無痛文明論 森岡正博著 2003/10/05 トランスビュー

無痛文明論 森岡正博著 2003/10/05 トランスビュー
本書について

古田裕清さんの『西洋哲学の基本概念と和語の世界』の注にこの本の事がありました。その注がついた本文を引用します。

人工知能は計算機をベースにしてソフトウェア構築を重ね、ディープラーニングを機械に実現させるところまで発達してきた。神経系モデルなど人の物理的ハードウェアに近似した形で人間の情報処理能力をシミュレートするモデルも提案されている。これら成果は、現時点で我々の生身の身体に縛られた「今」「ここ」「私」を機械で置き換えることに成功していない。だが、そうした機械の開発は進んでいる。将来的に、我々の自己意識を完全に情報化して身体から機械へ移し替え、我々が自己意識の上で死ねなくなる(情報空間場で永遠に生きつづける「人格」と化す)可能性が開かれ得る。可死的な身体を医学的に延命するより、このほうが技術的にも簡単となる時代の到来が予想される。そうなれば無痛社会への欲求は完全に充足される。(『西洋哲学の基本概念と和語の世界』中央経済社 P.173)

それ以来読みたいと思っていたけど、古本でもなかなか手に入れられず(ヤフオク!にあっても送料が高かった)、今回やっと入手しました(やっぱりヤフオク!だったけど)。

想像していた内容とは違ったけど、ある意味で衝撃的な本です。2・3日、眠れなかったほどです(ちょっと大げさ)。

脳をデータ化する映画はいくつか観た記憶があります。ロボット(アンドロイド)が自意識を持ち、反乱するSFは「ロボット(Wikipedia)」という言葉ができた時からあります。人や神が作った人型の物体の話は神話や伝説にも多くあります。私が小さい頃(著者は私と同年代)『鉄腕アトム』や『鉄人28号』等のアニメが流行りました。でも、機械が「考え」たり「自意識を持つ」なんてことは、夢物語でした。いまはどんな家電製品も「AI搭載」を謳っています。「ChatGPT」が登場し、機械(コンピューター)が「考えるかどうか」という問いそのものが「陳腐化」しているのかもしれません。

私は『鉄腕アトム』が描いた「科学が拓く明るい未来」(そんな単純なマンガじゃないけど)を夢見る科学少年でした。科学は進歩するという思いは、学校で習った生物の「進化論」と一体になりました。物理学の「ビッグバン」から始まる「宇宙の進化」とも一体化します。そしてそれは「「人間」も「社会」も進化(進歩)するものだ」あるいは「進歩(変化)しなければならない」という思いになりました。「人間」や「社会」を進歩させる「責任」「義務」のようなものを、私は負うようになります。


痛み

矢野茂樹さんの『哲学・航海日誌』は「他人の痛み」とは何かという問いからはじまりますが、「痛みそのもの」を論じたものではありません。本書も「痛みや苦しみは避けたいもの」という事実( or 考え方)から始まります。仏教で言う「四苦八苦」はどうなのでしょうか。私は知りません。

自分が「痛み」や「苦しみ」を「嫌なもの」「避けたいもの(あるいは避けるべきもの)」だと感じるからこそ、私には知り得ない(感じられない)けどあるだろうところの「他人の痛み・苦しみ」に同情することができ、他人の痛みを「なくしてあげたい」「避けてあげたい」あるいは「癒やしてあげたい」と思うのです。憎たらしいやつを殴りたいと思うのは、殴れば相手は「痛い・苦しい」と感じるだろうからで、「何も感じない」、ましてや「気持ちいい」と感じるのなら「殴りたい気持ち」はきっと生じないでしょう。他人に「いい気持ち・快い感じ」になってもらいたいと思うのも同様です。その他人の「快」を「羨む」のも同じです。

医学(薬学)の進化は、多くの痛み(苦痛)を取り除いてきたように思えます。私も今までたくさんの医療を受けたし、数え切れないほどの薬を飲んできました。効く薬も効かない薬も、「効いたかどうかわからない」薬もありました。副作用や「薬害」で死ぬ人がいても、薬そのものを批判することはありませんでした。薬は太古の昔から使われていて、どんどん進化してきたものだと思っているからです。

逆に「楽しくなる薬」「気持ちが良くなる薬」もたくさんあるのですが、こっちはどうも「犯罪」の香りがします。「宗教はアヘンである」という言葉を「善・悪」どちらで捉えますか。


身体の欲望

現代文明とは、集中治療室ですやすやと眠っているこのような人間を、社会規模で作り出そうとする営みなのではないだろうか。元気そうに働き、楽しそうに遊んでいるように見えても、実はその生命の奥底でただすやすやと眠っているだけの、そういう人間たちを、都市という名の集中治療室のなかでシステマティックに生み出そうとしているのではないか。(本書 P.4、以下「本書」は省略)

この文明こそ「無痛文明」です。それを生み出すのが「身体の欲望」です。

すなわち、われわれが「身体」という言葉でイメージする意味の広がりのうち、快を求め苦痛を避け、快適な現状を維持し、すきあらば拡大しようとする側面のことを「身体」と呼んで特に際だたせたいのだ。そうすることによって、「身体」という言葉の中に詰め込まれている様々な意味のなかから、人間を内側から変えていくような力や、みずからの束縛を超え出ていこうとする力を救い出し、それに「生命」という新たな言葉を与えたいのだ。(P.15)

「身体の欲望」と、それと対になる「生命のよろこび」。これが「無痛文明論」の中心となるキーワードです。

自己家畜化という言葉は、一九三〇年代にE・フォン・アイクシュテットによって提唱された。(P.5)

身体の欲望が生命のよろこびを奪う。

これが自己家畜化のもっとも深い意味であり、われわれの文明のなかで進行しているもっとも根元的な問題なのである。(P.18)

その結果、われわれは生命のよろこびの不感症になっていく。それが自己家畜化の真の意味である。(P.19)

「自己家畜化」という言葉は聞いたことがありますが、アイクシュテットの本も、小原秀雄さんの本も読んだことはありません。では「生命のよろこび」とは何でしょうか。

生命とは、いまの自分を支えている「枠」そのものを解体して、そこから超え出ようとするはたらきのことである。(P.21)

それはまた、成長と変化と死を本質とする生命という形をとって私が存在しているのだ、ということを心底から自己肯定できる感覚でもある。(P.19)

生きていることは、変化することです。生まれ、成長し、老化して、死を迎える。その変化のプロセスそのものが「生命」です。


アイデンティティ

昨日の私と今日の私は違います。その変化のなかで「持続的な(昨日と同じ)私というもの」があるとすれば、それが「アイデンティティ」です。「同じ」は古典ギリシア語では「タウタ ταῦτά 」といいます。

原語 ταῦτά は中性複数形冠詞つき、単数中性形冠詞なしでは αὐτό(複 αὐτά )。ラテン語では idem. また「同一性(同じであること)」と訳された ταυτότης はラテン語では identitas. (アリストテレス『形而上学』旧全集第12巻、P.560の訳者注)

エリクソンはこれを「アイデンティティ」という心理学用語として使いました。「IDカード」の「ID」です。日本語訳は「自己同一性」でしたが、どうも収まりが悪かったようで、いまでは「アイデンティティ」というカタカナが主流です。まあ、どちらにしても日本人には「よくわからない言葉」ではないでしょうか。いまではパソコンやスマホを起動したとき、アプリを立ち上げたときなど、つねに「IDとパスワードを入力してください」と言われるので、当たり前の言葉(日本語)になってしまいましたが。

「あるものとあるものが同じであること」。アリストテレスに置いては、前の「あるもの」と後の「あるもの」は別のものでなければなりません。「私が私と同じであること」、もっといえば「私が私であること」ということを証明するのが IDカードです。「私(主語)が私(述語)であること」というのは、アリストテレスにとっては説明でも定義でもないのですが、「私(主語)」という質料が「私(述語)」という性質(形相)をもっているという意味なら一応の定義にはなります。それでも無意味ですけどね。

「A は A である」というのは、論理学で「同一律」と言われるものです。また、プラトン(ソクラテス)は「変化(運動)しているものは認識できないじゃないか」と言います。

いや、そればかりか、そのようなもの〔決して同一状態にないもの〕は、何者によっても認識されえないことになるだろうね。なぜなら、認識しようとする者がそれに近寄った瞬間に、それはもう別のもので別の性質のものになっているので、それがどのようなものであるのか、あるいはどのような状態にあるかは、もはや認識されえないだろうからね。そして、いかなる認識も、それが認識しようとする対象がいかなる一定の性状をももたないならば、これを認識することはないだろうからねえ。(プラトン『クラテュロス』439,旧全集第2巻 P.168)

でも、人間はものを「認識」します。コロナ禍において毎日のようにテレビに登場した新型コロナウイルスの電子顕微鏡写真は「止まったもの(死んだ?もの)」です。PCR検査は、「止まったDNA」です。人間は止まっているもの、変わらないものしか認識できないのでしょうか。

しかし、もし一方において認識するもの〔認識の主体〕が常に存在しており、他方において認識されるもの〔客体〕が常に存在しており、美が存在し、善が存在し、もろもろの有るもののそれぞれが〔常に〕存在しているのであるならば、われわれ〔ぼく〕が今あげたこれらのものは流動にも運動にも全然似ても似つかぬものであることが、ぼくには明白だね。(同書440、邦訳 P.169)

変化するけど認識が可能なのは、「主体」が存在し、「客体」のなかに不変(普遍)なものが存在するからだということです。たとえ見かけが変わったとしても変化しないもの、この「不変(普遍)なもの」がプラトンの「イデア」です。イデアの必要性は対象(客体)を認識する必要性(可能性)から必然的に要請されるものです。これはアリストテレスの「エイドス( εἶδος 形相)」でもあります。そして形相が宿る(結合する)ものが「ヒュレー( ὕλη 質料)」です。そして、人間は質量と形相が結合した「結合体 σύντετον 」「個物・個体 τὸ ἄτομον 」を認識したり、見たり、触ったりすることができます。

「私(主体・個物、あるいは質料)が私(客体・形相)である」つまり「アイデンティティ(自己同一性)」は西欧においては、プラトン・アリストテレスから脈々と続く思考方式です。たとえ「アイデンティティ」という言葉を知らなくても、西欧人は、その思考方式の中に生きています。

著者は私と同年代だから、わたしたちが子供の頃には「アイデンティティ」とか「ジェンダー」という言葉は一般に流通していなかったことを知っているはずです。それがいまはそれらの言葉が無前提に使われています。それらの言葉自体の意味ではなくて、それらがあたりまえに流通していることをどう思っているのでしょうか。それらが日本で受けいれられるのには、それなりの日本的な状況があるでしょうが、どうやらヨーロッパでも同様の現象は起こっているようです(『プラスチック・ワード』)。

「私はちゃんとした意味を知らないけど何となく分かるし、使われているからには私が分からなくてもみんなは分かるはずだ」「知らないと思われるのは恥ずかしい」

それらの言葉は、それ自体が「無内容」だし、定義がむずかしいものです。でも、内容や定義に関わりなく、それらの言葉は「実行力」があります。現実を変える力があるのです。「アイデンティティ(ID)」という言葉は、私を「マイナンバー(国民総背番号制度)」に結びつけ、私は「単なるひとり(一個の)の人間(という生き物・物体)」にします。「ジェンダー」という言葉は、私を男でも女でもない「人間」にします。名前を「記号」にし、性別を「経済的セックス」(イリイチ)にします。私は単なる「素材( Stuff )・材料・(人的)資源」になってしまいます。単なる「お金(賃金・消費者)」として、交換可能なものになります。それは「アイデンティティ」や「ジェンダー」が示す(だろう物)の正反対のものです。


自己の変容
「生命の力」は、先の見えない人生を、予測不可能な方向へ、他者のいる方向へ、自己をたえず変容させる方向へと開いてゆき、この世に受けた生を悔いなく生き切ろうとする原動力としてはたらく。(P.120)

「自己の変容」は、戦いでもなんでもありません。生まれて成長するのは、つまり変容するのは、本人の意志とは関係ありません。人間(生物)は(今西錦司風に言えば)育つべくして育つのです。立つべくして立って、歩くべくして歩き、話すべくして話します。知識も経験も人を変容します。戦うべきはその変容を認めようとしない、「静的」な考え方です。それは「老いる」ことに明確に現れます。

二〇一八年六月一八日、『国際疾病分類の第11回改訂版(ICD-11)』が公表されました。その項目「MG2A」が「老齢」の疾病コードです。「老い」は病気であり、正常(健康)ではない、認めることができない、あるいは排除しようとする社会が無痛文明です。「自分は若いままだ」と信じ込もうとします。「若いですね」「変わらないですね」と言われたい。「若い」ということに価値を見る社会です。アイドルが歳を取る(変わる)ことがとても残念に思えてしまいます。アイドルが写真や映像で固定される社会。歌手の声が録音される社会。データとして蓄積される世界です。「アイドル idol 」は「イドラ」である前に、まさしく「イデア」なのです。本人はどんどん歳をとるけど、写真や動画はいつまでも若いままです。また、書かれたもの(文字)も、いつまでも変わりません。認識のため、あるいは「愛する」ためには対象を固定しなければならない、そう思い込む社会です。


身体
苦しみがまったくなく、予期したとおりにものごとがすすんで、自分のしたいことだけをしていればよいという世界に本当に住んだとしたら、人間はどうなるか。おそらく、人間は生きることに飽きてしまうだろう。(P.25)

自己のすべてを入力したコンピュータ、自分と同じように考え、話すコンピュータというものはけっして不可能ではありません。というか、コンピュータにプログラムを実行させるということは、自己の思考や行動をコンピュータに行わせるということです。そのプログラムは管理(コントロール)することができます。自分の思考や行動が管理(コントロール)可能なものであるなら、そのすべてをコンピュータに行わせることができるのです。

その肉体を持たない(データ化された)「私」は、刺激がなくても考えるでしょうか。まちがいなく、なにも考えません(ずっとアイドリング状態)。定期的に(むしろ不定期に)「刺激(痛み、イベント、信号)」を与えなければなりません。

すなわち、無痛文明においては、文明の基盤と自分自身の存在を壊さない程度に薄められた「苦しみ」や「ハプニング」や「自分のしたくないこと」を、われわれ自身が選びとれるようになっているのである。(P.25)

対象化されたもの、自然や自己は「コントロール」が可能です。そして、コントロールのために計画し、結果を予測し、その結果を「期待」します。そして、その結果に「責任」をもたなければなりません。

長い間、法的な説明責任 legal accountability という意味で用いられてきた責任ということばは、もはや第一義的にはそうした意味をもたなくなっています。(中略)このことばは次のような社会的想定と密接な関わりをもっています。すなわちその想定とは、われわれは世界を、自分たちが欲するかたちにつくりかえることができる、あるいは、自分たちがかくあるべしと考えるかたちにつくりかえることができるという想定です。「われわれは世界にたいして責任を負っている」と主張するとき、われわれはそれによって同時に、自分たちは世界を支配する力があると言っていることになります。(イバン・イリイチ『生きる意味:「システム」「責任」「生命」への批判』、邦訳 P.404)

世界をコントロールできるという思いが無痛文明を作り出します。

無痛文明のテクノロジーとは、基本的に、人生と生命と自然の品質管理テクノロジーである。それは、われわれがあらかじめ思い描くプランの大枠の内側に、生命の品質や人生や自然のはたらきをコントロールしようとするテクノロジーである。そして同時に、それらが予測の大枠の内部に収められているかぎり、その枠内においては、逆にわれわれの期待を裏切るような逸脱や、ハプニングや、苦痛や、不運や、失敗や、冒険などがたくさん仕掛けられる。(P.250)


人間の死

無痛文明、あるいはそこで生きる人は、コントロールできないものを排除しようとします。たとえば「犯罪」です。なにか犯罪(あるいは事故、災害、スキャンダル)がなされたとき(起こったとき)、あるいは報道されたとき、人はその犯罪(事故、災害、スキャンダル)の「理由」や「原因」や「動機」を求めます。それらを理性的に理解しようとします。そして、それらのコントロールの可能性をつねに探し、対策(計画、法律等)を作成し、予測(予防)し、結果を期待します。「犯罪」や「狂気」などの理性が理解できないもの、予測・予防できないものは排除されるのです。犯罪者を収監し、狂人を入院させるということは、きわめて新しい制度なのです。

人間は、自分たちの生息空間を人工的にコントロールしておきながら、その仕組み全体を地下室に隠して、自分自身の生活圏からは見えないようにしている。自分で自分を操作しておいて、そのこと全体を自分自身から隠蔽しようとする。これが自己家畜化ということの、もう一つの意味ではないだろうか。(P.259)

アーシュラ・K・ル・グィンの「オメラスから歩み去る人々 The Ones Who Walk Away from Omelas」が頭をよぎりました。ほとんどの人は、その囚人や障害者のおかげで、自分たちの生活が成り立っているのだとは思っていないでしょうが。

家畜は死をコントロールされる。(中略)家畜では、「予期せぬ死」というものは全否定される。死は常に人間によって予期されているのである。(P.7)

それに対して「私の死」というのは予期することができず、恐ろしいものになります。

かねてより信じられてきたように、人間はみずからが死にゆくことを知っている唯一の動物だ、ということは、実は確実ではありません。そのかわりに確かなことは、人間が死者を埋葬する唯一の動物だということです。(フィリップ・アリエス『図説 死の文化史 人は死をどのように生きたか』邦訳 P.2)

「生物学的な死」は動物にも植物にもあります。でも、「人間の死」は文化的なものです。恐ろしい、まがまがしい、おぞましい死という観念は近世の西欧で始まったものです。

十五世紀には、横臥像は遺体をあらわすものへと地滑りをおこします。もはや、死によって平穏を迎えた美しい身体ではなく、地中において解体の力が破壊をすすめる醜悪な遺骸  おぞましい(マカーブル)移行状態  へと、そしてもっとのちには遺骨、すなわち干からびた死の最終状態へと、表現は移っていくのです。(アリエス、前掲書 P.92)

「その死は公的な行為」(同書、P.148)でした。それはずっと続いていたのですが、最近は「小さなお葬式」が流行っています。死は「個人的なもの」になっています(結婚式も身内だけのプライベートなものになりつつあります)。死が恐ろしいのは「世界がなくなること」や「社会(との繋がり)がなくなること」ではなく、「自己が消滅することへの恐怖」です。

われわれは、肉体の生を延長させるために医療を発明し、精神の生を延長させるために宗教を発明した。(P.310)

なぜなら、薄められた死をたえず見せつけられることで、われわれの内部には、死から逃れたいという逃避と隠蔽の衝動が生じ、その衝動につき動かされたわれわれは、無痛文明が供給する無痛化装置に必死ですがろうとするからだ。(P.311)

「おぞましい死」が近世からのものであれば、宗教は「精神の生を延長」させるものだったとしても、それは「死を先送りにする」ものではなかったのだろうと思います。そうすると、医療も「肉体の生を延長」させるものではなかったのではないでしょうか。どのように生きるか、どのように痛むか、どのように死ぬか、はすべて文化的なものです。無痛文明に住む私たちの感性・観念を過去や他文化に投影することは気をつけなければなりません。

無痛文明は、資本主義と情報化によって二〇世紀に生み出された、新たな形の文明だということになる。

これに対して、文明はそもそも石器時代から無痛文明をめざして進化してきたのであり、われわれは一貫して無痛文明の内部にいるという考え方もできる。(P.40)

無痛文明の追求は古来よりあったに違いない。だが、われわれがいまの日本や米国に見るような形の無痛化は、古代にはあり得なかった。(同)

このように考えてみると、古代地域文明においてはごく少数の人間だけが経験できた無痛化の状態が、二〇世紀にいたって、先進国の中産市民階級を大量に巻き込むような形で大衆化したのだと言える。(P.41)

昔から「あったけど、なかった(いまの形ではなかった)」。それでいいと思います。「痛み」とそれを避けようとすることは、古代にもあっただろうし、動物にも、昆虫にもあると思います(思うだけです。私は昆虫ではありませんから)。ハエを捕まえようとすると逃げます。叩いて潰すと赤い血ようのようなものがあります。「痛そうだな」と感じます。漆の木を傷つけると泣くように樹液が流れ出します。漆の木には何本も黒ずんだ傷が残っています。痛そうです。でも、それは「いまの私」がそう感じるだけでしょう。

高校生の時に、何の授業だったか動物園に行ったことがありました。園内をひとりで歩いていたのですが、私は熊の檻の前で立ち止まりました。当時、熊は暗くて狭い折の中でじっとしていました。山の中では神であり、山の主であった熊です。そのとき、熊と目があったのだと思います。その目が何かを訴えているような気がしました。私は涙が溢れてきました。なぜ涙が出たのか。今でもその理由を言葉にすることはできません。単なる同情の涙だったのでしょうか。熊の姿に自分を観たのでしょうか。そうかもしれません。違うかもしれません。

ある感覚(痛みとか味とか)や感情(悲しみとか喜びとか)を言葉にすることには限界があります。感覚がどう感情に結びつくのかも不明確です。殴られたときの物理的な力は測定し、数値化できるでしょう。でもそれを「痛い」と感じるのか、それがどんな感情に結びつくのかは測定できません。脳波から、体がどう反応したかは測定できます。でもそれは「感情」ではありません。

知事がパワハラ問題などで議会の不信任案可決を受け、失職を選んだそうです。日本で「ハラスメント」という言葉が一般に使われるようになったのは最近のことです。加害者に「害を与える意識」がなくても被害者が「不快だ」と感じたらハラスメントになるのだそうです。触られて「不快だ」と感じるか、「嬉しい」と感じるかは加害者(触る側)にはわからないのです(知事が誰かを触ったということではありません)。大きな声で指示したとしても、付箋を投げたとしても、それが業務上必要なことだったのか、被害者を指導しようとしたのか、貶めようとしたのかはわかりません。告発内容が事実なのかどうなのかもわかりません。不信任案に賛成した86人の議員は、告白文章の真偽を確認し、パワハラの有無を確認したのでしょうか。怪しいです。たとえ確認したとしても、問題はそこではないですよね。不信任案を支持したほうがいいのかどうかはその真偽や有無ではないですから。86人の議員はそれぞれがいろんな感情をもっているはずです。「そんな言葉では私は傷つきません」という人もいるだろうし、企業からおみやげを貰っている人だって大勢いると思うのですが。企業が知事や議員におみやげを渡すのは、「お腹が空いているだろう」「貧乏だから買えないだろう」と思って渡すわけではないでしょう。それを自分で食べようが、秘書と分けようがそれが問題なのではありません。その地位を利用して「便宜」を図れば、それは犯罪ですが。

動機のない犯罪はあります。「過失」「不作為」などです。あるいは「緊急避難」「正当防衛」などもあります。それらは結果と原因の因果関係が客観的に明確になったときに成立します。私は加害者意識がなく、客観的に立証できない被害者の感情が犯罪を構成するという事が未だによくわかりません。

部下や後輩に対する「指示」や「指導」は、いまや恐ろしくてできません。でも、それでは後輩が育たないし、業務に支障が出ます。ではどうするか。話し合い?対等ではないものが対等に話し合えるでしょうか(とくに日本では)。そこで登場するのが「マニュアル」です。言葉で言うと「ハラスメント(パワハラやセクハラなど)」あるいは「人権侵害」になるようなことでも、マニュアルに書かれていれば問題にはなりにくいのです。

マニュアルが存在するということは、予測された具体的な目標があるということであり、それはわれわれが解体すべき無痛文明に、われわれ自身が陥ることになってしまう。(P.410)

雇用関係というのは契約関係です。契約は「意志の表明」で成立しますが、第三者に対抗(主張)するためには「契約書(不動産等では登記書)」という「文字」が必要です。

(聞き手・・・引用者)それゆえ、〔結婚の契りとは〕文字文化の概念なのですね。

まさしくそうなのです。わたしたちは契約というものについて、またテクストのイメージについて話しをしてきました。法律の世界では、証書こそが最終的なことば〔権利や義務を保証するうえで最終的に効力を発揮することば〕となります。(前掲『生きる意味』、邦訳 P.349)

「無痛文明」が「文字の文化」であること、この本ももちろん文字の文化があって成り立っているのですが、著者自身もそれは気づいていると思います。

解体の作業をしているこの私自身、無痛化装置に頼っているわけだし、それをいま手放せるとは口が裂けても言えない。このような無痛化装置についての同罪の立場から、言葉を発信し、説得を試みてゆくわけである。(P.406)

言葉を使って文化(言葉)を批判することは、文字を使って文字を批判することとは同じようでやっぱり異なります。言葉が内面化し、人の思考を形作っていくことと、文字が内面化することは違うからです。


私の死

「私の死」を考えるとき、私が経験した「死」から考えることはありえません。私は死んだことがないからです。自分の身内の人が死ぬことは経験しているでしょう。でも、無痛文明は「死」を「おぞましいもの」として提示し、それを遠ざけます。小説やドラマでは「死」を「垂れ流し」ます。ニュースなどの報道も災害や死を毎日提示します。それはあくまでも「客体の(客体化された)死」です。

このような社会では、本物の「私の死」について語ることは、徹底して避けなければならない。語らざるを得ないときには、あくまでひそひそ声で、他人には聴かれないようにして話さなければならない。(P.311)

私が目にし、体験し、想像する「死」は、「書かれた死」であり「演じられた死」です。身内の死もそれで体験されます。それは「主体の死」ではなくて「客体の死」です。私は「死にたい」と思ったことは何度もあります。「死ぬかもしれない」と思ったこともあります。でも、「死にたくない」と思った記憶がありません。そういう経験をしたことがないかもしれません。あるいは、そう思ったことがあったとしても、その状況を過ぎてしまえば、その事を忘れてしまったのかもしれません。まあ、最近は10秒前のことすら覚えてないことも多いですが。著者は「私は死の恐怖に襲われた」(P.294)そうです。

それが突然襲ってくると、手も足も出ない。死について考えることと、死の恐怖に襲われることは、まったく別の体験である。私は一日のかなりの時間、死について考えている。しかし、死の恐怖に襲われるのは、死について考えているときではない。(P.295)

「考えている死」は「考えられた死」「客観的な死」です。それは「書かれた死」、あるいは「書くことができる死」です。著者が考えたいのは「主観的な死」つまり「主体の死」です。301ページ以降に「「私の死」が恐ろしい」理由を5点挙げています。そして、

「私の死」を二つに分けておきたい。それは、
(1)私の死という〈出来事〉・・・実際に私が死ぬこと
(2)私の死という〈観念〉・・・私が死ぬイメージ
の二つである。(P.314)

とします。これはアリストテレスがすでに述べている区分です。質量と形相の区別のことではありません。

質料のうちにも感覚的なそれと思惟的なそれとがあって、感覚的な質料というのは、たとえば青銅とか木材とかその他あらゆる運動変化しうる質料のことであり、思惟的な質料というのは、感覚的なもののうちに、ではあるがそれ自らは感覚的なものとしてではなしに、内在しているもの、たとえば数学的対象などである。(『形而上学』1035b、旧全集第12巻 P.240)

この区別はとても大切です。ふつうは「感覚的な質料」のことを「質料」、「思惟的な質料」のことを「形相」だと考えるのではないでしょうか。私は、この二つの区別が日本語で言う「〜がある(存在している)」と「〜である(コプラ、コピュラ、繫辞)」の違いを表していると思います。

「死」が出来事(存在・実在)と観念に分かれること自体が西欧的(印欧語的)なのです。そしてそれは「客体としての私」と「主体としての私」の分離そのものです。「私が完全消滅したあとで続いていくであろうこの世界の様子を、雲の上から覗き込んでいるはずの「私」というもの」(P.298)というイメージは「肉体を離れた私」あるいは「霊魂としての私」であり、この主体と客体の分離のイメージに近いのではないでしょうか。肉体の死のおぞましさ・まがまがしさ、痛む肉体への嫌悪、それらを客観的なものとする主体の存在が、死を「恐ろしいもの」にしているのだと思います。


トゥルーマン・ショー

雲の上から(天から)覗き込む世界の姿という構図は、地上の私がたえず天から観られているという構図と同じです。日本だったら「お天道様が見ている」ということだし、キリスト教的には「主なる神がご覧になっている」ということでしょう。

私は小さい頃、そういう気持ちがとても強かったのです。だから悪いことはできなかったし、正しいことをしようと思いました(実際はどうだったかは別として)。そして、世間の人も、周りの自然もそのためにあるのではないかと思っていました。親もそうではないかという思いは、自分は拾われてきた子どもではないかという気持ちにさせました。いつか、ひょっこりと看板を持った人が現れて「ドッキリでした」というのではないかと。映画『トゥルーマン・ショー』(監督:ピーター・ウィアー、1998年)が公開されたとき、それはまさしく自分の世界観だと思いました(だから観ることができなかった)。

だから、まつりのときに広場にやってくる芝居小屋や見世物小屋の「裏側」にすごく興味がありました。いつかディズニーランドの裏側に住みたいと思っていました。表から見ると、それらは著者の指摘する「ビオトープ」や「ランドスケープ・イマージョン」です。

自然化するテクノロジーは、二重管理構造のなかで開花する。それは三つの段階を追って進化する。第一に、自然の状態の維持を、ほかならぬテクノロジーが支えるということである。たとえば原生林を維持するために、保全のテクノロジーが集結される。それによって、人間のテクノロジーのサポートがないと維持できない自然というものが出現する。第二は、「背景化」である。(中略)第三は、「自然化」である。(P.260)

ディズニーランドや芝居小屋は、それが「人が作りだしたもの」だということが明らかです。しかし、それが「フェイク動画」になると、人が作り出したものかどうかわからないことが問題になります。

「自然」の意味は多種多様ですが、現在使われている意味は大きく分けて二つだと思います。「それが本来持つ性質」と「人の手が加わっていないもの」です。「nature 」の意味も同様ですね(たぶん)。「This is natural.」と「This is (the) nature. 」です。日本語で言うと「自然である」と「自然がある」です。


条件付きの愛

つねに自分の存在や行動を客観的に見る(反省的に見る)と、「自分が愛されている」ことや「自分が誰かを愛している」( love の意味での「愛」は日本的ではないと思うけど)ことそのものが「これは本当の愛だろうか」と問うことになります。それに「原因」や「目的」「動機」などを見つけ出して、理性的に理解しようとします。愛することに、原因や目的や動機があるとすれば、その愛は著者の言う「条件付きの愛」です。一度「愛する主体」と「愛される客体」という構造で「愛」を見てしまうと、もう「条件付きではない愛」は不可能です。残されているのは、「主体がなくなること」かディズニーランドのように「偽物だと分かったうえでそれを楽しむ」ということでしょう。

かくして無痛文明は、メディアのうえで、条件付きではない愛を、現実には起こり得ない夢物語としてばらまく。そして、多くの人々は、現実には起こり得ない大人げない話として、それを消費する。条件付きではない愛というテーマは、実際に自分たちが取り組むべきものとしてではなく、メディアのうえで消費していく物語、遠くから見たり聞いたりして感動して涙ぐむ物語として受容される。(P.92)

大人たちは、条件付きではない愛を実践するかわりに、条件付きではない愛について書かれた童話や小説を子どもたちに手渡していく。(中略)あるいは、無痛文明がばらまく「条件付きではない愛」の物語に感動しつつも、実際には自分でそれを実行できていないという事実を突きつけられ、現実と理想のギャップに悩む人々が、次々と生み出されることになる。(P.93)

報道番組で報道されるものが「事実(ノンフィクション)」で、ドラマや映画で演じられたものは「虚構(フィクション)」でしょうか(「再現ドラマ」というのもあるけど)。それでも、ひょっとしたら明日「自分」にもそういう出会いがあるのではないかという希望もあります。そういう「物語」がある以上、あり得るのだから。宝くじだって、当たらないと思うけど、当たる人もいるのだから。「ない」という証明は不可能だから。でも、主客構造の中ではそれはありえないのです。

出会いはけっして予想できないし、コントロールもできない。(P.192)

〈「出会い」こそが、無痛文明にとっての真の他者である〉。(P.193)

無痛文明は「出会い」を提示できない。(同)

その出会いは、無痛文明が提示するコントロール可能な(マッチングアプリのような)出会いではありません。自分の安全・安心が担保された(つまりお金を払った)出会いではありません。それは「自分がなくなってしまうかもしれない恐怖」を含んだ出会いです。それは「私の死」と同様の恐怖です。

「私の死」は「身体(肉体)からの解放」であり、「社会的束縛からの解放」でもあります。それを「自由」と呼ぶなら、「私の死の恐怖」と反対の「自由の恐怖」もあります。

ここで言う「自由」とは、無痛文明のなかでコントロール可能性を拡大することによって得られる自由、つまりやりたいことがなんでもできるという意味での自由ではない。と同時に、自由にいろんなことがしたいという欲望を滅却することによって得られる、宗教的な次元のこころの自由でもない。それは自分を解体することによって、いまの自分を縛っているところの束縛装置をも同時に解体させてゆき、その結果として自分自身を深いところで縛っていた束縛装置から根源的に解放されていくという意味での自由である。無痛文明の縛りから脱却する道筋は、この方向にしか開いていない。(P.77)

たまたま、いま読みかけの『被抑圧者の教育学』から引用します。

被抑圧者は、かれらの内面のもっとも奥深いところにできあがってしまった二重性に苦しんでいる。かれらは、自由がなければ確固として生きていくことができないのを発見する。だが、かれらは確かな存在を求める一方で、それを恐れている。かれらは、自分自身であると同時に、抑圧者でもある。それは、かられが抑圧者の意識を自分のものにしてしまっているからである。(パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』、邦訳 P.23-24)

抑圧者の意識を、無痛文明に置き換えれば、これが「自縄自縛」です。この「自由の恐怖」は「自由からの逃走」となります(フロムは読んでいない)。自由から逃走し、コントロールし、コントロールされる中に(つまり無痛文明の中に)留まること、それは、主客関係で形成される「理性」の範囲の中に留まるということです。コントロール(理解)できない「生命のよろこび」、「自由」に対する恐怖は、理解できない犯罪や、狂気に感じる恐怖と同じものです。それらが「反社会的」と言われるのは、「反無痛文明的」ということです。無痛文明は(少なくとも西欧においては)「自由」を旗印に掲げます。その( liberty, freedom の訳語としての)自由は、主客構造内においての、法的関係、理性としての自由であって「自分の心のままに行動できる状態」「勝手気まま・わがまま」の自由ではないことが(その境界線が)、西欧人には文化的(言語的)に身についているんだろうと思います。


身体

「身体」とは何でしょうか。

「身体」とは、このような肉体を中核として成立する概念であると同時に、気持ちいいものにいつまでもしがみつきたいというような人間の心のはたらきを広く包みこんで成立する概念でもある。(P.14)

山本哲士さんはこう言っています。

すなわち、主体性 subjectivité の形成によって、自己の弱さ、誘惑と肉体をたえず意識して、自己の身体、肉体にたいして、内面化の技術、自覚、意識下の技術でもって、つねに自己自身に目覚めさせることである。肉体 chair とは身体 corps の主観性であり、それに目覚めていること、つまり、個人が個人に、主体的に隷属する assujettissement こと、その内部でセクシュアリテがとらえられるようになったというのである。(山本哲士「フーコー〈権力〉論の全貌」、『ミシェル・フーコー 1926-1984 権力・知・歴史』所収、P.211)

山本さんの文章は力強いのですが、私にはよくわかりませんが、多分同じことを言っているのだろうと思います。自覚して、主観性から見た自分の肉体が「身体」ということでしょう。

私は自分の生を、自分ひとりで生き切り、死に切らないといけない。私の存在は、絶対孤独である。(P.90)

「孤独」には二つの意味があります。

こ‐どく【孤独】
〘 名詞 〙
① みなしごと、年とって子どものないひとりもの。また、身寄りのない者。ひとりぼっち。ひとりびと。
[初出の実例]「又賜下畿内百姓年八十以上及孤独不レ能二自存一者衣服食物上」(出典:続日本紀‐和銅四年(711)一一月壬辰)
「法流相続の門弟一人も無く孤独(コドク)衰窮の身と成り」(出典:太平記(14C後)一二)
[その他の文献]〔礼記‐楽記〕
② ( 形動 ) 精神的なよりどころとなる人、心の通じあう人などがなく、さびしいこと。また、そのようなさま。
[初出の実例]「可惜(あたら)お前の妙技も世に知られないで、孤独(コドク)飄零」(出典:恋慕ながし(1898)〈小栗風葉〉八)
「『貴様、か?』と、妙に孤独な感じで、その人は呟いた」(出典:帰郷(1948)〈大仏次郎〉無名氏)(精選版 日本国語大辞典

著者の言う「孤独」は、②の意味です。つまり、「他者」がいるからこその孤独です。「私の存在」とは「エゴ ego 」です。「我思う、ゆえに我あり」の「我」です。自覚した主観性、つまり近代的自我にとって、すべては「対象」であり「他者」となります。そこでは私の身体すら疎遠な他者です。それはいつ痛み、いつ欲望し、いつ消滅するのかはっきりとしない、予測やコントロールができないものです。それを持て余しながら、なんとか主体から切り離してコントロールしたいと考えるのが無痛文明です。それは「よろこび」の元でありながら、それよりも「欲望」の源泉です。欲望の罪は身体に押しつけ、よろこびだけは主体に属するものだと考えます。

「 desire 」の訳語としての「欲望」は、明治以降のものだと思います(未確認)。それは「食欲」とか「性欲」とか「睡眠欲」などの形を取り、「本能」と結びつけられます。「本能 instinct 」はたぶん、「内側から突き上げてくるもの」くらいの意味でしょう。

ほん‐のう【本能】
〘 名詞 〙 ( [英語] instinct の訳語。西周の造語か )
① そのものが本来備えている性質・能力。多く、生物が生まれつきもっている衝動的、感覚的なものをいう。
[初出の実例]「意味を現はすのが文字の本能であるべきに態々意味の現はれない様に書いてある」(出典:食道楽‐冬(1904)〈村井弦斎〉三二四)
「ぼんやりした、補捉し難い本能(ホンノウ)のやうなものの外には」(出典:青年(1910‐11)〈森鴎外〉二二)
② 動物が経験や学習なしに外界の変化に対して行なう、先天的に備わった一定の行動様式。普通、種によってその反応は一定する。
[初出の実例]「英インスチンクト、〈略〉爰に本能と訳す、鳥獣の自ら知らずして智巧あるの類を云ふ」(出典:生性発蘊(1873)〈西周〉二)(精選版 日本国語大辞典

いまの「〜ハラスメント」と同じように、なんでも「〜欲」という名前を付け、それを「〜本能」と結びつけることが流行った時期がありました(著者も知っているだろうと思います)。後にそれはどんどん否定されていくのですが。「〜本能」がたくさんできたように、「〜ハラ」はこれからもどんどん増えていくでしょう。

なぜたくさんできるのか。それはそれぞれが一定の限られた方向(行動)しか示さないからです。

しかも本能は普遍性とは根本的に別なもので、本能の知識はいつも限られたある点にとじこめられている。(『ファーブル昆虫記』第九巻、岩波書店 1989/12/18 P.156)

欲望を本能と結びつけること、それには無理があります。プラトンが「イデア(普遍)」を想定せざるをえなかったように、アリストテレスが「個別(特殊)」と言う「実在」を考える際に「エイドス(形相)」を考えざるをえなかったように、欲望と本能は別なものです。まず「欲望」を「一般的な・普遍的な欲望」から「誰の欲望か」まで引きずり下ろすことが必要なのではないでしょうか。「死一般」を「私の死」に引きずり下ろしたように、欲望も「私の欲望」として捉えなければ、「誰だって楽をしたいでしょ」という意味のない前提になってしまうのではないでしょうか。

「人間」を「人間一般」にし、「肉体」を「身体」とし、「人間は身体の欲望を持つものだ」と言ったとき、その無内容さが無痛文明を作り上げているのではないでしょうか。


形而上学

ラファエロが描いた『アテナイの学堂』という絵(壁画)がバチカン宮殿にあります。プラトンは天を指さし、アリストテレスは地面に手のひらを向けています。有名な絵だし、プラトンとアリストテレスの考え方の違いが現れているものとしてもよく引き合いに出されます。プラトンは「普遍」、アリストテレスは「個別(特殊)」を指し示しています。

アリストテレスは、「ある(存在 τό ὄν, εἶναι, οὐσια )」をさまざまに規定しています。「何であるか(性質)」「どのようにあるか(静動)」「いつあるか(時間)」「どこにあるか(場所)」「どのくらい(量、数、大きさ、広がり、など)」などと(『形而上学』)。このうち「何であるか(基体、実体)」について、「個別(特殊・偶然・その材料・その質料)にあるもの」と「そのイデア(エイドス、形相、観念)」を区別しています。日本語の「私がある(いる)」と「私である」に近い発想です。その観念としての「私」と実在(個別)としての「私」を明確に区別しないと、観念としての「身体の欲望」と実在としての「身体の欲望(肉体の欲望)」を混同します。肉体の欲望と観念としての「私」の結合体が「身体の欲望」です。「生命の欲望(よろこび)」も、「肉体の欲望」「個別の私」に端を発しながら、「身体の欲望」と「観念の私のよろこび」として結合します。

アリストテレスは「シモン(的)」という例をよく上げます。「シモン」というのは「凹んだ鼻」のことです。「凹んだ」という「エイドス(イデア・形相)」と「鼻」という「質料・実在」が一つになった単語だからです。「シモンはあるか」と言われれば、それは「ある」と言わざるを得ないのですが、それは「観念としての凹み」「観念としての鼻」が「個別の(実在の)鼻」の結合体として実在しているのです。ここでも「鼻」は「質料・第一実体(目の前にあるもの)としての鼻」と「観念としての鼻」の結合体としてしか存在しえません。普遍的な「鼻というもの」、つまり「一般名詞としての鼻自体」というものは存在しない(存在ではない)のです。それ(イデア)が存在するとしても、それは個別の鼻としてしか存在できません。

なにかに固有名詞ではない名前をつけること、たとえば目の前に動いているものに「猫」という名前をつけることは、あたかも一般名詞(普遍)としての「猫」を存在させているように思えます。これが唯名論です。「猫」というのは日本語です。でも、日本語の「猫」、それは「ネコ」と声に出して言えますし、「猫」という文字にすることもできます。その「猫一般(猫というもの、猫のイデア)」は、英語では「 cat 」と言われ、フランス語では「 chat 」ドイツ語では「 Katze 」と表現されるにしても、そこに「なにか同じもの」「がある」と思ってしまうのは、人間は肉体として(の脳)だけではなく、「言葉」で考えるからにほかなりません。アリストテレスは、自分の哲学(第一哲学・形而上学)を当時のギリシア語の文法から考えていることを自覚しています。言葉で(あるいは文字で)考えざる(書かざる)をえないことを自覚しています。自覚したうえで、言語化(定義・述語で説明、構造化)する前の「そのもの」をさまざまな例を上げて(主語となって述語とならないもの、銅像になる前の青銅、家になる前の木材や石、生物になる前の生命・魂など)伝えようとしています。それは成功するはずがありません。言葉になる前のものは、言葉にしたとたんに「言葉になってしまう」のですから。それはないはずはない(「ないもの・無」はない、ないと思うものはそのあるものの不在だ)のですが、それを知ろう(愛智、諸哲学・諸学問)とし、伝えようとアリストテレスは努力したのではないでしょうか。

肉体の欲望も、それを自覚し言葉にしようとしたとき、それは「身体の欲望」となってしまいます。「痛みそのもの」も同様です。痛みや欲望はあります。でもそれを言葉にしたとたんに、「身体の欲望」や「痛みそのもの」になってしまいます。あるのは「誰かの」つまり「個別の」身体の欲望や痛みなのですが、それは「実体の・実在の・質料としての」欲望や痛みと、「普遍的な、言語化された、観念的な」欲望や痛みの結合物(混合物)なのです。

誰か(親・名付けの親・Godfather )が名付けた「太郎」について、誰かが「ここに太郎がいる」と言ったので、そちらを見ると、(A) 太郎そっくりな人形(あるいはアンドロイド)が太郎と同じように考え、話し、身振りをしたとします。あるいはそこに (B) コンピューターがあって、太郎のデータが入力されていて、太郎と同じように考え、話をするかもしれません。また、そこには (C) 石ころがあって、やっぱり太郎のように考え、話をしています。あるいは、そこには (D) なにもないけれども、太郎のように考え、話をします。あるいは、(E) 何もなくても、なにも話さなくても、太郎のように考えるるものがある、それはまさしく太郎のイデアです。固有名詞としての「太郎」も、個別特殊な実在(質料)としての太郎と、観念・言葉・形相としての太郎との結合体としてしか存在しません。

別の角度から考えてみましょう。「イデアとしての太郎」に「話すこと」が含まれているとすれば、(A) から (D) までは「太郎」です。あるいは、「触ることができる」「見ることができる」ということが含まれていたなら (A) から (C) までが「太郎」です。「自力で動く」が含まれるなら (A) だけが「太郎」です。「人間である」あるいは「生物である」が含まれていたならば、どれも「太郎」ではありません。通常は、生物であり、人間であり、自力で動くことができ、触ることができ、見ることができ、話すことができ、考えることができるのが「太郎」でしょう。

さて、生物であり、人間である「本物の?」太郎が、話さなくなったり、考えなくなった場合(端的には「太郎の死体」)、は「太郎ではない」のでしょうか。ボケたり、痴呆症になったりした場合はどうでしょうか。脳死状態は「太郎」でしょうか(脳死の基準は曖昧で作為的ですが)。植物人間になり動かなくなった場合は?どうやら「生きている」ということがポイントになりそうです。

太郎が死んでも、太郎の痕跡は残ります。太郎は「文字」や「絵」や「写真」や「動画」として残っていることがあります。あるいは「コンピューターのデータ」として残ることもあります。亡き人の写真や動画を観て「まるであの人がいるようだ」と想う人もいるでしょう。また、太郎のことを記憶している人もいます。「あの人は、私の心の中にいる」といった表現も使います。上の例の (D) や (E) のように、太郎の存在を感じる人もいるかもしれません。

「太郎」を「個人(個体)の太郎として」考えることは、太郎を思考の対象(客体)として考えるということです。太郎本人が「太郎ってなに(自分ってなに)」と考えるときも、対象(客体)としての太郎を考えています。考えるのは「主体」つまり「自己」です。「自己と対象」「主体と客体」「主観と客観」、これらの対立する語彙は、ラテン語の「 subiectum 」と「 obiectum 」から来ていますが、それらはギリシア語の「 ὑποκείμενον 」「 ἀντικείμενον 」の訳語として使われました。アリストテレスにおいてはこの二つは対立語ではありませんでしたし、西欧においても近代に至るまで対立語ではなかったようです。アリストテレスにとって重要だったのは、「主語 ὑποκείμενον 」に対する「述語 κατηγορία 」です。「カテゴリア」つまり「カテゴリー(範疇)」です。あるものを説明(あるいは定義)するときには、この主語と述語を使います。「ソクラテス(主語)は人間(述語)である」というように。アリストテレスは「問い求められる物事がそうあるというその存在の事実は、すでに問うわれわれの手元にあり、われわれに与えられているのでなくてはならない」(『形而上学』1041b、旧全集第12巻 P.267)と言います。「問い求められる物事(主語、この例ではソクラテス)」の存在は前提とされているということです。「私は人間である」と言ったとき、「私の存在」は前提されていて、それが「人間」という性質を持っているということです。「私がある(がいる)」と言うことは、アリストテレスにとっては「問いでもなんでもない」ということです。「私は私である」という文はなにか意味がありそうですが、「ここでわれわれの問い求めているのは、「なにゆえに或るものが他の或るものに属するか」である。」(『形而上学』、1041a、邦訳 P.266)という意味ではやはり問いではありません。

デカルトの「我思う、故に我有り」は、「我の存在」に「我思う」という原因(それがアリストテレスのいう始動因か目的因かはわかりませんが)が必要だと思ったということです(デカルトはアリストテレスよりもプラトンが好きだったようです)。それはきっと「神の存在証明」のために「我(自己)の存在証明」が必要だったからでしょう。それはともかく、デカルトによって「考える主体としての近代的自我」が明確にされました。その後、客体に対立するものとしての主体が確立していきます。西田幾多郎は「自己は自己の對象となることはできない。自己の對象となるものは自己ではない。(西田幾多郎「デカルト哲學について」『哲学論文集 第六』所収、旧全集第十一巻、P.148)と言っていますが、デカルトにとって、「考える自己」「ある(存在する)自己」が「思考の対象」であったのかどうかは私にはよくわかりませんが、いまの私たちの目から見ればそれは考察の対象でした。そしてそれは西田の言う通り、対象となると同時に主体ではなくなるのです。

アリストテレスが当時のギリシア語で説明しようとした「言葉になる前のもの」は、デカルトの「我」に変態することによって失われてしまいました。それが「ある」ということは証明(説明)できないけれども、私はそれは「ある」と思います。


医療
現代文明は、〈人間が自然を支配する〉という地点から、〈人間が自然を管理する〉という地点へとすでに移行しはじめている。「持続可能な開発・発展」というのは地球環境の徹底した管理ということだし、その延長線上で「惑星管理」という言葉さえ生まれている。自然保護も管理の一種である。人間自身の管理に向かった場合、それは「医療」や「教育」という形をとる。(P.16)

歳とともに体のアチラコチラがおかしくなってきます。私のカードケースには収まりきれないほどの病院の診察券が入っています。

遺伝でしょうか、私は循環器系がとくに悪いようです。まあ、ずっとヘビースモーカーですから「自己責任」なのかもしれません。

無痛文明においては、苦しみやつらさというものは、われわれがみずから選びとることのできる選択肢としてのみ存在する。(P.26)

つまり、(法に違反しているわけではなくても)「煙草を吸う」という選択の結果として健康を害しても、それは本人の責任です。私が自由な自己の選択として、「タバコで健康を害する」という責任を追うわけです。それは、「私は私の身体をコントロールできる」ということと同じです。ぐわいが悪くても病院にいかないという選択も「自己責任」です。

血圧が高いという話は前にも書きましたが、いま飲んでいる循環器系の薬はそれだけではありません。血管が固くなっているうえに、脳に行く血管が細く、動脈瘤も見つかりました。その結果として「血をサラサラにする薬」も飲んでいます。これが厄介で、ちょっとした切り傷でも血が止まりません。

脳神経外科(内科だっけ?)の医者としては、それが正しい判断なのでしょう。脳梗塞や脳内出血が起こっても、ちゃんとした診断と処方を行ったわけです。でも、血圧を下げる薬も血をサラサラにする薬も、その病気の原因を取り除くものではありません。対症療法でもありません。

身体の欲望とは、苦痛を避けたいとか、快適さがほしいなどの個々の欲望が、個人の内部にそのつど湧き上がってくることだ。これに対して無痛奔流とは、人々の身体の欲望が社会へと流出したものであり、予防的無痛化、目隠し構造、二重管理構造(第六章参照)などの仕組みを巧みに利用して苦しみからシステマティックに逃げ続けていこうとする流れへと、身体の欲望が成長したものである。(P.118-119)

どうして血圧が上がるのか、私にはよくわかりませんが、体がそれを求めていると思うのです。たとえば血管が固くなっていることもその原因のひとつでしょう。でも、走ったあとに息が上がり、脈拍が早くなるのは、体がそれを求めているからですね。そのときに普通の呼吸をし、脈拍を遅くする薬を飲んだらどうなるでしょうか。きっと酸素不足で倒れるでしょう。ひょっとしたら死んでしまうかもしれません。私の心臓が、酸素や栄養を隅々まで運ぶために血圧を高くしているとすれば、血圧を下げて血をサラサラにする薬はどういう作用をするのでしょうね。現在日本で高血圧の薬を飲んでいる人がどのくらいいるのかわかりませんが、多分数千万人でしょう。そしてそれは「治療薬」ではないのです。

老人性痴呆症や認知症(つまり「ボケ老人」)が増えたのは、平均寿命が伸びたせいだと言われています。どうも私は納得できません。平均寿命が伸びたということすら怪しいと思っています(この本では出生前診断が取り上げられていますが、平均寿命に影響する乳児死亡率の低下を考えたときに、長生きする人が増えていると単純にはいえない気がする)。少なくとも私やあなたの寿命が伸びたということではありません。ボケ老人が増えたことと、高血圧症の薬との因果関係はないのでしょうか。また、ある種の薬(たとえば睡眠薬の一部)は痴呆症との因果関係があるとある医者は言っていました。確かめたわけではないけど。

新型コロナウイルスで、「ワクチン」が大量に投与されました。ワクチンは予防医療の代表です。その実効性はとても怪しいのですが、そのことよりも、大量にばらまかれた(いまでもばらまかれている)除菌・殺菌剤(殺ウィルス剤というものはないと思う)は今後どんな影響を与えるのでしょうか。また、人と接触しない(かかわらない)ようにした影響はどうなのでしょうか。これらのことは調査されたのでしょうか。これらが報道されることもありません。これらは「語らざるを得ないときには、あくまでひそひそ声で、他人には聴かれないようにして話さなければならない」(前出、P.311)ようです。

この現代医療は、古代の医療(たとえばヒポクラテスの頃)と同じ医療なのでしょうか。私には「祈祷」に近いもののように思えます。


資本主義と無痛化文明
利潤の再投資によって次々と自己増殖する資本の運動が、資本主義の原イメージを決定している。(P.343)

無痛文明のみが資本主義のコントロールに成功する。なぜなら、無痛文明とは、資本主義が変態して立ち現れたものであるからだ。資本主義の変容態である無痛文明が、その源泉である資本主義を囲い込むのだ。(P.345)

「欲望する身体」はいつ「私」から疎遠なものになったのでしょうか。

「孤独」が「誰もいない」ことではなく、「他者がいるからこその孤独」になったように、「欲望」は「身体の欠乏を満たそう」というものではなくなりました。「物があるがゆえの貧困」こそが著者の言う「身体の欲望」です。

イリイチはこの欲望が「稀少性」から生じると考えました。川から、あるいは井戸から水を汲むことが水道から水を得るようになると、水は「稀少性」になります。同様に「電気」も「テレビ」も「スマホ」も稀少性になります。「生活必需品」とか「ライフライン」とか言われるものはどんどん増えていきます。「医療」や「学校」や「自動車」もそうです。それらは「商品」で、「お金」で得るものになります。

それらがあることを「発展」「発達」(「開発」)というのですが、それらに代わって失ったものがあります。水を得る(井戸を掘る)技術、火をおこす技術、学ぶ技術、痛む技術、移動する(歩く)技術すら失われるかもしれません。それらは「生きる技術」です。痛いときに病院に行き、薬を飲むことで「痛む技術」は失われるのですが、それは「よろこぶ技術」をも失わせます。著者の言う「生命のよろこびの不感症」(P.19)になるのです。痛みを取り除くために「より効く」「より強い」が必要になるよに、よろこび(快)もより強い刺激が必要になります。

無痛文明における人間の快感は、「よろこび不感症」の地盤の上に、快刺激の積み木を重ねていくプロセスとなる。そこでは、より多くの刺激が与えられ、その刺激に反応しなくなったら、別の種類の刺激が与えられ、刺激に疲れたら安楽さが与えられる。そのような快刺激と安楽さのあいだの往復運動によって死んでいくものこそが「生命の力」である。(P.123)

飲める水の量、食べることのできる食料の量には限界があります。でも、お金(数字)にはかぎりがありません。多種多様化し、増大する稀少性は、かぎりないお金に対する欲望となります。欲望は本能を超えて「限りないもの」(井上陽水)になります。それは「資本の原イメージ」「資本の衝動」です。そこに生きる主体はそれを内在化し、「資本の主体」として行動し、欲望するのです。「資本の衝動」を具現化したものが「身体の欲望」なのです。

マルクスは「共有林からの木材窃盗事件」について『ライン新聞』に論文を掲載していますが、いままで自由に拾えた薪が拾えなくなったという事件です。それまで薪は必要なものであっても、空気と同じように誰かが所有するものではありませんでした。それが拾えなくなることによって、薪は稀少性となり、「買うもの」になったのです。つまり、稀少性とは「商品」のことなのです。「囲い込み(エンクロージャ)」によって、土地も「稀少性(商品)」となりました。商品を買うためには「お金(貨幣)」が必要です。そこで「賃金労働者」が発生することになるのですが、それによってそれまでのお金(貨幣)は変質します。お金は昔からあっただろう、というのは、欲望は昔からあっただろうと言うのと同じで、形は一緒でも中身(それが背負うもの)が違います。時代や地域によって違うのです(権威を背負うものだったり、マナを背負うものだったり)。いま現在の無痛文化のイメージを投影してはいけません。

無痛文明は、「資本主義が変態して立ち現れたもの」でも「資本主義を囲い込んだもの」でもなく、資本主義そのものなのです。


私が変われば世界が変わる?

今日、『GO HOME~警視庁身元不明人相談室~』と『マル秘の密子さん』の最終回を観ました。どちらも作品としてはありきたりで、面白くないので、早く終わってくれないかなあと思っていたほどです。でも、小芝風花の「小芝居」は好きだし、福原遥の大ファンなので観ていました。

『GO HOME』は結局『水戸黄門』の変形で、「権力者は悪いことをする」という話だし、『マル秘』は「あなたが変われば世界は変る」という話です(詳しい感想は書きません)。

『鉄腕アトム』は、悪と戦う正義の話で、その正義は「科学(知識)」です。ヒーロー物や刑事物など、ほとんどのドラマや映画は「悪役」がいます。「世の中には悪(それが人でも制度でも)がいて、いまの世の中(世界)は変えなければいけない」といいます。それをまともに体現したのが六〇年代の学生運動でしょう。彼らは「悪と戦う正義」だと思っていたのではないでしょうか。戦隊モノで育った人は、もう子どもを持っているでしょう。自分が戦隊モノのヒーローではいことは、社会に出れば大抵はすぐに気がつくだろうと思います。でも、「社会を変えなければならない(悪と戦わなければならない)」という気持ちは残るのではないでしょうか。

その気持は「ニュー・アカデミズム」「ニューサイエンス」とつながっていきます。それは外側に向かっていた意識を、みずからに向ける傾向が強かったと思います。ある人々は新興宗教に走り、『オウム真理教』の「地下鉄サリン事件」(1995年)が起こりました。松本智津夫(麻原彰晃)村井秀夫と著者と私はほぼ同年代です。敵(悪)は「自分の外」にあるのか、「自分の中」にあるのか。いずれにしても「悪はある」、そしてそれを滅ぼさなければならないという思いは、彼らにも私にもあります。「悪がある」と「悪である」、その混同がどうしても生じます。

主体の反省が強くなると、唯心論に近づきます。「世界(客観)を変えること」と「自分(主観)が変わること」は、同じ「主客構造」に基づきます。どちらの極にブレるかはありますが、けっきょく同じことなのではないでしょうか。

無痛文明では、いまここに生きているこのかけがえのない私の存在というものが、決定的な役割を果たすからである。なぜなら、無痛文明は「この私」というものからのみ発するからであり、無痛文明との戦いもまた「この私」と言うものからのみ発するからである。(P.445)

著者は全編を通じて、「無痛文明」を「具体化」しようとしています。そのたびに「無痛文明」は、逆に「観念化」するように思えます。ある現象を「無痛化文明」の「実体化」としてとらえるのは、「身体」を実体化することと同じです。それは「精神」の実体化、「生命」の実体化です。実体化するということは、それを客体化し、「戦う主体」を作ります。だから、筆者は戦い続けなければならないのです。

私はそれらの無痛化と戦うことを、みずからに課す。(P.42)

また、

私はそれらの無痛化と戦わなくてはならないのではないかと「絶えず疑う」ことをみずからに課す。(P.42)

そして、

(中略)無痛文明論は、われわれの外部に孤絶して立つ強大な敵というものを認めない。すべてはわれわれひとりひとりが内側にもっているものから発するのであり、敵は常にわれわれ自身の内側にも存在するのである。(P.131)

それを解体するためには、無痛化する現代社会のなかで生きるすべての人々が、まず自分自身の生き方を点検し、自分自身の内側にある無痛文明を、それぞれの位置で解きほぐさなくてはならない。(P.132)

私には、蜜子さんの言う「あなたが変われば世界は変る」と同じに聞こえてきます。

『GO HOME』では、手紙で思いを伝えるシーンがありました。日本は文字を使うのがあたりまえの文化ですが、一世紀前までは文字は権力の象徴として、支配の道具であり、文字を使えない人(被支配者)に対して権威を持っていました(いまでもそうですが)。文字で思いを伝えるというのは、伝わると思っているからです。文字のもとになっている「言葉」も、それで思いが通じると思っているのです。逆に文字が支配的になると、言葉にしなくては通じない社会になります。そして、言葉は「文字」にしなければならない社会(法的契約社会)になります。


ペネトレイター
しかし、私は、無痛文明の諸特徴を基盤として、さらに新しい概念を提案したい。それは、「この私」と言うも野を貫くことによってのみ存在することのできる「ペネトレイター」という概念である。無痛文明は、ペネトレイターの一種である。では、それはどのようなものだろうか(「ペネトレイター」とは貫通物の意味」)。」(P.445)

新しい概念をどうしてカタカナ(横文字)で表現したのかわからないし、「貫通物」という日本語があるのだとすれば、それを概念化するべきだと思います。それはそれとして、著者はペネトレイターの特徴を四つ挙げています。それを列挙します。

第一に、ペネトレイターは、この私を何度も何度も貫いて運動する貫通体である。(P.446)

第二に、私はペネトレイターに対して「観察者」として関わることはできない。この私がペネトレイターに関わった瞬間、この私はペネトレイターに貫かれてしまい、観察者の位置を喪失してしまう。一度ペネトレイターに貫かれたら、この私には、ペネトレイターに貫かれて生きるという生き方しかありえなくなる。(同)

第三に、私はペネトレイターに対して、つねにその末端からしか関わることができない。(P.447)

第四に、私はペネトレイターを所有することはできず、コントロールすることもできない。(同)

本当はこの部分は全部を引用したいのですが、やめておきます。ここで言われている「ペネトレイター」という概念は、まさしく「私というもの・自己・主体」、つまり「近代的自我( ego )」そのものではないでしょうか。

ペネトレイターは、われわれと無関係に太古の昔から存在してきたわけではない。ペネトレイターは、われわれ人間が作り上げてきた何ものかである。われわれがペネトレイターを作り上げたはずなのに、いつのまにか、ペネトレイターのほうがわれわれより優位に立ち、われわれを貫いてもてあそび、われわれを捨て石として利用して網の目を広げようとするのである。それを作り上げた張本人たちが、もはや処分することも、コントロールすることもできなくなるような生産物、それがペネトレイターである。

ペネトレイターは私から見れば不可解な自律運動を行っており、私の予測を超えた動き方をして私をもてあそぶ。(P.448)

私は「欲望」の塊です。たとえば瞑想をし、欲望(煩悩と言ったほうがいいかな)を滅却すれば、世界が変わって見えて、もう少し幸せに暮らせるような気がします。でも、私は「外界・社会・客観物」があると思っています。それは目をつぶっても、私が死んでも「存在」していると思っています。私が変わっても、多分世界は変わらないだろうと思います。「どこにも勝者のいない戦い」(P.288)負け続ける戦いに向かうには、あまりに自分は無力だと感じてしまいます。その「無力感」は「条件付きでない愛の可能性」同様、無痛化文明の言説が作り上げたものでしょう。当たるわけのない宝くじを変えないということです。でも、それを分かったうえで「期待をこめて」宝くじを買う人はたくさんいるのです。

私は「買う勇気」がないとしても、「宝くじとはなにか」を知り、「告発」したいとは考えています。

この本を読んで思ったことはまだまだあります。それほど中身が濃い本です。とくに、「ペネトレイター論」のその後の展開も気になるところです。また機会があれば、著者の本を読みたいと思っています。




[著者等]

森岡正博

1958年生まれ。1988年、東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。(倫理学)。現在、大阪府立大学総合科学部教授。研究テーマは哲学・生命学・科学論。新しい総合的な人間学である「生命学」を提唱し、日本で最も大きな注目を浴びる思想家の一人である。
著書に、脳死問題を独自の視点で論じて世界的な反響を巻き起こした『脳死の人』、新しいジャンルである生命学を提起、発展させた『生命学への招待』『生命学に何ができるか』、インターネット社会の到来とその問題点を世界に先がけて論じた『意識通信』、オウム真理教事件を自己の思想遍歴と重ね合わせて考察した『宗教なき時代を生きるために』など、社会に衝撃を与えた多くの著作がある。

AUTHCOMMENTS: 『無痛文明論』が、とうとう2003年10月にトランスビュー社から刊行される。雑誌の連載をはじめたのが1998年だったから、もう五年間も書き続けてきたことになる。私がいままで書いた本のなかで、これが最高だと思う。期待と不安感で胸がいっぱいだ。
人々の寿命が延び、ものが溢れる社会になったのに、どうして人々は顔を輝かせて生きていないのか。その背景には、物質的な豊かさとひきかえに、われわれから「よろこび」をシステマティックに奪っていく文明の仕組みがあるのではないか。
私は、子どもの暴力や、新宗教に惹かれる人間の心理などを例にとって、「無痛文明」へと呑み込まれてゆく現代人の姿に迫った。その迫り方が、あまりにも常軌を逸していたために、雑誌連載時から大きな反響を呼び、インターネットを巻き込んだ賛否両論の嵐となった。自分でも、ここまで書いていいのだろうかと何度も思い悩むことがあった。連載を終えてから、全体を二度書き直し、長大な二つの章を、さらに書き下ろした。 私は、この本によって、現代思想の可能性を一歩進めることができたと思う。『無痛文明論』は、日本よりも、海外での反響のほうが大きいかもしれない。思索とは、文体をも含めた一個の実験であるということを、この本を書きながら実感した。
「無痛文明」とは、苦しみとつらさのない文明のことである。たとえ苦しみやつらさがあったとしても、そこからどこまでも目をそらしてゆく仕組みが、社会のすみずみにまで張りめぐらされている文明のことである。われわれは、そこで快適さや快楽を得るが、それとひきかえに、「よろこび」を奪われ、自分を内側から破って自己変容する可能性を閉ざされてゆく。その先にあるものは、何か。それは、快楽と眠りに満ちた、生きながらの死の世界だ。すべての人々が表面上はにこにこ笑いながらも、心の奥底では絶望して、かつその絶望からも用意周到に目をそらし続けていくような世界だ。
『無痛文明論』は、この悪夢のような世界をどこまでも描き込んだ。自傷行為にはしる子どもたち、空虚な快楽ゲームにはまる大人たち、管理化される自然環境などの向こう側に、われわれは「無痛文明」の姿を感じ取ることができる。
「無痛化」を引き起こす原動力は、われわれ自身の内部にひそむ「

快を求め、苦しみを避ける方向へと突き進む現代文明。その流れのなかに、われわれはどうしようもなく飲み込まれ、快と引き替えに「生きる意味」を見失い、死につつ生きる化石の生を送るしかなくなるのではないだろうか・・・。
現代文明と人間の欲望をとことんまで突き詰めて描いた超問題作!

現代社会は、いま、「無痛文明」とういう病理にのみ込まれようとしているのではないだろうか。快にまみれた不安のなかで、よろこびを見失った反復の中で、どこまで行っても出口のない迷路の中で、それでもなお人生を悔いなく生き切りたいと心のどこかでおもっている人々に、私はこの本を届けたいと思う。
第一章から第六章までは、一九九八年から二〇〇〇年まで雑誌に掲載されたものを、原型をとどめないくらい書き直したものである。この連載は、思想に関心を持つ人々のあいだで大きな反響を呼んだ。
その後、結論部分に当たる第七章と第八章を、本書のために書き下ろした。第八章において、「無痛文明」の秘密が、最終的に解き明かされる。
現代社会のなかで、真綿に包まれるような漠然とした不安を覚えるとき、われわれは直感的に「無痛文明」の存在を感じ取っているのかもしれない。この本は、読者が一度は感じたことのあるあろうそのような感覚に、言葉を与えようとする試みなのである。(「はじめに」より) --本書「はじめに」より



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