
『トゥルーマン・ショー』の脚本を書いたアンドリュー・ニコルが監督・脚本を手掛けたというので観ました。
まさに「お金が命」という話です。映画の世界では通貨は「時間」です。時間を稼ぐために働くけど、物価(物の価値)はどんどん上がっていきます。つまり、時間の価値(それは命の価値でもある)はどんどん下がっていくのです。働いても働いても楽にならない。現代社会を象徴的に表しています。日本でも物価が上昇していて、賃金はそれに追いつきません。円安の問題もあります。不思議なのは、誰もそれを「不思議」だと感じないことです。
実際わたしたちはお金がなくては生きていけない(と言うか何にもできない)という意味では、「お金が命」です。
先日、『Youは何しに日本へ?』という番組で、ウガンダから来た青年をとりあげていました。彼は貧しい村のスラムで生まれて苦労したそうです。同じような「ストリート・チルドレン」がたくさんいて、彼は一人また一人と自分の住む家に住まわせ、現在は40人の家族を養っているそうです。それを知った日本のボランティア団体が井戸を掘ったり、子どもたちの本を送ったりして支援してくれたので、それのお礼に「日本の母さん」に会いに来たというのです。
それまでは井戸も水道もありませんから、近くの小川や沼で「家畜と同じ水を飲んでいた」のだそうです。日本では地域差も大きいのですが、半世紀〜1世紀前くらいまで昆虫も野生動物も家畜も人間も小川の水を飲んでいました。その川は、洗濯場でもあったし、用を足す場でもありました。
小川は、「農薬」の登場で飲めなくなりました。それは人間だけではなく、動物も、そこに住んでいた魚にも「毒水」となりました。
井戸水は川がないところ、川から離れたところに住んでいる人には必要なものです。日本は水資源は豊かですから、掘ればたいてい水が出ますが、出ないところもあります。井戸によって流れ込んだり滲み出したりする水質が異なります。何よりも深いところにあるので、汲み上げなければなりません。電動ポンプがあれば、簡単に汲み出せますが、私が幼いときには電気が来ていない農家も多かったし、何よりお金がなかった。滑車や釣瓶を使って手動で汲み上げていました。
電動ポンプとともに、家の中のものが「商品」に変わっていきます。生活用品(家、医療、食品など)は「作り出すもの」ではなく「買うもの」、つまりお金が支配的になっていきます。
ウガンダの写真に写っていたスラム街は、土壁やレンガの粗末な(簡素な)と、舗装されていない道路、そこに黒いビニールのゴミ袋に入ったゴミだと思われるものが散乱していました(ゴミとは限らないけど)。ビニールのゴミ袋というのは「商品」の象徴です。土に還す(還る)ことなく「破棄するもの(自然に還らない・再利用できないもの)」も商品の象徴です。私は、この「貧しさ」というものは最近作られたように思いました。それまでは、災害が起ころうとも、内戦が発生しようとも、植民地化されようとも、それ自体が商品流通には繋がらなかったのです。ところが、内戦で持ち込まれたもの、植民地化が持ち込んだもの、は商品です。お金で買える(買わなくちゃならない)ものです。お金(=商品)が貧民をつくりだしたのではないでしょうか。
ウガンダの青年は、東京の高いビルに驚き、エスカレーター、エレベータに驚き、夜の明るさに驚いていました。「まるで別世界だ」と言っていました。彼が日本のボランティア団体に感謝の意を表すのは聞いていて嬉しいことです。団体が掘った井戸、団体が子どもたちの勉強のために送った本などに対する感謝、そしてウガンダの青年は、ウガンダに戻ってこの経験を伝えると言います。彼は聡明な青年のように思いました。だから気がつくと思います。その高いビルやエレベーターやエスカレーターや本などが「日本の高い技術」でつくられたということを。そして、それを作るための材料が彼らの住む国のスラム街の子供達の犠牲でつくられていることも。そして思ってほしいのです。井戸はあったほうがいい。でも、小川の水を家畜といっしょに飲むことはおかしなことなのだろうか、かわいそうなことなのだろうか、と。ビルやエレベーターやエスカレータを作るために、お金を介在して、人や食料や資源を海外に売り、「製品(商品)」を海外から輸入することがいいことなのだろうか、と。
それらの商品が入ってくれば、それらは需要になります。「生活が楽になる」ということで、人々はより多くの商品を求めます。そして「お金がなければ生きていけない」という状況がどんどん強まっていきます。「お金が命」の社会ができあがり、「物がない貧困」が「物があるけど買えない貧困」に変化していきます。
ウガンダの歴史は知りませんが、多分半世紀か1世紀前にはお金がなくても(ある程度)生きていける社会だったのではないでしょうか。その代わり人々は物を作る技術、つまり「生きる技術」をもっていたのではないでしょうか。その技術は「商品」によって衰退させられます。技術を失ってしまえば、「お金を稼ぐために働く」ことを当然視する社会になっていくでしょう。お金が「富」の指標となれば、それは必ず偏ります。それは「物」のような相対的な貧困ではなく、「いのち」を賭けた絶対的貧困、それも無限に偏り続ける貧困です。物には限界がありますが、お金には限界がありませんから。
そのウガンダの青年を支援し、彼のお礼を聞きに来た(日本の)人たちは、「お金が命」の世界にいる人たちです。もちろん、彼らも「お金より大切なものがある」と思っていてそれを「愛」だと思っているのでしょう。自分たちが寄付したお金や服や本が子どもの衛生環境や勉学に役立っていることを知って、涙を流していたのでしょう。彼らの行為が「40人の子ども」を助けることができたのだとしても、それよりはるかに多いストリート・チルドレンを生み出す要因になるかもしれないということは考えていたのでしょうか。
ウガンダの青年からも、ボランティア団体の人たちからも、そのような私の懸念を考えているような雰囲気は感じられませんでした。それはテレビ東京の制作意図とは異なるだろうから、そんなシーンが放送されることはありませんが。
私はこの映画を現代社会の風刺として観ました。「こんな社会が近づいてくるんだぞ」いや「もうそういう社会になっているんだぞ」と。ウガンダの青年に「こういう社会を目指すのかい」と聞いてみたいものです。
この映画の主人公は、大金持ち(大時間持ち)の娘と手を組んで時間銀行を襲い続けます。そして、その時間を貧しい人(時間のない人)に配ります。鼠小僧のようですね。それで社会は変わるでしょうか。私にはそうは思えません。きっと内乱が起こるでしょう。そしてお互いに「外国製の銃」という商品を「買って」戦うのです。それは、アフリカの多くの国で起きている内戦や、ロシアとウクライナ、イスラエルとハマスとの戦争の構造とどこが違うのでしょうか。
そんな事を考えながらこの作品を観ていました。
[スタッフ・キャスト等]
クレジット
監督:アンドリュー・ニコル
製作:エリック・ニューマン、マーク・エイブラハム
製作総指揮:アーノン・ミルチャン、アンドリュー・Z・デイヴィス、クリステル・レイブリン、エイミー・イスラエル
脚本:アンドリュー・ニコル
撮影:ロジャー・ディーキンス
プロダクションデザイン:アレックス・マクダウェル
衣装デザイン:コリーン・アトウッド
編集:ザック・ステーンバーグ
音楽:クレイグ・アームストロング
出演
ジャスティン・ティンバーレイク:ウィル・サラス
アマンダ・セイフライド:シルビア・ワイス
アレックス・ペティファー:フォーティス
キリアン・マーフィ:レイモンド・レオン
ヴィンセント・カーシーザー:フィリップ・ワイス
マット・ボマー:ヘンリー・ハミルトン
オリヴィア・ワイルド:レイチェル・サラス
ジョニー・ガレッキ:ボレル
コリンズ・ペニー:イェーガー
ベラ・ヒースコート:ミシェル・ワイス
アーロン・ペリロ:ベル
シャイロー・ウーストウォルド:マヤ
スレイカ・シルバー:パシャ
ローラ・アシュリー・サミュエルズ:サジータ
ウィル・ハリス:ユリシー
マイケル・ウィリアム・フリーマン:ナーディン
ジェシー・リー・ソファー:ウェッブ
ニック・ラシャウェイ:エクマン
ウィル・ペルツ:ピエール
レイ・サンティアゴ:ヴィクタ
コリン・マガーク:マクシミリアン・オシンスキー
