西洋哲学の基本概念と和語の世界 古谷裕清著 2020/10/01 中央経済社

西洋哲学の基本概念と和語の世界 古谷裕清著 2020/10/01 中央経済社

大学生に読んでほしい

ぜひ大学生に読んでほしいと思います。学部を問わず。頭が柔らかいうちに。

頭が固くなって、かつ、記憶力が落ちてきた私には難しかった。二回読んだけど、頭がついていきませんでした。理解はできなかったけど、いままで「わけも分からず」使ってきた単語が「なぜ分からなかったのか」、それがなんとなくわかりました。そして今は、その「分からいこと」が大切だと思っています。ソクラテスの「無知の知」ではありません。日本人(日本語話者)には、分からくて当然なのです。キリンがいない国ではキリンのことはわからないのです。絵(映像)を見ることはできます。百科辞典(ネット)で調べることもできます。でも、それで分かることは、「日本にいない動物が(他の国には)いるんだなあ」ということだけです。

日本にいる動物で、キリンを推測することはできます。ウマより大きいんだ、とか、ウマより首が長いんだ、とか。ヨーロッパの人たちが文化人類学的に、あるいは考古学的に他の文化の人々(たとえば、南太平洋の民族とか)、他の時代の人々(石器時代の人とか)について、様々な説明をします。でも、それは「現代の」「ヨーロッパ文化」を当てはめているケースが多い気がします。そこに物々交換を発見したり、「弱肉強食(あるいは適者生存)」を推測したり。自分が生まれ育った文化、おぼえた言語、そこで培った思考方法から抜け出ることは、不可能とはいわないまでも、とても困難です。それが成文化(言語化)されていようといまいと。

著者について

どうしてこの本を見つけたのかはおぼえていません。入手したのは多分、ヤフオクか何か。著者の他の本を探したのですが、法律関係のものしか見つかりませんでした。それでも読んでみたいと思っています。

対になっている哲学の基本用語

取りあげられているのは現在では「対」になっている語彙が各章二つで、全10章、つまり、20の語彙です。

主観と客観、観念と実在、帰納と演繹、総合と分析、実体と属性、原因と結果、可能と現実、能動と受動、理性と感性、普遍と特殊

この中で、日常よく使うのは「原因と結果」でしょうか。他の単語も聞いたこと、使ったことはあると思いますが、日常語とはちょっとちがいます。よそ行きの言葉ですね。この本では、それら欧州哲学から移植(輸入、流入)された語彙を、古典ギリシアにまで遡って使われてきた意味の変遷を書いています。古代ローマ、中世(キリスト教)、近世、近現代、いずれもその時代の学者(宗教家も含めて)がどう解釈し、どういう意味で使ったのかの解説です。そしてそれを明治以降の日本でどのように翻訳されたのか(和語の世界)が書かれています。

欧州では、その殆どは日常用語です。学問(あるいは宗教)のための言葉ではないのです。科学(学問)や法(あるいは理念)が欧州の生活に溶け込んでいるのは、知的レベルや教育環境のせいではありません。その元になっている思考そのものが哲学と一体になっているからです。それらの語彙が日常語であることと同じことですが。

和語

それらの哲学用語を、日本語は音読みの漢字二文字で表しました。それまでも、仏教用語や漢文学(中国思想)は、漢字で取り入れられてきたのですが、一文字(ときには訓読み)だったり、四文字(熟語)だったりします。最近(20世紀後半から)は「カタカナ」が多いですね。総理大臣が突っかかりながら、新しいカタカナ語をいうのは笑ってしまいます。「突っかかる」というのは、自分の言葉になっていないからです。つまり、意味が分かっていないということです。最近気になっているのは「ジェンダー」という言葉です。たぶん、欧米では日常語でしょう(羅 genus、英  gender、仏 genre =ジャンル)。でも「ジェンダー平等」と「男女平等」の違いが分かる人が日本にどのくらいいるのでしょうか。ジェンダーを「社会的性役割」と言い換えたとしても(それも可怪しいと思いますが)同じです。何となく意味がわかるようで、よくわからない言葉が流通してしまうというのは、日本語の特徴ではないでしょうか(「ジェンダー平等」ではなくて「ジャンル平等」といったら流通しなかったでしょう)。

ところが、私は「和語」というのもわかりません。学生時代に古文をサボったのがいまだに影響しているのです。なので、音読み(ニ文字)漢字を使わないと、文章を書けないどころか、日常会話にも支障が出るでしょう。

それでも私は日本語を話しているし(日本語以外は話せないし)、和語が、つまり日本文化が私を作っていることは間違いありません。

文法構造

この本で取りあげられている、それぞれの単語(語彙)を説明する気はありません。いまだに分かっていないし、それを書いていると本書より文字数が多くなりそうです。本書は約200ページですが、それぞれの単語で1冊の本が書けるだろうと思うほどの内容が詰まっています。著者も、なるだけコンパクトに記述しようとしていると思います。なので、大学のテキストのような表現が多いです。

それぞれの思想家の紹介だけではなく、古典ギリシア語やラテン語の勉強もできるような欲張った内容です。著者が力を入れているのは、プラトンやアリストテレス、キケロ、アウグスティヌスが何を書いたのかだけじゃなくて、それがギリシア語(ラテン語)とどう関係しているか、ということです。

ヨーロッパの言葉(インド=ヨーロッパ諸語、印欧語)が持つ文法構造が、その思考方法に大きな影響を与えている(あるいは規定してる)というのが著者の主張だと思います。一般に「サピア=ウォーフ仮説」と言われるものに近いと思います(この本には、サピアもウォーフも一度も出てきませんが)。

その一つは定冠詞・複数形の存在です。最近は日本でも「ザ・漫才」などと言ったりしますが、その「ザ」は「the」とはぜんぜん違うと思うし、「漫才」は単数なのか複数なのかわかりません。たぶん、「漫才そのもの」「漫才というもの」とか「漫才をすること」「漫才していること」「漫才を見ること」「漫才師(たち)」など、多くの意味をもっているのでしょう。普遍・一般・特殊・個別などの抽象的な概念(あるいは定義)を可能にしているのは、この定冠詞(不定冠詞)・複数形の存在です。

もう一つは、主格(主語)の絶対的存在です。

印欧語の文は主格を前提し、その人称(一人称〜三人称)や数(単数・総数・複数)に合わせて動詞が形態変化する(英語は変化をかなり喪失した)。能動・中動(受動)はそれぞれ別の変化をする。(P.151)

日本語には「主語がない」とか「省略されている」とかいわれることがあります。ギリシア語やラテン語などの印欧語でも、主語をつけないことがありますが、それは動詞などの他の語の変化で、主語が分かる場合です。

主格(動作・動き変化をはじめるもの、動作・動き変化を被るもの、動作・動き変化の中にいるもの、動作・動きを知覚しているもの、など)を明確にしないと、印欧語は成立しません。能動・受動・中動なども、主格の存在から見る文法構造です。もちろん主観・客観という考えも、主格の存在から導かれます。主格となるのは「話者(自分)」だけではありません。「話を聞く人」「動植物」「気象」「山や川」など、何でも主格となります。

主格を持たざるを得ないということが、強烈な主観性(主体性)を生み出します。しかし、どんなに強い主観性をもっていても、主体(自己)は「一個の(特殊な)個人(個体)」にすぎません(特殊と普遍)。主体(主観・観念)から見る世界(客体・実在)は計り知れないほど広く、大きいのです。主体が感性で知覚できるものは、あまりにも少ないのです(理性と感性)。でも、主格を捨てることは文法構造が許しません。自己は、観念の中で肥大するか、ライプニッツのモナドのようにかぎりなく小さな範囲に「引きこもる」かしかないように思います。かぎりなく小さな部分(特殊)でありながら、一つの全体(普遍)を形作っている、このダイナミズム(?)が西欧思想をつくっているように思いました。

この本で扱われている対立的な語彙、それらはもともとは対立・対応する語彙ではなかったのがほとんどだけど、時代とともに対立するものとなったのは、この主体と客体という構造の変奏だと思います。

「得(う)」の論理

これに対する「和語」を象徴するものとして著者が挙げているのは「「得」の論理」です。

「得」は手に入れる、(獲得済みで)秀でる、できる、と意味が広がる。話者に未獲得だったものが手に入る、未実現だったものが実現される、という利害関係を指す語。その獲得・実現は、話者の努力や働きかけによる場合もあるが、成り行き任せの自然発生であることも多い。何れにせよ、話者は身を以てその獲得・実現を引き受ける(利害に与る)。これが「得」の諸用法に通底する含意であり、そのまま「る」の通底含意でもある。(P.152)

「る」の受身は古代ギリシア語の受動(自らが発出源でない動き変化を主格が被る)とも違う。和語の動詞はそもそも主格を要求しない(和語の格助詞はおそらく漢文の影響で接続助詞から派生した後発的なもの)。「る」「得」は受身の当事者(話者、聞き手、それ以外の明示された人や物)の視線を前提するが、その当事者を明確に名指す必要はなく、ましてやその主格としての表示は文法的に求めない(現代語では格助詞による主格表示が可能だが)。また動き変化の発出源か否かという対立は、「る」「得」の意味成立に無関係である。(P.153)

能動・受動、自動詞・他動詞という枠組みで和語を解釈できないわけではないが、それは優れて後知恵的。漢文訓読や欧文和訳を通して和語が表層的に変化を遂げた結果である現代日本語の、表層部分に対する後付け解釈でしかない。(P.155)

小学校から学校で「国語」を習います(どうして「国語」という言葉に対する反対の声が大きくならないんだろう)。私は「日本語文法」なるものを習った記憶がありませんが(古文では文法がさかんに出てきます)、その文法は「印欧語文法」を日本語に当てはめたものです(明治以前から日本独自の文法理論はありました)。動詞の活用形や、「てにおは」の使い方など、習ったときは「なるほど」と思いますが、でも、日本語話者(印欧語でも同じだろうけど)は、日本語文法を覚えてから日本語を話すわけではありません。

文法は「すでにある言語」の中に「規則」を見つけたものです。そして、文法を覚えた後には、その文法に従って「話をしよう」と思うようになります(帰納と演繹、総合と分析)。すると文法というものが「客観的に実在」(観念と実在)するように思えてきます。私はこの歳になっても、しょっちゅう「いい間違い」をします。「それおかしいよ」「変な言い方」とか「どういう意味?」と聞き返されることもあります。それは「文法的に正しい」ということとは関係ありません。ましてや、私が考えていることが正しいかどうかとも無関係です。私の話し方が正しいかどうか(意味を成すのかどうか)は、文法的に正しいかどうかではなく、聞いた人に伝わるかどうかで決まります。極端な場合、相手が日本語話者でなければ(たとえば犬)、私の声は意味を成さないでしょう(日本人より犬のほうが、私の気持ちを分かってくれるかもしれないけど)。

私の日本語が正しいかどうか(意味を成すのかどうか)は、話す前(あるいは話している途中)に決まっているのではありません。私が話した「後に」決まる(確定する)のです(可能と現実)。だから、言葉はどんどん変化します。それを「言語ゲーム」(ウィトゲンシュタイン)と呼ぶこともできるでしょう。柄谷行人さんはこう言います。

なぜいかにして「意味している」ことが成立するかは、ついにわからない。だが、成立したあとでは、なぜいかにしてかを説明することができる  規則、コード、差異体系などによって。いいかえれば、哲学であれ、言語学であれ、経済学であれ、それらが出立するのは、この「暗闇の中での跳躍」(クリプキ)または「命がけの飛躍」(マルクス)のあとにすぎない。規則はあとから見出されるのだ。(『探究Ⅰ』講談社学術文庫、P.50)

私は、「後(あと)」でもいいから知りたいと思ってしまいます。私が知ろうと、知らないだろうと、すべての「ものごと」は存在します。それが発見されようと(「発明」でもいいんだけど)されまいと、それは存在します。もちろん、私が存在しようとしまいとそれは存在します。そして、それを「知りたい」と思うのは「私」という「主格」の強固な存在です。

私の存在

「私が存在する(いる、ある)」というのは、「する=す-る=su-r-u」、「「得」の論理」を含む言葉です。英語で「 This is a book.」というのは、「(ここに)本がある」と「(これは)本である」の意味があります(実体と属性)。日本語の「私が存在する(いる、ある)」にその二つの意味を見つけるのは、英語、あるいは日本語文法を勉強した「あと」ではないでしょうか。英語話者に「この this はナニ?」と聞いたらなんて答えるのでしょうか。代名詞、というのは何も答えたことになりません。代名詞って何?名詞の代わり。つまり、「 book」の代わりです。つまり、この文は「 A book is a book.」と言っているわけです。これは「A = A」(自己)同一性です。ソクラテスは言います。

いや、そればかりか、そのようなもの〔決して同一状態にないもの〕は、何者によっても認識されえないことになるだろうね。なぜなら、認識しようとする者がそれに近寄った瞬間に、それはもう別のもので別の性質のものになっているので、それがどのようなものであるのか、あるいはどのような状態にあるかは、もはや認識されえないだろうからね。そして、いかなる認識も、それが認識しようとする対象がいかなる一定の性状をももたないならば、これを認識することはないだろうからねえ。(プラトン『クラテュロス』439,プラトン全集第2巻、P.168)

しかし、もし一方において認識するもの〔認識の主体〕が常に存在しており、他方において認識されるもの〔客体〕が常に存在しており、美が存在し、善が存在し、もろもろの有るもののそれぞれが〔常に〕存在しているのであるならば、われわれ〔ぼく〕が今あげたこれらのものは流動にも運動にも全然似ても似つかぬものであることが、ぼくには明白だね。(同、440,P.169)

「イデア」の話をしているのですが、ヘラクレイトス(万物流転、Πάντα ῥεῖ )批判でもあります。日本にも「(諸行)無常」という仏教の(?)考え方がありますが、違いは「認識の主体」の存否です。ソクラテス(プラトン、そして多分ヘラクレイトスも)はその存在を認識(観察)する主体として、その存在の外(あるいは内)にいます。でも、「無常」では、主体は外にもいるし内にもいる、あるいは(むしろ)「いない」のです。そこにあるのは「我が身への引き受け」という状態だけです。

私は、私の存在を「引き受け」ることができません。「私であること」を強要されているように思ってしまいます。意思的(自発的)存在としての「私」は「自由の刑に処せられている」(サルトル)と感じてしまうのです。

原因・結果

さて、著者の考えとは関係なく、思ったことを書いてきましたが、取りあげられている語彙を密かに説明してきました。そして、残っているのは「原因と結果」です。これもよくわかりません。仏教では「因果応報」と言いますが、「親の因果が子に報い」(若い人は知らないかなあ)というように、自分自身(主体)を原因とするのじゃなくて、過去(前世)の結果を「引き受け」るというニュアンスが強いですよね。主体がないのですから、みずからの行為に対する責任を負うことも、他者の責任を追及することもないわけです。「国会中継」は「茶番劇」にしか見えません。

そこから「法の支配」などという発想が出てくるわけがないのです。

因果関係に対する和語の意識は総じて薄弱。暗黙知の対象でしかなかったのだろう。漢訳仏典の「因」「果」「縁」が因果関係を直示する日本初の語彙だったと思われる。これらは言語化されるべき法則性というより諦念して順応すべき理の象徴として日本で受けとめられ、輸入概念ながら日常生活に根ざしていく。ここに19世紀半ば以降、欧州思想が流入して「原因」「結果」などの翻訳語が考案され、「ため」「ゆえ」などが因果関係の明示表現へと転用された。英 cause の動詞形は「引き起こす」などと訳された。この表現は江戸期まで「体を引っ張り起き上がらせる」の意で、因果的法則という含意はなかった。(P.116)

そこには、万物を支配する厳しい理念的法則性を信じ、それを言語化してえぐり出し、応用しながら自発的に行動し、世界を変革する、という欧州土着的な理念信仰(イデア論的な自己理解と自己制御)はない。(P.117)

「原因・結果」はどこにでもあります。「雨雲が現れると雨がふる」「火に触ると熱い」ということは認めます。でも、「火傷をしたのは自分(あなた)のせいだ」ということとは別のことのような気がします。どこが違うのか、それがよくわかりません。

欧州的な法の支配(主格的な個人の能動・受動が基盤をなす)が日本になかなか定着しないのもこれが一因だろう。のみならず、「得」の論理は、ときには話者の目線共有を聞き手や周囲に強要する無言の圧力を醸し出す。同調圧力や雰囲気に流される生き方(いじめが根絶できない原因)が強固に根を張ることになる。この空間に、能動・受動、実体・属性、原因・結果などの概念を土台に個人(法的人格)という理念を掲げ、これを実現すべく社会を改善してきた欧州思想のダイナミズムを植えるけるのは至難の業(「得」の論理は話者が個人すなわち主格となることを構造的に求めない)。それ以前の問題として、我々には「得」の論理の強靭さを自覚することすらそもそもできていない。明治以降、欧州由来の概念(特に科学技術や法的思考)が曲がりなりにも導入され、我々一人一人を取り巻く生活環境は劇的に向上してきた。その恩恵を更に享受し続けることを日本の一般市民は願っているはず。そのためには、まずは「得」の論理の遍在を自覚し、その長所・短所を見極め、欧州由来の概念装置の力を今後とも借りて短所を地道に除去していくしかない。(P.157)

そうかも知れません。ただ思うのは、科学技術、法(・自由・平等、等)概念の代わりに失ったものは何なのか、ということです。

それは失っていいほど「必要のないもの」なのか。そしてそれを「大切」だと思うのか。捨てていいものだと思うのか。さらにそれは一人一人が選択することなのか。「選択する」といっても、和語は「選択する」という「能動的な主体」を求めない構造なのです。

著者の思い

将来的に、我々の自己意識を完全に情報化して身体から機械へ移し替え、我々が自己意識の上で死ねなくなる(情報空間場で永遠に生きつづける「人格」と化す)可能性が開かれ得る。可死的な身体を医学的に延命するより、このほうが技術的にも簡単となる時代の到来が予想される。そうなれば無痛社会への欲求は完全に充足される。(P.173)

実際、そういうようなSF映画やテレビドラマはたくさんあります。私も歳とともに、あちらこちらが痛み、目は見えづらくなり、記憶力が衰え、物が食べにくくなり、生きている事自体が苦痛です。体が動かなくなった分、「便利」とか「楽」という言葉が身にしみます。

「情報化」するということは、数値化、視覚化するということです。「赤」を「周波数〇〇〜✕✕の光」と言えば、客観的で、誰にでも分かると考えます。

分光光度計をはじめとする色の新しい測定法や測定機器は、人の身体ではなく、機械のほうがより客観的で信頼性が高いものだとする近代(モダニティ)的考えを具現化した典型ともいえる。(久野愛著『視覚化する味覚: 食を彩る資本主義』P.21)

でも、自転車の乗り方をデータ化(マニュアル化)し、それを覚えたとしても、自転車に乗れるわけではありません(身体がなくなれば、自転車に乗る必要もなくなりますが)。

外来の翻訳概念の流通を輸入業者(翻訳者)が試みても、一般市民は概して関心を示さない(一時的に流行することがあってもじきに忘却される)。生活の具体的改善に役立つもの、便利なものなら飛びつくが(16世紀の鉄砲、現代のコンビニやスマホなど),そうでないものに食指は動かない。我々の日常はかくも啓蒙拒否的、保守的である。保守されているのは、「得」の論理に守られている共同体(家族、学校、地域、職場、国家、等々)で自発する価値規範。(中略)ムラ社会的な価値規範を備えた共同体において、人は「人格」として平等ではなく、共同体中で自発偶発する地位と同一視され、地位で値踏みされる。(P.177)

だが、所産を生み出す原動力である理念信仰(欧州哲学)そのもの、そしてその母胎である欧州語の文法構造(主格思考、定冠詞、能動態・受動態など)は、日本語に導入できるものではない。実際、導入されておらず、導入する必要もない。和語の世界に生きる人々は文法構造上、イデアの民であり得ない。今後もイデアの民でないままだろう。これは価値評価でなく事実問題である。(P.198)

著者の論述から当然導き出される考え方だし、私もだいたい同じ思いです。

それをそれぞれが自覚し、欧州の理念信仰が培ってきた科学技術と法律を道具だと割り切って使いこなしていけば、世界の未来は多少、明るくなるだろう。(P.199)

著者は私ほど悲観的ではないようです。そこに希望を見いだせればいいのですが、「多少」でも明るくなるのでしょうか。著者がいう「未来」とは何なのでしょうか。「過去(形)ー現在(形)ー未来(形)」というのも印欧語文法構造から導き出される一つの世界観であることを忘れてはいないでしょうか。「過去形」などを「時制(テンス)」ということまでは学校で習いましたが、中国語など「時制」を持たない言語はたくさんあります。言語学ではその他に「相(アスペクト)」「態(ヴォイス)」など、様々な用語があるようですが、あまり勉強する気にはなりません。つまるところ、それらも「事後的に」見つけ出したものでしかありません(言語学者がどんどん発見・発明するので、どんどん複雑になっていきます)。まあ、ナイーヴ(著者の言葉)に印欧語の時制の世界観ということにしておきましょう。

ドラマ

退職してから、テレビドラマを見ることが多くなりました。水戸黄門のようなお金のかかる「勧善懲悪」ものはなくなりましたが、それに取って代わったのが刑事物です。そこから検事物、裁判官物、弁護士物などが派生します。悪者になるのは、政治家などの権力者、官僚、経営者などの金持ち。水戸黄門と同じです。

もう一つは、というか、どのドラマでもテーマの一部となっているのが「恋愛」です。男と女が登場すれば(最近は男同士、女同士というのも増えてきています)、そこには恋愛が絡んできます。「自由恋愛」という言葉はもう死語でしょうか。恋愛は自由の象徴的形態なのでしょう。生物学的に言えば、男女の恋愛は子孫をつくるためのもので、性欲という「本能」というものが「仮定」されます(最近は「本能」そのものが否定されつつありますが)。

「恋愛」は「love」の翻訳語です。「I love you」は、主格である「私」が能動的に対格である「あなた」を「愛する」というものです。主格とも能動とも縁遠い日本語話者にとっては、このような世界観はありません。「恋愛」は「する」ものではなくて、そうなってしまうものなのです。「好きです」は「好きという状態になる」ということです。英語でも「I fall in love」という表現はありますが、そこには「恋に落ちる主格としての私」がいなくてはなりません。日本語話者にとって、「愛」は「する」ものではなくて、せいぜい「ある」ものなのです。

それが明治以降、自由・平等などの法概念とともに、能動的に「恋愛はするもの」だという考えが流入してきました。それは、それまで日本にはなかったものです。いま「100分de名著」で『古今和歌集』を取りあげています。「恋歌」がたくさんあります。それを「平安時代の人も、恋愛に胸焦がれてたんだなあ」と思いたくなるし、それはそれでいいのですが、今の「恋愛」と同じものを考えるのは取り違えでしょう。

恋愛が能動的行為となると、「恋愛はしてもしなくてもいい」となりそうですが、そうはなりません。

「得」の論理は、ときには話者の目線共有を聞き手や周囲に強要する無言の圧力を醸し出す。同調圧力や雰囲気に流される生き方(いじめが根絶できない原因)が強固に根を張ることになる。(P.157、前出)

みんなが「恋愛」を求めます。恋愛しない人は、「どこかおかしいんじゃないか」とまで言われたりします。恋愛はしなくてはならないのです。「出会い系サイト」は「おせっかいおばさん」の代わりではありません。能動的な「自由恋愛」は権利であるとともに「義務」なのです。

人生の、あるいは青春の多くの時間を「恋愛を求める」ことに費やす、恋愛ドラマや映画を見て自分を慰める、あるいは「恋愛の相手がいないこと」「恋愛できないこと(人を好きになれないこと)」に悩んでいるのが今の日本のように思えます(少なくとも私はそうでした)。

歴史

幸福な民族は歴史を持っていないという。それは本当だと私も思う。(『完訳ファーブル昆虫記』岩波書店、第3巻、P.244)

ファーブルがこの言葉をどこから持ってきたのかを探すことはできませんでした。でも、ヨーロッパの人たちもけっして幸福だと思っていなかったんだなあ、と思いました(このあとに「だが幸福をなくさないでも一つの歴史は持てるとも私は認める」と続くのですが)。

「創世神話」あるいは「自分たちの由来」を持たない民族はない、と言われます。でも、それは「歴史 history」とはちがいます。時制に基づき、「過ぎ去った過去」(たとえ、それを現在や未来の教訓とするにしても)として歴史が描かれたのがいつからなのか、私にはわかりません(『ギリシア神話』や『古事記』は「過ぎ去った過去」を描いたものではありません)。現在の不幸を未来の幸福で置き換えるという考え方は、西欧においても、日本においても、それほど古いことではないと思います。輪廻の思想も来世に幸せになるため(極楽に行くため)ではなく、不幸にならないため(畜生道に落ちないため)という意味が強かったのではないでしょうか。新しいことはいいこと、未来に幸福になること、逆に、過去は不便で、昔の人は不幸だったと思うのは、現在の自己という主体を過去に投影しているんじゃないかと思うのです。

キリスト教というと「天国(あるいは地獄、煉獄)」というイメージがありますが、「天国に行くために善行を積む」という考えがキリスト教にずっとあったのではないようです(アリエス『図説 死の文化史 人は死をどのように生きたか』参照。極楽と地獄についてはまったく知りません)。

新しいものを求めて古いものを捨てる、それで環境が汚染されれば、新しい技術で解消しようとする。「SDG's」です。そんな主体(人間)にとって都合のいい話が「現実」になると本当に「論理的に(倫理的でもいいけど)」に考えているのでしょうか。良い未来を目指す(思い描く)ことを否定するつもりはありません。と同時に、過去は「悪いもの・劣ったもの」と考えるのはおかしいと思います。私は、まだ得ていないもの(未来・可能)と同時に失ったもの(過去・現実)を大切にすることで、今が良くなるような気がします。もし希望を抱くとしたら、そこであって、未来ではありません。

サッカーの試合

本書の範囲から外れますが、「得」の論理を持つ日本の哲学者や宗教家がどう考えているのかを知りたいと思いました。歴史の教科書で有名な人の名前と代表作は教えられた気がしますが、私は一冊も読んだことがありません。多分、それをもってして初めて本書の論旨の評価が可能になるのでしょう。でも、日本の古典を読むのはつらいなあ。最初に述べたように、古文アレルギーがあるので。

妻がスポーツ観戦が好きなので、結構スポーツ番組を観るようになりました。私は勝ち負けよりも自分ができないことをやるの(技)を観るのが楽しいです。始めはルールも分からず観ていますが、観ているうちにルールも分かってくるし、どこがすごいのかも少しずつ分かってきます。

サッカーは海外チームでプレーする選手が増え、男子も女子もどんどん強くなっています。個々の選手のテクニックが向上し、フォーメーションなども分かってくるとますます面白くなります。昔から知っているサッカー選手は、私の世代は何と言ってもペレです。映画『勝利への脱出』は面白かったなあ。クライマックスでのドイツ戦。ドイツ軍の反則プレーの中で必死に戦う連合軍。

日本チームは体が小さいので、ゴール前のヘディングで不利だし、ぶつかると体格差で吹き飛ばされがちです。外国のチームは服を引っ張るし、転ぶと大げさに(?)痛がります。反則を取られなければいい、というような態度は私は嫌いです。ところが、この数年でしょうか(私がサッカーを見始めたのが数年前なので、その前はわからないのですが)日本の選手も、服を引っ張ったり、大げさに痛がったりするようになった気がします。世界と戦うというのはそういうことなのかな、と思ったりしますが、それが「サッカーというスポーツ」だとすれば、私には合いません。海外のチームでプレーする選手が増えたということは、ヨーロッパの選手の考え方を身につけることでもあります。

でも、国内リーグでも(私からみれば)荒っぽいプレーが増えているように思えます。バレーボールのように相手に触れることがないスポーツ、ラグビーのように相手に触れるのが基本のスポーツ、スポーツの種類によって違いはあります。でも、それとは別に、日本人の思考方法が変わってきているんじゃないか、と感じるのです。その変化は、とても速いようにも感じるのです。

本書において、著者は語彙の意味の変遷を描いています。そしてそれは同時に欧州における「伝統」の強さを語ることになります。ヨーロッパはどんどん変わり、どんどん新しくなっています。それと同時に古いものをとても大切にします。町並みだけでなく、音楽などの文化もです。私はビートルズが大好きですが、それがどれだけバッハ以来のクラシックに基づいているか。

日本は、明治維新以降(表面上は)旧来の文化を失ってしまいました。日本人は「得」の論理を自覚していないだけでなく、「何を失ったか」も自覚していません。私の祖父、父と私の感覚はちがいます。私と私の子供の考え方もちがいます。「何を失ったか」を語る人はいません。なぜなら、権力者や資産家を別として、老人に発言権がないのです。老人は「古くて、劣った存在」、新しい物(若者)が「乗り越えるべき過去」だからです。日本語が「主客構造」を簡単に持つとは思えません。でも、テレビ、書籍に因る標準語の強制や英語教育の若年化によって、数世代で文化と思考方法は変わる可能性もあります。サッカーを観ていると、その変化は案外早いかもしれない、とおもうことがあるのです。

私は「美しい国」「日本人の美徳」を語ろう(守ろう)としているのではありません(私は日本をいまだに好きになれません)。印欧語から「主客構造」を取り除くべきだ、と言っているわけでもありません。ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナが「自分たちの正義」を掲げて戦うのなら、勝手にしてください、とも思います。ただし、私はどの国も応援しようと思わないし、同時に日本を巻き込まないでくれ、と思うだけです。私は悲観主義者です。SDG'sなんて不可能だと思っているし、西欧の論理は他の国を巻き込まなければ、早晩破綻すると思っています(大航海時代以降の植民地化がなければすでに滅んでいたでしょう)。日本もこのまま進めば共倒れするでしょう。でも、そんな事はいいのです。未来ではなくて、今、私が(ついでに日本が、世界が)幸せになりたい、なって欲しい、と思っています。そしてそれは「科学技術と法律を道具だと割り切って使いこな」すことではないと思うのです。なんかそれは「バレなければ反則をしてもいい」と同じように感じるのです。






[著者等]

副題:法律と科学の背後にある人間観と自然観

古田/裕清
1963年生まれ。ミュンヘン大学哲学博士(Dr.phil)。哲学専攻。現在、中央大学法学部教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

「主観と客観」「観念と実在」など、学術用語の来歴を示し、その本来の意味を明らかにする。日常語として生き生きと話されていた語彙が、翻訳の過程で失った生命を取り戻す。
明治期に誕生した学術用語の起源をたどり、真の理解への可能性を提示する。



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