サルの言語と人類の言語 伊谷純一郎著 『岩波講座 日本語学 別巻 日本語研究の周辺』1978/03/28,所収

サルの言語と人類の言語 伊谷純一郎著 『岩波講座 日本語学 別巻 日本語研究の周辺』1978/03/28,所収

『岩波講座 日本語学』

12巻+別巻。古本屋で1冊110円で購入。そのうえ自宅まで配達してもらいました。申し訳ないです。

全部読む気はサラサラありません。この別巻は、

本巻では、第一二巻までの範囲とシステムではとりあげにくかったテーマのうち、とくに重要と思われるものをいくつか一括してとりあげた。(P.ⅴ、まえがき)

ということで、日本語の文法的なことや特色ではなく、もっと広い範囲(周縁分野)が取り上げられています。

サルの言語

著者の伊谷さんは今西錦司の弟子だそうです。河合雅雄さんとは二歳違い。共に、日本のサル学を率いました。日本のサル学のすごいところは、個体識別からはじめるということです。今では当たり前ですが、当時は動物に個性があることや、動物の社会性についての認識は低かったのです。

著者は、ニホンザルの音声を四種に分類します。

無感動な音声の中に、遠距離用の音声と近距離用の音声がある。前者を「呼び声」、後者を「ささやき」と名づけることにする。また情緒的な裏づけをもった音声のうち、遠距離用のものを「ほえ声」、近距離用のものを「叫び声」と名づける。(P.12)

各音声の具体的な内容については省略します。「遠距離・近距離」というのは、声の大きさとか、どこまで聞こえるのかとかでの判断でしょうが、人間が、あるいは人間用のマイクや録音機が捉えたものです。動物が可聴範囲(人間が捉えることができる周波数の音)以外の音を用いていることはよく知られています(ライアル・ワトソン著『エレファントム』木楽舎、等参照)。

さらに、「情緒的」というのは、まさに擬人化です。動(植)物に心(感情)があるのかどうか、あるいは「痛み(感覚)」があるのか、というのは難しい問題です。犬や猫を見ているとそう思えます。では、昆虫や魚はどうでしょうか。あるようにも思えるし、ないようにも思えます。「痛み」はどうでしょうか。動物にも昆虫にも魚にもありそうな気がします。植物にはどうでしょうか。新鮮なサラダを食べているときに、「痛そうだ」とは思いません。刺し身を食べているときも、焼き肉を食べるときも、痛そうだとは思いません。でも、その魚や肉は生きていたんですよね。

他人の痛みはわかりません。痛いだろうな、と思うのは「共感 empathy, sympathy, 」です。自分の心です。それを客観的に表す方法はないのでしょうか。たとえば、神経線維の興奮度合い(電位差、脳波)で表す方法があります。また、発汗の度合いや、血圧・心拍数の変化などもあるでしょう。原理的には「ウソ発見器」もそんなことを利用しているのでしょう。情緒(感情)の客観化(数値化)は西欧の「吿解 confession 」の伝統から来ているんでしょうね。他者の発言をすごく重要視する文化です。そこは他者と自分とを明確に区別する文化だからです。日本は違いますよね。むしろ「以心伝心」の文化です。「忖度」もその一部だといってもいいかもしれません。

それをサルや昆虫の感情を測ることに応用できるでしょうか。できるのかもしれません。でも、人によって刺激に対する反応が違いますから、それをもって動物や昆虫や植物の「感情」だとしてもいいのでしょうか。私は「ウソ発見器」で私の感情が測られることが怖いです。

ただ、サルの情緒(感情)を前提にする日本のサル学が世界の動物学を革命的に発展させたことは事実です。

日本人と日本語

この論文が書かれて半世紀が過ぎようとしている現在、サル学も音声学も言語学も発展しているのでしょう。私には知る由もありません。私にできることは、半世紀前の本を一冊110円で買うことくらいです。

別巻の巻頭を飾るこの論文はつぎのような文章から始まっています。

従来は、言語、子音、そして計算などは、脳の左半球で処理され、音楽、楽器音、母音、雑音、人が泣いたり笑ったりするような音声あるいはハミングのようなもの、そして虫や鳥獣の声などは右半球で処理されていると言われてきた。したがって、左半球はロゴス的な脳であり、右半球はパトス的な音声ならびに自然音を処理する脳だということになる。たしかに欧米人を被験者にして実験をおこなってみるとこのことが明らかになる。

ところが、日本人はそうではなかったのである。角田忠信(一九七六年)がこの事実を発見するに至った方法についてはここでは省略するとして、その結論だけ要約することにしたい。日本人は、音楽、西洋楽器音、機械音、雑音を右半球で聞いているのだが、左半球では、言語音、子音、計算のほかに、西欧人が右半球で聞いている母音、感情音、虫や鳥獣の声、法楽器の音をも処理しているというのである。すなわち、日本人の右半球は無機的な音だけを処理し、ロゴス的、パトス的、自然的な、つまり有機的な音声は、すべて左半球で聞いているということになる。

角田は、このような違いが遺伝的なものではなく、おそらく日本語の特殊性にもとづくものであろうと述べている。それは、日本で育った朝鮮人が日本型を示し、朝鮮人一世は西洋人型を示すといった、また日系二世についての一連の実験から導かれた結論であるが、いったい日本語のどのような構造がこの差をもたらすのか、違いをもたらすものが果たして言語なのかあるいは文化なのか、といった点はまだ完全に解明されているとはいえないようである。(P.4)

角田さんの本は読んだことがないし、批判もあるようです(Wiki)。それに、この半世紀の間に日本語が変化しているということもあります。翻訳文(文章分)が一般的になり、小学校から英語を習います。「ヲタク」から始まって、主語(人称代名詞)をつける頻度も増えているように思います。

忖度は日本の「悪いところ」の代表のようにいわれますし、「思っていることはハッキリと言う」ことが「善いこと」だともいわれます。「日本文化」といわれるものも、この50年間で大きく変わっています。今同じ検査(ツノダテスト)をしたら、傾向はかなり変わっているかもしれません。

これを「グローバル化が進んだ」と「良い評価」をする人が多いようです。海外のサル学(霊長類学)でも、個体認識をし、その感情を踏まえた観察をするのが当たり前になりました。

ガードナー夫妻は、チンパンジーは音声よりも身振りによる表現に優れていると見て、北米で聾唖者が用いるアメリカン・サイン・ランゲージを、生後一一ヶ月と推定される”ウォッシュー”に教え、予想以上の成果をあげることができた。(P.30)

海外が日本文化を見本にしているとも言えます。ただ、それでもまだ一般的には動物行動学は、サル(霊長類)を「研究対象」として扱っています。だから、研究で必要がなくなったり、予算がなくなって研究が中止になると、その「対象」を棄てたり(殺したり)することが問題となっています。西欧文化においては、人間でさえ「研究対象」なのですから。

ガードナー夫妻はチンパンジーに名前をつけました。名前をつけるということは「単なる研究対象」とは見ていないのかもしれません。映画『ブタがいた教室』(前田哲監督、原作・黒田恭史著『豚のPちゃんと32人の小学生 命の授業900日』)を思い出します。ブタではなくて、ニワトリやウサギだったらどうだったのでしょうか(ウサギはおとなしいので、今でも飼っている学校があるかもしれない)。そして、今の(日本の)子供達はどう思うのでしょうか。

グローバル化は「世界が均一」になることでしょう。「平等」になることも含むかもしれません。しかし、それは西欧中心の考え方です。そしてそれは「進化の頂点としての」人間中心の考え方です。それで失われるものを「ローカルなもの」と呼びますが、そこに暗に前提されているのは「グローバル(西欧)は優れていて、ローカル(非西欧)は劣っている」という進化論的価値観なように思います。ですから、私はそれ(ローカルなもの)をイリイチに倣って「ヴァナキュラーなもの」と呼びたいと思います。「ブタのPちゃん」を飼うこと、殺すこと、食べる事の善悪は西欧論理からは出てきません。いや、明確に「当然のこと」となるのかもしれません。

海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべてを支配せよ。『創世記』1-28

神は他の動物を人間のために創ったのですから。

日本にはその明確な論理がありません。それは「論理」ではないからです。「Pちゃん」をどうするか、先生も生徒も悩みました。生徒の父母も悩みました。その悩みは、日本的なもの(ヴァナキュラーなもの)と、西欧的なものの間の悩みです。スーパーで切り身の魚や肉しか見たことのない日本の子どもたちが、「Pちゃんを殺すこと」を「当たり前のこと」と割り切るようになることが私には残念なことです。






[著者等]

伊谷純一郎[wiki(JP)] (いたに じゅんいちろう / Itani Jyunichiro-)

伊谷純一郎 (いたに じゅんいちろう、1926年5月9日 - 2001年8月19日)は、日本の生態学者、人類学者、霊長類学者。京都大学名誉教授。学位は、理学博士(京都大学、1962年)。今西錦司の跡を継ぎ、日本の霊長類研究を世界最高水準のものとした。


[]

シェアする

フォローする