序 死とイコン
死とイコン
「かねてより信じられてきたように、人間はみずからが死にゆくことを知っている唯一の動物だ、ということは、実は確実ではありません。そのかわりに確かなことは、人間が死者を埋葬する唯一の動物だということです。」(P.2)
「図像は、文字表現では洩れおちてしまう、おぼろげな、押しこめられてしまっている意味のうちのいくつかを、しっかりと保持しているのです。」(P.4)
第1章 墓地と教会
市外の墓地
「キリスト教の時代がはじまるころ、つまりローマ世界、ないしはローマ化された世界で、まずは図像の流れを止めてみましょう。」(P.6)
「というのも、文明のモデルは当時、すでに長い以前から、都市のものだったからなのです。」(P.6)
「ローマやポンペイでわたしたちは、死者たちが都市の外へと排除されていることに気づきます。生者と死者との分離こそが、もっとも注目される特徴なのです。」(P.8)
「人びとが、死者を静めるための供え物を持参したり、死者のもとで食べ、飲むことが、簡単にできなければならなかったからです。」(P.8)
「けれども、こうした型の墓地に社会全体の「農村化」の徴候を見てとるほうが、もっと魅力的ではないでしょうか。」(P.19)
市内の墓地
「もはや、教会のない墓地がないのと同様、墓地のない教会も存在しませんでした。教会そのものが、墓地となったのです。」(P.35)
「墓地は、それが付属していた教会とおなじく、公共空間の中心にあって、社会的なつきあいのきわめつけの場となっていたのです。」(P.41)
「こうした生者と死者との混在は、十八世紀に至るまで、わたしたちラテン的西欧社会の特徴となります。」(P.41)
「当時の人にとって重要だったことは、個人用の決まった場所に永遠にとどまることではなく、みずからの身体を教会にゆだねることだったのです。」(P.45)
「匿名の人の骨は、もはや土の下に隠されることなく、反対に通行する人たちの視線のもとにすすんで曝されたのです。」(P.50)
第2章 墓碑
個人別から匿名へ
「この文書を重視した文明は、ほかの諸文明以上に、なにより墓碑銘の文明です。」(P.52)
「紀元直後の数世紀には、多くの墓碑に、死者の何者であるかを示し、ときにはその伝記をも書きとめた碑銘とならんで、死者の特徴を永遠に残そうとする肖像が、つけられたのです。」(P.52)
「別のいい方をすれば、個人のアイデンティティを重視した文明だ、と。つまり人びとは、その生前に特徴的だった故人の性格を、死においても保持し続けていたわけです。(LF)ほぼ五世紀のころから、こうした死後のアイデンティティにたいする配慮は弱くなり、姿を消してゆきます。その痕跡を保持していこうなどとすることは、なされなくなってゆきます。」(P.55)
「まずなにより埋葬の場所が重要であって、それは遺書で指定され、過去帳に記入されましたが、しかしその場所が目に見えるようにされることには、無関心だったのです。」(P.60)
「古代ローマにおける、個人別の墓が支配している状態から、中世前半には匿名性の支配へと移り、それが何世紀にもわたって持続したことになります。」(P.62)
墓碑の回帰
「十一世紀ころ、長いあいだ抑えられていた個人のアイデンティティを明示する配慮が、最初はもっと簡潔な墓碑銘という基本形式(名前、称号)のもとに、ついで似姿というもっと手のこんだ表現形式のもとに、ふたたび姿をあらわしました。(LF)それは似姿であって肖像ではありません。というのは、そっくり似ていることには、たいした関心は寄せられていなかったからです。かわりに、死者の身体をあらわすことで人びとは、身体的類似よりももっと明白にしめしたいと考えていたものがありました。それは、その人の人格という観念です。人格のイメージは、何世紀このかた失っていた意味と力とを、ここにふたたび見出したのです。それが他のどんなしるしや象徴よりもよく、自意識、みずからの存在の意識を表現しているものだということに、気づかれたわけです。」(P.62)
「この世でも天においても不滅でありたい、という意図から発して、大聖地の設立聖人たちの後裔である彼らは、碑文にくわえて彼らの身体像をおいて、人の目に見えるようにしたのでした。というのも彼らの信徒たちもまた、かれらを具体的に目にし、彼らに触れることを欲していたからです。」(P.63)
「その墓碑銘がしるすように、死んでもいなければ生きてもいない、至福の状態にある、というわけです。」(P.64)
(P.64)__仏像の手と同じ
「まだたいへんおずおずとではありましたが、自意識における変化が生じていたのです。」(P.65)
「しかも、十二世紀このかた、やがてきたるべき十七世紀にいたるまでの、墓にかかわる図像のすべてが、ここに要約されているばかりか、それは人類に関する考察をもあらわしています。(LF)そこには、六つの要素が容易に読みとれます。(LF)まず第一に、死者の戸籍にかかわる要素があります。」(P.65)
「ついで、終末論的な要素です。」(P.67)
墓碑銘
「十一―十二世紀から、そしてとくに十六世紀からはもっとはっきりと、墓碑銘は、中世の人びとにとって匿名性から脱出し、みずから自身の墓碑をもつための、もっとも普及した手段となりました。」(P.69)
「十六世紀からは、墓碑銘は一般化しました。つまり、それまで墓などもったことはない階層だけれども、墓地や、あるいは教会においてすらもはや匿名の埋葬では満足できなかった人びとが、この墓の形式を採用したわけです。彼らもまた、たとえ人の目につくことは欲さないまでも、少なくとも文字によってその存在が知られることを望んでいたのです。それは、まさに識字能力と読書が普及する時代と、照応しています。」(P.70)
「紋章が墓碑銘にとってかわり、文字表現のかわりに用いられることになったのですが、だからといって、個人について公に知らしめることにマイナスになったわけでは、おそらくなかったでしょう。」(P.74)
横臥像
「見たところとは反対に、横臥像は(極端な例を別にすれば)横たわった死者ではありません。それは、衣服の襞が足元にむかって垂直に落ちている立像であって、目もしばしば開いていて、そのあとに頭を枕につける形で横たえられたという、非現実的な人物像なのです。像は死者ではなく、休息の姿です。その両手は、像の制作者の気のむくままに勝手につくられたのではなく、その仕草に整然とした性格をあたえるように規範にのっとって、形づくられています。」(P.75)
「これらの被昇天の情景は、横臥像の意味をよくあらわしています。すなわ(FF)ちそれは、死者をあらわしているのでも生者をあらわしているのでもなく、至福者をこそあらわしているのです。」(P.81-82)
「教会の土地に埋葬された、両手を交差させた遺体は、身がわりの像をつくって地上においておく手段も権力ももっていなかった人たちにとって、休息の横臥像がもつ終末論的な位置を占めるものだったのです。」(P.87)
死と生のあいだの横臥像
「至福の横臥像という状態は、中世末においてたいへん強く望まれたものでしたが、その方向は、終末論的意味を変更する傾向にありました。ただし、その変更には成功しなかったのではありますが。そうした遠心的な圧力も、横臥像の安定性を破ったり、休息というその均衡とれた姿勢にたえず回帰することを妨げることには、成功しなかったのです。」(P.87)
「二度目は死んだ姿で右方に、寝台の藁筵のうえで夜着とナイトキャップをつけて、横たえられています。」(P.90)
「もうひとつの共通の特徴は、眠りと死とが近寄せられていること、そして疲れをいやした顔の平穏さが表現されていることです。」(P.91)
「そうなると横臥像は、もはや死の眠りを想起させるものではなく、激しく冷徹な死を想起させるものとなります。」(P.92)
「十五世紀には、横臥像は遺体をあらわすものへと地滑りをおこします。もはや、死によって平穏を迎えた美しい身体ではなく、地中において解体の力が破壊をすすめる醜悪な遺骸 おぞましい(マカーブル)移行状態 へと、そしてもっとのちには遺骨、すなわち干からびた死の最終状態へと、表現は移っていくのです。」(P.92)
「十五世紀末には、かつては夫婦別々の墓であったものが、夫婦共通の墓碑がつくられることもめずらしくなくなります。」(P.94)
「読書とか書物は、中世末とルネサンス期において、女性にとっては敬虔さのしるしとなり、いくらかの男性にとっては、知的かつ信仰上の活動のしるしとなったものでした。」(P.97)
「十五世紀から十七世紀にかけて、このモデルは、まさしく産業といえるものをひきおこしました。つまり、目に見える墓碑を欲する人たちがだんだんに増えていったこの時期に、この横臥像のモデルはたいへん普及して人気を博すことになったのです。田舎の少貴族も、法服貴族や教会関係者も、自分たちの領地の教会に、みずからの似姿をもつことに執心したのでした。彼らは、墓づくりの職人の工房に注文を出し、職人たちは彼らに、まだ頭部をつくっていない墓石を届けます。あとは、顔がよく似ることなどにはほとんど頓着しない地つきの職人に、頭部を彫ってもらえばよいだけでした。もっとも、要求度がもっと高かった都市のある種の家族を別にすれば、そもそも類似に心を配るような人がいたわけではなかったのです。」(P.101)__関係ないけど、彫像(立体)は似せて作れる。平面は二個の目、鼻、等を描かなければ現実のものではなかった。
祈禱象
「このテーマの人気が高かったということは、人びとの想像力にたいする終末論の力を証言するものです。終末論は、教会につけられていた最後の審判の図像と、墓碑に描かれた天の想像図とに、ともに発想の糧をあたえていたのでした。」(P.102)
「そこにはまず「聖会話」がみられますが、そこにあらわされているのは、教会がその聖壇につけてきたような大聖人たちの荘厳な列です。(それは、聖パウロのいう、天にみまかった至聖なる者たちのような、平民的な存在とは対照的です。かつて中世の休息する横臥像は、それらの至聖なる者たちをモデルにしていたものでしたが、いまやそれらの者たちは疑いの目で見られはじめていたのです)。」(P.104)
「これらの聖人たちの行列や、これらの福音の情景のなかに、触れたり、敬虔さを喚起させるための教育的図像を見てしまっては、ならないでしょう。それらは天国にむけて開かれた窓であり、至福者の喜悦のために天で繰り広げられる連続した光景を、想起させているものなのです。」(P.104-106)
「このような祈禱像と横臥像との二重の存在は、存在の二重性についての信念をあらわしています。この信念は当時、スコラ学とかプラトン主義の影響のもとに、おもに聖職者のエリートを強くとらえていたものでした。それは、はかなく消滅していく肉体を、不滅の魂に対置する傾向をもつものでした。反対に、目にみえる墓碑によって、埋葬の匿名性から脱出することを望んでいた多くの小名士たちは、この存在の二重性という概念を、執拗に激しく忌避していたのです。」(P.111)
「最後にまた、もうひとつ別の性格が姿をあらわします。死者はその妻 しばしば何人かの妻たち(再婚は頻繁になされましたので) と、子供たちと一緒にあらわされたのです。左側に父親と息子たち、右側に母と娘たちという具合に。この図像は、アンシャン・レジームの新しい社会のある階層において、すでに近代的な家族の感性が発展していたことを、あらわしています。墓碑は家族の肖像となり、墓がいったい何にむけられているのかは、だんだんにはっきりしなくなります。それは死者たちに限定されなくなり、まだ存命の子供たちも、年齢の順に墓にあらわされているのです。」(P.113)
「教会側面の礼拝堂の多くは、当時(十四世紀以来)墓に使われていたのでした。」(P.117)
「清めの場は、墓碑にはないのです。」(P.118)
「最後の段階として十七世紀になると、祈禱像は壁から離れ、個別の像として、教会内のどこにでも望むところにおけるようになります。」(P.119)
「十七世紀の大きな像からなる墓碑は、十二世紀の横臥像とともに始まり、十七世紀の祈禱像まで途絶えることなく五百年ものあいだ続いてきた、一連の動きに終止符をうつものでした。十八世紀にもなると、図像にかんしてためらいが、ある裂け目が生じることになるでしょう。十九世紀の野外墓地においてはじめて、ふたたび安定的な墓のモデルが出現することになりますが、しかしそれは、もはや中世的な連続性とは何の関係もないものとなります。」(P.125)
肖像
「初期の似姿は、本当のものとの類似を追求してはいない、「理想化された肖像」(A・エルランデ=ブランデンブルクの表現)ないしは理想的肖像でした。」(P.125)
「しかしながら墓づくり職人たちは、それらの人物像がたがいにあまり似す(FF)ぎないように、それぞれの身体的特徴を考えだして差をつける努力をしました。そうして理念的なばかりか、想像力をたくましくして考えだした肖像を、つくりあげたのです。(LF)十七世紀にいたるまで、半完成品の墓石を小名士たちの市場へと供給していた職人的制作者たちは、もっと類似などには無頓着でした。彼らの注文主にとっては、たとえば服装などではっきりと故人の社会的状況が明示され、いくらかの細部で至福の永遠への権利が示されているなら、それで十分だったのです。(LF)エリート層においては、このような無関心は十五世紀からなくなります。類似への配慮が、祈禱像の人物と同時にあらわれたのは、偶然ではありません。いずれも、個人化へのより大きな追求としてあらわれたものだからです。実在の人物と類似した最初の肖像は、墓碑の祈禱像でした。ついで、わたし(FF)たちはすでに指摘したところですが、祈禱像はその墓としての機能をなくし、単純簡明に、すっかり肖像となってしまうのです。」(P.126-127)
「十七世紀においてなお、室内におかれた肖像は、宗教的情景のままで跪く祈禱像というモデルに、準じたものでした。」(P.127)
「こうした前もっての配慮ができない場合、良心的な職人たちは、故人のデ(FF)ッサンや、その死の床でとられた顔の石膏像をもとに、肖像をつくったのでした。これ以後、墓碑は、人物の特徴をその死の瞬間にとらえたままに、持続的なやり方で固定するためのものになります。こうして、死のおぞましさはまったく感じさせない、賞賛すべき肖像がつくられるようになり、あわされた両手は、顔とともに、その人物の人格を示す基本要素となるのです。」(P.127-128)
「容姿の類似が追求されることは、中世後期の個人化の過程における一段階として、あらわれてきます。それは、十六世紀、十七世紀の墓碑に、二つの違った方向をとらせることになりました。ひとつは親密さをあらわす方向であり、今ひとつは、勝ち誇ったようすをあらわす方向です。」(P.128)
「もっともはるかに数の多い、高位にはいない人たちは、やはり自分たちの評判を墓碑が支え、自分たちの記憶を墓碑が伝えてくれるよう望んではいまし(FF)たが、その意図は、ずっと野心の少ないものでした。こうして壁面の装飾もより控え目になり、身元を示す二つの要素、すなわち銘文と肖像とにいっそうの注意が集中されることになります。そして肖像は、手を合わせた仕草は保持しつつ胸像に限定されたり、あるいはただ頭部のみに限定されることになるのです。実物との類似と、それが故人の人格をあらわしていることに、新しく価値がおかれた結果、全身のうちでも、もっとも個人の別を示す部分、その人としての識別を可能にする部分、すなわち顔のみが、重視されることになったのです。」(P.128-131)
「これらの大きな像は、依然としてまだ教会についているものですが、しかし、じきに教会を離れて街頭や広場へと降り立ち、その同胞たちの視線と想い出とに公に身をさらすことになるでしょう。大きな立像は、十七、十八世紀イギリスの、ときに地味でもある墓碑に、残り続けてはゆくのですが、一般には、教会全体や礼拝堂全体にまで拡大された墓碑の一部であることも、辞めることになります。そうした立像は、近代の都市開発の一要素になってゆくのです。」(P.134)
墓碑のブルジョワ化
「国王とか教皇の記念碑のような、あまりに大芸術の創造性に従属しているものは脇において、月並み普通の文化の共通分母を、はっきり示すことにしようではありませんか。(FF)しかし、一般の墓碑の大多数は、思ったよりも長いあいだ、図像の威力に抵抗し続け、墓碑銘という古来の形式にこだわり続けていたのです。墓碑銘が、数世紀にわたる匿名性ののちに、故人のアイデンティティを明示する目的で再度、おずおずと姿をあらわしてきたときと同じ形式で。」(P.136)
「碑銘の飾り気のなさは、イコンとか、イコンに正確に含まれていた終末論的内容とかにたいする、おそらくは自然な抵抗のあらわれだったと思われます。(LF)ところが十四世紀から、あたかも、少なくとも一時的にはこのような抵抗が弱まったかのように、そして碑銘にも、あちこちで図像の浸透がおこりは(FF)じめたかのように、事態は展開します。ただしこの図像は、碑文の文意をそらすことなく適切に図解するような控え目なものでありました。」(P.136-137)
「これらの墓碑銘はさらに、図像が文章のために縮小しているさま、そして月並みな形になったさまをも、示してくれています。」(P.137)
「これらの資料は、十八世紀初頭にいたるまできわめて頻繁にみられたモデルの、よき例をあたえてくれています。このモデルは、二つの、ほとんど相矛盾するような感覚をあらわしています。まず第一に、少なくとも姿の類似という幻想を描きながら、天に故人たちを提示するという、気持ちの軽やか(FF)さ。そして第二に、故人たちの長所をまとめ、生き残った者たちの家系や夫婦の敬虔さを示すに十分な手段として、最終的には図像よりも文章に好んで依拠されるということ。興味深いことですが、墓碑銘はまず、口承文化のなかで簡明な形式において、故人のアイデンティティを確認させるために用いられ、ついで近世初頭からは、似姿や図像の広まりにもかかわらず、むしろあまりに演劇的になってしまった図像のかわりに、ラテン的な表現力とその修辞的伝統とを再発見していったのでした。」(P.137-141)
「墓碑はもはや、故人の類似像や長所を永遠に伝えたり、その至福者の天への上昇を象徴したりするものではなく、また、通りすがりの者に故人のための祈りを請うものですらなくなり、こののちは、これら二つの墓碑銘によって完璧に示されているもうひとつ別の目的をになったものとなった、といえるのではないでしょうか。」(P.141)
「それは、この世の所有者たちとあの世の代表者たちとのあいだで取り決められた取引の、公的性格 したがってまた持続性 を保証する、朽ちることのないと見なされる記念碑と(FF)なるのです。(まさに宗教的な回向と引き換えの)交換が遺書によって決められますが、それは公証人の前でなされる契約案件であり、墓碑銘はその公証人の名をしるし、遺贈と寄進、それと引き換えに教会でなされる回向、そしてその永続性を保証する条件を、ことこまかに書きつらねているのです。(LF)墓碑の銘文は、遺書の文面と照応していますが、遺書は少なくとも十六世紀から十八世紀はじめまでは、人間にとって死とむきあうための主要な手段でした。公証人の名が、故人とその相続人と同資格において、墓碑に場を占めているということは、注目すべきことです。じっさい公証人は、たいへん重要な人物なのです。公証人の仕事場は、同時に戸籍上のことでもあれば神秘的なことでもあった手続きにおいて、天と地とが通じあう方法が承認される場をなしているのです。」(P.141-143)__戒名
「肉体は、土のなかや納骨堂で、無関心なまま運命にまか(FF)され、個人としての人格の不滅の支えである魂は、存在全体の全能力をひとえに集中してもち、肉体をおしのけ、教会や個人の信仰における気遣いを一身に集めたものとなったかのように、見えるのです。それは、肉体の軽蔑へとつながる禁欲主義なしではありえませんでしたが、しかしまさにそこからこそ、一時的に抑えつけられていた死が、ふたたび表面へ浮上してくる回路がつけられることにもなったのだ、といえましょう。」(P.143-144)__よくわからない。
第3章 家から墓まで
死の床
「まずはじめに、一連の図像をざっと通して眺めてみましょう。すると、各時代の独自性をあらわしている様式のちがいにもかかわらず、雰囲気が似通っていることに印象づけられずにはいられません。つまり情景のセッティングは、いずれも同様なのです。場の中央は寝台についている病人に占められ、部屋はいつでも人で一杯です。たとえ同席者が家族にかぎられている場合でも、その数はつねに多く、部屋を満たしています。「死の床」は空白を怖れて(FF)いるのでして、その死は公的な行為なのです。これが、まず第一にとらざるをえない考察です。」(P.146-148)
「わたしたちが集めた図像の内部にも、区別があることがわかります。つまり二つのグループ、ひとつはキリスト教的な死と、もうひとつは世俗の、あるいは世俗化された死というグループが、はっきり別のものとしてあらわれてきます。一般に、両者を対立させる見方がとられてきましたが、ここでもそれを認めることにしましょう。」(P.148)
「人は、みずからの終末が近いことを知ります。そして寝室の彼の床のまわりで、社会的な表示行為がはじまります。中世末以降になって、しばしば繰り返し描かれるようになる儀式ですが、それ以前の時期については、どうも頻繁にあったとは思えません。というのは、それ以前については聖人たちの場合にしか、それを描いた図像は存在しないからです。」(P.148)
「中世なかばから十七世紀にかけて、もっとも数多く描かれた死は、聖母の死でした。それには、原始キリスト教会の古い葬儀用語から借用した呼称、ドルミチオ、すなわち眠りという呼称があたえられていました。「聖母の御眠り」は、数世紀にわたってよき死の原形と海菜され続け、十七世紀になって、もっと奇跡的ではない したがって、もっと孤独であるとはいえないまでも、もっと内密のものと見なされた 聖ヨセフの死に、その座を譲ったのでした。」(P.150)
「そうした人たちは、部屋のなかまで司祭の伴をしてきましたので、部屋はこうして私的な空間ではなくなり、出会いと公的な祈りの場に姿を変えることになります。」(P.159)
「さてわたしたちは、ここで死の床をめぐる第二グループに、到達することになります。そこでは宗教的な参照がすでに姿を消している、ということが目を奪います。」(P.159)
「二つの新しい心理的要素が、旧来の基本要素をなしていた尊厳と公的性格とに、つけくわわってゆくことになります。そのひとつは、悲愴感ということです。」(P.161)
「子供がいても、一八七五年にはまだ何のショックもあたえなかったわけです)。(LF)司祭が姿を消した。これこそが、本質的な事実です。」(P.164)
「しかしながら、死にゆく者は孤独をまぬかれてはおります。もはや誰でもが入れるわけではありませんが、寝室には依然として人がいるからです。死にゆくもの、あるいは死者と、何人かの肉親とのあいだの、現実の会話や想像上の会話は、依然として存続しているのです。(LF)しかしこのような、死の私化へ向けての最初の傾向は、十九世紀の後半に中断されたように思われます。死にゆく者の寝室は、一時期人もまばらになったのち、ふたたび人でみたされるようになります。」(P.165)
「その場が重要で深刻なことは変わりありませんが、しかし悲愴感と家族的親愛さの混在は、その場を別離と癒しがたい悲痛の場に変容させていつのです。(LF)十八世紀末に姿をあらわしたような親愛の情の強い死と、孤独な死とのあいだには、根本的な差異があります。(LF)じっさい一般の意見では、長らく貧しさと孤独とが同一視されてきました。」(P.170)
「呪われた死とは、中世においては、路上や水中に見捨てられた旅人の死のことでした。十九世紀における世俗化も、この孤独の拒否という点では、何も変わることがなかったばかりか、この拒否は、もっとも強くなったのでした。」(P.170-172)
「十七世紀の信心深い世界では、司祭とのみむきあった孤独は、死の苦しみがはじまるまえにまで、引き延ばされたのでした。死にゆく者は、ときに数も多かった立会の人たちと、慣習にしたがって別れを告げたのち、ひとり神とのみむきあえるよう、その場から退いてほしいと頼んだものでした。」(P.173)
「まずは貧しさ、そしてよりひそやかなかたちでは、自己愛、および告解と医術の実施。これら三つの要因が作用して、死にゆくものをその属する共同体から引きはなし、みずからのうちに閉じこもらせる動きが、はじまったのです。(LF)キリスト教の考え方と、啓蒙思想の考え方と、死についてのの二つの考え方は、いずれも同一の反撥の極をもっていました。すなわち、孤独ということです。(LF)さらに、これら二つの考え方は、連帯と公的性格へむかう同一の意志をあらわしており、最後の瞬間において、たとえ性質はちがっていたとしても同等の尊厳を認めるものでもありました。(LF)しかし、二十世紀のなかばにおいて、西欧社会の知的エリートたちのあいだから、新しいモデルが抬頭しています。しかも彼らエリートたちは、人びととの心のあり方にたいして、全体重をのしかけるごとくに影響をおよぼしているのです。(LF)このモデルは、図像の助けを借りて明示することは困難なものです。先行する諸類型について、選択に苦労しながらもわたしたちがやってきたような具合には、うまくゆきません。それにもっとも近い唯一のイメージは、家のかわりに病院がくる、というものでしょう。しかし、それにかかわる大病人(FF)は、医療技術のおかげで、原則としては治るチャンスをすべてまだ保持しているわけですし、どうにもならない絶望的な場合は、病人が自分を死にゆく者とみなさないよう、すべてが秩序立てられることになります。」(P.174-175)__がんの告知、結核の告知。死にゆく者の病棟。老人ホーム。
「これらのあいだには、大きな文化的断層は走っていないのでして、断層があるのは、キリスト教的であろうと世俗的であろうと、シャープ記号で音調のあがった広大な死の領域と、今日の死のようにフラット記号で半音さげられた死との、そのあいだにこそなのです。」(P.176)
安置と納棺
「十九世紀において、そしてときには現在ですら、死者はその最後の苦しみ(FF)の床に、中世の横臥像の姿勢をとって、もっとも美しい寝間着や、晴れ着とか新婚の衣裳をつけて、安置されます。(LF)この習慣はそれほど古いものでははなく、おそらくは十九世紀をあまり遡ることはないでしょう。フランクの時代、メロヴィング朝時代の墓においても、おそらく男や女の遺体は服をつけていたでしょう。しかしこのやり方は、中世には姿を消しました。」(P.176-177)
「この習慣は、司祭については存続していました。(LF)しかし他の人たちについては、寝間着のままか、ただ裸身のままでした。もっとも、すぐに部屋の外へもちだされましたから、それですらわずかのあいだのことでした。(LF)十九世紀において、寝台への安置と服をまとわせることとは、死の瞬間と公的な弔問の時期とにあらたに間隔が生じたことに、おそらく照応した事態だったと思われます。じっさい、寝室は、死のときまで家族だけのものですから、弔問者は死ののちにやってくることになったのです。今日、刷新者を自称するアメリカで「遺族にお目にかかる」といわれているような、やり方になったわけです(かつては、死ぬまえにも死ぬさいにも、訪問がなされたのでした)。」(P.177)
葬送の行列
「しかし、中世のなかば以降、遺体の搬送にはこうした機能的な簡潔さを、失ってゆきました。」(P.187)
「搬送は、はじめ宗教的で、のちには世俗的な、荘厳な葬列となったのでした。」(P.187)
「それらの団体は、信心会、慈善会、兄弟団などと呼ばれるものです。信心会の会員たちは、教区において、のちには葬儀社にゆだねられる役割を演じ、さらには、貧者たちを埋葬する労を引きうけていたのでした。」(P.187)__日本の町内会の役割。村の共同体。
「しかし一般的には、彼らは長衣をきて、より風変わりな南ヨーロッパの苦行会員たちが被っているような頭巾を、つけているのがふつうです。じじつそれは、葬儀の列席者に配られる喪の長衣なのでした。」(P.188)
「葬儀における重要なポイントは、もはや寝室にもなければ墓地にもなく、(FF)必ずしも教会にあるわけでもありません。それは、いまや搬送の行列のなかにあることになるのです。」(P.190-191)
教会におけるミサ
「死者の魂の休息を願ってなされる重要なミサのひとつは、すでに久しい以前から存在してきたあの世への投資のシステムの枠内において、その他の、重要なものであれそうでないものであれ、多くのミサとともに予め用意されたものでしたが、そのミサのはじめに、遺体とその搬送を教会内に入場させることが、少しずつ習慣になっていったのでした。そのようなミサの代金を支払えない貧者たちは、信心会の世話で満足するほかなく、その信心会が搬送の行列や最後の祈禱の世話をしたのでした。したがって貧者たちの場合には、教会に立ち寄ることなく直接に墓地に行ったのでしたが、かつては聖職者と大領主をのぞけば、すべての人がそのようなやり方をしていたものだったのです。」(P.191)
「わたしはむしろ、人びとの配置だとか行動の動機にみられる類似性のほうに、印象づけられます。だからこそわたしは、この長期にわたるあいだにこの領域でおこった文化上の重要な出来事とは、中世後期に教会のなかに、そのただなかに遺体が姿を隠されてしまうほどのたいへんな量の装飾が出現したことだ、と考えているのです。」(P.194)__わからない。
「ほぼ同時期に、もうひとつ別の、これまた何とも誇張過多な習慣が、反対の効果をもたらしてゆくことになります。つまり、肖像によって死者の存在を維持させるやり方です。はじめは葬儀のあいだ教会で、続いては、すでにわたしたちが見たように、墓に、肖像がおかれたのでした。この好奇心をそそる歴史的展開は、変形の助けを借りて故人の人格を確認しようとする、あらたな欲求があったことを明示してくれています。(LF)中世初期から、修道院や教会関係の共同体においては、危篤の人は棺架や棺にのせられて教会へと連れてゆかれたものだった、ということを想起する必要があります。死者たちへの回向が唱えられ、聖壇でミサがあげられている間に、その人はその教会で息を引きとり、そしてその場にとどまっていたわけでした。」(P.195)
「こうした国王についてのやり方は貴族層に模倣され、そこから中世末に、死体の防腐保存というやり方が展開することになります。」(P.196)
「安置の期間がのびたこと、好みの場に墓を建てるようになったこと、遠い戦場から死者を搬送すること、こうした多くの理由から、中世後期には死体の防腐措置が発展させられることになりました。(LF)いったん取りだされた内臓は、補足的な墓碑の対象となりました。たとえば腹わたの墓碑とか、とりわけ、心臓の墓碑がそれです。当時、心臓はたいへん強力な象徴的意味をになっていたのでして、それは、イエスの心臓への信心が興隆した十八世紀に頂点に達し、今日では消滅したものです。」(P.199)
埋葬
「歴史はここでも、埋葬の価値が引切り下げられてゆく展開になっているのですが、その展開は不規則なものでもありました。(LF)かつては埋葬こそが重要なポイントだったのですが、すでにみたように、それが遺体の搬送と教会でのミサに比重が移ることによって、この展開ははじまります。」(P.202)
「なぜなら信心会は、まさに教会を経由することのなかった貧者たちの埋葬、慈善の埋葬に、昔ながらの重要性をおき続けていたからでした。公共衛生を考えたエリートたちが、十八世紀末に葬儀のやり方を改革するように押しつけ、墓地は汚染された地帯だから往来してはならない、としようとしたとき、こうした改革に対して庶民階層が一定の抵抗を示した理由も、おそらくは以上のことから説明できるでしょう。(LF)ここまで述べてきたことは、どちらかといえば、中世なかば以降に遺体の隠蔽が優位になった地域に、かかわるものです。(LF)遺体が目に見える形でおかれ続けていたイタリアでは、わたしたちが述べたような安置の仕方が存続し、それも聖壇の前でではなく、墓のうえででのことでした。」(P.203)
「しかし、そうした副葬品は中世初期から姿を消していたのであり、ふたたび同様の慣行があらわれるのは、数世紀間の断絶をへたのちにすぎないのです。」(P.210)
「この事例は、注目に値します。なぜならそれは、いかなる文書にも記されていない慣習の一例だからです。つまり、文字の世界とは別の世界に属する慣習があったのです。いうまでもなくそれらの慣習は、ある意味をもっていました。同時代の文字をあやつるエリートたちが、その存在は許しながらも、あえて無視することを望んだような意味、そして現在のわたしたちにはつかみようのない、意味なのです。(LF)(FF)以上からわかるように、中世なかばからこのかた、長期にわたる傾向は、墓の象徴的な重さを軽んじる方向へとむかっているように見えます。時と場に応じて、もちろんジグザグはあるのですが。(LF)しかし十九世紀には、この傾向は逆転を見せることになります。埋葬は、ふたたびその重要性を獲得したのでした。」(P.210-211)__「あえて無視する」Note Bene!!
「クールベのデッサンにみられるとおり、かつては死にゆく者の寝室に家族が集ったように、ここでは共同体が、口を開けた墓のまわりに集まっているのでした。」(P.211)
第4章 あの世
皆はらからの世界
「これは、(FF)人間存在の基本的一体性と、その存在の構成二要素が死にさいして分離することとのあいだで、しばしあいまいさが存続することの、表現なのでした。」(P.216)
「しかし、十四世紀において、墓碑の横臥像やステンドグラスの聖人たちのうえに描かれた天のエルサレムの建築群が示唆しているように、神の玉座のもとに、その王国の中心に、魂は直接むかうのでしょうか。そのまえに、別のところに止まるのだ、と長いあいだ考えられていました。まず人びとは、(FF)死者たちは一種の待機の場所におかれるのだ、と信じました。ラテン語で receptacula〔控えの間〕、habitacula〔住処〕、promptuaria〔蓄えの場〕といわれたこの待機の場所は、キリストが父なる神の家にもっておられるさまざまな居所のことだ、と聖アンブロシウス〔アンブロワーズ、三三三―九七〕によって解釈されます。アダム以来、旧約聖書の幾世代にもわたる人びと、預言者たち、神父たちは、そうした場所のひとつで待機して、キリストが解放しにやってきてくださるのを、待っていたのだ。そしてその解放こそ、キリストが、みずからの死と復活とのあいだになさったことなのだ。こういうわけです。その場は、冥府と呼ばれましたが、はやい話が死者たちの滞在の地を意味しており、そしてその地は、永遠に閉ざされてしまったのでした。」(P.217)
「主調をなしているテーマは、待機、休息、眠りで、これはまず墓碑銘の言葉づかいに、ついで横臥像の姿勢に、見られるものと同一です。」(P.217)
「初期に考えられていた待機所についての、無意識のうちの記憶にうながされて、おそらく、閉じられた穴倉という形態のもとに、洗礼なしに死んだ子供たちの孩所にかんする最初の表現が、なされるようになったのでしょう。」(P.219)
「休息のための臨時の場という信心は、死者が縮小された生を続ける中立的な滞在地を考えたユダヤ=異教的な考え方の遺産と、この世の終末が近いと予見した文書、聖ヨハネによる黙示録の普及という、双方から理解されましょう。」(P.219)
個人別の伝記にむけて
「「マタイによる福音書」第二十五章に由来する、この別の表象においては、個人がドラマの中心となり、種としての人類に取って替わることになるのです。」(P.224)
「キリスト最後の出現から最後の審判への移行ということは、アダムとエヴァの一族という種としての人間の総論的考察から、それぞれの魂が審査の対象となり、その伝記すべてが考慮の対象となるような、魂の一覧表へと移行したということでした。」(P.226)
「最古の表現が控え目だったということは、劫罰をうけた者への主要な罰が、姿を消すこと、存在の抹消だったということから、由来しているかの感があります。しかし反対に十三世紀からは、存在の意識があの世についてもすべて重要なものとなり、そしてこの時代の人はもはや、地獄においてすら存在の意識が消えさることはありえない、と考えるようになるのです。」(P.228)
「最後の審判は、たしかに個々人の生にかかわるものでしたが、それはこの世の終末に、ただ一度だけなされるものでした。(LF)こうした形での最後の審判を、あの世のイメージの変遷を描くべきわたしたちの映画のなかに位置づけなおしてみますと、それは、中世前半の普遍的、共同体的な理想と、後半の個人主義との、妥協物のように見えてきます。」(P.231)
「この世の終末に生起していたことすべてが、これからのちには死のときにおこります。それは伝統的な儀礼との関係を保っていますが、黙示録の炸裂した世界においてではもはやなく、私的な現実の場、寝室のなかの寝台のまわりで、おこることになるのです。(LF)最後に、神は裁判官としてよりも、試練の結果の確認を役割とする審判者として、より多くの姿を見せています。人間は、みずからの運命をその手中に納めているのです。」(P.234)
「信仰をもつ者であれそうでない者であれ、わたしたちが『往生の術』をぱらぱらとめくってみたときに、深くわたしたちの心を動かすような、実存的で(FF)悲愴感漂う内容は、十八世紀や十九世紀には姿を消し、かわりに、とくに不信仰への攻撃をめざした教会プロパガンダの押し付けがましい宣伝が、頭をもたげることになります。」(P.234-235)
「これら二つの絵を比較しますと、根本的な懸念を表現するのではなしに宣伝材料になってしまったとき、テーマがいかに貧困なものとなるのかが、(FF)確認されるでしょう。(LF)瞬時のうちに生の意識を獲得するという、わたしたちが『往生の術』の象徴的表現のなかに見出したことは、十四世紀と十六世紀のあいだに死のおぞましさを描いた芸術のなかにも、いっそうの切迫感と悲壮感をもってあらわされています。ただ、そこで問題となっているのは、あるひとつの生である(FF)よりも、生そのもの、生のもっとも魅惑的な側面のことなのです。」(P.237-240)
「擬人化された〈死〉は、時間の読み方を習得したこの時代の産物でした。そうして〈死〉は、決して手放すことのない砂時計に、じっと目を注いています。」(P.240)
「〈死〉は、生者たちを疑念の余地もなく打ちくだく、いわば移動する墓なのです。」(P.241)
「〈死〉は、神の決定を執行するのですが、だからといって、まったく神に属しているわけではなく、また悪魔の王国に人を供給するのですが、まったく悪魔に属しているわけでもありません。〈死〉は、十五―十六世紀にみずから浮びあがらせた地下世界と、つながりあっているのです。」(P.244)__〈死〉という世界宗教。主体宗教。
「十七世紀や十八世紀の医者たちは、その寄生虫を駆除したり、あるいは飼いならすことを、みずからの課題にしていたものです。」(P.247)
「むしろこの図像は、当時の現実の不幸をあらわしている以上に、生にたいする過剰な固執をあらわしているように、わたしには思えるのです。」(P.247)
煉獄
「あの世に打ち寄せるこれらの大波は、それぞれがそれぞれのやり方で、あの世の観念と人間の観念との照応関係を、証言するものでした。あるときには、集合的な運命の不可分な要素として、またあるときにはその反対に、最後の瞬間までみずからの運命の主人である、唯一のまったき個人として、その照応関係は示されていました。(LF)十六世紀になると、これら強大な推力がつきてしまい、中世の図像はもはや反復されるばかりで、その発想の源を失い、その根元からひきはがされてしまったような感じがします。」(P.249)
「むしろここで、わたしたちイメージの狩人にとって印象的で、しかも問題を投げかけるのは、十七世紀以降の図像のなかに煉獄が爆発的に増加し、十八、十九世紀、さらに二十世紀初頭において、庶民の信仰のなかで並外れた成功を収めた、ということです。」(P.251)
「煉獄の人気は、私見によれば、隣接しあった二つの現象に照応しています。(LF)ひとつは、意味のずれです。つまり煉獄は、究極のところで救われたいくらかの大罪人たちのための、一時的地獄であるというのではなくなり、すでに列聖された聖人たちは別にして、選ばれた者すべてが必ず通過するはずの控えの間に、なったのでした。(LF)もうひとつは、愛する者たちの出発を耐えがたいものにしはじめた、感性の変化ということです。第一の段階 煉獄が広範に広がってゆく段階 では、煉獄には、死んで姿を見せなくなった人たちがいるものとされ、人びとは彼らとふたたび会えるまでのあいだ、祈りを通じて彼らと心をかよわせたのです。」(P.254)
「信心会員たちはそうして、自分たちの死後の救済を保証しあい、特権としてその救済を確認している資格証を受けろるのです。」(P.258)
(イタリアの人類学者パトリツィア・カンベルリ)「こうして魂たちとの安心できる関係をうちたてることによって、彼らは、ひと(FF)たびみずからが永遠の生に入っていったときに、みずから自身の歴史上の記憶が救われることを、求めているのである」。これは、煉獄の存在とアイデンティティの確認との結びつきを強く示してる、重要な文章にほかなりません。」(P.258-260)
再会の場
「生者と死者との接近は、カトリック信徒たちにおいては、私見によれば煉獄の人気の高さをもたらしたものでしたが、しかしそれは境界の外部で、実証主義が支配する環境のなかで、さらには反教権主義的ですらある環境のなかで、発展したものです。どのような宗派に属していようと、それは西欧全体を覆う津波のようなものでした。」(P.266)
(第一)「親愛なる故人のためには、もはや地獄もなければ煉獄もなく、あるのは、永遠のうちに再建された、この地上での優しい気持ちがあふれる家なのでした。(LF)第二の態度は、信仰はもたないけれども死者との交流を信じる人たちのもので、彼らは十九世紀前半の反教権主義の世界には、数多くいたのでした。死後にも生き続けるもの、それは、啓蒙思想家やキリスト教徒がいう魂ではなく、物理的存在、霊体なのだ。」(P.267)
第5章 すべては空なり
虚無の誘い
(十五世紀)「〈死〉にとらえられた犠牲者は、ほとんど驚きもせず、すでに諦観していましたので、〈死〉がかれを納得させるには、簡単なしるしがあれば十分だったものでした。(LF)十六世紀末になると、このトランジの姿は、肉体やこの地上のさもしい気色など打ちすてた、文字通りの乾いた骸骨でもって、おきかえられました。」(P.274)
「こうして、連れさることは、誘拐や凌辱へと転化することになります。」(P.275)__性的要素の加味。
「そこでは死は、それ以外には不可能な愛の、すなわち若い娘と〈死〉との愛の、場として立ちあらわれているのです。」(P.275)
「周知のテーマで描かれたこれらの情景すべてのなかで、新しい要素とはエロティシズムであり、より一般的には暴力にほかなりません。エロティシズムも、暴力の一事例にすぎないわけですから。」(P.279)
「それは、自然と超自然との中間に位置する想像上の空間、目に見えるものと、もはやよく見えないがまったく見えないわけでもないものとの、中間にある想像上の空間なのですが、しかし人びとは、明証的な現実の場合と同等の確信をもって、この空間についての幻想を抱き続けていたのでした。」(P.279)
「つまり解剖学の講義は、博士論文の公開審査とおなじように、入門者のための実演以上のもので、記憶にとどめられるに値する社交の行為だったのでした。」(P.279)
「こうして骸骨を、生命ある存在に仕立てようという欲求には、何か平静を乱す、驚きをもたらすものがあります。」(P.282)
「あちらでは、骸骨は復活の日に地中から出たきたところですが、この復活はもはや肉の復活ではなく、骨の復活なのです。(LF)その性格は、外見の骨格によってばかりではなく、口と目とに集中した形でそれが伝える一連の想定のすべてによって、特徴をあたえられています。」(P.283)
「「死を想え」というその伝統的な役割を、骸骨がかわりにはたすことになったのでした。」(P.284)
「個人性を払拭された死者の踊り、踊り手が誰であるかを示す特徴が消し去られたような死者の踊りからとられた、一情景。わたしたちはこの骨の輪舞のなかに、すべてを失うという苦悩 中世末期の一特徴でした と、さらには、ロマン主義の魁を告げるもの 少なくとも永遠の愛は守り続けたいという欲望とを、見ぬくのです。」(P.287)
「中世は、あまりに満たされた生の危険について、こだわったものでした。しかしバロックの感性は、生が空無であることを、憂愁とにがにがしさとをこめて、いいつのるのです。神と宗教のみが、その空無を埋めることができるであろう、と。しかし信仰は、下降しはじめていき、信仰がもはや支えることのなくなったこの世界は、虚無の側へと崩れてゆきはしないでしょうか。じっさい、たえずそのようにうながされていたのでした。」(P.294)
「突然、ないしはほとんど突然のことでしたが、西欧世界にはほぼ千年にわたって続いてきた伝統を断ち切って、人は遺体を地中に隠そうとはしなくなったのです。あるいは、バラバラの骨として納骨堂におくためにのみ、地中から取りだすというやり方を、やめたのでした。防腐措置やミイラ化、あるいは解剖用標本といった措置をうけついだやり方がくわえられ、遺体を全身として着衣のまま保存したり、ミイラや骸骨の形で顕示するよう務められることに、なったのでした。」(P.295)
人はうたかたの泡のごときもの
「たしかにこれらの品々を、中世末の伝統にのっとった、何ら独自性のない「死を想え」の品物として解釈することは、正当なことでしょう。じっさい、そうでもあったのですが、しかし、死に突然襲われる改心を何よりうながしていた古いやり方ででは、もはやありません。それらの品々はさらに、近代人の、みずから発見しつつあった虚無にたいする感覚を、表明してもいるのです。」(P.302)
「それは、当時しばしば引用された『伝道の書』からの一節を、参照したものでした。「空の空なるかな、しかしすべては空なり」です。「空虚」とは、(FF)実際は静物画のことです〔静物画のことはフランス語で「死んでいる自然」と表記する〕。」(P.302-303)
「年齢の幻想と、鏡像の幻想。しかも鏡像のほうが、現実よりも真実である、と。」(P.306)
屍の魅惑
「姿の類似などはなかった、中世の想像の産物トランジや、バロックの骸骨とはちがって、写実的な遺体が、表象の世界にこうしてあらわれてくるのです。歴史のなかに登場してくる、とはいえないでしょうか。」(P.319)
「十六世紀から、大きな変化がおこりはじめ、その効果は、現在においてなお感じられ続けているものです。つまり死が、その住処からぬけ出て、それまでは禁じられていた領域へと、さまざまなやり方で忍びこんでいったのでした。」(P.320)
「しかし十七世紀には、セックスは裏に隠れ、しばしば無意識裡のものになり、そのマスクの下から外へと出てくるには、十八世紀の心理現象を待たなければなりません。(LF)神秘的なエクスタシーは、愛の情景とともにまた死の情景とも、類似しています。」(P.324)__死とエクスタシー。
(P.324)生と死の接近
(・・・)「たんに裸にされた身体の苦痛ばかりではなく、もっとはるかに一般的で、より微細で拡散されたやり方において、生がまさに手放したばかりの、そして死がまだ硬直させていない肉体の柔らかさなのでした。それは、意識的か否かを問わず、芸術家たちがその物思わしさや官能的快楽をあらわすことを遅くまでためらったような、えもいわれるイメージなのでした。」(P.325)
(P.327)病的なしなやかさ
(公開処刑とモルグ〔死体顕示場))「この二つの大きな死の見世物が、公衆の目からさえぎられるには、二十世紀を待たなければならなかったのです。」(P.331)
「図像の系譜をたどってみますと、わたしたちの文化には十六―十七世紀の前後で、驚くほどの差異があることに、目を奪われます。(LF)十七世紀までは、死と生との二つのブロックは、距離を保っていました。ついで今度は反対に、二つのブロックは崩れおち、たがいに浸透しあうのです。それ以後は、死が生のなかに滲みこんでいくことになります。今日わたしたちは、まさに飽和状態ということができるはずのところで、〔死の〕禁忌について語っているわけです。」(P.331)
第6章 墓地の回帰
かつての墓地の残存
「(あえていえば)完璧な野外墓地には、三つの場合がありました。十字架の立てられた墓地、長方形や丸い墓石の立つ墓地、そして中間的な場合にあたる回廊の墓地、の三つです。」(P.334)
「しかしこの連続性は、教会の墓に冠する道具立てによって、十二世紀以降は覆いをかけられて見えなくなった形となり、十九世紀からふたたび姿をあらわしたものです。ですから十字架のモデルは、むしろまれな、周辺的な現象にあたります。」(P.336)
(十九世紀初頭)「それ以降、信者にとってもそうでない者にとっても、十字架は、わたしたちの意思疎通のためのコードのなかで普通に使われるものとなり、死を意味することになります。名前のうしろに付された十字架は、救済という観念とは(少なくとも意識的には)まったく無関係に、その人が最近死亡したことを告げるものとなるわけです。」(P.344)
シナゴーグ〔ユダヤ会堂〕
「すでに指摘したことですが(第2章参照)、十七世紀末から都市では、各職業についていたブルジョワジー、親方職人たちが、死を越えてまでみずからのアイデンティティを求めるようになり、目にみえる墓を自分で持ちたいと望む者も、すでに数多くなっていました。」(P.352)
「こうして、円盤形墓標の墓地と、垂直にたった墓標をもつ墓地のかたわらで、第三の型の墓地が十八世紀に姿をあらわします。その構造上の基本は、水平上の墓石にほかなりません。」(P.354)
墓石と遺体の一致
「こうした組み立てになった理由は、墓碑がただ埋葬の位置をしるすばかりではなく、正確に埋葬の場を覆う まったくあらたな配慮の登場 必要があったからでした。J・D・エルバンがいうように、このとき墓は、遺体そのものの替りとなったのでして、その遺体の大きさをそっくり再生しなければならないものと、されたのです。」(P.355)
「イギリスでは、故人の足の位置に小さな石(footstone)をおき、垂直の墓標は頭の位置においたままでした(headstone)。」(P.355)
十九世紀における墓地の移動
「開明的な精神の持ち主たちは、都市のただなかにある巨大な墓穴、巨大な納骨所の不潔さを、告発しました。」(P.358)
「生き残った人たちは、死によって引き離された人たちの墓を定期的に訪れるという、かつてはなかった習慣を、身につけました。自然が優しく迎えてくれることによって、彼らの苦悩は和らげられることでしょう。」(P.367)
第7章 他者の死
「かつて死は、そのためのいくつかの場所に封じこめられていました。そして十六世紀以降、それらの場所から溢れ出はじめたときでも、ただ想像界の地下の浜辺におしよせるだけで、日常生活の表面に姿をあらわしてはいませんでした。しかし十九世紀以降、日常生活も死をもはやまぬかれることなく、死はいたるところに存在し、磨きをかけられることになるのです。人は死を恐れなくなり、むしろ死とともに生きることに、満足を見出すようになります。」(P.370)
「これらの資料が見出されるような十九世紀の死とは、みずからのために恐れおののくような死でもなければ、油断に乗じて人を襲う死でもなく、みな(FF)さんから愛する人を奪い去る死、すなわち他者の死というモデルなのです。(LF)十九世紀と二十世紀初頭において、死がいたるところに存在しているとすれば、それは、死が事実上の別離、人がみずから悔やむことで心を満たし、喪の涙が傷つけられた愛をあらわすような別離だからです。そして同時に、また、死んで姿を消した人たちとの疎通を再建するためには、現実にその故人が残した物から死の痕跡を取りさらなければならない、そういうものに死が変化したからでもあります。」(P.374)
「死後の生存への確信は、死の影を薄くしたのではなく、反対に死を称揚することに寄与したのです。ですから、定着させ、守り続けようと望まれた第一の想い出は、生者についてのものよりも、むしろ死者についてのものだったのです。」(P.377)
「十九世紀後半には、写真が登場して、絵のあとをつぎました。写真は、このテーマに圧倒的な人気をあたえなのです。死んだ子供の写真がのっていない家族アルバムは、ほとんどないくらいでした。」(P.380)
「それは、子供を、大人とはちがって、死者としてよりも生者として示そうとする意志と、順応しているのです。なぜなら子供の死は、許しえない死の筆頭にあるからです。十六世紀以前には、子供の墓碑は存在しないか、例外的なものにとどまっていました。十七世紀にもなお、まれで、不器用なものにとどまっています。」(P.380)
「思春期の子供たちもじきに、死が許せないという気持ちの特権を、小さな子供たちと分かちあうようになります。」(P.381)
「十九世紀の墓地は、いわば家族愛の博物館です。そこには、他者の死によって提起された問題と、それに対する回答や反駁の無数の例が、含まれています。」(P.394)
「墓につけられたこうした修辞文はどれも、中世の短い墓碑銘とはちがって、見ず知らずの通行人にむけられたものではありません。それは肉親や、友人たちにむけられているのです。十九世紀のはじめから墓は、家族が巡礼のように訪ねる場となったのでした。」(P.406)
「墓碑は、最良の追憶の場だったのです。そこで人びとは、死者についての記憶、その人となりを想いおこしたのでした。そして 幻覚でしょうか現実でしょうか 故人が今度は応えてくれることがおこったのです。風の息吹とか、ひとさしの光とか、あるいは不思議な出現として。」(P.406)
第8章 そしていま
「家の私的な空間や、病院の匿名性といった秘密の場所に身を寄せてしまった死は、もはやその兆候を示すことがないのです。」(P.408)
「すでに引用したロビンソンやルーセルがいってたように、死とは無である、だから無であるものは、表現されようがないし、想い描きようがない、という感覚です。」(P.410)
(バルイマン『叫びとささやき』)「ついで、もはや神はいません。かわりに何かが、たしかにエリシャの神のようには死を打ち負かすことはできなかった、だがしかし正確無比な虚無ではない何かが、あります。それは、愛なのです。憐れみと優しさからなり、また同時に生の力と生身の肌の推力、美しさとからなる愛、彼女のなかに、自然の不可思議な力、ものを生みなおす不可思議な力を集中させているのは、愛にほかならないのです。」(P.412)
(クロード・ソーテ『日常のことども』)「母もなく、妻もなく、子供たちもなく、神もない。死にゆく人のぐらつく脳裡には、もはや何も存在しないことになるでしょう。しかしこの無は、あ(FF)のロビンソンやルーセルの純粋な抽象論とはちがいます。この無には、時間も空間もそなわっているのです。」(P.414-415)__死の瞬間でも自己を対象化する。
「しかしこの虚無は、正確無比な、幾何学的ともいえるような観念ではもはやなく、意識のすすむ筋道で、たとえどんなに短いものであれ、持続の厚みを獲得し、徴候としての力を獲得した虚無であるのにほからならないのです。」(P.415)
訳者あとがき
フィリップ・アリエスの遺著となった Image de l'homme devant la mort, Ed. du Seuil, 1983 の全訳です。
一九九〇年三月、なきアリエスを想いつつ。 福井憲彦
アリエス=牡羊座