日本語と論理―その有効な表現法 大出晁著 1965/07/16 講談社現代新書


この本について

図書館のリサイクル本です。書き込みはありませんでしたが、最後のページが読んでいるうちに落ちてきました。初版は、1965年、この本は1985年第35刷発行です。お風呂本(お風呂で読む本)ですが、面白くてすぐ読んでしまったので、ふやけてはいません(笑)。

まえがき

各国の虹の表現から、「ことばのしくみに応じて、色を分類し、表現している」(P.4)と、ことばと認識の関係を述べています。「「分類する」ということは、まさに、小さな差異を一色にぬりつぶすことにほかならないでしょう。」(同)つまり、同じ「赤」のなかの色のちがいも感じてはいるけれども、同じ「赤」ということばで表現するということです。「赤」のなかの差を感じていないわけではないということです。

アン・ミカさんがテレビで、「白にも200種類あります」と言っていました。「そんなの素人にはわからない」と言われそうです。蛍光灯には、「電球色」と「昼白色」と「昼光色」があります。その他に「白色」などもありますが、それによって部屋の雰囲気が変わります。電球色は、あたたかい、柔らかい感じがするし、昼光色は、モダンで、冷たい感じがします。大抵の人は、そのちがいを表すことができなくても、感じているようです。

最近のスマホのカメラは性能が良くなっているので、そのちがいを的確に写し出します。「ホワイトバランス」ということばを聞いたことがある人もいると思いますが、一般に蛍光灯の光では人間の肌などが青っぽく(場合によっては緑っぽく)写ってしまうので、補正する必要があります。料理を美味しく撮るためには、暖かい光のほうがいいようです。一概にはいえませんが。

まあ、昼白色の蛍光灯の部屋から、昼光色の部屋に移った瞬間はわかりますが、しばらくいると感じなくなります。電球色の部屋にずっといると、電球色だとは感じなくなります。そのくらい、人間の感性には許容性があります。

1 論理とはどういうものか

なぞなぞのような例(『ドン=キホーテ)』で論理とは何かを説明しています。読み物として面白いです。

2 思考・ことば・論理

思考と言葉の関係を、サピア=ウォーフの仮説で述べています(この本では「ホーフ」となっている)。

だから、私たちはことばの構造に応じて、自然を切りとって見ているのだ。(P.40)

これは、まえがきで述べられたことと同じです。それに対して筆者は、

さらに、ことばは、わたしたちの思考のしかたに応じて変わってくる、という面ももっています。すべてのことばが、時代の移り変わりとともに、生活のしかた、行動のしかた、考えかたの差異にともなって変わってきました。ことばの、考えかたに及ぼす影響は無視できませんが、ことばだけで考えかたが決まってくるとはいえないように思えます。むしろ、この二つは微妙な相互関係にあるのであって、大脳生理学・言語学・論理学、さらには心理学などが、これから明らかにしていかなければならない課題だといえます。(P.41-42)

といいます。それから半世紀以上経った現在、それらの学問でどのくらい解明されたかは分かりません。

新しい文化、「もの」や「こと」、あるいは「思想」が入ってきたとき、殆どは従来のことば、従来の考えかたで説明されます。そうしなければ、理解されませんから。そのことばの意味が拡張(あるいは変更)されます。それらは従来の「考えかた」のなかで理解され、それに組み込まれます。それらは思考のしかたが変わったわけではありません。それらに、新しい名前がつくこともあります(最近は、理解されることを拒むようなことばの輸入が多い気がします)。

それは「単語」が変わる、ということです。それらを使うとき、その使い方もまた、新しものです。

しかし、その「もの」や「こと」そのものが「人工のもの(art)」であるばあいは、それを作った人の考え(「想い」というより「思考方法」)が込められています。ものを使うということは、それを作った人と「考えを共有すること」です。「使うこと」は「会話」「コミュニケーション」なのです。会話の結果、理解し合えれば、それを使うことができます。どれだけ共有できたかが、どれだけ使いこなせるか、ということになります(考えを共有せずに使うことは、説明書を読まずに使うことと同じで、危険です)。

「会話すること(話し合うこと)」によって、思考は変化します。「人工のもの」と言いましたが、これも従来日本になかった考えかたです。この西欧的な「人工」に対応するのが「自然」です。自然に相対するとき、その意図を理解することは「神の意志」を理解することになります。

この「意志」とか「意図」とかいうのも従来の日本にはなかったと思います。「意志」や「意図」は〈主体〉を「想定する」ことから生じます。「神の意志」は、〈主体〉の「意志」や「意図」を自然に投影した結果にほかなりません。だから、日本には従来〈主体〉はなかったので、西欧のような「神」も存在しません。

第二言語、外国語を学ぶことは、当然、その考えかたを学ぶということです。それも使い方を間違えると、とても危険なのですが。

3 ことばの構造と論理

ここから言語学の話になりますが、中心となっているのは時枝文法です。

時枝誠記(Wiki)(ときえだ もとき、1900年(明治33年)12月6日 - 1967年(昭和42年)10月27日)は著名な日本語(国語)学者です。私は彼の本を読んだことはありません。言語学をかじったことがある人は当然知っているでしょう。時枝文法があまり一般に知られていないのは、その文法が「正統派文法」とあまりにちがっているせいでしょう。ソシュールやチョムスキーなどの西欧の正統派言語学とはちがいますし、英語教育を推進する言語学学会とも相容れないものです。時枝の本は読んでいないので詳細は避けます。

そこで、語のうちには、話し手の気持ちをむき出しに伝えるもの(辞)と、一度その内容が客観化されて和らげられたもの(詞)との区分があるというのが、時枝文法の立場です。辞とは概念化の過程を経ない語であり、詞とは概念化の過程を経た語というのがその説明です。(P.59)

日本語の文は、辞によって詞がふろしきで包まれるように包みこまれていく、つまりふろしき型統一の構造だと呼ばれています。

この点で、英語などが、

A is B

のように、isが中心になって、AとBとを結びつけるところの天秤(てんびん)型構造であるのと、日本語はまったく異なっています。(P.61)

4 日本語の特質と問題点

このように、日本語において基本的なのは、述語格であり、述語の内容をより詳しくするために、述語のうちから主語が抜き出されて表現されます。この点からいえば、主語は必要に応じて現れるのであって、主語のない文も、もともとあるべきものが省略されたのではないことになります。いいかえれば、日本語の文は述語格の詞に辞が加わればじゅうぶんなのであって、主語格の詞を要求しなくてもよいのです。そこで、主語は、述語をなんらかの形で修飾する修辞語の一種とみなすことができます。(P.96-97)

すごいですねえ。日本人の多くは、「文は主語と述語で成り立っている」と思いこんでいます。自分はそんな話し方はほとんどしていないのに、です。ちょっと気をつければ、小説だって、ドラマだって、主語がない文のほうが多いことに気がつくはずです。愛の告白は「好きです」(あるいは「スキ」)でいいのです。「わたしは」とか「あなたを」とかを付ける必要はありません。

小学校で、英語を教えているのだそうです。いままでの小学生は「おなかいたい」といえば済んだのですが、これからは小学生も「わたしはお腹が痛い」とか「あなたはお腹が痛いの?」とか言わないと会話が通じなくなるのでしょうか。愛の告白は「わたしはあなたが好きです」と言わないと、「だれが?」「だれを?」と聞き返されるのでしょうか。

英語で、"love"とだけ言っても、気持ちはつうじないでしょう。日本語において、主語(や目的語)が、述語を装飾するものだということがよくわかります。英語で、かならず主語をつけるのは、付けないと意味が通じないのではありません。文法構造と習慣から来ています。

わたしは日本がきらいです。アメリカやイギリスに生まれたら、英語を勉強しないで済んだのに、と何度思ったか分かりません。帰国子女(英語圏で育ったかどうかは分かりませんが)を羨ましいと思ってしまいます。

それでもいまは、日本語が日本の文化を作ったと思っているし(というか文化と言語は一体のものだと思っている)、その文化をきらいだとばかり言ってられないと思っています。また、明治以来日本は西欧の文化(物質的な文化も社会的な文化も)に囲まれながら日本の文化を棄てていない、というちぐはぐな状態にあると思います(「和魂洋才」とは意味が違うけど、同じ状況を表しています)。そして、人類を救えるのはSDG'sなんかじゃなくて《非》印欧語の世界観だと思っています(鈴木孝夫著『日本語の感性が世界を変える』、鈴木さんとわたしでは考えかたはちがいますが)。

5 論理的な表現のために(一)

『天声人語』をたくさん例に出して、論理的な文章を書くためのヒントをくれています。こんなに『天声人語』をディスっちゃっていいのかな、と思いますが、著者が朝日新聞に関係していたのかもしれません。また、朝日新聞だからこそ、しっかりしてほしいと思ったのかもしれません。

最近の新聞は頓に日本語がおかしいです。独自取材をしていないのは仕方ないにしても、真偽をまったく確かめないで、公的機関の発表した文章をそのまま載せています。それも仕方がないにしても、記者だけがわかるのではなく、読者がわかるように伝えようとする意志がまったく感じられません、それもまた仕方ないにしても、日本語として変です。字数が限られているのは当たり前ですが、「てにおは」を変えるだけでも、同じ字数・行数でもっとわかり易い文章がかけます。若い記者が記事を書いたとしても、編集長はどこを見ているのでしょうね。それを指摘するのは、「パワハラに当たってしまう」というような雰囲気があるのでしょうか。それとも、上司も部下も「いい新聞を作ろう」という気持ちがないのでしょうか。5年後、10年後に、その若い記者が恥ずかしい思いをするのではないでしょうか。

そんな、「迷文」が列んでいます(『天声人語』以外の文章もあります)。

6 論理的な表現のために(二)

この本に載っている例文をあげます。

「鳥飛ぶとき、羽を動かす。」

「鳥飛ぶとき、羽を動かす。」

「鳥飛ぶとき、空気が動く。」

「鳥飛ぶとき、空気が動く。」

読んでみてどうですか。「変だなあ」と違和感を感じる文章はありますか。文法的な解釈は著者に任せましょう。「おかしい」と思うかどうかは、人それぞれでしょう。いまの新聞の文章に「違和感」を感じる人(内容はともかく)は、どのくらいいるのでしょうか。ある人には違和感があり、ある人にはない、それが文章です。そして、その割合は5年後10年後には変わっているのかもしれません。言語学は、「今ある文」から規則を考えます。もちろん、分野によっては「文の変化」を考える専門もあります。いずれにしても、それは「固定された」、言いかえれば「文字になった」文章を扱っています。

「そんなことはない。フィールドワークで、直接話を聞いて、録音して、生の文章を集めている」と言われるかもしれません。私が言いたいのは、言語は「音声言語」だけじゃないということです。言語が音声なら、手話は言語じゃないということになります。つまり、身振りや顔の表情、その文章が発せられた状況(転記や気温、湿度なども含めて)など、すべてがいっしょになって、「ことば」が作られている、ということです。

いっぺんに全体を理解できないから、それを分割して、文法論、音韻論、象徴論、大脳生理学、論理学、心理学などで研究しています。そして、それらはひとつとして「完成・完結」していません。いくつか学問の分野を列挙しましたが、それらの学問が進むにつれて、完成に近づくどころか、どんどん細分化していきます。それでも学者の多くは、「いつか真実・答え・結論がみつかる」、少なくとも「近づく」と考えています。でも、じっさいには一つ答えが見つかったときには、ひとつ、あるいはそれ以上の新たな疑問が見つかるのではないでしょうか。

それでも学者が学問をするのはどうしてでしょうか。私には学者の友達がいないし、学者といわれる人に聞いたこともありません。ですから、想像ですが、「もっと知りたい」という気持ちでしょう。もちろん、名誉やお金のこともあるでしょう。でも、「見つかっていない真実を知りたい」という気持ちはあるのではないでしょうか。それが結果として名誉やお金につながることもあるでしょうが。

キリスト教やユダヤ教の信者なら、「かくれた神の真実に近づきたい」と思っているのかもしれません。でも、私は思うのです。各分野の成果を集めたのが「ことば」なのだろうか、と。

全体は部分の集まりではないのです。私は「名前、職業、収入・・・」の集まりではありません。一度こわれたものは、組み立てても、直しても、もとには戻りません。「物」でも「人間関係」でも。元通りになったと思っても、それはどこかちがいます。

「分析と統合」というのは、ひとつの考え方、ものの見方です。唯一の考えかたでもないし、それのみが正しいわけでもありません。他の見方、考え方があってもいいじゃないですか。

赤ちゃんは、文法も音韻論も知らないでしょうが、ことばを話すようになります。それを、「赤ちゃん(人間)は話をする本能(先天的能力)」があると言ってもいいでしょう。でも、話す相手がいないとき、つまり話をする社会の中で育たないときは、言葉を習得しないし、話もしません。でも、私は「話し相手」「社会」を対象とした言語学を知りません。たしかに言語学では、話の相手が暗黙のうちに前提されているのでしょう。でも、ほとんどが「独り言の言語学」のように思えるのです。言語学がインドーヨーロッパ語を対象にして始まったことがその原因です。それも、扱われているのは「公式の場」で話されていることばだけです。「敬語」や「スラング」は「例外」扱いです。

日本語は、印欧語から見るとちょっと特殊で、「敬語」がありますから、その話をしている対象がいくらか想定できそうです。相手によって、1人称単数(といわれるもの、私、俺、ぼく等。場合によっては「パパはね」とか、「おじさんはね」とか)が変わったりします。でも、言語学でふつう例に挙げられるのは敬語抜きの文です。

むすびーー執筆中に痛感したこと

どのことばも、論理の立場から見れば、理想的とはいえないのです。ことばというものに、論理的でないことがらも表現しなければならない役目がある以上、これはむしろ当然のことです。問題は、論理的な筋道をはっきり出すような表現法を好まないという、日本人の気風にあります。(P.205)

わたしたち日本人が、まず、論理のごまかしをきらい、論理的に考えることを尊重するようになること、さらに、それを正確に表現するよう努力することーー日本語と論理について考えるに当たって痛感したのは、まさにこの二点でした。(P.206)

まるでNHK教育の『ロンリのちから』です。

著者は「論理にことばをあわせる」のか「ことばに論理をあわせる」のかと問われて答えることができるのでしょうか。たしかに日本は(表向きは)「論理」にもとづく社会です。もちろん、「筋が通らない」ことや「不条理」なこともたくさんあります。「無理が通れば道理が引っ込む」ということわざもあります(出典不明)。このことわざの英訳は「Might is Right」だそうです。これは「勝てば官軍(負ければ賊軍)」的な意味ですよね。

「論理」は「ロジック(logic)」です。つまり「ロゴス(λόγος)」「ことば」そのものです。つまり、印欧語が「論理(ロゴス)」なのです。印欧語の文法に則っているのが「論理的」ということです。日本人が「非論理的」なわけじゃなくて、「日本語と論理は別物」だと考えたほうがいいと思います。著者が(時枝博士が)印欧語の文法ではない、日本語の文法を考えようとしたように、西欧論理ではない、日本の論理を考えるほうがいいのではないでしょうか。

今度の日曜日、民主的な選挙が行われます。「民主主義」や「議会制度」は西欧論理("Might is Right")でしょうか。







[著者等]

大出晁[wiki(JP)](おおいで あきら、1926年 - 2005年2月8日)は、日本の哲学研究者、慶應義塾大学・創価大学名誉教授。


目次
まえがき / p3
1 論理とはどういうものか / p11
<1> 難問三題
<2> 難問の本質は論理的
<3> 論理とものの考え方
2 思考・ことば・論理 / p29
<1> 「考える」とはどういうことか
<2> 思考とことば
<3> 論理はどのようにして現われるか
<4> 論理学の仕事
3 ことばの構造と論理 / p55
<1> ことばの文法的構造
<2> ことばの論理的構造
<3> 論理の立場から
<4> 弱い結びつき
<5> 関係について
<6> 論理的な誤りとは
4 日本語の特質と問題点 / p85
<1> 言語学から見ると
<2> 日本語の表現法
<3> 日本語の文の分析
<4> 英語と比較してみると
5 論理的な表現のために(一) / p109
<1> 「から」と「だから」
<2> 悪文の例を通して
<3> 根強い接続語ぎらい
<4> 代名詞による接続
<5> 修飾句による接続
6 論理的な表現のために(二) / p135
<1> 「は」の役割
<2> 係結びと係助詞
<3> 問題の格助詞「が」と「の」
<4> 品定め文と物語り文
<5> 避けがたい混乱
<6> わかりやすい文を書くには
<7> 句読点のつけ方
7 注意すべき語と用法 / p169
<1> ふたたび「は」の役割について
<2> 「が」が果たす役割
<3> 「の」のふしぎな働き
<4> 論理で重要な「すべて」と「ある」
<5> 否定について
<6> 「も」その他の語
<7> 時の表現法と仮定法
むすび--執筆中に痛感したこと / p203


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