力と交換様式 柄谷行人著 2022/10/05 岩波書店

力と交換様式 柄谷行人著 2022/10/05 岩波書店

尊敬する柄谷さんの新刊

買っちゃいました。それも新品で。新聞の広告をみて、「増刷決定」となっていたので慌てて買ったのですが、初版でした。

柄谷さんは、『マルクスとの可能性の中心』から読んでいるので、約40年の付き合いになります(柄谷さんは僕のことを知っているわけないけど)。地域貨幣へのかかわりなど、実践的な思想家です。お元気そうなのはなによりです。

Wikipediaを読んであらためて知ったことは、柄谷さんが尼崎市の出身だということ(笑)。やっぱり関西人は発想が面白いです。まあ、「東大卒」というのは残念ですが。

宇野弘蔵に学んだということですが、宇野弘蔵は東京大学を1958年に定年退職しています。確かに、生産過程ではなくて交換過程から考えることは宇野弘蔵に近いと思います(宇野弘蔵は倉敷市生まれだそうです、笑)。

宇野弘蔵は「唯物史観や社会主義イデオロギーから切り離した科学としての経済学を確立した。ちなみに宇野自身は自著で「自分をマルクス主義者とはもちろんのこと、広い意味での社会主義者とも考えたことはありません」(『資本論五十年』)と語っている。(Wikipedia)」ということですが(『資本論五十年』は1970年発行)、戦時下の大学で学問をするためには「イデオロギー」の色をなくすことは、結果として必要だったでしょう。

私は、宇野弘蔵の著作を何冊か、何度か読みました。わかりやすいといえばわかりやすいのです。それに比べて、久留間鮫造の『価値形態論と交換過程論』なんかは、高尚な感じはするけどとてもわかりにくい。わかりやすいのがいいということじゃないけど。

そういう意味では、柄谷さんの著作は一見わかりやすい。でも、宇野弘蔵と同じで奥が深い。奥が深いことをわかりやすく書くのは才能です。この本は、私が急いで読みすぎたせいもあるけど(一生懸命読みすぎて、お腹が痛くなった)、論旨が追いにくかった。くりかえしが多いのは連載された文章だから(?)かもしれませんが。(「あとがき」からはそのへんが読み取れませんでした)

交換様式

柄谷さんは、経済上(?)の交換様式を四つに区分します。

交換様式には次の四つがある。
  A 互酬(贈与と返礼)
  B 服従と保護(略取と再分配)
  C 商品交換(貨幣と商品)
  D Aの高次元での回復

私がこのように考えるようになったのは、経済的ベースを生産様式(生産力と生産関係)に見出すマルクス主義の見方ではうまく説明できないことが多かったため、それがさまざまな形で批判され、最終的に、経済的ベースという考えそのものが否定されるにいたったからだ。(P.1-2)

通常のマルクス主義経済学(「マルクス経済学」ではない)では、商品の価値を「労働」に求めます(労働価値説)。そして、その労働がなされる現場である生産過程に注目して、そこで価値が生まれ、その価値を誰が取得するか・どう分配するかを考えます。そして、そこに剰余価値や労働の疎外などを読み込むのです。階級的搾取は生産関係から(誰が生産手段を所有し、誰が労働を所有しているか等)説明され、生産力と生産関係の矛盾から、労働関係(資本主義的生産)の廃棄を目指します。生産的な資本、つまり産業資本を優先し、重商主義や重金主義という商業資本をマルクスは批判した、と言われます。柄谷さんとは随分違います。

この四つの交換様式は、新しいものではありません。後期マルクスの研究していたモーガン(モルガン)の頃からあります。また、史的唯物論でもそれに近いものがあります(本書でも言及されています)。それに、文化人類学の成果をくわえたのが、本書の基礎にある「四つの交換様式」です。

労働価値説

「労働が価値をつくりだす」というのは、マルクスが考え出したわけではありません。私が知っている限りではアダム・スミスが重商主義に対抗するために主張したものです。そして、マルクス等はそれを「労働者」が価値を創り出し、資本(家)が搾取する、という形にしました。

これがむずかしいところです。その価値は見えないからです。私が会社で仕事でパソコン入力しているのと、自分の部屋で趣味としてパソコン入力しているのは、ほぼ同じ作業です。私の趣味は「価値」を生み出しているのでしょうか。私が入力する1文字と、電通の社長が入力する1文字は価値が違うのでしょうか。私が畑を耕すのと、馬や耕うん機が畑を耕すのは違うのでしょうか。

ピカソが10分で描いた絵はそれなりの値段で取引されるでしょう。私が1日かけて描いた絵は「ゴミ(廃棄物)」でしかありません。子どもがマウスで書いたアイコンがすごい値段で取引されていたりもします。

目に見えない「価値」をどう考えるのか。山の民の米と、海の民の魚を交換するとき、米には山の民の労働が、魚には海の民の労働が含まれています。でもその交換(交換様式A。「物々交換」というものが史的にあろうがなかろうが)では「価値の実在」は現れません。柄谷さんのいう交換様式B(たとえば年貢と農民の保護の交換)でも「価値の実在」は現れません。でも、米が貨幣に変換され、その貨幣で魚を買った時、その交換を媒介する貨幣は「価値の実在」となります。価値が貨幣で現れたような幻想、貨幣にそのような「力」があるという錯覚が生じます。マルクスはこういう論理の進め方をしていません。むしろ「貨幣も一つの商品にすぎない」ということをマルクスは強調しているように思います。

重商主義から産業資本主義、さらに「信用」にもとづく金融資本主義に移行する社会をマルクスは見ていました。金融資本は「物」を創りません。そして現在、生産は有形の「物」ではなく、無形のサービスやデジタル化された「データ」あるいは「情報」と変わって(代わって)いるように見えます。

そもそも、資本の価値増殖をもたらすのは、物の生産自体ではなく、それがもたらす差異化である。いいかえれば、資本制の下での生産とは、むしろ差異の生産なのだ。その意味で、商人資本と産業資本の違いは決定的ではない。そうマルクスは考えていた。(P.297-298)

このように、産業資本の対象が物から情報に、有形から無形に転化したことは画期的に見える。しかし、それは、マルクスの『資本論』が示したこと、すなわち、資本の増殖を可能にするのは絶え間ない「差異化」だという認識を越えるものではない。(P.298)

「差異化」の顕著な例は「ブランド化」です。商品そのもの、あるいはその使用価値が同じものでも「ブランド名」をつけることによって価値が上がります。つまり「売れる」ようになります。同じ値段なら「ブランド名」がついている方を選ぶし、少し(?)高くても「ブランド名」がついた物(商品)を買ってしまうのです。「〇〇のバッグを持っている」というステータスシンボルを得ることができるからです。このことによって、バッグが差異化されているのではありません。「〇〇のバッグを持っている人」と「〇〇のバッグを持っていない人」という差異化です。「〇〇のバッグ」が流行(ファッション、トレンドなどいろいろな名前がついていますが)になれば、多くの人が「〇〇のバッグ」を持つことになります(画一化)。そして「××のキャラクターの付いた物を持っていない」少数者が差別されたりします。

また、この価値(利潤)を生み出す力を「希少性」と呼ぶことも流行っています。空気や水は生きていくために必要なだけじゃなく、誰にでも無償で手に入るものでした。狩猟採集生活では、衣料も食料も住宅も無償で手に入るものでした。でも、それらが手に入らなくなった時、それらは「希少性」を帯びます。その原因は「囲い込み」のような意図的なものであることもありますし、都市化による「過密」であることもあります。水は川や井戸から汲むことができなくなり、水道を利用するようになります。「水道代」を払わなければ、都市に住むことはできません。「ブランド化」も、それが「誰にでも手に入るものではない」という「希少性」とも言えます。最近は水もブランド化されています。

「水は水道から出るもの」になれば、水を汲む必要はありません。それは「楽になった」と同時に「水道に依存する」ということです。そして、それは「水を汲む(井戸を掘る)能力・技術」を失うことです。柄谷さんのいう交換様式Bがもたらす「服従と保護」というのは、保護されることによって、「自分の身を守る能力」を失ったことでもあります。医療の専門化は自分(たち)の健康を自分(たち)で守る能力を失うことです。学校制度は学ぶ能力を失うということです(イバン・イリイチ『生きる思想―反=教育/技術/生命』イヴァン・イリイチ著、藤原書店、参照)。つまり、希少性は「交換様式C」を生み出してもいるのです。私たちがお金を払うのは「希少性」という「作られた幻想・現象」に対してである、とも言えます。イリイチに習えば、それが「コモン」の略奪を生みだし、柄谷さんのいう「アソシエーション」を失うということになります。アソシエーションは、民衆の「生きる力」そのものです。

同じ「幻想・現象」をイリイチは「主観寄り」、柄谷さんは「客観寄り」に表現していると言えるかもしれません。

フェティシズム

明日、「エリザベス女王杯」が開催されるそうです。競馬には全く興味がありませんが、たぶん何万人という人が集まって、何百億円というお金が動くのでしょう。「百億円」なんて、うまく想像ができません。「万人」だって想像ができません。日本には「一億二千五百万人」の人が住んでいるそうですが、その数字は「抽象的(幻想・想像・空想)」です。その実態を見ることはできません。「数百億円のお金」というのも「抽象的(幻想・想像・空想)」です。私は小切手はもっていないけど、紙には「10、000、000、000円」と簡単に書くことができます。私が総理大臣なら「207、596、400、000、000円」の予算案に印鑑を捺すことができます(捺さないこともできます)。大蔵省印刷局に、お札の印刷を頼むこともできます。でも、それらには「実体」はありません。その幻想が利潤を生みだしているといってもいいでしょう。

実体のない人が、実体のない価値を生みだしたという幻想を、最終的にはお金を儲けた人が「実体のある焼肉」で味わうことができます。その「実体のなさ」、つまり「商品の(交換)価値」に古典派経済学者は「労働」という根拠(実体)を求めました。でも、商品をいくら弄り回しても「貨幣と交換できる(同等な)価値」は見つかりません。「労働」だって、見ることはできません。「人が作ったもの(人工物)だ」ということは、なんとなくわかります。でも、それを論理的に表現することはとても難しいのです(J.モノー『偶然と必然』参照)。

それは「商品の交換」でしか実証されないのです。それがマルクスのいう「物象」です。そして柄谷さんがいう「力」です。

生産物が商品となって交換される時、そこに発生する「霊」的な力を「フェティシズム、物神」とマルクスは呼びました。それは目に見えるものではありません。

そこで、ルカーチはそれを「人と人の関係が物と物の関係としてあらわれる」、つまり「物象化」と名づけました。物は見えますからね。ワルラスはそれを「効用」と呼び数値化しました。数字は見えますから。というか、見えるように思えますから。ルカーチは物という「客観寄り」に表現し、ワルラスは効用という「主観寄り」に規定したわけです。

 遊動民と定住化

放浪生活において、人々は必要な物があれば、それを得るために全員で移動した。また、獲得したものを貯蔵できないから、その場で平等に再分配した。(P.80)

だが、小さな共同体の中で自給自足することには、限界がある。(P.131)

一見、当たり前なことのように見えます。でも、それは「希少性」の社会に生きているからです。商品、あるいは交換がなければ生きていけなくなった人々が住んでいる社会に生きているからです。「必要は発明の母」、原因があって結果がある(因果関係)という発想です。ちょっと想像すればわかることです。商品がない社会、「交換」がない社会は、どこにでもあります。子どもは親と何かを交換しているでしょうか。それを「子どもは親に服従し、親は子どもを保護する」という「交換」だと言えば、「交換のない社会はない」ということになりますが。

食物は「つねに/すでに」ありました。「働かないと食べていけない」「魚を捕るのも木の実を採るのも労働だ」というのは、自分が生きている社会の文化を、他の文化や過去の歴史に投影しているだけです。その食料が「自然が生み出したもの」であろうと、産業社会が生み出したものであろうと、「ある」のです。

未開といわれる社会における、現在「労働時間」と言われるのも(生活時間と区別される)の割合の少なさは現代人を驚かせます。また、日本においても江戸時代以前の労働日はとても少ないようです。

「必要性(ニーズ)」というのが「漢語」なのか「仏教用語」なのか、「翻訳語」なのかはわかりません。少くとも、それが前面にクローズアップされたのは近代以降なのではないでしょうか。必要性の要因を「定住」に求めること、あるいは「コモンの喪失」「アソシエーションの崩壊」に求めることも、間違いではないでしょう。でも、「現在はそうだから」とか「自分がそう思うから」という自覚は必要です。

つまり、フロイトがいう「原父」なるものは、後に出現した家父長や王を前代に投影したものにすぎない。それは、ニーチェの言葉でいえば、「原因と結果の遠近法的倒錯」である(『道徳の系譜』)。(P.84)

この言葉を柄谷さんはどう思って引用したのでしょうか。ニーチェがどう意味で書いているのかはわかりませんが、柄谷さんは「原因と結果の取り違え」、「本末転倒」という意味で言っていると思います。「自分がそう思うから」という自覚がないと、すぐ「因果論そのもの」に絡め取られてしまいます。「キリンの首が伸びたのは、高いところの葉っぱを食べるため」的な因果論が横行しています。今西錦司は、空が飛べるまでのコウモリの羽は決して生存競争に有利ではなかったであろう、と言いました。

定住しない人びとは、たいてい意図的に繁殖力を制限している。(中略)また、激しい運動とタンパク質豊富な赤身肉の食餌という組み合わせは、思春期の訪れを遅らせ、排卵を不定期にし、閉経を早めることにもなる。(P.81)

という、ジェームス・スコット『反穀物の人類史』からの引用がありますが、「赤身肉の食餌」というのは近代西欧の食習慣から見たものにすぎないし、実際未開の社会における動物タンパク質の割合は決して高くはありません。逆に「野蛮人」という先入観もあります。「エディプスコンプレックス」「父殺し」も自分を「前代に投影したものにすぎない」のです。

「意図的に繁殖力を制限している」というのは、「意識的」という意味でしょうか。スコットには「そう見えた」「そう思えた」ということですよね。

無意識

一口でいえば、定住が「有機的」な状態をもたらしたのである。無機質の状態に戻ろうとする死の欲動があらわれたのは、その時である。(P.94)

意識の背後にあるもの(無意識や構造)を意識することはできません。当たり前です。それ自体が、「神的なもの」「宗教的なもの」の変形です。柄谷さんはまさにその「神的なもの」=「力」の存在を強調しているのです。そしてそれは「論理的に証明」できるものではありません。「論理」というのが意識そのものだからです。

サーモスタットがエアコンのスイッチを入れるのは暑いと思っているからだと言うこともできる。あるいは、足の指先が丸まるのは、そうすれば暖かくなると指が考えれいるからだとか、あるいは植物が太陽に向かって伸びるのは、そうすべきだと信じているからだとか。確かに実のところ、会話の便法として信念が動物や雲や樹木などにもあるという言い方をする文化は、ピダハンやワリを始めとしてたくさん存在する。だが、私が生活をともにして調査をした部族はほとんどの場合、このような信念があるとするのを文字通りに意図しているわけではなかった。(ダニエル・L・エヴェレット『言語の起源』白楊社、P.415)

むしろ、それを信じているのは「現代人」「文化人」といわれている人々なのではないでしょうか。

官僚制は上意下達のシステムであり、互酬原理が強い社会では成りたたない。人々は独立心が強く、上の命令に服従させられることを嫌うからだ。」(P.126)

「自由、平等、民主主義、独立」などというも西洋的な論理です。200年前の日本にはなかったし、今でも多くの国にはないのです。それでは、日本を含めた「西側の先進諸国」にはあるのでしょうか。私とあなたは平等でしょうか。男と女、大人と子供と老人、障害者と健常者・・・それらの不平等はいつか克服されるのでしょうか。「いまは実現されていなくても、いつか実現する」と考えることはできます。宇宙の成り立ちも、究極の真理もいつかわかる日が来るかもしれません。ただ、その時には私もあなたもいません(たぶん)。それは、私には「いつか無意識が意識できる日が来る」と言っているように思えます(無意識や意識を脳の部位の活動に還元する試みやAIが意識を持つかもしれないという考えなどは、まさにそういうことです)。

人間は文化のコードでものを見て、文化で考えます。それは避けられません。私は日本語で考えます。日本語は日本の文化です。単語にも、文法にも、日本の文化が絡みついています。私は日本の文化を通さずには考えられないのです。

共産主義(交換様式D)の実現

柄谷さんには申し訳ないのですが、途中の議論は飛ばします(ぜひ、本書を読んでください)。「注」の前、本文最後部の文章です。

では、国家や資本を揚棄すること、すなわち、交換様式でいえばBやCを揚棄することはできないのだろうか。できない。というのは揚棄しようとすること自体が、それらを回復させてしまうからだ。唯一可能なのは、Aにもとづく社会を形成することである。が、それはローカルにとどまる。BやCの力に抑えこまれ、広がることができないからだ。ゆえに、それを可能にするのは、高次元でのAの回復、すなわち、Dの力によってのみである。

ところがDは、Aとは違って、人が願望し、あるいは企画することによって実現されるようなものではない。それはいわば”向こうから”来るのだ。(P.395)

そこで私は、最後に、一言いっておきたい。今後に、戦争と恐慌、つまり、BとCが必然的にもたらす危機が幾度も生じるだろう。しかし、それゆえにこそ、”Aの高次元での回復”としてのDが必ず到来する、と。(P.396)

5年前の私なら、「諦めは仕方ないにしても、革命(変革)の放棄か」と決めつけて、この本を投げ出していたでしょう。私は諦めています。たぶん、30年くらい前から。いや、もっと以前からかもしれません。でも、諦めきれず、放棄もできませんでした。

「人が願望し、あるいは企画」しなくても「”向こうから”来る」ものなら、どんな努力も無駄だし、じ〜っと待っていればいい、ということになってしまいます。これこそが「諦念の境地」なのでしょうね。

不正、不平等に対する怒り、不自由に対して抗おうとする気持はどこから生まれるのでしょうか。その気持は、どこか深くから生じて、ある時には意識され、ある時には意識されません。自分の不満を意識化するのはむずかしいことです。「お腹が空いた」ことを、日本語で「お腹が空いた」と意識するのには、さまざまな段階、ステップがあります。誰かにそれを伝えるためには、日本語などの言葉(手話なども含む)にしなければなりませんが、小説やドラマのように「お腹が空いた、何か食べたいな、何かあったかな、何か作ろうかな」などと、文字や音で考えることは少ないように思います。大抵は言葉にはならないのです。「頭が痒いな、頭を掻こう、手を動かさなきゃ」と言葉で考えることはめったにありません。手を動かしたあとに(事後的に)、「頭が痒かったから掻いた」と思うのです。「何しているの?」と訊かれたら、そう答えられるだけです。

不正、不平等、不自由、不満等に対する怒りは、それが日本語となった時には「文化の影響」を受けていることは明白です。でも、そもそもそれらが「湧いてくる」のは、たぶん「人それぞれ」です。私とあなた、柄谷さん、岸田さん・・・とでは違うと思います。それらを「人類普遍の、あるいは永遠の願望・希望」と言うのは傲慢だし、「お前もそう思うべきだ」と言うのは、押し付け(強制)であり自己矛盾です。簡単に言えば「自由の強制」です。サルトルの言葉でいえば「自由の刑に処せられている」ということだし、フーコーの言葉でいえば「セクシャリテであることの強制」です。逆に言えば、性が抑圧されているわけでもないし、自由が妨害されているわけでもないということです。

性の解放や自由を意図(企画)することの不可能性を、柄谷さんは「言い換え」ているように思います。

「Aという国のBという時代(何年から何年まで)はこの交換様式」などと言うことはできません。「Aがあって、それがなくなってBがあって・・・」というように言うこともできません。それらが意図的に行われたと思うのは、現在の自分がいる(育った)文化の下で自分という〈自我〉がそう思っているだけなのです。

「神の声」(それが「自分の声」であることも多いのですが)をみんなが聞かないときにどうするか。暴力に訴えるのは、相手の「自由」を侵害することになります。「相手が納得するまで話す(話し合う)」というのはどうでしょうか。でも、「聞く・聞かない」も相手の「自由」ではないでしょうか。そこで「自分(主体、自我)」はハタと困ってしまいます。

民主主義にはその前提となる「ルール(規則、決め、あるいは定め)」があります。たとえば「多数決」です。複数(3人以上)の人がいるときに、より多くの人の意見を全体の意見とすることです。その決まったことが「正しい」かどうかは関係ありません。多数決は、「正しさを不問とする」か「多数意見を正しい」とするかのどちらかで成り立ちます。でも、「多数決というルール」はどう決まるのでしょうか。それが「全員一致であった」ということもありえなくもありませんが、暴力で決まったという可能性もあります。もし、暴力だとすれば、その暴力が「原罪」となります。その時の犠牲によって、以後の民主主義が成り立っているということです。多数決を支持する人が、そうではない人から離れて「社会を作る」ということもあるかもしれません。その時には「民主主義」の「普遍性(あるいは絶対性)」が失われます。その社会もまた、分裂の可能性をはらむことになります。

どうしたらいいのか、私には未だにわかりません。そして、この問は「解決されるべきだ」と思い続けています。弱い私は戦うこともできず、人に話しかけ続けることもできない私は、沈黙してしまいます。そして陰で、「悔しい」「寂しい」さらには「みんな死ねばいいのに」と恨み言をつぶやきながら生きてきました。結局、沈黙することしかできない私の言い分けを、柄谷さんが言ってくれているようです。

今思えば、マルクスを理解できない私も柄谷さんが救ってくれていたのかもしれません。

労働価値説の放棄を放棄したような、預言者(予言者?)あるいは「ある種の遺言」のような柄谷さんの言葉(宇野弘蔵もそうだったのでしょうか)。「向こうからやってくる」つまり「人間の意志に対する諦め」のような言葉は、現在の日本の社会状況、国際状況から来ているのかもしれません。

自分が学んできたことが何だったのか、柄谷さんから教わったことなのかそうじゃないのかもわからなくなってきました。でも、マルクス経済学をやりながら疑問に思っていたことは、きっと柄谷さんも思っていて、それで考え抜いたんだろうと思います。

社会と人間、我と汝

くりかえすが、われわれが今日見出すような環境危機は、人間社会における交換様式Cの浸透が、人間と自然との関係を変えてしまったことの所産である。それによって、それまで”他者”であった自然がたんなる物的対象と化した。(P.40-41)

ところが、氏族社会以降、すなわち国家社会では、「汝」であるアニマが神として超越化され、他方で、自然および他者はたんに支配・操作されるべき「それ」となった。それとともに、王の地位も絶対化されたのである。(P.153)

「汝」と「他者」は違うのでしょうか。「you(thou)」と「the other(others)」と言いかえると、前者は「自分と同じ」後者は「自分じゃない」というニュアンスが強いのかもしれません。でも、どちらも「私(I、我、自分、自我)」が対立するものとしてあります。そして、「私」が「主体」となることで、それ以外は「客体・対象」となります。「アニマ、アニムス」だって、「意識された I(Ich)」に対する「無意識的な人格」として考えられます。つまり、「意識対無意識」の対立です。意識とは、自我にほかならないのではないでしょうか。少なくとも「自分(意識)を自覚」したのが「自我」です。

自我(主体)なしに、客体や他者は存在しません。いや、自我(主体)が客体や他者を作り出すのです。それを踏まえた上で、「汝」と「他者」を考察するのはどうでしょうか。

日本語には主語がない、といわれることがあります。「主語(「主格」でも動作の主体でもいいけど)」は、印欧語の文法上の概念なので日本語にはありません。むしろ、それは「相手」によって成立します。インドでは「アートマン」と対するのは「ブラフマン」です。そして「梵我如一」が理想とされます。ヨーロッパではそういう思想は薄いのではないでしょうか。神ははじめから、自分とは違うものとして現れているような気がします。

差異化(希少性)がなくなったらどうなるか

「差異」とは「AとBが違う」ということですから、アリストテレス以来の論理(=印欧語の文法)です。

なんでも自由に(無償で)手に入る世界、希少性がなくなった世界では「差異」は利潤を産まないでしょう。AとBが違うということが「不平等」を生むこともありません。そういう世界で、人は満足できるでしょうか。できる人もいるでしょう。3,000年前に老子が「足るを知る」と言った時、差異化や希少性がなかったのでしょうか。この言葉自体が後世に作られた可能性もあります。その解釈が現在(解釈する人が住む時代)の文化を反映している可能性もあります。そうだとしても、現代に生きている人が、「人間って、かんたんに満足するものじゃないよなあ」とか「人の欲望は無限だからなあ」と思っているかぎり、「足るを知る」ことはできません。戦後はともかく、今の日本は「物(食べ物)がない」ために不満なのではありません。お金がなくて「今日食べるものが買えない」という人もたくさんいると思いますが、今日食べることができる人も「明日の食べるもの」「一ヶ月後の食べるもの」「一年後食べるもの」、あるいは「100年後食べるもの」を心配します(そのリスクが商品となります)。

最近日本語化した「サブスク」ですが、一度に観ることができる映画や、一度に読むことができる漫画は一つだけです(2・3個くらいなら同時に観たり読んだりすることは可能ですが)。私は本が好きですが、「読むこと」はあまり好きではありません。むしろ、「買うこと」「所有すること」が好きです。そうすると「読んでいない」本がどんどんたまります。私の友人は「読むこと」が好きです。そして、読んでしまった本はどんどん捨てています。あなたはどう思いますか。彼は「読んでいる」だけ私よりずっとマシだ、と私は思いますが。

私が住んでいる社会は「使う・消費する」ことよりも、所有することが大切な社会。「使う・消費する」ことが「所有を前提とする社会」です。「消費社会」とか「使い捨て社会」といわれますが、それは「蓄積社会」でもあるのです。社会に「商品・データ」が増えれば増えるほど、自宅に(読んでいない)本が増えれば増えるほど、私自身は小さくなります。

それでも私は、虎の威を借る狐のように「日本には捨てるほど物がある」「技術(知識)もある」と「貧しい国」に優越感をもっています。サブスクはそういう気持からの「脱却」でしょうか、そういう気持の「延長」でしょうか。

どちらにもなり得ると思います。貨幣退蔵が「消費の諦念」であるように、物の生産から「サービス(データ)の生産」に変わることは、「所有」というものが変化しているのでしょう。物を「生産する、買う、捨てる」などは「意識的行為」です(基本的には無意識の行為には責任が伴いません)。私が「主体を放棄できない」代わりに、「客体の意味」が変わる可能性はあるかもしれません。「それはいわば”向こうから”来るのだ。」そういう意味かもしれません。それは「自我」がどうすることもできないところにあるからです。それが「希望」(ブロッホ、本書P.380〜)になるのでしょうか。

[著者等]1941年生。思想家。 著書に『定本日本近代文学の起源』『トランスクリティーク―カントとマルクス』『世界史の構造』『哲学の起源』(以上、岩波現代文庫)、『世界共和国へ』『憲法の無意識』『世界史の実験』(以上、岩波新書)、『定本 柄谷行人集』(全5巻)、『定本 柄谷行人文学論集』(以上、岩波書店)、『ニュー・アソシエーショニスト宣言』(作品社)ほか多数。
生産様式から交換様式への移行を告げた『世界史の構造』から一〇年余、交換様式から生まれる「力」を軸に、柄谷行人の全思想体系の集大成を示す。戦争と恐慌の危機を絶えず生み出す資本主義の構造と力が明らかに。呪力(A)、権力(B)、資本の力(C)が結合した資本=ネーション=国家を揚棄する「力」(D)を見据える。

【目次】
序論
 1 上部構造の観念的な「力」
 2 「力」に敗れたマルクス主義
 3 交換様式から来る「力」
 4 資本制経済の中の「精神」の活動
 5 交換の「力」とフェティッシュ(物神)
 6 交換の起源
 7 フェティシズムと偶像崇拝
 8 エンゲルスの『ドイツ農民戦争』と社会主義の科学
 9 交換と「交通」

第一部 交換から来る「力」
予備的考察 力とは何か
 1 見知らぬ者同士の交換
 2 自然の遠隔的な「力」
 3 「見えざる手」と進化論
 4 貨幣の「力」
 5 定住化と交換の問題
 6 共同体の拡大と交換様式
第一章 交換様式Aと力
 1 贈与の力
 2 モースの視点
 3 原始的な遊動民と定住化
 4 トーテミズムと交換
 5 後期フロイト
 6 共同体の超自我
 7 反復強迫的な「力」
第二章 交換様式Bと力
 1 ホッブズの契約
 2 商品たちの「社会契約」
 3 首長制社会
 4 原始社会の段階と交換様式
 5 首長が王となる時
 6 カリスマ的支配
 7 歴史の「自然実験」
 8 臣民と官僚制
 9 国家をもたらす「力」
第三章 交換様式Cと力
 1 貨幣と国家
 2 遠隔地交易
 3 帝国の「力」
 4 帝国の法
 5 世界帝国と超越的な神
 6 交換様式と神観念
 7 世界宗教と普遍宗教
第四章 交換様式Dと力
 1 原遊動性への回帰
 2 普遍宗教的な運動と預言者
 3 ゾロアスター
 4 モーセ
 5 イスラエルの預言者
 6 イエス
 7 ソクラテス
 8 中国の諸子百家
 9 ブッダ

第二部 世界史の構造と「力」
第一章 ギリシア・ローマ(古典古代)
 1 ギリシア芸術の模範性と回帰する「力」
 2 亜周辺のギリシアの“未開性”
 3 ギリシアの「氏族社会の民主主義」
 4 キリスト教の国教化と『神の国』
 5 悲惨な歴史過程の末の到来
第二章 封建制(ゲルマン)
 1 アジア的なあるいは古典古代的な共同体との違い
 2 ゲルマン社会の特性
 3 ゲルマン社会における都市
 4 修道院
 5 宗教改革
第三章 絶対王政と宗教改革
 1 王と都市(ブルジョア)との結託
 2 「王の奇蹟」
 3 臣民としての共同性
 4 近代資本主義(産業資本主義)
 5 常備軍と産業労働者の規律
 6 国家の監視
 7 新都市

第三部 資本主義の科学
第一章 経済学批判
 1 貨幣や資本という「幽霊」
 2 一八四八年革命と皇帝の下での「社会主義」
 3 「物神の現象学」としての『資本論』
 4 交換に由来する「力」
 5 マルクスとホッブズ
 6 株式会社
 7 イギリスのヘゲモニー
第二章 資本=ネーション=国家
 1 容易に死滅しない国家
 2 カントの「平和連合」
 3 自然の「隠微な計画」
 4 帝国主義戦争とネーション
 5 交換様式から見た資本主義
 6 資本の自己増殖を可能にする絶え間ない「差異化」
 7 新古典派の「科学」
第三章 資本主義の終わり
 1 革命運動とマルクス主義
 2 十月革命の帰結
 3 二〇世紀の世界資本主義
 4 新自由主義という名の「新帝国主義」
 5 ポスト資本主義、ポスト社会主義論
 6 晩年のマルクスとエンゲルスの仕事
 7 環境危機と「交通」における「力」

第四部 社会主義の科学
第一章 社会主義の科学1
 1 資本主義の科学
 2 『ユートピア』とプロレタリアの問題
 3 羊と貨幣
 4 共同所有
 5 「科学的社会主義」の終わり
 6 ザスーリチへの返事
 7 「一国」革命
 8 氏族社会における諸個人の自由
 9 私的所有と個人的所有
第二章 社会主義の科学2
 1 エンゲルス再考
 2 一八四八年革命挫折後の『ドイツ農民戦争』
 3 一五二五年の「階級闘争」
 4 原始キリスト教に関する研究
 5 共産主義を交換様式から見る
第三章 社会主義の科学3
 1 物神化と物象化
 2 カウツキーとブロッホ
 3 ブロッホの「希望」とキルケゴールの「反復」
 4 ベンヤミンの「神的暴力」
 5 無意識と未意識
 6 アルカイックな社会の“高次元での回復”
 7 交換様式Dという問題
 8 交換様式Aに依拠する対抗運動の限界
 9 危機におけるDの到来


あとがき

[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4000615594]

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