あなたの孤独は美しい 戸田真琴著 2019/12/19 竹書房

あなたの孤独は美しい 戸田真琴著 2019/12/19 竹書房

タレント本?

カバーの写真、上からのアングル。小さく屈む真琴ちゃん(愛称はまこりん)。素敵です。青一色に白地の表紙のセンスもいいですね。

中表紙の写真は白黒の真琴ちゃん。アイドルのエッセイ風です。

著者の真琴ちゃんは元AV女優(今年引退したようなので)です。

どうして二〇代の小娘、しかもAV女優に自分を肯定されなければいけないのか、という疑問は、あなたがこの本を読み進めていくうちにーー納得して貰えるところまで私が連れていくことができたならーー解けるものだと信じています。(P.2)

Wikipediaのプロフィールによれば、1996年生まれ。本書出版当時は23歳です。私の子どもたちより若い「小娘」です。彼女のAVは10作品以上観ています。私の大好きなAV女優の一人です(引退が悲しいので引退作はまだ観ていません)。彼女が監督をしたAVは観ましたが、映画は観ていません。多才な人です。

彼女のもう一つの著作『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』を買う決心が付きました。どちらもタイトルがいいですね。引きこもっていて孤独な私、人を愛したことがないことに今更気づいてしまった私にぴったりです。(汗)

有名人やタレント・アイドルが本を出すことがあります。それらにはゴーストライターが書いたものもあるようです。自身の生い立ちを描いたエッセーもあります。ファンとしての読者はその著者のことが知りたくてその本を買います。なぜ知りたいのかは難しい問題ですが、その欲望に応えるため、タレントやアイドルは自分自身を語ります。AV女優も同じです(鈴木涼美著『「AV女優」の社会学 なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか』参照)。

その人の生い立ち(プロフィールも)が「本当のこと」かどうかはわかりません。つくり出された偶像(まさに「アイドル」)かもしれません。「AV女優が書いた本」として、本書をそういう興味本位(覗き趣味、ミーハー)で手に取る人もいるでしょう。本書を真琴ちゃん自身が書いたとしても出版までに編集者のいろいろな手が入っているかもしれません。いいじゃないですか。編集者の手が入っていない本なんてめったにあるもんじゃないし(ないと思う)、世間に知られていない人が書いた本なんて誰も手にとってもらえないのですから(だから出版されない)。真琴ちゃんが自分をさらけ出しながらみんなに伝えたかったことを、しっかり受け取りたいとわたしは思います。

文章がいいです。そして構成もいい。文章を書きなれているし、書くことが好きなんだろうと思います。ただたんに孤独に悩んでいる人を「励ます」「頑張れ」という内容ではありません。自分の人生を振り返りながら、深い思索を通じて、読む人の心に寄り添うような内容になっています。

宗教2世

安倍元総理の襲撃事件を機に、旧統一教会信者の2世がマスコミを賑わせています。法改正や訴訟も起きているようです。児童虐待が問題になったのは最近のことではありませんが、今日では「毒親」「親ガチャ」などの言葉も流行しています。わたしが子供の頃は、博打好き・酒好きの父親や『巨人の星』の「星一徹」のようなスパルタ教育をする父親がメインでした。最近は育児放棄やネグレクトなどが情報番組を賑わし、その主役は主に母親のようです。父親が家庭で占める位置がいよいよ薄れてきているのかもしれません(母親の負担が大きくなっているということです。父親の居場所はどこに?)。

ある新興宗教の信者(女性)が小さな子供を連れて(子供はたいてい小さいのですが)私の家に来たことが何度かあります(最近来ないなあ)。私は宗教には興味がなかった(批判的だった)ので、その親の言うことをまともに聞くことはなかったのですが、その子供が可哀想で仕方ありませんでした。どういう家で育ったかということは、子供の人生や考え方に大きな影響を与えます。日本で生まれ育った人が日本語を覚え、日本語で考えるように、子供にとってはそれが「世界」「すべて」ですから。

子供はいつか「自我」に目覚めます。そして「私ってなんだろう」と思い始めます。多くの人が「なにかおかしい」「自分は不幸だ(周りから見れば幸福かもしれないけど)」と思い始めます。家庭のなかの自分の居場所に疑問を持ち、薄れていきます。そして「不幸なのはこの家に生まれたことだ」と思い、「悪いのは親だ」と考える人もいます(そう思うのは「まだ自分は家庭・家族の一部だ」と思っているからなのですが)。

親のせいなのか、親のせいにして良いのか。著者がどう考えたのでしょうか。本書を形作っている根底にあるのはその思索の過程と結果なのだろうと思います。

なぜ自我に目覚めるのか。「自我」とは何か。それについて著者は、「心というものはそれ自体、いつも自由でいる術を必ずどこかに隠し持っている」(P.18)と表現しています。

自分が何を信じて生きていくか、ということを、選択する自由が人間という生き物にはそもそも備わっているのだということを本能で知っていて、それを裏切ることができなかったのだと思います。(P.21)

日本国憲法の下で「自由と平和・民主主義」の教育を受けてきた私たちは、「自由」をとても大切にします。(今現在よりももっと)自由を必要と感じ、不自由(束縛、支配)を嫌うのは、まさしく「自分自身」つまり「自我」です。その自我は「身勝手で勇敢」(P.21)です。

その時私は、「好き」であることと、「その人の全てを信じる」ということを、全く分けなければ守れないものがあるな、と確信しました。ここでいう守りたいものは、何を隠そう自分自身のことです。(P.20)

子供が「自分自身」を守らなければならないような環境、そして子供が社会や家庭の中の自分自身の「居場所」を見つけられない(失う)環境が「児童虐待」なのではないでしょうか。

個性

私は「普通の」(裕福ではないけど)幸福な家庭に育ったと思っています。父母は愛し合っていたと思うし、私も愛されていたと思います(父は厳しかったけど)。その中で私は「普通のこども」として育ちました。「普通」というのは「どれも同じ」「個性がない」ことだと感じていました。戦後の民主教育をうけた私は、「自由・平等」のほかに「独立・自主性」、そして「個性」が大切だと思っていました。「人(他人)と同じ」ではだめだったのです。

「普通の幸せな家」に生まれ育ったことを「不幸だ」とすら感じていました。金持ちの家に生まれれば、欲しい物がもっと手に入ったし、芸術家の家に生まれれば「特別」でいられます。「お前は橋の下から拾ってきたんだ」という親の冗談が本当であればよかったとも思いました。

真琴ちゃんは「普通とはちょっと違った家に育ったのだ」(P.18)と気づいてしまいます。「特別(異常)でいようとした普通の私」と、「普通でいようとした異常(特殊)な真琴ちゃん」と言えるかもしれません。

そんな中、それでも「自分と、自分を育ててきた家族の価値観だけがおかしくて、周りは正常なんだ」とは思いたくないのが人の、特には子供の心理というものでしょう。(P.31)

そして親の教育のために「貞操を守っているひとは美しい」という「処女童貞信仰」に達してしまいます。

そういう好み、いわゆる「そういう性癖」なのだと割り切ってしまうことにすると一転、自分の人生がユニークなものであるかのような気がしてくるから不思議です。(同)

「ユニーク」つまり「個性的」であることがプラスの価値を持っているというのは、私をふくめて多くの人が抱く感情です。もちろん、望んでユニークになろうとする人と、ユニークにならざるを得ない人がいるでしょう。普通(みんなと同じ)になりたい人もいるし、「普通になることはとっても難しいこと」ともいわれます。

でも、明治以降に輸入された「個人」「個性」という言葉は「他とは違う(同じではない)」という意味を含んでいます。日本にはなかった(!)「自然」や「社会」という概念の輸入と同時に、それを「分割・分類」するという作業が生まれ、その結果「分けられないもの(in-divisual)」という「個人」が結論されます。分けられないのは自分の「体」ではありません。自分の「心」、意識を持った「主体」としての「人格」をもった「自己(自我)」です(多重人格のように人格が違えばそれは「分割可能」と考えられます)。人間が、そして自分が「主体」の側に置かれ、「他者」や「自然物」は「対象」となります。それは、けっして「主体と同じもの」ではなく、その「あいだの溝」は消えません。自己(主体)から隔てられて「対象」となった他者や自然物は、主体が研究・理解・操作・支配・所有するものでしかありえません。そこから劣等感や優越感も生まれてきます。主体の「孤独」の必然性もここから生まれてきます。

そういう文化のなかで「私たち」とか「みんな」と言うときは、客観的なようで、あくまでも「主観的なこと・自分のこと」になります(聞く方もそういう意味で解釈します)。「世界」とか「人間」と言うときも同じです。「近代西洋社会」であったり、「西洋人」であったりするのです。今の若い人はわかりませんが、私の年代ではそれらの言葉を「(自分が含まれるかどうかに関わりない)客観的な発言」ととらえてしまうので、簡単に騙されてしまいます(笑)。

誰にも羨ましがられない存在

お姉ちゃんとの関係(愛情や思いやり)などを通じて、真琴ちゃんは「誰にも羨ましがられない存在」になろうとします。「私のほうがお姉ちゃんよりも絵が上手いということ」(P.51-52)に気づき、お母さんが「真琴ちゃんの方が上手だね」と言った時のお姉ちゃんの悲しい顔を見て、「お姉ちゃんが悲しむので絵を描くのもなるべくしないように」(P.53)します。やさしいですね。得意だった勉強に関しても、

ここでも、自分が得意なことに対して、誰かに劣等感を抱かれるとき、まるで自分がその人を悲しませてしまったような気持ちになるという悪い癖が出て、私はだんだんと、勉強なんかできない方がいいと自分に対して思うようになりました。(P.53)

本当に優しい人です。

これは持論ですが、優しさというものには実体はなく、その正体は実際のところ「想像力」だと思っています。(P.114)

孤立した(他者や自然物と切り離された)自己(自我)を救う方法、他の自我(他者)と繋がる可能性はその優しさ(友愛・博愛)しかないのです。西洋(キリスト教)社会において、「愛」が叫ばれるのは、「個人(自己・自我)」の確立のために必要なことだからです。旧来の日本において「個人(自己・自我)の確立」を目指す必要はありませんでした。ですから、「愛」をことさら叫ぶ必要もなかったのです。日本にあったのは「色」「恋」「め(愛)でる」あるいは「慈悲」などでした。私が「愛」になんとなく「嘘くささ」を感じるのはそのためです。

もう一人の私

ノートを開き、頭の中で私の話を聞くためのもう一人の私を思い浮かべます。そして、その"私"に話しかけるようにして今日の出来事やその中で感じたことをペンで書いていくのでした。そこでは、他の誰かに話したときのような「考えすぎだよ」とか「そんな風に思うのは異常だよ」といった、一般論という名の否定がなされることはありません。(P.61)

「もう一人の私」は、まさに「自己を対象化」するということです。「感じたこと」「考えたこと」は自分の「内側」にあります。他の人はそれを見ることはできません。それを書くことで、それらは自分の「外側」に現れます。外側に現れ「見える化(物化・対象化)」されたもの(文字)は自分だけじゃなく他の人も読むことができます。私がこの本を読むことができたのも、真琴ちゃんの気持ちを知った(ような気になっている)のもそのお陰です。でも、それで真琴ちゃんの「本当の思い」がわかったとはかぎらないし、真琴ちゃんが自分の思いを「本当に表現できた」というわけでもないでしょう。「自分という殻(他人との溝)」というのはとても大きくて深いのです。

所詮、誰かのためになりたいと願いながらも、自分の思いを無視することはできない程度の人間だったのでした。(P.68)

私は「誰かのため」という言葉や「ボランティア」という行為に、どうしても素直に「いい(良い)」と思いこむことはできませんでした。どこか嘘くさく(胡散臭く)感じるのです。「ボランティアをすることによって、本人が満足をしているだけ」でもいいじゃないか、それで助かる人がいるんだろうから、とは思っても、私自身がボランティアをすることは極力避けてきました。学校などで「やらされる」ときも、内心で自分を「偽善者」と思い、同時にそう(偽善者と)見られていないかとドキドキしていました。そして、ボランティアをする人をどこかで軽蔑しつつ、できない(していない)自分を「ダメなやつ」だと暗い気持ちになっているのでした。「しない」言い訳を何十年も考え続けてきたような気がします(今でも考えています)。

その選択の末に、いつかあとからついてくる経験や出会いや記憶という宝物を求めて、足を止めずに生きていくのが、人生というものの面白さなのかもしれません(P.72)

無駄にモテなくていい

(AV女優になった理由を列挙する中で・・・引用者)そうして自分を晒して生きていれば、いつか今よりもっと分かり合える誰かと出会える可能性が増えるのではないかと思ったこと、(P.70-71)

「処女童貞信仰」のまま、『「私、Hがしてみたいんです。」 戸田真琴 19歳 処女 SOD専属AVデビュー』(2016年06月23日)で真琴ちゃんはデビューします。

#ファレノ女学院 料理編」全部見ました。とっても面白かったです。ファンクラブに入ろうかな。

歌手になりたい、漫画家(画家・イラストレーター)になりたい、俳優になりたい、アイドルになりたい・・・女の子も男の子もさまざまな思い(夢)をもっています。歌がうまいので歌手になりたい、絵が上手いので漫画家になりたいというのは分かります。俳優になりたいというのは必ずしも「演技がうまいから」ではないですよね。役を演じる、つまり「自分じゃない人になる(別の自我になる)」という快感を一度知ってしまうと忘れられないのかもしれません(それくらい「他者のとの溝」というものは深く、かつ、その溝を越える誘惑は強い)。また「作品」をつくりだすこと、それも一人でではなく他の人々と協力してつくりだすのはとても楽しいことだと思います。「アイドルになりたい」というのはどうなのでしょうか。私が子供の頃はアイドルは「雲の上」の人で、私には縁のない世界の人でした。今はアイドルの売り出し方が変わったこともあって、とっても身近な存在ですよね。内気でモテることと縁がないくせにとても性欲が強かった私は、有名になって、人気ものになって「モテたい」と強く思いました。モテたいという思いは半世紀をすぎた今でも変わりません(汗)。

モテる人のことが羨ましく感じられるのは、その人が多くの人に好かれるわかりやすい魅力を備えていることが多いからでもあると思います。わかりやすい魅力というのは、容姿が整っているとか、髪型や服装が異性にとって魅力的に感じられるものであるとか、そういった「深く考えなくてもわかる良さ」によって醸し出されるものです。たくさんの人に好かれるというのは、そのうちに「深く考えずに好きになっている」人が多く含まれることも多いのです。(P.91)

なるべくわかりやすく作品を作ること、わかりやすく報道すること。「わかりやすさ」というのは、「便利・楽チン」とつながっています。考えずに済むことは、面倒なことをしなくて済むということです。歩く代わりに自動車を使い、自分で開ける代わりにゴミ箱やトイレの蓋が開くこと、店に行かなくても食事(商品)が家に届くこと、・・・お金をつかえば体を使わなくて済みます。戦争や犯罪、事故などをとりあげる情報番組も「わかりやすさ」が基本です。だから、流れる情報は深く考えることを拒否します。事実を見たり、本を読んだり、情報を集めたりしなくても、ネットが答えを教えてくれる時代です(「ChatGPT」が典型的です)。考える必要はありません。キー入力ができなくても、「Hey, Siri」などと声をかけるだけでいいのです。

処女、痴女、変態、M男、S女・・・などの象徴的な言葉はその中身を考えることなく直接あるイメージを喚起します。俳優はそのイメージ通りに演じることを求められます。イメージ通りの発言をし、イメージ通りの過去を持っていなければなりません。結果として、政治家は政治家を演じなければならないし、AV女優はAV女優を演じなければならなくなります。

たくさんの異性に好かれることがないという人生が、本来ごく普通で自然なものなのではないでしょうか。私自身それでいいと思っていますし、これからも、もちろんAV女優として活動していく上で多くの人に好意を持ってもらうことは大切なお仕事のうちではありますが、それを超えてプライベートでモテたいとか、街でナンパされたいとか、そういったことを思うことは全くありません。(P.92-93)

自分は一人なんだから、10人にモテる必要はないですよね。10人を同時に愛せる人はいるかもしれませんが、その人が愛した10人の人がみんな10人を愛せる人ではないだろうし、相手が10人と付き合うことを許せる人だとも限らないでしょう。

「この人と付き合うわけじゃないのに無駄に心を奪うようなことをしてしまったのか」と、少し申し訳ない気持ちになります。(P.89-90)

人を好きになることは、きっと「自分で決められないこと」「抑えられないこと」でしょう。異性を好きになるというのが本能かどうかはわかりません。「母性本能」なるものがあるのかどうかもわかりません。親子の愛が必然だとも思いません。よく動物の親子(母子)の例を出して、母性本能の説明としたり、孔雀などの「求愛行動」なるものを例にして、「異性愛」を本能的な行動と説明したりします。でも、古典ギリシア人の少年愛は有名ですし、どの時代にも必ず同性愛者がいます。

ゲイやレズビアンの人々はたいていは自分では子をなさず、自分の遺伝子、特に同性愛行動に関する遺伝子のコピーをほとんど残さない。それなのに、なぜいつの時代にも増えもせず、減りもせずに一定の割合で存在し続けるのだろうーー。(竹内久美子著『フレディ・マーキュリーの恋』文春新書、P.13)

もし、同性愛しか認めない(異性とのセックスを認めない)文化があったとしても、その文化はあっという間に滅びただろうし、今有性生殖をする生き物だって、たまたまそういう形で存在しているのであって、存続できなかった種は現在では存在していないだけです。動物に「求愛行動」や「母性愛」を見出すのは、「求愛行動」や「母性愛」を持つ文化に住んでいる人が動物にそれを投影しているだけなのではないでしょうか。

それは別としても、今の社会の現実は、恋愛ができない人が「恋愛しなければならない、結婚しなければならない」と人生の多くの時間を費やしたり、「子供を愛しなければならない」と親(特に母親)を束縛(脅迫)している側面はありますよね。親を大切にしなければならない(親孝行)ということの反動が「親ガチャ」です。どちらにしても「努力して好きになる」ものではないでしょう。

わかりやすい魅力

恋愛(やセックス)が強迫観念にまで高まっている社会で、多くの人がその対象を求め(渇望し)ます。ヒーローやアイドルには多くの子供達が憧れます(多分親も)。そしてそれを見出すのは、テレビやドラマや映画(その昔は本、さらに昔は昔話や神話)です。恋愛やセックスもドラマやAVに見出すことが多いでしょう。

じっさい、パイドロス、ものを書くということには、思うに、次のような困った点があって、その事情は、絵画の場合と本当によく似ているようだ。すなわち、絵画が創り出したものをみても、それは、あたかも生きているかのようにきちんと立っているけれども、君が何かをたずねてみると、いとも尊大に、沈黙して答えない。書かれた言葉もこれと同じだ。(中略)それに、言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く。そして、ぜひ話しかけなければならない人々にだけ話しかけ、そうでない人々には黙っているということができない。(『パイドロス』プラトン全集第5巻、P.257)

文字も絵画も映画もドラマやAVも、「寡黙」であり「饒舌」です。それらは作者の意図することを表さないし、意図しないことまで受け取り手に与えます。でも、それが「実際の人や物」と根本的に違うのは、受け取り方は受け手に任されているということです。だから、一方的に愛することもできるし、観ない(読まない)で無視することもできます。「実際の人や物」とちがって、動かすのに力がいるわけでもないし、反論を言ってくることもありません。一方的にいくらでも好きになることもできます。

そして、文字として書いてあること、映像として映っていることが全てです。「容姿が整っているとか、髪型や服装が異性にとって魅力的に感じられるものであるとか」「わかりやすい魅力」だけを表現しています。演技をしている女優の視線の先にあるのは「視聴者」ではなくて、カメラやカメラマンなどのスタッフです。編集された影像では監督の声もしないし、休憩中の女優の姿も映っていません。もちろん女優の私生活も映ってはいないのです。だから、視聴者はプロフィールだけじゃなくて女優の過去も知りたくなるし、ゴシップも欲しがります。それに答えるために女優は「饒舌に自らを語る」のです。そして視聴者は、その「情報」で女優を「知った気」になります。

ツイッターやめたら元気になった

いくら饒舌に語る女優の声を聞いても、インタビュー記事やゴシップ記事を読んでも、一人の人間としての女優を知ることはできません。ましてや「マッチングアプリ」や140文字のSNSでその人を知ることなんてできるわけがないじゃないですか。

「フォロワー数」や「リツイート数」などの数字は、身長やスリーサイズ同様、それ自体がなにかの価値を持っているわけではありません。その数字を見た人が「人気があるんだな」とか「背が高いんだな」とか「グラマーだな」とか思い描くのです。

本来、ものや人の価値というのは数字では測れません。「いいね」をされなくても誰かにとっては何万いいねがついたツイートよりも価値がる言葉がありますし、何よりツイッターというのは一四〇字以内でインスタントに楽しめるということが特徴のSNSなので、言葉にしても漫画にしても写真にしても、その魅力が深いかどうかよりも、より簡単に楽しめるかどうかというところに価値観の重きが置かれます。(P.121-122)

世はまさに、インスタントコミュニケーション時代と言えるでしょう。(P.122)

「インスタントコミュニケーション時代」、いい言葉ですね(使わせてもらいたい)。旅行も勉強も恋愛も家にいて一歩も動かずに体験できます(できたような気になります)。「簡単」で「便利」なことが優先される時代です。今では本も漫画も映像作品も「デジタル化」されていて、いつでもどこでも(スマホやパソコンさえあれば)見ることができて、「(物理的な)物」の姿すらとらなくなりました。物理的な物すらデジタルという「数字」になってしまっているのです(「お金」というのが最も数字的なものですから、それがデジタル・オンライン通貨になるのは当然です)。

女優やアイドルに実際に触ることは難しいですが、それでも私の若いころは写真集やCD・DVD・BDという「物」でした。手に取ることができる代わりに、持ち運んだり取りに行ったりページを捲ったり保管場所や保管方法を考えたりする「手間」がありました。それがなくなりつつあるのです。それはいいことなのでしょうか。その良し悪しを考えるより、もっと根本的なことが「なぜデジタルになるのか・デジタルになるものとは何なのか」です。

紙に書かれた文字や絵が「書かれたものそのもの」ではないことは明らかです。真琴ちゃんが書いた本は真琴ちゃんではないし、真琴ちゃんが出演しているAVも「真琴ちゃんそのもの」ではありません。もちろんそこに「真琴ちゃん」が全然いないわけではありません。でも、そこに表れているのは「文字で表せる程度」「絵(映像)で表せる程度」の真琴ちゃんでしかありません。つまり「わかりやすい」真琴ちゃんでしかないのです。だから「数字(デジタル)」にすることができるのです。

会ったこともないアイドルや俳優が人気ものになる社会は、その社会の基準が人間そのものではなくて、お金や数字や文字や写真などの「わかりやすい魅力」が重視される社会だということです。私は、そこに住む人たちが人と人とのつながりを断たれるなかで、その偶像に「しがみついている」ように思えてしまいます。

白でも黒でもないグレーのままで

何かにつけて誰かを言い負かしてしまったり、言い負かされそうになってストレスを溜めてしまったり、面倒だからと折れてしまったりする世の中で、だれも自分以外の人の選んだグレーをばかにすることなく、自分の考える白や黒で無理やり塗りつぶすこともなく、大事にし合えたらいいのだろうな、と思います。(P.131)

私は数学や理科が好きでした。その理由のひとつは「答えがひとつだ」ということです。白黒がはっきりしているからです。「正しい・間違い」「良い・悪い」「勝ち・負け」「オン・オフ」・・・、どちらかです。だから「絶対に正しい」ものがなければならず、それ以外のものは「間違い」でした。「0」か「1」、つまりコンピューターの世界です。

「絶対の真理(正義・正解)」(科学的にも、思想的にも、宗教的にも)は、今は見つかっていなくても、それはあり(存在し)、それに近づいてみんな頑張っているんだ、頑張るべきなんだ、と思っていたのです。私は宗教が大嫌いでしたが、科学的真理があると思っていることは、宗教的真理があると思っていることと同じだということに気が付いたのは最近です。その二つを区別することはできないのです。科学的真理を持っていないくせに、私は信仰心をもっている人を馬鹿にしていました。何と傲慢だったのでしょう。

「アヴァンギャルド」という言葉が大好きでしたから、「中庸」とか「中道」とかいう言葉は大嫌いでした。また、社会主義ではなくて共産主義、共産主義ではなくて無政府主義(アナーキズム)が好きでした。アナーキズムとデカダンとニヒリズムはアヴァンギャルドととても相性がいいのです。真っ白と真っ黒は近いのです(でも、実生活は至って平凡・普通でした。少し外れていたかもしれませんが)。

コンピューターはたしかに「0」と「1」です。「0」と「1」は電気の「オン」「オフ」なのですが、実際は電荷の有無です。そして純粋な水を作り出すのが難しいように、完全な電荷ゼロというのはありません。全く同じ記憶素子(物質)もありません。常にある程度の「誤差」があります。なので、たとえば「0から0.3をゼロ」「0.7から1をイチ」というように定めてコンピューターは動いています。ここで行われているのは「・・・0.01、0.1、0.2、0.3、・・・、0.7、0.8、0.9、0.99・・・」という「実際の値」と「ゼロとイチ」という観念との置き換えです。もう少し言うと「0.01」という数値も自然界にあるものではありませんね。それは人間、いや、「ある文化」が「便宜上決めたもの」です。

永遠が欲しい

お洋服やアクセサリーや靴、身につけるものはいつも少しくらい値が張ってもいいから少なくとも一〇年後の私も気にいるような、自分の心からいいと思えるものしか買わないようにしてしまうし、言葉だっていつも、いつの時代も変わらない、何年前の自分でも何年後の自分でも同じことを言うだろうな、という言葉だけをなるべく選んでいたいと願いながら発信しています。

0か100か、一瞬か永遠か、そんな判断ばかりをして生きています。(P.147-148)

私は100円ショップをよく利用します。同じようなものなら100円(実際は110円)で買えるに越したことはないと思うのですが、すぐ壊れたり、変色する物も多い。結果、使わなくなった「100円グッズ」が家のアチラコチラにあります。どれもプラスチックの成形されたものなので、直して使うことは考えられていません。ゴミとして捨てるしかないのです。

少し高いものを買えば長く使える事はわかってはいるのですが、なかなかね。

商品の価格は物としての商品に「そなわっているもの」ではありません。その証拠に値段は変わりうるものです(市場が決定するといっても同じです)。

「いつの時代も変わらない、何年前の自分でも何年後の自分でも同じことを言うだろうな、という言葉」というのはあると思います(芥川龍之介の『侏儒の言葉』は中学生の頃から、何度も読み返しています。今でも時々読み直します)。それを認めた上ですが、この本を書いた真琴ちゃんはもういません。今観るAVの中の真琴ちゃんももういません。たとえこの本や出演しているAVが真琴ちゃんをうまく表現していたとしても、その真琴ちゃんはもういないのです。

文字は書いた途端に作者からは疎遠なものにまります。どんな本もどんな芸術作品も、作った途端に自立して歩き始めます。その時の作者を(時代や文化なども含めて)固定する(「自己同一化」)のが文字の威力(魔術)です(ですから「映像文化」というのは「文字文化」の延長です)。

さて、作者はどんどん変化します。この本を書いた23歳の真琴ちゃんは現在26歳、今年10月には27歳になります(生年月日はWikipediaに拠る)。AVデビュー当時は19歳。その作品は当時の真琴ちゃんを見せてくれます(とっても可愛いです)。その作品は「永遠」でしょうか。作者から独立した「作品」は「そのまま」残っていくような気もします。

ミケランジェロの彫刻は500年の時を経ても当時のまま残っています。いや、本当に当時のままなのでしょうか。

先日チャプリンの『ライムライト』をDVDで観ました。とてもいい作品です。でも、白黒で音も悪い。4:3の画面も違和感があります。家庭用ビデオが登場し、持ち運べるカメラが普及した頃のビデオは、今観るととても画質が悪い。当時は「すごい!この瞬間を永遠に残せる!」と思ったのですが。これは技術の進歩が作品を変化させた例です。カラー写真が登場して、白黒写真は「不完全なカラー写真」になりました。BDが普及し、DVDは「画質の悪いBD」になりました。発展(進化)が正の価値を持っているとするならば、古いもの(過去)は乗り越えられた(劣っている)現在にすぎません(老人に価値はありません)。

ミケランジェロの『ピエタ』も多分、変色したり、風化したりしているのではないでしょうか。これは「自然」が作品を変化させた例です。本はどうでしょうか。現在読むことのできるプラトンの著作は、書き写されたものです。当初の著作はパピルスに書かれていたので、残っていません。本は「書き写す」、つまり「再生産する」ことによって、残っていきます。DVDディスクは「物理的」に壊れることがあります(踏んだり傷つけたりしなくても自然に読み取れなくなります)。今は本も映像もデジタル化され、それらはいつまでも「同じ情報を保持している」と思われていますが、それらも記憶装置(素子)に依存していて、それらは常に壊れつづけています。なので、常にバックアップを取るだけではなく、定期的に取り替えられます(壊れたからではなく、壊れる前に取り替えます)。これも基本的な考え方は「写本」と同じです。つまり本が失われる前に書き写しておくのです。

「灰色」と「0.5」

文字(情報)は「ある」か「ない」かです。「少しある」というのも想定はできますが、少しでもあれば、それは「ある」です。白と黒の間には「無数の灰色」があるように、0と1の間にも無数の数があります。そして、「完全な白」や「完全な黒」が「空想上(観念上)」のものであるとするならば、0と1も「空想上(観念上)」のもので実際には存在しません。これは単純にいえば、0や1は人間の側(主体の側)の都合であって、自然の側(対象の側)にはないということです。人間(主体)が自然(対象)に投影した観念をあたかも自然(対象)の側にあるように思ってしまうのは、「取り違え(錯覚)」、真琴ちゃんの言葉で言えば「それが自分の脳から身勝手につくられたもの」(P.149)以外の何物でもないのです。犬や猫や植物には1も2も3も、ましてや0やマイナスは関係ありません(人間が0を発見したのはずっと最近のことです。『零の発見』吉田洋一著、参照)。

極端な白が極端な黒に近いように、灰色は無限に濃くなり薄くなることで一つの円を描くようになります。短い時間を取ればそこには始まりと終わりがあります。でも長いスパンで見れば、始まりと終わり、0と1は繋がって本来持っていた意味を失います。真琴ちゃんが大切にしている「それぞれの灰色(グレー)」は、その時のその人にとっては「白」だったり「黒」だったりするかもしれませんが、広い目で見れば無数の灰色のひとつなのです。

同じように、「一瞬と永遠」も意味が変わってきます。

ずっとそばにいられなくても、今この瞬間仲良しになって一緒に喋ったという記憶自体を大切にすることのほうが、素敵だと思えたこと。永遠よりも今の方が大事だと思える瞬間が、増えてきたこと。自分は完璧などではなく、間違えながらそれでも生きていくということに意味があること。心から通じ合った、時間の感覚を忘れてしまうような一瞬のことを、本当は永遠と呼ぶかもしれないということ。(P.150-151)

「絶対的に矛盾するものは一致する」というのは、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」です。白と黒、0と1、無と有、一瞬と永遠は「絶対矛盾」でありながら「同じもの」なのです。

そしてそれは、裏を返せば「いつまでも確実に正しいこと」など本当はあまりなく、思考を停止させないことだけがきっと大切なことである、ということなのかもしれません。(P.152)

オリジナルの愛で(自己・自我・主体・個人)

自分が孤独であるということを自覚するのは、自分を知ることの第一歩です。(P.161)

そうして、孤独という誰にも守られていないむき出しの自我を分析していくことで、だれに望まれたわけでも誰かに押し出されたわけでもない、自分だけの道が始まります。(P.161)

その人自身が、自分の本当の望みを探すこと、自分とはどういう生き物なのかを考え続けることが、命を本当の意味で充実させるのだと思います。(P.167)

子供が大人になること(成人)にあたっての儀式はいろいろあるようです。日本の元服の儀やバンジージャンプ(バヌアツの「ナゴール」)が思い起こされますが、割礼や洗礼などの通過儀礼もそういう意味を持っているかもしれません。大人になる前に、「ものごごろがつく」という段階があります。それまでの自分だけの世界、自分が母から切り離される時に起こる絶対感の喪失です。近代西洋的な言葉で言えば「自我の目覚め」です。そして「思春期」が訪れます。「反抗期」があったり、「第二次性徴」などの身体変化に伴う性や恋愛の悩み、学校や職業選択の悩みなど、たくさんの悩みを抱えます。その悩みの「大きな」ひとつが「私ってなんだろう」ということでしょう。戦後の民主教育では(戦前からあったと思いますが)「自主性」が重んじられます。先生がたは一生懸命「個性」を伸ばそうとします。でも、伸ばすにしても尊重するにしても、肝心の「生徒の中の私」がなければなりません。だから生徒は悩みます。「私(自分)らしさってなんだろう」と。

大人になったときには、その「私」は完成していると「想定」されます。だから、大人の行動は「責任」を問われるのです。「責任能力Wiki」と言われるものです。意識喪失、狂気、痴呆など「私(自我)」がない人は責任能力に欠けているということになります。自我を成り立たせるのは「理性」です。でも、すべてのことを「理性的(合理的)」に行うなんてできません。

4月から始まった連続テレビ小説『らんまん』で先生が万太郎に「すべての物には存在する意味がある」というようなことを言います。当時の近代西洋思想の流入を感じさせるセリフですが、「存在理由 raison d'être」というのが「自己」の「理性」に課せられた最大の難問です。そしてそれは「対象(自然)」に向けられた問いのように見せかけて、実は「自我」に向けられた問いを対象(自然)に反映(反省)させているだけなのです。「私(自我)」あるいは「私らしさ」がわかって合理的に行動できる「大人」なんて存在しえません。

近代西洋的な自我は、自分(自己)をつくることに困難を抱え、それが完成しないまま生き、それを失うことに最大の恐怖を抱えます。自我(自己)をなくすことが、近代西洋人にとっての「死」なのです。だから、知的障害、痴呆、ボケること、あるいは自分が理解できないこと(物・人)を恐れ、そうなった人を軽蔑します。あるいは支配しようと(自己の管理下に置こうと)します。

自我の喪失が死なのですから、「脳死」が「死」であると定義されることになります。

死の恐怖

「死ぬのは怖い」、これを「生存本能」と呼び、動物(あるいは生物)に普遍的なものだと言われることがあります。私は死ぬのが怖いです。そして、ドラマや昔の言い伝えで「忠義」や「仁義」(あるいは「正義」)のために「英雄的な死」を選ぶ人物を「すごいなあ」と思いながらも「自分にはできないなあ」と感じていました。「切腹なんて痛いだろうなあ」と思っていたのです。

でも、最近「違うんじゃないかなあ」と思い始めました。彼らが「死ぬのは怖い」と思い、それを「克服」して死を選んだ、というのは、今の(現代の)自分の気持ちを彼らに投影しているだけかもしれないと。彼らは死ぬのが怖くなかったんじゃないかと。少なくとも、死を怖がる近代西洋的自我は持っていなかったんじゃないかと。

彼らは「痛くなかった」んじゃないか、とも思い始めました。何を「気持ちいい」と感じるのかと同じように、何を「痛い」と感じるかも文化によって違うことがありそうです。

いつ、なんで苦しむかを決定しているは、ほとんどの場合伝統です。つまり、分娩のとき女が身をよじって苦しむところもあれば、ほとんどそうしないところもあります。またべつの場所では、男が擬娩によって分娩をわが身に引き受けます。(中略)そして、苦しんでいる者、障害者、悲しんでいる者、死者に対して共同体がどのようにふるまうか、ということも、しばしば〔文化圏によって〕ちがったしかたで定まっています。(中略)こうしておのおのの文化に固有な生活の技術によって、苦しむことが責任ある行為となっているのです。(イバン・イリイチ著『生きる思想 反=教育/技術/生命〔新版〕』藤原書店、P.248-249)

痛みが文化によって違うというのはにわかには理解できないけど、状況によって同じ物理的ダメージの痛みが違うことはあります。なにかに集中しているときには痛みを感じないことがあります。「火事場の馬鹿力」ということもあります。自分が悪いと思っていることをしてしまって親や教師に殴られるのと、身に覚えのないことで殴られるのとは違う気がします。また、子供を殴る時の手の痛みは子供の痛みより大きいかもしれません。

文化や時代を超えて他人の気持ち(感情や痛み)を理解することがいかに困難か、ということです。近代西洋的自我を持つことが他者への理解を妨げている部分があるのだろう、と私は今思っています。

「居場所」と「孤独」

私は、孤独が好きです。むしろ、孤独が悪いものだということを誰が決めたんだろう、といつも思っているくらいです。孤独には大きく分けて二つの意味があって、ひとつは身体的に孤独であること。家族や友達がいないとか、一人でいることが多いとか、そういう状況を言います。もうひとつの方が重要で、人と関わっていても、家族がいても友達がいても恋人といても、どんなときでもどこかひとりぼっちでいるような気持ちがする時、身体よりも心のほうが孤独であるのだと思います。(P.166-167)

「身体的な孤独」は大昔からあるでしょう。旅人や、故郷を離れた人の「望郷の念」は時代に関係なく常にありそうです。家族や恋人から離れた思いも同様です。でも、「他人から理解されない(他人を理解できない)」という「心の孤独」は近代以降のものです。なぜなら、「他人」は「自己(自我)」という「近代的個人」が生み出したものだからです。「心の孤独」は近代西洋文化が生み出した「近代の病」です。時代に制約された文化の病です。文化の病であるということは、その文化のなかに生まれ育った人にとっては孤独がある種「必然的」であるということです。

例えば「拒食症」という病気は、「痩せていることが美しい」という基準を持つ文化でのみ発生する病気だそうです。現代の日本もそういう基準を持つ文化です。日本では、沢山の人が「拒食症」を発症していますが、病状にはならなくてもほとんどの人が「太らない」ことに気をつけて、食べたいものを我慢しているのではないでしょうか。その基準は「メタボ」というわけのわからない概念で、健康の基準にまでなっています。

現代の日本において、人間関係の悩みは多くの人が抱えるものです。そしてその根本にあるのは「他人(他者)」の存在であり、他者とのあいだに壁(溝)を作っている「自分(自我)」の存在です。そうであれば「心の孤独」の克服は、個人の意識(心の持ちよう)の問題ではありません。

「身体的な孤独」は、ある意味で「目に見えるもの」です。故郷の喪失、家族や友人の喪失は見えやすいのです。「心の孤独」も何かを失ったことから生じているような気がします。現代の日本が目指している「自由・平等・独立・・・」なるものは、どれも実現していませんが、それを目指しているなかで失った(失いつつある)ものがありそうなのです。

なにか自分が「根無し草」のように感じているのなら、失ったものは根を張る「土地」、つまり「居場所」です。「心の孤独」は、家族・自分の家にいながら、居場所を見つけられないということでしょう。家という建物、住んでいる場所が「居場所」でなくなる原因は、イリイチが言う「ヴァナキュラーなもの」の喪失だと思っていますが、まだ私は整理できていません。

人を愛せないということ

    とはいえ、人と人との繋がりが美化され重要視されるこの社会、どこへいけば孤独に浸ることができるのでしょうか。(P.168)

「人と人との繋がりが美化され重要視されるこの社会」で、「愛すること」も同様に重視されます。「個人」が「孤独」をつくりだしたのと同様に、「個人」が「愛」をつくりだしているからです。個人と個人の壁(溝)を乗り越えるために必要なのが「愛」です。

人を好きになったり、話をしたくなったり、手をつなぎたくなったり、セックスをしたくなったりするのは当たり前ですが、それと「人を愛するということ(恋愛)」は別なことなのは分かるでしょうか。前者は大昔からあるもので、後者は近代西洋的なもの、日本では明治以降に普及したものです。

日本では明治初年(一八六六)以来、英語 love の訳語として「愛恋」「恋慕」などとともに用いられ、やがて明治二〇年代から「恋愛」が優勢になった。(『精選版 日本国語大辞典』「恋愛」の項)

「それを指す言葉がなかっただけで、そのもの自体はあっただろう」と思うかもしれません。私はあえて「違う」と言いたいのです。「love」というのは、何かを熱望する主体的な行為だと思います。「(某CMのように)そこにある」のではなくて「(あい)する」という主体的な行為なのです。「主体としての個人」がなかった日本には、「恋愛(愛する)」という行為はなかったのです。「好きになる」というのは能動的な行為ではありません。「好きになってしまう」のです。そこに主体はありません。それは主体や客体を越えたところにあるのではないでしょうか。

愛することに必要な主体が確立しないことはすでに書きました。主体が確立しないということは、愛も確立しないということです。むしろ主体を持とうとし、対象(他者)との壁(溝)を高く(深く)すればするほど恋愛は成立しないのです。主体(エゴ)は、主体対客体、自己対他者の対立を産まざるを得ません。その重心を自己の側に置こうと(エゴイズム)他者の側に置こうと(博愛主義・人類愛)自己がいなくことはありません。

愛が人と人とを結びつける条件となっている社会では、人は躍起になって「愛する相手」を探し求めることになります(愛を探すことはできません)。でも、自分と同じ人間はいないのですから、自分に「ぴったりの(理想の)」相手などそう簡単に見つかるわけがありません。そこにあるのは「見つけた」という思いと「違った」という失望の繰り返しです。

中学生くらいになると、現実の保守的な思想と行動とは裏腹に、恋愛への欲望、いつか誰かと愛し合いたいという願望は思春期ゆえにふくらんできました。周りのみんなにはどんどん色っぽい話題が増えていきますが、自分はお母さんのこともあり、そう連愛に踏み切ることができません。

だからといって、人を好きにならないわけではありませんでした。(P.25)

とても素直です。「処女(童貞)信仰」を聖母マリアまで遡ることがありますが(それも怪しいですが)、日本でそれを「イザナギとイザナミ」に遡ることはできません。西洋(キリスト教)と日本との文化の違いです。処女信仰は日本を初め世界中にありそうですが、それはキリスト教的なものとは別に考えなければならないでしょう(男尊女卑の文化についても同じです)。少なくとも現代の日本で言われる「処女信仰」は明治以降に輸入されたもので、日本の風土に根ざしたものではありません。

居場所

この主観性は、対象を分割・分類(区別・ラベリング・レッテル貼り・命名)・分析し、それを管理・制御・支配・所有して、「自分のもの」にしようとします。それは主観性の持つ「寂しさ」「孤独」から脱却しようとする必死の試みです。主観性は飽くことがありません。それは「永遠の未完成」として「渇望」し続けます(それが「love」です)。身の回りのものだけでなく、土地も、地球も、宇宙も「対象」とします。そして人間や自分自身の体も心も対象とします。その一つの現象形態が「資本主義社会」です。どんなに家財道具をもっていても、どんなに本をもっていても、どんなにお金をもっていても、満足することはできないのです。対象化(細分化)は主体をどんどん小さくします。全体性をどんどん失い、部分(細部)になっていきます(学問の細分化がそのいい例です)。その「(みずから)失ったもの」を回復しようとする「はてしない(無限の)運動」が「主観性」なのです。

自己(主観)ができるほど対象を失い「根無し草」になるのは当然です。草の根が生える場所、それが人間でいう「居場所」です。それがイリイチのいう「ヴァナキュラーなもの」でしょう。それを簡単に表現する日本語を知りません。土着のもの、風土に根ざしたもの、地域のものなど様々な表現ができると思います。それを別な言葉で表現すると、ある時代にある地方で「普通」にある(存在する)ものです。

「普通」は相対的に決定されるものではないので、歴史が進んでいくほどに増やしていくことができるはずなのです。(P.200)

家庭内や学校では、終ぞ自分が「異常」であることを受け入れるほか平和に生活する方法はありませんでしたが、これから行く先々ではきっと、私が新しい普通をつくり出そうーーそんな気持ちが、AV女優として新しいスタートを切ってからの私にはポジティブに存在しています。(P.201)

お母さんの信じている神様も、先生やクラスメイトのいう「普通」も、顔色を窺って一緒に信じてあげなくていい。私の信じるものは私と、私が綺麗だと思ったり良いなと思ったりした全てで、それはぐんぐん増えていって、生きれば生きるほど、人生というものの解像度が上がっていくのです。居場所がないのならつくろう、丁寧に冷静に。(P.203)

目的意識(意図)をもって、何かを創り出すことを人間の本質と捉えるのは西洋的な思考です。その一つの現象形態が「社会主義社会」です。「計画経済」というのはまさしくそれです。自然や経済を制御し、統制・管理することが可能で、それを作り出そうとする社会です(もうひとつの現象形態がファシズムです)。「理想社会」「ユートピア」を創り出そうという動きはイスラエルという形も生み出しました。

私は真琴ちゃんのいうことがよく分かるのです。私自身が「何かを創ろう」と生きてきたからです。「いま存在しないものを創る」こと。それは仕事の上の新しい制度や製品だったり、絵画作品だったり、組合運動だったり、社会主義社会だったりしました。何かを創り出して、明日を今日より「良い」社会にすることを目標としてきたつもりです。若い頃はひとつ何かを憶えたり、ひとつ何かを経験することで、「昨日より成長した自分」になっていると思っていたのです。

しかし、一〇代を越えると徐々に、歳を重ねることがいい意味ばかりではなくなっていくような世間の空気を感じ始めました。事実、AV女優もグラビアアイドルも、タレントも「より若い方が価値がある」といった見られ方をされますし、いわゆる婚活などで男性がお相手の希望条件に「二〇代まで」などと若い女性を求めることも多いそうです。(P.178)

もちろん若さを価値のあるものとしてしか捉えない生き方ーー歳を重ねるごとに自分の価値がすり減っていくような考え方ーーもこの世にあっていいと思いますが、歳を重ねていくこと、そのぶんの時間をあなたがあなたの心と身体をもって生きてきたこと、そういった小さな歴史の尊さというのも、確かなものです。身体に綻びが出たり、シワが増えたり肌が老化したり、そういった表面上のことを嘆く気持ちもわからなくはありませんが、それさえも、あなたが生きてきたことの愛しいい結果でしかないのだと思っています。生きることはかっこいい、だから老いるということもすなわちシンプルにかっこいい。私は素直にそう思いながら生きています。(P.181)

老人になった今、「昨日より成長した自分」はなかなか見えません。むしろ昨日できていたことが今日出来なくなったり、昨日憶えていたことを今日忘れていることのほうが多いのです(笑)。私はそれを「シンプルにかっこいい」とは思えないのです。確かに経験は増えているでしょう。でも、幾分内容が変化してるとはいえ、今も若い頃と同じに一刻一刻悩みながら生きています。いや、その悩みは外的にも内的にも増えているのかもしれません。

積み残し

若い頃は未来が無限にあるような気がしていました。だから、悩みが解決しなくても「いつか解決する」と保留にすることが可能でした。そうやって「悩みの積み残し」がどんどん増えていったのです。ところが、老人になって「未来が限られている」と感じたときから、悩みを保留することができなくなったのです。「解決するか捨てるか」のどちらかを選ぶしかないのです。

私はこの街に住んで50年ほどが経ちます。この家に住んで30年近くになります。若い頃買って読まずに「積み残した」本もたくさんあります。型は古いけどパソコンもあり、ネット環境も整っています。ここは私の「居場所」でしょうか。どうもそうは思えないのです。どうしてそう思わないのか考えてみました。

まず、本は死ぬまでに絶対に読みきれないほどあります。少しずつ読もうかなと思うのですが、読む量より新たに欲しくなる本のほうが多いのです。本は読めばいいというものではありません。前述の『侏儒の言葉』のように、読む度に発見があり、喜びがある本もあります。だから、今でも未読の本は増えています。いくらあっても満足できないのです。そして本が増えることは「苦痛」なのです。「読むか捨てるか」の選択を迫られている気がします。でも、多分このまま死ぬんだろうなあ、と思います。この大量の本は処分されるでしょう。私には価値のある本がほとんどです。価値というのが高額だという意味ではありません。そんな本は端から買えませんから。値段ではないのです。今後も残って欲しい、誰かにも読んでほしい本です。でも、子どもたちのことを考えると生前整理しなければ、とも思っています。

自己の確立から、自我の削ぎ落としへ

気がつけば私には普段話ができる「友達」がいません。かといって、今から友達を作る気にはなりません。今は「引きこもり老人」と気取っていますが、内心はとても寂しいのです。そんななかで真琴ちゃんのこの本に出会いました。『あなたの孤独は美しい』。本当に美しいのでしょうか。

自分が孤独であるということを自覚するのは、自分を知ることの第一歩です。(P.161、前出)

真琴ちゃんのいう通りなのです。退職して一人になった時、やっと「自分とは何か」を考え始めることができました。

そうして、孤独という誰にも守られていないむき出しの自我を分析していくことで、だれに望まれたわけでも誰かに押し出されたわけでもない、自分だけの道が始まります。(P.161、前出)

そうなのです。「自我」を考えた時、私の自我を形作っているものが、私が作ったものだという気持ちが崩れてきました。もちろん文化や時代の影響をうけていても、「自分は自分だ」と思っていたのですが、実は自分が作ったものなど殆どないことに気づきました。それは自分の考えが「本などの受け売り」だということだけではありません。普段使っている日本語が私の自我を形作っていることにあらためて気づいたのです。そして日常話している言葉と、本の中の言葉の乖離に気づきました。本の中の言葉はどんどん日常語に侵入してきているのですが、その本の中の言葉はほとんどが「翻訳語」です。私は外国語が全く読めませんから、翻訳語をそのまま理解するしかありません。ところが気がついたのです。それらの翻訳語の中身がぜんぜんわかったいないことに。たとえば「自由・平等」「自然」「自我」「恋愛」・・・、漢字二文字の翻訳語です。それらの元になっている外国語がその国でどういう意味で、どのように使われているのかは私には知りようがないのですが、どうやら私が思っているニュアンスと違うようなのです。

今私がやっていることは、その翻訳語を切り崩す作業です。そしてそれは取りも直さず、私を形作っている「自我」を切り崩す作業なのです。「私」というのも怪しいのです。時代劇で「私」という言葉は使われていない気がします。そしてどうやら日本語には「I(アイ)」に相当する言葉はなかったようなのです。学校で習った文法は、インドヨーロッパ語族(主に英語)のもので、必ず「主語」がありますが、それが日本語には当てはまらないようなのです。「I(アイ)」に相当する日本語がなかったということは、取りも直さず、日本には「自我」というものがなかったということではないでしょうか。それはラテン語の「ego(エゴ)」に相当するものとして、明治以降に使われた言葉なのです。

私の生まれてから現在までの教育や生き方、親から教わったこと友達から教わったこと、学校で教わったこと、勉強して本から得たもの、職場での経験など、それらの経験や知識が、むしろ私の理解を妨げていると思えてきました。

人間が生きていく上で必要な言葉は、自分の言葉(私であれば日本語)の中にもともとあるはずです。翻訳語の代わりとしてそれを探したいのですが、私には「やまとことば」の知識がありません。そして、私の子どもたちはもっとないでしょう。小学校で英語を教え始めたようですし、プログラムの勉強もしているようですが、それはまさしく近代西洋的自我の勉強です。「白か黒か」の勉強です。ことばに必ず主語(代名詞)を付け、「私」「あなた(おたく)」などと呼び合うことが当たり前になりつつあります。

勉強のための、そして今の社会の中では経済に結びつくための「言葉(知識)」はたくさんあります。それは憶えれば憶えるほど「優秀」だということになりますし、経済的な「富」にも繋がります。そしてそれは「無限」といってもいいほどたくさんあって、憶えきれるものではありません。人間一人が憶えることのできる量は限られていて、それは100年前、200年前とそれほど変わっていないように思います。でも、明らかにその「知識(学問、科学)」の量は増えています。そのため、一人ひとりの「完全性」は、どんどん小さくなっていきます。個人として、一個の独立した自我としての成立はますます可能性がなくなっているのです。

その反面、普通に、当たり前に、幸せに生きる技術(知識)をどんどん失っている気がします。電子レンジと冷凍食品は料理をする技術を必要としなくなりました。コンビニやスーパーのお惣菜は料理を作る楽しみ、試行錯誤の楽しみ、盛り付ける楽しみ、食べる楽しみ、食べてもらう楽しみ、それらの技術を奪っているように思います。

文化によって、何を楽しいと感じるか、何を苦しいと感じるかは異なります。今の日本において、コンビニやネット通販で買物をする楽しみ、自動車に乗る楽しみ、テレビやネットで話題になったお店に何時間も並ぶ楽しみがあるのは事実です。それを否定する気はありません。ただ、私がおかしいと思うのは、それで満足ができる人があまりにも少ないのではないかということです。私は読んでいない本がたくさんあっても新しい本が欲しくなります。本を買ったときは嬉しいのです。満足しているといえないこともありません。でも、それは一時的なものです。「ほしい」という感情、何かが「欠けている(欠乏している)」という「マイナスの感情」が「ゼロ」に戻るような感覚です。そして、その本を読み終えるかどうかに関わりなく、つぎの本に対する欲望が始まります。麻薬中毒患者、ギャンブル依存症に近い感覚です。これは極端かもしれません。でも、社会全体がそういう方向に動いているのではないかと感じるのです。

普通の基準・幸せの基準

今、いつも使っているあるサーバーがダウンしていて、とても困っています。パソコンが壊れたり、ネットが繋がらなくなったらとても困るような生活をしています。この社会は数時間携帯回線が繋がらなくなっただけで騒ぎになります。携帯やネットや電気は普通に使えて当たり前。普通に使えなくなったら困るのですが、使えること自体は「当たり前」であって、決して「幸せ」ではありません。携帯やネットや電気に依存している生活です。これからももっと「便利」に「簡単」になっていくのかもしれませんが、その分、依存するものが増えていき、「普通の基準」「幸せの基準」はどんどん高くなっていきます。

普通の種類、幸せの種類、あるいは自由の種類は増えていると思いたい気持ちはありますが、そうではないようです。一つの普通が生まれるたびに別の普通が普通ではなくなっているように思うのです。私が生きてきた数十年前より、社会が「普通」と認める範囲(社会の許容量)はむしろ狭くなっているようにすら感じています。多様性より均一性が優先されているように思えるのです。東京には東京の、関西には関西の文化が認められていたように、隣町には隣町の、隣の家には隣の家の文化や風習があって、それが認められていました。同じように、AさんにはAさんの、BさんにはBさんの生き方があって、お互いがお互いの生き方(生き様)を認めていたように思えるのです。そしてそこには、AさんとBさんが共に生きられるような「生きる技術」があったと思うのです。

生き方は「生活感」とともにあります。その生活感こそが「ヴァナキュラーなもの」です。ところが、現代はその生活感が否定されます。土地の匂い、家の匂い、体の臭いを消すことにみんな躍起になっています。その匂いこそが、その人の知識や経験とともにその人の歴史なのに。本やビデオで知り得るような真琴ちゃんは、真琴ちゃんのほんの一部です。本当に真琴ちゃんを知りたいと思うなら、実際に会って、話をし、同じ空間を共有し、触れ合い、匂いをかぎ合わなければならない、と言うとエロく聞こえちゃいますが。

携帯やメールが「生きる技術」に取って代わってしまうと、ネットやSNSに依存しなければ人と人が結びつくことができない、人と人の結びつきがSNSの結びつきに変わってしまう、そういう社会になりつつあるのではないでしょうか。

わかりやすく簡単な人付き合い、それが「孤独」を生みます。それは表裏一体のものです。「わかりやすくて簡単」ということは、細かいことを捨ててしまうということです。「0.01」も「0.02」も「ゼロ」として、「0.99」も「1.01」も「1」にしてしまえば簡単になります。「戸田真琴も〇〇もAV女優」といえば、聞いた方は「ああ、AV女優か」とわかった気になります。でも、真琴ちゃんにしてみればそれは失礼なことで、〇〇さんと真琴ちゃんは全く別なわけです。分類する(レッテルを貼る)というのは、「小さな差を捨てる」ということにほかなりません。概念化、抽象化と同じです。なぜ、「細かい差」を捨てようとするのでしょうか。なぜ、物事を全体として捉えようとしないのでしょうか。

「なまえ:戸田真琴、愛称:まこりん、生年月日:1996年10月9日、出身地:静岡県、血液型:A型、身長 / 体重:152 cm / ― kg、スリーサイズ:83 - 58 - 83 cm、ブラのサイズ:C、・・・・」これはWikipediaに載っている真琴ちゃんのプロフィールです。私にはこれらの性質(アリストテレスの形相の近代的解釈)を集めたのが「戸田真琴」だとは到底思えません。部分の寄せ集めは全体ではないのです。このことは、近代西洋的文化のなかで育った人にはなかなか理解されません。近代西洋はものを分類・分析する技術を高めようとするあまり、全体を「そのまま」受け止める技術に欠けているのです。

あなたでしかないあなたという孤独に、幸多かれといつの日も祈っています。(P.205)

「私は私でしかない」。分解することもできなければ、全体の一部にもなることのない私という存在。そういう存在が「幸せ」であることを、私も祈っています。






[著者等]

戸田/真琴
AV女優。2016年、処女のままSODクリエイトよりデビュー。2019年、スカパー!アダルト放送大賞女優賞受賞。趣味の映画鑑賞をベースに各媒体にコラムを寄せるほか、自身も処女映画監督として処女作を撮影中

SNS社会で異彩の存在――AV女優・戸田真琴、書き下ろし処女エッセイ。
「note」に投稿した「SNSで死なないで」は18万ビュー、
同じく「Twitterをやめます。」は63万ビューを記録し大きな話題に。
さらには朝日新聞論壇時評面で取り上げられるなど、いま最も注目を集める彼女。

格差社会の拡大、未来への薄暗い不安、ただなんとなく日々苦しい……
本書は、そんな押しつぶされそうな現実の中で、戸田真琴が贈る孤独賛歌。

ほのかに残る温かい幼少期の記憶から思春期を経て大人へ――今まで本人の筆で語られてこなかった生い立ち。
それは、ごく普通の環境だと思っていた家庭と本人が成長するにつれに確立されていく意志のズレだった。
新興宗教の集会、婚前交渉を厳しく禁止するお母さん、家族を守ると言っていたはずのお父さん、いじめの末に引きこもってしまうお姉ちゃん……。
幸せだったはずの少女は何故、処女のままAVデビューを決意するのか。

AVデビューするも右も左もわからず悪戦苦闘。
良かれと思ったことが裏目にばかり。二度とやりたくないハードな撮影も。
どうして上手くいかないのか――AV女優業から学んでいったことを生きるヒントに。

SNS社会に引き裂かれる私たち。ひとからの承認・羨望・愛情が欲しい。
どうしたらこの息苦しい世の中で心からの安息を得ることができるのか。
世相を独自の視点から眺め、本当は誰しもが抱える「孤独」を見つめなおし、むしろ愛でることをすすめる。
ひとりぼっちを恐れず、むしろを胸を張るために。



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