ホモ・ルーデンス ホイジンガ著 高橋英夫訳 1973/07/25 中公文庫

ホモ・ルーデンス ホイジンガ著 高橋英夫訳 1973/07/25 中公文庫

実はこの文庫を2冊もっています。1冊は読みたくて大昔に買ったものです。もう1冊は買ったことも忘れていて図書館のリサイクルでもらったものです(笑)。お風呂本です(何度か湯船の中に落としそうになりました)。

「ホイジンガ」は「ホイジンハあるいはヘイジンハと表記した方が原音により近いとも思われるが、いまは慣用に従う」(解説、P.459)ということで、「ホイジンハ」と表記している人もけっこういます。私はオランダ語は全然わかりません。

原書が刊行されたのは1938年。ホイジンガは1872年生まれですから、60代中頃の著作です。1940年には勤めていたライデン大学がナチス・ドイツによって閉鎖されます。そんな空気も本書に漂う気がします。

ホイジンガは「私は二十歳台の終わりまでは手のつけられない幻想家であり、いつも変わりなく白日に夢見る男だった。午後など、友人の医学生に実習のあるとき、夕方また彼らと会うまで私はよくひとりで外の街へ、いずこともなくさまよい出たものだ。そういう散歩のおりおり、私はきまって軽度の恍惚(トランス)の状態におちた」(自伝『わが歴史への道』、解説、P.461)。天才というか、変人によくある話です。西田幾多郎やハイデガー、フロイトやユングなども「恍惚」というか「臨死体験」のようなものを経験したようですが、ホイジンガはしょっちゅうだったようですね。

そういう「日常の意識を超えたもの」の体験は、遊びにおいて「夢中になる」ことと繋がっているように思います。「我を忘れる」と言われるもの、それが遊びの本質ではないでしょうか。「日常」に対する「非日常」。本書の主題は「遊び」ですが、それが「遊びー真面目」という対立軸の中で「回転」していくのが本書の叙述です。

「遊びと聖なるもの」

遊びに関する有名な本にロジェ・カイヨワの『遊びと人間』があります。そこでカイヨワは遊びを「定義」するために「分類」しています。分類することが西洋的理性にとって必要なことであり、分類によって定義されたものが「概念」ということです。『遊びと人間』について詳しくは書けませんが、本書以上に「科学的」だと思います。カイヨワは『遊びと人間』の補論「遊びと聖なるもの」で、

大人の遊びについて深く考察したホイジンガもまた、眩暈の遊びには少しの注意も払っていない。彼はおそらくそれを無視したのであろう。(多田道太郎・塚崎幹夫訳『遊びと人間』講談社文庫、P.271)

つまり、ホイジンガが考察しているのは、遊びのそれぞれの活動に正確な意味を与える心奥の態度ではなく、むしろ外的構造なのである。また、彼が注意をそそいでいる考察対象は形式や規則であって、遊びそのものによって満足させられる心の欲求ではない。

以上のような発想だからこそ、おそらくこの著作は世にも大胆なテーゼを出しえたのであろうが、しかしそれは私の考えでは、同時に非常な弱点の要因ともなっている。すなわち、遊戯的なものと聖なるものとの同一視である。(同書、P.285-286)

「聖なるものーー世俗ーー遊戯」というヒエラルキーを決めれば、ホイジンガ説の構造はバランスを保つはずだ。(同書、P.295)

と言っています。「世俗」は「堕落した聖なるもの」であり、「遊戯」は「堕落した日常」だというのです。そこには明確な「価値判断」があります。

ホイジンガが「眩暈」について書いていたかどうかは思えていません(400頁以上の本書をもう一度読む元気はありません。なんか、「陶酔」については書いていた気がします)。でも、「恍惚(トランス)の状態」の体験、「日常の意識を超えたもの」にホイジンガが本書を書くきっかけがあったことは間違いないでしょう。

価値判断

ホイジンガは「遊び」と「真面目」に「ヒエラルキー」を設けていたわけではありません。

「遊びー真面目、この概念の永遠の回転のなかで、その精神のめくるめくのを感ずる者も、論理的なもののなかには見つけ出すことのできなかった支えを、倫理的なもののなかにふたたび見いだすのである。遊びそのものは道徳的規範の領域の外にある、とわれわれは冒頭で述べた。それ自体は善でもなければ悪でもないのである。(P.430−431)

道徳的意識というものは、正義と慈悲を認識することの上に基づいているのだが、そういう道徳的意識のなかでは、それがいかなるものであるにもせよ、ついに最後まで解きえない、これが遊びなのかそれとも真面目なのかという問題も、永遠の沈黙に入ってゆくのである。(P.431)

遊びは「善悪」という「道徳的な価値判断」の外にあります。道徳的な価値判断は「個別文化的(文化一般ではない)」なものです。

むしろ文化はその黎明における根源的な相のなかでは、なにか遊び的なものを固有の特質として保っていた、いや、文化は遊びの形式と雰囲気のなかで営まれていた、ということなのだ。この文化と遊びが重なり合った複合統一体のなかでは、遊びのほうが根本的な原初にあったもの、客観的に認識できるものであり、具体的にはっきり規定される事実であるのに対して、文化とは、ただわれわれの歴史的判断が、この与えられたものに対して名付けた名称でしかないのである。(P.111)

文化はその根源的段階においては遊ばれるものであった、と。それは生命体が母体から生まれるように遊びから発するのではない。それは遊びのなかに、遊びとして発達するのである。(P.355)

遊びでも暇つぶしでも仕事でも、ある行為に善悪をつけるのはその文化です。日本では家のなかでどうして靴を脱ぐのか、イギリス人はどうして裸足を恥ずかしいと感じるのか、牛・豚・犬などを食べる文化と食べない文化がなぜあるのか、死刑制度がある国とない国があるのはなぜか・・・、それらを功利主義的に、因果論的に(あるいは論理的に)説明することは可能でしょう。しかし、それらはその文化が創った「ルール」に過ぎません(快・不快もそれに支配されます)。ある行為に「善悪の価値判断」をつけるのは、その文化固有のものです。

現代文化批判

ホイジンガにとって本書をかくこと(学問をすること)は文化的な作業であり、そこには遊び的要素があったにちがいありません。そして、カイヨワ同様に「現代文化(当時のヨーロッパ)」に対して批判的な意識をはっきりともっていました。でもそのことと、いや、そうであるからこそ、ホイジンガは「遊びー真面目」をヒエラルキー(善悪の価値判断)の観点から捉えなかったのです。戦争ですら「遊びが産んだ文化」の一つだと言います。

言い換えれば、戦争の文化機能は、戦争の遊びとしての性格にかかっている。ところが、心のなかでは敵を人間として認めなかったり、あるいは「野蛮人」「悪魔」「異端者」「背教徒」などと呼んで、当然認めなければならない最小限度の人間的権利すら敵に与えなかったりする場合がある。こういう場合には、戦争をひき起こした集団が、彼ら自身の名誉を保つためにある種の自己規制を課するということをしない限りは、その戦争を文化の範囲に加えることはできない。(P.191)

私はここに、近代戦争、そしてナチス・ドイツに対する強い怒りを感じます。

しかし、われわれがようやくにしてつかんだ確信は、文化は高貴な遊びというもののなかにその基礎があるということであり、文化が様式と尊厳を最高にふるいうるためには、そこに遊びの内容がなければならないということであった。(P.424)

遊び破り(スポイル・スポート)は文化そのものを犯しているのである。(P.426)

戦争自体は、遊びの一形式であって、それ自体に「善悪のヒエラルキー(価値)」があるわけではありません。しかし、近代戦争が批判されるべきなのは、それが「遊び破り」だからです。ナチス・ドイツは人間の隠れた闇の部分が現れたのでも、非理性的なものでもありません。近代西洋理性の先鋭化です(その証拠に第二次世界大戦後も戦争と殺戮はくり返し起こっています)。ホイジンガの言葉で言えば、「真面目」の台頭による「遊びの要素」の欠落なのです。

遊びを定義するということ

カイヨワは遊びを分類するなかで、ホイジンガは眩暈を無視していると批判しました。分類すると、遊び相互の違いが明らかになります。カイヨワは遊びを「闘争(アゴン)」「運(アレア)」「模擬(ミミクリ)」「眩暈(イリンクス)」に分類したのですが、ある遊びをどれかに分類しようとすると、どうしても他の要素があることに気づきます。そこで、各項目の組み合わせを考えます。しかし、そうやって分類や組み合わせを考えていっても、どうしても「例外」が現れます。なにかを分類するときには、その基準に合わないものは「無理やりどこかに入れる」か「無視する」しかなくなります。いつも記載しているあるアンケートに「性別」の欄があります。はじめは「男性」「女性」だけでした。それがいつからか「その他」という欄ができました。さらにある時から「回答しない」という欄ができました。まだ増えるのでしょうか。「どちらでもない」とか、「両方」とか。なにかを分類したり、数値化するというのは一つの「ものの見方」としてはあるにしても、それが「普遍的」であるとは思えません。

「同一律」や「排中律」など、西洋論理学が作り出した近代科学は絶大な力をもっています。それが唯一の「正しさ」「善」で、それ以外の「思考方法」は「間違い」であって、「悪」であり、撲滅するべきものだという「真面目さ」こそが、現代社会の「非人間性」を生み出していると思えてなりません。

遊び・善悪の彼岸

本書には日本文化についての記述が所々に出てきます。ホイジンガの博識ぶり(歴史的にも、文化的にも)には驚きます。彼は日本に憧れをもっていたのではないか、と嬉しい気持ちになります。

日本においては「真面目」であることが、「道徳的」に語られる気がします。そして、私は「道徳的」であることと「倫理的」であることの違いがわかりません。西洋においては、それらは明確に区別されているんでしょうね。というか、それらはキリスト教という文化の中で分けられることなく結びついていたのだけれど、近代以降キリスト教の衰退とともに分離されたというべきでしょうか。

ホイジンガが人間を「ホモ・サピエンス(知性的・理性的な人)」でも「ホモ・ファベル(作る人)」でもなく、「ホモ・ルーベンス(遊ぶ人)」と呼んだのは、遊びを定義するためでも、人間を定義するためでもないと思います。定義というのは、ある時代のある地方の考え方・特定の文化・ある人たちの「世界の見方(世界観)」にすぎないのです。それを超えたものがあるということ、それを語りたかったのではないでしょうか。遊びは「定義」することのできないものです。それを定義するということは、遊びを「文化の一部」に矮小化してしまうことだからです。ましてや、その定義を「普遍的」なものとして他の文化に押しるけることなど本末転倒であると思っていたのではないでしょうか。

近代西洋文化は、あらゆるものを「分類」「定義」し、文化の中に引き入れます。そのときに「論理」あるいは「意識」というフィルターを通します。そして、そのフィルターは「客観的なもの」「普遍的なもの」だと思いこんでいます。そして、そのフィルターは「特定の時代」の「特定の文化」が作り出したものでしかないことを忘れています。私は私の意識(自意識)を超えることができません。でも、私の意識を超えたもの(それは他者の意識でもいいし、人間の意識そのものでもいいのですが)、その存在があることだけは忘れてはいけないと「最近」思っているのですが。






[著者等]

ホイジンガ
一八七二年、オランダに生まれる。一九〇五年、フローニンゲン大学教授。一九一五年、ライデン大学外国史・歴史地理学教授。古代インド学で学位を得たが、のちにヨーロッパ中世史に転じ、一九一九年に『中世の秋』を発表し、大きな反響を呼ぶ。ライデン大学学長をも務める。主な著書に『エラスムス』『朝の影のなかに』『ホモ・ルーデンス』など。一九四五年、死去。

高橋英夫
昭和五年(一九三〇)、東京に生まれる。東京大学独文科卒業。文芸評論家。『批評の精神』(中公叢書、一九七〇年)で亀井勝一郎賞、ケレーニイ『神話と古代宗教』(新潮社、一九七二年)日本翻訳文化賞を受賞。主な著訳書はほかに『役割としての神』『神話の森の中で』『小林秀雄 歩行と思索』、ケレーニイ『ギリシアの神話』上下、シュタイガー『詩学の根本概念』などがある。

「人間は遊ぶ存在である」。人間のもろもろのはたらき、生活行為の本質、人間存在の根源的な様態は何かとの問いに、二十世紀最大の文化史家が確信した結論がここにある。文化人類学と歴史学を綻合する雄大な構想で論証し、遊びの退廃の危機に立つ現代に冷徹な診断を下す記念碑的名著。



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