
古本屋の100円コーナーで見つけました。買ったあとで全7巻だと知りました。2巻ものなら「上・下」ですね。
「 Eventyr og Historier 」の訳で、デンマーク語で「お話と物語」の意味だそうです(初版訳者序)。「 Historier 」は「歴史」じゃないんですね。
「お話」の第一集が出たのは一八三五年、アンデルセンが数え三十一歳の時であります。それから一生を終えるまで四十年というもの、アンデルセンは童話を書きつづけたのでした。(初版訳者序、第一巻 P.3)
私が見たことのあるタイトルは、第一巻「親指姫」「人魚姫」、第二巻「みにくいアヒルの子」「雪の女王」「赤いくつ」「マッチ売りの少女」です。ディズニー映画や子供向けの絵本・アニメ等で有名ですね。
「雪の女王」は『アナと雪の女王』のストーリーと同じではありませんが、
『アナと雪の女王』(アナとゆきのじょおう、原題:Frozen)は、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ製作の2013年のアメリカ合衆国の3Dコンピュータアニメーションミュージカルファンタジー映画。ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話『雪の女王』からインスピレーションを得た、53作目のディズニー長編アニメーション映画。(Wikipedia)
だそうです。
どの作品も、映像が自然に浮かんできます。多分それは原作の力であるとともに、訳者の力量でしょう。ただ、ディズニー映画や日本のアニメのイメージで浮かんできてしまいます。それはそれでかまわないのですが、書かれたのが19世紀の北欧(主にデンマーク)であることを忘れると、変な感じがしてしまいます。
描かれている自然がいまの日本では失われようとしている(忘れられようとしている、という方が正確ですが)のはもちろんのこと、街の様子もいまとはだいぶ違います。
「マッチ」を見たことのない子供もいると思うし、「マッチの擦り方(火の点け方)」を知らない(できない)子供は多いでしょう。「火を点ける」は「スイッチをオンにすること」になりつつありますから。
「裸足の子供」は20世紀前半の日本にもたくさんいました。少なくとも、子供にとって(大人にも)「はだし」というのは「非日常」ではなかったのです。履いているとしても、わらじや地下足袋、そして下駄です。「靴」は20世紀後半でしょう。
舗装されていない道路や「暗い夜」も、つい最近まで「当たり前」のものだったのです。「古い街灯」の街灯は電気で光っていたのでも、ガス灯でもありません。それでもアンデルセンは言います。
この私たちの時代は、いろいろ欠点はありますが、さっきまで顧問官がいた時代にくらべれば、はるかにすぐれています。顧問官のこの考えは、たしかにもっともではないでしょうか。(「幸福の長靴」1、P.179)
ダーウィンの『種の起源』の初版は1859年です。つまり、ダーウィンの発想は「突飛」なものではなくて、広く当時のヨーロッパに流れていたのでしょう。
まあ、ダーウィンにしても「無から有が生じる」というものではありません。キリスト教とアリストテレスの折衷のような気がしますが、それが近代西欧的思考であることは間違いないでしょう。
けれども、そんな心配には及びません。魂というものは、自分だけで、何かをするときは、たいへん賢いものですから。魂がへまなことをやるのは、みな肉体のせいなのです。(同、P.186)
中国という国では、あなたもご存じのとおり、皇帝も中国人なら、おそばに仕えている人たちも、みな中国人です。(「ナイチンゲール」2、P.90)
読者を笑わせようとしたジョークでしょう。
でも、私はドキッとしました。近代国家の話ではなくて、中国では「皇帝もそれ以外の人も中国人」なのでしょうか。
「天皇の人間宣言」(1946年1月1日)が頭に浮かんだので、ググってみました。本文を実際に初めて読みました(Wikipedia)。まあ、「人間宣言」と取れなくもないですが、むしろ「国民」と「朕」を区別しているように思えます。
実際いまでも天皇(皇族)は住民票もなく、「日本国民」とは言えません。中国でもヨーロッパでも同様ではないでしょうか。「民(たみ、 people )」ではないから「皇帝」であり「王・貴族」なのであって、どっちでもあるということはないのです。
ちなみに「朕」は「私」や「あなた」「彼」「彼女」と同様に、印欧語文法でいう「代名詞」ではありません(英訳では「 Us 」となっています)。
童謡の『赤い靴』(1922年、野口雨情作詞・本居長世作曲)だと思っていましたが、全然違いました。アンデルセンの童話「赤いくつ」では、裸足の貧しい女の子(だけどとてもかわいい)のために、靴屋のおばあさんが布で赤い靴を作ります。おばあさんの死後、女の子(カーレン)は形見分けでその靴をもらいます。
そしてはじめてそれをはきました。ほんとうはそんなことをしてはいけなかったのですが、ほかに、はくものがなかったのです。(2、P.268)
どうして「いけなかった」のかがわかりません。
「お年寄りの奥様」に見初められて養女となるのですが、その靴は燃やされて、別に赤いエナメルの靴を買ってもらいます。その靴を履いて何度か教会の儀礼に参加するのですが、その場合は「黒い靴」を履くべきものだったのです。カーレンは「赤いくつ」に魅了されていました。「赤いくつ中毒(依存症、アディクト)」のような状態です。靴は勝手に踊り始めて止まらなくなります。脱ぐこともできません。カーレンは「首切り役人」に頼んで、両足を切ってもらいます・・・。クリム童話の「シンデレラ」のような残酷な話です。最後は天に召されて、
そこでは、もうだれも、赤いくつのことをたずねるものはありませんでした。(2、P.278)
何を伝えたい話のか、私にはわかりません。教会の坊主は注目するだけで、「靴を代えてきなさい」と言わないのですから、それは悪いことだったのでしょうか。
私は童謡の『赤い靴』が嫌いです。短調の暗いメロディーであることもその一因ですが、「異人さん」「青い目」が嫌いなのです。子供の頃(いまでも)身近に「青い目の異人さん」がいないことも理由ですが、コバルトブルーやエメラルドグリーンの目、あの「吸い込まれそうな」目がだめなのです。
フランス人形や、ミルクのみ人形、横にすると目をつぶる人形もだめです。私はすごい怖がりなので、黒髪の日本人形も(こけしですら)だめなのですが、青い目の人形はもっとだめです。青い目の猫は好きですから、色そのものよりも、人形、いや人間が嫌いなんでしょうね。
「いーじんさん」というのは「いい爺さん」に聞こえてきますが、言葉数から仕方ないんでしょうね。
『赤い靴』は実話が題材になっているそうです。Wikipediaを見ると、定説では貧しさからアメリカ人に幼女にされた娘の話だそうです。でも、異論がでていて、「赤い靴は履いていなかった」とか「海外には行かなかった」とか、「母親の思い込み」だとか、発表されているようです。さらに、「赤い靴を履いていた女の子は、幸徳秋水らによる社会主義ユートピア運動の挫折の隠喩だ」とか、「『赤い箱車』(社会主義者の伝道行商を象徴)だ」とか、でかい話になっています。
私はそのことが、(多分)真剣に考えられていることが不思議です。どうでもいいことのように思えます。童謡の『赤い靴』の女の子やアンデルセンの「赤いくつ」の女の子が「実在」しようがしまいが、私には関係ありません。
むしろ、それらの話や歌が「どうでもいいこと」でありながら(私にとっては嫌いでありながら)ずっと人々の心に残っていることです。イソップ寓話の「うさぎとかめ」が「実話」だと思う人はいないでしょう。物語論や解釈論は私にはできませんが。童話の「赤いくつ」にしても、童謡の『赤い靴』にしても、「うさぎとかめ」のようなはっきりとしたメッセージが伝わってきません。
実在しないものや自分で経験したわけではないことが、「心に残る」こと。不思議ですね。「いい作品」と言われるすべての文学、すべての音楽がそういう力をもっています。いや、むしろ「人間の側がそれを感じる力を持っている」という方が正しいでしょう。そして、その力は教えられるものではなく、生まれながらにもっています。ただ、それは「個々の人」がもっているのではなく、社会がもっているような気がします。「個々の人」や「社会」というものが「ある」と仮定すればの話ですが。
[著者等]
ハンス・クリスチャン・アンデルセン(デンマーク語: Hans Christian Andersen、デンマーク語発音: [ˈhanˀs ˈkʁæsd̥jan ˈɑnɐsn̩](ハンス・クレステャン・アナスン)、1805年4月2日 - 1875年8月4日)は、デンマークの代表的な童話作家、詩人である。デンマークでは、「Andersen」が非常にありふれた姓であることから、フルネームを略したH. C. Andersen(デンマーク語読みで "ホー・セー・アナスン" [hɔse ˈɑnɐsn̩]、英語読みで"ハンズ・クリスチャン・アンダーソン")と呼ばれる。
