NHK 100分de名著 ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』 2024年2月 朱喜哲著

NHK 100分de名著 ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』 2024年2月 朱喜哲著
アメリカ大統領選

なんかトランプが優勢なようですね。そんな事もあって、「「トランプ現象」を20年近くも前に予言した」という宣伝のもとに放送されたのでしょう。

リチャード・ローティ

リチャード・マッケイ・ローティ(Richard McKay Rorty、1931年10月4日 - 2007年6月8日)は、アメリカ合衆国哲学者であり、ネオプラグマティズムNeopragmatism)の代表的思想家である。

シカゴ大学学士号修士号を得たのち、イェール大学1956年博士号を得た。プリンストン大学哲学教授を21年間務めた他、バージニア大学教授などの職を経て、スタンフォード大学教授となり、哲学比較文学を教えた。のちスタンフォード大学名誉教授となる。プラグマティズムの立場から近代哲学の再検討を通じて「哲学の終焉」を論じた他、哲学のみならず、政治学経済学社会学アメリカ文化などの論壇で活躍した。現代アメリカを代表する哲学者である。(Wikipedia

彼の著作を読んだことはありません。

思想

Wikipediaの丸写し

プラグマティズムの代表者ジョン・デューイの他、トーマス・クーンルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインらの影響を受ける。

哲学者としてのローティの思想はその独特な哲学史の見解で知られている。ローティの著作『哲学と自然の鏡』では近代哲学に一貫して見られる伝統に注目している。それはルネ・デカルトに始まりイマヌエル・カントによって体系化された哲学における認識論の伝統であり、真理に到達するために依拠できる確実な知的基礎を確立するための試みであった。そしてマルティン・ハイデッガールートヴィヒ・ウィトゲンシュタインジョン・デューイミシェル・フーコーW.V.O.クワインなどの現代の哲学者による攻撃は、この認識論的な哲学の伝統に対する批判であったと考える。そしてローティは、近代哲学の認識論的な伝統を批判することは必ずしもそれを克服することではないことを問題視し、そのような伝統に基づいた哲学については「哲学の終焉」を主張する。そして新たな哲学の指針として知識や文化を基礎付けるような認識論の伝統を使わない哲学的解釈学の可能性を示唆している。これは哲学の歴史の中で中心的な主題であった真理という問題を研究することは有益ではないことを認め、ポスト哲学的文化としてあらゆる種類の言説を相対化する文化へと移行することを意味している。このようなローティの考え方は現代のプラグマティズムの哲学に根ざしたものであり、ポスト哲学的文化が到来したとしても、哲学そのものが消滅することはない。

NHK 100分de名著 ローティ

Contingency, Irony, and Solidarity. Cambridge: Cambridge University Press, 1989.     齋藤純一・山岡龍一・大川正彦訳『偶然性・アイロニー・連帯――リベラル・ユートピアの可能性』、岩波書店、2000年。

第1回 近代哲学を葬り去った男

偶然性の話です。ある出来事を「偶然( contingency )」と呼ぶか「必然」と呼ぶか、同じことですよね。西欧は、出来事(物事)を説明するとき、「論理的」であることを必然とします。「因果関係」です。その論理とは印欧語文法のことですから、自分たちの言葉にあっているものが「正しい」ことだとします。印欧語ですから、インドもその影響下にあります。仏教とともに日本に入ってきた「因果」はその血筋です。

第2回 「公私混同」はなぜ悪い?

順番からいうと「アイロニー」の回ですね。でも、わたしはアイロニーがよくわかりません。

朱さんはどう考えているのかわかりませんが、日本における「公」「私」というのは、アメリカの「public」「private」とはまったく違います。ローティの意思を継ぐと自称する朱さんは、第1回目の「偶然」との関係をどう見ているのでしょう。日本とアメリカでは文化が違います。それが「偶然性」というものです。「公」や「私」があらゆる文化・地域で共通すると思うのは、矛盾ではないでしょうか。「公」「私」を「建前と本音」と同様に考えているような気がします。

第3回  言語は虐殺さえ引き起こす

言葉が感情を左右する、というのは当然です。でも、「言葉は道具で、使い方次第」というような幻想は、もううんざりです。

「人権(たぶん human rights)」という言葉に疑問を感じるのは、誠実だと思います。そしてこの「人間( human )」こそが問題だと思います。日本語の「人(ひと)」とは違って、「 homo 」という「同一性」を強く含んだことばです(「ひと」が「ひとしい(等しい)」と関係があるとしても)。

「権利」というのも、日本(語)にはなかった言葉です。外的他者、あるいは神との「契約関係」が成り立つ文化というのは、強い主観性がある文化です。「法関係」というのも(「社会契約論」じゃないけど)、人間関係を「自己と他者」という関係としてとらえた言葉です。他者を「自己」とは別の存在だと考える文化では、「同一性」と「特殊性(個別性)」が強く意識されます。

第4回  共感によって「われわれ」を拡張せよ!

「人権」を批判した結論が「われわれ」です。「われ(我)」を拡張すればいいということなのですが、西欧哲学の基本問題「我と汝」の繰り返しです。他者や「人間にあらざる者」というものに疑問を持つのは当然ですが、それを「自己(我)」の延長としてとらえ、自己の拡張によって「リベラル」な社会ができるなんていうのは、西欧哲学の中心中の中心であって、「哲学の終焉」とはまったく逆の発想です。「われわれ」をいくら延長しても、その外側には「他者」が存在するのです。

家畜のように「人にあらざるもの」を例としてあげていましたが、人は殺してはいけないけど羊はいいのでしょうか。多分ローティは「それは仕方のないことだ」というのでしょう。20世紀末に西欧は、「他者」の存在を疑ったはずです。他者(外部、対象)をいくら研究しても、それにいくら言及しても、いや、言及すればするほど「他者」(たとえば自然)は大きなものとして立ちはだかります。そこで、「ことば(論理)」を乗り越えたがごとく「感情」、つまり「共感」が大切だということになります。「アイロニー(Wikipedia)」にもなっていません。西欧が強く意識すればするほど忘れるのが「自己」です。他者を作っているのは「自己」であることを忘れがちなのです。他者を作り、他者のみならず自己を不幸にしている原因である「自己」には最後まで固執します。それを放棄することができないのです。どんなに突き詰めても、自己を否定できなかった象徴が「我思う、ゆえに我あり」です(それが「疑う我」であっても)。

それは「論理」つまり、印欧語の構造自体が持っている特徴ですから、第1回での「偶然」として仕方のないものです。地域性として、文化の特殊性として、だれもそれを否定することはできません。ただ、それによって他の文化を否定することは辞めてほしいのです。

それをセム語の文化や日本語の文化に押し付けるようなことは、わたしの「感情」が許さないのです。それに「共感」できないわたしもローティは「われわれ」に入れようとするのでしょうね。ローティがやろうとしたことには「共感」しますが、わたしはローティの「われ(われわれ)」の一部ではありません。「われ」あるいは「われわれ」がなくなるとき、そして「連帯」( Solidarity、solid のように固く一つの全体になろう?)という主体性(能動性)を表した言葉が不要になるとき、ローティがめざしたことが実現するのではないでしょうか。






[著者等]

【指南役】朱喜哲(大阪大学招聘教員)…番組「日本のジレンマ」で論客として活躍。著書に「〈公正〉を乗りこなす」等がある。

【朗読】戸田恵子(俳優)

【語り】八田知大(NHKアナウンサー)

民主主義の危機は、「哲学」が守る

「トランプ現象」を20年近くも前に予言したとして、一躍注目された哲学者リチャード・ローティ。彼は、現代アメリカを代表する哲学者でありながら、真理の探究を目指し「理性」を重視する従来の哲学(近代哲学)を、社会の分断や差別をもたらすものとして根本から否定する。そして、『偶然性・アイロニー・連帯』などの著作を通して、「人と人との対話を止めない」ことを軸とする新たな哲学の役割を提示し、あるべき社会の在り方を論じた。
社会の分断やポピュリズムが広がり民主主義が脅かされている現在、私たちはどのような社会を構想すればよいのか。ローティのダイナミックな思想を手がかりに、そのヒントを探っていく。

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