図説 死の文化史 人は死をどのように生きたか フィリップ・アリエス著 福井憲彦訳 1990/06/10 日本エディタースクール出版部

図説 死の文化史 人は死をどのように生きたか フィリップ・アリエス著 福井憲彦訳 1990/06/10 日本エディタースクール出版部

凶器?

重たい本です。殺人現場に置いてあるような(笑)。どうして重いのかはわかりません。古本屋の倉庫でいっぱい水分を含んでいるような感じです。トイレ本。

送料込み1,375円。かなり黄ばんでいます。カラー図版が8ページ。あと、白黒の写真が数え切れないほどあります(「図説」ですから当然ですが)。と言ってもザラザラな紙質なので、高級な写真本ではありません。400ページ以上ありますが、文字が少なく専門的な本でもないので、トイレ本に最適です。ですます調の文体も読みやすいです。

A5判、423ページ。図版は418枚。ほぼページ数とおなじです。そして、各図版は決して小さくありません。ちゃんと言わんとすることがわかる大きさです。文字がないページもたくさんあります。編集者のセンス(能力)とご苦労がわかります。原書はどんな本なんでしょうね。手に入れることはできないでしょうが、見てみたいです。

お墓の本

半分くらいは西欧のお墓の話です。ヨーロッパやアメリカのお墓にどんなイメージがありますか。私は十字架。逆に十字架がないお墓は「キリスト教以外のお墓かな」くらいです。「外国人墓地」のイメージが強いかも知れません。あとは映画。じっさいに見たことはないと思います。

パリには「カタコンブ・ド・パリ」がありますが、区画整理等のたびに多くの遺骨が出てくるようです。東京だって、多分同じでしょう。先日、「永代供養」を謳う会社が倒産して、話題となりました。お盆に本家に集まって、墓参りと宴会をするという風習も少なくなってきているでしょう。

お墓には、その時の社会(文化)の状況が集約されています。

かねてより信じられてきたように、人間はみずからが死にゆくことを知っている唯一の動物だ、ということは、実は確実ではありません。そのかわりに確かなことは、人間が死者を埋葬する唯一の動物だということです。(P.2)

墓地ないし墓は、いつの時代にも人間が住んだ跡のしるしとなり、死と文化との関係の変わることのない一側面を、証言してくれることになります。(同)

普通の「思想史」じゃなくて、墓からその時々の人間の思考方式を探ろうなんて、すごいですよね。

このアリエスの文章は、同じフランスの哲学者パスカルの次の言葉を受けたものでしょう。

人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。(『パンセ』断章三四七、中央公論社『世界の名著 パスカル』P.204)

歴史は直線的ではない?

とくに難しい内容はないのですが、結局はよくわかりませんでした(藁)。アリエスはフランス人です。墓や図像もフランスのものがほとんどです。私は「カトリックもプロテスタントもキリスト教じゃん」程度の知識しか持ち合わせていないので、ヨーロッパにおいてキリスト教が演じている役割はまったくわからないのですが、この本はヨーロッパ以外の人が読んでもわかり易い内容になっています。訳注もほぼありませんが、問題ありません。

アリエスは、お墓をいくつかの視点から眺めます。埋葬の場所、墓碑(墓碑銘、墓碑文)、遺骨の保存形式などです。それぞれの視点から眺めて時間を下っていくと、ある特徴が消えてしまうだけじゃなく、別の時代にそれが復活したりするのです。さらに、当たり前ですが、お墓だけでその次代の文化や、当時の人々の考え方がわかるわけではありません。なので、その時代の図像(絵)の話も出てきます。図像にあらわれた〈死〉にかんする考え方も、お墓以上のその意味の解釈には難しさがあります。そうすると、いくつもの線が交差し、ある線は消え、それが別のところで再度あらわれたりするのです。

私は混乱しました。少なくとも私にはそう思えたのです。ましてトイレ本です。一回に読むのはせいぜい数ページ。文字と写真の情報量は多いですから、前回の事を忘れてしまいます。その交差する線全体が、あるイメージを浮びあがらせるのでしょうが(それがアリエスがやりたいことだと思います)、その全体像を把握するためには丁寧に読む必要がありますね。いつか再度読めたら良いな、と思いますが、そのチャンスはないでしょう。

帯には「「死」の意味が、今、顕になる」とあります。それは間違いだと思います。なにか

人間は「死」というものの意味が分からずにいたけど、時代とともに(人間の思考・科学等の発展とともに)「死」の意味がわかってきた。あなたもこの本を読めば、「死」の意味がわかります。

という宣伝文のように見えますが、そんなものが「わかる」わけでも、「ある」わけでもありません。そういう「進化論的ものの見方」で、歴史を見てはいけないのです。アリストテレスの天文学(自然学)があって、ニュートン力学があって、アインシュタインの相対性理論があって・・・、というように歴史が「発展(進化)」してきているわけではありません。

2000年前の「死」より、現代の「死」のほうが進化しているわけではありません。今、多くの人が(ほとんどの人?)病院で死にます。一世紀前まではほとんどの人が自分の家で死にました。病院で治療を受けられること、死の判定が科学的に行われることが「死の進化」だとも「明確化」だとも私は思いません。とくにコロナ禍で家族に看取られない死が「いい」とも私には思えないのです。

歴史上の死

アリエスが描くのは、それぞれの時代で「死」(つまり「生」)をどのように考えていた(感じていた)だろうか、ということです。それを知ることによって、現代の「死(生)」を絶対視することから「相対視」することができるようになります。

極端にいえば、「2000年前には2000年前の死がある。100年前には100年前の死がある」ということです。当たり前です。大切なことは、そこに「優劣」があるわけではないということです。

もうひとつ大切なことは、現代の「死」で歴史上の死を考えてはいけないということです。ジュリアス・シーザーの死、大石内蔵助の死は、三島由紀夫の死とはちがいます。十字軍の兵士の死と、第二次世界大戦での兵士の死は多分違うのです。

例えば「子供」です。

なぜなら子供の死は、許しえない死の筆頭にあるからです。十六世紀以前には、子供の墓碑は存在しないか、例外的なものにとどまっていました。十七世紀にもなお、まれで、不器用なものにとどまっています。(P.380)

思春期の子供たちもじきに、死が許せないという気持ちの特権を、小さな子供たちと分かちあうようになります。(P.381)

アリエスには『〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』という著作がありますが、その本の序文にはつぎのような記述があります。

往々にして生じたことだが、子どもが死亡したばあい、一部の人々は悲嘆に暮れはしたが、一般的には子供にたいしてあまり保護はなされず、すぐに別の子供が代わりに生まれてこようと受けとられていたのである。(杉山光信・杉山恵美子訳、みすず書房、P.2)

「生物学的な死」は動物にも植物にもあります。でも、「人間の死」は文化的なものです。おなじように、生物学的ではない「人間の子供」も文化的なものです。

現在の報道では、「子供を含む〇〇人が死傷」という報道がされます。少し前までは「女性と子供を含む・・・」という報道がされました。「老人を含む」とか「男性を含む」という表現は特殊な場合でしょう。

「子供の死」というのは、「死」の中でも「許しえない死」だとされているのは「現代的」なことなのです。これからどんな事が考えられるでしょうか。「親子の愛」、特に「母子愛(母と子の愛)」は「永遠の真実」「絶対的なもの」「生物学的に規定されたもの」だと思われていますが、「歴史的」「文化的」なものだということです。「母子家庭」が色々な意味で問題になります。その基本にある文化的な思いは「母子愛は絶対にある」という前提なのではないでしょうか。前記の報道が、その感覚のもとになされているのは間違いありません。

死ぬ(死にゆく)人の心と生きている人の意識

この本で主に描かれているのは、生きている人、死を見送る人の意識です。それは「死」をどう見つめるか、生きているとはどういうことか、ということですが、それは「自分が死ぬこと」にもつながっていきます。自分がどう死を迎えるのかということです。

若いうちは「自分が死ぬこと」をあまり考えません。自分が老人だと気づく頃に、「自分の死」を考えます。「長生きをしたい」「死にたくない」という気持ちも、文化に規定されています。たしかに、人間はいつの時代でも「自分が死ぬこと」を知っています。でも、その「自分」は時代によって大きく意味が違っています。その「自分」の変化が「死」にたいする考え方を変化させます。

これらのあいだには、大きな文化的断層は走っていないのでして、断層があるのは、キリスト教的であろうと世俗的であろうと、シャープ記号で音調のあがった広大な死の領域と、今日の死のようにフラット記号で半音さげられた死との、そのあいだにこそなのです。(P.176)

そのキーワードは「アイデンティティ」です。このアイデンティティも二種類あります。故人のアイデンティティと死ぬ自分のアイデンティティです。『赤穂浪士』でいえば、大石内蔵助が守ろうとした浅野内匠頭のアイデンティティ(この場合、「名誉」と言ったほうがいいかも)と大石内蔵助自身のアイデンティティです。この二つは明確に別のものと意識されてなかったと思います。というか、近世前期に明確に分離して意識されたということです。それが中世と近代を分ける大きな「文化的断層」なのです。西洋の文化はアイデンティティ(自己同一性)を重視した文化です。

この文書を重視した文明は、ほかの諸文明以上に、なにより墓碑銘の文明です。(P.52)

紀元直後の数世紀には、多くの墓碑に、死者の何者であるかを示し、ときにはその伝記をも書きとめた碑銘とならんで、死者の特徴を永遠に残そうとする肖像が、つけられたのです。(P.52)

別のいい方をすれば、個人のアイデンティティを重視した文明だ、と。つまり人びとは、その生前に特徴的だった故人の性格を、死においても保持し続けていたわけです。(P.55)

まずは「文字文化」だということです。もちろん、文字がわかるのはかぎられた人だけでしたが、逆に、墓碑に文字を刻んだのは(そしてそれが残っているのは)権力者やエリートだけです。それでも「歴史」に現れるのはそういう人たちだけなのです。「歴史」というのは「有史」ということです。その社会全体を「文字文化の社会」だと言っていいのかどうかは、難しいところです。私は歴史学が文献学の域を出ることはないし、文字を知らない庶民と文字を使える権力者の関係を歴史学が描くことは難しいと思っています。

墓碑(墓碑銘)として残っている故人のアイデンティティというのは、故人が自分でつけたものかも知れないし、残されたものがつけたのかも知れません。いずれにしても、その二つは一緒のものだったと思います。別のいい方をすれば、「個人のアイデンティティ」と「共同体のアイデンティティ」は分離されていなかったということです。

ほぼ五世紀のころから、こうした死後のアイデンティティにたいする配慮は弱くなり、姿を消してゆきます。その痕跡を保持していこうなどとすることは、なされなくなってゆきます。(P.55)

どうして弱くなったのか。歴史が苦手な私にはわかりません。ただ、共同体のアイデンティティが守られるなら、「〇〇という個人が何々をした(何々だった)」ということにはそれほど意味がないのです。

古代ローマにおける、個人別の墓が支配している状態から、中世前半には匿名性の支配へと移り、それが何世紀にもわたって持続したことになります。(P.62)

それが、

十一世紀ころ、長いあいだ抑えられていた個人のアイデンティティを明示する配慮が、最初はもっと簡潔な墓碑銘という基本形式(名前、称号)のもとに、ついで似姿というもっと手のこんだ表現形式のもとに、ふたたび姿をあらわしました。(P.62)

この個人(故人)のアイデンティティをアリエスは「人格」「自意識」と表現します。

それは、その人の人格という観念です。人格のイメージは、何世紀このかた失っていた意味と力とを、ここにふたたび見出したのです。それが他のどんなしるしや象徴よりもよく、自意識、みずからの存在の意識を表現しているものだということに、気づかれたわけです。(P.62)

十六世紀からは、墓碑銘は一般化しました。つまり、それまで墓などもったことはない階層だけれども、墓地や、あるいは教会においてすらもはや匿名の埋葬では満足できなかった人びとが、この墓の形式を採用したわけです。彼らもまた、たとえ人の目につくことは欲さないまでも、少なくとも文字によってその存在が知られることを望んでいたのです。それは、まさに識字能力と読書が普及する時代と、照応しています。(P.70)

ここで、アリエスは「文字がある文化(社会)」と「文化に所属する人びとの識字能力」との差を意識しています。それまでは、お墓は共同体(あるいは社会)のものでした。現代の見方でいえば、故人のためのものでした。一般の人たちは墓碑銘を読むことすらできなかったからです。それが個人のもの、つまりまだ生きている(死にゆく)人のためのものに変わったということです。

これが死生観にもあらわれています。それまで死は共同体に属していました。死者は極端に言えば死ぬことによって共同体そのものになります。日本的に言えば「ご先祖さま(神、魂)」となって共同体を守る存在となります。故人の人格や功績は、現在の共同体の存在と一体化したのです。だから、死は尊いものでした。それが「シャープ記号で音調のあがった広大な死の領域」です。個人の存在と共同体の一致という形でアイデンティティがあります。アリストテレスたちの論理学がいう「自己同一性」は「イデア」あるいは「観念」、人間の認識と存在(ピュシス)との一致です。「ソクラテスは死ぬ。AはAである。」という形式を取っています。ソクラテスにとっては、まさに自己と国家との同一性でした。それを不思議に思うプラトンこそがその後の西欧を暗示しています。

ソクラテスに「罰金を払って、生きてください」というプラトンは、国家(共同体)と個人(ソクラテス)は別の存在だ、と言っているかのように聞こえます。現代人の感覚ではプラトンの言う事のほうが納得できるのではないでしょうか。

個人的な死

西欧(ヘレニズム)は、キリスト教(ヘブラズム)に席巻されます。プラトン的なものは、アリストテレスによって洗練されますが、それは忘れ去られます。アカデミア(アカデメイア、Ἀκαδημ(ε)ια)が閉鎖されたのが529年です。「ほぼ五世紀のころ」(P.55)というのと無関係でしょうか。

「十一世紀ころ、長いあいだ抑えられていた個人のアイデンティティを明示する配慮」(P.62)が復活します。

まだたいへんおずおずとではありましたが、自意識における変化が生じていたのです。(P.65)

死が個人的なものになります。共同体的なものは家族的なものまで縮小されていきます。「誰かの死」と「みずからの死」が別のものになります。

十五世紀には、横臥像は遺体をあらわすものへと地滑りをおこします。もはや、死によって平穏を迎えた美しい身体ではなく、地中において解体の力が破壊をすすめる醜悪な遺骸  おぞましい(マカーブル)移行状態  へと、そしてもっとのちには遺骨、すなわち干からびた死の最終状態へと、表現は移っていくのです。(P.92)

むしろこの図像は、当時の現実の不幸をあらわしている以上に、生にたいする過剰な固執をあらわしているように、わたしには思えるのです。(P.247)

他者の死と自己の死への「死の二重化」は、「存在の二重性」に結びつきます。

それは、はかなく消滅していく肉体を、不滅の魂に対置する傾向をもつものでした。反対に、目にみえる墓碑によって、埋葬の匿名性から脱出することを望んでいた多くの小名士たちは、この存在の二重性という概念を、執拗に激しく忌避していたのです。(P.111)

死によって肉体は朽ちて消滅してしまいます。それは自己にとっては「おぞましい」ことです。いくら自己のアイデンティティを残そうとしても、死が自己の「終わり(終末)」であることは否定できません。共同体から分離してしまった自己の死を悲しむものは家族のみになっていきます。死の価値は低下します。死は「フラット記号で半音さげられた」ものになります。デカルトの自我の宣言(『方法序説』1637年)が象徴的にあらわしているように、死は個人的な死となり、肉体は機械論的のものになります。

十七世紀の大きな像からなる墓碑は、十二世紀の横臥像とともに始まり、十七世紀の祈禱像まで途絶えることなく五百年ものあいだ続いてきた、一連の動きに終止符をうつものでした。十八世紀にもなると、図像にかんしてためらいが、ある裂け目が生じることになるでしょう。十九世紀の野外墓地においてはじめて、ふたたび安定的な墓のモデルが出現することになりますが、しかしそれは、もはや中世的な連続性とは何の関係もないものとなります。(P.125)

近代的な「個人の死」は「孤独」をもたらします。

まずは貧しさ、そしてよりひそやかなかたちでは、自己愛、および告解と医術の実施。これら三つの要因が作用して、死にゆくものをその属する共同体から引きはなし、みずからのうちに閉じこもらせる動きが、はじまったのです。

キリスト教の考え方と、啓蒙思想の考え方と、死についてのの二つの考え方は、いずれも同一の反撥の極をもっていました。すなわち、孤独ということです。(P.174)

近代的な死が、近代的な病院を生み出します。病院は「死にゆくもの」のための場所になります。病院に関するイメージは、この半世紀で大きく変わったような気がします。

(・・・)家のかわりに病院がくる、というものでしょう。しかし、それにかかわる大病人は、医療技術のおかげで、原則としては治るチャンスをすべてまだ保持しているわけですし、どうにもならない絶望的な場合は、病人が自分を死にゆく者とみなさないよう、すべてが秩序立てられることになります。」(P.174-175)

がん(昔で言えば結核?)の告知がされなかったのは、死にゆく本人のためです。それがなされるようになったということは、告知後の医療から死に至るまでのすべてが「秩序だって計画された、機械的過程」になったということです。老人ホームも同様です。

中世は、あまりに満たされた生の危険について、こだわったものでした。しかしバロックの感性は、生が空無であることを、憂愁とにがにがしさとをこめて、いいつのるのです。神と宗教のみが、その空無を埋めることができるであろう、と。しかし信仰は、下降しはじめていき、信仰がもはや支えることのなくなったこの世界は、虚無の側へと崩れてゆきはしないでしょうか。じっさい、たえずそのようにうながされていたのでした。(P.294)

「虚無(ニヒリズム)」が「個人の死」から生まれてきていることは明確です。

共同体の一員として(あるいは種として)の死と「〈わたし〉の死」との分離、二つのアイデンティティの分離が、近現代の死を規定していると思います。

日本のお墓

この本で中心となっているのは、西欧の都市におけるお墓です。それ以外の記述もありますが、人間が集団で生活をすることから共同体における埋葬方法が墓を規定します。つまり、初めから文化的に規定されているということです(各家のなかに埋葬する文化もあるでしょう)。共同体が大きくなり、人が密集すると、そこに都市ができます。

「納骨堂」や「永代供養墓」は、文化の問題です。その文化が「死」をどのように考えているのか、という問題なのです。私がはいるだろうお墓は、公営墓地にあります。そのお墓は父が建てたものですが、それまでは木製の「塔婆」でした。木の板ですから、雨風で傷みます。放っておくと朽ちてなくなります。火葬が一般的になるまでは土葬でした。遺体とお棺は朽ちてなくなり、その空間には水がたまります。お墓参りに来る人がいないお墓は、雑草が伸び放題で、塔婆も腐ってなくなってしまいます。私の母は、昔、そういうお墓の上を歩いてしまって、その水に落ちてしまったことがあるそうです。

この50〜60年でも、お墓は大きな変化があるのですが、その変化は消えつつあります。私は知りませんが、アリエスがヨーロッパで行ったことを日本でも行っている人がいるんでしょうね。柳田國男あたりがやっているのかも知れません。

この事例は、注目に値します。なぜならそれは、いかなる文書にも記されていない慣習の一例だからです。つまり、文字の世界とは別の世界に属する慣習があったのです。いうまでもなくそれらの慣習は、ある意味をもっていました。同時代の文字をあやつるエリートたちが、その存在は許しながらも、あえて無視することを望んだような意味、そして現在のわたしたちにはつかみようのない、意味なのです。

以上からわかるように、中世なかばからこのかた、長期にわたる傾向は、墓の象徴的な重さを軽んじる方向へとむかっているように見えます。時と場に応じて、もちろんジグザグはあるのですが。(P.210-211)

ある文献があったとき、そこに何を見るか、それは技術的な問題ではなく、見る人の「見方」の問題です。お墓を見るとき、永代供養のニュースを見るとき、葬儀で手を合わせるとき、「文字の世界とは別の世界」が様々な形で顔を出しています。もちろんそれらは「公式な文書」には書かれていません。

私も真似をしたい、その見方の「よい」一例がアリエスにはあると思います。






[著者等]

アリエス,フィリップ
1914‐1984。ロワール河畔のブロワで、カトリックで王党派的な家庭に生れる。ソルボンヌで歴史学を学び、アクション・フランセーズで活躍したこともあったが、1941‐42年占領下のパリの王立図書館でマルク・ブロックやリュシアン・フェーヴルの著作や『アナル』誌を読む。家庭的な事情から大学の教職には就かず、熱帯農業にかんする調査機関で働くかたわら歴史研究を行なった。ユニークな歴史研究を発表し、新しい歴史学の旗手として脚光をあびる

すべての者が回避できない死というテーマに真正面から取組み、そのイメージの変遷から、人間が死とどのように向きあってきたかの歴史を読み解くアリエスの遺著の全訳。古代ローマ・アッピア街道の墓所から、ベルイマンの映像の現在に至る、多様な図像表現を駆使した本書は、本当の意味で、フランス歴史学派の最初の映画的書物です。



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