倫理21 柄谷行人 2000 平凡社













倫理21

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人はいかにして自由か。それは必然性を括弧に入れることによってである。彼のカント解釈がいいのかどうかは私にはわからない。なぜなら、私はカントを読んでいないからである。しかし、そのカント解釈によって、自由の新しい可能性が生まれてくるのなら大いに歓迎したい。

「倫理」という言葉に私は、嫌悪感を催す。昔から、倫理という言葉が、自由の対極にあるように思っているからだ。しかし、柄谷は倫理が実践的な自由であるという。今日的状況ではもはや、コミュニズムが自然史(歴史)的必然だということはできない。その中で、コミュニズムに可能性を与えるための論理として、柄谷の倫理概念は有効である。

しかし、その論理が実践的な有効性を得るためには、何かが欠けているように思える。自己に対しても他者に対しても「自由」であれという義務が有効に機能するためには、先ず必然性を括弧に入れた上で実践するのだが、その実践の段階では、括弧をはずす必要性があると思うのだ。つまり、括弧をつけなくてもよくなること、必然性がそのまま自由になる可能性を考えなければならない。必然的に自由であることの可能性である。それは、自己の中の他者、過去の他者、未来の他者との対話の可能性であり、現在の他者との対話の可能性がその試金石であろう。
第1章 親の責任を問う日本の特殊性

p24親は子供を拘束しますが、その前に親がまず子どもに拘束されており、そういう相互的規制の中にある



p28個のような「世間」がどこから来たのか。・・・・徳川時代にいびつな形で形成され、明治以後も、さらに戦後の農地解放以後も解体さp29れなかったムラ共同体に由来すると思います。



友情が存在するためには、「自己」が存在しなければならない。しかし、その「自己」がないのです。中心は「世間」であってそれを彼らは恐れている。・・・根本的にはエゴイスティックであるのに「自己」がない。



第2章 人間の攻撃性を認識すること

p39病の原因というのはそれが現実に症候としてあったときに、そのときにのみ、遡及的に見出される



p40原因を問うことと、責任を問うこととは別の問題だと考えるべきです。



第3章 自由はけっして「自然」からは出てこない

p53或る出来事に関して、その原因を知ることは認識の問題であり、その責任を問うことは実践(倫理)の問題です。・・・認識の領域と倫理の領域、カントの言葉で言えば、自然の領域と自由の領域が、別々に独立してあるのではない





p62「他者を手段(自然)としてのみならず、同時に目的(自由)として扱え」という命令、これらは「自然」からは出てこない。カントはそれが当為(ゾルレン)であるがゆえに可能である、といいました。奇妙な言い方ですが、自由が自然からは来ず、当為(義務)から来ることによって可能であるということを意味するだけです。



第4章 自然的・社会的因果性を括弧に入れる

p65同じ一つの事柄が、認識の対象であり、同時に、倫理的な判断の対象としてあらわれるのです。さらにいえば、それは美的な判断の対象としてもあらわれる。



p67近代の科学は、物を、道徳的・美的な関心を括弧に入れて見ることにおいて成立したのです。



p68人はそのことになれてしまうと、括弧に入れたこと自体を忘れてしまい、あたかも科学的対象、美的対象がそれ自体存在するかのように考えてしまいがちです。



p74われわれは、自由を括弧に入れたときに現象(自然必然性の世界)を見出し、自然必然性を括弧に入れたときに自由を見出す



道徳性は善悪よりもむしろ「自由」の問題です。自由なくして、善悪はない。自由とは、自己原因的であること、自律的であること、主体的であることと同義です。



p76無知ならば責任はないのか。それを知りうる能力をもつものであるならば、責任があるのです。



p78ニーチェ・・・は弱者の怨恨意識(ルサンチマン)を攻撃したが、それを必然的に生み出す現実的な諸関係が存在することを見ようとしなかった。



第5章 世界市民的に考えることこそが「パブリック」である

p85通常、公的とされるのは国家的レベルの事柄です。しかるに、カントはそれを私的なものといい、逆にそこから離れて個人として考えることを公的だという



第6章 宗教は倫理的である限りにおいて肯定される

p95私は世間や共同体の道徳を「道徳」、世界市民的な道徳を「倫理」とよぶ



第7章 幸福主義(功利主義)には「自由」がない

p114われわれの「対話」はほとんど非対称的なものだといったほうがいいのです。使者や未来の人間との関係は、コミュニケーションの理論において基礎的なものです。ところが、それはつねに忘れられている。公共的合意とか社会契約といったものは、生きている他者、しかも、共通感覚(共通の規則)をもった他者に限定されています。



p118社会主義は、根本的に倫理的なもので、歴史的法則(自然過程)の必然などではないのです。



p122葬礼の目的は、死者を除いた社会関係の体系を再確立することにある



第8章 責任の四つの区別と根本的形而上性

p130責任とは、すべて「形而上的」なものなのです。・・・原因を問う限り、責任は出てこないのであり、責任を問うときは多かれ少なかれ、「形而上的」なのです。



p134後期フロイトは、超自我を社会的な規範を内面化したものであるだけでなく、死の欲動(攻撃性)が自分の内に向かったものだと考えた。それと同様に、カントは、永久平和が、攻撃性の発露の結果として、それが内向化したときにもたらされるだろうと考えた



第9章 戦争における天皇の刑事的責任

p151もし日本人に過去への反省が欠けているとしたら、どこかに、自分たちが天皇のかわりに責任を問われるのは不当ではないか、という気持ちがあるからだと思います。



p153構造的な認識をするとき、個人の責任は括弧に入れなければならない。・・・しかし「責任」を問う場合、この括弧をはずさなければならないのです。



第10章 非転向共産党員の「政治的責任」

p170国内で「国民」がどう反省し、どう納得しようと、戦争責任は国家関係において残るということです。・・・国家は共同幻想だというのは、内部から見たときのみいえることです。国家はなによりも他の国家に対して国家なのです。



p171理論的(構造論的)把握においては、個人は構造の項に置かれるだけであって、主体ではありえない。主体は、ただ、実践的(倫理的)な位相においてのみ出てくる。そしてそれをわれわれに喚起するのは、実際の他者(外国人)です。



第11章 死せる他者とわれわれの関係

p175戦争責任への追及は、第二次世界大戦後、世界史においてはじめて出てきたものだ



p177世界史の新段階にはいるためには、「国家」に基づいて行動してきた過去の人類史を反省しなければならず、そのとき、各国の人間は、それぞれの国家の行為を冷静に見つめなければならないからです。



p179死者は変わらない。われわれが変わるのです。というよりも、死者そのもがはじめてわれわれの前に出てくるのです。それは、人が無視し抑圧していたような「他者」が存在し始めるということです。



p181過去は少しも完了していないのです。いいかえれば、過去の「他者」とわれわれの関係は、完了していないということです。



第一二章 生まれざる他者への倫理的義務

p184マルクスにおいて、そもそもコミュニズムが倫理的な問題であった



マルクス的にいえば、宗教批判は、道徳的な至上命令で終わるのです。そして、それは、現実の生産関係に及ばないのであれば、宗教と変わりがありません。



p187マルクスが考えたコミュニズムとは、「自由で平等な生産者の連合社会(アソシエーション)」です。こうした消費-生産協同組合のアソシエーションがグローバルに拡大して、諸国家に取って代わる(国家が死滅する)のがコミュニズムです。だから、これは一国だけではありえない。



p188賃労働の廃棄ということは、「他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱う」ということの現実的な形態に他なりません。マルクスにとって、それは「至上命令」でした。このことは、決して自然史的必然ではありません。むしろ、自然史的に見れば、資本主義的経済は永続するでしょう。それを破棄するのは、倫理的な介入です。つまり、「自由」の次元からのみ、それは来るのです。



p189われわれが考え方を変えても、資本の運動は止まらない。なぜなら、資本の蓄積はわれわれの欲望から生まれるのではなく、その逆に、それがわれわれの欲望を生み出すのだから。したがってまた、どんなに環境的危機があっても、資本の運動は止むどころか、逆に、それがわれわれの考えを変えてしまう可能性が強い。つまり、先進資本主義国家は、その「国民」の幸福のために、将来の危機において、戦争を辞さないでしょうし、「国民」の間にナショナリズムを喚起するでしょう。そのような事態を避けるために、われわれは何かをしなければならない。そうしたとしても、われわれが得をすることはないし、未来の人間から感謝されるわけでもありません。にもかかわらず、奏すべきだということは、われわれ自身の問題です。それは、未来の他者を目的として扱うことです。



p190資本制段階からコミュニズムへの発展は決して歴史的必然ではないということです。それはただ、「自由であれ」、「他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱え」という、倫理的な義務からのみ生じます。歴史には意味も目的もありません。しかし、それは、実践的(倫理的)にのみあるのです。

 裸体画を括弧に入れずに美的に見る可能性、エロスの可能性はあるし、実際、裸体画を見るときにエロスを括弧に入れてしまうことはできない。

国家の攻撃性が内向化したとき、国家内秩序を乱す攻撃性が生まれる。戦争は国内暴力によって補完される。それを阻止するための「儀式」は存在しうるのだろうか。

美的意識と性的興味のどちらを括弧に入れるか。天皇責任を括弧に入れる可能性。括弧をはずすこと、括弧をつけなくてもよくなること。社会に規定された必然性がそのまま自由になる可能性。

(2000年記)

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