
読んでからまる一年経ってしまいました。汗。そして刊行されてから10年です。う〜ん、複雑。そして申し訳ないことに、読み直さずに感想を書いています。感想というより私のSF体験談かな。
「生成AIで作成のわいせつ画像 販売した疑い 4人逮捕 全国初摘発」(NHKニュース)
どんな画像かはわかりませんが、捕まるということは性器(外性器)がはっきりと「見える」ということでしょう。便所の落書きも、「器物破損」ではなくて、「猥褻物陳列罪(わいせつ物頒布等の罪)」で捕まるのかなあ。
それを報道している「NHKニュース」でも「生成AIによる音声」が増えています。
近年、「AI美少女」や「AIAV(生成AIによるアダルトビデオ)」まで発売されています。AIAVは3DCGというより、実際の女性の映像にフェイク動画技術を使って、AI美女を合成したもののようです。ゲームCGとはちがって部分的な置き換えですから、巨大なコンピューターは必要ありません。摘発押収物も市販のコンピューターでした。もう「俳優」の必要のない時代が近づいているのかもしれません。制作者が自分の好みの美男・美女を作って、それが好きな(ありえない)場所で、好きな(ありえない)演技(行為)を行うようにプログラムすればいいのですから。
生成AI画像や動画をそれっぽく(つまり実物ではないように)見せるには、それが「絶世の(実際にはいないような)美女・美少女」であるよりは、むしろその「ぎこちなさ」です。「コンピューター(生成)・ボイス(声)」が「ロボット・ボイス」のような「宇宙人」のようなイントネーションのない声なのと一緒です。お金と時間さえあれば、「本物のような」ものを作ることもできるのですが。今のところ「本物ではない(作りもの・偽物である)」ということに「より」価値があるということでしょう(あるものがあるのは当たり前だから?)。そういう意味では、漫画やアニメは「実物じゃない」ということがその強みの一つです。小説もそうなのでしょう。「ありえないけど、あり得る」という感覚が、その価値です。
だとすればそこには、リアルじゃない世界をリアルとしてとらえていく、何らかの仮構があることになる。そう、読み手はありえない時間構成をとる物語の世界にも、現実世界と同じような時間の経過があると思いなしているのだ。(P.16)
それは、映画の「モンタージュ」の効果に喩えることもできる。「クレショフ効果」に典型的なように、まさに本物と価値づけられる映画も、複数のカットのつながりに意味と因果を読み取る、オーディエンスの思いなしと仮構に支えられている。物語の真正さにも、これと同じようなことがあてはまるのではないだろうか。(P.18)
先に進むまえに、一つだけ補足しておきます。写真や映像(あるいは録音された音声)を「本物の代理」と見なしうるためには、そのための学習(文化)が必要だということです。人間なら誰しも(あるいは犬や猫でも)写真に写って(映って)いるものを「あれだ」と認識するわけではないということです(マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』「10 なぜ非文字文化社会の人びとは、多くの訓練を受けなければ映画や写真を見ることができないか」旧邦訳 P.84〜参照)。
声は三次元の広がりを持ちます。そして「発生して」「消えてゆく」時間の要素をも含んでいます。私たちの身体は三次元です。それも一定の広がりを持つ「限られた空間」を占めています。ギリシャ彫刻はその限られた空間に占める身体を忠実に対象化(外在化)したものです。それに触れることもできるし、裏に回って見ることもできます。でも絵画はどうでしょう。それを三次元空間に占める「キャンバス」と捉えることもできますが、普通はそれ以上のものを見出します。睡蓮が描かれた絵は、「キャンバス」や「絵の具のかたまり」以上のものです。つまり、二次元に表示された三次元(あるいはそれ以上)と見做すのです。三次元のものをどう二次元にするのか、逆に二次元のものからどう三次元を見出すのかは文化的に決められます。あれほどすごい彫刻を作った古代ギリシャ時代の壺に描かれた絵は、現代文明から見るととても稚拙に見えてしまいます。それは文化が違うから、今どきの言い方をすれば「解読コード」が違うからです。「写真のような絵を描けない」というのは「技術(テクニック、アート)」の問題ではありません。ピカソやブラックのキュビズム、セザンヌの遠近法などは、近代遠近法を否定するものです。その近代遠近法は「写真」とは別物です。中国の皇帝は、西欧人が持参した王の(横顔の)肖像画を見て、「君の主人は顔が半分ないのかね」と言ったそうです(出典不明)。写真はどこにもっていっても「写っているものがわかる」と思っている人がいるかも知れませんが、それは間違いです。カラーの世界に生きている人が、白黒写真に何が写っているのかがわかるということ自体がすごいことで、それはその「解読コード」を持っているからにほかなりません。映像も同じです。そこには「動き」がありますが、今のところ二次元です。そこに映るアイドルは「イコン」と同じ「偶像」にすぎません。たとえそれが三次元になり、触ることができたとしても、それは「データ」にすぎません(最近docomoが開発した「フィールテック」は触覚をデータとして伝えます)。
一次元のデータ(=デジタル・数字、あるいは数字という観念)が実体をもち、権力を持つ文化も「特殊歴史的」なものです。同じ「解読コード」をもつ人たちの中だけで通用するもの(「言語ゲーム」)であり、そこに「普遍的なもの(真理)」が存在できるはずがないのです(本は字が読めない人にとっては、インクのしみのついた紙の集まりです)。本(文字、この場合はラテン文字、ほかに古典ギリシャ文字、ヘブライ文字)が神の世界を表すのを止め、テクストとなり、物質的な殻を脱ぎ捨ててデータと化したのが現代社会です。
人はデータ(情報)を求め、そのために自分もデータとなります。自分(消費者であり、オペレータであり、データである)を含めた全体が「(目的をもった)システム」として存在しているのです。
「物語論」は参考文献すら読んだことがないので避けたいのですが。全くの素人として恥ずかしげもなく書きます。
「神話」から「現代小説」まで、文学と言われるものはたくさんあります。ともかくも、英語の「 literature 」と共通する部分を「文学」としましょう。「 literature 」はラテン語の「 littera, litteratura (文字、筆記、文法、教養)」から来ています。文字で書かれたものがすべて文学ではありません。明治以降、普段使われるときには、それに「芸術的価値」のようなものが付け加わっています。「思想的価値」のような意味は日本語の文学には薄いですよね(「プロレタリア文学」もありますが)。「価値」という単語が日本でいつから使われ始めたのかはわかりませんが、「良い・悪いの感じを与えること・もの」くらいの意味にしておきます。
さて、文学に似たものでは、神話・伝説・説話・昔話・おとぎ話・民話・物語・小説などたくさんありますが、大きな区分でいえば「口承文学」と「文字文学」に分かれます。「語り継がれてきたもの」と「文字で書かれたもの」です。どちらも「ことば」が大もとにあります。
文字は「ことばの音」を「目に見えるようにしたもの」だと思われていますが、そう簡単ではありません。特に漢字などの表意文字は「読めない(発音できない)」ことがあっても、なんとなく意味がわかったりします。逆にアルファベットなどの表音文字は、「読めても(発音できても)意味がわからない」ということがあります。また「彼は時間だ He is a time.」という文があって、読めるし、単語もわかるけど「意味がわからない」ということもあります。
まあ、その話は別として、一応「音にして読むことのできる書かれた文学」のみを「文学」としておきます。
文学の中に「小説」があって、小説の中に「SF(サイエンス・フィクション、あるいはサイエンス・ファンタジー、・・・)小説」があります。そしてSF小説の中に「時間SF」があります。
小説が演じられると、あるいは演じるために書かれると「戯曲」になるし、SFが映画化されると「SF映画」になります。「SFマンガ」は「描かれたSF」です。
多くの時間SFは、現代に漂う空気と通じあっているように思う。それは、ある種の閉塞にはまり込んでいるような一連の感覚だ。時が、新たな未来を望む意識を裏切りながら、空転するようなムード。あるいは、すべてが停滞し凍結していくような感覚。そして、時間そのものが空無化していく終末の予感。(P.9)
口承文学では、「話し手・聞き手」だったものが、「小説」では「書き手・読み手」になります。でも、「口承文学には話し手と聞き手がいる」ということは、今は当たり前に思えても、いつでも当たり前なわけではありません。このような明確な分離が生まれたのは、新しいことだし、地域限定的なことです。前出の『グーテンベルクの銀河系』にこんな事が書いてあります。
本を読んだり、映画を見たりする場合の文字文化人の基本的な特徴は、受動的な消費者としての役割を完全に引き受けるということである。しかし、アフリカ人は、一人だけで静かに話の筋を追って行くという訓練をこれまで全く受けなかった。(邦訳 P.94)
「話すことは聞くことだ」とか「書くことは読むことだ」などということが「新たな発見」のように言われることがありますが、それはその二つが完全に分離した後に思うことで、本来は同時にしか存在できないことなのです。「黙読」が普及するにつれて、書くときにも「黙って書く」ことが普通になっていきました(紫式部は黙々と書いていたのでしょうか)。書くときにある言葉(音)は「心の中」のみに生じるようになりました。「ことばで考える」という行為は、とても「閉ざされた(閉塞した)」個人的な行為になったのです。コミュニケーションは、「個人(自分)の心のなかにある考え」を「ことばという道具」を使って「他人の心」に伝える行為だと思われるようになりました。「話すこと・聞くこと」「話し手・聞き手」が分かれて存在しないとするならば、こんな関係は生まれないのです。
ところで、
- あっ、冷たい。雨が降ってきたんだ!
と「思った」とします。みなさんは「日本語(あるいは外国語)」で考えますか。私は考えません。それを「後から」ことば(日本語)にすることはできます。でも、「そのとき」には「ことば(日本語)」で考えてはいないのです。「痛い!」と思ったときも同じです。私は変なのでしょうか。
書くときには、もちろん「ことば」にします。声にする時もことばです。でも、「ことばにする前のもの」はあるのでしょうか。それを「ある」と思ってもいいのですが、それをことばにせずに表現することはできません。
同じようなことが時間と空間にもいえます。
時間SFはタイム・トラヴェルとはじめとする特異な設定をとりながら、しばしば奇異な時間世界を構成する。いきおいそこには、この突飛な構成を説明し、整理しようとする独特な理解も登場することになる。実はここにこそ、現在の時間感覚とつながるポイントがある。そこでは、ある特定の時代状況や具体的な歴史の推移ではなく、時間一般のとらえ方や、時間なるもののあり方が語りだされていく。つまりそれは、時代的特殊事情から切断された、普遍的な装いをとったテクストだと言っていい。(P.12-13)
イリイチは言います。
ガリレオが最初に一時間幾マイルという発想、もっと正確に言えば与えられた時間に対する距離と考え、時間と距離を異なった、区別される実在として互いに関連させた時、彼はあるタブーを犯していることを知っていました。今と此処 hic et nunc は厳密に相互に関連し合っていたので、人々には、その一方だけを取り上げて語ることなどできなかったのです。しかしガリレオは時間を空間から切り離して観察できると主張したのです。(イバン・イリイチ『生きる希望』邦訳 P.305)
「時間」という単語も「空間(距離)」という単語も「速さ」という単語もガリレオ以前からありましたが、それらを別々に考察できる対象として区別することはなかったのです。「歩いて別のところに行って戻って来る」という空間的な思考を「別の時代に行って戻って来る」とすると時間SFになります。ガリレオ以前の「時空」とガリレオ以降の「時空」の考え方(感じ方)はまるで違うのです。現代物理学(相対性理論や量子論)は、ある意味ではガリレオ以前の「時空」の数学的再現です。また、「観察者(観察主体)と観察対象」という関係も揺らいでいます。
「話し手・聞き手」の分離は「生産者・消費者」の分離であり、「売り・買い」の分離です。私にはとても「不自然」なことに感じるのですが、それが分離されていないときのことを想像する(考える・感じる)のは難しいことです。でも、いまでもそれを分離しない人たちは地球上にたくさんいるし(その人たちのほうが断然多い気がする)、私の中にも(今の日本にも)その「不分離」は残っています。少なくとも、犬や猫はそう考えていないだろうと思います。植物も、鉱物も。
旧約聖書の『創世記』や『ヨハネによる福音書』、『古事記』には「世界(日本)の始まり」が書かれています。神が世界を作ったのだ、と。私は単純に「じゃあ、神を作ったのは誰なのか」と考えてしまいます。多分、神は作られたのではなくて「あった」(あるいは「居た」)のでしょうね。
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」(旧約聖書「創世記」新共同訳)
始めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。万物は言によって成った。(「ヨハネによる福音書」新共同訳)
夫、混元既凝、氣象未效、無名無爲、誰知其形。然、乾坤初分、參神作造化之首、陰陽斯開、二靈爲群品之祖。所以、出入幽顯、日月彰於洗目、浮沈海水、神祇呈於滌身。故、太素杳冥、因本教而識孕土產嶋之時、元始綿邈、頼先聖而察生神立人之世。寔知、懸鏡吐珠而百王相續、喫劒切蛇、以萬神蕃息與。議安河而平天下、論小濱而淸國土。(「古事記上巻 幷せて序」)
まず「あって」、そこから「成る・産む」。だから「ある、そしてないはない ἒστιν τε και οὐκ μὴ εἶναι 」パルメニデス)。
私はいつ「自分がある(いる)」と思ったのでしょうか。記憶にありません。今でも普段は忘れています。年齢とともに、体のアチラコチラが痛かったり痒かったりするので、昔よりも「自分がある」ということを気にすることが増えているかもしれないのに。気がついたときには、私は「い(居)」ました。私は母から生まれ、母はその母から、・・・、人間は単細胞動物から、細胞は無機質から、・・・、とフィルムの逆回しのように「ビッグ・バン」まで遡るのを想像することはできるのかもしれません。「その前」も考えている人(科学者)はいます。でも、そんなことを考えても(わかったとしても)「意味(=価値)」がないように思います。
文学についても、それ以前に「ことばとは何か」という大問題があります。ことばはどこでどのように生まれたのか。ことばが生まれる以前とは何か。わかりません。私が生まれる前、死んだあとのように。
大阪・関西万博が開会しました。
高度経済成長期、科学が「希望」を「夢」のある「未来」を作るとされていました。アポロが月に行き、「月の石」が万博(1970年)に展示されました(裏でアメリカは、ベトナムを空爆し、枯葉剤をばらまいていました。これも科学です)。
『鉄腕アトム』(1963年〜)、『鉄人28号』(1960年〜)、『宇宙少年ソラン』(1965年〜)。『ウルトラQ』(1966年)、『ウルトラマン』(1966年〜)から始まる円谷作品。『ゴジラ』〔1954年)は水爆実験で出来た突然変異でした。
当時の制作者の中には、まだ科学を「単純に正しい」ものだと考えて「いない」人がいたのです。お金のためにおもしろいものは作るけど、自分の考え方もどこかに入れるような。「どうして怪獣だからって退治しなけりゃならないんだ?」と「科学特捜隊」の隊員が呟くシーンもありました(『ウルトラセブン』だったかな)。
『ウルトラマン』はカラー放送だったんですね。私の家はまだ白黒テレビだったから、白黒のイメージしかありません。カラーテレビが出ると、それまでただ「テレビ」と言われていたものが「白黒(モノクロ)テレビ」と言われるようになりました。カラー写真が出て、それまでの写真は「白黒(モノクロ)写真」と言われるようになりました。白黒写真は、「色のついていないカラー写真」になったのですが、それまでは「真(真実性)を写す」ものでした。白黒映画や白黒写真は「ニセ物」ではなかったのです。
白黒写真に手書きで色を付ける技術を持っている人がいます。多分、膨大な色の記憶があって、白黒写真を見ると「色が見える」のでしょう。彼が、別の国の写真に色が見えるとは思えないのですが。
カラーテレビが出るまでは、私は白黒テレビに色がないと思ったことがないのです。カラー写真についても同様です。色は、真正性とは関係なかったし、見方を変えれば、私は白黒テレビや写真に色がないことすら気がついていなかったのです。もっというと私は白黒写真やテレビに色を見ていたのです。
犬は色盲だとかいうけど、私が小さい頃、白黒写真に色を見ていたのと同じことを犬はやっているのではないでしょうか。今、私は白黒写真に色を見る能力はなくなってしまいました。
日本アニメは世界ブランドになっていますが、SF要素を含んだアニメもたくさんあります。上記の他に、『宇宙戦艦ヤマト』(1974年〜)は友人が大好きでした。私は『エヴァンゲリオン』(1995年〜)が大好きでしたが、完全なオタク映画ですよね。毎作期待して観ていましたが、伏線回収するはずの最終作『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は、結局「自己完結」してしまいました。世間の期待が大きすぎて、急ぎすぎたんじゃないかなあ。未完のままの方がよかったかもしれません。
『機動戦士ガンダム』(1979年〜)は観たことがありません。
『うる星やつら』(1981年〜)は原作も大好きです。『ドラえもん』(1973年〜)もSFでしょうね。
時間SFのドラマを一つ。『不適切にもほどがある!』(2024年、宮藤官九郎)は「さすがクドカン」と言える作品で、めちゃくちゃ面白かったです。私が感じた面白さと、若い人が感じた面白さは違うと思いますが。
映画の世界でも、科学は夢を見せてくれました。初期の有名な作品は『月世界旅行』(1865年、ジュール・ヴェルヌ原作)です。『フランケンシュタイン』(1816年)も映画化され(1910年)、オカルト的な要素も混ざり込んできます。そこには「聖と俗」「神と悪魔」といった対立があります。「真正性」ではなくて「神聖性」が問題とされます。「悪(悪魔)」は人間のもう一つの面(顔)ですから、神から科学(法則)を奪った人間は、その技術を使って悪魔の所業を行うわけです。『オーメン』『エクソシスト』などのオカルト物もたくさん作られました。
私は小さい頃から考古学が好きでした。ピラミッドには、今でも行ってみたいと思っています(入れるのかなあ)。『インディー・ジョーンズ』(1981年〜)シリーズは面白かったなあ。インディが正義かどうかはわかりません。むしろ考古学のためなら、嘘でも詐欺でも恐喝でもやりかねません。悪はナチスの姿で登場してきます。悪と正義が出てきて、最後な正義(インディ)が勝ちます。
正義と悪が戦う代表は『スター・ウォーズ』(1977年〜)でしょう。『マトリックス』(1999年〜)もそうかなあ。『ターミネーター』(1984年〜)は全部観ているはずです。ロボット軍が、未来のロボット軍の強敵を、過去に暗殺ロボットを送り込んで、その強敵を生む前の母親を殺そうとする話です。
私が一番好きなSF映画は、『2001年宇宙の旅』(1968年)です。派手な戦いもない、静かな(宇宙空間そのもの)映画ですが、キューブリックのこだわりがすごいです。どこも手を抜いていません。当時のVFX(視覚効果)は、まだCGが使われていません。映像をはめ込んだり、イラストを動かしたりして作っています。コンピュータ機器の画面も手書きのアニメーションです。
高校生の時、下宿の大家さんに頼んでテレビ初放送をビデオに録ってもらった記憶があります。大学生の時には、普段は3本立てで数百円の汚い映画館が『2001・・・』は一本でやっていました。私は弁当をもって、一日に何回も観ました。当時は入れ替えなどありませんでした。あったとしても、そんなに多くのお客がいたわけではありませんが。大学を卒業してからも、DVDで、時々観ています。いまの「ほとんど」CG で作られた作品よりも真実味があります。
あと好きなのは『トータル・リコール』(1990年、原作はフィリップ・K・ディックの『追憶売ります』)、『ブレードランナー』(1982年、原作はフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』、2017年に続編『ブレードランナー 2049』)も大好きです。監督はリドリー・スコット。『エイリアン』(1979年〜)の監督でもあります。
SFマンガもたくさんあります。
吾妻ひでおは、デビュー当時はドタバタラブコメを描いていたのですが、SFが大好きで、めちゃくちゃ読んでいます。コミケの作品まで、なんでも。吾妻自身もマイナー紙やコミケに作品を描いています。
私が吾妻を好きなのは、同じロリコンだからです。「白い靴下」が好きなのです。ルーズソックスを発明したのは吾妻先生だと私は思っています。
吾妻が描いていた女の子は足首が細くて、本人が「これじゃ、手塚先生だ」と言ったくらいです。でも手塚作品は、足首が細くて太ももが太い女の子で、それが魅力的なお尻となっています。吾妻も女子高生の太ももが好きでしたが、細い足首に白いソックスでは物足りなくなったのでしょう。足首を大きめにし(お尻は小さめ)、ブカブカの白い靴下を履かせたのです。そのふっくら感とルーズ感が「ロリ感」を醸し出して最高でした。
彼のSF作品は、SF小説のパロディー、あるいはそれを下敷きにしているものも多いのですが、それは一コマから数コマで、それだけで一作品を作ったことはないかもしれません。
しかし、なんといってもおもしろいのは、彼独自の不条理作品(『不条理日記』1978年〜)です。そこには、継起性や因果関係すらないのです。簡単に言えば、分けのわからない世界です。次に何が起こるのかわからないのです。
ハチャメチャなSF小説だって、ちゃんと終わり(エンディング)があります。種明かしみたいな「世界の説明」もあります。吾妻の作品は、それが(そうすることが)難しいのです。説明するような因果も、伏線回収するような継起もないのですから。「不条理マンガ」と言われる所以です。それを一つの「ギャグ漫画」として成立させているのは、彼の天才です。彼自身がどうしても終わらせられず、遠くを見ている自分自身の姿で終わったことが何回もあります。評価の分かれるところでしょう。不条理作品は高度成長期の終焉とともに、科学、あるいは「論理」に対する希望が失われるたことと繋がっている気がするのですが。
そこでの主人公(たいていは吾妻本人)は、そのへんてこな世界に理由付けを求めていないように思います。すべてを受け入れているように見えるのです。その不条理な世界と戯れていることもあるし、ただあるがまま、なるがままに笑っていることも多いのです。もがいているときも、やはり戯れているようです。それがギャグ漫画たるところでしょう。
スランプになって(なるべくして?)放浪します。たまたま職場の社内報に書いた四コマ漫画で吾妻だとバレてしまいます。その放浪を描いた『失踪日記』(2005年)が売れ、仕事も来るようになりますが、アル中に。『失踪日記2 アル中病棟』(2013年)にその経験が描かれています。でも、もう普通に線を引くことも難しくなっていました。最後は食道がんで死亡。
日本の漫画家をひとり選べと言われたら、手塚さんもすごいけど、私は吾妻を推します。
私のSF経験を書いてきましたが、先日録画してあった古い『日曜美術館』でモネをやっていました。「積みわら」「ルーアン大聖堂」(1890年代)や「水連」(19世紀末〜20世紀初頭)などの連作で有名です。光の変化を捉えようとした画家と言えるでしょう。でも思うのは、油絵一枚を描き込むには時間がかかります。描き始めと描き終わりでは光は変化しています。朝描き初めて、完成は夕方ということもあるでしょう。そうすると、描いているのは「印象」、というより「心象」に近いものになります。晩年のモネは、視力がほとんどなかったそうですから、そういうことも関係しているのかもしれません。モネにとって、「対象」と「光」はどんな関係にあったのでしょうか。
画家の山口晃さんは別の『日曜美術館』で、「日本の絵巻などは見えるものを描いたのではなく、頭の中の見えたものを描いた」と言っていました。それは模写ではなく、「描く対象そのもの」なのです。共通するものがあると思います。
ただ、それは「対象そのもの」というよりは、西欧に流れ続ける「睡蓮の美しさ」「睡蓮のイデア」に近い気がします。「睡蓮の美しさ」よりも「睡蓮の絵の美しさ」に近い気がするのです。「美しさ」であれば、具体的な物である必要はありません。
モネは睡蓮にこだわりましたが、当時のヨーロッパでは抽象画が始まっていました。キュビズムや未来派の登場です。時間そのものを描こうとする人たちも現れました。エティエンヌ=ジュール・マレーの連続写真から発想を得た一連の作品です。多くの作品がありますが、デュシャンの『階段を降りる裸体』(1913年)が好きです。
日本には「浦島太郎」という「タイムスリップ物」があります。『イソップ寓話集』から『ペロー童話集』『グリム童話』など、世界中に様々な文学があります。
有名な『竹取物語』は童話なのでしょうか。
神話・伝説・説話といった古伝承の世界は、ある部族氏族の集団の文学であった。これに対して小説は、脱集団の個性による密室の文学といわれる。それでは物語はどうか。なかば集団の文学のようでもあり、なかば個人の文学のようでもあるとしかいいようがないであろう。(鈴木一雄「物語文学の形成」日本古典文学全集8、小学館 P.8、『竹取物語』などの物語文学についての解説)
『創世記』や『古事記』が「集団の文学」だと言われると、そうだなあ、と思います。小説が「個性による密室の文学」だと言われると、そう思うのは「個人(つまり現代の私)」から見ているからなんじゃないかと思いうのです。平安時代の人や奈良時代の人は、そうは思ってなかったんじゃないかと。個性はありました。でも、それは「集団」に対立する「個(個人)」ではなかったからです。まるで無から生まれたような「自分(私)」、自分が作り出したような「日本語」、自分が作り上げたような「世界」。そんなものは存在していなかったと思うのです。つまり、西欧と違って、「私がいること」と「私であること」が混同されるような、そんな世界ではありませんでした。
旧約聖書の時代も、新約聖書ができた頃も、パルメニデスやプラトン、アリストテレスがいた古代ギリシャも、そんな世界ではなかったのです。アテネ人ではないアリストテレスは「存在」を考えたのです。「アテネ人がいる」ということと「アテネ人である」ことの違いを意識せざるをえなかったのです。プラトンにとっては、アテネ市民はアテネの細胞、同胞(はらから)であって、他のアテネ市民との違いは「手と足の違い」のようなものだったのです。アテネの民主主義は「手と足の民主主義」でした。だから「僭主制」(いわば頭による政治)を良しとしたのです。ソクラテスが判決に従って毒をあおって死んだのも同じことです。でも、アリストテレスは手と足の差異を考えざるをえなかったのです。
『竹取物語』は「いまはむかし」で始まります。この始まり方は『今昔物語』で有名です。「物語る」ときの常套句ですが、どういう意味なのでしょうか。「むかしむかし」とは違うのでしょうか。「そういうものだから、どうでもいいじゃないか」と言われそうです。ただ、私はそこに「時間感覚」があると思うのです。「今じゃなく、昔(過去)にこんな事があったんだよ」を、「今は関係ない」と捉えますか。それとも「昔のことだけど関係ある」と捉えますか。「関係がある」というのは「事実同士は何らかのつながりや因果関係がある(バタフライエフェクトのような)」という意味じゃなく、「今だって(自分たちにだって)起こりえる」という感覚です。
私は、「今がその昔だと思ってください(今はその昔なんですよ)」という解釈もできると思います。
昔話や神話・民話を含む「物語」は、「すでに(過去に)」できたものです。それは、語り手(演じ手)によって「現在」に再現されます。書かれたものであっても、読み手はそれを「現在のもの(自分のこと)」と捉えることで成立します。しかし、近代西欧の歴史観はそれを許さないところがあります。「過去は過ぎ去った」のであり「現在は過去を乗り越えた(レベルアップした、進化した)もの」だからです。「過去の否定の上に現在は成り立っている」とヘーゲル的に言ってもいいかもしれません(だから、神話や昔話の地位はどんどん落ちていきます)。でも、物語の力はそれを乗り越えます。その現れのひとつが「時間SF」でしょう。
英語では「 once upon a time 」で物語が始まります。そして最後は「 ever after 」で終わります。つまり、お話は「今でもどこかで続いている」のです。
ランダムなスリップという撹乱はあっても、人生の枠組み全体が崩れることはないという確信があるからだ。(P.41)
人生も、タイムスリップする主人公自身も変わらないのです。そして読者も変わりません。つまり「アイデンティティ」が読み手(聞き手)にあるということです。本の始まりから終わりまで、主人公のアイデンティティは変わらないし、読者のアイデンティティも、読み始めてから読み終わるまで変わりません。本当は変わっているのです。読み始めたときの朝日が、読み終えたときには夕日になっているように。お腹も空いているかもしれません。
文字テクストの線条性は、避けがたく読みを縛る。けれども、読みの線条性と連続性を、語り出される世界のありようと取り違えてはならない。時間SFでは、物語の時間的な構成は、しばしば線状的でも連続的でもない。だからそこでは、問題の意味的な秩序が、時間的順序にしたがうものではなく、論理的な相関構造であることが浮き彫りになる。(P.160)
語り出される世界とは別に、主人公の心は直線的に一方的に流れ、主人公は「経験のなかで」成長(変化)していきます。時間が逆行しても、主人公の心は読者の心と同様に「経験を積み重ね」てゆくのが一般的です。数十年前の子供時代の姿になっても。西尾維新の「忘却探偵シリーズ」(2014年〜)の主人公、掟上今日子は記憶が一日でリセットされます(最近、私は数分で記憶がリセットされます)。経験の積み重ねがないのです。読者は主人公の視線で見ているのではありません。隠館厄介などの相棒役の視線で事件を見ているのです。掟上今日子を見守っているのです。いつか彼女の時間が進んでくれるのではないか、つまり自分を覚えてくれているのではないかと。そこには変わっていく登場人物と読者、そして変わらない主人公がいます。変わらない自己、それは究極のアイデンティティです。
アイデンティティは、ラテン語の「 identitas(同一性、同じであること)」から来ています。アリストテレスの『形而上学』の「 ταυτότης(同じ)」のラテン語訳です。「 ταὐτά 」の単数中性形冠詞なしは「 αὐτό 」です。英語でも「 auto 」があります。「それ自身」くらいの意味でしょうか。「脱集団の個性」は、近代的西欧自我( ego )から思い描かれる「自己」です。それを平安時代に投影するということこそが「エゴ」だと思います。平安時代の心を理解することは難しいことですが、「同じではない」ということは、令和に生きている昭和世代の人にはわかるのではないでしょうか。『不適切にもほどがある!』で宮藤官九郎が見事に描いたのはその「差異」です。若い人(マスコミでは「令和世代」なんて単語を無規定に使っていますが)に昭和世代の気持ちをわかってもらおうというのではありません。「違う」ということを知らせるのが大切なのです。違いを強調したいのではありません。戦後の民主教育を受けた昭和世代が鼻で笑いながら聞いていた「人類みな兄弟」が嘘であることは、若い人は生まれたときから知っています(だから「親ガチャ」という言葉も頭ではなく、体でわかっています)。
この人間の自己否定とも言えるような世界が、なぜ物語として表現され、読み継がれているのだろうか。そこには、一九八〇年代以降の文化意識の状況と、怪しく共鳴しあうものがあるのではないだろうか。もちろんそれは、たんに実在的現実と物語との一致という話ではない。そうではなく、問題とすべき共鳴は、物語が喚起する想像的印象と、現実世界を生きる者の心情的な感覚との間に生じる。つまりは、事実に関する客観的真理ではなく、あくまで想像的な意味づけの場面で、決定論的な世界観は現在の時代意識と通じあっているのだ。
では、この共鳴の焦点はどこにあるのか。このことを考えるさいに重要なのは、決定論的な物語に潜む神的な次元だと思う。あるいは、現代における人間の救済への求めと言ってもいい。(P.99-100)
IBMが「IBM PC」を発表したのが1981年。アップルが「Machintosh」を発売したのが1984年です。ちょうどイリイチがいう(第二の)「分水嶺」の時代です。インターネットの元となるARPANETはアメリカ国防総省が作ったものです。そのプロトコルがTCP/IPに切り替えられたのが1983年(IPはInternet Protocolの略)。そのIPアドレスが個々のパソコンやスマホに割り当てられることによって、世界中の情報が手元でいつでも見られるようになります。図書館に行くこともなく、足を使わずに自宅で(自分の部屋で)情報を得ることができるようになりました。その情報は実体からも本(文字・テクスト)からも独立したものです。足(肉体)からも分離した、完全に観念的なものです(本が「テクスト」になったのが第一の分水嶺)。
(十二世紀・・・引用者)道具とその使用者との区別は、この時代の特徴であると思うのですが、この時代は一九八〇年代に終わったと、わたしは主張したいのです。手と道具を操作する人間と、その仕事を達成する器具との間には距離わたしは遠位性ということばを使いますがあります。この遠位性は、ハンマーと人間、あるいは犬と人間によって握られたリードが一つのシステムとして考えられるや、ふたたび消滅します。もはや、オペレーターとデヴァイスとの間に距離があるとは言えません。なぜなら、システム理論に従えば、オペレーターはその中で彼が操作し規則付けるシステムの一部だからです。(イリイチ、前掲書 P.373-374)
日本で「マニア」が「ヲタク・おたく)」と呼ばれはじめたのは1980年代です。それが現在ではマイナスイメージではなくなりました。むしろ「◯オタ」や「推し」が「あり方」だと思われています。「ニュー・アカデミズム(ニューアカ)」や「ポストモダニズム」が流行したのもこの頃です。
大澤真幸は、このことを「虚構の時代」から「不可能性の時代」への変化と捉えています(『不可能性の時代』岩波新書)。イリイチはそれを「無能力感」と呼びます(前掲書 P.306)。
大澤は、虚構の時代に排除(不可視化)した「第三者(神)の審級」が、不可能性の時代に「こっそりと回帰してくる」と言います。「神的な次元」に「救済を求める」のです。
大澤は、「カフェイン抜きのコーヒー」(ジジェク)になぞらえて「他者性抜きの他者」を求めると言います。
私とあなた(他者)との「ことばの違い」は、津軽弁と標準語との違い、日本語と英語の違い、と「違う」のでしょうか。「私やあなたが使うのも、津軽弁も、同じ日本語だけど、英語との違いは「次元」が違う」と言われそうです。
アリストテレスはゼノンのパラドクスを「次元が違う」ということで説明しています。その部分を引用します。
もし一それ自らが不可分割的なものであるならば、ゼノンの要請によると、それは全く存在しないことになる(中略)いったいどうして大きさが、一つのあのような、あるいは一つより多くのあのような〔不可分割的な〕ものから、生じるというのか、これはたしかに問題である。それはあたかも、線は点から生じると主張するようなものだから。(『形而上学』1001b、邦訳旧全集第12巻 P.84-85)
目に見える「個物」は三次元のものです。一次元や二次元は可能態(ポテンティア)として存在するかもしれないけど、現実態(エネルゲイア)として存在するわけではありません。それらは「観念(イデア)」に属するものです。四次元を表したといわれるミンコフスキー空間は、ガリレオ空間の拡大に過ぎません。ガリレオが区別した時空を「別々のまま」「統一したかのような」ものです。あたかも観念と実在を統一したかのような。
時間SFにミンコフスキーの時空を見るとすれば、時間SFはガリレオ以前への回帰と言えそうです。ガリレオ以前と以後に共通するものは、西洋人のものの見方です。世界を俯瞰で、つまり「神の視点」で見るということです。西欧人は過去や未来が見えると思っています。少なくとも日本人より身近に感じているのではないでしょうか。天から世界を見ることによって、現在・過去・未来が存在します(見えます)。過去は文字(データ)として、未来は「予測(あるいは確率・期待)」として。
次元の違いと言われるものは、「ものの見方」の違いです。「私・あなた・方言・共通語」と「英語」の違いは、ものの見方の違いです。
西田幾多郎が、過去と現在と未来の「絶対的矛盾的自己同一」と言うとき、そこには神 God の視点はありません。しかし、80年代以降(イリイチのいう「システムの時代」)に「自我に目覚めた」人は、当たり前に「 ID とパスワード」を入力します。昭和世代は迂闊(うかつ)に「口座番号」を入力しちゃうのですが。
テクストは、たしかに語り出される世界を、想像させる。けれどもテクストが織り上げる世界は、意味と観念からなっている。つまり、それ自体としては理解と判断しかなく、感覚と呼べるような実質は含まれていないということだ。時や速度や変異といった概念をもい浮かべてもいい。そこには、五感のどれかとして受け取られるような何かは含まれていない。にもかかわらず、時間SFが織り上げる意味と観念から、なぜ、どのようにして時間的な感覚が湧き立つのだろうか。(P.211)
私たちは、日常のありふれた体験のなかでは、人の動きを、何かをしている行為ととらえる。歩く、倒れる、しゃべる。実はそのときには、身体の具体的な動きは、意識のうえでは消極化され、行為という意味的な整理の下に埋もれてしまう。それに対して、スロー映像を見る場合には、逆に行為の意味は消極化され、さまざまな部位が位置を変え、角度と形を変容させる事物の動きに関心が集中する。(P.217)
アリストテレスが四原因説を唱えたとき、そこには印欧諸語の主語・述語構造がありました。キリスト教が西欧を覆ったあとも、神(第三者)がいる間は人間は「神の意志」の下にいました。でも、神が不在になったとき、人間は神となり、神の意志は人間の意志になりました。「意志的行為の優先化」は、神の優先化(絶対性)ではなく「人間の優位化」になりました。神は文字(本、 Bible )として存在していましたが、本は(道具としての)テクストになってしまいました。そのテクストは、システムの時代に「データ(情報)」に変わりました。情報は「第三者」として「第三者の審級」を行っているように見えます。何かといえば「第三者委員会」を作り、有名(署名付き)のメディアではなくSNSの匿名投稿が力を持つ社会です。
考えてみたいのは、文化のうちに潜む相対主義的なムードにほかならない。異質性を孕んだ多様な文化が林立し、社会の価値的基礎がゴチャゴチャになると、人々は規範的な価値の主張を保留しがちになる。それは、世代間で慣習が衝突したり、恋愛やセクシャリティをめぐって身近な人との間に隔たりが生じる場合にもあてはまる。私たちは、「大きな物語」だけではなく、文化を構成する「小さな価値」についてさえ、しばしば対立の決着をつけることを回避し、倦怠のなかでやりすごしている。現代文明には、自らの価値基準を他者にぶつけ、社会に対して正当化することを、うやむやに回避しようとする空気が漂っているように思う。(P.145)
いつからか「多様性」は「ダイバーシティ」と変わりました(新ヶ江章友によると日本で「ダイバーシティ」が市民権を得るようになったのは2010年代半ば。『多様性との対話』青弓社 P.37)。「男女平等」が「ジェンダー平等」にすり替わったのはいつでしょうか。対立を避ける日本人気質は、「島国根性」から「忖度」に変わりました。
そのつどの言説がずっと後のテクストと結びつくまで記憶されていること、はるか以前の言説が想起されてつなげられること。当たり前のことだが、この読みの持ち分なしには問題の因果は実現しない。もちろんそれは、パラレル・ストーリーばかりではなく、直線的な経緯をなぞるテクストにもあてはまる。すべての物語が、ある意味でタイム・トラヴェルであることを想起されたい。それは、読みのあり方についてもあてはまるのだ。(P.171-172)
読みについても、語りについてもいえることですが、ある単語(音節)から始まって、その文の終わりまでの流れは言語構造(統辞法)です。「言語が思考を作る」とか「思考が言語を作る」ということではありません。主体と対象という、その分離(対象化行為)が問題なのです。時間と空間の分離のように。空間と同じように、同じ時間・別の時間に移れる(戻れる)という発想そのものが分離から生まれてくるのです。日本の「昔話」は「今は昔」、つまり自己の存在をその場所・時間に置くことで物語が生まれます。行為として「置く(能動)・置かれる(受動)」文化ではなく、物語の世界に「居る」のが日本文化です。
古今和歌集
印欧諸語における主体から対象に向けての語の並び。読みにおける本のテクスト化。テクストとしての本は、読み手が(書き手の、あるいは語られる世界の)思考の流れとして読み込みます。文字文化は「文字がある文化」ではなくて、「文字が前提とされる文化」です。そこでは言語構造(文法)はそのまま思考方法とされます。文法が論理を表わします。言語は自然から分離し、自然に優先します。同時に人間は自然から分離し、自然に優先します。
西欧にイコンや宗教画があったように、日本にも仏像や絵巻物がありました。文字は仏教とともに漢字で流入してきたと考えるのが一般的です。
日本における、イリイチのいう「第一の分水嶺」はどこだったのでしょうか。もちろん、ある必然性もないし、あったとしても同じ形態をとっていないでしょう。
道具と手の分離。これはわかりません。書物がテクストになったのはいつでしょうか。文字が仏の世界を表す(そのためには漢字の他に梵字もあった)のではなく、作者の心を表すようになった時期です。平安時代の物語文学が「部族氏族の集団の文学」であったか「脱集団の個性による密室の文学」であったかに関わってきます。これがわからないのです。
大河ドラマ『光る君へ』では、紫式部は自分の「思い」を『源氏物語』として書いたように描かれていました。そうなのかもしれません。では『古事記』には太安万侶の「思い」は入っていなかったのでしょうか。現代の小説は「脱集団の個性による密室の文学」だと言い切れるのでしょうか。
ここまでに書いてきたように、私は「個人・自己・エゴ・アイデンティティ」という西欧の基準で日本文学を評価(分類)すること自体がナンセンスだと思います。
ただ、形態だけなら言うことは可能かもしれません。本がテクストになるときに、文字は「本という実体」から独立したものになりました(だからグーテンベルクの活版印刷が可能になった)。同様のことは、漢字という文字が持つ意味を剥奪することです。それが「仮名」です。「名をかりたもの」です。つまり、音をかりたのです。意味のない表音記号としての仮名は仏教からも、政治からも抜け出すことになります。
天皇の名前で編纂する勅撰和歌集としての古今和歌集が、そしてかけがえのない日本独特の文字として、「平仮名に正当性が与えられた」のだった。まさに「その時、歴史が動いた」のである。ずっと後代の日本語文法なら、漢字は辞(内容語)を、平仮名は詞(機能語)を表すと言えるだろう。その意味では「最後の国学者」とよばれた山田孝雄の構文法や、「てにおは」など平仮名で書かれる機能語を「心の声」と呼んで内容語と区別した鈴木朖の文法を遥か以前に用意したものとも言えるだろう。(金谷武洋『述語制言語の日本語と日本文化』P.48)
いわゆる「国風文化」は時平の発案した「古今集」から始まり、書院造りの建築、十二単衣の衣裳、源氏物語や枕草子に代表される平安文学といった実に様々な分野での日本独自の文化が花開いたのであった。その意味で、905年に時平が発案、成立させた古今集こそは『中国からの日本の文化的な独立宣言であった』とゲストに呼ばれた平田耿二(上智大学名誉教授)は結論付けているが、私も賛成である。(同書 P.49)
それが「日本型の個性」を作ったかどうかは別として、形式上は「心の声」を表現することが可能になったのです。それをイリイチのいう「第一の分水嶺」と考えてもいいかもしれません。
しかし、その後の展開は異なります。そこから西欧的な自我が生じなかったからです。そこには言語構造の違い、ものの見方考え方、それに伴う自然のあり方の違いがあります。それ以上は私にはわかりません。
第二の分水嶺は、日本を含めたいわゆる先進国がほぼ並んで乗り越えたように見えます。でも、そこで見えている景色は、やはり違うはずです。その違いは「男女平等」を「ジェンダー平等」に、「自己同一性」を「アイデンティティ」に、「多様性」を「ダイバーシティ」に、「国民総背番号制」を「マイナンバー」に変えることで見えなくなっています。商品経済(資本主義的生産様式)の中にいるのだから、そうなっていくのです。
私は英語で読むことはできませんが、日本人がどう時間SFを読むのか、欧米人がどう時間SFを読むのかはどこか違っているはずです。その違いを見つけたときに、「不可能性の時代」における「神的な次元」の回帰の日本における意味がわかると思うし、そこに日本型の「希望」が「可能性」として浮かび上がってくると思います。
英語文法で日本語を研究したり、欧米の哲学用語や社会学用語で日本の社会を分析したりすることが持つ危なさに、私は気をつけたいと思っています。
SF体験の話が中心になってしまいましたが、話す相手もいないし、だんだん忘れつつあるので、書かせていただきました。私にも「自我の喪失」を恐れる程度には「西洋的自我」があります。
[著者等]
著者について
1957年生まれ。和光大学表現学部教授。専攻は社会理論、社会思想史。著書に『SFで自己を読む』『SF映画とヒューマニティ』(ともに青弓社)、『響きあう異界』(せりか書房)、『消費・戯れ・権力』(社会評論社)、訳書にダニエル・ダヤーン/エリユ・カッツ『メディア・イベント』、マーシャル・マクルーハン/ブルース・R・パワーズ『グローバル・ヴィレッジ』、リチャード・ダイアー『映画スターの〈リアリティ〉』(いずれも青弓社)など。
