最新アイヌ学がわかる 佐々木史郎、北原モコットゥナシ監修・執筆、 坂田美奈子・マーク・ハドソン著 2024/10/30 A&F

最新アイヌ学がわかる 佐々木史郎、北原モコットゥナシ監修・執筆、 坂田美奈子・マーク・ハドソン著 2024/10/30 A&F

たまたま図書館の「新刊コーナー」にありました。

私はアイヌが先住していた地域に住んでいます。でも、アイヌの人と話をした記憶がありません。実際には話をしたことがあるんでしょう。でも、その人が「自分はアイヌです」というのを聞いたことがないのです。私が、「私は和人です」と言ったこともないでしょう。

アイヌに対する偏見は昔よく聞きました。最近は聞きません。たまにテレビでアイヌに関する報道がなされますが、その場限りです。


アジョリティ性・マイノリティ性

151ページに「マイノリティ性とマイノリティ性対照リスト」があります。


  • 日本人 <=> 外国人
  • 和民族 <=> 非和民族
  • 高学歴 <=> 低学歴
  • 健常者 <=> 障がい者
  • 男性 <=> 女性、ほか
  • 異性愛者 <=> 同性愛者、ほか
  • シスジェンダー <=> トランスジェンダー
  • 高所得 <=> 低所得
  • 大都市圏在住 <=> 地方在住


私は日本人です。私は和民族です(多分)。一応大学を卒業しているので、高学歴です。健常者といえるかどうかはわかりません。病院には複数ヶ所通っていますが、障害者の認定は受けていません。男性です。異性愛者ですが、「愛」という言葉はわかりません。同性愛者ではありません。シスジェンダー・トランスジェンダーというのは「ジェンダー」という言葉の意味にもよりますが、シスジェンダーです。低所得者です。地方在住者です。

私は、(日本では)マジョリティ性が高いといえるでしょう。「特権的な地位に+自覚が難しい」(P.151)。そうなんだろうと思います。

私は戦後の民主教育を受けました。「人間はみな平等」なんだと。でも、笹川良一が「人類みな兄弟」と言うたび、「兄弟じゃないだろう、少なくとも彼は私のことを兄弟だと思っていないし、私の存在すら知らないんだから」と思っていました。

小さい頃はぜんぜん違う場所に住んでいました。小中学校の生徒は全員プロレタリアートの子どもたちでしたからみんな貧しかったのですが、その中でも特に「貧しい家庭」の子どもが、中学校のときにいました。どうして貧しかったのか、家庭の事情は聞きませんでした。私は仲良くしようとしていましたが、学校ではいじめられていました。いじめの原因は、私が知っている範囲では「彼の臭い」でした。私は「彼は臭くない」とみんなの前で彼をかばいましたが、実際は「臭い」と思っていました。かばうために嘘をついたことが未だに心に引っかかっています。

小さな町でしたが、朝鮮学校がありました。女生徒は真っ白なチョゴリで登下校していました。それがとても怖かったことを覚えています。彼女たちを避けて道を歩いていました。「朝鮮人は怖い」と思っていたのです。アルプス地方の民族衣装やアイヌ文様の着物もやっぱり違和感があります。日本の着物に対するイメージとは違います。日本の着物は、「着たり脱いだりするのが面倒そうだなあ」という実用的(合理的)な理由で、着ようとは思いません。

日本社会では、男性は概して、進学をはじめ様々なことに挑むことを応援され、またそれができるとみなされる。(P.152、北原モコットゥナㇱ「マジョリティの特権性」)

マジョリティに属する私は、大学に行くことを期待され、「自分が頑張れば」それができると思っていました。でも、その町には高校すらありませんでした。高校生の時代から下宿暮らしをし、大学も卒業しました。大学時代は学生運動が急速に下火になった後で、ちょっとくすぶっていた程度です。そのときに「アイヌ差別講義事件」(P.95,1977年)が起きましたが、私は傍観していただけです。「解放同盟(アイヌ解放同盟)」は左翼の学生運動や、左翼政党の支援を受けていたのでしょうか。左翼の側にも、そんな力は残っていなかったような気がします。

卒業後は、今の町に住んでいますが、アイヌの話題はたまにあるにしても、あまり話題にならず消えていきました。私はその時々、その場所にいたのです。マジョリティにとっては、そういう「現実」があることを「知って」いますが、その「知識」は「経験」とは別のところにあります。


日本語

私は日本語を話しています(日本語しか話せません)が、「日本語を話している」という自覚は普段はありません。まあ「ほぼ標準語」でしょう。それが「自然言語」と言えるのかどうかは微妙です。最近、テレビや新聞で「主語・述語・目的語」などとそれを適切に結ぶ「助詞」が「適切でない」ことが妙に気になります。もう出演者や編集者のほとんどが私より若い人なんでしょうね。

これは妙なことです。(日本語の)学校文法は英文法のマネですから、報道では英語文法を踏まえた「論理的」な日本語を話すことが普通だったのです。まるで翻訳語のような日本語を。だから、それから少しでもはずれると気になるのです。昔、煙たがっていた「小うるさい老人」に私はなってしまったようです。方言はいいんですよね。それは学校文法に則っていなくても構いません。外国語は文法(正式な語法)を知りませんから、私には関係がありません。今は小学校から英語の授業があるそうですから、どんどん日本語が英語文法的(論理的)になるはずなのです。実際、テレビ(ドラマ)出演者の日本語はそうなっていますし、村上春樹なんか読むと、英語の翻訳書を読んでいるような気になることもあります(村上の「僕」と英語の「 I 」はぜんぜん違うのですが)。

ひょっとすると、日本語の中での「公用語(国語、文語)」と「口語」の再編成が行われているのかもしれません。学者も(小説家も?)「正式」な論文は、英語で書かなければ(ドイツ語やラテン語でもいいかもしれませんが)認められません。テレビなどのマスコミは、もう「公式なもの」ではないのかもしれません。

近い将来、英語が公用語になったり(加わったり)して。これだけカタカナ語(元はほとんど英語)が氾濫していれば、思うよりもスムースに可能な気がします。

去年、天皇がイギリス国王夫妻主催の晩餐館会で英語で長いスピーチをしました。聞きやすい英語です。(日本語訛の)クイーンズイングリッシュでしょう。晩餐会だから、政治的発言ではないんでしょうが、どのテレビでも、新聞でも、まったく同じ「日本語訳」が掲載されました。一つ一つにはふれませんが、イギリス人が聞いた感想と、日本人が読んだ感想は微妙に違う気がします。私は、トランプが日本の晩餐会で「日本語」でスピーチすることを想像しました。ありえませんね。それはまるで植民地の国王が、宗主国の国王の前で「宗主国語」で話しているような感じです。挨拶は英語で、その後は翻訳家を通じて日本語で、のほうがよかったんではないでしょうか。後々問題が起きても、「翻訳家のせい」にできますから。


アイヌ語

アイヌ語の(アイヌ語が元になった)地名は、北海道(あるいはサハリン、北方領土)から東北にかけてたくさんあります。「ここの地名はアイヌ語の〇〇が元になってるんだよ」と言われると、「そうかあ、ここはそういう意味の土地だったんだ」と感じます。その面影が残っているかどうかは私にはわかりませんが。アイヌ語が意味するところのもの、それがアイヌ文化で占めるものを知らなければ、「面影」すら見る(見つける)ことができないのです。

「アイヌ語のさまざまな方言と地方文化」(P.102〜、山丸ニケ著)にはハッとさせられました。そうですよね。どんな言語だって方言はあります。津軽弁や琉球方言(琉球語)で話しかけられても、私には理解できない気がします。明治政府の中で、仙台藩出身の役人と薩摩藩出身の役人は、どんな会話をしていたんでしょうね。

それでも、その違いはある程度乗り越えられます。通訳者だっているだろうし。

「タライカのたたかい」(P.60〜)のことが載っています。北海道やその北には、ウイルタ、ニヴフ、アイヌなどの「まったく異なる言語」をもつ民族がいたのですが、「訪ね合う間柄でも、理解不足から争いに」なるのです。言葉の違いというのはたしかに障碍ですが、それが乗り越えられても文化の違いがあります。文化とは別に言語があると考えてはいけないんですね。言語は文化の一部、あるいは文化そのものだと思います。英語でも日本文化は伝えられる、なんてことはないのです。

文化とか、言葉になる前のもの、感情・感覚・思考とか、事物(存在)だとかがあって、言葉はそれを伝える道具に過ぎない、なんて思うのはとても西欧的なものです。「そんなものはない」ということではありません。それを「伝える人(主体)」と「伝えるもの(客体)」との対立構造として捉えることが西欧的だということです。


アイデンティティ

私は親が転勤族だったので、何度も引っ越しをしました。家を出てからも、私はずっとアパートぐらしだったし、何度も引っ越ししました。なので、「故郷」とか「幼馴染」とかいうものがありません。単なる憧れです。私には「アイデンティティ(根っこ)」がありません。

この本には何度も「アイデンティティ」という言葉が出てきます。

散文説話から読み取ることのできるアイヌのアイデンティティのあり方は、地域的アイデンティティ、民族的アイデンティティ、道徳的アイデンティティの三層になっている。アイヌ同士の関係においては、イㇱカㇻ・アイヌ、クスㇽ・アイヌと言った地域的アイデンティティが意識される。和人との関係では、アイヌと和人といった民族的アイデンティティが意識される。事件を解決したり難題を克服したりするときには、地域的・民族的属性は異なっていても道徳的アイデンティティ(道徳的価値基準)を同じくする者たちが協力関係を築く。(P.20、坂田美奈子「アイヌ散文説話に学ぶ」)

著者は私より10歳ほど年下ですから、「アイデンティティ」という言葉が日本に流通し始めたときには小学生でしょうか。私は「アイデンティティ」という言葉を聞いたときにドキッとしました。理由は単純で、私がそれまで聞いた日本語のどこにもそれを理解する手がかりとなるような単語がなかったからです。いま、改めて小学生だったころから使っている小学館の『新選国語辞典』改訂新版(金田一京助ほか編、1966年)を調べてみましたが、そんな項目はありません。「自己同一性」も「自我同一性」もありません。どんな日本語を当てはめればいいのでしょうか。「私が私であるところのもの」あるいは「それがそれであるところのそれ」、皆さんはわかりますか。

日本には心理学用語として、エリクソンの用語の訳語として入ってきた言葉です。エリクソンのは読んだことがありませんが、小此木啓吾さんか誰かの紹介文にあったと思います。

最近「こうなんじゃないか」と思っていることがあります。アリストテレスの『形而上学』第5巻第9章は「物事がタウタ(同・同じ、 ταὐτά)である 」の説明です。「同一性(同じであること)」の原語は「 ταυτότης 」で、ラテン語では「 identitas 」と訳されたそうです(訳者注、邦訳旧全集第12巻、P.560)。「 ταὐτά 」の単数中性形冠詞なしは「 αὐτό 」です。英語の「 auto 」ですね。あるいはラテン語の「自身( per se )」や英語の「 self 」とも関係するし、「一(数のイチ)」とも関係しています。つまり、「存在・有るということそのもの(そのこと)」に対する一つの考え方、「存在に対する向き合い方」です。一つの「自然観」です。言い換えれば一つの「信念・信仰」です。

古代ギリシャにおける自然観と、ラテン(ローマ)における自然観が同じかどうかはわかりません。私の言葉に関する能力、あるいは他者の気持ちを考える能力の限界です。アイヌの自然観は古典ギリシャ文化や西欧文化に近いのでしょうか。それとも日本文化に近いのでしょうか。当時の私は、「私が私であるなんて、説明も証明もしようがないじゃないか。そもそも、そんな必要があるのか?」と思っていました。その後、「自己同一性」や「自我同一性」などという「分けのわからない」訳語は消えてしまって、「アイデンティティ」という言葉だけが残りました。そして20年後、パソコンは「IDとパスワードを入れてください」と当たり前に入力を求めてきました。入力しないと先に進めないので、日によっては何度も入力します。当たり前のことになりました。でもそれは「お名前と生年月日を入れてください」とは違うのです。「お名前と生年月日」なら、他人の名前と生年月日を入れることができます。そうではなくて、「あなたがあなたであること」を証明するために「あなただけが知っていること(記憶)」を入れてください、ということなのです。日本文化には「アイデンティティ」という考え方はないんだと思います。「現在は違う」とも思えません。「国民総背番号制度」にあれだけ反対した日本人は、「マイナンバー」と言い方を変えただけですんなりと(でもないけど)受け入れちゃったんですから。その根本的な原因は、日本人(あるいは日本語)の自然観だろうと思います。アイデンティティや、それに基づくプライバシーという「ものの見方」がないのです。「アイヌのアイデンティティ」というときに、「アイデンティティの一部としてのアイヌ」を意味するのか、「アイヌとしてのアイデンティティ」を意味するのかがわかりません。「三層のアイデンティティ」には、その二つの混在があるのではないでしょうか。


アイヌになる

「アイヌである」ことは日本のセトラーの血統モデルに基づくアイデンティティだが、「アイヌになる」中で自分自身を作り変えていくことは、癒やしや開放感を得ることにつながる。(P.137、アンエリス・ルアレン「アイヌ女性、芸術、そして自分作り」)

「セトラー」は植民者という意味で、民族性を問わず〈セトラー〉は構造的にアイヌ社会に対して社会・政治的に対立する存在だ。セトラーコロニアリズムはそのシステム全体を差す意味だ(ウルフ、二〇〇六)。(P.141、同)

「人間である」と「人間になる」に言い換えるとどうなのでしょうか(「アイヌ」は、アイヌ語で「人間」という意味です)。「人間としている(存在する)」ということと「人間という性質を持つ」との違いが、「人間としての性質を持っていなかったが、持つようになる」と再表現されていると思います。存在するということ(存在そのもの)と、その性質との関係は、「基体(主語)と形相(述語)の関係」として、アリストテレスが『形而上学』で説明しようとしたことです。私には理解できないので、アリストテレスが、

というのは、なにについては論証を求むべきであるが他のなにについては求むべきでないという区別を心得ていないのは、教養のない証拠だからである。(『形而上学』 1006a、邦訳 P.102)

などと書いてあると、自分が「教養のない証拠」だと思って、ホッとします。

「〜がある」と「〜である(〜になる)」はどちらも英語の「繋辞 be ( become )」なので、説明が必要なのです。日本語においては説明など必要のないものですが。「吾輩は(が)猫である」や「我輩は(が)猫になる」は普通の(?)日本語です。「我輩は(が)猫がある」「我輩は(が)猫がいる」は、「吾輩には猫がある」「吾輩には猫がいる」という意味に取らないと日本語として通じません(それで通じるか?)。つまり、「主語と述語」という関係は日本語では前提とされていないのです。自分と他人(あるいは自然)との区別、つまり「自然観」が異なるのです。

こんなふうに感じるのは、私が「セトラー」あるいは「マジョリティ」だからでしょうか。そうなのかもしれません。私はそれを乗り越えられないのです。


自動ドア(automatic door)
マイノリティは、壁に当たる経験を通じて、社会が公平でないと気づく機会があるが、マジョリティにはそうした機会がないので、誰もが同じスタートラインに立っていると考える。その結果、さまざまな不平等・格差を解消するためのアファーマティブアクションが不当なものに見え、自分こそが機会を奪われ、不当に差別されていという錯覚に陥りやすくなる。マイノリティを劣ったものと見なす古典的差別に加え、二十世紀の後半からはこうした「新しい差別」が問題になっている。(P.155)

「ガラスの天井」(Wikipedia)という言葉が使われはじめて半世紀が経ちます。新自由主義が世界を支配し、ヨーロッパでは極右政党の躍進も目立ちます。

日本では、近年「親ガチャ」という言葉が流行りました。ちょっと古いことばですが、「不幸自慢」というのもあります。いつだったか「忖度」という言葉が突然出てきましたが、「判官贔屓」との違いはなんでしょうか。

偶然見つけた内田樹さんのブログ、忘れてしまうのはもったいないので引用しておきます。

「忖度する人」にはわかりやすい外形的な特徴がある。

それは「首尾一貫性がない」ということである。(中略)

ふつう、人間は自分は例外的に賢いと思っている。

いや、謙遜しなくてもよろしい。

誰でもそうなのであるから恥ずかしがることはない。

だから、「例外的に賢いはずの自分と同意見の人がたくさんいる」というときには、前段から後段にいたる論理的架橋が破綻しているということに気づいてよいはずである。

「私ほど賢い人間が、これほど多くの人と同じ意見であるはずがない」というふうに推論してよいはずである。

でもしない。(「「忖度」する人たち」から)

「LGBT」がいつから使われているのかわかりません。それは「LGB」「LGBTQ」「LGBTQIA」などどんどん増やすことができます。それの何処かに該当したとき、それがアイデンティティなのでしょうか。「性的指向」という意味であれば、人の数だけ増えていきそうな気がします。

「セクハラ」から始まった「〜ハラ」は日々増え続けています。増えるだけ「言動の自由」は制限されていきます。

私は「人間(動植物も自然も)平等だ」と思っているし、「平等でなければならない」とも思っています。そして「自由でなければならない」とも思っています。「自由・平等・民主主義」。小さいころから事あるごとに叩き込まれてきました。そして「現実がそうでないこと」も分かっているつもりです。

アイヌが鮭を取る「権利」を「法的」に得ることも、ヒグマを狩ることにも反対はしません。ただ、それを「権利 rights」とか「法 law 」とかの視点で捉えることは、むしろ反対したのです。それはいわゆる「文化」であって、法や権利を超えたことだと思うのです。それでも、法や権利はその「手段」である、ということもできるでしょう。でも、それも違うと思うのです。

自然(あるいは他者)をどう見て、どう考えるのか。つまり「自然観」こそを取り戻さなければならないのではないでしょうか。私は「アイヌ学」にはその可能性があると思ってこの本を読もうと思ったのです。


和人学
なぜ多くの日本人にとって「和人」という呼称はなじみが薄いのかといえば、「マジョリティは名前を持たない」からである。少数派は常日頃「自分は何者か」を意識せざるをえないのに対し、多数派はそれを意識しなくても生活できるという特権がある。(P.133、東村岳史「「和人学」の勧め」)

「マイノリティ」(や「ハラスメント」)には名前をつけることができます。名前をつけることで、明確化(可視化・存在化・対象化)することができます。それを非難することも、認める(尊重する)こともできます。それは非常に西欧(語)的です。

私に必要なのは、「マイノリティ学」ではなくて、「マジョリティ学」なのでしょう。それが「近代西欧的自我」や「アイデンティティ」の否定に繋がっていくのではないでしょうか。そしてそれは「知ること(知識)」ではなくて、「経験すること」なんだろうなあ、と思います。

私が受けた「戦後民主教育」の「自由・平等・民主主義(・平和)」という「知識」は捨てなくてはなりません。頼りになる唯一のものは「経験」のみ。年とともに「覚える」ことよりも「忘れる」ことのほうが多くなった年寄の最後の「希望」でしょうか。

年齢とともに「自動ドア」が必要になる、とは、まだ思いたくないのですが。


〈追記1〉革命について

「X」にアップして、ちょっと不安になりました。「差別的投稿だ」と認定されてアカウントが削除されるかも、と。認定するのは私の知らないところで行われます。それに対抗するすべを私は持ちません。誰も私の投稿を見ていなくても、機械的に(アルゴリズムで)削除されるでしょうから。まあ、誰も見てないんだからいいけど。それで追記。

プロレタリアート(賃金労働者)が、自分を「マジョリティ」だと自覚すれば、革命が起きます。フランス革命も、ロシア革命もそれで起きた気がします。でも、それで自然観が変わるわけではありません。だから、その後また革命が起きます。

革命直後は、「思い描いた社会ではないけど、以前よりはマシ」と思うかもしれません。以前搾取されていたときよりマシ。祖父母や父母よりはマシ。猿よりはマシ。犬猫より、植物よりはマシ・・・。同様にアイヌ(土人・未開人・縄文人)よりはマシ、と考えてしまうかもしれません。

不幸な人が減ることはいいことのように思えます。少数者の幸福のために多数者が不幸になるのはいけないことだと。

マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』に究極の選択の話があります。走る列車の先に人がいます。ポイントを切り替えれば1人、切り替えなければ5人が列車にはねられて死にます。あなたはポイントを切り替えますか。

手元に本がないので正確な引用ではありませんが、いくつかのシチュエーションが掲載されています。サンデルの答えは忘れました。その本の中にグィンの「オメラスから歩み去る人々」のことが載っていました。『ゲド戦記』シリーズを書いた作家です。

オメラスの町は楽しそうです。お祭りが開かれ、みんな幸せそうです。でも、その町の地下には一人の子供が閉じ込められています。食事もろくに与えられず、会話もできないような子どもです。町の人全員が、自分たちの幸福はその一人の子供の不幸で成り立っていることを知っています。子供の頃に、みんなその子どもに会わされるからです。

少数の幸福のために多くの人が犠牲になることと、多くの人のために一人が犠牲になること。あなたは認められますか。

グィンは反革命的だし、反民主主義的です。同時に、超革命的でもあります。多数決制民主主義という西洋的正義に反対しているのです。それは自然観(考え方)を見つめ直そうと言っているように思います。

どんなことがあっても、状況にかかわらず、正しいものは正しいのです。ガリレオ・ガリレイも「それでも地球は回っている」と言ったじゃないですか。

数が多いことが正義なら、マジョリティは正義です。でも、「正義(正しさ)」は「数」ではないとグィンは言っているのです。

落語に「三方一両損」という話があります。ある人が三両を拾います。持ち主が見つかって、拾った人は「自分の金じゃねえから、返す」と言いますが、落とした人は「落としたものはもう自分のものでないから受け取らねえ」。どちらも引き下がろうとしません。そこで、南町奉行所の大岡越前がさばきを下します。

「私の一両を加えよう。それぞれは二両づつ受け取りなさい。それぞれ三両を手にするところ、二両なので一両損をした。私も一両を損をした。」

考えることによって、別の見方をする可能性が生じます。

自分は神(自然・世界)の絶対性のもとでは何もできません。無力です。それは線路を切り替える力がないということではありません。オメラスの地下の子どもを助ける力がないということではありません。どちらを殺すか、どちらを助けるかという選択はどちらも「正義」ではありません。たとえ助けようとしても、助けられるかどうかはわかりません。助けられたとしても、その後どうなるのかは「神のみぞ知る」ところです。

ウクライナが発電施設や鉱物資源をアメリカに売れば、戦争は終わるかもしれません。でも、電気やレアメタルを使う生活を変えなければ、また戦争(武器を使う戦争も経済戦争も)が起こるでしょう。それではウクライナも、ロシアも、アメリカも、自然観が変わらないからです。傍観している日本も同じです。

自然観が変われば、見えている世界が変わるはずです。


〈追記2〉世界の見え方

ガリレオが最初に一時間幾マイルという発想、もっと正確に言えば与えられた時間に対する距離と考え、時間と距離を異なった、区別される実在として互いに関連させた時、彼はあるタブーを犯していることを知っていました。今と此処 hic et nunc は厳密に相互に関連し合っていたので、人々には、その一方だけを取り上げて語ることなどできなかったのです。しかしガリレオは時間を空間から切り離して観察できると主張したのです。(前掲、イリイチ『生きる希望』 P.305)

ガリレオは自分の言っていることを理解させるのに大変な苦労をしました。(同、P.306)

それまでも「時間」「距離」「速さ」などの言葉はありました。しかし、それらの関係を明らかにしようとしたとき、「時間」と「距離」は「別なもの」「切り離して考えうるもの」とされたのです。今では当たり前のことですが、それでも「時間のない空間」「空間のない時間」を想像することは簡単ではありません。実際には、時間と空間が一体となった世界で生きているからです。アインシュタイン以降、時間と空間は再度切り離しがたいものになった上に、そこに「観察者」というものが入り込んでいます。

われわれが抱いているような時間と空間についての概念は直感に基づいていて、一般に普遍的なものとされている。(B.L.ウォーフ『言語・思考・現実』、講談社学術文庫 P.13)

幾何学でも、ユークリッド幾何学以外の幾何学で空間的な図形について全く同様に誤りのない説明を与えるものがいくつでもありうるが、それと同じように、われわれにとってのお馴染みの時間と空間という対立を含まないで、それでいてすべて等しく成り立つような宇宙の記述もいくつでもありうるのである。現代物理学の相対性に基づく観点というものも、このような見方が数学的に表された一例である。ホーピ族の世界観も同様の例で、ただ全く違った種類のものであり、数学的なものではなく言語的なものであるというだけである。(同 P.14)

時間や空間を超えて存在するもの、それが西欧的アイデンティティですが、それを考えうるのは「文字の存在」と、その文字の「実体からの離脱(観念化)」が必要です(イリイチの言う「書物のテクスト化」)。「文字がある社会」「文字がない社会」という対立ではなくて、また文字があるかないか、それを使える(読み書きができる)かどうかでもなく、社会が「文字を前提にしている」かどうかが問題なのです。文字を前提とする社会では、客観的実在と主体との対立が生まれます。客観的実在という「仮面」をかぶった「観念(主観)」が支配する社会です。その社会では「普遍( unversal、一般)」がすべてを支配しています。簡単に言えば「自分が正しい(絶対的である)世界」です。私たち(この「私たち」に「あなた」が入るのかどうかわかりませんが)の世界が「紙の上のシミ(=文字)」、最近では「ディスプレイ上の点」でできている、あるいはそう見えているのではないでしょうか。

それは一つの「世界の見方」であって、その文化では「世界はそのように見える」のです。

和人が見ている世界と、アイヌが見ている世界、ロシアやウクライナが見ている世界が「同じ」世界(=同一性、アイデンティティ、ユニヴァーサル)だと思いこむこと自体が一つの「特殊な」自然観であること。まずそれを知ることが大切なのではないでしょうか。

私は無力です。電気を使うことも、病院に通うことも止められません。マジョリティであることを乗り越えることもできません。でも、何もできなくても考えることは(今のところ、少し)できています。今は「絶望」の中にいますが、自分が無力であることを認めたとき、「希望」が生まれるのかもしれません。

制度には未来がある・・・しかし人々には未来なんかない。人にあるのは希望だけだ(イリイチ『生きる希望』から、邦訳 P.25)



[著者等]

著者について
監修・著

佐々木史郎
国立アイヌ民族博物館館長

北原モコットゥナㇱ
北海道大学アイヌ・先住民研究センター教授


ウポポイ開業から4年、
先住民族アイヌとその文化への
関心が高まっている現在、
文化人類学、社会学、ジェンダー研究、
マイノリティ研究、言語学、
口承文芸学などの
さまざまな分野研究者を結集。
アイヌ観を塗り替える試み。

オールカラー写真、
イラスト、図版満載!!

【主な内容】

鼎談
なぜ今アイヌ学か
香山リカ/佐々木史郎/北原モコットゥナㇱ
第1部
ダイジェスト「アイヌの歴史」
北海道に人類が初めて上陸した3万年前から今日に至る、
アイヌモシㇼの歩んできた道を通史的に概観する。
第2部
世界からみたアイヌ
グローバルかつ世界史大の視点から従来になかったアイヌ民族/文化像を描き出す。
第3部
もっと知りたいアイヌのこと
「民族」としてのアイヌのあり方、あるいはアイヌ文化やアイヌ語を深掘りする。
第4部
アイヌ研究の最前線から
専門研究者の視点から最新のアイヌ民族、アイヌ文化、アイヌ史の研究を紹介する。



[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4909355485]

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