偶然と必然―現代生物学の思想的問いかけ J.モノー著 渡辺格、村上光彦訳 1972/10/30 みすず書房

偶然と必然―現代生物学の思想的問いかけ J.モノー著 渡辺格、村上光彦訳 1972/10/30

この本について

 "LE HASARD ET LA NÉCESSITÉ" Par Jacques Monod,Éditions du Seuilm Paris 1970の訳です。

裏表紙に、学生時代によく通った古本屋の札がついているので、学生時代に買ったのでしょう。読むのはたぶん2回目です。内容はまったく覚えていませんでしたが、DNAなどの基礎は憶えていたので、生物学の本として読んだのかもしれません。

「本書は、一九六九年二月にカリフォルニア州のポモナ・カレッジで行った一連の講演(《ロビンズ・レクチャーズ》)にもとづいている」(P.ⅶ)とあります。その講演の性格は分かりませんが、当時の最先端の分子生物学にもとづく内容で、50年前ですから、当然生物学の本としては古いものになります。

分子生物学の参考書として読むのなら、ほかにいい本があると思います。

進化論、科学哲学

遺伝情報や、タンパク質合成などの当時の分子生物学の最先端の本ですが、それだけではなく、「生物とは何か」を分子生物学から説明している本でもあります。その意味では福岡伸一さんの本と共通するところがあります。そしてさらに、正統派進化論の考え方を明瞭に述べてもいます。今西進化論と比べると、西欧の進化にかんする考え方がよくわかります。

そしてそれは、西欧における「科学」そのものの考え方に繋がります。論理と倫理の考えかたなど、面白い内容が盛り沢山です。そして、それは西欧的発想、思考法そのものにまで触れています。「知(知識)」「認識」に関する本でもあります。別の言い方をすれば「人間とは何か」を問い直しています。

だが、私が信じているように、あらゆる科学の究極の野心がまさに人間の宇宙に対する関係を解くことにあるとすれば、生物学に中心的な位置を認めなければならなくなる。というのは、あらゆる学問のうちで生物学こそ、《人間の本性》とは何かという問題が形而上学のことばを使わないでも言えるようになるまえに、当然解決されていなければならないような問題の核心に、最も直接的に迫ろうとするからである。(P.ⅲ)

著者は、1965年に述べる生理学・医学賞を受賞しています。その彼がこのような本を書いたのは、学者としての彼の考え方を述べるような立場になったということだけではないと思います。彼は、第2次世界大戦中、レジスタンスとして戦ったようですが、西欧が生みだした一つの結果としてのナチズムとどう戦うかは大切なことだったし、それの一つの変形としてのスターリニズムも、学問をおこなうものとして対決しなければならなかったでしょう。この本にはナチズムにかんする記述はありませんが、「史的唯物論」「弁証法的唯物論」、つまり「科学的社会主義」と言われるものには徹底的に対峙しています。

自然のものと人工のもの

自動車と、蜜蜂の巣の「ハニカム構造」と、水晶の結晶構造を比べて、どれが「自然のもの」でどれが「人工のもの」かを判断するプログラムができるでしょうか。著者の問いかけはここから始まります。

ただ、注意しなければならないのは、「自然(nature)」「人工(art)」などということばがもっている意味は、西欧語と日本語では同じではないということです。

伝来の「自然」は人為と対立し、両立しない。「自然」であるとは、人為的ではない、ということである。一方、natureは、人為art、Kunstと対立するが両立する。と言うよりも、たがいに補い合っている。natureの世界は、artの世界と、対立しつつ補い合う関係である。(『翻訳語成立事情』柳父章著 岩波新書、P.133)

ここでいう「伝来の」というのは、翻訳語ではなくて、もともと日本で使われていた、という意味です。

このことから、また、natureは客体の側に属し、人為のような主体の側と対立するが、伝来の意味の「自然」とは、主体・客体という対立を消し去ったような、言わば主客未分、主客合一の世界である、といえる。(同)

微妙な表現ですが、著者が「科学的方法の基礎的基準、すなわち〈自然〉は客観的〔オブジェクティヴ〕であって意図的〔プロジェクティヴ〕ではない」(P.2)などというときには、この西欧語としての「art」と「nature」(あるいは〈主観〉と〈客観〉)を考えなければなりません。

もっとも、柳父さんの本が出てから40年が経っています。その間に、「自然」ということばを、従来の(伝来の)意味で使うことは減ってきていると思うし、人工物のなかで生活することが「自然(当たり前)」のことになりつつあり、加工食品を「人工物」と思うことが少なくなってきた現在(久野愛著『視覚化する味覚』岩波新書、参照)、その差は縮まってきているのかもしれません。

それでも、人工衛星とピカソの絵がどちらも「アート」であることに違和感を持つ人は、まだまだ多いと思います。

生気説と物活説

どちらもよく分かりません。「生気説」は簡単に言うと、「生き物には《魂》がある」ということでしょうか。「〔生命〕は実在する」と言ったほうがいいのかもしれません。犬や猫に《魂》があると考えるか、植物にも《魂》はあると考えるか、範囲は人それぞれだと思います。《魂》を《こころ》と言いかえると、また範囲はちがってくるかもしれません。日本には、「一寸の虫にも五分の魂」ということわざがありますので、虫までは「魂」があると思われていたのかもしれません(「魂」は西欧の《魂》とは異なります)。

物活説は、もっと範囲が曖昧ですが、「すべてのもの」(生物にも無生物にも)魂・こころがあるということです。逆に言えば、すべてのものは「生きている」、あるいは「意志がある」という考えだろうと思います。モノーは「私はこれを《物活説(アニミスト)》と呼ぶことにする」(P.28)と言っていますので、いわゆる「アニミズム」です。歴史も、生物も、宇宙そのものも「ある意図をもって、合目的的にある方向に向かって進んでいる」ということになります。ヘーゲルの弁証法なんかはまさしく歴史の合目的的方向性の思想だと思います。

したがって、生物というシステムは全面的に極度に保守的かつ自己閉鎖的であり、また外界からのいかなる教えも絶対に受けつけないシステムであるということになる。このシステムは(中略)いっさいの《弁証法的》記述に抵抗し、それに挑戦しているといってよい。それは根底からデカルト的であって、ヘーゲル的ではない。細胞はまさしく機械なのである。(P.128-129)

著者は「熱力学の第二法則」を重視します。いわゆる「エントロピー増大の法則」です。これが、時間の方向性や宇宙進化の方向性を考える基準となります。

したがって、生物圏における進化は時間的に方向性をもった必然的に不可逆な過程である。この方向性は、エントロピーの増大法則、すなわち熱力学第二法則の命ずる方向と同一である。(P.143)

方向性をもっているけれども、機械的である生物の進化とはどういうものなのか、結局モノーの真意は分からなかったのですが、話をつづけます。

量子力学と進化

モノーは進化の要因をいくつか挙げています。そのひとつは、「アロステリック」と言われるものです。

無根拠性という基本的概念、すなわち、機能自体と、それを制御している化学信号とのあいだには化学的には何の関連もないという基本的な概念は、アロステリック酵素にも適用される。(P.89)

このアロステリック相互作用の作動原理によって、そんな制御システムも可能だという意味で、制御にかんする《選択》には完全な自由が許されていることになる。このような制御系は、いっさいの化学的拘束を免れているので、それだけいっそう生理学的要求に従うことができるわけであり、その結果として、それが細胞あるいは生物に与えることのできる今までより以上の首尾一貫性や能率の良さの程度によって淘汰されることになる。このような系の無根拠性そのものが、分子進化の探求と実験にほとんど無限の分野を開いているのである。そして究極的には、分子進化はこの無根拠性のおかげで、莫大なサイバネティクス的相互連絡のネットワークを作りあげていゆくことができたのである。そして、この相互連絡のネットワークによって、すべての生物は自律的な機能単位となり、その働きは科学の法則から免れるとは言わないとしても、それを超越するようなことになったのである。(P.90)

さらにもっと微視的(ミクロ)なことで言うと、

しかしながら、物理学がわれわれに教えるところによれば、(到達できない限界温度である絶対零度以外では)いかなる微視的存在も量子的な乱れをこうむらずにはすまされないのであり、これが巨視的な系の中で蓄積すると、徐々にではあるが間違いなく構造の変化をきたすことになるのである。(P.129-130)

複製のシステムは、微視的擾乱によって不可避的に乱されずにはおられないのであり、それはこれらの擾乱を排除できるどころか、逆にそれを記録して、淘汰ということでその働きを判定する合目的的濾過装置にそれをかけるわけだが、その大部分は無駄に終わってしまうのである。(P.142)

いわゆる「不確定原理」と「ゆらぎ」が、遺伝子に変化を与えるのが「突然変異」だというのです。微視的な偶然が巨視的な必然性になるのは「淘汰」の作用です。

生物は、正確な翻訳を保証している完璧な保存機構をもっているにもかかわらず、やはりこの法則から免れることはできない。多細胞生物の老化と死は、すくなくとも部分的には、翻訳の偶発的な間違いの蓄積ということで説明できる。(P.130)

老化も量子力学的「偶然」の影響を受ける「必然」だということになります。

もしそうならば、生まれてすぐ死んでしまう子供の存在も説明できるし、どこかに「死なない」人間がいる可能性もあることになります。

現実の、他と比較できない唯一の実在である、いまここにあるこの物体が理論と両立しうると言うだけで十分なのである。理論によれば、その物体は存在する義務を有していないが、存在する権利ならば有している。(P.51)

名言です。「なぜ私は存在するのか(存在理由、レゾン・デートル)」はどうでもいい。「親がセックスしたから」とでも説明できればいいのです。それは「必然」です。私が存在することは「義務」ではありません。それは「偶然」かもしれません。でも、私か「いま」「ここに」存在する「権利」はあるのです。

現代の生物学理論によれば、《開示》の概念は、後成的発生には適用されても、もちろん進化的出現には適用されない。進化というのは、それがまさしく本質的な予見不能性から起こってきたという事実によって、絶対的な新しさの創造なのである。(P.135)

モノーがこう言わなければならなかったのは、「進化(evolution、ēvolūtiō)」という言葉自体が、「巻いてあるものを開く」というような意味をもっているからです。進化は、生物に内在している可能性(ポテンシャル)の開化ではなくて、以前にはまったく「なかった」ものが偶然によって作られる、「絶対的な新しさの創造」であることをモノーは強調しているのです。彼が今西進化論を知っていたのかどうかは分かりません。でも、この文章は「今西進化論批判」のように読めてしまいます。

知識の倫理

知識自体は、いっさいの価値判断(《認識論的価値》にかんする判断を除いて)を排除する。他方、倫理はーー本質的に非客観的なものであるからーー永久に知識の領域から排除されているのである。(P.206)

これに反して客観的体系においては、知識と価値との混同はいっさい禁止されている。しかし(そしてこれが本質的な点であり、知識と価値とを根本で結びつける論理的な結節点であるが)、この混同の禁止という《第一戒律》は、客観的知識の基礎を形づくるものではあるが、それ自体が客観的なわけではなく、また客観的たりえないであろう。ーーそれは道徳的規則であり、規律である。真の知識は価値を無視するが、真の知識の基礎を形づくるには、価値判断、あるいはむしろ価値についての公理が必要である。明白なことであるが、客観性の公準を真の知識の条件として据えるということは、倫理的選択であって知識による判断ではないのであるなんとなればその公準そのものに従えば、この審判者的な選択に先だつ真の知識なるものはありえなかったはずであるからである。(P.208)

理論には必ず、その前提となる《公準(公理)》があります。ユークリッド幾何学では、まず「点」「線」などの定義があって、5つの公準があり、そこから様々な定理が導き出されます。この最初の定義と公準を変えれば、まったく別の幾何学になります。たとえば、「点」を「リンゴ一個」に変え、「線」を「列んだリンゴ」にするなど、です。この定理や公準がどのように選ばれたかは意味がありません。ユークリッド幾何学や、リンゴ幾何学はそれ自体が一つの体系です。その体系のなかで、前提を問うのはナンセンスなのです。その体系が「正しい」かどうかの「価値判断」は体系の外からしかできません。体系を論理とすれば、価値判断は倫理です。原爆や原発をつくりだした理論は科学です。それ自体には「価値観」や「善悪」はありません。原爆や原発の善悪を考えるのは、論理ではなくて倫理なのです。

モノーは「科学者」です。科学者としての著者はその科学の枠組のなかで考え、ノーベル賞まで受賞しました。その彼が「科学の価値」に言及するとき、そこに論理を越えたものがあること、そのバランスを著者はつねに頭に置いています。

科学は「客観的」です。「知識と価値との混同はいっさい禁止されて」います。そこに「主観的解釈」が入り込んではいけないのです。では、そこに「人間的な主体性」はないのでしょうか。

自己同一性

「むしろそれとは反対で、いろいろの現象を分析するばあいの科学の根本的な戦略は、まず不変なるものをさがすことなのである。すべての物理的法則はーーすべての数学的展開も同様であるがーー普遍的な関係を明確に述べたものである。科学のもっとも基本的な命題は、普遍的な保存という公準である。どんな例を選ぼうとも、そこで保存されている何か不変なものによって表されないかぎり、ある現象を分析することは、じっさいには不可能なのである。(P.116)

西欧科学は、止まっているもの、一時的にでも変わらないものを対象とします。動きは、「集まった静止した点」として考えます。観察の対象を認識する間(つまり、認識をはじめるときと、認識し終えたとき)は、対象は同じでなければなりません。AはAでなければならないのです。AがAであって、Aじゃないものではない、これを同一律といいます。「アイデンティティ」です。人間も同じです。人間が人間であるためには、「昨日の私と今日の私」「先月の私と今月の私」等々が同じでなければなりません。いま日本では当たり前になっている「IDカード」。私が小さい頃にはそんなものはありませんでした(身分を証明するもの「身分証明書」はありました。でもそれはIDカードとはちがいます。「身分証明書」はAはBである、という証明書。IDカードはAはAである、という証明書です)。小此木啓吾がエリクソンを広めるまで、日本では一部の人しか「アイデンティティ」ということばを知らなかったと思います。西欧では日常語なんだろうと思いますが、私は日本ではまだ理解されていることばではないと思います。

なぜ、西欧では自己同一性が大切なのでしょうか。それは、〈自己〉を中心として物事を考えるからです。そして、〈主体〉に対応するものとして〈客体〉が存在します。この〈主客構造〉こそが、〈主観〉と〈客観〉の基礎です。

人間中心主義

いったい、だれが精神の存在を疑うことができるのであろうか。魂のうちに非物質的な《実体》を認めるという幻想を断念することは、魂の実在を否定することではなくて、むしろ反対に、遺伝的・文化的遺産と、意識的・無意識的にかかわらず個人的経験のもっている複雑さ・豊かさ・測りようのない深さを認め始めることなのである。(P.186)

《魂》、つまり「こころ」の存在を疑わないのは、遡れば古典ギリシャからつづく伝統ですが、それが「近代」でクローズアップされます。デカルトの「我思う故に我あり」です。〈我〉は「こころ」であり、〈主体〉です。近代科学の成立は、〈主体〉に対する〈客体〉を「見る」ということに基礎があります。日本には、明治以降に導入(輸入)されました。日常では使わないことばです。

逆に言うと、西欧人が「客観的」というときには、必ず「主観」が念頭にあるということです。

〈人間〉は、この進化によって、人間より下の世界に対する支配範囲を広げてゆき、その世界が自分らに隠し持っている種々の危険からだんだんとのがれられるようになっていった。(P.188)

〈主観(自己)〉を中心に置くということは、他の動物に対しては「人間」を中心に置くということです。

それは残酷な実験であって、人間に(実際問題としては幼児であるが)そういう実験を行うことは考えられないほどのものである。そんなわけで、人間は自己を尊重しなければならなかったので、自己の存在を構成する構造のうちのあるものを探索することを、自分自身に対して禁じないわけにはいかないのである。(P.178)

動物実験に対する批判は、近年、西欧でも大きくなっていますが、もともと西欧の科学は「人間中心主義」なのです。著者が否定している「天動説」から人間はなかなかのがれられません。地球が自転して、公転しているということがわかっていても、足元がぐらつくことはありません。

現代社会

現代社会は科学によって織られ、科学の所産で生きているのであるが、その反面では、麻薬中毒患者が麻薬にすがっているように科学にすがるようになってしまっている。現代社会が物質的に強大なのは、知識の基礎をなすこの倫理のおかげであり、またそれが道徳的に弱体なのは、知識そのものによって掘り崩されているのに、現代社会がいまだに頼ろうとしている、古い価値体系のせいである。(P.209)

鋭い指摘だと思います。ただ、著者のいう「現代社会」は、いわゆる先進諸国だけをさしていることに注意しなければなりません。もっと言えば、モノーの頭の中にあるのは、自分の育った家族や地域、国であって、西欧諸国であろうことは想像できます。

そして、生物は無生物より優れていて、ホモ・サピエンスは、オーストララントロプスより優れていて、西欧の近現代は中世よりも進んでいる優れた社会なのです。そして、ロシア・東欧の社会主義よりも、自分たちの民主主義社会(資本主義社会)が優れているのでしょう。ひょっとすると、自分の父母より自分のほうが優れていると思っている可能性もあります。

著者は、盛んにマルクス主義を批判していますが、その批判は論理(科学)と倫理の混同という面です。

それよりも、生物学者としての著者は「淘汰の力」の面で、現代社会に対する危惧を表明します。

かつて進化の最初の段階を導いた淘汰の圧力は、その段階が終わったときに弱められてしまった。少なくともそれは別の性格を帯びることになった。こうなると〈人間〉はみずからの環境を支配できる立場に立つことになり、自分の仲間以外にはこわい敵はもういなくなった。直接的な人類内部の闘争、相手を殺す闘争が、それ以後人類における淘汰の主要な要因の一つとなった。(P.188)

知能・野心・勇気・想像力は、たしかに現代社会においてもあいかわらず成功の要因である。しかし、これは個人的成功の要因であって、遺伝的成功の要因ではない。(P.191)

だれもが知っているとおり、統計によれば、知能指数(あるいは文化水準)と夫婦の間の子どもの平均人数との相関関係はマイナスである。この同じ統計が、一方では、夫婦の知能指数の間にプラスの高い相関関係が存在していることを証明している。これは危険なことであって、これではもっとも高い遺伝的ポテンシャルが選良(エリート)のほうに吸い寄せられ、しかも選良(エリート)は相対的には子孫をつくることを自制する傾向にあるからである。

そればかりではない。まだそれほど以前ではない時代には、比較的《先進的な》社会においてさえも、身体的に言っても、また知的な面から言っても、不適者の排除は自動的で残酷なものであった。大部分の者は思春期の年齢にまで達しなかったのである。今日では、これらの遺伝的障害者の多くが、子孫をつくれる年まで生きられるようになっているのである。これまでは種を衰退ーー自然淘汰がなくなれば衰退は不可避であるーーから守ってきた機構が、知識と社会倫理の発達のおかげで非常に重大な欠陥をもっているばあい以外に、もはやほとんど作用しなくなっている。(P.191)

科学による的確な現代文明認識です。

現代社会は科学によって織られ、科学の所産で生きているのであるが、その反面では、麻薬中毒患者が麻薬にすがっているように科学にすがるようになってしまっている。現代社会が物質的に強大なのは、知識の基礎をなすこの倫理のおかげであり、またそれが道徳的に弱体なのは、知識そのものによって掘り崩されているのに、現代社会がいまだに頼ろうとしている、古い価値体系のせいである。(P.209)

人間の胸苦しい不安を一方では鎮めつつ、掟を確立させる目的で作られた《説明》〔神話的・宗教的説明〕は、どれもこれも《物語(イストワール)》〔歴史の意ともなる〕であり、より正確に言えば個体発生的であることは容易に理解できる。原始的神話はほとんどすべて、多少とも神的な英雄について語っている。そして、彼らの偉業が集団の起源の説明となり、そして集団の社会構造を不可侵の伝統という基礎のうえに築くのである。歴史は作りなおされることがない。(P.197)

そこで著者は、「思想の淘汰」が必要だと訴えます。でも、それは論理(科学)に倫理(価値観)を導入することではありません。「古い価値体系」を捨て去ること、科学に使われるのではなく、科学を知ること、それは西欧伝統の啓蒙思想そのものなのではないでしょうか。「わたしは知っているけど、あなたは知らない」、だから「知っている私が知らないあなたに教える義務がある」。知識人が大衆に、西欧人が「未開人」に、前衛政党が民衆に。

ちなみに、「歴史は常に作り変えられ」ます。解釈され直します。歴史は、現代人、つまりいまの〈私〉が過去を解釈してものです。

それが「淘汰の力の回復」につながるのでしょうか。そもそも、「淘汰」によって、人間(生物)は「進化」しなければならないのでしょうか。進化の仕組みを解明しようとするのは著者のいう科学者の態度です。でも、「進化そのもの」に「価値」を認めるかどうかは、それこそが「古い価値体系」なのではないでしょうか。

人々が「胸苦しい不安」を持ちつづける社会を、わたしはなくしたいと思っています。今のところ、私は私の〈自我〉がそれを求めているから、「心の平安」「幸せな生き方」を求めているからです。それは、戦後の「西欧(欧米)民主主義」の教育を受けた私の限界なのかもしれません。

著者が本書で、論理と倫理の関係を追求したことは、いま、再度考える必要があると思います。民主主義、資本主義、社会主義、科学万能主義、人間中心主義、歴史主義、キリスト教、・・・どれかを信じ、どれかを否定することはある程度「胸苦しい不安」を解消するかもしれません。でも、それは新たな「社会の対立」生み、それを鮮明化するのではないでしょうか。それらの「古い価値体系」も「科学」も、たんに否定するのではなく、「乗り越える試み」が大切なのだと思います。







著者はまず、古くして新しい問題、生物とは何かという問題をとり上げ、現代考えられうる最も科学的・客観的な方法でこれにアプローチしようとする。
そして、コンピューターによる何重かのふるい分けの思考実験から、生物の特徴は不変の再生、合目的的な活動にあるという結論に到達する。
さらに、著者も偉大な開拓者の一人である現代生物学の立場に立って考察を進め、これらの特性がそれぞれ、核酸とタンパク質に顕現されていることを、遺伝情報の複製・伝達、種々の酵素の驚嘆すべき整然たる構造・機能の説明によって示している。

だが、機械的ともいえるような保守的な合目的的なプロセスのなかに、進化はどのようにして根を下して、
新しいイノヴェイティヴなもの、創造的なものを生物圏に送りだすのであろうか。
進化の要因は、不変な情報が微視的な偶然による擾乱を受けることにある。
このように偶然に発した情報は、合目的的な機構により、あるいは取入れられ、あるいは拒否され、さらに忠実に再生・翻訳され、その後、巨視的な自然の選択を経て必然のものとなる。

このような中心思想に立って、教授は生物のうちで最も特異なもの、約五十万年の昔から思考力の進化を推し進めてきた人類に関する重大な問題に、大胆な、挑戦的な試論を展開する。
随所で、ギリシャ以来の多くの有名な思想、特に現代に影響力をもつへーゲル、マルクス、ベルクソン、テイヤールなどの思想が俎上にのせられ、
生気説、物活説の宣告のもとに退けられている。

したがって本書は刊行以来、広く一般の反響を呼び、左右の思想界から激しい批判と反論を受けている。
本訳書がわが国の広い読者層に読まれ、また専門の方々の鋭い批判の起ることを願うものである。


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