貨幣とは何だろうか 今村仁司 1994 ちくま新書
















貨幣とは何だろうか

貨幣とは何だろうか



貨幣についての、非経済学的な論考である。彼はこれを「貨幣の社会哲学」といっている。或る意味でフーコー的な貨幣にかんする論考である。貨幣は人間同士(あるいは共同体同士)を媒介するものであり、関係に媒介が不可欠である以上貨幣形式も不可避である。そういってしまう彼のペシミスティックな暗い影は本書にも現れている。人間関係がある限り貨幣形式はなくならない、排除の構造もなくならない、なにをしても無駄なんだ。そんな暗い気持ちが彼の著作を読むと湧いてくることがしばしばある。

近代をここまで理解しながら、それに対するアンチテーゼを提出しない。それは、彼が運動(政治運動を含めて)から一定の距離を常に置いているからであり、そういうスタンスが彼の著作を成功させているという意味では、戦略は成功しているといえる。

今村氏の資本論理解には、どうも浅いところがあるように感じるときがある。社会思想史、社会哲学が専門であるから、柄谷ぐらいは読んでいるだろうし、私とは比べものにならないくらいに経済学の本(それを思想史としてだろうが)読んでいるであろうが、彼が経済のことを話すときにはどうも表面的な理解しかないように思われるのだ。(彼の基礎理論である排除の構造は、資本論の商品論から出てきていると思われるのだが)

しかし、貨幣を「死」や「文字(文学)」と結びつける発想法は、経済学者にはできないことである。

貨幣形式が不可避であるとすれば、私たちができることは、私たちが話す言葉のどれが商品語であるかを見分けること、そして商品語で話すしかないとすれば、その意味をずらすこと。文字で表現するしかないとすれば、その文字をいかにパロールに近づけるかである。

「ヴェニスの商人の資本論」(岩井克人)をあわせて読まれたい。
p21関係を組織し制度をつくることは、人間関係の形式化である。形式は必ず物の形式をとる。



p24死の観念は経済や政治から分離されて制度としての宗教に委ねられる。近代国家と宗教の分離は近代の独自の事件である



p27なぜ人間は関係をもつに際して媒介者なるものを必要とするのか



p48人間の関係づけは、距離をつくりだし、同時にその距離を特定の幅の中に収拾することなのである。



p66(ジンメル)生活のあらゆる多種多様な可能性をまさに同じか兵学で所有することができるという事実がひとたび誰かを内的に支配すれば、彼はまさしく倦怠を感じるにちがいない。



p175デリダが指摘しているように、自己が自己に現前するというアンティーム(親密)な生、自分と自分が分裂しないで「ただいま現在、私はまさに私である」という感情を、文字は逆なでし、自己の固有性/自己性/本来性を解体するからである。



p192自然言語は、たとえば「固有名詞」のみの状態である。それからずれた状態が、普通名詞の登場である。固有名詞と普通名詞のあいだに、原初状態からのずれを測定することができる。ルソーは、このずれの中に分節言語の発生を見るが、そこに同時に自然言語にとっての危険な補完物をも見るのだ。分節言語は、固有名詞と普通名詞の分裂を引きおこして、固有名詞という「自己現前」(自分が自分と現在という場において対面している状態)を遠ざけていく。差異化と遅延が生まれ、複数の時間様態をつくりだす。
観念が受肉を必要とするのは近代のみである。HK



経済統制は人間関係の統制となる。(媒介形式としての貨幣の変わりとしての管理システム)HK





表現は常に媒介者(第三者、もの)を必要とする。表現が自己疎外にならない可能性は?HK

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