国境の南、太陽の西 村上春樹 1992 講談社

国境の南、太陽の西

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村上春樹について書いたことがあっただろうか。記憶にないところを見ると初めてかもしれない。最近、なぜか1992年に発行された本を続けて読んだ。単なる偶然なのだが、重なると不思議に思える。1992年という年は特別なのかもしれない。
8年ぶりに読んだ本作は、初めてよんだときよりも新鮮に感じた。それはぼくの歳のせいなのだろうと思う。男は(女のことはぼくには分からない。)夢を追ったり、恋人のことを忘れられなかったりするものらしい。しかし、男にも時間は過ぎていく。そして、昔のように自分の思い出や夢を引きずることを許さないのが現代である。夢や思い出も流行りのインスタントラーメンのように使い捨てていかなければならないのだ。
しかし、思い出や夢は消えはしない。消えない以上、必要なことはその現代流の扱い方だ。その人その人、その状況、その時代に合わせた扱い方が必要なのである。少なくとも男にとっては(女のことは分からないので)そのためには結構な努力が必要である。それは、過去の自分を葬ることであり、現在の自分の存在基盤を揺るがすことでもある。それを自分の年齢に、あるいは時代に求められるのである。村上春樹が持つ現代性と、現実感はそんなところにあるのかもしれない。
村上春樹については、思いこみがありすぎてあまり書きたくはない。もう書かないかもしれないので、彼の作品全体について触れておきたい。それは、ぼくが理解できない部分のことである。その一つは、音楽、特にジャズである。ぼくは、ジャズが嫌いではないがほとんど聞かない。だから、キーワードのように出てくるジャズのタイトルを聞いても全然イメージがわいてこない。もっともこれはビートルズファンのぼくが「ノルウェーの森」というタイトルを理解できないことからして、ジャズだけの問題ではないのかもしれない。もう一つは、スイミングスクールなどのスポーツである。ぼくは体を動かすことが嫌いである。これは、何とか克服したいと思っている。ストレスが多い(頭の使うことが多い)社会ではスポーツをすることは、睡眠をとるくらい重要なことなのかもしれないからだ。この二つが理解できたとき、村上春樹の本はまた別の一面を見せてくれるかもしれない。
(2000年記)

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