新ゴーマニズム宣言スペシャル 脱正義論 小林よしのり 幻冬舎1996










新ゴーマニズム宣言スペシャル 脱正義論

新ゴーマニズム宣言スペシャル 脱正義論



私は、「ゴーマニズム宣言」をほとんど読んでいない。小林よしのりの漫画はほとんど読んだことがない。「東大一直線」のあのノリが嫌いだった。(「おぼっちゃまくん」は笑ってしまったことがある。)そもそも作者の顔が嫌いだ。(元ピッチャーの榎本氏を連想してしまう。)しかし、私はなぜ彼の顔を知っているのだろう。そういえば「朝までナマ・・」で見たような気がする。おとこまえのくせにいいことをいうなあ、と感心していた気がするのだ。
今思えば、私は彼が行っていた薬害エイズ訴訟の運動の一部を見ていたのだ。この本は彼が薬害エイズ問題に関わった一部始終を一冊にまとめたものである。小林よしのりが、そのほかにどんな社会的な運動を行っているのかは知らないが、この本に関してはひとつの「運動論」としてとてもおもしろい。彼は「個の連帯」という理念に基づいて運動を行った。運動として人々を動かすのは「共感」ではなく、「正義」でもなく、もちろん「イデオロギー」でもなく「情(同情)」であるという考え方である。しかし、その「個の連帯」が運動の過程で次第に「イデオロギー」に呑み込まれ、「幻想の運動」になってしまったというのが彼の運動の思想的な総括である。彼が信頼した学生の「個」は成熟していなかったのだ。これは彼にとっても、学生にとっても不幸なことであった。そこで、彼は最後に学生に「日常に戻れ」ということによって、みずからが行った活動の責任をとろうとしたのである。
しかし、学生は求め続けた。自分を満たしてくれるもの、自分を指導してくれるものを。それが「イデオロギー」であろうと、「宗教」であろうといいのだ。幻想でも錯覚でもいいから、充実していると、何かを達成しようとしていると思えるものを。そこにはもう「個」はない。組織のなかの「一人」があるだけである。
小林は、運動に勝って、運動論に負けた。それは、彼の力量の問題を大きく超えた日本が抱える病んだ部分の問題であり、近代社会が抱える大衆社会の問題である。彼は、近代社会を支えるシステムに負けたのである。
システムには負けたが、運動に勝てたのは、彼のプロとしての実力である。言葉では何とでも言える。それを商売にしている連中もいる。しかし、小説や、絵画や、漫画で自己主張をすることはとても難しいことである。特に、ギャグ漫画で自己主張するのには希有な才能が必要である。プロの漫画家として、私が知っているのは「吾妻ひでお」など、数人である。
私は、プロとしてなにができるのだろうか。サラリーマンは漫画家とは違う。しかし、才能があれば、組織のなかで自己主張ができるのかもしれない。才能がないのに自己主張をすれば、組織につぶされるだけだ。単に才能を組織のなかで生かせば、なにがしかの充実感と引き替えに組織にからめ取られてしまう。組織のなかで、どのような自己主張(運動)が可能か。この本は、運動論としてだけではなく、プロ意識の問題、運動の責任の取り方の問題としても興味深い一冊である。

2000.1.10



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