フーコーの〈全体的なものと個的なもの〉 ミチェル・フーコー、北山晴一、山本哲士著 1993/02/25 三交社

フーコーの〈全体的なものと個的なもの〉 ミチェル・フーコー、北山晴一、山本哲士著 1993/02/25 三交社

国家はなぜ崩壊しないのか、そして「権力」とはなにか

テレビドラマ(社会派ドラマ)では、毎日のように政治家、官僚、経営者が行う「悪事」を手を替え品を替え放送しています。政治家は悪いことをするもの、官僚は自分の地位しか考えないもの、経営者は会社の利益しか考えないものという前提で造られているし、視聴者もそういう前提でドラマを観ます。

自動車メーカーがスポンサーのときには、原作の自動車事故シーンを差し替えるような民放が、大手自動車メーカーの下請け工場に対する、いじめを平気で放送します。

それでも、選挙の投票率は50%を超え(30%程度ということもありますが)、政権は変わりません。貧富の差は拡大し、物価は上昇、賃金は低下しています。それでも、資本主義社会(一時期、資本主義社会ということばが減って「自由主義」と放送されていましたが、いまでは首相が「新しい資本主義」を掲げます)は崩れる素振りを見せません。

実際には、放送されない映画(AVも含めて)や公開できない絵画(開催できない展覧会)も多いのですが。

SNSのことを筆頭に(昔は週刊誌)、個人(言論、学問)の自由と社会の規範・安全(昔は「公共の福祉」)の言説が交差しています。国民(市民)は「プライバシーを侵害されるのは嫌だけど、監視カメラは必要」だと思っているようです。なぜでしょう。

この事を考え続けたのが、フランスの思想家、ミシェル・フーコーです。フーコーは日本でも大流行でした。デリダやドゥルーズよりも一般大衆に知れ渡っていたように思います。でも、私をふくめてマスコミが宣伝したフーコーしか知らなかったように思います。哲学書のような専門書がどんどん売れたのですから、新潮社も潤ったでしょう。でも、フーコーの本(翻訳書)を手にした人は、その難しさに読み進むことはとても困難だったのではないでしょうか。書かれていることは何となく分かるのですが、理解できません。「〇〇は××である」と書いてあれば、「そうだよね」と思って、同じことを「〇〇は××じゃない」と書いてあれば、「なるほど」と思ってしまいます。私はそんな状況でした。

山本氏は「翻訳がひどかった」と言っていますが、そうじゃない(それだけじゃない?)と思います。フランス語をまったく読めない私は翻訳をどうのこうのとはいえません。でも、たしかにわかりにくいのです。解説書を読んで「そんな事を言っていたのか」と思うだけです。

本書について

Foucault, Michel 1981 Omnes et Singulatim: Vers une Critique de la Raison Politique, the University of Utha Press.

副題は「政治的理性批判に向けて」です。前半はフーコーがアメリカのスタンフォード大学で1979/10/10、16に行った講義のテクスト。後半は、北山氏と山本氏の対談と、北山氏の「訳者解説」です。講演は英語で行われ、出版時にフランス語に訳されました。

講演なので(そして訳もですます体なので)、簡易な言葉遣いです。訳もいいと思います。それに字が大きい。これは助かります。

この本を読むのは多分2回めです。呼んだ記憶がないところを見ると、前回はまったく理解できなかったのでしょう。

著者について

山本氏(1948/07/10-)はフーコーの紹介者として有名ですし、彼の入門書を数冊読んだことがあります。福井市の生まれで、メキシコで生活していたこともあります。Youtubeもみましたが、はっきりと物を言う方です。明るくおおらかな方で、オプティミストです。ペシミスト?の北山氏と対照的なことが、対談からわかります。

イリイチ、フーコー、ブルデュー、吉本隆明の思想を発展的に取り込んで、独自の思考を展開しています。彼の興味は多方面に渡っていますが、「述語制言語としての日本語」については、私もとても興味があります。

北山氏(1944-)の著作は読んだことがありません。ファッション史が専門のようです。山本氏より先輩のはずですが、対談では控え目です。というか、山本氏が明るすぎます(笑)。

彼が訳した、フーコーの「真理と権力」、ファノンの『アフリカ革命に向けて』からの言及も正確で、「真面目さ」が伝わってきます。

きっと二人は仲がいいんだと思いました。だから、おたがいに「遠慮なく」色々言い合っていて、人柄が見えて対談はとても面白いです。

フーコーという人

革命家だ。性の解放論者だ。反フェミニストだ。プラトン主義者だ。同性愛者だ。狂気の支持者だ。反権力主義者だ。反革命家だ。構造主義者だ。ポストモダニストだ・・・

彼ほどいろいろに言われる人はいません。そして、彼自身はそういう「レッテル」を貼られることを嫌っていたそうです。山本氏の言葉でいえば、そのためにたえず「移動」していました。

私は、そいういう「レッテルを貼ること」によって、先入観を持って人、あるいは人のいうこと(書いたもの)を判断されることこそをフーコーは批判したかったのだと思います。「フーコーは価値判断を避けて事実を記述することに終始している」(P.150 北山)のです。先入観をもつと、その事実を素直に読めません。フーコーにも先入観があったと思います。それまで読んだこと、考えたこと、「生きてきたこと」が先入観になります。それを否定することは、自分の否定に繋がります。

フーコーは、そういう意味では、常に自己を否定してきたといえるでしょう。フーコー自身は、そんなことを目ざしていたわけではないですし、誰でも生きているあいだに「考え方」が変わる経験はしていると思います。でも、大抵の人は「自分を擁護」します。自分の考えを否定するような事実から目をそらします。それが先入観や偏見です。先入観や偏見は、とても「合理的」で「経済的」です。考えなくて済みますから。労働者は忙しいのです。「合理的」で「経済的」で「便利」なものがあれば、それを利用します。

全体性と個別性

私は、今、たまたま「全体」と「部分」の関係に興味をもっています。それは「規律と自由」の関係であり、「社会と個人」「種と個体」「一般(抽象)と具体」との関係です。

私は、いわゆる「女好き」です。そのくせ全然「モテ」ません。だから、絵を描いていました。女性を描きたい。それは、特定の女性、可愛い女の子ではなくて「女の美しさ」「少女の可愛らしさ」そのものを描きたい、と考えていました。そうすると、「具体性」を離れることになります。あるいは具体としてあらわれる「イデア」(プラトン)を描こうとしていたことになります。まあ、現代の画家はほぼ全てそうです。抽象に行ってしまう人もいます。そうでなくても、「花の美しさ」、「愛」、「戦争の悲惨さ」、「人物の威厳」等々を描こうとするわけです。「美しさ」「愛」「悲惨さ」「威厳」などは存在するのでしょうか。具体的な「花」を描けば、「美しさ」を描けるのでしょうか。

「山田太郎さん」「山田花子さん」・・・という個人の他に、「山田家」は存在するのでしょうか。存在するような気がします。「三毛」「ぶち」「タマ」・・・という具体的な猫の他に「猫一般(猫という種)」は存在するのでしょうか。

この本のタイトル〈全体的なものと個的なもの〉というのは、まさしくそのことを言っていると思いました。実際は違いました。国家にとっての「国民」全体と、「個人」のことが歴史的に描かれています。「統治技術」です。

事実

前述のように、フーコーは「事実」を記述します。そのとき、フーコーはタイムスリップするわけではありません(タイムスリップしちゃう歴史家のなんと多いことか)。フーコーが提示するのは文献として残っている「事実」です。それは「事実」でしょうか。今は、『古事記』や『創世記』に書かれていることが「事実」だと思っている人は少ないと思います。ところが、ヘロドトスの『歴史』や司馬遷の『史記』に書かれていることは「事実」なのです。あるいは「事実」と「創作」を区別しようという努力が続けられています。歴史的事実は「過去にあったもの」でも「記録にある」ものでもなくて、「発見される」ものです。発見されるものだということは、そこに発見者の「意図」が入るということです。これは歴史的事実にかぎりません。「自殺者が増えている」「あおり運転があった」という報道は、「発見されたもの」です。そして、それを報道することは「意図」があります(報道しないことも「意図」ですが)。そして、その報道が視聴者(読者)にある感情を抱かせます。「抱かせる」ことを「意図」して報道がなされるのです。つまり、「事実」の報道は「はじめから中立ではない」のです。

「赤旗」に掲載されている事実と「聖教新聞」に掲載されている事実と「産経新聞」に掲載されている事実と「スポーツニッポン」に掲載されている事実は違います(本来違うはずです)。いま、岩井克人さんの「経済の中に倫理を見出す」(『資本主義と倫理 分断社会を超えて』)を読んでいます。ひどいです。グラフも読めない人が「経済学者」を名乗らないでほしいと思います。彼のことだから、意図的にやっているのでしょう。私も岩井さんの文章だから、真剣に読もうとする(あら捜しする)ので、そんなことに気がつくという面もあります。(笑)

フーコーの場合はどうでしょう。フーコーが引用し、提示する古典から近代までの文献を確認することは私にはできません。それができる学者も、日本には(多分西欧でも)ほとんどいないでしょう。日本語は「状況依存型の言語」だなどと言われます。でも、印欧語だって、文の意味はテクストに依存します。バルトやデリダを持ち出さなくても、西欧には「修辞学」という伝統があります。フーコーが引用する文章はフーコーの解釈です。そもそもその引用文は「ない」かもしれません。それではフーコーをどう読むのか。引用を信用する(信じる)か、調べるしかありません。信じるかどうかは、「ラベリング」にかかわってきます。ところが、彼は「移動(当時日本ではやった言葉で言えば逃走)」します。そうすると、コアな学者を除いて彼の著作を読む人は減っていきます。それは彼の意図かどうかはわかりません。彼の著作が「売れた」ことすら、彼の意図ではなかったと思います。

様々な人が、さまざまな読み方をすればいいのです。ラベリングで判断する合理性はいりません。それが彼の意図だと思います。その一例を挙げます。

フーコーの晩年

晩年のフーコーは、どの著作においても、西洋社会で「生の権力」という新しい権力、つまり、伝統的な権威の概念では理解することも批判することも想像することもできないような管理システムが発展しつつあることを示そうとした。従来の権力機構においては、臣民の生を掌握し抹殺しようとする君主の「殺す権力」が支配的であった。これに対して、この新しい「生の権力」は、抑圧的であるよりも、むしろ生(生活・生命)を向上させる。たとえば、住民の生を公衆衛生によって管理・統制し、福祉国家という形態をとって出現する。フーコーは、個人の倫理を発展させることによって、この「生の権力」の具体的な現れである福祉国家に抵抗するよう呼びかけた。(Wikipedia Ja)

このような一般的な解釈がいかに可怪しいか。まず、「生の権力」というのは、近代において突然現れたというようなものではありません。国家の「合理性」、つまり「理性」そのものが問題とされます。それは古典ギリシアから綿々と続くものです。そして、それが「主観性(Subjectibity、主体性)」に基づくもので、その現れが「福祉国家」なるものです。西周のおかげで、合理と論理(あるいは原理)は日本語ではその共通性がすぐわかりますが、「Rationality」と「Logic」(あるいは「Principle」)の共通性を見つけることには西欧では「考える」ことが必要なのかもしれません。そしてそれが「主観(主体)」に基づくものであることは「忘れられ」ます。「狂気」も「監獄」も「規則」も、すべて「主体の喪失」に対する「恐怖」あるいは「反抗」から来ていることに気づきません。ですから、(身体・精神の)「自由」を求めることは「主観」にとっては当然のことなのです。

フーコーは「福祉国家」(ポリス)が「管理」(ポリツァイ)しようとする「生」、つまり「主観性(自己)」を「取り戻す」ことが重要だ、などと考えていたわけではないと思います。だって、「原因」を「取り戻す」ことは、「繰り返す」ことでしかありませんから。

権力について

残念なことに、この講義はフーコーの「権力論」を詳細に述べるのには時間があまりにも足りませんでした。「牧人」とギリシア思想を対比させることからはじめて、系譜学的に述べようとしますが、時間がないので一気に17世紀まで飛びます。そこで、近代の「国家理性」の話をするのですが、それも時間切れになりそうになって、最後に権力についての「基礎的前提」(P.72)が、箇条書き的に述べられます。

『監獄の誕生』以降も、彼の思考は深化します。そしてそれは『性の歴史』という形をとりますが(この講演の時点ではその第1巻がすでに出版されています)、そこでは同じ主題が繰り返されています。ただ、それを私のように「理性」「主体」などと、軽く口にすることはしません。それは、「先入観」「既成概念」「主体性をイデアに解消する」危険性があるからです。それと闘うことが彼の生き方だったと思います。一つの文章、あるいは「事実」に出会うこと、は、それを疑うことであると同時に、それまでの「知識」を疑うこと、場合によっては捨てることです。そのことを、講義の冒頭でこう言っています。

「しかし、ありふれた事実は、ありふれているからといって存在しなくなるわけではありません。ありふれた事実を前にしても、そうした事実にかかわる特有の問題や、もしかしたら独創的でさえあるかもしれない問題が発見できるのか否か、あるいは発見しようと試みるのか否か、その差はわれわれの側に属しているのです。」(P.11)

「疑ってかかれ、そこには発見がある」などという、軽い話ではありません。そこには、彼が自己の崩壊を賭けた闘いがあります。

私は最近、考えがコロコロ変わります。この感想も書きはじめて数日たちますが、その間に考えがコロコロ変わっています。その間に別の本やドラマなどの影響を受けるからです。「ありふれた事実」が「歴史をもったもの」として現れ、すこしも「あたりまえ」ではなくなります。そしてそれ以上に、私が考えていることが「歴史をもったもの」であると同時に「与えられたもの」となります。どこにも「あたりまえ」のものがないような気になります。「我思う故に我あり」なんて悠長なことは言っていられません。その〈我〉が常に溶解していくのです。現象としては「老人性痴呆症」と同じです。「私は誰?ここはどこ?」って感じです。思春期にもおなじような感覚はあります。大抵はその問いを乗り越え(あるいは忘れ)ます(乗り越えられず、忘れられない人もいます)。思春期には「将来(あるいは未来)」があるように思えます。それが「救い」ですが、この年になると(老人には)その「救い」が初めから存在しません。未来には「闇」しか存在しないように思えてしまいます。

その常に崩れゆく(変わっていく)自己が、〈自己〉である(あり続けると想定する)こと、「自己同一性(アイデンティティー)」について、フーコーは

「これからのわたしの仕事は、「個別化する権力」の問題との関係において個別性の問題ーー、あるいは、そうですね、アイデンティティーの問題というべきかもしれませんが、そうした問題に向けられるでしょう。」(P.13)

と述べています。近代の「国家理性」、そして「牧人」による「個体・個人(個別性)」の管理・統治の問題が、〈自己〉の問題と結びつきます。これを「権力の内在化」ということもできますが、むしろ、「権力を構成する〈自己〉」と言うべきではないでしょうか。それが、『知への意志(『性の歴史』第1巻)』から、『自己への配慮(『性の歴史』第3巻、1984年)』への移行なような気がします。それは問題の矮小化ではありません。先鋭化です。〈自己〉が〈自己〉として存在すること、「俺は俺だ」ということは、それ自体では何でもありません。〈自己〉が〈自己〉であることによって、〈他者〉との「個別的関係」に「権力構造」が発生するのです。

したがって、ある権力形態に抵抗したり反抗したりする人々は、単に暴力を告発したり、ある制度を批判したりするだけでこと足れりとするわけにはいかないのである。また、理性一般に対して非難を浴びせたところでことが足りるわけでもない。問題にしなければならないのは、目の前に存在する合理性の形態なのである。精神病者ないしは狂人のうえに行使される権力を批判するにしても、その批判は、精神病院に対する批判に限定されたものであってはならない。同様に、処罰する権力に意義を申し立てる人々は監獄を全体的な制度として告発だけでは満足できないのである。問題は、いかにして権力関係が合理化されてきたのか、ということなのである。このように問題を提起すること、それだけが、同じ目的、同じ効果をもった他の制度が前の制度にそっくりとって代わるという事態を避けるための唯一の方途なのである。」(P.74)

フーコーは、現在の社会体制が「いい」とも「絶対」だとも考えてはいません。数々の反体制的な行動もとっていました。もし、フーコーが価値判断を避けていたとすれば、いかにして行動が可能だったのでしょうか。彼を行動に向わせた〈自己〉とはなんだったのでしょうか。

「溶解していく自己」を「同一化するもの」、それをフロイトなら「超自我」というでしょうか。また「イデア」に絡み取られそうです。また私の〈自我〉が壊れそうです。これ以上書くのはやめます。最後に、フーコーの権力論の核心かもしれない部分を引用して終わります。

権力は実体ではない。しかしながら、それはまた、その起源を探し求めなければならないような不思議な属性というわけでもない。権力とは個人間に存在するひとつの個的な関係タイプにほかならない。しかも、それの関係はひとつひとつが特有性をもったものである。別の言い方をするならば、そうした関係は、交換や生産、コミュニケーションなどとは、たとえそれと結合することはあるとしても、本来なんのつながりもないものなのである。権力の弁別特徴はなにかといえば、それはある特定の人々が、程度の差はあれ他の人々の行動の一切ーーといったところで徹底的、強制的にというわけにはけっしていかないのであるがーーを決定できることである。鎖につなれ殴打されている人間は誰かが彼のうえに行使している力に服従している。しかし、彼は、権力に服従しているわけではない。ところが、ある人間の最後の救いがことばを拒否して死を選ぶことでさえありうるようなときに、もし、この人間についに口を開かせることに成功したとするなら、それこそまさに、その人間になんらかの行動を強いたということになるであろう。つまり、自由が権力に従属させられたということになるのである。この人間は統治行為に服従したのである。たとえその自由がどんなに制限されたものであったとしても、ある個人が自由のままでいることができるならば、権力はその個人を統治行為に従属されることができるのである。もともと潜在的拒否ないしは反抗なしの権力など存在しないからである。」(P.72-73)





⟨impressions⟩

Why the nation does not collapse, and what is "power"?

In TV dramas (social dramas), politicians, bureaucrats, and managers do "bad things" on a daily basis. We are broadcasting by changing hands and changing products. It is built on the premise that politicians do bad things, bureaucrats only think about their position, and managers only think about the profits of the company, and viewers also watch dramas on that premise.

When the car maker is a sponsor, commercial broadcasters that replace the original car accident scene will broadcast bullying to the subcontracted factories of the major car makers.

Still, the turnout of elections exceeds 50% (although it may be around 30%), and the administration remains unchanged. The gap between rich and poor is widening, prices are rising, and wages are falling. Still, the capitalist society (which was once broadcast as "liberalism" with the word capitalist society diminishing, but now the prime minister advocates "new capitalism") does not seem to collapse.

Actually, there are many movies that are not broadcast (including AV) and paintings that cannot be released (exhibitions that cannot be held).

The discourses of individual (speech, academic) freedom and social norms / safety (formerly "public welfare") intersect, with SNS at the top (formerly a weekly magazine). .. The people (citizens) seem to think that "I don't want to be invaded by privacy, but I need a surveillance camera." I wonder why.

French thinker Michel Foucault continued to think about this. Foucault was also a pandemic in Japan. I think he was more known to the general public than Derrida and Deleuze. But I think I knew only Foucault, which was advertised by the media including me. Since specialized books such as philosophical books were sold more and more, Shinchosha would have been enriched. However, I think it was very difficult for those who got the Foucault book (translation) to read through the difficulty. I can understand what is written, but I can't understand it. If you write "○○ is XX", you will think "That's right", and if you write the same thing as "○○ is not XX", you will think "I see." I was in that situation.

Mr. Yamamoto says that the translation was terrible, but I don't think that's the case (isn't it?). I can't read French at all, so I can't say how to translate. But it's certainly hard to understand. All you have to do is read the manual and wonder, "Did you say that?"

About this book

Foucault, Michel 1981 Omnis et Singulatim: Vers une Critique de la Raison Politique , the University of Utha Press .

The subtitle is "Toward a Criticism of Political Reason." The first half is the text of a lecture given by Foucault at Stanford University in the United States on October 10, 1979 and 16. The second half is a dialogue between Mr. Kitayama and Mr. Yamamoto, and Mr. Kitayama's "Translator's Commentary". The lecture was given in English and translated into French at the time of publication.

Because it is a lecture (and the translation is more and more physical), it is a simple wording. I think the translation is also good. And the letters are big. This helps.

This is probably the second time I've read this book. If you look at the place where you don't remember calling, you probably didn't understand at all last time.

About the author

Mr. Yamamoto (1948/07 / 10-) is famous as an introducer of Foucault and has read several introductory books. He was born in Fukui and has lived in Mexico. He also saw Youtube, but he is the one who speaks clearly. He is a bright and easygoing person and an optimist. Pesimist? You can see from the dialogue that it contrasts with Mr. Kitayama.

Illich, Foucault, Bourdieu, and Takaaki Yoshimoto's ideas are progressively incorporated to develop their own ideas. His interests are wide-ranging, but I am also very interested in "Japanese as a predicate language".

I have never read the work of Mr. Kitayama (1944-). He seems to specialize in fashion history. He must be a senior to Mr. Yamamoto, but he is modest in the dialogue. Or rather, Mr. Yamamoto is too bright (laughs).

His translations of Foucault's "Truth and Power" and Fanon's "Toward the African Revolution" are also accurate and convey "seriousness."

I'm sure they are on good terms. That's why it's very interesting to talk to each other "without hesitation" and see their personalities.

A person named Foucault

A revolutionary. He is a sexual liberationist. He is an antifeminist. He is a Platonist. Homosexual. A supporter of madness. An anti-authoritarian. A counter-revolutionary. A structuralist. He's a post-modernist ...

No one is more talked about than he is. And he himself hated being labeled like that. In Mr. Yamamoto's words, he was constantly "moving" for that reason.

I wanted to criticize Foucault for being able to judge people or what they say (what they wrote) with prejudice by such "labeling". I think it is. "Foucault always avoids value judgments and describes facts" (P.150 Kitayama). If you have a prejudice, you cannot read that fact obediently. I think Foucault also had a prejudice. What you have read, what you thought, and what you have lived up to that point are prejudices. Denying it leads to your own denial.

In that sense, Foucault has always denied himself. Foucault himself wasn't aiming for that, and I think everyone has had the experience of changing his "thinking" while he was alive. But most people "defend themselves." Look away from the facts that deny your thoughts. That is prejudice and prejudice. Prejudices and prejudices are very "reasonable" and "economical." You don't have to think about it. Workers are busy. If there is something that is "reasonable," "economical," and "convenient," use it.

Wholeness and Individuality

I happen to be interested in the relationship between "whole" and "part". It is the relationship between "discipline and freedom", "society and individual", "species and individual", and "general (abstract) and concrete".

I am a so-called "woman lover". That habit is not "popular" at all. That's why I was drawing a picture. I want to draw a woman. I wanted to draw "the beauty of a woman" and "the cuteness of a girl" rather than a specific woman or a pretty girl. Then, you will leave the "concreteness". Or it means that he was trying to draw a concrete "idea" (Plato). Well, almost all modern painters do. Some people go to abstraction. Even if that is not the case, I try to draw "the beauty of flowers," "love," "the misery of war," "the dignity of people," and so on. Is there "beauty", "love", "misery", "dignity", etc.? Is it possible to draw "beauty" by drawing a concrete "flower"?

Is there a "Yamada family" other than the individuals "Taro Yamada" and "Hanako Yamada"? I feel like it exists. Is there a "cat in general" (a species called a cat) other than the concrete cats such as "calico", "buchi", and "tama"?

I think the title of this book, "Overall and Individual," really says that. Actually it was a little different. The whole "nation" and "individual" for the nation are historically depicted. "Government technology".

Facts

As mentioned above, Foucault describes "facts". At that time, Foucault does not time slip (how many historians do time slip). Foucault presents the "facts" that remain in the literature. Is it a "fact"? Nowadays, few people think that what is written in "Kojiki" or "Genesis" is a "fact". However, what is written in Herodotus's "History" and Sima Qian's "History" is a "fact". Or, efforts are underway to distinguish between "facts" and "creations." Historical facts are not "in the past" or "in record", but "discovered". What is discovered means that the "intention" of the discoverer is contained in it. This is not limited to historical facts. The reports that "the number of suicides is increasing" and "there was a road rage" are "discovered". And reporting it has an "intention" (although not reporting it is also an "intention"). And the news makes the viewer (reader) feel a certain feeling. The news is made with the "intention" of "embracing". In other words, "fact" coverage is "not neutral from the beginning."

The facts published in the "Red Flag", the facts published in the "Seikyo Shimbun", the facts published in the "Sankei Shimbun", and the facts published in "Sports Nippon" No (it should be different). I'm reading Katsuhito Iwai's "Finding Ethics in the Economy" ("Beyond Capitalism and Ethical Divided Society"). It's awful. I don't want people who can't read graphs to call themselves "economicists." Because it's about him, he's doing it intentionally. Since I am also Mr. Iwai's text, I try to read it seriously (search for it), so there is also the aspect that I notice that. (Laughs)

What about Foucault? I cannot see the literature from classical to modern times that Foucault cites and presents. Few scholars in Japan (perhaps in Western Europe) can do that. Japanese is said to be a "situation-dependent language". But even in Indo-European, the meaning of the sentence depends on the text. Western Europe has a tradition of "rhetoric" without having to bring out Baltic or Derrida. The text quoted by Foucault is Foucault's interpretation. The quote may not be there in the first place. So how do you read Foucault? You have no choice but to trust (believe) the citation or look it up. Belief or not depends on "labeling". However, he "moves" (in the words he did in Japan at the time, escape). Then, the number of people who read his writings will decrease, except for the core scholars. I don't know if that was his intention. I don't think it was his intention to even "sell" his work.

Different people should read differently. There is no need for rationality to judge by labeling. I think that is his intention. Here is an example.

Foucault's Late Years

Foucault in his later years, in every book, is the new power of "living power" in Western society, the traditional concept of authority. I tried to show that a management system is evolving that cannot be understood, criticized, or imagined. In the conventional power mechanism, the "power to kill" of the monarch who tries to seize and kill the life of his subjects was dominant. On the other hand, this new "power of life" improves life (life / life) rather than oppressive. For example, the lives of residents are managed and controlled by public health, and they emerge in the form of a welfare state. Foucault called for resistance to the welfare state, a concrete manifestation of this "living power," by developing personal ethics. (Wikipedia Ja)

How suspicious is such a general interpretation? First of all, "life power" is not something that suddenly appeared in modern times. The "rationality" of the nation, that is, the "reason" itself, is a problem. It is a continuation of classical Greece. And that is based on "subjectivity", and its manifestation is the "welfare state". Thanks to Western Zhou, rationality and logic (or principle) can be easily understood in Japanese, but finding commonality between "Rationality" and "Logic" (or "Principle") is "thinking" in Western Europe. It may be necessary. And it is "forgotten" that it is based on "subjectivity". We do not realize that "madness," "prison," and "rules" all come from "fear" or "rebellion" against "loss of subject." Therefore, seeking "freedom" (physical and mental) is natural for "subjectivity".

Foucault thinks that it is important to "regain" the "life", that is, the "subjectivity (self)" that the "welfare state" (polis) tries to "manage" (polyzei). I don't think it was. Because "regaining" the "cause" is only "repeating".

About power

Unfortunately, this lecture did not have enough time to elaborate on Foucault's "power theory". I will try to describe it genealogically, starting by contrasting "herders" with Greek thought, but since I do not have time, I will fly to the 17th century at once. So, I will talk about modern "national reason", but it is about to run out of time, and finally the "basic premise" about power (P.72) is itemized. increase.

His thoughts deepen even after "The Birth of the Prison". And it takes the form of "History of Sex" (the first volume has already been published at the time of this talk), where the same subject is repeated. However, I don't lightly say it as "reason" or "subject" like I do. This is because there is a risk of "prejudice," "concepts," and "eliminating independence into ideas." I think it was his way of life to fight it. To encounter a sentence or "fact" is to doubt it, and at the same time to doubt the previous "knowledge", and in some cases to throw it away. I say that at the beginning of the lecture.

"But common facts do not disappear just because they are common. Even in the face of common facts, the peculiar problems associated with such facts, etc. Whether we can find a problem that may even be original, or whether we try to find it, the difference belongs to us. "(P.11)

It's not a light story, such as "I'm suspicious and there is a discovery there." There is a fight he bets on his own collapse.

I've changed my mind lately. It's been a few days since I started writing this impression, but during that time my thoughts have changed. In the meantime, it will be influenced by other books and dramas. "Common facts" appear as "historical things" and are no longer "natural". And more than that, what I am thinking is "what has history" and at the same time "what is given". I feel like there is nothing "natural" anywhere. I can't say "I am because I think". That "I" always melts. The phenomenon is the same as "senile dementia". It's like, "Who am I? Where is this?" There is a similar feeling in adolescence. Most of the time, we get over (or forget) that question (some people can't get over it and can't forget it). It seems that adolescence has a "future (or future)". That is "salvation", but in this year (for old people) that "salvation" does not exist from the beginning. It seems that there is only "darkness" in the future.

Foucault

about the constantly collapsing (changing) self being the "self" (assuming it will continue to exist) and "self-identity".

"My future work is a matter of individuality in relation to the issue of" individualizing power "-or, well, an issue of identity, but that's the issue. Will be directed to. (P.13)

. The problem of modern "national reason" and the management and governance of "individuals / individuals (individuality)" by "herders" is linked to the problem of "self". This can be called "internalization of power", but rather it should be called "self" that constitutes power. I feel that it is a transition from "Will to Knowledge (" History of Sex "Volume 1)" to "Consideration for Self (" History of Sex "Volume 3, 1984)". .. It's not a dwarf of the problem. It is sharpening. The existence of "self" as "self" and "I am me" are not anything in themselves. By having "self" as "self", a "power structure" is created in the "individual relationship" with "others".

Therefore, those who resist or rebel against a certain form of power are sufficient to simply accuse violence or criticize a system. There is no such thing. Nor is it enough to blame the general reason. What must be considered is the form of rationality that exists in front of us. Criticism of the power exercised on the mentally ill or madman should not be limited to criticism of the mental hospital. Similarly, those who claim significance to the power to punish cannot be satisfied with the accusation of prison as an overall system. The question is how power relations have been rationalized. Raising the issue in this way is the only way to avoid the situation where another system with the same purpose and effect replaces the previous system in its entirety. (P.74)

Foucault does not consider the current social system to be "good" or "absolute." He also took a number of dissident actions. If Foucault had avoided value judgment, how could he act? What was the "self" that turned him into action?

Is it the "identification" of the "dissolving self", and Freud's "super-ego"? In addition, it seems to be entangled in "idea". Also, my "ego" is about to break. I will stop writing any more. Finally, I cite what may be the core of Foucault's theory of power.

Power is not a substance. However, it is also not a mysterious attribute that one has to search for its origin. Power is nothing but one individual relationship type that exists between individuals. Moreover, each of these relationships has its own uniqueness. In other words, such relationships have nothing to do with exchange, production, communication, etc., even if they may be combined with it. What is the distinguishing characteristic of power is that it is not possible for a particular person to be thorough or compulsory in any way, to a greater or lesser extent, the actions of others. You can do it. A person being beaten in a chain is subject to the force someone is exerting on him. But he is not submissive to power. But when a man's last salvation could even reject words and choose to die, if he finally succeeds in opening his mouth, that is exactly what it is. It would mean that we forced humans to do something. In other words, freedom was subordinated to power. This man submitted to the act of governance. No matter how restricted that freedom is, if an individual can remain free, power can subordinate that individual to the act of governance. This is because there is no potential refusal or power without rebellion. (P.72-73)






個人の行動を可能にし、生活全体を可能にするものとして権力関係をとらえる。社会科学的フーコーと哲学的フーコーとの交点に位置する名論稿であり、「人間という主体」がつくりだされる、個人と国家との史的根源を探る。

■目次

全体的なものと個的なもの――政治的理性批判に向けて

フーコーの権力論をめぐって
権力イメージの変容
ノンというだけが権力ではない
欲望誘発装置としての権力
近代権力と虚の中心
個人化された肯定的パワーの発揮
ノンという機能と個の倫理
プラチックな存在の多様性
ニュートラルな規範はあるのか
レーグルとレギュラシオンの関係性
レギュラシオンをめぐるパワー関係の再編成
多様な「わたし」の価値
ディシプリンから真理へ――フーコーの政治学
集権化と個別化
羊の群れと羊飼い
国家理性とポリス
ポリスの定義
経済学と牧人思想の合体
権力とは何か
おわりに




〈書抜〉

全体的なものと個的なもの

「しかし、ありふれた事実は、ありふれているからといって存在しなくなるわけではありません。ありふれた事実を前にしても、そうした事実にかかわる特有の問題や、もしかしたら独創的でさえあるかもしれない問題が発見できるのか否か、あるいは発見しようと試みるのか否か、その差はわれわれの側に属しているのです。」(P.11)

「これからのわたしの仕事は、「個別化する権力」の問題との関係において個別性の問題ーー、あるいは、そうですね、アイデンティティーの問題というべきかもしれませんが、そうした問題に向けられるでしょう。」(P.13)__ここでフーコーは、生権力の話をしているのだが、「全体と個別」そして、〈自我〉を巡るアイデンティティー(自己同一性)の問題に気づいていたのかもしれません。

「集権化の客体であるとともに主体でもあるようなそのような権力の政治的形態が国家であるのとするなら、個別化を行うものとしての権力はこれを牧人権力と呼ぼうと思っています。」(P.14)

「といったことはありますがやはり大筋のところでは、ギリシアやローマの主要な政治的なテキストには群れのメタファーは不在であったと言ってもよいのではないかと思っています。」(P.15)__ヘシオドスはどう扱うのだろう。

「しかし、牧人が呼び集めるものは、離散した個なのです。」(P.18)

「牧人的権力とは、群れのそれぞれの構成員に対する個別的な配慮を前提としているわけです。」(P.21)

(キリスト教)「ということは、ギリシア人にとって従属とはある目的に至る一時的な手段にすぎなかったのですが、ここでは逆にそれ自体が目的となっているということなのです。」(P.37)

「ギリシア哲学ではアパティアは、個人が理性の力を借りて自己の情念に対して行使する影響力のことを指しています。ところが、キリスト教思想では何がパトスかといえば、それは自己のうえに、それも対自的に行使される遺志のことなのです。アパティアとは、こうした執ようさからわれわれを解放してくれるものにほかなりません。」(P.38)

「魂の牧人的支配は優れて都市的な経験であり、中世初期の貧困や粗放的な農村経済とは容易に相容れないものがあるからです。経済的理由のほかに文化的な理由もあります。牧人制は複雑な技術であり一定の文化水準がーー牧人の側ばかりではなく群れの側にもーー必要とされるからです。さらにまた、社会的政治的構造に関する理由もあります。封建制度は個人と個人の間に、牧人制とは非常に異なるタイプの私的関係の網の目を発展させたからです。」(P.45)

「私がしてみたいと考えているのは、政治組織の典型としての国家と、国家のもつもろもろの機構との中間に位置するある何物かについて、具体的にいえば国家権力の行使の際に動員される合理性の形態について、断片的ではあれいくつかの指摘をしておきたいということです。」(P.48)

「結局のところ、少なくともこの点に関しては、政治的な実践(プラチック)は化学的実践(プラチック)に似ています。人々が応用しているのは「理性一般」なのではなく、いつもある種の非常に特定的な合理性であるからです。」(P.49)

「それは、自発的で盲目的な実践行為(プラチック)の中に閉じ込められたものではまったくなかったし、ですから、なにか後世の歴史的分析によってそうした国家権力の合理性の本性が明らかになったというわけでもないのです。それは、とりわけ次のような、国家理性とポリス(行政)理論という二つのイデオロギー系の中で定式化されたものです。」(同)

「聖トマス・アキナスにはこの点について啓発的なテキストがあります。「技法は、自然がその固有の領域において行っていることを、技法の領域において模倣すべきである」と彼は注意を喚起しています。技法はその時にはじめて合理的なものとなるのです。自らの王国の統治にあたって王のなすべきことは、神による自然の統治をまねることである。ないしは、魂による肉体の統治をまねることである。」(P.52)

「人間は、この世で正当 honestum なるものに従ってさえいれば天上の幸福への道を開いてくれるそのような誰かを必要としているのです。」(P.53)__仏教との同異。

「また国家理性がなぜ無神論と同一視されてしまったのかも教えてくれます。」(P.54)

(一七〜一八世紀の著作家たち)「いずれにしても「ポリス」ということ場を彼らは、国家の内部で機能している制度とか機構ではなく、国家に固有の統治技術という意味で使っていました。それは国家の介入を要請する領域、技術、目的を意味していたのです。」(P.37)

「活動的で生産的な、生きた人間をポリスは監視するわけです。」(P.61)

「ですから、ポリスは国家の活力を養い、(FF)そのことを最優先します。ついで、ポリスのもう一つの目的ですが、それは、人間が労働と商業によって作り出している関係を援助や相互扶助とおなじようなレベルで発展させることです。」(P.61-61)

「住民とは、生きた個人のグループだと定義されています。また、その特徴は、同じ種に属し隣接して暮らすすべての個人の特徴だとされています。(ですから、住民はその特徴を出生率や死亡率にあらわされるし、疫病や人口過密現象の犠牲にもなります。また、領土区分のある種のタイプを示すことにもなります。)」(P.70)__「同じ」だから数値化できる。できるという錯覚、思い込み。「副作用での死亡率〜%」というのを、住民は「自分に都合よく」考える。しかし、その「都合良さ」は統治する側の都合の良さかもしれません。少なくとも都合の悪い数字は公表されません。

「ポリツァイヴィッセンシャフトは一つの統治技術であると同時に、ある領域で生活する住民の分析方法なのです。」(P.71)

「何世紀もの間、宗教は、われわれがその歴史を語るのを認めようとしませんでした。今日われわれの合理性の学校(FF)は、その歴史が書かれることをこころよく思っていませんが、そうした事実自体がじつに示唆に富んでいるわけです。」(P.71-72)

「1/権力は実体ではない。しかしながら、それはまた、その起源を探し求めなければならないような不思議な属性というわけでもない。権力とは個人間に存在するひとつの個的な関係タイプにほかならない。しかも、それの関係はひとつひとつが特有性をもったものである。別の言い方をするならば、そうした関係は、交換や生産、コミュニケーションなどとは、たとえそれと結合することはあるとしても、本来なんのつながりもないものなのである。権力の弁別特徴はなにかといえば、それはある特定の人々が、程度の差はあれ他の人々の行動の一切ーーといったところで徹底的、強制的にというわけにはけっしてい(FF)かないのであるがーーを決定できることである。鎖につなれ殴打されている人間は誰かが彼のうえに行使している力に服従している。しかし、彼は、権力に服従しているわけではない。ところが、ある人間の最後の救いがことばを拒否して死を選ぶことでさえありうるようなときに、もし、この人間についに口を開かせることに成功したとするなら、それこそまさに、その人間になんらかの行動を強いたということになるであろう。つまり、自由が権力に従属させられたということになるのである。この人間は統治行為に服従したのである。たとえその自由がどんなに制限されたものであったとしても、ある個人が自由のままでいることができるならば、権力はその個人を統治行為に従属されることができるのである。もともと潜在的拒否ないしは反抗なしの権力など存在しないからである。」(P.72-73)__権力と統治の定義。権力にとって、自由があることが統治の可能性。自由が服従の前提条件。

2/「人間の人間による統治はーーその人間たちのグループが卑しかろうと高貴だろうと、あるいは女に対する男の権力とか、(FF)子供に対する大人の権力、ある階級に対する別の階級の権力、さらには住民に対する官僚の権力であろうともーーそれはあるかたちの合理性を前提としており、手段として暴力を前提としているわけではない。」(P.73-74)

「3/したがって、ある権力形態に抵抗したり反抗したりする人々は、単に暴力を告発したり、ある制度を批判したりするだけでこと足れりとするわけにはいかないのである。また、理性一般に対して非難を浴びせたところでことが足りるわけでもない。問題にしなければならないのは、目の前に存在する合理性の形態なのである。精神病者ないしは狂人のうえに行使される権力を批判するにしても、その批判は、精神病院に対する批判に限定されたものであってはならない。同様に、処罰する権力に意義を申し立てる人々は監獄を全体的な制度として告発だけでは満足できないのである。問題は、いかにして権力関係が合理化されてきたのか、ということなのである。このように問題を提起すること、それだけが、同じ目的、同じ効果をもった他の制度が前の制度にそっくりとって代わるという事態を避けるための唯一の方途なのである。」(P.74)__フーコーの闘い方。すべてが分かっているわけではない。おかしいことは分かる。かといって、闘いをやめることはできない。考えることと戦うことの同時性。フーコーの自己批判。

4/「政治批判なるものが国家に対してぶつけてきた不満は、国家が個別化の要因であると同時に全体化の原理でもあるということであったが、このことは非常に示唆に富んでいる。国家とはそもそものはじめから個別化と同時に全体化にも向かうものであったという事実、そのことを納得するには、新しく生まれた国家の合理性がいかなるかたちをしていたかを観察し、その最初のポリス政策がどんなものであったかを見れば十分である。国家の反対側に個人とその利害を対置してみたところで、それは共同体とその要求を国家に対置するのと同様にまったく一貫性に欠けたものなのである。」(P.75)__アウシュヴィッツのあとに、語り得ぬものを語ろうとするフーコーの涙ながらの努力。

「政治的合理性は西欧社会の歴史の中で、発展し確立されたものなのである。それはまず牧人権力の理念の中で定着し、ついで国家理性という理念の中でも定着した。個別化と全体化は、その避けることのできない結果である。解放は、この二つの結果のいづれかを攻撃したところでやってくるものではなく、政治的合理性の起源そのものを攻撃しないかぎりやってこないであろう。」(P.75)__ここでの個別化は「個人化」=主体化。自由と平等=個人化と全体化。数値化されるものと数値化されないものの対立。

フーコーの権力論をめぐって

(山本)「ご存知のように、僕は目的意識的な実践である「プラクシス(praxis)」と実際的で慣習的でさえある行動「プラチック(pratique)}とを区別して、執拗なほど強調して論じてきています。」「たしかに、反乱とまでいわずとも、反抗し抵抗する「わたし」は存在していますが、ものごとを受容し、許容された範囲内でのびのびといきいきしている「わたし」もいるわけです。極端ないい方をすれば、服従や支配を積極的にひきうけることで自分をつくりあげているプラチックな存在もあるのです。」(P.78)__個的な私と全体的な私。「私」と「わたし」、などと単純化できるものではない。「主体」も複数ある。

「考古学的方法は、プラチックを見いだすべくディスクールの域を「ディスクール的プラチック」として探求するためのものでした。そのかぎり、他者性の位置が比重の多くを占めていた。そして、系譜学的方法によって「自己」ではなく「自己の自己に対する関係」という自由プラチックーー自分を自分からたえず移動させつづける哲学ーーがとりだされていったのだと思います。」「フーコーの哲学ないし思想とは、実存主義のプラクシスな自己・自我とちがって、、「わたし」の存在プラチックを自由プラチックとして探りあてるものだといえます。」(P.81)

(北山)「実際には近代以前の権力イメージによりかかったままで、近代の権力もあまり変わらないものとして考えていたわけですが、フーコーはそういうものだけじゃないのだということをいった。禁止する力だけが権力ではなく、むしろあらゆるかたちで個人個人の内部にくいこんでいる。こちらの快楽を呼び起こし、それをある方向性をもって組織していくような、そういうものとして権力がある。それが近代の権力のいちばん大きな働き、あり方ではないかというようなことをいっています。」(P.82)

「モダンというのは、フーコーのことばをかりればそもそもが個人個人の欲望のメカニズムのなかに権力がインプットされているようなシステムなのです。しかもこのシステムは自分の個別化、個別性を主張するような個人個人の自主的な欲求の存在を前提としてはじめて成り立っているのです。」(P.83)__近代社会は、あるいは社会は個人個人が作っている。

「それは、権力はたんに『否』を宣告する力として威力をふるっているわけではなく、ほんとうはものに入り込み、ものを生み出し、快楽を誘発し、知を形成し、言説を生み出しているからなのです。権力は、社会体の全域にわたって張りめぐらされた生産網なのだ、と考える必要があります。権力を、抑圧機能しかもたない否定的力だとするのはわい小な見方です。」(P.84 「真理と権力」からの引用)

「このように近代のエレガンスというのは本質的に相対的な枠組みを前提とし、その枠組の中で価値づけられてはじめて有効性をもつきわめてメディア化された概念なのです。しかし相対的といっても、そこにはたえず序列化の力が働いている枠組みでもあります。」(P.85)__優劣をつける社会

「ひとつは、他人と同じであってはいやだという気持ち。もうひとつは、他人と同じでありたいという気持ちということで、両方あるんですね。」(P.87)

「ちょっとわかりにくいかもしれませんが、自分と同等、あるいはそれ以下と考える人とは同じような格好はしたくない。ところが、自分がモデルと考えるような人とは同じようになりたい。異化と同化の両方の方向性をうまく吸いとって、それを時間の中でゴロゴロゴロ転がしていくのがファッションなんです。」(P.88)__向上心なるもの。和魂洋才。

「日本のポストモダンというのは、むしろ戦後すぐの、非常に人工的なかたちでの平等思想ーーそれは理想だったわけですが、みんな現実と錯覚してしまった、あの時期だったのではないか。」(P.89)

「ですから、僕は、フーコーのいう政治的合理性(rationalité politique)ーーこの論文にも出てきますが、フーコーの権力感からいえば、個別化、個人化することによって逆に全体化できるような、そういうものが近代の消費メカニズムだったと思うんですね。」(P.91)__ちがう。対立しつつ共有する、対立しつつ補完し合う。

「何がいちばんの問題かといえばそれは、やはり、異質なものが交じったばあい、つまりそういった全体権力構造、全体を拒否するようの異分子にたいしては、日本の権力はなんらかのかたちで、はっきりとノンという権力として立ち現れてくるんです。」(P.92)__それを内在化して、攻撃する書き込みと、それを内在化して恐れる個人

(P.93)__「肯定させる」=>母権的。「否定する」=>父権的。共同体を代替する権力

(山本)「フーコーがコレージュ・ド・フランスの講義で、権力をこう考えてはいけないということを列挙しているのですが、ひとつは、国家に所有されているというふうに所有形態で考えてはいけない。それからもうひとつは、どこかに、上部構造なら上部構造に局在化しているというふうに考えてはいならない。また、イデオロギー効果を発揮するというふうに考えてもならない。されに、生産関係、生産機構に従属しているというふうに考えてもならないと。」(P.93)

(北山)「自分が求めることで社会という地場に力をインプットしてしまったため、逆に規制されてしまうーー自縄自縛なんです。これが、近代の権力構造なんじゃないか。」(P.96)

(山本)「以前は権力所有者が見られていたんですが、今まさに王の位置が見えなくなってしまったーーいなくなったことによって、今度は、それぞれの民衆一人ひとりが見られるという事(FF)態になった。」(P.97-98)

(北山)「常識的に考えても、監視がしやすければしやすいほど、各自に自由をもどすことができるわけで、監視がしにくいと、がんじがらめに規則でしばっておかなければいけなくなる。」(P.98)__監視されていること、自由を奪われていることは同じだけど。

(山本)「個人化と個別化というふたつの言葉をindividualisation の意味として使いわけられていられるわけですが、大きな枠組みが外側にあるかどうかは主体=服従の側からは関係ないというものを個はつくりうるのです。ですから、自由ではない、自由である、という自由を基準とした幻想を、個人化のなかで与えていくということがあったにしてもどちらであれ自由プラチックは、いかに強制的状況のなかでもつくりうる。」「自由であるという幻想を、規制されていると描きだすのが社会学のひとつの役割ですが、当事者は、みずから気がつかずにかけひきをしていると思います。」(P.100)__山本氏の性格から出てくる発想。

「ブルデューのばあい、自由だという幻想をもっていることが、幻想だとわかったときに解き放たれるというふうに、非常に逆説的ないい方をしている。」(P.101)

「それは、僕のいい方ですと、どんなに権力構造が禁止的であり抑圧的であろうとも、ある新しいことをしようとする個が個人化されて、あるひとつの抵抗なり自由を表現できる。」(同)__ポジティブでアクティブでオプティミストな山本さん。

(北山)「また、欲望をある程度充足させられて動かされているーーその外側に柵があって、そのなかでの自由の幻想にすぎないことに気づいたときに解放がはじまるという考え方もありますが、逆にそのときに、解放ではなくて非常につらい思いが始まるということもある。なぜなら、その先を考えなければならないから、ということですけれども。(LF)今まで僕のやってきたことといえば、自由と思っていたことが実は幻想なんだということ、それをあばこうとばかりしてきた。あばかれた先はどうなるのかといわれると、はたと困ってしまう。」(P.108)__不満であること、あり続けること」を強制されている。まるで「自由でありつづける」ことのように。

(山本)「そのばあいの戯れというのは、あくまでも自由の幻想というものにたいする戯れであって、自由であると思いこむ戯れではない。」「直面している現実は同じですが、客観化して全体を客体化しない。フーコーはそこを道徳倫理の問題として存在として考えた。自己意識の問題からいうと、やはり実践せねばならなぬというプラクシスになってしまう。」(P.109)

「マルクス主義をふくめてこれまでの思想は、他者と自己、自己と他者との関係はいろんなかたちで考えてきたと思うんですが、自己の自己にたいする関係のとり方については考えてこなかった。それを考えようとした哲学として、フーコーのパワー関係論はとても貴重です。」(P.111)

(北山)「どうしてそういうものが出たかというと、モデルとなる生活形態を模範としてなるべく早く消化したいという上昇してくる階級の要求があって、それにこたえるかたちでの作法書が必要とされた。ひとつのものが何十版も増刷されたりしています。それがフランス近代社会の社会的均一性をつくっていくうえでたいへん有効な働きをしたわけです。しかしーーそういった作法書の原理原則、モデルになっているのはその時代の上流階級の生活様式なんですが、モデルに向かおう、それに近づこうとする人間というのは、どうしてもそのモデルに近づけないんです。絶対に、近づこうという意志をもっているかぎり、近づけないんですね。それはそうですーー自分は本物になれず、常に模倣しかできないわけですから。」(P.112)

(P.114)__règle ルール、規則  régulation 制御、調整

(山本)「そこの裏をかくパワーを信じたい」「ただ、そのばかばかしさをおたがいに知っていなくてはいけない。」(P120)__関西人的。

(北山)「禁止されていると、それからちょっとはみだすことで快楽を求める。」(同)__禁止される快楽。

(山本)「全体性はない。全体化する作用があるのです。」(P.125)

訳者解説 ディシプリンから真理へーーフーコーの政治学

「しかし、政治的理性の乱用が有害だからといって、反理性を唱えてもしかたない、というのがフーコーの出発点であった。合理性がどれくらい有害であり、どれくらい有用であるかといった算術的検討を加えても実際には意味がなく、大事なのはどのようなタイプの合理性に訴えようとしているのかを発見することだ、と主張する。なぜなら、そのような作業なくしてはいくら個別の制度を批判したところで、結局同じ目的、同じ効果をもった別の制度が前の制度にそっくりとってかわるという、これまで何度となく繰り返されてきた事態を避けることはできないからである。」(P.131)

「むろんギリシアの首長の権力行使も「義務」と呼べないことはなかった。しかし、それは「栄誉としての義務」であった。これに対して牧人の場合は、その権力行使は献身に近いものだった。」「人間が火を手に入れたとき神々は人々の羊飼いであることをやめた。と、同時に人々は自分のことは自分で責任をもたなければならなくなった。」(P.133)

「国家理性とはなにか。一定の規則にしたがう一つの技術、いいかえれば「国家の統治技法にかかわる合理性」を意味していた。」(P.137)

(P.138)__地動説も、ひとつの言説にすぎない。なぜ、地動説が勝ったか。「進化」といえるか。西洋論理でいえば「進化」に違いない。しかし、それは他文化にとっての真実と違うことがあるし、他文化がそれにしたがう必要はない。他文化にそれを押し付ける権利はない。

「国家理性ということばは、「国家の力をその国家に見合った形で増強することのできる合理的統治」を意味していた。それは前提条件としてある種の知の体系を必要としていた。たんなる理性や英知、慎重などといった漠然とした知ではなく、国家の力に結びついた具体的で、正確かつ抑制のとれた知を(FF)必要としていた。」(P.140-141)

「国家の目的とは何か。ここでもう一度問い直さざるをえない。住民の自己調整能力が妨げられないようにすること。同時に、「個人を社会体という全体的なものにいかにして統合していくか。個人にたいする知識をより精緻にしていくことによって、ひとつの全体性をつくりあげること」(「個の統治のための政治テクノロジー」一九八八年ヴァーモント大学出版)ではなかったか。そして、これが国家理性の目標となっていったのである。ここには明らかに牧人制の理論の復活がみられないか。」(P.146)

「フーコーの方法論とはなんであったか。それは、唯一の原理でさまざまの事象を説明することはできないこと、逆に、多数の関係性の結果として一つの具体的な事実があること、この二つの確信にもとづくものだった。」(P.148)

「本稿もふくめフーコーが行ってきたことは、政治的理性「批判」であって、政治論ではない。」「フーコーは価値判断を避けて事実を記述することに終始している。」(P.150)



[ISBN-13: 9784879191120]

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