「今日のわれわれが理解しているような意味での性的欲望は・・・ごく歴史的な概念であり、歴史的経緯を経て後の時代になって新たに発見された、いや、新たに発生した欲望に過ぎない」。(P.20)「我々の性的経験が<性的なもの>という対象と不可分であることを認めてしまえば、性的経験から主体だけを取り出すことは不可能になってしまう・・・<性的なもの>が、換言すれば、<性的興奮を催させるもの>が、対象の持つ属性とされてしまう」(P.41)「われわれの性的体験に性的欲望なるもの、生理的であれ、実存的なものであれ、何であれそうした身体的欲望が挿入されたとたん、われわれの性的経験の、対象性、歴史性が隠蔽される。」「性的欲望とは、われわれの性的体験をある種の意図のもとに解釈するための一つのイデオロギー概念、解釈装置にほかならない」(P43)「性的欲望が普遍的に存在するというのは、われわれの生きている社会、世界に<性的なもの>があまねく配置され、われわれが、<性的なもの>に浸され尽くしているということにほかならないのだ。」(P.45)「その歴史的な男と女の権力関係は、<性的なもの>を男と女に公平に配置しはしなかった。「性的な女(もの)」と「性的欲望を持つ男(しんたい)」に分割され女は一方的に<性的なもの>として、男の「性的欲望」の前に配置されたのである。」(P.48)「男と女の社会的権力関係、その非対称性が、性的関係における非対称性、権力関係を作り出したのに、逆に人々の意識の中では、性的な非対称性が、社会的な非対称性、権力関係を作り出したのだと想定される。」(P.51)「社会的配置の中で、「見られるもの」<性的なもの>と位置づけられ、そういう情報の担い手として、そういう情報を生産する労働者となる。そうした女たちの労働力を資本が買い、<性的なもの>を商品として生産する、性の商品化とは、原理的には、かくなる事態をさすのである。・・・商品化され、個別の身体から遊離した<性的なもの>は蔓延し、今度は逆に、生身の女たちが、それを規範にしてそれぞれに<性的なもの>たるべく、<性的なもの>という情報を個別に生産することを余儀なくされるのである。」(P65-66)
「<性的なもの>が身体から離陸し、身体の属性であるという束縛を振り切って、むしろ商品自体の持つ属性へと飛躍してゆく。・・・あらゆる商品が、<性的なもの>となり得るのだ。」(P.70)
「男にも<性的なもの>という情報を生産するための労働手段が与えられるということである。(P.70-71)「かくて、男と女は交わりつつも、<性的なもの>の情報を、エロティックに純化された情報を求めて、相互のオナニズムを実現する。」(P.73)
第1部を引用で要約してきたが、このあと「オナニズムには、性的欲望の装置の本意をくじきかねない示唆がある。」(P.73)としつつも、楽観的な展望は描かれない。「性的欲望の装置によって組み立てられたこの現実」が性的欲望がなくなったときにどのような姿になるのか。つまり、「生殖」「快楽」の言語体系がなくなったあとの世界は想像できない。私達はその中にどっぷり浸かり、それ以外の世界を想像できないからだ。資本主義の中で生まれ育った私達が「商品」や「貨幣」のない世界を想像できないように。
新しい世界は、私達が試行錯誤しながら模索していく他ないのだ。そのときに大切なこと、事実を知ること、諦めないこと、常に対話することだ。対話の中からしか新しい世界は生まれない。
「オナニスト宣言」を読むことによって、今のフェミニズム運動の功罪も明確に位置づけることができる。今後は、「オナニスト宣言」の論旨を踏まえていないフェミニズム文献は読むに値しないし、現状を追認するか、対立を煽るものにしかならないだろう。
第2部は、第1部の論旨を踏まえ、それを敷衍し、適用した小論文が並ぶ。
それらを精緻化していけば、なぜ女性解放運動が、労働解放運動であり、反資本主義運動であるのかがわかるだろう。
著書の少ない著者であるが、今後の執筆予定はあるのだろうか。もしなければ、赤川学氏あたりが受け継いでほしいものである。
