非常民の民俗文化 ―生活民俗と差別昔話 赤松啓介著 2006/8/10 ちくま学芸文庫(1986/07/20 明石書店)

非常民の民俗文化 ―生活民俗と差別昔話 赤松啓介著 2006/8/10 ちくま学芸文庫(1986/07/20 明石書店)

話し好きおじさんの自慢話と誇大妄想か

とても面白いです。やっぱり「性」を扱った部分でしょう。宇能鴻一郎を読むくらいの面白い。宇能鴻一郎はフィクションですが、これはノンフィクションです。だから面白い。まったくのフィクションはないし、まったくのノンフィクションもありません。赤松氏の叙述に「創作」がないとはいい切れません。

話し好きのおじさんの「自慢話」のようなところもあります。

この本に書かれていることを「ユートピア」と読むのはおかしいし、「事実なんだ」というのも私には確認しようがありません。ただ、今の社会・規範じゃないものが「あり得る」ということは想像できるだろうと思うのです。多分、おじいちゃん、おばあちゃんに聞いても「自分が体験した」「聞いたことがある」という人はまれです。戦争体験をした人も、もう周りにはいないんじゃないでしょうか。「戦後の食糧難」の体験者も、減っています。体験者の多くは「子供の頃、いつもお腹が減っていたなあ」という経験でしょう。でも、子供はお腹が空くものです。大人も同じです。お腹がへるのが生き物なのですから、いつもお腹がいっぱいだとすれば、それが変なのだし、なぜそうなのかを考えなければなりません。お腹が一般だけど、時間だから食べなければいけない、って当たり前でしょうか。

歴史と事実

この本の内容の半分以上は、著者の体験。後は著者が当事者から聞いた話。それと、私には事実かどうかわからない話です。

著者は、西日本の各地を巡りながら各地の風俗(民俗)を見聞きします。ただし、「ノートと鉛筆をなめなめ」ではありません。

未経験の採集者がノートと鉛筆をなめなめ、「子供組」がありませんかなどと尋ねれば、「さあ、おへんなあ」といわれるのが当たり前であろう。「子供組」であろうと、「若衆連中」にしたところで、ムラの住人達には無風、無想の空気みたいなもので、通常の場合には気にもしていない。だから他所者に、いわば標準語で聞かれたところで、なにを聞かれているのかわからないのである。(P.141-142)

その地域の住民が警戒してはダメです。事実は何も聞けません。相手が誠意を持って答えようとしても、地域(ムラ)によって呼び名が違うし、子供組を構成する年齢もまちまちです。そしてなによりも住民が「意識していな」ければ答えようがありません。

ムラの住人は標準語を使う中央の人間や、中央が決めた組織・規則に敏感です。昔から、その組織や規則にひどい目にあってきたし、村落共同体を守るためにはムラのしきたりを守り、「他所(よそ)者」を警戒する必要を肌身で感じているのだと思います。

少なくとも近代に至るまで、歴史は統治者・支配者が記述したものでした。文字を使えたのは権力者、もしくは権力者に仕えた者だけでした。つまり、「公の歴史」「官製歴史」でしかありませんでした。権力を持たない者は、文字を学ぶことはできないし、高級だった「紙」を買うこともできませんでした。「当時の風習・風俗」と教科書等に書かれていることは、そのほとんどが為政者・権力者の風習・風俗です。それ以外の人びとがどんな生活をしていたのかは文章では残っていないのです。

近代において識字率は上がり、庶民の風習も描かれるようになりましたが、端的にいうと読まれません(笑)。これは「識字術」と「識字」の関係です。一応、参考文献『〈識字〉の構造』菊池久一著、勁草書房

「土用の丑の日のうなぎ」「恵方巻」「バレンタインデイのチョコ」「クリスマスケーキ」・・・、それらが商業的に「つくられたもの」だということは、記憶に新しいところです。「ひな祭り」や「七五三」も、日本古来の民衆の風習なのではありません。

いつの時代であろうと差別や階層のない社会などありえないので、したがって差別される側と差別する側、貧しい者と富める者とが、同じ風俗習慣を維持するはずがない。冠婚葬祭など個人的要素の強い儀礼ほど、差別または階層による分裂が大きくなる。私たちの記憶では、昭和前半まで、いわゆる七五三の祝いは、都市でもそんなに普及していたわけではなく、極めて一部の富裕階級の風俗であった。一般の家庭や農村では、まずあまり縁がなかったであろう。神社やデパートなど商業資本の宣伝活動で、爆発的な流行を始めたのは、戦後も、高度成長期以後である。(P.115)

天皇の風習と、公家の風習、武家の風習は記録があるので違いがわかります。ムラの風習といっても、庄屋と小作農では違うし、もちろん地域ごと、ムラごとに違っているでしょうが、それらは絵画などによってその一部が伝わっているだけです。

非常民

「柳田國男などが性とやくざと天皇の民俗学を話題にしない事に反発し、階級闘争史観の視座とフィールドワークを中心とした研究手法で「非常民」の民俗学を研究発表した。」(Wikipedia

柳田の出世作は『遠野物語』です。その他にも『桃太郎の誕生』など、「民話」を扱った著作が多くあるようです。

近頃、私が最も嫌いなのは「民話」という新造語である。なぜ、いままでの「むかしばなし」(昔話)ではいけないのか。「民話」と「民」をつけるだけで、これまでの昔話がことごとく人民のためになる良いお話、人民が喜んで親から子供へと伝えてきたお話になると思っているとすれば、全く浅はかとしかいいようがない。木下順二の「夕鶴」その他、松谷みよ子の換骨奪胎程度の「民話」くらいで、一斉に昔話が人民のための良いお話になるわけがなかろう。昔話の殆どは民衆が生活の中から創出したものではなく、長い時代にわたって、そのときどきの支配者たちが、いかにして彼らにとって好都合の人間を育て、作るかに苦心して流した教化目的のものである。(P.56-57)

柳田は『桃太郎の誕生』(1942年)で「神話」「民間説話」「伝説」「昔語り」「民譚」「童話」などの語を使って分類を試みていますが(P.6〜「国会図書館デジタルコレクション」で読めます。角川文庫、1951年、P.20〜。)、どうもスッキリしません。

『グリム童話』は、それまでドイツなどに伝わっていた民間説話を集めたのもです。子供の夢を描いているような部分と、道徳的な要素が混在していて、一貫性があるとは言えません。1812年の初版からグリムが関わった最後の第7版が出る1857年まで、多くの書き直しがされています。その多くは「性的表現」に関わる部分の削除です(残酷な叙述はほぼ変わっていません)。

本当に反体制的な目的の昔ばなしなら、いつの時代であろうと必ず支配階級は弾圧するものだ。いま残って伝承されているということは、ある程度まで、これまでの支配階級によって去勢され、歪曲され、無害化されているからと思ってよい。(P.37)

痛烈ですね。私は柳田国男をちゃんと読んだことがないのでなんとも言えないのですが、柳田が「民俗学」で叙述した庶民は「常民」といわれました。芸能人の結婚相手が芸能人じゃない場合、「相手は一般人」と言います。また「一般市民」という言葉もありますが、それらは柳田の「常民」に近いのではないかと思います。赤松はその常民に数えられない底辺の人たちを「非常民」と呼びます。

底辺の人たちに対する民衆、市民、常民の攻撃は、仮借のないもので、女郎、芸姑、仲居、酌婦、軍慰安婦はもとより、子守、女工、女労働者に対する陵虐は無残というほかあるまい。しかし非人間、反人間の世界では、そうした呵責、陵虐は起こらなかった。起こしたとき、すでに「人間」になっているからである。反人間、非人間に固有名詞は必要でない。われわれは連帯を求めるために、新たなる性意識と性機能、性規範とを確立するために、お互いの経験を提供している。つまらぬ結婚儀礼や売春構造を否定するためにのみ、われわれの経験は生かされねばならない。人間にワイセツはあるが、われわれ反人間、非人間にワイセツはなかった。新たなる性民族の発掘と、その建設のために、われわれは連帯しよう。(P.18)

この本を読む限り、柳田の民俗学は「官製歴史観」に基づいた「官製民俗学」と言えるかもしれません。

性風俗

「夜這い」は今では「犯罪」と言われることはあっても「風俗」だとは言われることはありません。私が物心ついてから半世紀以上経ちますが、「自分が夜這いした」という人の話は聞いたことがありません。でも、「慰安婦とやった」と自慢気に語る人はいました(中国人を何人殺したと自慢する人もいました)。この本の帯に「迸り出る性民俗の多彩な現実」とあります。「性」に関する話はいつも注目されます。私もこの帯を見てこの本を買いました(多分)。性に興味があるのは、フーコーの言葉で言えば「セクシャリテであることの強制」です。そして読者が求めるのは、保健体育の教科書に載っているような性ではなくて、むしろ「破廉恥」と言われるような「空想的」「解放的」な性です。

著者にも「性のことを書けば、興味を持ってもらえる」という意識は当然あったでしょう。しかし、性風俗を描いた後に著者は喝破します。

こうした性風俗を見ると、都市の貧民窟は性道徳のない禽獣の世界かと疑うだろうが、とんでもない誤解である。私は、むしろ男女の性器は、それほど崇敬し、信仰せられねばならぬものか、と疑う。双方が同意なら貸借して悪い道理はないし、生活の手段として売買することも当然である。(P.385)

性に対しては「神聖な」という感覚と、「穢らわしい」という感覚が同居しています。それが「妻」と「売春婦」に振り分けられるというのはよく言われることです。妻に振り分けられた神聖な性は、家族という形態を成り立たせます。たとえば「一夫一妻制制」のような。著者のいう「性」は独立したものではなくて、それが家族制度や社会制度と密接につながっています。

新「母系社会」、新「共同経済社会」の展望

男女の相互関係を、法律によって固定し、「家」という型に押し込めて、国家社会が管理し始めたのは、近世になってからのことだ。古代や中世では、男女の相互関係は極めて流動的で、かつ多様性をもっていたことが、文献や物語の類でも明らかである。もともと流動的であり、多様性をもつのを本質とする男と女の関係を、国家的管理のために法律をもって固定し、「家」の枠にはめて支配しようとしたのが婚姻制度であり、その端的な定型化が一夫一婦制であった。こうした非人間的な定型化は、いつの時代でも民衆の負担を大きくするだけであろう。(P.389-390)

いままでの一夫一婦制を「単婚」型としてみれば、いくつもの「オトコ」「オンナ」の連帯による「複婚」型へ改組せしめるならば、私たちの性的社会関係は極めて開放的となり、また性的世界が著しく拡大されるだろう。これは原始的乱婚、または雑婚とは全く関係のない、人間としての新しい自由な性的社会関係の創出である。(P.408)

単婚制を信奉する限り、女は男に隷属するほかあるまい。(P.408-409)

しかし、いまわれわれが直面している大きな問題は、家庭の主婦を誘い出しているバイト働きであろう。昔、われわれがスラム街、町工場街、零細商店街で見た嬶たちのオトコ、オンナの新しい性関係の創造は、いまのバイト働きの先駆であるとすれば、広範なバイト職場で、オトコ、オンナの新しい関係が発生していることは容易の推察できる。いわゆる翔んでいる女たちが求める男女同権は、この事実を確認し、これまで父兄社会を支えてきた「単婚」制を破毀し、この「複婚」制を確立するほかあるまい。つまりは女が生まれ出る子供に責任をもつ「母系社会」の、新しい創造である。(P.409-410)

複婚制では男女の固定的、特権的、独占的結合は許されない。つねに男は女に、女は男に開かれた対象であり、性的交渉と選択の自由は保証されている。(P.419)

競争経済を前提として発展してきた父系社会は、いまや地球そのものを破壊する自殺的暴挙を犯さんとしている。これを拒否し抑止できるのは共同経済への転換と、その展開とを保証することのできる母系社会を創造し、確立するほかに、再生への道はあるまい。(P.420)

著者の射程は、父系社会(家父長制度)、資本主義社会に対する批判を遥かに超えています。

『競争の番人』というドラマが昨日最終回でした(最終回はまだ観ていない)。「談合は悪、競争は善」という「勧善懲悪」ものです。なぜ経済社会なのか、なぜ競争が必要なのかという視点がまったくない作品です。原作者としては「ズルしてはいけない」程度の発想でしょう(原作は読んでいません)。『水戸黄門』と同じですね。なぜ越後屋が金を持ち、お代官様が権力を持つのかはまったく描きません。そしてそれ以上の権力を持つ黄門様が、「ズルをしてはいけないよ」と諭すのです。「公正取引委員会」は弱小官庁でも、国家機関ですからね。『石子と羽男』も終わりました。「法律は弱いものを守るためにある」なんて、とんでもない発想の番組でした。

競争は「善」ではないし、法律も「弱いものを守るためにある」わけではありません。競争の土俵に上がることのできる者、法律に守られる者は「常民」であり「一般人」です。

国民の多くが「中流」だと思っているそうです(最近もその傾向は変わっていないようです。まあ、調査の対象になっているのは「常民」が多い可能性はあります)。コロナ禍で「エッセンシャル・ワーカー」が注目されました。折しもデヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』が誤読されている最中です。でも、その声が力を持つことはありませんでした。そしてもっと危機的な労働者、「パート労働者」はその声をかき消された感があります(「ブルシット・ジョブ」はパート労働のことではありません)。

しかし、いまわれわれが直面している大きな問題は、家庭の主婦を誘い出しているバイト働きであろう。昔、われわれがスラム街、町工場街、零細商店街で見た嬶たちのオトコ、オンナの新しい性関係の創造は、いまのバイト働きの先駆であるとすれば、広範なバイト職場で、オトコ、オンナの新しい関係が発生していることは容易の推察できる。いわゆる翔んでいる女たちが求める男女同権は、この事実を確認し、これまで父兄社会を支えてきた「単婚」制を破毀し、この「複婚」制を確立するほかあるまい。つまりは女が生まれ出る子供に責任をもつ「母系社会」の、新しい創造である。(P.409-410)

いわゆる核家族の崩壊、バイト家庭の激増は、子供たちの登校拒否、学校暴力、いじめを産んだ。(P.410)

それでも、パート労働者は統計の対象となるし、最低賃金の適用も(ほぼ)あります。統計の対象にもならず、あらゆる法律の適用外の存在である売春婦などは、その声を拾う人もいなかったのではないでしょうか。

「知」への渇望

統計や数値化については改めて述べませんが、「セクシャリテであること」はなぜ可能なのでしょうか。それを可能にしているのは西洋的な「知への渇望」です。フーコーはキリスト教以降を中心に描いていますが、とくに近代人は知りたくてたまらないのです。学問的知はもちろんのこと、神についても、ゴシップについても何でもかんでも知りたいのです。だから「より知っている」ということが「価値」になり、「力」になります。

その力はそれ自体は単なる「記憶」あるいは「データ」ですから物理的な力にはなりません。それが科学的な知となったとき、物理的な力となります。

なぜ「より多くを」知りたいのか。それを「好奇心」や「本能」に求めるのは、何も説明していないと同じです。それは西洋を中心とし、近代以降に顕著になったものです。それは西洋人、近代人の自己の正当化にすぎません。満たされない好奇心は、「欠乏・渇望」です。では満たされないのは共同体でしょうか。共同体全体に食料が足りない、ということもあります。それは間違いなく欠乏です。でも、食料があっても共同体が満たされないことがあるでしょうか。それを考えることは、西洋人にはむずかしいでしょう。近年の日本人にもむずかしかもしれません。共同体が欠乏していないときに欠乏を感じているのは「個人」「自己(自我)」以外にはありません。だから、知りたいのは自分のことであり、それ以上に他人のことです。「個人」は「寂しい」のです。

とくに男性が「強くなければはならない」とすれば、知ることは男性にとっての至上命令となるでしょう。

強さ、力

「強さ」は比較することによって明らかになります。統計や数値化は、差異化と比較の基礎になります。

狼と羊を比較すると、狼のほうが強いということになります。「強いものが弱いものを支配する」という発想は、ユダヤ教や初期のキリスト教ですでに「牧人権力」として現れています。

牧人的権力とは、群れのそれぞれの構成員に対する個別的な配慮を前提としているわけです。(『フーコーの〈全体的なものと個的なもの〉』ミシェル・フーコー著、三交社、P.21)

それが「統治権力」に変容します。進化論は、「自然淘汰」、さらには「弱肉強食」と解釈されます。でも、それが正しいのなら羊はいなくなってしまうのではないでしょうか。

大抵の人間は狼より弱い存在です。だから「ナイフ」や「銃」を持ちます。それが「知」であり「技術(科学)」です。武器を持つのは弱い人間にとって「仕方のないこと」だと言われます。東洋においてもそうでしょう。しかし、西洋ではそれが「正しいこと」になり、それが「強いこと」に変化していきます。強いものが弱いものを支配するのは「正しいこと」なのです。それが近代の「啓蒙思想」です。

最近、「熊が市街地に現れた」というニュースが多い気がします。そしてその理由を「どんぐりの不作」とか「頭数が増えた」とか「郊外に住宅地が広がった」とか毎年違う理由で説明されます。どれが真実かはわかりません。ただ、そのことが「人間を襲う熊が悪い」ということ、「熊を射殺する人間は正しい」ということになっているのがとても残念です。日本人が啓蒙的になったのはいつからでしょうか。

農村共同体がなくなり、核家族という最小限の共同体もなくなりつつあります。人は「個人」として生きることを強制されます。寂しさを抱え、不満足を抱えた個人はどう他者と接すればいいのでしょうか。女性の権利とか女性の社会進出とかが「正しいこと」と言われます。それは同時に「女性が強くなること」だと言われるのです。「強い・弱い」「正しい(善)・誤り(悪)」という発想でいいのでしょうか。その発想がある限り「男性中心社会」(「人間中心主義」「自分中心主義」「個人主義」)はなくならないと思うのです。

「夜這い」が復活すればいいというのではありません。男女の関わりを難しくしていること、それは人間同士のふれあいを難しくしていることだと思うのです。赤松民俗学があらわにした「非常民の民族文化」は人間どうしの関係の可能性を示唆してくれるものだと思います。


[著者等]赤松/啓介1909年兵庫県生まれ。2000年逝去。専攻:民俗学、考古学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
柳田民俗学を本質的に「士大夫」の民俗学であると断じた著者は、「非常民」こそが人間であることを宣言して、柳田の「常民」概念が掬いとりそこなった人間生活にとって最も重要な性の現実にとことん分け入って行く。外部からのフィールド調査ではけっして辿りつけない村落共同体の公事としての性風俗を、「コドモ集団」の性教育から「オナゴ連中」の構造と機能にいたるまで、詳細かつ大らかに語りきった赤松民俗学の集大成。
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