![]() 排除の構造-力の一般経済序説 今村理論の中核を為す本である。 第三項の排除で思いつくのは「いじめ」である。学校におけるいじめが最初に浮かび、職場におけるいじめがつづいて浮かんでくる。もちろん、今村氏が言う第三項排除は、人間が関係を結ぶにあたっての必然としての問題であり、単にいじめの問題を扱っているわけではい。 しかし、具体的で小さなことが大切であり、私たちの闘争(思考)はそこから始めなければならないのである。相手が管理(支配)を網の目状に張っているのだから、それに対抗する方法も一人一人がその小さな網の目を破ることでしかありえない。いじめられないためにどうするか、いやむしろいじめないためにどうするのか、それを考え続けなければならない。 第三項の排除は、卑しめると同時に尊ぶ、下に排除するとともに上に排除するのである。学校でのいじめも、卑しめるだけではなく尊ぶ面があるはずである。それを見逃してはいけない。また、いじめにはいじめの中心となる人物がいる。その人物をどうとらえるか。その人物も「上に排除された」第三項として、とらえるべきなのか。排除における上下、尊卑が別の人物に分担されるのであれば、「卑」のほうの人物は浮かばれない。 私は、人間関係(社会)は二人ではなく、三人から始まると考えている。二人では相手も自分もまだ認識できない。差異は見えてこない。三人目を通して(透して)相手を、あるいは自分を見ることができるのだ。第三者(第三項)が相手や自分を映す鏡となるのである。そこでは暴力性の調停もありえるが、それは必然ではないかもしれない。また、その鏡の役目は固定されない。一人がそれぞれ他の二人の鏡となるのである。もちろん、よく移る鏡とそうでない鏡があるが、どちらも映るのは自分(あるいはあいて)の姿である。一人一人が他の人の鏡となる社会、そこに(つまり、展開された価値形態と一般的価値形態を同一のものとみなすこと)私は可能性を見出したい。 | |
| p109近代資本形式は、近代貨幣の存在論的性格をすべて吸収しつつ、同時にそれを局在化的に固定せずに社会全体に隅なく浸透させる無限運動を繰り返す。近代資本は、貨幣に結晶した第三項排除を全般化する。言い換えれば、近代資本とは、p110全般化された第三項排除運動である。 p185たいていの歴史的・社会的現象は、一揆と同じくスケープゴートなきスケープゴート効果の特質をもつといってよいだろう。具体的な犠牲者(第三項)が存在しないp186場合には、犠牲の空間の特質を共同体自身がひきうけ、 p221第三項は、何らかの形で、社会関係あるいは共同体のなかに「内面化」される必要がある。 p224イデオロギーの機能は、非イデオロギー的、現実的、「科学的」知の働きを発動せしめないようにする。 p235絶対という用語が現れるたびに、われわれは、第三項排除効果の「見えざる手」を看取するのでなくてはならない。 p236変身は、第一に共同体の成員が、排除された第三項に強制的におしつけた観念像である。第二に、この変身の観念は、日常的な儀礼的行為によって制度へと物質化される。 p237自由変身は、「自然発生的」、経験-歴史的であるよりもむしろ、先取的、自覚的、選択的である。それは「事実においてあった」のではなく、「これから実現されるべき」実践である。 p239資本の運動の成果は、一定の条件の下で、人間が自由に多様な実践を試みる可能性を与える。・・・資本の変身運動が散種する第三項排除効果を中断し、この効果を資本のシステムにふりむける批判的運動が起こるとき、別種の変身の可能性が生まれる。マルクスは、その批判運動を「革命」とよんだ。この批判運動も、第三項排除効果の産物である。中心化した資本の変身運動は、つねに第三項排除効果によって駆動されつつ、自らが第三項排除効果を発動せしめる。資本のシステムのなかから新しい排除される第三項が産出される。この新しい第三項をマルクスはプロレタリアートp240とよんだ。・・・これまでの変身は、共同体による第三項の強制変身、共同体の一者としての変身であって、諸個人の自由な変身の可能性は抑圧されてきた。自由な個人の自由な変身は、怪物性と聖性といった共同幻想への埋没からの脱出であり、権力からの逃走である。共同幻想の一様性の拒絶こそ、自由な変身の根本条件である。 自由な変身は、諸個人による多様な実践の試みである。変身は、多様性の生成である。 p241承認欲望が模倣欲望へと変身するプロセスを断ち切る条件が発見されなければならず、承認欲望の自発的な発現を促す道をみつけださなければならない。自由な諸個人が自由に多面性を生きる条件が保証されるということは、相互承認の条件が生まれたに等しい。・・・個体の非同一性、差異性、自由な変身(自由に-他-になる-こと)の相互承認の現実化が、「向こう側に」求められる。自由とは、非同一性への自由である。それは、アンチ・スケープゴート化である。 p261理性ないし知性は、おのれの第三項的出自を自覚してはじめて、自己反省の力を回復し、批判的理性として再生しうるのである。 | 個体性は、個性を通じてしか表出されない。「個人の意識」を通して普遍性を発現することこそが生き甲斐である。ロボットとの違い。オウムの間違い。個人は「自分」を楽しむ。普遍性を楽しむわけではない。個人の意識を無視したり、普遍性を強制する暴力HK 資本は固定的でない実態であるHK 排除する側とされる側の物化は同時である。排除される物の「目」が排除者を物化する。逆も同じ。相互通交。人間の関係行為による実在。HK 目は見たい物を見る。意識的に見る。本を読むときは、目は見たい物を脳に伝え、脳が判断する。 |
(2000年記)

