政治的転換 イバン・イリイチ著 滝本佳人訳・解題 1989/09/28 日本エディタースクール出版部

政治的転換 イバン・イリイチ著 滝本佳人訳・解題 1989/09/28 日本エディタースクール出版部

『コンヴィヴィアリティのため道具』の草稿

「POLITICAL INVERSION by Ivan Illich, 1972」の訳書です。

本書は、イバン・イリイチ Ivan Illich の次の論考の翻訳にブック・ガイドおよび訳者ノートを加えたもので、日本語版として独自な構成をとっている。

Political Inversin - a draft, ”CDIOC Doc. A/E 72/353”, Cuernavaca, 1971. 12. CIDOC Cuaderno No.78 CIDOC, 1972(P.ⅳ、凡例)
"Political Inversion" は、公刊された書『コンヴィヴィアリティのため道具』の草稿にあたるものである。(同)

『コンヴィヴィアリティのため道具』は読んでいません。「 conviviality 」は、本書では「コンビビアリティ」と表記されています。「ゔぃ」という発音は日本語にないので、これは訳者のこだわりなんだと思います。

イリイチの論考(「ポリティカル・インバージョン」)は、注を含めても91ページほどで、全体の約半分です。内容は題名の通りで「政治的転換」、政治をどう変えたらいいのか、ということです。アメリカにおいてベトナム戦争に対する反戦運動が高まり、

そして、ベトナム戦争は六八年に終結することになる。このような流れのなかで、イリイチは、「ペンタゴンへの行進」の組織に当たっていた抵抗派のひとびとが、第三世界にたいしてはまったく無理解であることを批判している。つまり、イリイチは、ベトナム戦争が終結したのちには、次に第三世界にひとびとの目が向くであろうと予測し、戦略的に論文を発表したのであった。ここでイリイチは、米国がベトナムにたいして軍事的かつ政治的な介入をしたことと、中南米に経済的援助をなすこととのあいだには、ある類似性があるということ、すなわち、表向きは相手のためにおこなうとしているが、本質的にはともに「暴力」であるということを指摘した。(P.133、「訳者ノート」)

(ベトナム戦争終結は1975年。)

道具
諸個人が移動したり、居住したりするためには、いろいろと道具諸手段( tools )を必要とします。また、病気にかかればその手当を、互いにかかわりあうのには資質というものを、諸個人は必要とします。しかし、それらの物事のうちには、人々は必要としていても、自分だけではどうすることのできないものもあります。したがってそういうときは、他の人々がつくったものをも利用することになります。つまり人々は、物やサービスの供給のされ方に依存している部分があり、そのあり方は、それぞれの文化で異なっているのです。(P.2)

「人間は道具を使う動物である」あるいは「人間は道具を作る動物である」など、道具と人間は切り離すことができません。学校で習うのは「人間は牙もないし、鋭い爪もない。足も早くないし、力も強くない。体毛は退化し、裸だ。そんな人間が生き残るためには道具が必要だった」なんて習ったのではないでしょうか。そして「社会生活を営む」もので「言語も道具である」と。

イリイチは「道具がどう供給されるか、どう使われるか」は「文化で異なっている」といいます。後に「文化」という言葉は「ヴァナキュラー」という言葉に代わっていきます。「地域によって違う」ということです。『ジェンダー』では、「男と女でも、使う道具が違う」と言うようになります。

渋滞

通勤時間の渋滞や、レジャーで観光地に向かうときの渋滞はイライラします。前の車をにらみながら、「こんな時期に(時間に)車に乗らなくてもいいじゃないか。あの車がいなければ、もっと早く進めるのに」などと思って、恨んでみたりしますが、そう思っている「私」が車で出かけているのも原因です(笑)。

ある中心都市へと向かっている道路が交通渋滞するのは、地元住民が何台の車をもっているかには直接かかわりありません。(P.4)

そして、どんな社会においても、自分は車をもたねばならないと考える人が多くなれば多くなるほど、その空席にヒッチハイカーを乗せようとする人は少なくなりがちです。つまり、コンビビアリティは、生産性が上昇するにつれて衰えていくものなのです。(P.4-5)

新幹線の高速化によって、東京ー大阪の出張は「日帰り」になりました。それまでは出張先で宿泊して、英気を養ったり、のんびり酒を飲んだりできたのですが、そんな余裕はなくなりました。高速化によって「忙しくなった」のです。

より広く、より整備された道路で、より速いスピードで旅行する、より安く、より安全で、空気を汚さないような車は、その持ち主にたいして、安全にパッケージ化された時間をより多忙に費やせるようになっています。フォード社は、望ましくない車のために非難されることはあっても、その時は、望ましい車を生産すればよいのです。フォード社は、車を増加させていくアウトプットが、輸送の苦痛を増している、という事実をもとに、責めたてられるようなことはありません。(P.50-51)

速度の段階的な上昇は、ただ、費やされる時間を増加させるだけで、汚染、乱費、不健康な生活という諸レベルを上昇させることにそれを振り替えるものです。(P.70)

真っ黒い煙を出して走る車がいても、その持ち主が責められるだけで、それを作った会社の責任だとは思いません。そういう考え方をしないような社会に私は住んでいます。

医療(保険)、学校

イリイチは、医療制度や学校制度について批判し、科学(学問)のあり方に疑問を呈しますが、それぞれ『脱学校の社会』『脱病院化社会』という著作がありますので、ここでは省略します(汗)。

「(必要)最低限の・・・」という言葉をよく聞きます。「社会保障制度」というのはすべてその言葉を基礎にしています。「最低限の教育=義務教育」「最低限の医療=(公的な)医療保険制度」「最低限の収入=最低賃金、生活保護」などです。今はどの政党も、その「最低限」を「引き上げ」ることを政策に掲げています。

それに対して、イリイチは異議を唱えます。たとえば「教育」について言えば、

最低限の教育を保証するということは、最低限の年数、教育を受ける義務であると転化されました。その結果、ドロップ・アウトしたらすぐさま暗黒の世界へと突き落とされてしまい、いわゆる反ー社会的と烙印を押され、職にありつけなくなってしまいます。(P.57)

法に定められた最低限の学校教育しか獲得していない生徒たちが見いだすのは、自分たちが学校で自らの時間を浪費しているということです。つまり、彼らが獲得したものは、市場にあっては評価が下げられているものです。なぜなら、他の者はもっと良い、もっと新しいプログラムを獲得しているからです。(P.58)

学校(義務教育)で習ったことが、社会に出たときに「まったく(ほとんど)使われない」のは多くの人が実感していることです。そうだとすれば、学校に行っている「時間」というのは「浪費」でしかありません。「無駄な時間」を耐えること、そこで「いじめ」が発生しても仕方ないじゃないですか。

医療においても、「日本が世界に誇る『国民皆保険』制度」などという人がいますが、給料から強制的に天引きされる「社会保険料」を「仕方ない」と思う人は多いですし、国民健康保険料が払えず「差し押さえ」を受ける人も大勢います。

合法的に強制されている医療サービスの消費は、さまざまなかたちをとっている。精神病院による社会からの強制的な隔離、また、社会的な隔離への代案としてソーシャル・ワーカーによる強制的な医療化と観察、強制的な予防接種、出産の病院化など。(P.80、注)
消費の上限

イリイチの「政治的転換」は、ある意味で単純です。「最低限(下限)」を設定するのではなく、「上限」を設定しようではないか、ということです。

新しくかつラディカルな政治とは、一人あたりの消費の上限の必要性を、わたしたちが世界的規模で熱望するものの中心に据えることを意味するのです。つまりそれは、やみくもに生産性を増加させることに人間の必要性を従属させるような現在のテクノロジーにとって代わるような、人が使用するためのテクノロジーを計画することになります。(P.24)

もしも公的な資源がこの目的のために用いられることになるとしても、諸々の上限が社会の広い範囲で基礎として設定されないままであれば、諸々の下限を議論しても何の意味もありません。(P.76)

特定の人が「青天井」に消費することが可能なら、いくら下限(最低限)を決めても「意味がない」あるいは「それを実現することはできない」じゃないか、ということです。「底なしのツボ」に水を溜めようとしているようなものです。みんなの所得が10%(あるいは10万円)上がったとしても、貧富の差はなくなりません(変わりません)。みんなの歩く速度が二倍になっても、「足の早い・遅い」は変わりません。みんなの家庭に冷蔵庫があるようにすると、冷蔵庫があることが前提の商品ばかりになり、冷蔵庫がない生活が考えられなくなります。

それは「使い捨て文化」にたいする批判や、「環境保護」につながるということだけではありません。人間と「物やサービス」との関係の根本を見直すということです。「コンヴィヴィアリティのため道具」というのは、「人間と道具(物あるいは他者)」との「関係の仕方」ことです。

わたしは〈コンビビアリティ〉というタームを、制度化されている生産性( institutionalized productivity )とは反対のものを示すべく選びました。人と人のあいだの、そして人々と環境との、自律的で創造的なかかわりあい( autonomous and creative intercourse )、という意味を、わたしはこのタームにもたせたいのです。そしてこれを、他人や生活環境( milieu )の要請にたいする人々の条件反射的な対応と、対比させようと思います。(P.3)

「もったいない」という日本語が使われることが減っている、と言われます。その言葉に「貧乏(性・しょう)」を感じる人が増えてきているのでしょう。「物を大切にする」ということは「人を大切にする」ということと同じです。物やサービス(人)を「リソース(資源)」と呼ぶことが当たり前になってきました。リソースとなった物や人は「使われ」、その後は「廃棄」されます。冷蔵庫が「必需品」になるだけではなくて、新しい機能(省エネとか)の冷蔵庫ができると「電気代節約」とか言って、まだ使える冷蔵庫が買い替え(捨て)られます。

イリイチは言います。

また、どんな社会においても、コンビビアリティがある一定レベル以下に引き下げられると、産業的生産性( industrial productivity )のレベルは、その社会の成員たちの、さまざまな必要を効果的に満たすことができない、とわたしは確信します。

今日現存している制度が目指している諸目標は、人々がコンビビアリティを犠牲にしてはじめて達成されるものである、というかたちで生産性は神聖化され、崇拝されていますが、これこそが現代社会を悩ましている無定形さ( amorphousness )や意味の喪失( meaninglessness )といったあり方の主だった要因なのです。(P.3-4)

「コンビビアリティ(コンヴィヴィアリティ)」とは何か

ここまで、それを書かずに進めてきました。イリイチがこの言葉にどういう思いを乗せたのか、それをうまく説明できているのかはわかりません。私は、最近までこんな単語は知りませんでした。カタカナ8(10)文字の見慣れない単語は必要がなければ憶える気にはなりません。記憶力に「恵まれなかった」私は、新しいカタカナ語が現れるたびに困ってしまうのです。訳者は、

また、「道具」とは、「諸々の社会的な関係性に内在するもの」(『ジェンダー』〔邦訳一九一ページ〕にも同じくだりがでてくる)であり、「個人は道具の使用を通じて、社会にたいして行動する自分を関連づける」が、「大部分の今日ある道具は〈コンビビアルな様態〉には用いられえない」と断定する。なぜならそれらは、①あまりにも大きく、②ひとつのプログラムしかなく、③ぜいたくなもので、一部の人にしか使われない、からである。一方、コンビビアリティを育む道具は、①だれにでもたやすく使える、②単純な形をしている、③すぐに使い方を覚える、④小さい、⑤接近可能でありながら強制されない、ものである。(P.146-147)

とまとめています。物(道具)を「どう使うか」ということは、そのもの(道具)が「どう作られるか」ということと密接に関係しています。「使う自由」は「作る自由」に関わっています。イリイチは「囚人」の例で説明しています。

ところで、囚人たちは、しばしば自分の家族の成員よりも多くのものやサービスに近づくことができます。(P.4)

囚人は、食べるのに困ることはありませんし、病気になれば(無償の)医療もうけられます。「シャバにいるより刑務所のほうが暮らしやすい」という人もいます。

しかし、囚人たちは、どのようにそれらがつくられていくべきかに口出しはできないし、それらをどう扱うのかを決定することもできません。つまり、囚人たちの刑罰は、私が〈コンビビアリティ( conviviality )〉と呼ぼうと思うものが、剥奪された状態にあるわけです。(同)

目の前の道具が「どう作られたのか」いや「どうしてあるのか」を考えることはあまりありません。親が買ってきたものか、もらったものか、盗んできたものか、あるいは作ったものか・・・。それを考えることを段々としなくなっているように思います。盗んだものであろうと、(自分で)作ったものであろうと「物(道具)・使用価値」として同じじゃないか、と思うのは「使う自由」です。親が作った料理を「いらない」と拒否することもできるし、買ってもらったオモチャをゴミ箱に捨てることも「自由」です。そうでしょうか。イリイチは、その「使う(作る)自由」に疑問を感じているのです。

イリイチは「コンビビアリティ」に

人と人のあいだの、そして人々と環境との、自律的で創造的なかかわりあい( autonomous and creative intercourse )(P.3)

という意味をもたせました。今の社会は、使う人の「自律性」と作る人の「自律性」は切り離されています。

私は〈コンビビアリティ〉を、人々が相互に依拠しあうなかで具体化された個体の自由とみなし、そのようなものとしての、ある固有な倫理的価値と考えています。ですから、〈コンビビアリティ〉なしには生活の意義は失われ、人々に有害な影響を与える、とわたしは確信するのです。(P.3)

「自己と他者の自由・自律性(自主性)」を認めるかどうかは「倫理」の問題だ、というのです。

コンビビアルとは〈共有(コモンズ)〉ではない
消費にたいして上限を設定すべきであるという、新しいラディカルな政治についてのわたしの提案は、ネオーラッダイト運動とは程遠いものです。わたしが提案しているのは、生活で用いる諸道具の質の総計を縮小することではありません。諸道具が、社会や個人の社会的生活のうちでいかなる部分を演じるかを、根源的に再評価するのが、わたしの提案する事柄です。(P.77)

物をぶっ壊せ、と言っているわけではない、ということですが、「自由(生産、あるいは消費の)」を制限しようと言っているのでもありません。

かと言って、だれでもが使えるようにする(公的所有、共有、〈コモンズ〉)と主張しているわけでもありません。〈コモンズ〉の剥奪(略奪)がのちのイリイチの言葉で言えば「希少性」を生み出していいることは間違いありません。

この本を執筆する過程で、わたしは、この産業時代がとり返しのつかないほどに破壊してしまったものを、あの新しい方法で  『コンヴィヴィアリティのため道具』(一九七一年)で考察していたこと以上に  理解するにいたった。コモンズが資源(リソース)へと変化(へんげ)することだけが、ジェンダーのセックスへの変化(へんげ)になぞらえることができる。(『ジェンダー』P.21、邦訳P.15-16)

でも、それは「〈コモンズ〉の回復」を目指そうということではないのです。

そこでは共同の使用とされている道具すら、それに触れることのできるのは半数の人にすぎない。ひとはもともと、ひとつの道具をつかみ、それを使用することによって、しかるべきジェンダーにかかわる。したがって、男と女という両ジェンダー間の交わりがもともと社会的であるのは、このためである。それぞれに分離した道具一式が、生活における物的な対照的補完性を定めることになる。(『ジェンダー』P.90、邦訳P.191)

だれもが「自由に」「平等に」使うことなど、「幻想的な目標( the illusory goal )」(『ジェンダー』P.20、邦訳P.15)なのです。私はイリイチにとって「物とどう関わるか」ということが「自律性」や「倫理」の問題ではなく、「倫理の問題」ということ自体が「問題」となっていったのではないかと思います。訳者はこの変化をこう表現します。

つまり、自律的な個人は、産業的なものをうまく活用するならば、コンビビアルに生きていく可能性がある、とみなした地点から、この主語である〈個人〉自身が産業的な生産物であるとみなす地点にいたったとき、イリイチ自身は未来について語る希望を失い、ただ悲劇の歴史をたどることに専念しているようである。(P.176、訳者ノート)

〈個人〉(個性、自律性、自主性等)、そしてその「自由・平等」が「近代西欧の産物」であることは間違いありません。

わたしはこのことを、過去への読み込みから現状に逆照射することによって描き出してみたいと思う。未来については、私が知っていること、言うべきことはなにもない。」(『ジェンダー』P.21、邦訳P.16)

これは「希望を失った」ことの表明でしょうか。私にはそうは思えません。

「道具は身体の延長」とも言われます。道具に対する関係の仕方は、「身体」にたいする関係の仕方(医療)、であり、「自己」にたいする関係の仕方(教育)です。そしてそれは「他の自己」「他者」との関係の仕方です。それが西欧近代が生み出したものだと気がついたからこそ、イリイチは立ち止まることができなかったのだと思います。その前の、

したがって本書は、産業時代とその怪物どもの物語に終止符を打つ形で提示される。(『ジェンダー』P.21、邦訳P.16)

という力強い言葉は、イリイチの覚悟を表していると思います。

訳語について

訳者は「コンビビアリティ」という訳語にした理由を、

第一に重要なのは、いそいで恣意的に訳語を決定することではなく、わたしたちがいかにイリイチの文脈を読み込んでいけるかであり、そのほうが豊かに思考を深めていくのに役立つはずである。(P.166、訳者ノート)

と言っています。これはひとつの勇断ですね。

日本は翻訳文化です。そしてたいていは訳書だけで間に合うし、ほとんどの人は原書を読むこともありません。私も日本語以外は読めないので、翻訳のないイリイチの著作を参照することができません。日本は「漢字」という「文字」の輸入と同時に「漢語(漢文)」という思想を輸入しました。その時以来、他の文化を「漢字」で理解することに慣れています。さらに明治以降の翻訳は、漢字二文字か四文字、音節は四から六程度(これは中国語の音韻に由来する)が一般的で、漢字音読み二文字が馴染んでいます。同時に日本人が慣れ親しんでいるのは、漢字二文字の語は「おおやけの語」で「なんか意味がある」ということです。そして、それが「わかっている」という勘違いを生むということです。「自由」「平等」「自律」などは「説明不要」のように流通します。

さらにカタカナ語は「ハイカラ」な趣があります。「ジェンダー・フリー」なんて言葉が公式な場所で飛び交ったりしていますが、言ってる人、聞いてる人が理解しているかどうかは不明です。それが「和製英語」であることを知らない人も多いでしょう(私は知らなかった)(Wikipedia)。

さらに、語源的な面からみて、「共生」という語が引き出されうる、という見方がある。つまり、 conviviality を分節し、con- が共に、-vivir が生き生きとしている、というのをふまえているというのである。そのようにして訳語を決めるのは、ひとつのあり方として誤ってはいないかもしれないが、語の根底にある意味合いを十分に考慮したうえでおこなう必要がある。少なくともある思想を付与された語は、安易なかたちで分節化した語源的な意味に還元されはしないはずである。

また、英語では、convivial は、宴会の、懇親的な、宴会好きな陽気な、愉しい饗宴などを意味し、conviviality が宴会、上機嫌、陽気さを現在では意味している。しかし、その辞書の訳語をそのまま用いることが、必ずしもイリイチの文脈に沿うとはかぎらない。むやみにカタカナを使うのはよくない、という考えは、固有の思想のことばは簡単に日本語にはならない、ということとの、この両者のせめぎあいにおいて、意味をもつのであって、一方だけを尊重することは、かえって問題を多く噴出させる、とわたしは思うのである。」(P.165-166、訳者ノート)

むずかしいですね。明治時代の訳語の多くは、この語源を意識し、漢語を意識し、原語の意味を加味して決定され(造られ)ています。日本語は漢字二文字が基本です。それをかさねて四文字にしたり、あいだに「的」を入れて五文字にしたりする程度で、それ以上はあまりありません(ドイツ語のようにどんどん長くなるのがあたりまえではない)。六文字以上の漢字が並んでいたら、「どこかで意味が切れるはず」と見直すのではないでしょうか。カタカナ語でも同じです。8〜10文字以上を一見して判読することに慣れていません(漢字仮名交じり文に慣れているから)。「コンヴィヴィアリティ」は10文字です。「コン・ヴィヴィアリティ」ならまだいいけど(人の名前のようだから)。このカタカナの読みにくさが、イリイチの思想の普及を妨げたような気がします。

英語を話す人なら、この言葉に「いっしょに・ワイワイ・ガヤガヤ・にぎやか・生き生き」というようなニュアンスを感じるのでしょう。イリイチもこの言葉の持っているニュアンスに自分の思いを載せたのだと思ます。

このような理論的見通しは新しい試みであり、またこうした視座からする経験的研究は不足しているために、しばしば新たな用語を使うことが必要だと感じた。けれども、できるかぎり在来のことばを新たな用法で使って、理論と例証を正確に述べることにしたい。(『ジェンダー』P.19、邦訳P.14-15)

訳者の判断が正しかったのかどうか、私にはわかりません。ただ、入門書やマニュアルがどんどん増えていき、名著の「エッセンス」を切り出したものや、ストーリーの「あらすじ」だけを読んで「読んだ(観た)気になる」ことが多いのです。映画を短く編集して拡散することが問題視されていますが、私も録画した番組を「1.5倍速」で観ることが多くなりました。もし私が「作り手」なら、そんな見方はされたくないです。訳語がどうであれ、イリイチの言わんとすることは「中身を読む」ことによってしかわかりません。私のように原語で読むことができない人には仕方のないことですが、理解には「原語で読む人の困難」プラス「翻訳で読むことの困難」があります。

入門書・倍速・翻訳、それらが「ある事自体」が、「コンビビアリティの問題」なのではないでしょうか。







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