〈識字〉の構造―思考を抑圧する文字文化 菊池久一著 1995/10/16 勁草書房

〈識字〉の構造―思考を抑圧する文字文化 菊池久一著 1995/10/16 勁草書房

教育者(教育の現場)は判断しなければならない?

たぶん、Amazonで買った古本。確認できません。

著者は私と同年代で、同じような時代を生きてきたんだと思います。だから、著者の思いはひしひしと伝わってきます。高度成長で(『鉄腕アトム』と一緒に)育ち、オイルショックもバブルも経験したでしょう。パソコンがまだ無く、コンピューターが身近ではなかった時期に本で勉強したことを「覚えている」世代です。そして、コンピューター(パソコン)に触れた第一次世代と言ってもいいかもしれません。だから、本に対するノスタルジーがありつつ、コンピューターやAI、つまり『鉄腕アトム』へのあこがれも持っています。

パソコンに詳しいと言うと、「すごい」と言われた若い頃と、本が好きだと言えば「まだ紙の本?」とバカにされた壮年以降です(笑)。

ポストモダンに科学(精神)の絶対性を破壊されるものの、代案がないまま「自己」を見つめ続けた、というのは私の話ですが。そういう時代だったということです。

私は、学者でもなく、教育者でもなく、一介のサラリーマンとして「自己の探求」は趣味の領域にとどめておけました。でも、学者や教育者は、そうはいきません。とくに教育の現場に携わる人は日々判断を迫られるでしょう。子供に迫られるというより、組織としての学校や、保護者(生徒の親)の声、それは「世間(社会)の声」として教育者に「正しい」判断を迫ります。そしてその判断は生徒の将来に関わることなのです。その「正しい将来」とは、社会に適合する人間になることです。

よくテレビドラマで描かれるような「一流大学に入って一流企業に就職して・・・」と思っている親は、それほど多くないのではないかと思います。自分の子供が総理大臣になったり、一流スポーツ選手になったり、大金持ちになるなんて本気で思っているのではなくて、「そうなってほしくないとは言わないけど、ならないでしょ。私の子供だから」と思うほうが自然だと思います。終戦後の時期を過ごしてきた親は、「子供が食べることに困らないように」と願い、その後の世代は「勝たなくてもいいけど、負け組にならないように」という思いが強いのではないでしょうか。その親の思い、学校の求めに応じるために、教育者は決断しなければなりません。「わからない」ではなく「こうあるべき」であると判断する必要があります。それを「指導」、ある場合には「しつけ」として生徒に「強制」する必要があるのだと思います。「学習指導要領」はもとより、さまざまな有形無形の規則は、教育者の自発的・創発的な言動を許しません。その教育者の個性や裁量が入る隙間はほとんどないのです。でも、その規則や要項を現実のものにするのは教育者という生身の人間です。生徒も現実の生身の人間です。現実はコンピュータープログラムのように論理的に制御できるものではありません。

教育という装置

教室における教師の絶対的権威は、観念的には、私たちの識字社会では好ましいものとされないにもかかわらず、教師は多くの権威を背後に背負っているのが現実である。(P.233)

教師は、権威とともに責任をも背負わされています。よくいわれる言葉に「権利は義務を伴う」というのがあります。当然でしょうか。「権威と責任」「権利と義務」というのは、その個人ではなくその個人を制御するもののためにあるように思います。だからこそ「好ましいもの」とはされないのではないでしょうか。「好ましいと思わない人」も同じ制御のもとにあるからそう思うわないのだと思います。自分は制御されたくないので、子供も制御したくない、だからその制御を教師に押しつけます。期待と規則の中で、教師ができることは限られます。それは「知識」を教えることではなくて「学習することを学習すること」です。

時間を決めて生産性を上げるためには、労働者は産業社会が求めるモラルを身に付けておく必要がある。そのようなモラルの獲得のために、識字教育が利用されるのであって、識字そのものが産業化を押し進めるものではないのである。

グラフの研究の最大の功績は、経済的発展、近代化、産業化と教育と識字の直接的関係を見い出そうとすることは、〈識字の神話〉に基づいていることを示したことだろう。そしてその神話が支えられる背景に、「訓練されることにおける訓練」という、近代化にとってどうしても必要とされる、労働者に不可欠とされる精神性が横たわっているということだ。(P.100)

このことはグラフ(Harvey J. Graff "Literacy and Social Development in the West")を俟つまでもなく、マルクスが『資本論』で詳しく書いている通りです。学校で何を学ぶかではなく、学校に行くこと、座って授業を聞くことが大切なのです。知識が必要であれば、塾や図書館があります(塾に行くお金でどれだけの本が買えるでしょうw)。

もちろん、コンピュータがさらに普及すれば、同じ建物の中で学ぶという学校教育の概念自体が変わるかもしれない。例えば、オンラインを通して、自宅で教育を受けることが当たり前になるかもしれない。しかし、同じ場所に集まるか別の場所で学ぶかは異なっても、勝者と敗者を生み出す構造は変わらないだろう。(P.115、注)

コロナ禍によって、これは現実となりました。勝者・敗者構造はもとより、一定時間パソコンの前にいる(座る)ということが大切なのです。学校では、教師が「監視」することが仕事となります。でも、その監視が内在化すれば物理的な監視は必要なくなります。フーコーはこれを「パノプティコン」に喩えました。

「物体」と「物質」

著者の用語で注目したいのは「物体」と「物質」です。

物体はコンテクストの影響を受けずに存在することができるが、物質はその置かれた環境の中で様々な形に変容させられるものである。だから識字を物体として捉えることは、機能的識字を獲得する(あるいはできる)のは、あくまでも個人の責任である、ということを正当化することになるのである。そこでは、識字の物質性は完全に忘れ去られる。〈文化〉としての識字は、〈自然〉としての物体的存在ではありえないにもかかわらず、〈自然〉の中に存在する物質のごとく、〈個人〉の責任において獲得されるものとして捉えられているのである。(P.58-59)

「物体」は客観的な対象物で、それ自体で自己同一性を保っているものです。ハイデガーの「存在者」に近い概念かもしれません。それに対して「物質」は社会、あるいは文化の中で規定されているもので、変容するものです。文化にかかわらず独立して、自己同一性を保ち、分析の対象となる(数値化されうる)ようなものではありません。「人工物」と「自然物」の対比とも似ているかもしれません。これを「抽象」と「具体」と言い換えることもできます。

だから、フレイレの言う〈意識化〉も、主体としての個人の、個人の責任において行われる抽象化を伴う行為となってしまう可能性があるのだ。もし〈文化〉がそのような抽象化された概念として捉えられると、新たに識字を獲得した者が、識字を持たない者を支配する者に変わってしまうことを容易にする。そうである限り、〈個人〉の〈意識化〉に基づく識字という識字観によっては、フレイレの言う〈批判的意識〉を持った人間による社会の変革を進めることはまず不可能だと言わねばなるまい。主体的対応のジレンマとは、このことである。(P.58-59)

文字とことば

大切なのは、文字よりも言葉です。世界には文字がない文化も多いですが(文字がある文化のほうが少ないかもしれない)、言葉のない文化を私は知りません。言葉を書いたものが文字です。それが当たり前だと「今はまだ」思われています。

ところが、文字を音(声)にしたものが言葉だという逆転現象があります。「脚本」にはそういう面があるのではないでしょうか。言葉を「物体」として、客観的な定在として固定したものが文字です。それは変化しません。だから「数える」ことができます。言葉は変化するものです。だから数えることもできません。文を単語に、単語を音素に分解すれば文字にすることも数えることもできると思われるでしょうが、私は違うと思っています。「聞こえないんじゃない、最初から言ってないんだ」というCM、批判もあるようですが、人間は「文字のとおりに発音している」と思う時点で、「文字を内在化している」のです。「〈精神的識字化〉」、あるいは「識字中心主義」です。

このような現象は、とくに、ホスキンが識字中心主義と呼ぶ、一九世紀以降の識字社会において、より顕著になる。識字中心主義は、筆記試験、試験結果の数量化、ライティングという、三つの実践によって強固な基盤を築いたのである。(P.241)

そのような社会においては、人間自体が客体化され数量化可能なものになります。

ライティングが必然的に伴う試験がもたらす二つの可能性とは、「記述と分析が可能な客体としての個人」が生まれることと、「包括的な現象を測定し、集団を記述し、集団として捉えられる事柄を特徴付け、個々人に見られる差異を評定し、ある〈人間集団〉における差異の分布を見極めることができることを可能にする、一つの比較体系」を作り上げることを可能にすることである。まさに「試験は、知識の形成のある種のタイプを、権力の行使の、ある種の形態へと結び付ける一貫した装置を導入した」のである。それは、「客体化の装置」である。(P.241)

しかも一旦数量化されることは、序列化を可能にすることになる。そうなると、当然知識・情報を多く持つ者が、知識・情報の少ないものに勝るという状況を生みだし、事実上トップに立たない限り、常に敗北者としての意識を持つことを強いられることになる。(P.55)

社会に出てからも数量化、序列化はつづきます。たとえば「賃金」はその人の数量化された価値です。それはその人がどれだけ社会に大切な人なのかとは関係ありません。コロナ禍で明らかになった「エッセンシャルワーカー」の大切さも、この社会では忘れ去られます。

「資本主義化した世界では、認知的な節約のためになんでもランキングしようとする。」(内田由紀子「日本社会における資本主義と論理」『資本主義と倫理 分断社会を超えて』所収、P.155)

日本人はランク付けが好きなんだそうです。「人間に優劣をつけるのはいけない」と言われ、蓮舫さんの言葉があんなに世間に印象付けられても、オリンピックで金メダルを獲ることを期待します。保守派も革新派も日本を他の国と(数値で)比較して「いい」「悪い」と言っています。私はその比較自体が「識字中心主義」だと思うし、「人間中心主義」「エゴイズム(個人主義)」もそれに基づくものだと思います。

独創性を賞揚し、コミュニティーを無視した個人主義を善とする社会では、人びとは、識字の暴力を認識することは、かなり困難になっている。(P.234-235)

識字(文字)の暴力

識字術は、学校で学ばれるものだと考えられていることかも、識字と学校教育は切り離して議論することはできない。(P.8)

また、ミシェル・フーコーも、「教育の全システムとは、言説がもたらす知や力とともに、言説の所有を保持し、あるいは変容する一つの政治的方法で」あると語り、教育が、知識・権力を生みだし、かつそれらの力関係を固定するものであることを指摘している。(P.9)

教育的営みが数量化され容易に優劣の関係へと導かれることの醜さに気づき、それから逃れようとしても、優劣の尺度上のある位置を定められ、その位置が一旦刻み込まれた識字は、一生消すことができない。なぜなら、そのような位置は本人の心の中ではなくて、外部(他人の心、あるいはどこかに保管されている記録)に存在するものだからである。(P.10)

さらに重要なことは、識字術はたしかに一つの技術であるに過ぎないが、それを持つ者と持たない者の間に存在する力関係とは無関係の、中立の存在ではありえないという点である。(P.18)

しかし、中立性を強調すればするほど、中立性を保てないという逆説が生まれてくる。なぜなら、それは主流派の識字を社会の全ての構成員に押し付けるというイデオロギーになるからである。(P.19)

「一生消すことができない」にもかかわらず「中立」ではありえないとすると、教師はどうすればいいのか。最初に書いたように、教師には判断が求められます。「わからない」という「判断中止(エポケー、ἐποχή)」は生徒に危険を及ぼす可能性があります。

しかし、識字観を変えるにはどうすればよいのか。ここで言えることは、まず、識字術を教えるときに、中立の技術として教えないことである。読み書きは、単なる「読み書き」という中立的技術では有り得ない。読み書きには、「何かを」という目的語が伴うことであると理解しなければならない。「何かを読み書きする」ということは、「読み書き」を教えるときにその「何か」を選ぶことを意味し、すでに政治的にも中立ではありえない。(P.178)

よくわかりません。識字術は「必要悪」と言われているものなのでしょうか。ここで「識字」と「識字術」について著者は、

識字という言葉のこのようなニュアンスの違いは、単なる識字という言葉の使われ方の変遷として見るべきものではないが、差し当たってまず、文字の読み書き能力、あるいは技術としての文字の使用という側面を〈識字術〉として、また〈識字〉は、そうした技術的側面の他に、文字の使用者、文字の使われ方、また文字が使われる〈場〉、そしてそれらすべての社会的な位置を決定する社会・経済的力学関係といった意味を含む、より広い概念として捉えて議論を進めてみたい。(P.16)

と、区別しています。「識字術」は「物体」に、「識字」は「物質」に対応していると思います。識字は背後の文化や、話されている「場」などの「第二のディスコース」を含むものです。識字術と違い、「識字はコンテクストから離れて存在でき、かつ理解可能な技術」(P.172)ではないのです。

愛とか真理などという概念が虚しいものとしてしか響かないのが現代である。それは、実践をともなわない真理を説いてきた者たちが、まさに識字の暴力を利用して自分たちの都合の良い解釈を押し付けてきたからである。(P.200)

それでも、少なくとも、〈不耕貧食〉の上に築かれた第二のディスコースで語られる倫理観が偽物であることは、直感的に知っていると思う。だから、神の下の自由とか平等などと言われても、それを言葉通りに受け入れることは出来ないのである。(P.201)

印刷物、オンライン

印刷の識字に見られる線的かつ連続的思考は、筋道を立てる上で是非とも必要なものである。人間は、そのような線的で連続的思考をすることによって思考を整理してきた。そのような線的思考は、人間の経験を筋道立てて記録するものでもある。それがなければ、自らの現在の位置を理解することもできない。従って、そのような思考を保つ印刷の識字の役割の重要性がまだ感じられる今こそ、オンラインの識字のあるべき姿を想像し創造していかねばならない。(P.265)

「人間は」とか「私たちは」という言葉が出てきたら、怪しいと思わなければなりません(笑)。これらの言葉は、まさしく「中立性」を装うものだからです。私はなるべく使わないようにしています(汗)。それでも自分が「真実」だと思っていることには使いたくなるものです。

この「線的かつ連続的思考」というのはアリストテレスの論理学そのものです。「人間は死ぬ。アリストテレスは人間である。ゆえに・・・」やA=B、B=C、C=D・・・、という西洋論理学の基本です。線的思考はまさしく「チューリングマシン」そのものです。西洋論理学はまさしくコンピューターに帰結するのです。それでも著者は、技術は「使い手」の「使い方」の問題だ、というのでしょうか。

歴史の中における「自らの現在の位置」を知ることは大切だけど、歴史というは書かれたものです。文字ができて5,000年くらいと言われています。今から2,500年前、そのころすでに身近になっていた文字が持つ意味をプラトンはソクラテスの口を通じて否定的に語っています。プラトン自身は、たくさんの著作を残したにもかかわらず、です。そこにはまだ『イーリアス』などの「口承文学」の記憶も生々しかったでしょう。その後、アリストテレスが確立した西洋論理学は、インド=ヨーロッパ語の構造である西洋論理学を「人類普遍の原理」として文字とともに疑問に付すことがなかったように思います。19世紀にニーチェがキリスト教のみならず西洋論理に疑問を呈し、チューリングが現在のコンピュータの原理を作り上げました。そして現在、世界はコンピューターに支配されている様相を呈しています。紙の本はまるで時代の遺物のようになりつつあります。

でも、著者や私は紙の本の時代を知っています。コンピューターが当たり前になったとき、その世代にはコンピューターの意味がわからなくなるのでしょうか。それこそが「識字」の問題だと私には思えるのです。

そもそも、自分が生まれ育った環境としての文化の「批判」は可能なのでしょうか。データの蓄積に伴い、情報格差は広がっています。

しかも知識・情報が権力となるオンラインの時代においては、個人の計り知れないところで情報が蓄積されていくことから、情報へのアクセスや情報量が、支配の関係を容易に作り出すのである。さらに、「個人に関しての知識の産出と提出は、テストをする側の支配下にある」のである。(P.252)

このような構造は、同時に、必要な情報を手に入れることが出来る立場にある者が、そうでない者より支配力が強いのは当然である。(P.256)

私たち(!!)の思考・言語を形づくっているのは、文化です。人間には(!!)言語本能や論理的本能があるわけではありません。自分自身を形づくっているものに疑問を呈したり、批判したり、否定したりすることは可能なのでしょうか。

従って、識字が制度であるかぎり、その制度からはみ出す者が出てくるのは必然である。(P.65)

すなわち、〈規範〉によって抑圧されているように見えながらも、それをすり抜け、自らのコードを生みだしているという、したたかな人間の姿が見えるのである。そのような、〈自らのコード〉こそ、〈自らの識字〉ではないだろうか、というのが私の考えである。(P.29)

それを「可能性」として捉えたい気持ちはあります。

「あとがき」について

本書の原稿を脱稿したのは、ほぼ一年前である。今回このような形で本書が出版されるに当たり、当初準備した「あとがき」を全面的に書き換えざるをえなくなった。それはこの間に、阪神・淡路大地震と、オウム真理教による地下鉄サリン事件という、従来のシステムの綻びが一度に吹き出した事件が起きたことによる。(P.278)

オウム真理教の事件は、著者に衝撃をあたえたようです。「洗脳」という言葉がマスコミに溢れました。

信者はそのただ一つの究極のディスコースを「学習」によって獲得することを求められるのである。そしてそれをマスターした者のみがそうでない者を指導できるわけだが、実際には「第二のディスコース」を「学習」によって獲得することは理論的には不可能である。その不可能な部分を無理やり可能にしようとするところに、識字の暴力性がもっとも強く現れるのである。(P.282)

しかし、識字は個人の努力によって獲得される中立の技術としての読み書き能力ではない。識字はある「文化」を背負った「第二のディスコース」である。だから本来、それを「個人」の責任の範囲で捉えることは間違いなのである。(同)

個人の問題ではなくて、社会・文化の問題だということでしょうか。私には、個人や社会という概念の存在そのものが問題だとおもえます。

また、こころの中で一度「真実」として定着したものは、それを否定するもう一つの「真実」を肯定するまでに、長い時間がかかることも経験してきた。(P.290)

私には、それほど長い時間は残されていないと思います。(汗)

[著者等]菊池久一 (きくち きゅういち)1958年、遠野市生まれ。コロンビア大学大学院終了。亜細亜大学助教授。識字学、社会言語学、教育学
文字を知ることが、教育の大前提であり、文化創造の基本だと考えていないだろうか。本書はそういった無垢な教育観、文化観を徹底的に検証し、様々な価値観が究極的な見直しを迫られている、この時代への根本的な問題提起を行う。
[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4326153091]

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