表と裏 土居健郎著 1985/03/17 弘文堂

表と裏 土居健郎著 1985/03/17 弘文堂

図書館リサイクル本

「タダ本」です。土居健郎さんは『「甘え」の構造』で有名ですよね。1950年代に学術雑誌に発表されていたものを、1971年に一般の本として出版したもので、ベストセラーになりました。私は読んでいません。私はどうも「ベストセラー」と銘打ったものは「読みたくない」と思ってしまう傾向があります(笑)。

この本は弘文堂のホームページによると

『「甘え」の構造』の著者の書き下し第2弾。

「甘え」を下敷に、「表と裏」「建前と本音」の観点から人間の諸現象を鋭く捉え、秘密や愛、ゆとりについても言及。単に日本的な物の見方ではなく、普遍的なものに高めた話題の書。

英・仏語訳もある。

という内容です。「品切れ・重版未定」だそうです。こういういい本は是非再版してほしいものです。

『「甘え」の構造』は2001年に続編が出ています。それはそれで興味がありますが、私としては本書の続編であることを期待します。

「甘え」の概念も精神医学・精神分析学を基礎にして導かれているのでしょうが(読んだことがないので推測です)、この本もそれをベースに様々な現実の状況を分析しています。キリスト教徒(カトリック)であったようですが、その影響も感じられます。

でも、数年前までの私のように「説教臭い」「宗教的だ」という雰囲気(イメージ、先入観)で拒否すると大切なもの(いいもの)を得るチャンスを逃してしまいます。

今回この本は「お風呂本」として読んだのですが、後半に一箇所赤線が引いてありました。このフニャフニャの線は私のものに間違いありません。私は一度これを読んだのかも知れません。たまたまそこだけ線を引く機会があったのかも知れません。記憶がないのです。

表と裏

下記の「目次」のとおり、「AとB」という項目が多いのですが、AとBは対立概念ではありません。むしろ、著者は「AであればB(非A)ではない」あるいは「AであるかB(非A)である」という、古典的な論理学(形式論理、同一律・排中律・無矛盾律)を乗り越えようとしているように思います。たとえば「オモテとウラ」について、

オモテはしかしただオモテだけを現すのではなく、またウラを隠すためだけのものでもなく、ウラを表現するものでもある。あるいはウラがオモテを演出していると云ってもよい。であるから人はオモテを見る時、ただオモテだけを見るのではなく、オモテを通してウラも見ている。いや、オモテを見るのはもっぱらそこにウラを見るためだという方が当たっているかも知れない。(P.14)

といいます。オモテとウラとは相補う関係のようです。「建前と本音」「制度と個人」などについても同様です。「建前と本音」について、

誤解のないように云っておくが、以上の例で、建前は道徳的に善だが本音は悪であると云いたいのではない。また、本音は本当だが建前は口実に過ぎないと云いたいのでもない。そういう場合も少なくないかもしれないが、しかし本質的には建前と本音が相補的な関係にあり、一方なくして他方はないことを云いたいのである。(P.29)

と言っています。それは「日本的」というだけではありません。

すなわちアメリカ人にとっては制度と個人が矛盾しないということこそ建前である。云いかえれば、建前と本音の区分はないというのが彼らの建前であると云ってよい。(P.56)

アメリカ(あるいは西欧)の「民主主義」「平等」などの概念は、この「建前」を前提に成り立っていることがわかります。政府(あるいは国家)が人民を代表するというような考えは、日本人には「理想だけど、ありえない」と感じるのではないでしょうか。少なくとも、私はそう感じています。きっとアメリカ人は信じているのでしょう。

でも、西欧人もどこかでそう考えている(感じている、といったほうがいいでしょうが)から、デカルト以降「エゴ(自己、個人)」についての様々な哲学が繰り広げられているのだと思います。

言説(言葉・本)

しかし農事暦で語られる程度の知識は、怠惰で勤労の経験のないペルセースならしらず、一般の農民たちにはおそらく常識以上のものではなかったであろう。(松平千秋『仕事と日』解説、岩波文庫 P.187)

別の言葉で言えば「当たり前のことは本には書かない」のです。逆の言い方をすれば「本に書かれたことは、当時の常識ではない」と言えるかもしれません。古典を読む時、「当時の人はこういう風に考えていた」と読んでは間違える可能性があります。「当時の人にはこういうことは常識ではなかったんだ」と考えたほうが正しいかも知れないのです。

デカルトが「我思う故に我あり Je pense, donc je suis」とフランス語で書いた時、フランス(ヨーロッパ)人には「我(自分、エゴ)」というものが当たり前じゃなかったからなのではないでしょうか。『方法序説』では、その考えに至る思索の旅(そしてその困難さ)を丁寧に描いています。「私がいる」というのは当時も当たり前だったでしょう。でも、それには根拠はなかったのです。デカルトはその根拠を「発見」したのです。ヨーロッパ人が「新大陸」を発見したように。ラテン語の「我、エゴ ego」はフランスもありました。それがフランス語の一人称単数主格 Je と結び付けられたといってもいいでしょう。

今の日本人には(多分フランス人にも)「私は存在して考えている」というのは当たり前かも知れません。でも、数百年前まではそれ(自我が存在すること)は「当たり前」ではなかったのです。考えるまでもなかったということです。(近代的)個人もなかったし、近代国家もなかったのです。

現代の病

「精神分裂病」が「統合失調症」という名前に変わったのは2002年だそうです。本書では「人間の分裂」とか「人格の分裂」などと呼んでいます。

オモテとウラあるいは建前と本音が対立しているぐらいならば、まだ人間としての体面が維持されているが、しかし内部の分裂が深刻になり、オモテもウラも建前も本音もなく、ただ種々の場面が無秩序に相互に無関係に出現するようになると、アイデンティティは決定的に破壊される。(P.99)

このことは今日の世界が昔に比べ小さくなったというか、先にのべたように世界が技術的に一つとなり、また一つのものとして意識されるようになったことが原因しているのであろう。ただ一つではあるが分裂している。しかもそのような世界との関係を切ることができないので、外の分裂がどんどん内に侵入するというのが現代世界の縮図であるとも云えるのである。(P.102)

さて精神分析でいう分裂はもちろん個人のことであるが、しかしこれが多くの人に共有されていることはまさに現代の特徴があることを強調せねばなるまい。そして先に引用したピカートの言葉が暗示するように、このことが現代において人心を収攬しようとするものにとって極めて好都合であることが重要である。(P.118-119)

というのは、自己が分裂しているので矛盾を矛盾と感ぜず、何が本当で何が嘘かが分からなくなり、容易に宣伝に乗せられることになるからである。(P.119)

現代社会の的確な分析だと思います。ナチスやオウム真理教、統一教会等だけじゃなく、フェイク動画やデマなど今の日本の一般人にもそのまま当てはまります。

巷に情報が溢れています。もちろん、デマだとわかるデマもたくさんあります。ゴッシップもたくさん流れています。そしてどれ一つとしても確認しようがありません。芸能人の浮気についても、UFOの目撃情報についても、事実かもしれないし、そうではないかも知れません。デカルトや聖徳太子がいたかどうかも確認しようがないし、ネアンデルタール人が言葉を話していたかどうかも確認しようがありません。それどころか、隣のおじさんが浮気しているのかどうかすら知りようがないのです。私の妻も浮気しているかも知れません。

「芸能人の誰それが浮気している」かどうか、「AV女優の誰それの初体験」は何歳でどういうシチュエーションだったのか」、・・・を何故知りたいのでしょうか。知ったからといってその芸能人と知り合いになるわけでもないし、そのAV女優のことがわかるわけでもありません。せも、AV女優たちは「自分のこと」をよく話します(『「AV女優」の社会学 なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか』鈴木涼美著、青土社)。その理由は何であれ、視聴者がそれを聞きたい(知りたい)からです。最近は本人が過去を語るだけじゃなく、デビューまでをドキュメンタリーとして映像化した番組も流行っています(『We NiziU!~We need U!~』など。どこまでがドキュメンタリーかはっきりしませんが)。

「不可知論」ということではないのです。逆です。「なぜ〈知りたい〉と思うのか」ということです。たとえ本人に会って直接聞いたとしても、それが「事実」かどうかはわからないのです。自分のことはともかく、他人(自分以外、他者、汝)のことはわかりません。

自分のことはわかっている気がするけど、そんな事はありません。「汝自身を知れ γνῶθι σεαυτόν」。

なぜ、知りたいのか。私は未だによくわかりませんが、多分一つには、自分(自我)を持つことは「寂しい」ことなんじゃないかと考えています。「他者」から切り離されてしまった自己。その他者は、親だったり、兄弟だったり、故郷だったり、自然だったりします。「世界」から切り離されて、独立(孤立)している自己に気がつくこと、日下部吉信さんの言葉で言えば、「自我の自覚」です。よく使う日本語で言えば「物心がつく」ということです。

その前の段階について、「全能感の中にいる」とか「自分中心の世界」とか言われることがあります。また、神話等では「混沌」とか「無明」などと言われることもあります。神によって自分(=人間)が作られる前の世界です。逆にそれを「楽園」とか「涅槃」「恍惚」とか呼ぶこともあります。でも、それらは自我を持った(持ってしまった)人が言うことです。

自我(失楽園)を持った人は常に、「不足感・欠乏感・不満足、渇望」を抱えています。それを満たすために、常に求めます。それは物質的な物のこともあります。精神的なもの、「知識(知)」であることもあります。でも、いくら物を集めても、いくら物事を知っても、それは満たされないのです。逆に、物を持ち、知識を持てば持つほど自我は「肥大」していきます。

現代におけるこの自我の肥大化を、著者は「建前の弱体化」という側面から捉えています。

以上、建前の弱体化が現代におけるアイデンティティの危機を招いていることをのべたのであるが、次に結局これと同じことであるが、本音の重視がプライベートの世界を肥大化するように見えて、実はプライベートを侵害するという逆説的現象が起きていることについて一言しておこう。

これは個人のプライバシーはパブリックの制度によって保護されてこそプライバシーなのであって、制度抜きのプライバシーはいくらふくれあがっても却って外に露出するだけであり、結局は侵害されることになるからである。この点を最も具体的に示すものが恐らく現代における家庭の崩壊であろう。(P.87)

自我の肥大化は「個人(プライベート)」の肥大化です。肥大化した自我(個人)は、当然パブリック(他者との関係、制度、社会。共同体ではありません)と対立します。自分がそこで育った、あるいは育ててもらった親・地域社会・環境(自然)と対立します。まるで、自分が自分だけで成長し、生きているように思えてしまいます。それが自我の独立性で、自己同一性(アイデンティティ)だからです。

アイデンティティの訳語は同一性で、日本語としては馴染みにくいが、これにはアイデンティティフィケーションの二つの意味が入っている。この二つの意味は日本語で同一化と同定とに訳し分けられ、前者は他者との結びつきであり、後者はあるものをそのものとして確認することをさす。(P.85)

この「同一化」は「私は男性である」「私は、〇〇会社の社員である」というような「AはBである(性質)」ということです。そして「同一化」は「私は私である」という「AはAである(存在)」ということです。つまり、上記の西欧論理そのものです。「個人(自我)」は西欧論理の結果そのもの(実現形態)です。

話し言葉と書き言葉

「より知りたい」もう一つの原因は、言葉そのものにあります。人は話すときに「声」だけじゃなく、身振り手振りや顔の表情など、様々なものを使います。なぜなら、言葉だけでは「気持ち」が伝わらないからです。そして、聞き手は声と身振り手振り・表情などだけではなく、文化的背景からそれを理解しようとします。たとえば「あの人は猫みたい」というのは日本語ですから、もちろん文化です。それだけでなく、「猫」というのが日本でどのように理解されているかも重要です。「優しい」とか「きまぐれ」とか様々な意味を持っています。それと話し手が主題としている「あの人」に対して聞き手が抱いているイメージ、「あの人」の過去の行動などを比べて「話し手はこういう意味で言っているのだな」と考えるわけです。そして理解が合っているかどうかは別として「そうだね(そうかなあ)」と同意(否定)することもあれば、「どういう意味?」と聞き返すこともあります。その言葉の奥にあり、言葉を作り出している大きな存在(エヴェレットの言葉で言えば「ダークマター」)があります。言葉が「音」で表すのは、気持ちのほんの一部でしかありません。

その言葉が「話されている」のではなく「文字となっている」と、その状況や身振り手振りなどが消えてしまいます。読み手は聞き手以上に推測しなければならない(行間を読まなければならない)し、それが誤読の可能性と解釈(空想)の自由度を拡大します。何度読んでも、いや、読めば読むほどわからないのです。文字が文化の中心になるほどに人々は不可知的になり、あるいは自分本位、あるいは文字(自分が経験していない言説)を信じるようになるのではないでしょうか。

不可知的になるというのは、「知り得ない」ということではなく「もっと聞きたい(読みたい、観たい)」ということです。他人のことはわかりません。そのわからないという思いが「もっと知りたい」ということになります。それは物心がついて失われた「全能感(全体性)」を回復したいという思いでもあります。アイドルや俳優で言えば、「親しみを覚える」ということでしょう。

言葉とダークマターとの関係は、著者の言う表と裏の関係に近いのかも知れません。告白や告発は、全体性を失った「自我の叫び」のように思われます。

秘密と愛

ところでこのような秘密という語に伴う語感は比較的近年のもので、昔からのものではないことに注意せねばならぬ。なぜなら元来この語は仏教用語として作られたもので、奥深く容易には人に示し得ない教義を意味したということだからである。なおこれと意味が近い神秘という語も、今では何か胡散臭いという連想を伴い易いが、これまた元来は人知でははかり知れないもののことを意味していたのである。

さてこのように秘密をあってはならぬもののように考える傾向は現代の特徴であると云ってよいが、恐らくそれは十九世紀頃に始まったと考えられる節がある。」(P.124-125)

秘密は、自我が許しません。「知(知ること)」を渇望する自我は「すべてを、あるいはより多くを知らなくてはならない」からです。

このように現代人は人知を超えるものを極端に嫌う。いや人知を超えるものはあってはならないと考える。(P.125)

だから、告白し続け、告白を聞き続け、秘密の匂いをかぐと「告発」しなければ気がすまないのです。

というのは魅力ある人格の秘密は、結局その人格に秘密があるか否かにかかっているように見えるからである。(P.137)

というのはキリストというのは称号であり、今でこそイエズス・キリストと並び称するが、実はイエズスがキリストであるということこそ彼の秘密であったからである。(P.140)

実際、全世界に散らばるクリスチャンと称される人々は、結局、このイエズスの秘密を今も秘密のまま信じている者たちのことに他ならないのである。(P.142)

キリスト教における「告解」の重要性はフーコーが詳細に書いています。

著者は本書でいくつかの文学作品を取り上げていますが、夏目漱石の『こころ』について、

さて「先生」と「私」との場合のように、秘密を打ち明けることが人間関係をこわさない場合はよいが、しかし実際には、一方の秘密が他方に知られる場合、しばしば人間関係は決定的な打撃を受ける。いわゆる裏切られた思いをするのはこの場合であるが、男女の関係がこわれたり親子の関係が冷えるのも、このためであると考えることができよう。(P.146)

それは家庭というものが、そこに属する者にとっては相互に親しみくつろぐ場所であるのに対し、そこに属していない者にとっては秘密の場所であるために違いない。(P.150)

「好きと言ってしまうと、友達でいられなくなりそうで怖い」というセリフはドラマでよく聞きます。

秘密と「甘え」

著者は秘密と「甘え」との関係について、

また恋愛の場合でも、いったん愛が告白されて恋人同士になれば、互いに甘えるようになろう。大体甘えの欲望が前以て秘められているのでなければ、恋愛自体成立しないと云えるほどである。(中略)なるほど、愛する者同士にとって愛し合っていることは秘密ではない。しかし愛そのものは、常に何か秘密を含んでいるものなのである。(P.165)

だいたい甘えそれ自体が以心伝心、言語以前に、あるいは言語を媒介とせずに成立する感情である。したがって甘えはたしかに親しい感情ではあるが、しかし本来的に心の秘密に関係しているのである。(P.166)

「秘密の告白」、特に「愛の告白」は私(自我)にとっての「命がけの飛躍」です。それは「自我の壁」を超えることであり「自我の鎧」を壊すことだからです。それがうまくいくとは限りません。そのとき、「友達関係」は壊れるかもしれないし、そのときこそが「自我の危機(アイデンティティ・クライシス)」です。強い自我にとって、自我の喪失と死は同じことです。告白の失敗だけでなく、強い自我はそれを否定されたり傷つけられたりすると死を選びます。

私には愛のどこまでが文化的なもので、どこまでが歴史的のものかはわかりません。「愛は超歴史的なもの、人類に普遍的なもの」、あるいは「生物に普遍的なもの」「本能」とまで言われることがあります。有性生殖をする動物(あるいは植物)にとって、生殖の相手を探すことは必要です(単性生物も細胞内物質を交換しないと死んでしまうそうです)。それを「愛」とか「性欲」とかいうのは、人間が自分の気持ちを投影しているに過ぎません。少なくとも、人間にとって愛は文化的なものです。

戀愛は唯性慾の詩的表現を受けたものである。少なくとも詩的表現を受けない性慾は戀愛と呼ぶに價ひしない。(『侏儒の言葉(遺稿)』芥川龍之介全集 第九巻、1978/04/24 岩波書店 P.346)

私はこの言葉が好きです。そして、これは愛の文化性そのものを言っているのだと思います。愛するということは学ばれます。愛することも話すことも食べることも、文化の中で学ばなければなりません。

私はこの「話をともにする相手のように話す」という原理は、人間のあらゆる行動について言えると思う。食べるのをともにする相手のように食べるし、考えるのをともにする相手のように考えるといった具合に。(ダニエル・L・エヴェレット著『言語の起源』白楊社 2020/07/26、P.405)

愛することは学ばれます、少なくともその表現方法は。食欲と違って愛は相手が必要ですから。ですから、愛の表現方法は地方(国)によってまったく異なりますよね。

逆に考えたほうがいいかも知れません。私たちは「愛を必要とする文化・社会に住んでいる」のです。性欲・結婚・繁殖は文化・社会・制度が補完します。気持ちを表すときに「ことば」(声とはかぎらない)が必要なように、「愛」という形が必要な社会なのです。性欲をそのまま実現することは社会(文化)が許しません。強姦をすればそれを許容していない社会からは排除されます。結婚も、子供の育て方も文化・歴史でまちまちです。そもそも日本には「恋愛」というものがなかったのです。

この翻訳語「恋愛」によって、私たちはかつて、一世紀ほど前に、「恋愛」というものを知った。つまり、それまでの日本には、「恋愛」というものはなかったのである。

しかし、男と女というものはあり、たがいに恋しあうということはあったのではないか。万葉の歌にも、それは多く語られている。そういう反論が当然予想されよう。その通りであって、それはかつて私たちの国では、「恋」とか、「愛」とか、あるいは「情」とか「色」とかいったことばで語られていたのである。が、「恋愛」ではなかった。(柳父章著『翻訳語成立事情』岩波新書、P.89)

今の日本では、恋愛(その根拠としての愛)は結婚の前提のようになっています。若い人たちは、恋愛相手を求めることに必死になって、恋人がいない自分を嘆いています。「恋愛はしなくてはならないもの」だという強迫観念のようなものもあるでしょう。私自身、人を愛せない自分を「非人間」のように感じていました。

著者はドイツの神学者ハンス・アムンセンの『愛の秘密』(Hans Asmussen『Das Geheimnis der Liebe. Verlag "Die Spur", Itzehoe, Berlin, 1964』)の言葉を引いて、

彼は、母と子の会話や恋人同士の会話が第三者にはつまらぬことに聞こえるが、本人たちには尽きることのない豊かさを含んでいるという観察から、「それ故に愛は秘密でありまた秘密であらねばならぬ」と指摘する。また「愛の美しさはそれが秘密であることによる。あからさまな美もあるが、最も美しいものは秘められている」と云い、「秘密がなくなると、われわれの心は腐ってしまう。特に愛の場合にそうなるが、それは愛が人間の心をあらわにするからである」とのべている。ここであらわにするというのは、「愛において人間は心の最も深いところをあらわにする」という意味である。であるから「愛が始まるところでは、秘密が二人を包まねばならぬ。そうしないと人間は持たない」とうわけである。

アスムセンはこのような観点から、現代の騒々しい歌謡曲が愛の感情を安っぽいものにする危険があると警告し、また「人間の尊厳はその最も深い内面性が肉体に開示されることにある」のだから、衣服は身体を単に風雨から守るだけではなく、他人の視線から内面性を守る役をも果たすべきものであるとのべている。そして現代の特徴は、何でも彼でも裸にし、どんな秘め事も公にする傾向が優勢になった反面、愛において人々が心を真に開くということが却って少なくなっていると指摘しているのである。(P.167-168)

気持ちの共有が自我によって阻まれている社会においては、秘密とその共有、そしてその関係(空間)における「甘え」という形が必要なのです。

アダムとイヴがイチジクの葉でお互いの体を隠したのは、お互いに秘密を持つためだったのかも知れません。そしてそれは近代以降の西欧文化を暗示しています。

ストーリー

ストーリーがあれば読んでいて、この先どうなるだろうとサスペンスを経験し、事件の意外な展開に驚きも感ずる。またストーリーの背後にあって個々の人生を意味づける価値の存在を信ずることができる。しかしストーリーがないとなれば、人生の意味が感じられなくなっているのであり、絶望している証拠である。別の云い方をすれば、先が見えてしまっているということである。すなわち、ストーリーがないことと希望がないことは同じであると指摘しているのである。(P.169-170)

ノーベル文学賞を受賞したソール・ベロー(Saul Bellow, 'Who's Got the Strory')の言葉です。分かり得ない相手(他者)、そして未来は「秘密」です。だからそれが魅力なのです。その秘密を知りえる(見える)と考えると他者や未来から魅力が失せてしまいます。

大体、先を見届けたいと思うときは、すでに絶望が兆している。というのは、人間は将来に希望を抱いている時は、あまり先を見たいとは思わぬからである。(P.174)

実際現代はどこかが狂っている。同じことが際限なく繰返され、技術だけは先に進むが、人間のストーリーはそれこそ完全にストップしているのである。

私はこのことは、現代人がいつ頃からか、先を見届けようとして、実際また先が見えると錯覚したことが原因していると考えたい。要するに、将来に希望を托する代わりに、将来を予測しコントロールしようとしたのである。(P.175-176)

そしてもし私たちが今一度、人類全体としても、あるいは個人としても、絶望から脱出したいと思うならば、ファウストのようにメフィストフェレスに魂を売るのではなく、ただ単純に、先を見届けることを止めることから始めねばならないだろう。すなわちまず、存在の根拠に秘密があることを認めてかかることである。裏はわからぬ、先は見えぬとうことで、ストーリーははじめて展開するのである。(P.176-177)

未来にタイムスリップする話はたくさんあります。多くの人が「行ってみたい」と思います。私は単純に「明日の当たり馬券を知りたい」と思いますが、実際に未来を知ってしまったときにどうなるでしょう。小説や映画では「そうかあ」と終わることはなくて(終わると話も終わってしまう)、なんとかその未来(運命)を変えようと努力します。私は『バック・トゥー・ザ・フューチャー』シリーズが大好きですが、うまくいくときもいかないときもあります。うまくいくかどうかはわからないのですから、結局未来はわからないのですが(笑)、そのわからないことがストーリーを作っています。

ところが自我は「人知を超えるもの」「人知の及ばぬこと」が許せませんから、「今どうなのか」「どうなっているのかだけじゃなく過去も未来も知ろうとします。歴史学、地質学、考古学はもちろん、哲学、物理学など学問(Wissenschaft=知=科学)が対象にするのは全て「現在あるもの」なのですが、それで「過去」を知った気になります。過去を知るのは現在を知るためです。そして「現在」を知るのは「未来」を、「自分たちの行動そのもの」を知るためです。「現在A=Bである」は「過去もA=Bだったはずだ」だから未来も「A=Bであろう」というのが学問(近代科学)です。その近代的知が現在どのような結果をもたらしているかは、人によって判断が違うでしょう。

「SDG's」なる怪しげな(私はそう思う)言葉が世界(商品社会)を覆っています。近代知は「自然」や「環境」を「支配しコントロール」ために発展してきました。それが「将来を予測しコントロールしよう」としています。著者はそのことによって「将来の希望」がなくなると言っているのです。

本書が出版されて40年近くが経とうとしています。その間に近代知は多くの人たちの努力でさらに積み重ねられています。先進国に住む人達の意識も変わってきています。『一九八四年』はとうに過ぎましたが、裏(秘密)を許さない社会はどんどんエスカレートしているように思います。監視カメラ、ネットでの告発合戦・・・。私は40年前より「住みやすい」社会には決してなっていないと思えるのですが。

補論 内と外

人によって住まわれている土地は、しきいの両側にあるのです。しきいは、住まいがつくりだす空間の回転軸のようなものです。こちら側にはホウム〔うち=親密な空間〕があり、向こう側にはコモンズ〔公共空間〕があります。というのも、いくつもの世帯がそのなかに住んでいる空間は共有のもの(コモン)だからです。つまり、そこは、共同体の住まいであって、その構成員の住まいではありません。(イバン・イリイチ『生きる思想〔新版〕』桜井直文監訳、藤原書店、1999/04/30、P.27)

家族のプライベート空間である「家(ホウム)」の中(うち、内)と、しきい(敷居)で区切られた外(公共空間)について、イリイチは「共同体の住まい」だと言っています。いま「プライベート」と対になるのは「パブリック」です。本書でもそのように扱っています。これは「個人」と「制度」、「個人」と「社会」、「個別〔個物)」と「全体」ということもできます。

著者は、前に引用したとおり、

すなわちアメリカ人にとっては制度と個人が矛盾しないということこそ建前である。云いかえれば、建前と本音の区分はないというのが彼らの建前であると云ってよい。(P.56)

と言っているのですが、逆に言うと、日本ではその二つが矛盾する、あるいは対立すると考えているということです。そして、著者が本書でいいたいのは、「そんなに割り切れるものじゃないよ」ということです。それが西洋において精神の葛藤を生み出しているし、それを「無意識」という形で明確に指摘したのがフロイトなのだと。

日本でも、明治維新以降その西洋の考えが流入してきて、夏目漱石の著作のようにそれを認めつつも従来の考え方との間に葛藤があって、それが作品になっているのです。それは『リア王』とは視点が違いますが、根本原理は同じです。

著者は、『甘えの構造』と同様(かもしれない)、日本人が持つ「表と裏」「建前と本音」の「昔ながらの感覚」と「近代以降の感覚」を比較しながら、近代批判をしているのです。それは西洋の近代批判でもあります。「西洋と日本」「日本の昔と今」とが交錯しながら論旨が進んでいます。

なにかの本に、「日本には軒下や縁側というパブリックとプライベートとの緩衝地帯がある」というような記載がありました。そう言われると、「西欧の家の軒下」というイメージが浮かんできません。私は西欧に住んだことがないので、あくまでもイメージです。日本では軒下と言うと、「雨宿り」ですね。西欧は降雨量が日本の1/3程度なので、道路にあまり側溝(排水溝)がないそうです(鈴木秀夫著『森林の思考・砂漠の思考』、P.51)。そう言われると、ヨーロッパでは軒下は「日よけ」なのかも知れません。通路にキャノピー(天蓋)やパラソルを立てたパリのオープンカフェは、パブリックな空間に対する意識の違いだけではないでしょう。

西欧の家の玄関の前だけには「軒下」がある気がします。ただ、ドアを開けると日本のような玄関があるわけではありません。靴を脱ぎませんから。土間に炊事場や台所があるというイメージもありません。ですから、プライベートとパブリックに対する考え方も違います。

私が小さい頃は、「子供部屋」があるというのはお金持ちの家の象徴でした。アメリカのドラマで、子供部屋が映ると羨ましかったのを覚えています。でも、小さい頃から親と離れて寝るのは寂しいだろうな、とも感じていました。アメリカでは、「子供部屋(自分の部屋)と茶の間(リビング)」で「プライベートとパブリック」があり、「自分の家と外」で更に「プライベートとブリック」があるのでしょうね。それが、地域社会、国家等と同心円を描いているのでしょう。そしてその円の中心は「私(自分、自我)」です。

その発想で言えば、日本においてはプライベートな円同士が一部で交わっています。その交わった部分が「茶の間」であったり、「軒下」「縁側」と考えることもできます。

でも、戦前は家の玄関や窓は開けっ放しだったところが多かったのではないでしょうか。中を覗こうと思えば覗ける、でもそんなことはしない、しようとも思わないという感じだったのだとおもいます。そこにはたしかにプライベートな空間があります。でも、それは「秘密」ではなかった。秘密ではなかったからこそ、知ろうとも思わなかった。

風呂場(銭湯など)が混浴でなくなったのは明治中期のようですが(禁止令は江戸時代から出ていた)、混浴では異性の裸を見るのは当然だったでしょう。それが見れなくなる(秘密になる)と、覗きたくなります。そして覗かれるのは恥ずかしくなります。近年、各家庭に風呂ができると同性の裸を見る機会もなくなります。そうなると、学校のプールの時間や修学旅行での入浴がとても恥ずかしいものになります。

西欧のお風呂の歴史は知りませんが、そうやって日本においてもプライベート(個人的)な領域が確立していきました。ですから、軒下や縁側が緩衝地帯だという考えは「現在」から過去を推測したもので、「間違い」でしょう。日本にはもともとプライベートな空間、というかプライベートそのものがなかったのです。プライベートがないということは「個人」がないということで、個人の対概念である「社会」もなかったということです(前記『翻訳語成立事情』参照)。

これで前記のイリイチの「ホウムとパブリック」が意味深だということが分かります。それはプライベートとパブリックという思考方法を持っている人に向けて、その形式を踏襲しつつ内容を180度転換しているということです。イリイチの主眼は制度がつくりだすことのできない「住む技術 Art」の喪失と「コモン」の喪失にあります。コモンの喪失が、ハウスを喪失させているということです。そのために、パブリックな空間を「共同体の住まい」と呼んだのです。しかし、そこには西欧的な「個の同心円」が見えます。そして、その中心はやはり「私(個、自分、自我)」なのです。

それに気が付かない時、この確立のためのコモン(ズ)の回復、社会の改変等につながってしまいます。

補論2 学問の細分化・高度化

自我意識が生んだ学問は、批判するのは困難です。すべてが関連付けれられているからです。どこにも欠点がないのです。ユークリッド幾何学の中でユークリッド幾何学を批判することはできません。批判できないように組み立てられているからです。いかに批判されないか、「矛盾がないか」を突き詰めているのが近代の「知」なのです。そしてそれが一つの文化、あるいは「文化群」を作っています。それが世界を「支配」しつつあります。そこでは「個人」が最優先されます。「隣人愛」「思いやり」、あるいは単純に「愛」が尊重されますが、それは「私(自我)」との関わり合いの中でのみ意味を持ちます。どこまでも「私(我)」が愛したり、感じたり、気を使ったり、嬉しがったり、悲しんだり・・・する文化です。「滅私奉公」「則天去私」・・・も「私(我)」という存在があるから言えることです。「我思う故に我あり」だからです。「私(自我)は存在する」という前提で成り立っている文化です。

その学問は、「対象」を持つことによって「自我」を確立させようとします。それが「自我(個人)」の中に収まっているうちは好き勝手していただいて構いません。その学問は対象(存在)を捉えられないが故に、どんどん細分化していきます。細分化によって高度化していきます。「私は、自然のうちの、動物のうちの、犬のうちの、細胞のうちの、DNAのうちの、抗体を作る遺伝子のうちの・・・が専門です」と言っていただいて結構です。でも、それは犬を知ったことにはなりません。

個人の能力には限界があります。それを超える部分は「記録する」ことが必要です。彼が知っていることの殆どは「記録されたこと」が基になっています。彼自身、自分が知ったことを記録するでしょう。そのときに、彼の考えは「外」に漏れ出します。彼の外側が大きくならざるを得ません。外が大きくなればなるほど「私(自我)」は小さくなります。それに耐えられるのならいいでしょう。ただ、その文化は「足る」を知りません。確立しようとする自我がより多くの知を求めるからです。

神秘主義は文明の為に衰退し去るものではない。寧ろ文明は神秘主義に長足の進歩を與へるものである。

古人は我々の先祖はアダムであると信じてゐた。と云ふ意味は創世記を信じてゐたと云ふことである。今人はすでに中學生さへ、猿であると信じてゐる。と云ふ意味はダアウインの著書を信じていゐと云ふことである。つまり書物を信ずることは今人も古人も變わりはない。その上古人は少なくとも創世記に目を曝してゐた。今人は少數の専門家を除き、ダアウインの著書も讀まぬ癖に、恬然とその説を信じてゐる。猿を先祖とすることはエホバの息吹きのかかつた土、ーーアダムを先祖とすることよりも、光彩に富んだ信念ではない。しかも今人は悉かう云ふ信念に安んじてゐる。

これは進化論ばかりではない。地球は圓いと云ふことさへ、ほんたうに知つてゐるものは少數である。大多數は何時か教へられたやうに、圓いと一圖に信じてゐるのに過ぎない。(芥川龍之介『侏儒の言葉』全集第七巻 1978/02/22、岩波書店、P.391)


[著者等]土居健郎(どい たけお)1920年3月17日 - 2009年7月5日。日本の精神科医・精神分析家。東京大学名誉教授、聖路加国際病院診療顧問。

内容

『「甘え」の構造』の著者の書き下し第2弾。
 「甘え」を下敷に、「表と裏」「建前と本音」の観点から人間の諸現象を鋭く捉え、秘密や愛、ゆとりについても言及。単に日本的な物の見方ではなく、普遍的なものに高めた話題の書。
 英・仏語訳もある。


目次

序章 本書の成り立ち

第一部 基本概念
   一 オモテとウラ
   二 建前と本音
   三 制度と個人

第二部 社会の中の人間
   四 人間関係のあり方
   五 裸にされる人間
   六 分裂する人間

第三部 秘密の意義
   七 心と秘密
   八 秘密と魅力
   九 愛と秘密

終章 ストーリーは続くか


[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4335650550]

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