ニュー・フェミニズム・レビュー (Vol.3) 白藤花夜子編集 1992/03/20 学陽書房

ニュー・フェミニズム・レビュー (Vol.3)筆者がたくさんいるので、意見はまちまちです。女性が多いので、女性のポルノグラフィー観やセックス観が伺えて勉強になりました。

女性の性欲に対する考え方も、筆者によってまちまちですが、女性が自分たちの性欲について語ることができるようになっただけでもかなりの進歩です。

今でも根強い考え方ですが、女性の性欲は、男性によるきっかけや継続的な働きかけによって発生・継続するというものがありますが、その考えを助長しているのも、打ち崩しているのもポルノグラフィー(以下「ポルノ]と略する。)です。

むしろ今は男性が「生物学的な本能」神話に捕まったままのようです。

岸田秀の言うように、人間は本能が壊れた動物なので、性欲(性的欲望)というものも後天的・社会的に作られるのです。

半世紀前であれば、ポルノは大人に独占され、子供は年上の子から聞いたり、偶然股間を机にぶつけたりして性的快感を発見したかもしれませんが、今は情報が溢れているので、第二次性徴期が始まる前から性的欲望の対象を見つける。それが異性のときもあれば同性の時もあり、その中心としての性器(生殖器)だったりする(もちろん、自分の生殖器の快感も覚える)。

どうも今はおっぱいが男にとっての性欲の対象になっているが、女性にとっては快感を得る体の部分であっても、生殖器ではない。それが男性の性的欲求の対象物になるのはまさしく、性欲が社会的に作られている証拠です(男性にも乳首はあり、快感を得られる)。

フーコーの言うように、これほど性に関する言説が反乱している時代はないのかもしれない。それは、官僚主義的に階層化され分断された人々のふれあい(コミュニケーション)の数少ない手段であり、人間の商品化(対象化・物質化)の行き着く先でもあるからです。

商品が、どんどん「イメージ化」されていくように、性もどんどんイメージ化されていきます。そのイメージ化された性の一つが「ポルノ」であり、映像化、写真化、漫画化、文章化され、商品として流通するのです。

ポルノが性犯罪の温床になるという説をまことしやかにマスコミは報道します。恥じることもなくそういう見解を述べるコメンテーター(「有識者」ww)さんよ、それを検証したことがあるのかい?検証した論文を読んだことがあるのかい?キューブリックが「時計じかけのオレンジ」で描き、ナチスドイツも実験に成功しなかったことが公式の論文i掲載されることはありえません。「家宅捜索をしたら、大量のわいせつビデオが押収されました」。私の家にもたくさんありますよ。と言うか、今の時代、AVはレンタルされることも少なくなり、販売数も低下しています。ネットで、どこでもいつでも見られるからです。数少なくなった「コレクター」を私は尊敬しちゃいます。

私は「強姦物」は殆ど見ません。見ると気持ちが悪くなるからです。暴力を受けた人の気持ちが伝わってくるからです(演技ですけど)。けれど、刑事モノの暴力シーンは見れたりします。つまり、制度化された暴力には許容量が多いようです。

言葉の暴力も含めて相手の痛みがわからない人が性犯罪を犯すのです。そういう素質を社会が作っていることは少しでも会社で働いたことがある人ならわかるでしょう(わからない?あなたのような人がそういう社会を作っているのですよ!)。ポルノが有っても無くても、そういう人は犯罪を犯す可能性があります。ポルノとは関係ありませんが、稀に相手が苦しむことに性的快感を覚える人がいます。その人達はサディストではありません。精神異常者です(彼らを社会がどう扱うべきかについては別稿に譲ります。)。サディスムというのは愛の形です。愛のない暴力は、ただの暴力でしかありません。

強姦の話になったので、女性の「強姦願望」について触れます。これだけ性に関する情報が溢れているのに、制度化されていない(つまり夫婦間ではない)性行為は影の存在であり、公言することは憚れる存在だということです。女性の性欲は特に表に出せないものです(変わりつつありますが)。「淫乱」「痴女」「尻軽女」「誰とでも寝る女」「売女(ばいた)」等の自分を社会的に貶める言葉が待っているからです。そこで、女性は自分の性的欲望を相手の前では隠さなければなりません。自分は性に消極的でなければならず、相手が積極的になっても、一旦は拒否するふりをします。それでも相手がやめなければ、体を「許し」、そういう行為をした責任を相手に転嫁するわけです。一番相手に転嫁しやすいのは、無理やり「力」(男の象徴)で「犯される」こと、つまり「強姦」です。「強姦願望」というのは本当に「犯されたい」ということではなくて、自分の責任ではなく性的欲望を見たいたいということです。ですから、オナニーの妄想には最適なのです。男性諸君、女性が本当に「犯されたい」と思ってるなんて考えちゃだめだよ。

だから、「強姦欲望」の基礎には現在の男性中心主義、男性優位主義があるわけです。(現代社会では)「この文化産業におけるポルノの特殊な役割は、社会支配、とくに男性による女性の支配をエロティックに描くこと」(P.260)なのです。「私達が、男性中心の美や魅力のイメージの影響を受けて、自分で自分に課した暴力についてはどうだろう。女たちは、ハイヒールをはいて自分の腱を痛め、ダイエットと暴飲暴食を繰り返しては食習慣をくずし、たえず外見を気にしては感情面の健康をそこなっている。(中略)私達は性差別の指令を内在化させるやいなや、自分の地位を引き下げ、自分に無理を強いる。」(同)「見られる存在」としての女性の悲劇です。

「ポルノを禁止すればすべてが解決する」などという気楽というより危険な考えではいけません。ポルノを考えていけば、それは男性中心主義の問題だけでなく、その問題を引き起こす社会構造そのものを変える必要に迫られます。生産中心主義、商品社会、利潤至上主義、貨幣社会(負債社会)、それらが男性中心主義を形作り、それに利用するために女性の雇用を増大させているのが現代社会です。受付嬢から掃除婦まで、全ては男性中心主義に(企業の利益に)結び付けられていることで、女性の地位をますます低くしているのです。

今なすべきことは、男女雇用均等法の遵守ではありません。むしろ男も女も「働かないこと」、商品社会(貨幣社会)とは別の次元で生きること。そのために強くなること、自分の「生」や「性」を自分自身に取り戻し、自己決定することなのではないでしょうか。

ポルノの持つ意味は、決して単純ではないし、単体で考えられるものではありません。私達(男も女も)の社会の問題であり、私達の生き方の問題なのです。