
内容は、高校1年程度で習うようなものがほとんどです。忘れている人は、(当時おぼえたんだとすれば)思い出すでしょう。高校卒業して何年も経つ(私は何十年も経つ)人は、読むことによってはっきりすることも多いかもしれません。
私は「ああそうだったな」と思い出したことも、本を閉じたら忘れてしまいました。高校生の時のように「頑張って自分で考えて覚えよう」という気にはなりません。どうせ私は、もう、3分と経たずにすべて忘れるからです。
西尾維新さんの『忘却探偵シリーズ』の掟上今日子のウルトラ・ショートヴァージョンです。数秒、顔を背けたとたんに、何を考えていたのかを忘れてしまいます。そんな私が一生懸命覚える必要などないじゃありませんか。
一応「確率」の意味を。
かく‐りつ【確率】
〘 名詞 〙 ( [英語] probability の訳語 ) ある事象が起こる確からしさの度合い。また、それを示す数値。蓋然率(がいぜんりつ)。公算。
[初出の実例]「各子音がそれぞれ各国語に出現する頻度あるいは確率が一様で」(出典:比較言語学に於ける統計的研究法の可能性に就て(1928)〈寺田寅彦〉)(精選版 日本国語大辞典)
どうやら明治以降にできた言葉のようですね。つまり、それまでは日本に「確率」という「考え方」がなかったのです。西欧においても、貴族や官僚以外にはなかっただろうと思います。日本には「和算」があったし、なによりも「そろばん」がありましたが、空を見上げて明日の天気を「知った」んだろうと思います。
とてもわかりやすい本です。数式や記号がほとんど出てきません。+、x、÷、あとは P(順列の数)、C(組み合わせの数)、!(階乗)です。
どの確率の入門書にもある「ギャンブル」の話は当然あるのですが、もっと生活に密着した話が多く出てきます。
たとえば、「ベストな結婚相手の選び方」。どんな話かというと、
あなたは、一生のうちに10人と交際するチャンスがあります。なお、一度別れた人とは二度と会うことはできません。
交際する10人の中に、最良の結婚相手Aさんがいます。しかし、Aさんが何番目にあらわれるかはわかりません。
どうすればAさんと結婚できる可能性が最も高くなるでしょうか。(P.227)
結婚前に何人と交際できるか、なんてわかんないですけどね。
計算の仕方は本書を読んでいただくとして、結論は、
この戦略をとると、3〜4人と交際してから最良の人を選ぶ方法が、最もAさん(最良の結婚相手・・・引用者)と結婚できる確率が高くなることがわかります。(P.232)
この本が発刊された頃にはすでに「新型コロナウィルス」が猛威を振るっていて、PCR検査キットが足りないと騒がれていました。
新型のウイルスが発生し、現在1万人に1人の割合で感染しています。心配になったあなたは、このウイルスの感染検査を受けにいきました。
すると医者から「この検査の精度は99%であり、誤った判定が出る可能性はわずか1%です」という説明を受けました。
そしてあなたの検査の結果は、不幸にも「陽性(感染している)」でした。さて、この時点であなたが感染している確率はいくらでしょうか?(P.261)
このような話は、当時も一部で騒がれていたのですが、どう思いますか。「精度99%なんだから、99%感染してる」というのが、一般の人の反応だったし、マスコミでもコメンテータやMCがそういっていました(専門家はその話題を巧妙に避けていた)。
これも計算は省略します。
実際に感染しているのは、陽性と判定された1万98人のうち、わずか99人に過ぎないのです。これは、陽性と判定された人の約0.98%です。つまり、この精度99%の検査で「陽性」と判定されたとしても、ほんとうに感染者である確率はたったの1%なんです。(P.264)
「偽陽性」であっても、家族や会社から隔離され、いわれなき誹謗中傷の対象になります。
同じことが「新型コロナウィルスワクチン」でも計算出ます。こっちは「95%有効」とか言ってましたっけ。ほとんど効かない(効いたかどうかすらわからない)ということなのですが、「2回接種」が「3回」「5回」と増えて、ついには「毎年接種しなければならない」と言われ始めました。
言いたい人には言わせておけばいいのですが、マスコミ・ニュース・ワイドショー(情報番組)で、「それはおかしい」という声を聞かずに終わったことが恐ろしいことだと思います。
この新型ウイルスの例もそうですが、これは「条件つき確率」と呼ばれるそうです。高校時代に習った記憶がないなあ。
単に「Aがおこる確率」ではなくて、「Bという条件のもとでAがおこる確率」ということです。この本の例を挙げます。
赤玉6個、青玉6個を、箱Aには「赤:4,青:2」、箱Bには「赤:2、青:4」入れ、ランダムに箱を選んで取り出した1個の玉が赤だったとき、箱Aを選んでいた確率は、
となり、計算すると2/3になります。
イギリスのトーマス・ベイズ(1702〜1761)が考えた統計手法ですが、
ベイズ統計には「主観」を情報として使うことを認めるなどのあいまいさがあるため、いわゆる伝統的な統計学の研究者からは「厳密さを欠く数学」として強い非難を浴びました。そのあいまいさこそが広い応用範囲につながる長所であると認識されるようになったのは、ようやく20世紀に入ってからです。(P.297)
数学(科学)は、観察者やその主観を入れずに成立するものだと考えられていましたから(今でもそう思っている人は多いと思う)当然ですね。たとえば、よくある例ですが、「コイントスで9回表が出ていることを知っているあなたは、次に表・裏どちらに賭けますか」というのがあります。「そろそろ裏だな」と思うのは、あなたが「見ていて知っているから」ですが、知っている、知らない、思うか、思わないか、にかかわらず、次に表(裏)が出る確率は1/2です。
私が思ったのは、普通の確率は「未来を予測(予期)する」ということに主眼があって、そこには「絶対」「確定している」ということはないけど、そう「期待」できるというものです。
それに対して、「条件つき確率」は「過去にすでになされたこと」を「推測する」に主眼があるのではないか、と感じるのです。
新型ウイルスの例では「過去に感染したこと」、赤玉青玉では「過去に取り出したこと」を「推測」しているのです。その他にも本書には「迷惑メールの判定」がありますが、それは「過去に出されたメール」、「モンティ・ホール問題」では「過去に扉の向こうに隠された宝」、「3囚人問題」では「過去にきまった処刑」を推測しているわけです。それでも「絶対」ではないし「種明かしをされてもその確率は増えない(変化しない)」という意味では同じなのですが。
確率とは「確からしさ」ですが、片方は「未来の確からしさ」、片方は「過去(から現在)の確からしさ」だと思うのです。
確率の「乗法定理」は、
たがいに確率に影響をあたえない、複数の出来事が、連続しておきる確率(P.91)
です。「加法定理」は、
同時には起こりえない複数の出来事のうち、どちらかがおきる確率(P.92)
です。
この「影響をあたえない」ことはどうしたらわかるのでしょうか。「連続して」「同時に」ということは何を意味するのでしょうか。
どの確率計算も同様の前提を設けています。それは「過去から現在」「現在から未来」が「変わらない」という前提です。それが「設定」「状況」「条件」などと呼ばれます。それを「法則 law 」と呼ぶこともあります。いずれにしろ、「状況は大きく変化しない」という前提があるのです。急にサイコロが平べったくなったり、囚人が恩赦されたりしては確率計算は意味がなくなります。また、規則や条件が「既定(既存)」なのかどうかも不明なのです(言語ゲーム)。
これは一見不思議なことです。「科学法則が支配する世界」、は同時に「資本主義社会(自由主義社会、商品社会、また社会主義社会)」でもあります。その社会では「新しいこと」「変革」が「進化」であり「正義」です。
確率計算では「新しい」未来はありません。未来はつねに「(現在から見た)過去の延長」でしかありません。それは変革を求めません。それは「滅亡」だからです。社会主義社会の滅亡が「変革の結果」です(フランス革命は「正義・進歩」とされるのですが)。過去は「決まっている」。未来も「決まっている」。それは変わらないけど、「知ってはいない」ので、その「確からしさ」を推定(計算)するのが「確率(学・論)」です。
未来を予想(予測・予告)することを、イリイチは「期待」と呼びました。
積極的な意味において、希望とは自然の善を信頼することであるのに対して、わたしがここで用いる期待とは、人間によって計画され統制される結果に頼ることを意味する。希望とは、われわれに贈り物をしてくれる相手に望みをかけることである。期待とは、自分の権利として要求することのできるものをつくり出す予測可能な過程からくる満足を待ち望むことである。(『脱学校の社会』邦訳、P.191)
西田幾多郎は「過去と未来の絶対矛盾の自己同一としての現在」と言いました。終戦直前(彼は「敗戦」を知っていたと思う)に亡くなった西田が、戦前戦後の日本を憂いていたことは間違いありません。でも、単に「現在しかない」と言うべきだったと思います。天才がどう考えていたのかは私にはわかりませんが、それが庶民感覚だからです。
自分がいかに過去(経験、祖先、歴史など)に支配されていたとしても、つねに「いま・ここ」しかないのです。
テレビやスマホを通して、わたしたちは「遠くの国」や「過去」や、場合によっては「未来」すら見ている(知っている)ような気になります。
私にも(西田にも)たしかに子供時代はありました。あえて、精神と肉体(物質)、主観と客観と分けるとすれば、子供時代は「記憶として」「身体に属するものとして」あります。そして(あえて)、精神が身体に依存すると仮定すれば、それも過去しかないのです。そして西田流にいえば身体(空間)と時間(精神)の矛盾的自己同一として、現在の「私」があるのです。
「掟上今日子」のように、あるのは今日(現在)だけです。昨日と今日が同じ「世界」であり、同じ「私」である、つまり「アイデンティティ」といわれるものは見せかけです。少なくともそれは精神(意識・主体)にあるのではなくて、彼女の日記やメモと同様に客観的(客体)にしか存在しないのです。
記憶が精神に属すると考えるのは幻想です。客観・客体がある程度以上に速く変化したとき、記憶は意味を失います。現代が「加速度的に進んでいる」と感じるのは、記憶(知識や経験)が意味をなさないからにほかなりません。「歴史」は証明(再定義)されるためにのみ存在します。
私が3秒後に忘れている記憶は、どこかに身体として(物質として)残っているのかもしれません。思い出すこともないわけじゃないですから。でもそれは精神としては、残っていません。精神としての記憶など、どこを探しても見つかりません。見つかるとしたら、それは「メモ」や「痕跡」でしかありません。
書きことばは、ことばを粘土の板に固定し、流れるような生きた話しことばよりも、はるかに大きな権威を獲得するのである。(イリイチ『H2Oと水』邦訳、P.77-78)
記憶を精神にとどめておくことはできません。それは「カタルシス」として「精神から排泄」されなければなりません。普通、一度に考えられるのはひとつのことだけですから。精神から排泄された記憶は「文字として」「肉体として」つまり「客観物として」残っているかもしれません。あるものはすぐに風化し、あるものは形を変えて残っているかもしれません。体を洗うことにおける水、火葬することによる火は、それらを「彼岸」に送るのです。
その身体としての記憶を、フロイトは「無意識」あるいは「超自我」と呼びました。ローレンツは「本能」と呼びました。本能、無意識は「神」であり「理性そのもの」なのです。
この本の表紙に書かれている文章です。そのほかにも、
- 知識ゼロから読めちゃう超入門書!
- 確率は、未来の出来事を予測する、魔法の数なんです!
などの文章もあります。私はこういう文章がきらいです。それが「中身を表している・いない」かどうかは別として、「わたしでも」というのは誰のことでしょうか。「読者の声」(Amazonなら「カスタマーレビュー」)のような文章ですが、出版前に書かれたのだから、そんなことはありません。善意にとって、せいぜい「関係者の声」でしょうか。
日本語では主語(特に一人称や二人称)をあまり使いません。それは「話し手」も「聞き手」も同じ状況の中にいて、共通の意識状態に近いことを前提としているからです。
- おいしい!
- 見えた!
これを英語に訳してみてください。きっと主語が出てくる(あるいは主語の選び方に迷う)と思います(「見えた!」は「過去形?」とも考えるかもしれません)。でも、この日本語はそんなに「むずかしい」「意味不明」な文章でしょうか。言われなければ、「普通の」「当たり前の」日本語だと思います。
逆に日本語では主語をつけるときは、その主語がとても「重要な意味」を持っている場合です。だからいろいろな一人称や二人称があります。「わたし」「おれ」「ぼく」「おまえ」「きみ」「あなた」「オタク」などです。また、同じ状況にいるのですから、単数と複数の区別も必須事項ではありません。ですから日本語においては「わたし」と「わたしたち」、「あなた」と「あなたがた」は「単数・複数」以上の重要な(あるいはとても曖昧な)「意味の区別」をもっています。
「わたしにも撮せます」という有名なCMがあります。1965年の「フジカシングル8」の宣伝です。画期的でした。それまでの広告は、会社(売る側)が、「素晴らしい」「カンタン」「美味しい」「楽しい」と一方的に言っていたのです。だから聞く(観る)ほうも、「宣伝文句だから」と信用する・しない以前の話でした。ところが今「テレビショッピング」を観るとどうですか。話をするのは「メーカー」ではなく「ユーザー」です。画面の隅に小さく「あくまで個人の感想です」「人によって効果が異なります」などの文字がありますが。「食べ歩き番組」や「トレンドセレクト」のような番組でも、話をするのがまるで「ユーザー」のようです(そこには「個人の感想です」の文字はありません)。
では、この表紙の「わたしでも」は誰でしょうか。日本語の英語化はどんどんすすんでいます。「 you 」に一番近いのは「オタク」のように思っていましたが、今後「あなた」がその地位を取るような気もします。そして日本語の特性が影響して、「あなた」は「わたし」「わたしたち」と混同されていくでしょう。最後には「人」にまとめられるかもしれません。
- 数学が苦手な人でも、どんどん楽しく読めちゃう!
うん。メッセージ性は弱くなるけど、しっくり来ます。
気がつきました。遠くから見ると、ふきだしで「先生、確率って何なのですか!?」の下にこの文章があります。
この本の登場人物は、
- 倉田博史先生
- 数学アレルギーのさえない文系サラリーマン(27歳)
です。ですから「文系サラリーマン」のセリフなんですね。
すいません。「わたしでも〜」の文章の方に目がいって、誰のセリフだが考えませんでした。文章の問題というより、私の問題だったんですね。
「デザインの問題」ではありません。
図書館からもう一冊の本(本書の隣りにあった)を借りてきました。
『これならわかる! 図解 場合の数と確率』佐藤敏明著 2017/08/03 ナツメ社
こちらは「集合論」を基礎にしているようです。こちらでは「条件つき確率」の式は、こうなります。
PE(A) = P(A ∪ E) ÷ P(E)
本書と同じことを表しているのですが、「 ∪(和集合)」「∩(積集合)」なんて記号が出てくるだけで読む気が無くなります。
集合 { 1, 2 }の部分集合は、{ 1 }, { 2 }, { 1, 2 }、そして{}(空集合∅)の4つです。
空集合
いつから「変わらないこと」を望むようになったのでしょうか。私の中には「変えたい」気持ちと「変わりたくない」気持ちが同居しています。変わりたくない気持ちは、どこかで「死にたくない」気持ちとつながっていると思います。そして、「死にたくない」という気持ちの多くが「自分を失いたくない」から発しているとも思っています。それは「自己保存本能(生存本能)」として説明されることが多いのですが、いまでは納得できないし、当たり前だとも思いません。「死」をどう考えるか(どうとらえるか)は時代によって変化するからです(アリエス『図説 死の文化史』)。「脳死」が議論されていたことを知っている人も多いでしょう。少なくともそれは「生物学的(医学的あるいは科学的)な死」ではありません。脳死が「議論」となったことそのものが、死が社会的なものであることを表しています。
多くの日本人は「死」を「無」だと考えます。その「無」は「ない(存在しない)」ということでもあるし、どこか「空(くう)」でもあります。「色即是空」の空です。「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず」(鴨長明『方丈記』、青空文庫)というのが「もののあはれ」「無常」として、日本文化のなかに流れています。
- ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ(紀友則)
- 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに(小野小町)
「花より団子」と思う人でも、桜の情景は目に浮かぶと思います。と言いたいのですが、「お花見」自体が問題視される昨今ですから、テレビ画面(スマホ画面)でしかお花見をしたことがない人も増えているかもしれません。セメントの護岸工事がされた川岸の桜にどのくらいの「あはれ」を感じるのか。1000年前と今とでは「死ぬこと」や「老いること」に同じ感情もあるだろうし、違う感情もあるはずです。
ソクラテスは裁判で「死刑判決」をうけ、それにしたがって毒をあおりました。判決から死ぬまでの間、ソクラテスは弟子たちに、「どうして自分は死ぬことを選ぶのか」「死んだ後はどうなるのか」を滔々と語ります。その内容には「無」「空」のようなものは感じられません。「語らなければならなかった」こと自体が、弟子たちとソクラテスの考えとは異なっていたということです。
また、ソクラテスが死刑判決をうけたということは、ソクラテス(やプラトン)などの思想は当時のアテネにおいては、けっして支配的なものではなかったということでもあります。
「アリストテレスは真空を嫌う」と言われるように、アリストテレスの論理では「無(非存在)」はありえません。アリストテレスにとって、存在とは「質料(ヒューレ)」と「形相(エイドス・イデア)」とが合体したものです。存在(主語)は、その性質(述語)でしかとらえることができません。非存在は性質(イデア)をもちえません。性質のない存在( be, εἰμί )は「存在しない・存在ではない not be 」のです。日本語ではこの二つは全く別ですが。
「0(ゼロ)」がヨーロッパに伝わったのは1202年です。ゼロは、仏教とともに「空」として日本に伝わったのでしょうが、「非存在 not be 」「空」「無」「ゼロ」がもつ意味は「文化」「時代」によって異なります。ですから「空集合 empty set」ということばで何を感じるのかも異なります。
高度成長期は、ある意味で素直に「進化・変化・改革・開発」という言葉を受けとることができました(明治維新以降でいえば「文明開花」)。いまでもその言葉は「魅力的」ですが、意味が異なります。「いくらでも成長できる」ということが「現実」でも「目標」でもなくなったからです。それは「理想」でもありませんし、「空想」ですらありません。日本語における「存在しない(〜がない)」と「存在ではない(〜でない)」との区別も曖昧になっていくのでしょう。
「1」って不思議な数です。日本語(特に名詞)には単数と複数の違いがありませんから、私はふだん気にしないので、改めて考えようとするととてつもない困難を感じます。「複数だと単語が変わる」こと自体がしっくりこないのです。
確率計算は、普通は「1以下(ゼロと1の間)」の答えが出ます。「絶対に無い(有り得ない)」と「かならず有る(おこる)」の「間」です。
「1」は「現実に有る」、アリストテレスの言葉で言えば現実態(エネルゲイア)です。それに対して「確率(的存在)」は「可能態(デュナミス、ラテン語ではポテンツィア)」です。前者は「エネルギー」という語として近代に復活し、後者は「ポテンシャル」という語となって伝わります。アリストテレスにとっては「(個々の)存在(エオン、あるいはト・ヘン、一者)」が重要ですから、「現実に有るもの(完全現実態、エンテレケイア、テロス・目的に達したもの)」に至るものとしての「エネルゲイア」「デュナミス」が取り上げられたのです。
「ヘン」について、アリストテレスは『形而上学』第五巻で、一章を設けて(第六章)説明しているのですが、よくわかりません。別の箇所ですが、
ところで、「一」というのは「存在」というのと同じように用いられる、(・・・)(アリストテレス『形而上学』1040b、邦訳旧全集第12巻 P.263)
(・・・)しかし「存在」や「一」さえもいまだ実体ではない。(同、邦訳 P.264)
では、アリストテレスにとって「1」とは何だったのでしょうか。よくわかりませんが、
けだし、一は数の始まりであり尺度であるから、(・・・)(同 1021a、邦訳 P.169)
どうやらアリストテレスは、「1」は「数」というよりも「単位(尺度)」と考えていました。だから数は「2」からだと。
(たとえば、二が個々の数の第一〔最も先〕のものであるとすれば、(・・・))、(同 999a、邦訳 P.74)
「〜すれば」が微妙ですが。
「有るもの」は「他のもの」があってはじめて「あるもの」です。
- ソクラテスは人間である。
- ソクラテスは白い。
「ソクラテス」(主語)は「人間」「白い」(述語)で説明されます。それらは「ソクラテス」ではありません。そしてそれは「人間じゃないもの」「白くないもの」があるということでもあります。単純にいえば「数は関係性」ということです。
アリストテレスは、どうにか「〜である」と「〜がある(いる)」の説明をしようとしているんだと思いますが、説明できていない気がします。
- Aristoteles is.
を
- Aristoteles is is.
と言わなければならないような。日本語話者にとっては当たり前で、だから逆に説明されると「わからなくなる」ようなことです。
ヤーキーズがいみじくも言ったとおり「一匹のチンパンジーは、チンパンジーではない」のだ。(ローレンツ『攻撃』、邦訳 P.148)
もし人間が、チンパンジーの存在を知らなければ、自分の素姓をもっと簡単に信じたろう。(同、邦訳 P.305)
この二つの文章は、違うことを言っています。前者は、個(部分)は社会(他者・全体)との「関係」で成り立っていること。後者は、「人間が猿から進化したなんて信じたくない」という「認識の障害」のことです。
他とは違うところがあってそれを認識することで知る、つまりAと非Aです。事象は余事象があって成り立つということですが、「存在(1)」からその片方を取り出すのが「確率」です。
他者がなくても自分は自分であるというのがアイデンティティ(セルフ、オート、自動)です。
それは「A is. 」を「A is is. 」と無理やり結びつけようとしている気がします。「AであるA」( A is A. )「AじゃないものじゃないA」( A is not not A. )です。
それはすなわち、「同じもの〔同じ属性・述語〕が同時に、そしてまた同じ事情のもとで、同じもの〔同じ基体・主語〕に属し且つ属しないということは不可能である」という原理である。(・・・)だがとにかく、これがすべての原理のうちで最も確かな原理である。(・・・)けだしなんぴとも「同じものがあり且つあらぬ」と信じることは不可能であるから、たとえ或る人々はヘラクレイトスがそう言ったと思っているにしても。(『形而上学』1005b、旧全集第12巻 P.101)
ある人々はこの原理〔矛盾律〕についてまでも論証を要求するが、これはかれらが教養を欠いているためである。というのは、なにについては論証を求むべきであるが他のなにについては求むべきでないという区別を心得ていないのは、教養のない証拠だからである。(同 1006a、邦訳 P.102)
ソクラテスは言います。
では、仮にそれが不断にわずかずつこっそり逃げ去って〔流転して〕いるとするならば、いったいわれわれはそれに向かって正しい名称で話しかける〔それを正しく規定する〕ことができるだろうか。第一に、かのものであることを、それから、そのようなものであることをね。それとも、われわれが言う瞬間に、もうそれは別のものとなり、身をかわして逃げ去っていって、もはや言われたとおりのものではないことが必然だろうか。(プラトン『クラテュロス』439、邦訳旧全集第2巻 P.167-168)
アリストテレスは「ヘラクレイトス大先輩(「万物流転」)が言ったと思っているとしても」と言いながら、結局逃げてるじゃないですか。「教養のない」私は「A is. 」と「A is is. 」が同じだとは思えないのです。日本語の「〜がある」と「〜である」は違いますから。
「私は私である(アイデンティティ)」というのは、「一匹のチンパンジー」と同じです。ファーブルは「道具は機能や本能を説明しない」と言って、標本でその生態を推計することを批判しました(『昆虫記』)。個体のチンパンジーを調べてもその社会生活はわかりません。私を調べてもその「アイデンティティ」は見つからないでしょう。
私と私の身体、私を取り巻く「他者」を含めた環境・状況、それらと「共にある」(共生・コンヴィヴィアリティ)ことの中にしか「アイデンティティ」は存在しないのです。
存在(「1」)と非存在(「0」)の「あいだ」が確率です。
ソクラテスの師匠ディオティマは、
『これおやめなさい、何ということを言うのです。・・・それとも、美しくなければそれは必然的に醜い、と思うのですか』(プラトン『饗宴』201e、邦訳旧全集第5巻 P.75)
とソクラテスを諌めます。この言葉は「では何%美しいのか」とか「何%醜いのか」ということではないと思います。
この言葉はソクラテスに響いただろうし、プラトンにもアリストテレスにも伝わっていたはずです。ディオティマの言葉も、その弟子たちの思いも後世の人たちにはうまく伝わらなかったのではないでしょうか。
後世の人はその「あいだ」に「アイデンティティ」を求めようとしました。「確率」もその一つの現れです。それが「ほぼ感染している」「ほとんどに効く」にまでつながっているように思いました。
「賭けで相手を出し抜くには? 」 確率論は,ギャンブラーからの問いがきっかけで, 17世紀フランスの大数学者,パスカルとフェルマーによって考え出されました。そして現在“,ある物事はどれぐらいの確率で起こるのか"を数字で示す手法として,あらゆる場面で活躍しています。
本書では,確率の面白さを,生徒と先生の対話を通してやさしく解説します。日常生活で判断に迷ったら,この確率論を使って合理的に判断してみては? ぜひご一読ください!

