数の進化論 加藤文元著 2025/04/20 文春新書

数の進化論 加藤文元著 2025/04/20 文春新書
数(学)は、「面倒なもの」?「便利なもの」?

図書館本です。新刊本のコーナーにあったので借りてきました。面白い読み物でした。

私は若いころ(たぶん高校の1年生まで)数学は得意でした。いろいろあって、「文系」になった後は勉強しなくなりました。何しろ、答えが「ひとつ」で「単純・明快」だったし、方式(方法)をひとつ覚えれば、結構応用ができます。その上、覚えたことが次のことの基礎になります。

文系はそうは行きません。愛知県の地理を知ったからといって、福岡県の地理がわかるわけではありません。「大化の改新」の年号を覚えたからといって、「関ヶ原の戦い」の年号がわかるわけではありません(覚えるための基礎になるわけでもありません)。さらに「なぜ大化の改新が起こったのか」は、教科書に書いてあるとおりに覚えなければなりません。

そう言っちゃうと「歴史好き」の人に怒られます。その歴史上のできごとの背景を知り、なぜそれが起こったのかを知ることが「歴史の楽しさ」でしょうから。ドラマや映画だって、「描かれている事実(ストーリー)」自体よりも、その背景にある「人間性(人間味)」が面白いのです。

理系にしても文系にしても、学校で勉強したことが実生活に役立つことは少ないし、それを仕事にしている(仕事に活かしている)人はもっと少ないでしょう。

数学よりも実生活に役に立つのは「算数」なのですが、私は「算数」が苦手です。九九も怪しいし、二桁以上の数の足し算や引き算は人の倍の時間がかかります。毎日「お金」にかかわらないと、日本では生活できないのですから。

不思議なのは、「お金が物(商品)に変わること」です。「物」と「数」を交換するのです。商品とお金は同等ではありません。お金がいくらあっても、商品がなければ役に立ちません。お金がなくても商品(物)を使うことは可能です。商品(物)は「現実的」で、お金(数)は「観念的」なものといえるでしょう。


数(学)は進化する?

タイトルからして、著者は「進化論者」(進化を信じている人)なんでしょう。いや、微妙です。変化(運動)はあります。でも、「A」が「A'(Aプラスα、ときにはAマイナスα)」と変わっていくのが「進化」だとすれば、「A」が「B」に変わる(取って代わる)のは、進化ではありません。

というか、今までの数学の正しさについても、「たまたま正しかっただけなんじゃない?」と、私は思うんです。(P.188)

でも、そうした「決定論的正しさ」はすごく例外的なのではないかと思っていて。私たちは例外的で珍しいものを見たときに美しさを感じるわけですから。つまり、ほとんどの数学は、そんなに美しいものではない。(同)

たとえば、非ユークリッド幾何学ができたとき、ユークリッド幾何学は否定されたわけではありません。ユークリッド幾何学は非ユークリッド幾何学の「特別(特殊)な場合」つまり「一部」になったのです。

まあ、だからといって、「一意的な答えが出る」という意味での数学が損なわれるわけではありません。たまたまであったとしても、正しさというものの崇高さは崩れない。そうした価値の、数学全体での位置づけが変わるだけです。(P.189)


無理数
たとえば珍奇な自動器具を見て、あるいは太陽の夏至・冬至について、あるいは正方形の対角線が辺で測りえないこと〔非通約性〕について(というのは、最小の単位をもってしても測りえない〔割切れない〕ようなもののあろうなどということは、だれにとっても、いまだその原因を研究していない者にとっては、驚異すべきことと思えようから)。(アリストテレス『自然学』983a、邦訳旧全集 P.12)

正方形の一辺の長さと、その対角線は「 A : B 」という整数の比( λόγος, ラテン語 ratio, 英語 rate )で表すことができません。ピタゴラス(派・学徒)の思想はアテネにも伝わっていました。プラトンの「アカデメイア」の入り口の門には「幾何学を知らぬ者、くぐるべからず」との額が掲げられていた、と言われています。ピタゴラスが「神秘主義者」だったのか、その学派が「宗教団体」だったのか、それ自体は私にはどうでもいいのですが、問題は当時、「数」というものがどう考えられていたかということです。

「量の多少」や「数の大小」を表す、日本語の「どれだけ」に当たる語、「 ποσότης (ラテン語 quantitas 、英語 quantity )」は、「どのような(どのように)」に当たる語、「 ποιόν (ラテン語 qualitas 、英語 quality )」、つまり「性質」と対になる語です。「量」は見たり、手で持ったり(あるいは振ってみたり)して確認できますが、「数」は違います。「人が多いなあ」「人が少ないなあ」(量)は、見てわかりますが、「何人いるのか」は、数えなければなりません。「数える行為」と「数えられるもの(物)」が必要です。

当時のギリシャ人にとって、「数は単位の多さ」(たとえば『形而上学』1052)でした。なので「1」は数ではなくて、「単位」でした。本当の数(多さ)は「2」から始まるのです。「1」は「多い」でも「少ない」でもなく、「ある(存在)」です。なので、「万物は数である」(ピタゴラス派)ということになります。

物差し(棒、単位、基準)で測るものが古代ギリシャにおける数です。

その結果、何が起こったかというと、彼らは「量のほうが数より一般的でもあるし、また本質的でもある」という認識をもつようになってくるのです。「数」よりも線分や面積などの「量」のほうがよりシリアスな対象であると考えるようになって、古代ギリシャの数学者たちは幾何学に傾倒していくことになるのです。(P.75)

この「ゼノンのパラドックス」を受けて、ギリシャ人たちは現実をとるか、論理をとるかの二者択一を迫られたのかもしれません。で、彼らは迷わず論理を取った。(P.87)

比(ロゴス=論理・理性、あるいは言葉)で表されるものが「数」です。


アリストテレスは、「数」には二つの意味があると言います。

ところで、数というのにも二義があるが、(すなわち、われわれは、数えられるものおよび数えられうるものを数と言うとともにまた、それでわれわれが数えるところのそれも数と言うが、)(アリストテレス『自然学』219b、邦訳旧全集 P.170-171)

「数えられる(ものの)数」、たとえば「二匹、二個」という数と、「2、3、4・・・」といった「数える(行為に必要な)数」あるいは「端的ないみでの数」、つまり人間が考えた(抽象的な、数学的な)数です。

これを「受動としての数」と「能動としての数」、あるいは「対象としての数」と「思惟としての数」、「有理数」と「無理数」、「リアルな数(実数)」と「イマジナルな数(虚数)」などと考えるのは、のちの時代のことです。


東洋的・西洋的

「123」というひとまとまりの数字の中から「3」だけを分離して取り出して、独立した数とみなさなければならない。要するに、「記述するための数」だったものが、「計算するための数」に役割が入れかわるんですよ。数の”二重の役割”を上手に使いこなすという、実にしなやかな身のこなしなんですよ、これは。(P.60)

例えば2✕3。これを「2を3回足したもの」という風に学校では習いますよね。もしろん、「3を2回」でもいいのですが。で、この場合、「2」を単に自然数の2とすると、「3」は2を3回足し算するという回数を表しています。つまり、どちらかの数は「抽象的な数」であり、もう一方は「回数」なんです。掛け算は、自然数がもっている二面性を巧みに使っているんですね。もしこれが自然数でなければ「回数」は表せませんよね。1/3回足し算をするとか、√2回足し算をするとか、意味が分からないじゃないですか。そうは言っても人間は、回数に対する考え方をすこしずつ一般化させていき、自然数ではない回数まで拡張していくわけですが。(P.161)

この「二重の役割」「二面性」は、アリストテレスの「数の二義」の近代的な言い換えです。

この2つの方法を比較すると、古代ギリシャ人にとっては、線分による証明のほうがよりフォーマルに見えたのでしょう。現代の私たちはこの証明を、 のような文字を使ってときますが、これは未知数ではなく既知数を文字にしているんですね。すでに知っている数を、知らないふりをして記号に置き換える。方程式を立てるときに、知りたい数を「x」とおいたりしますが、それとは本質的に違うことなんです。未知数だけじゃなくて、既知数をも文字にしちゃうというのは、実はかなり抽象度の高い議論で、記号代数学と呼ばれるものです。記号代数学が本格的に始まったのは、16世紀の終わりから17世紀の初めにかけてとされています。(P.80)

「16世紀から17世紀」は「大航海時代」の真っ最中で、ルネサンスの後期、ガリレオがいわゆる「ガリレオ空間」を考え出し(つまり、時間と距離を分けて考えうるとした)、デカルトが『試論』(『みずからの理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を探究するための方法についての序説およびこの方法の試論(屈折光学・気象学・幾何学)』1637年、解析幾何学の先駆け)で「我思う故に我あり」(「方法序説」『試論』の序説)、つまり、精神(自我)と精神(自我)以外を分けて考えられるとした時期です。ある意味で、デカルトはアリストテレスの「数える数」と「数えられる数」を「自我」と「客観的存在」に言い換えたのです。

「既知数」と「未知数」の関係は、取り違えられた「帰納 induction 」と「演繹 deduction 」の関係と似ています。「既知数」は、「当然在るもの」の言い換え(イデアのような)だし、「未知数」も「在るだろうと想定されるもの」の置き換えです。

直線というものはもともと無限の広がりを持っているものであって、私たちが判定できるかできないかにかかわらず、2本の直線がどこかで交わるか、それとも交わらないかということは、あらかじめ決まっていなければならない。そうでなければ、私たちは数学の議論なんてできないことになってしまいます。(P.146)

定義される(述語される、あるいは存在する)と想定するのです。言葉の中の単語と同じです。それが「何を表す(何かを表す)」つまり、定義される、あるいは形相であるということを想定し、そして「それがある(存在する)」ということを前提しなければならないのです。これは日本人にとっては当たり前のことです。「無限である」ということと「無限がある」こととは別のことですから。

アリストテレス自身は、「実無限」は存在しないと考えた人なんです。第3章で触れたとおり、古代ギリシャ人の数学は、現実を取るか、論理を取るかといえば、迷わず論理のほうを取る。論理で説明できないものは存在しないことにしてしまった。無限性や無限大という考え方を極力排除したので、微分積分を発見することはできなかったのです。この辺は数学史のちょっとした皮肉ですよね。(P.151)

アリストテレスは、「無限」についてこう書いています。

しかし、無限なものとか空虚なものとかその他そのようなものも、可能態においてある〔可能的にある〕とか現実態においてある〔現実的にある〕とか言われるが、これらは多くの他の事物(例えば、見るもの、歩行するもの、見られるものなど)とは異なる意味でそのように言われる。というのは、これらの事物にあっては、そのまま端的にそう言われても真でありうるが、(すなわちたとえば、なにものかを「見られるもの」という場合、それが「現に見られているもの」という意味でも、あるいは「見られることのできるもの」という意味でも、真であるからであるが、)しかし、無限なものは、いつかは現実的に離れて存するでもあろうという意味で可能的に存在するというのではなく、ただ知識において〔抽離されて存する〕だけである。分割過程が〔無限に続いて〕終結に達しないという事実は、この分割活動が可能性においてあるということを証明しはするが、無限なものが離れて存するとのことを証明しはしないからである。(アリストテレス『形而上学』1048b、邦訳旧全集 P.303)

「無限(空虚)はない」と言っているのではなくて、「無限(空虚)である」ということと「無限(空虚)がある」こととは別のことだと一生懸命説明しようとしていることがわかるでしょうか。「数える数」と「数えられる数」をここでも言い換えているのです。

このように、東洋の人々にとって数というのは、計算の過程で現れる、ただのシンボルだったんですね。一方、西洋の人々は数を実体的に捉えていた。(P.97)

そういう意味では、私は「東洋的」です。「シンボル」と「実体」、あるいは前に引用した語で言えば「論理」と「現実」、言語学的に言えば「シニフィエ」と「シニフィアン」、別の言い方をすれば「観念」と「実在」は、日本語では「〜である」と「〜がある」になりますが、それが持つ「世界観(世界を見る目、考え方)」は全く異なります。古代ギリシャ人は日本語で言う「論理的」でも「現実的」でもないのです。もし東洋人が数を「シンボル」として捉えているとすれば、「数の存在」と「数の実在」の違いが曖昧です。

「私がいる(私が在る)」ことと「私である」ことは、「 ID (アイデンティティ・自己同一性)」と「パスワード(暗証番号)」と混同されつつあります。日本語では改めて区別する必要もないのですが(それは「名前」と「生年月日」でもいい)、西洋人にとっては大問題です。西洋における「モラルハザード」と、日本における「倫理の欠如」は、まったく違うのです。

逆に、日本語では「〜がある」と「〜である」がまったく違うがゆえに、「アイデンティティ」がわかりません。

アリストテレス(あるいはピタゴラス)の「成れの果て」を輸入した日本は、これからどうなるのでしょうか。私の子どもたちは、私よりもっと「西洋的」なのでしょうか。




[著者等]

加藤 文元(かとう ふみはる、1968年7月27日 - )

日本の数学者。ZEN大学知能情報社会学部教授、東京工業大学名誉教授、学校法人角川ドワンゴ学園理事、株式会社SCIENTA・NOVA代表取締役。博士(理学)。専門分野は代数幾何学・数論幾何学(対数的幾何学、リジッド幾何学、志村多様体、モジュライ理論、代数的微分方程式)。(Wikipedia)


「数学って何が楽しいんですか」
「なんか役に立ちますか」
挑戦的な問いから始まった、ド文系の編集者と数学者の対話。
ゼロ、無理数、負の数、素数……その始まりと歴史を紐解いていくと、数の新しい世界が見えてきた!
大人の学び直しに最良の〝新感覚〟数学談義。

●目次

はじめに 加藤文元vs.ド文系の編集者
数学は〝バトル・ロワイアル〟の舞台
まずは「数」から始めてみよう
数学のド文系的楽しみ方

第1章 数学の始まりは「割り算」
「割り算」には目的意識が必要
古代エジプトの方法――すぐ2倍したがる
古代ギリシャの方法――長さの比を求めるアルゴリズム
古代バビロニアの方法――60進数を使っていた
農耕の発達→階級社会→目的意識をもった数学

第2章 ゼロは「・」だった
有限個のシンボルで、無限通りの数を表す
スペースから「・」へ
「縦型の計算」という大発明
ヨーロッパの人は引き算が苦手?
「アルゴリズム」は人名だった

第3章 無理数の発見
あの世と交信するピタゴラス集団
整数比では表せないもの
偶数+偶数=偶数
√2より√5の方が早かった?
ゼノンのパラドックス  現実を無視して論理をゴリ押し

第4章 負の数を受け入れる
嫌われていた「負の数」
存在してはいけない方程式
テキトーにやれば上手くいく
マイナス×マイナスがプラスになる理由

第5章 気まぐれな素数
徹夜の素数大富豪大会
素数階段を上がってみよう
素数は無限に存在する
新しい素数の作り方
メルセンヌ素数と完全数の素晴らしき関係
自然界との不思議なつながり
金融取引の鍵に

第6章 無限って必要ですか?
平行線に無限が潜んでいた
「可能無限」と「実無限」
境界にこだわる人――たとえば三笘の1ミリ
あなたは可能無限タイプ? それとも実無限タイプ?

第7章 abc予想という頂
かけ算は足し算よりはるかに簡単
数学者は足し算がお嫌い
「足し算代表」と「かけ算代表」を比べる

第8章 新しい数学は生まれるか
複数の数学の舞台で作業する
現在は変革期――「決定的に正しい」から「事実的に正しい」へ
モラルハザードの始まり
宇宙人にとっての「無限」とは?
なぜ我々は数学をするのか?
数学をポップカルチャーに!



[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4166614868]

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