語を教えられたことに一因がある気がしてきます。

中国と日本

それでは表音文字(この本では音標文字)ではなく、表意文字ではどうでしょうか。

「話し言葉の標準形としての北京語さえ、中国人の三分の一にしか知られていない。たとえば北京出身の中国人と南部出身の中国人がであったとしよう。彼らはたがいに相手の言葉が通じないのである。しかし相手の文字なら理解するだろう。なぜならば、文字こそ全中国を通じて標準文字語であるからである。もしも官庁の告示を彼らが見たならば、二人とも自分の方言の音をその文字にあてはめて、読みとることができるのである。」(P.62)

「このようにして漢字は中国人に(いやしくも字の読める人であるかぎり)、自国の古典の知識を、すなわちわれわれには容易に推しはかれそうもない意味を中国人の生活のなかにおいて、持っている知識を享受させたのである。さらに、それは行政上の長所をもっていた。一般的に知られている標準口語がないので、文字が共通の媒介手段を提供することができた。」(P.111)

中国の強さはこんなところにもあるのでしょう。ただし、

「中国では、ただ読み方をならう仕事だけに大変な労力がうちこまれる、このことが、教育の普及といい、一般に国内の諸条件の改善といい、つねに重大な不便となっていた。」(P.108)

英語はどうでしょうか。

「われわれにとっては、特殊な訓練でも受けないかぎり、ベオウルフはいうにおよばず、チョーサーでさえも読解することができない。彼らのつかう言語は今日の英語とちがっている、それであるから、その記号形式も異なっている。ひるがえって、中国の方はこんなに目立つ変化をこうむらなかった。それの理由は、この国が比較的孤立していたこと、またこの国語が文法形式をほとんど完全に欠いているということである。」(P.109-110)

「文法形式ほとんど完全に欠いている」かどうかは別として、英語でも古い文献は読めないんですね。日本でも『古事記』や『源氏物語』を読める人は、「特殊な訓練を受け」た人ですね。著者は日本の驚異的な文盲率の減少を高く評価しています(「文盲率」のいい加減さも述べています「なぜならば、この数字は、文盲者を構成することの基準がわかれているからである。」(P.155))。

「日本は、難しい文字形式をもっている場合でも、文盲撲滅にどれほどのことを達成できるか、ということを示すのに、よい例の国である。日本文字はふるい漢字体系と、それにもつづく音節文字とのごった煮であり、したがって半分は語標的であって、あとの半分は表音式である、余りにふくざつなので、大衆向刊行物(たとえば新聞)などでは、一つの語を二つの方法でかくのが普通である。最初には漢字で、そのつぎにはその語の音を示すための日本の音節文字(カナーー訳者)というふうに。これは、もとから日本の言葉と、日本語のなかにある数多くの中国語からの派生語とを区別する助けになる。しかしながら、その障害にもかかわらず、徴集兵のなかには文盲がほとんど存在しないといってよい。この字体をローマ字にあらためる方法も提唱されており、やがてはこれが勢力をえるかもしれない、なぜならば、ここでは中国ほど、克服しなければならない強い反対論が存在しないからである。」(P.164)

GHQは「漢字廃止論」を主張しましたが、幸いなことに(?)漢字文化は残っています。反対論が強かったようです。もっとも、当用漢字(のちの常用漢字)や教育漢字(学習漢字)等で、一定の制限はされているし、難しい漢字の使用は避ける傾向が強いです。中国でも1950年代以降、簡体字(简体字)が制定されていますが、公文書を除いて、漢字の使用法はまちまちのようです。この辺の話は阿辻哲次さんの『中国文字文化論Youtube』が詳しくて面白いです。

文字の価値

「読み書きが最高度に普及した国が産業方面で、もっとも完全な発展をとげている国でもある。
 さいごに、読み書きの普及にたいする高度な要求は、民主主義理念の擡頭の一面として、政治的でもあった。その要求は、一国の統治が、その国民のうちのきわめて少数者の伝統的な特権であるという見解に反対した人々の間で、必然的に強くなった。というのは、読み書きの知識がないかぎり、人民大衆が、数の上でいかに多かろうとも、文字を通じた少数者の掌中ににぎられて、政治的には依然として効果がないままであったからである。」(P.153)

「読み書きを永遠で有益なものにするためには、その知識が国民生活一般と関係をもたねばならない。それはにぶくならないように、たえず正しく使いつけておかなければならない一つの道具なのである。」(P.165)

文字は「道具」なのです。それが「産業の発展」をうながし、「民主主義」の基礎となるものです。

「さいごに、いっそう安定した社会形態のために、法律の法典化がおこなわれた、こうした社会では、権力者個人の気まぐれが、人々を一定の公示された制限に服従させた。ある法律が適用される際に、ある成員にとって不公平であったとしても、自分らの地位がなんであるかを知る上には、それさえ彼らに利益であった。」(P.145)

これも否定はしません。しかし、「産業の発展」が諸手を挙げて歓迎するだけにはいかないこともお分かりいただけると思います。文字は「道具」です。「馬鹿と鋏は使いよう」という差別的なことわざがあります。道具はたしかに使い方が必要です。使い方を間違えると怪我をします。でも、その差別性や危険性が「道具」そのものだったらどうでしょう。核技術は「原発ならOK」「原爆ならNG」という意見があります。両方NGの人も、両方OKな人もいるでしょう。プロメテウスが天界から人間にもたらした火は私たちの生活を豊かにしてくれました。でも、マッチ一本でも「やけど」をすることがありますし、大火事を起こすことができます。

道具はたしかに「使いよう」です。火は文字のズ〜ッと以前からあったと思います。原発は間違いなく「文字文化」が生み出したものです。「産業」といわれるものもほとんどが「文字文化」が生み出したものです。ですから、私は原発や、資本主義社会を考えるときに、「文字」をどう評価するのかが大切だと思っています。どういう文字を使っているかではなくて、「文字というもの」そのものです。

便利(いま、感じていること)

話はずれますし、まだ整理がついていないことなのですが、メモ的に記録しておきます。

先ほど朝食を食べながらテレビを見ていたら、「ロボット喫茶店」が紹介されていました(正式な店名は忘れました)。ロボットが接客をし、コーヒーを入れ、お客様に提供をします。といっても、プログラムされたロボットが「自動で」動くのではありません。そのロボットはリモコンで、操縦するのは全国にいる「身体に障害のある人」「様々な理由で在宅での勤務を余儀なくされている人」です。まさしくロボットが操縦者の手足(の延長)として働いているのです。職場(工場)にロボットが導入されて失業する、というのとはちょっとちがいますね。

手元にあった新聞には、「お風呂の警報機」が紹介されていました。高齢者などがオフロに入っていて具合が悪くなったときにボタンを押すと家族と通話できるという装置です。「高齢の家族がお風呂が長いと思って見てみたら、気を失っていた。それをきっかけに開発した」というような紹介がされていました。気を失う人がボタンを押して、会話ができるのかどうかは疑問ですが、前述したTVのリモコン同様、手元で操作できるのは便利です。

最近は、近づくと蓋が開く便器やゴミ箱まであります。自動ドアはもう当たり前ですね。最近は自動ドアの事故も問題になっていますが。先月だったか、地下鉄の放火殺傷事件ではドアが開かなかったことと、線路への転落防止柵が問題になりました。

「論理」、「理性」、「合理」、「便利。日本語では、みんな「り」がついています。最初の3つは「理」がついていますが、これは西周の翻訳でその翻訳理由にはそれぞれ深い意味がありそうです。なんか、西周の手のなかで遊んでいる感じもします。「便利」は「利」ですが、これはたぶん仏教用語で、他の3つよりずっと昔から使われてきた言葉です。

英語でいうと「logic」「reason」「rationally、reason」「convenient、useful」です。

「logic(λόγος)」が「論理」なのは明らかなのですが、これの意味がとても広いのです。「ことば」なのです。何だって口から出せば「ことば」です。「始めに言葉ありき」というのは、「私たちは人間で、人間が語っているんだよ」という意味しかありません。つまり、「なんか、わからないけど、すべてここからはじまるようなものが、根源的なものがあったことにしよう。それが何かはわからないし、「あった」といえるかどうかもわからないものだ、とにかく、考える前のものがあったんだ。」程度の意味だろうと思います。もう人間がことばを話す前に、あるいはことばを話すと同時に、なにかがあったんです。それは人間にとっては「ことば」としか言うことができないものなのです。

「reason」はラテン語の「ratio」ですが、これはギリシャ語の「λόγος」を当時のラテン語に当てはめたものです。「λόγος」と「ratio」は言語が違うのですから、意味も当然違います。それぞれの生活や文化のなかで意味づけされたことばですから。「雨」と「rain」は違うのです。雨という現象は同じでもそのことばで感じるものは違うのです。地域によって、季節によって、状況によって、心の持ちようによって、異なります。砂漠での雨と日本の梅雨の雨は違うでしょ。心が洗い流されるような雨もあれば、気持ちを暗くする雨もあります。でも、「恵みの雨」というに本語が表しているように、それが自分たちや動植物の「生きる」ことにかかわっていることは世界中で同じだと思います。

「rationally」は「理(ratio)にかなっていること」です。最近は「利にかなっていること」だと思っている人が多い気がします。「経済的」という言葉が「低価格」という意味で捉えられているように。

「便利」、あるいは「簡単」を加えて「簡便」ということもあります。これを「論理」と関連付けるのが面倒なのです。なんせ、西欧的な概念ではないのですから。「便利」というのは、ウンコ(大小便)がすっと出ることだそうです。「分かる(知る)」となんか、気持ちがいいというのは大小便のあとの「すーっ」「ほっ」とする感じと共通ですよね。英語では「useful」かと思っていたのですが、「convenient」という意味が強いようです。「近くて便利」というCMは「なるほど」と思いました。

何ごとかが、支障なく流れていくことです。排便は楽しいことじゃないけど、スムースにできた時は気持ちがいいです。でも、普段は「当り前」だと思ってしまって、それほど気にしません。でも、便秘の時は「重大な問題」です。これは、ことばにしようがしまいが直接肉体に関わることです。言葉以前のものといえるかもしれません。それをことば(ロゴス)にするときには文化の影響を受けます。どこでいつウンコをするのかは文化の問題だからです。

もうひとつの糞尿であるおしっこ。これもスムースに出る時は気持ちがいいです。尿管結石なんかで痛い時は大変です。おしっこよりウンコのほうが我慢しやすいのは、肛門の括約筋があるからですよね。男は前立腺があるので、結構おしっこも我慢できます。我慢すればするほど、出した時の快感が大きいのですが、我慢しすぎると膀胱炎になります。女性は前立腺がないので、それほど我慢はできないようです。その分、膀胱で我慢しているのでしょうか。女性が膀胱炎になりやすいのは、そのへんに原因がありそうです。尿道が短いので、感染症になりやすいということもあるでしょう。

射精も同じようなものですが、女性はどうなのでしょう。また、我慢すればするほど「気持ちいい」かどうかは微妙です(「禁欲」と「寸止め」では異なる気がします)。

言葉にするときには「快」とか「不快」となります。「快」というのは2つの意味がありそうです。肉体的な快楽と精神的な快楽です。「論理」や「合理」は精神的な「快」、「便利」は精神的な快と肉体的な快とが混ざっているように思えます。

プラトンの対話篇ではソクラテスがさまざまに「問題」というか、「クイズ」を投げかけていますが、その一つが「快」です。あと「善」「美」、その3つが中心です。ソクラテスは、なんとかして、その肉体的な快と精神的な快を結びつけようとしますが、できません。そうして、精神的な快を善、美と結びつけ、肉体的な快は2次的なものとします。今日、ポテトチップスが美味しくてバリバリ食べるのは「快」ですが、明日体重計に乗って落ち込むとそれは「悪」になるからです。逆に、今日ポテトチップスを我慢するのは「不快」ですが、明日体重計に乗ったときに、それが「善」になるといった具合です。だから、「理性」で肉体的な「快」を克服しよう、ということになります。精神的な快はプラトンとアリストテレスによって、「知」「理」、「ロゴス」と結びつけます。「ロジック」「論理」です。つまり「ロジカルなもの」「論理的なもの」が「快」です。私は「論理」と「理性」の関係を明確にできないでいますが、「理性的なもの」、それが「合理」となります。そしてそれが、近代で「合理的なのも」=「科学的なもの」=「便利なもの」となります。そこではまた肉体的な快と精神的なものが混ざってきます。だとすれば、「便利なもの」と言ったときに、それが肉体的なものか、精神的なものかを識別することができます。つまり、理性で説明できるものと、感覚でしか説明できないものがあります。そうすると、「便利だね」というものには、大抵2面性があることがわかります。前述の3つの例で、その2面を探してみるのも面白いと思います。

技術

次にもうひとつ、人間が作った技術で、人間が制御できるもの、できないもの、ここまでは制御できるという限界があるもの、があります。薬というのは、たいてい、使用量が決まっています。それを越えると大抵は「毒」になります。火も同じですね。ストーブや料理に使うなら「益」だけど、家を燃やすのは「害」です。

その境目を決めるのが、「用量用法」です。だから、「用量用法」を決めるのはとても大変です。出荷してから、「2回で効かなければ、3回打てばいいんじゃない」というような薬は、かぎりなく「インチキ」の臭いがします。

技術とどう付き合うかは、永遠の課題かもしれません。自らを滅ぼすような技術を手にしたときにどうするのか。それを封印するのか、制御するのか。それは可能でしょうか。封印や制御をするとすれば、封印や制御をするのは、だれ、あるいは何なのか。それが「理性」ということになるのでしょう。

封印は可能でしょうか。「手に入れたものを使わないでいること」の難しさはみなさんもおわかりになるのではないでしょうか。これも、「理性」に頼ることができるのでしょうか。私には難しいです。今日も新聞に「情報漏えい」のニュースがでていました。それがお金のためか、正義のためか、単なるいたずらか、わかりません。理由はどうあれ、何かを隠すのはとても難しいことです。みんなが「欲しがる」からです。芸能人のスキャンダルから、軍事秘密まで、需要があるのです(需要は供給によって作られるという視点はとても大切です)。

制御は可能でしょうか。これも難しいです。マッチ一本どころか、私は自分の手足も、ことばも制御しているとはいい難いです。「思考」に至っては、手のつけようがありません。目は自然と女性のおっぱいに向き、耳は女性の声に鋭く反応します。「人間は見たいものを見る」そうです。「見たくないもの」は見えないのです。「何を見たいか」がいったん形成されると、それを自然と探します。群衆のなかに好きな女の子を探します。そのくせ、好きな女の子の「好きなところだけ」を見ていたりもします。

「私はやけどをしたこともないし、彼女・彼氏のすべてを見ている」という人もいるかも知れません。それはそれで一つの生き方であることは否定しません。でも、「だから、他の人もマッチでやけどしない、すべてを見てる」と思うことははっきりと「否定したい」と思います。

科学

文字が与えたもう一つのものは、技術のもとになる「知識」の塊、つまり「科学」です。

いまは、モノが溢れている時代です。それを実現したのが、近代からの科学の発展です。私は「高度経済成長時代」に育ちました。鉄腕アトムや鉄人28号に憧れて、科学技術が発展した「バラ色の未来」を夢見ていました。学校でも「未来の絵」を何度も描かされました。そこには、高架の高速道路が絡み合い、空飛ぶ自動車が行き交っていました。

夢を見ていましたが、現実の生活は、常に満足できるものではありませんでした。テレビではアメリカのホームドラマが流れ、アメリカの中流階級の暮らしを「明るく」映し出していました。いくつかの「三種の神器」が次々と現れ、消費が美徳とされました。「所得倍増計画」が出され、物価が倍増しました。

これは、果てがないのです。なぜなら、「未来は今よりいい」と思っているからです。常に「明日は今日より良い」のですから、今日満足することはありません。

それは昨日より、今日はいいということになるのですが、それが「新しいものはいい」という発想になります。大人は過去を生き、子供は将来を生きます。ですから、子供は親を「古い」と蔑視します。その親が「自分の将来」であると気づくことはありません。「自分は親とは違う」と思い続けます。親が作った「不満足な現実社会」ではない「新しいよりよい社会」を作ろうとします。科学が発展すれば、モノが溢れ、貧困がなくなると信じていました。

いま、モノは溢れています。では貧困はなくなったでしょうか。貧困がなくならないのは、生産ではなく分配が不公平だからだと言われます。分配がうまく行けば、みんなが豊かになる、と考えているようです。私もそう考えていました。

でも、そばに近づくと蓋が開くゴミ箱を見て、「便利」と思うより、「そんなに蓋を開けるの面倒なのかな」と思いました。それは本当に「楽」なのかと。ゴミ箱まで行かなければならないのですから、蓋を開けることより、ゴミ箱のところまで行くのが面倒です。近いうちに、「アレ○サ、ごみ!」と叫ぶと、ゴミ箱が近づいてくるかもしれません。でも、これは豊かさでしょうか。

「それが豊かさだ」といいはる人もいるでしょう。それはそれでいい。ただ、それを作るために多くの「人手」と「資源」が使われているのは事実です。私がゴミ箱に行く「手間」と、動くゴミ箱を作ることにかかる「人手」とはどちらが大きいでしょうか。ましてや、私はその「電動ゴミ箱」を買うために、働かなければならないのです。

コロナ禍(と言われるもの)で、デリバリーが大流行です。自分がレストランに行く代わりに、料理が自分の家に来るのです。それには、料理を配達する人が必要です(私のように田舎に住んでいるとデリバリーは頼めませんが)。コンビニや、デリバリーがもっと盛んになれば、食材の小売がなくなるかもしれません。田舎に住んでいる人は、いまより高い食材を買わなければならなくなるでしょう。

私が言いたいのは、どこかが「豊か」になれば、同じだけどこかが「貧しく」なるのではないか、ということです。相対的に貧しくなる、という意味ではありません。プラスマイナスゼロで「何も増えていない」ということです。それは科学そのものが法則として、その基礎においていたものです。「質量不変の法則」とか「エネルギー不変の法則」とかが打ち破られることはないのです(アインシュタインの特殊相対性理論はその2つを一つにしたものです)。

それでも、いまだ科学は「無から有を作り出そう」としています。少なくとも資本主義は、「永遠に自己増殖し続けるもの」だと信じています。その始まりだけは、「天地創造」にあるとでも言わんばかりに。ニュートンの錬金術を科学は内に秘めているのです。

「文字」が私たちにあたえたもの

科学(Wissenschaft)には「文字」が必要です。自然を知る(Wissen)ためではなく、自然から「人間」を、「理性」を、「自我」を切り離し続けるために必要なのです。

文字によって、私たちは訪れたことのない国、身近にない花、したことのない恋、等々を「知る」ことができます。まさに自分が体験したかのように。そしてその情報・データは消えることなく、どんどん蓄積されていきます(蓄積されているように思えます)。国会図書館にも、大英図書館にもどんどん本が蓄積されています。

それによって、私たちの知識は増えているのでしょうか。パリのどこそこには何々という橋があって、そこに恋人たちが鍵をかける、・・・という知識があるのと、パリを訪れることは同じですか。お互いを愛し合い、憎み合い、殺し合うような恋のものがたりを読むのと、実際の恋は同じですか。

同じだ、という人もいます。区別はつかないと。現実と虚構の区別はつけにくいのです。映画『マトリックス』がヒットしたのは、その不安を描いているからですね。映画では、主人公が「辛い現実」に目覚めるかどうかを問われます。自分が見ている、考えている世界が本当かどうかもわからないのです。〈私〉が存在(実在)するかどうかすら確証がないのです。

フロイトは、デカルトが仮定した〈自我(ego)〉すら、信じられなかったのです。さらにラカンは現実を「現実界」に貶めてしまいます。外部を内部化し、内部を外部化します。つまり、わけがわからなくなります。自分が寄って立つものがないのです。なぜそんなことになるのでしょうか。それは、内部を「文字」で外在化してしまうからです。

ある「出来事」、体験でもいいし、モノでもいいし、認識でも嗜好でも想像でもいいのですが、それを「叙述」あるいは「言語化」することはできません。「叙述」や「言語化」そのものが「出来事」だからです。それは一つの「全体」であり、他の「部分」です。日本には「百聞は一見にしかず」ということわざがあります(英語に同様の表現があるのでしょうか)。現実に体験した恋は、本で読む恋とは違います。でも、それぞれがひとつの「出来事」です。

プラトンやカエサルの不安は、『マトリックス』のネオの葛藤と同じです。〈自我〉を設定する限り、〈他者〉は圧倒的な「否定」として〈自我〉を抹消しようとするのです。膨大な本の前に立ち尽くす自分、膨大なパソコンデータに翻弄される自分、膨大な商品、そして「お金」を前にしてそれに従ってしまう自分。自分は「全て」でありながら「限りなく小さい」ものとして現れます。「能動的主体」としての自分は、「文字」とその蓄積が生み出したものです。

膨大なデータの前では、人間の記憶は一つの「有限」として現れます。でも、それは一つの自然として「与えられたもの」(datumの集まり、つまりdata)として現れるのです。

本の中の恋と、自分の恋、それはホームに停まっている電車が動き出したときに、自分の乗っている電車が動き出したのか、窓から見える隣の電車が動き出したのか、の違いです。どちらが動き出したかがわからずに、初めは頭がくらくらします。「めまい」が生じます。その違いは、自分が感じる「加速度」なのですが、なかなか頭が追いつきません。その「加速度」をアインシュタインは一般相対性理論で描こうとしました。でも、同じ加速度を受けていると、加速度そのものを感じなくなるのです。地球が動いているなんて、考えることはできても「感じる」ことはできないのです。

文字の中にいる時、本を読むときでもテレビを見ているときでもスマホを見ているときでも、それは一つの現実、「出来事」です。それを否定する何物もありません。

もし、文字が私たちから切り離した自然を取り戻す可能性があるとすれば、それは「加速度」(「皮膚感覚」と言ってもいいし、「実践」と言ってもいいです)なのかもしれません。








[著者等(プロフィール)]

ねずまさし[wiki(JP)]
A. C. Moorhouse[wiki(US)]



目次 / (0008.jp2)
第一部 文字の形 / p1 (0011.jp2)
第一章 文字のなりたち / p2 (0012.jp2)
第一節 視覚による伝達手段としての文字――キープス――棒ごよみ / p2 (0012.jp2)
第二節 絵画における文字の起原――北アメリカの資料――ナルメル王の化粧皿 / p6 (0014.jp2)
第三節 絵文字と表意文字 / p13 (0017.jp2)
第四節 文字と言語――エジプトとメキシコにおける音標文字の出現 / p21 (0021.jp2)
第五節 バビロニヤと中国における音節文字方式――アルファベット文字 / p26 (0024.jp2)
第六節 文字の進化のおそいこと――文字の後退――各種の段階の重複 / p30 (0026.jp2)
第二章 アルファベット以前の文字 / p36 (0029.jp2)
第一節 アルファベット以前という意味 / p36 (0029.jp2)
第二節 クレタ文字――一般に解読する時に使う二つの国語 / p37 (0029.jp2)
第三節 ヒッタイト人、マヤ人、アズテック人の表意文字 / p44 (0033.jp2)
第四節 クサビ形文字――記号の形の発展――限定詞の使用――この方式の普及――古代ペルシャ語 / p50 (0036.jp2)
第五節 中国文字――初期の表音文字法――言語の文字に与えた影響と表意文字法への逆転――中国で普及している文字の理解 / p58 (0040.jp2)
第三章 アルファベットの歴史 / p63 (0042.jp2)
第一節 すべてのアルファベットの単一な起原 / p63 (0042.jp2)
第二節 エジプトの象形文字――文字選択法の変種――限定詞――単一子音音標文字――書体の後部の切捨て / p66 (0044.jp2)
第三節 シナイ文字――セム語との関係――子音記号をもったアルファベットの出現 / p73 (0047.jp2)
第四節 ギリシャ人が加えた改革――母音の採用――かき方の方向――ラテン・アルファベット / p81 (0051.jp2)
第五節 イギリス諸島と特別な関係のある書体ルーン文字とオーガム文字 / p86 (0054.jp2)
第六節 シリル文字、アラビア文字、インド文字、エチオピア文字 / p90 (0056.jp2)
第七節 文字のアルファベット形の系統表 / p96 (0059.jp2)
第二部 文宇の用途 / p99 (0060.jp2)
第四章 文字の作用 / p100 (0061.jp2)
第一節 絵画記号法と表意文字法の利点と欠点――アメリカ・インディアンとイースター島における記録の意味の保存と喪失――文盲民族における記憶力――現代における表意文字法の残存物――数字 / p100 (0061.jp2)
第二節 漢字の維持――書道――この文字の不変性――民族媒介手段としてのこの文字の用途――中国では不向きの音標文字 / p108 (0065.jp2)
第三節 抽象にもとづいたアルファベット――文字を習う最初の困難と音節文字表の相対的容易さ――アルファベットの全般的優越性――特殊な科学的な文字形式 / p113 (0067.jp2)
第四節 ローマ・アルファベットの不十分さ――表音的でない綴りの問題――綴り改革にたいする反対――文字の語標的様相――まちがった綴りと誤った語原――改革の必然性 / p119 (0070.jp2)
第五章 文字の歴史的影響 / p127 (0074.jp2)
第一節 高い文明の基礎としての文字 / p127 (0074.jp2)
第二節 古代メソポタミアにおける文字使用の調査――初期の神殿団体――計算書の保存――クサビ形文字の知識の俗界使用者への普及――商業上の使用――文学上の記載――王室資料と手紙――法律――学問上の用途 / p129 (0075.jp2)
第三節 限られたクサビ形文字の使用者数――アシュール・バニ・パル王と読書力――クサビ形文字の影響の大要 / p142 (0082.jp2)
第四節 エジプトと宗教文学――ギリシャ文学――文明の継続――暗黒時代の文字と教会――商業上の使用の復活――印刷術――宗教改革と宗教上の使命――経済上と政治上の変革 / p146 (0084.jp2)
第六章 文字と識字者の増加 / p154 (0088.jp2)
第一節 識字者の定義――主要国における文盲者の統計 / p154 (0088.jp2)
第二節 最近における文盲退治の発展の大要――ヨーロッパ、ソヴェート、トルコ、インド、中国、日本、アフリカ及びアメリカにおける活動 / p158 (0090.jp2)
参考書 / p171 (0096.jp2)




訳者のことば

「また文字をしることが、同時におくれた社会では生産増加という結果をうみだす、ということについ(FF)て注意しているのも興味のあることである。戦争直後の刊行であるため、最近おこなわれたクレタ文字の解読や中国における漢字の改良の努力については、説明がない。これは訳者が適当に註において説明を加えておいたし、また倉石武四郎先生の『漢字の運命』(岩波新書)を参照していただきたい。」(P.ⅴ-ⅵ)

第一部 文字の形

第一章 文字のなりたち

「中国語は、本質的には、もっぱら単音節語からなりたっており、したがって中(FF)国の音標文字は単音節の音価をもつ。これに反して、エジプト語は多音節語をも合わせてもっていたことから、これは多音節の音標文字をつくる結果となった。」(P.22-23)

「漢字も表音式であるかぎりにおいては、やはり単音節である。」(P.27)__漢字は表意文字だと思っていた。

「そこで今度はいよいよアルファベット式文字の番である。これこそ、当然、今までの長い発展の系列からみのった、申し分のない、完全な成果とみなしてよいものである。アルファベット記号のそれぞれが、一つの母音か、または一つの子音をあらわすという点が、その本質である。もちろん二重子音の記号(たとえば、χ=ksとか、ギリシャ語のφ=ps)という形の例外もあるが、この特殊例はアルファベット方式の存否を制するものではないとして、大目にみてもよかろう。」(P.29)

「われわれはまたアルファベットにも通暁している、これこそもちろん自然淘汰によるのではなく、人間の選択による適者生存へすすむ進化の過程とみなしうる最高の成果である。」(P.30)

「ここで私が後退とよんだものの一例に、単一の音を表す音標記号の増加ということがある。このことは、生きている言語の単語が、すべて時のたつにつれて、音をかえてしまい、事実上新語になりやすいという歴史的事実によるのである。」(P.31)

第二章 アルファベット以前の文字

(クレタ文字)__紀元前三〇〇〇年代

(ヒッタイト)__紀元前二〇〇〇年

(マヤ)__一〜六世紀

(アズテック)__一一〜一六世紀

(スメール(シュメール、シュメル))__紀元前四〇〇〇年紀の末以前

「表意文字と音標文字(ここでは「字原的(扁)および「音標的」(つくり)として知られているが)トアが結合して、一つの複合記号を形成したのである。中国語はこのタイプの記号を二万ないし三万箇もち、それが中国語の文字全体のおよそ九割にあたるのである。」(P.60)

「話し言葉の標準形としての北京語さえ、中国人の三分の一にしか知られていない。たとえば北京出身の中国人と南部出身の中国人がであったとしよう。彼らはたがいに相手の言葉が通じないのである。しかし相手の文字なら理解するだろう。なぜならば、文字こそ全中国を通じて標準文字後であるからである。もしも官庁の告示を彼らが見たならば、二人とも自分の方言の音をその文字にあてはめて、読みとることができるのである。」(P.62)

第三章 アルファベットの歴史

「このセム系アルファベットは中東、特にシリアとパレスチナにおいて前二〇〇〇年紀の最後に使用されていた。われわれにいわせればセム系アルファベットのうちで、もっとも重要なものはフェニキアのアルファベットである。」(P.63)

「エジプト文字は三種の書体、すなわち象形文字(ヒエログリフ)と、それからうまれた行書体(ヒエラチック)と通俗文字(デモチック、草書体)からなっている。一番ふるい象形文字の由来は前四〇〇〇年頃にさかのぼるかもしれない。」(P.66)

「通俗文字(デモチック)はさらに別の形の草書体であって、前六世紀において、当時使用中のあいまいなヒエラチックにかわるために、つくられたのである。」(P.67)

「ふつうエジプト文字では、母音が表示されなかった。この理由は、エジプト語という言語が、同じ根本概念をもった別々の語を区別するために、主として母音を用いたからである。」(P.70)

「ギリシャ語がセム語の名称を踏襲したという事実は、偶然にも、ギリシャ語のアルファベットが実際にセム語に由来することのもっとも強い証拠の一つなのである。」(P.78)

「今までに発見されたセム語の最古の例(北シリアのビブロス町)は前一三世紀の遺物である。その字体は、がんらい母音にあたる記号をもっていないという点で一致している。」(P.79)

「現代のローマ・アルファベットはラテン・アルファベットの直系子孫である。」「すなわち、われわれの手で書いたり、印刷本の大部分をなす小文字をうみだしたのである。その発達をうながした主要動機は、一字一字おわるたびに、ペンをはなさずに書きたいという欲求であった。」(P.86)

第二部 文字の用途

第四章 文字の作用

「それにもかかわらず、伝達に絵を利用するとなると、きびしい限界につきあたる、がんらい多くの概念は絵でしめすことが、むつかしいとか、または不可能(たとえば、この前の文章にふくれた概念などは示したくても、できまいが!)だということを別にしても、絵の意味がなんであるかを忘れる場合がありうる。」(P.101)

(プラトン『ファイドロス』)「すなわち文字の使用が、必要に応じて、事実を思い出すことを容易にはするものの、完全な記憶から生じる真実の、また精通した知識を破壊してしまう、と言っている。しかしながら、われわれとしては、記憶の重荷をまぬがれたということが、実は人間にとって純粋の祝福であったことを、なんらうたがう必要はない。文字は個人および種族の記憶の範囲を、ともに拡大してきたのである。」(P.104)__「体験していない記憶」が「真実」であるというのは、一つのイデオロギーだと思う。

(カエサル『ガリア戦記』)(ドルイド僧)「彼等は民衆の中にその教義がもたらされることを喜ばないのと、学ぶものが文字に頼って記憶力を培はなくなることを欲しないのと、その二つである。実に多くの人々は文字の助けにより、熟達の努力と記憶力とをゆるめてしまふ。」(P.105)

(標識などの表意文字に比べて)「表音記号では、うてばひびくように、その意味を切実に感じとらせることはできない」(P.106)

(P.107)__近代。連続と断絶。ヒエログラフは「忘れられた」。その理由。中国の2千年前のミイラ。

「中国では、ただ読み方をならう仕事だけに大変な労力がうちこまれる、このことが、教育の普及といい、一般に国内の諸条件の改善といい、つねに重大な不便となっていた。」(P.108)

「中国では書道は、依然として最高の評価をあたえられてきた。事実、風景画も、本当のところ、書道の一部門とみなされており、しばしば、詩から抜萃した文句が、文学的理由からばかりでなく、同時に文字の美しさのために、風景に書き添えられることもある。そこへいくと、われわれのアルファベットは、飾り気のない、無味乾燥な格好をしている。」(P.109)

「アリストテレス時代のギリシャ語だけに通じている研究者も、ひと度ホーマー時代のギリシャ語にたちむかうと、用語の点でも、音や文法形式の点でも、ただちにとまどってしまうことになる。またアリストテレス時代にもっと近(FF)いほかのギリシャ人の著作、いやアリストテレスと同時代のものに相対しても、それらが別の文語で書かれているかぎり、おなじような困難にぶつかることになる。この困難はすべてギリシャ語の口語体における各種の差別からおこることであろう。なぜならば、文字も口語体にもとづいており、したがって口語体間の差別をそのまま写しかえるだけであるから、それをのぞく上に、何の役にもならないのである。もちろんギリシャ語は多様性が豊かなために、極端な例ではある。ところが、英語でも同じ結果がみられるのである。われわれにとっては、特殊な訓練でも受けないかぎり、ベオウルフはいうにおよばず、チョーサーでさえも読解することができない。彼らのつかう言語は今日の英語とちがっている、それであるから、その記号形式も異なっている。ひるがえって、中国の方はこんなに目立つ変化をこうむらなかった。それの理由は、この国が比較的孤立していたこと、またこの国語が文法形式をほとんど完全に欠いているということである。」(P.109-110)__源氏物語、枕草子

「このようにして漢字は中国人に(いやしくも字の読める人であるかぎり)、自国の古典の知識を、すなわちわれわれには容易に推しはかれそうもない意味を中国人の生活のなかにおいて、持っている知識を享受させたのである。さらに、それは行政上の長所をもっていた。一般的に知られている標準口語がないので、文字が共通の媒介手段を提供することができた。」「中国語の音の種類は非常に少ないために、膨大な数の同音文字をもっている。」(P.111)

「ところでアルファベット方式にたいしても、原則的にたった一つの不満があげられる。それは抽象という考えの上にたっていることである、つまりわれわれが母音と子音という名称で知っているものを、発音しうる最小限度の要素である音節(シラブル)から分離するという、という考えの上にたっていることである。したがってアルファベットのもっともありふれた単位である・BやCやその他の子音は、つかみどころのないものなのである。」(P.113)__子音だけでは発音できない。「抽象化」「理性」の基はこんなところにもあるのかもしれない。

「諸君は子音が一つの音節のなかで作用するのをもたときに、はじめて本当にその存在に気がつくのである。子音の名称をいうためにも、bee、ceeのように特別につくられた音節に組入れなければならない。それ故に、はじめて諸君がアルファベット文字をならうときには、直接には無用の知識を仕入れるわけである。」(P.114)

「音声学者はローマ・アルファベットにあきたらないでいる。その理由は、ローマ・アルファベットは、例えば近代ヨーロッパ諸言語のなかに、いな、英語一つとっても、そのなかにでてくる音をすべて正確に表現できるだけの数には、とうてい足りないからである。」(P.116)__文字(アルファベット)が、逆に、発音を規制(制限)する可能性がある。

「これに反して、英語のなかでは十二通りの母音があるが、そのアルファベットは、ラテン語と同数の五箇しか母音記号をもっていない。」(P.119)

「英語の綴方がそれほどひどいのはなぜだろうか、またこれをどう始末したらよいのだろうか。(LF)表音式綴り方の体系というものは、何れを問わず、たえず改革がつづけられないかぎり、やがては時代おくれになってしまう、ということを心にとめておくがよい。この事実は、その体系の性質自体から生ずるものである。」「しかしあらゆる言語の音は変わりやすいものである。」(P.120)__テレビの不自然な方言

「多分に、私たちの救済はアメリカ合衆国から来そうな気配が一番強い。この国では、書法の伝統がそれほど重くのしかかっていないからである。」(P.126)

第五章 文字の歴史的影響

(スメール)「ただ明らかなことは、彼らの文字独占が消滅するとともに、俗界の権力の王座が僧侶の手から、すべりおち始めたということである。」(P.132)

「バビロニア人と、それから彼らの次のアッシリア人の帝国では、文字が結局、実際には今日役だっているような多様な目的のすべてに用いられた。商業上の用途がまだ目立っていた。」(P.132)

「文学は数百年間、口碑というかたちで続いた。この点を見落とさぬことこそ重要である。その理由は、最近の書物の増加が、われわれをして文字と文学とを、とくに緊密に、むすびつけさせているからである。」(P.144)

「統治の領域で(FF)も、文字は支配者の個人的勢力をますます広くひろげることができた。命令と報告が、行政の中心へ、また中心から、今までよりずっと確実にとどくことができた。」(P.144-145)

「さいごに、いっそう安定した社会形態のために、法律の法典化がおこなわれた、こうした社会では、権力者個人の気まぐれが、人々を一定の公示された制限に服従させた。ある法律が適用される際に、ある成員にとって不公平であったとしても、自分らの地位がなんであるかを知る上には、それさえ彼らに利益であった。」(P.145)__そうなんだけど、真意は不明。

(エジプトの一高官が息子ペピーに書き送った教訓集の主題)「「お前の母のように、文字を愛しなさい」と息子に勧告し、そうすれば、文字の知識を通して「お前はいかなる種類の肉体労働からも解放され、高名な行政長官になることができる」と語っている。」(P.146)__支配、都市、文字とは何か。

「さらにフェニキア人は、地中海域一帯のひろい貿易活動にか(FF)くべからざる補助手段として、文字を用いた。文字の知識がギリシャのつたわったのも、この活動を通じてのことであり、そのおかげで、ギリシャ人の文学を耐久的な形で保存させるという、世界にとって重要な結果を生じたのである。ヨーロッパ文明は、大きくいって、これら二つの源泉地、すなわちパレスチナとギリシャに根ざしている。」(P.147-148)

「すでにのべたように、アメリカ・インディアンとイースター島民とは、ひと度彼らの口碑の連続に切れ目が生じたのを最後として、自分たちの過去の思い出をなくしてしまった。これにたいして、ギリシャの伝統の存続は鋭い対称をなしている。われわれと古代ギリシャ人との間には長い時期がよこたわっており、この時期の間に彼らの文明の(FF)成果は見過ごされ、忘れ去られていた。しかしそれは失われはしなかった。それは文字として保存され、ルネッサンスの時代に、この中断による不都合というものがほとんどおこることなく、あらためて理解しなおすことができた。」(P.148)__ノスタルジー[wiki(JP)]という病気。誰が「切れ目」を作ったか。共同体の破壊を伴わない場合・伴うような切れ目。文字も失われる可能性はある。文字を残したまま失われた文化も多い。ルネッサンス人が「見つけた」自分の起源、西欧はつねに「欠乏」を抱えている。自分の起源もその一つ。「私は誰なのか」。「我思う故に我あり」が抱える寂しさ、欠乏感。

「そこで、文字の諸アルファベット形式を、宣教師が全ヨーロッパにひろめたのであるから、これをはじめてつたえた責任は教会にあった、ということがわかるのである。(FF)歴史のくり返しはここで終わらなかった。暗黒時代に協会によってひろめられた文字の知識は、大衆の利用できないものとされた。」(P.149)__伝わったことによって、失われた地方文化。生まれた欠乏感、自分の小ささ、と依存感。それが宗教を、「大きな宗教」「かぎりなく発展する=しなければならない宗教」を成立させた。それは、支配者の思考であり、文字はそれを表現し、実践(プラチック)となった。

「そこでその原住民の母国語を使うと、ずっとよい結果がえられた。」(P.152)

「次章において示す資料からもわかる通り、読み書きが最高度に普及した国が産業方面で、もっとも完全な発展をとげている国でもある。(LF)さいごに、読み書きの普及にたいする高度な要求は、民主主義理念の擡頭の一面として、政治的でもあった。その要求は、一国の統治が、その国民のうちのきわめて少数者の伝統的な特権であるという見解に反対した人々の間で、必然的に強くなった。というのは、読み書きの知識がないかぎり、人民大衆が、数の上でいかに多かろうとも、文字を通じた少数者の掌中ににぎられて、政治的には依然として効果がないままであったからである。」(P.153)__文字を必要としない人民たち。実現しない過程としての「民主主義」。民主主義はあるという理念、理想。「考えたもの(イデア)は存在する・存在となる」。幽霊も霊魂も存在する。「〈存在〉というイデア」。デモクリトス。自然は〈存在〉ではない。机や私は存在する。「〈自然というもの〉は存在しない」。

(文盲率)「なぜならば、この数字は、文盲者を構成することの基準がわかれているからである。」(P.155)

「アラビア文字はけっしてやさしい書体ではなく、トルコ人にとっては、並はずれて不都合なものであった。その理由は、トルコ語がたくさんの母音をもっているのに対して、この文字の方は、あらゆるセム系アルファベットと同様に、母音の表現がきわめて貧弱であるからである。」(P.161)

「インドでは、商人をふくむ若干のカスト(身分)の方が、商人を含まないそのほかの上級のカストよりも、読み書きが一般にひろまっているという事実は注目に値する。ーー著者註。」(P.162)

「日本は、難しい文字形式をもっている場合でも、文盲撲滅にどれほどのことを達成できるか、ということを示すのに、よい例の国である。日本文字はふるい漢字体系と、それにもつづく音節文字とのごった煮であり、したがって半分は語標的であって、あとの半分は表音式である、余りにふくざつなので、大衆向刊行物(たとえば新聞)などでは、一つの語を二つの方法でかくのが普通である。最初には漢字で、そのつぎにはその語の音を示すための日本の音節文字(カナーー訳者)というふうに。これは、もとから日本の言葉と、日本語のなかにある数多くの中国語からの派生語とを区別する助けになる。しかしながら、その障害にもかかわらず、徴集兵のなかには文盲がほとんど存在しないといってよい。この字体をローマ字にあらためる方法も提唱されており、やがてはこれが勢力をえるかもしれない、なぜならば、ここでは中国ほど、克服しなければならない強い反対論が存在しないからである。」(P.164)

「中国とロシヤの場合にあらわれているように、読み書きを永遠で有益なものにするためには、その知識が国民生活一般と関係をもたねばならない。それはにぶくならないように、たえず正しく使いつけておかなければならない一つの道具なのである。」(P.165)

<end>



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