
新ゴーマニズム宣言スペシャル 戦争論
「脱正義論」では、ギャグ漫画で思想を表現できる数少ない漫画家であると彼を評したが、残念なことに、この作品は(第1章に多少のギャグはあるが)ギャグ漫画ではない。(本人の意図は分からないが。)単に彼の思想を漫画で表現したにすぎない。
「脱正義論」では、「正義」や「イデオロギー」でなく「情」が動機であるべきであるといった。しかし、「戦争論」ではそれを一歩進めて「自分のために」「個」を超えたところの「公=国」のためが動機であるべきであるといっている。なぜなら、「個」はそれのみで成立するものでなく、歴史的縦軸と、社会的横軸の接点であるからである。「個は、制限と束縛のなかで完成する。」
彼は、日本における「個」のあり方の特殊性についても述べている。欧米の個は「倫理」を善悪の基準としてもつ。それは一神教があるからである。日本は共同体のなかで他人の目を善悪の基準とする「道徳」をもっていた、というものである。これを、
個人のなかの価値基準=倫理
社会のなかの価値基準=道徳
と捉えれば、日本の善悪、正義感の特殊性とつながり、日本の文化(社会)の独自性となっていくのだが、それを単に日本には「個」がないという「脱正義論」のレベルにとどまってしまっている。
彼の戦争に対する考え方は、人間の本能である暴力性が承認されて顕在化するものであるということである。戦争が承認された暴力性の発露であるのなら、戦争そのものの善悪を問うことはできなくなる。そのため、彼は、大東亜戦争(太平洋戦争)における戦争行為の内容を、実態を克明に描く。西欧人がもつ黄色人種に対する偏見と、それがもとに行われた残虐行為。日本人の愛国心と、アジア・アフリカに対して果たした功績。そして「この戦争こそが/人類の成し得た/もっとも美しく/残酷な/そして崇高な/闘いだった」と結論づける。日本の立場でいえば「すべて日本人が自ら決断し/戦って敗れてなお/我に正義はあったのだ!」
戦争責任(数々の残虐行為等)が、GHQによる洗脳であったと彼は言う。これは、戦後の日本人みずからが言う「戦争責任」に対するアンチテーゼであって、事実をねつ造してまで「加害者責任」を問う「サヨク」に対する反発である。
認めよう。戦争には命を懸ける最高の生の充実があることも、南京大虐殺がなかったことも、自分の祖先を悪党にし、否定するべきではないことも。日本が行ったことを卑下する必要はないことも。しかし、彼は言うべきだった。大東亜戦争は、「日本にとって」の正義の闘いであったことを。正義はその文化に規定されることを。彼が言うように、「公共心は国によって違う」のだ。「正義」だって、国によって異なる。
確かに、「国旗に敬意を払う」くらいの公共心があれば、日本の社会は変わると思う。しかし、それは「ファシズム」であるといわざるを得ない。それが日本独自の「個」を生むとすらも思えないのである。
私は、愛するもの、守るもののためには銃を取るが、戦争はしたくない。戦争は(ルールをもった)個人同士の喧嘩ではない。政治・経済的な手法である。そこでは、個人は組織(国、あるいはシステム)の一部となってしまう。「日本人は軍部にだまされていたんだ。」という責任転嫁は「個」の不在の証明であるが、そのことと「日本人が自ら決断し」たのだということとは、全く別である。どんな状況のなかでも、個人は与えられた情報の中でみずからの行為を決めていく。詐欺的行為があろうと、恐喝的な行為があろうと自分の行動に責任をとらなければならない。自分の行為を後悔しても、為した行為は消えることがない。そのときの行為は、最善だった、あるいはそうするしかなかったのであり、その行為を経験として次の行為を決定していくしかないのである。(子供も大人も。)祖父は、祖父の与えられた状況(社会環境、情報、能力を含めて)の中で決断したのであり、今のコギャルも同じように与えられた状況の中で決断しているのである。その状況こそが、「制限と束縛」なのである。社会なのである。「制限と束縛」を「公」と呼んでもいい。しかし、「公=国」というのは論理的な飛躍ではないだろうか。確かに今「国」というものは「ある」。しかし、無批判に、あるいは厳密な定義を検討せずに「国」を持ち出すことは、単なる民族主義と同じになってしまう。
今の社会は資本主義社会である。(いわゆる社会主義国もその一部にしかすぎない。)今の社会では、お金が一番の平等主義者である。お金はその所有者が誰であれ、その所有者がどのようにお金を所有することになったのかもいっさい問わない。お金をもつことが人格なのであり、お金に替わる商品をもつことが人格なのである。賄賂で貰ったお金でも、売春をして貰ったお金でもお金に変わりはない。お金そのものが万能であり、正義なのである。「消費者は王様」である。これは「洗脳」であろうか。いや、これは「制度」である。われわれを取り囲む「状況」である。なぜなら、ある日洗脳が解けて、お金(や商品)が不要になる事がないからである。
しかし、お金の絶対性を「ずらす」あるいは「相対化」する事は可能であろう。そのとき、「個」のあり方も変化するに違いない。前述の言葉で言えば「人格」が変化するからである。そのときの「個」は一神教(一神教の神はまさしく貨幣である)の基での「倫理」的な個ではなく、むしろ、共同体的な「個」なのではないだろうか。私は、今の日本の状況を「憂う」「サヨク」であるが、一神教的神のいない、そして「私がその中にいる」現代日本にその可能性を求めたいと思っている。
彼が、「脱正義論」で感じた日本人の(あるいは学生の)「個」に対する失望はわかる。「個」を「公共性」に見つけたいこともわかる。しかし、彼が失望したような「個」が「国」に帰属したらどうなるか。とてもそれで「個」が確立するとも思えないし、確立していない「個」を「国」が補ってくれるとも考えられない。今のあるがままの彼らの中に、可能性を見つける。彼ならできる。ギャグ漫画という手段を使って。
2000.1.18
