資本主義と倫理 分断社会を超えて 岩井克人、生源寺眞一、溝端佐登史、内田由紀子、小嶋大造著 京都大学経済研究所附属先端政策分析研究センター編 2019/03/20 東洋経済新報社

資本主義と倫理 分断社会を超えて 岩井克人、生源寺眞一、溝端佐登史、内田由紀子、小嶋大造著 京都大学経済研究所附属先端政策分析研究センター編 2019/03/20 東洋経済新報社

京都大学と東京大学・Kyoto-U OCWと東大TV / UTokyo TV(Youtube)

京都、というか関西の人と、東京の人(東京生まれではなく、東京に流れてきた人も多い)ってぜんぜん違うように思います。

京大のYoutubeと東大のYoutubeを観比べてみてください。京大のほうが楽しそうで、東大のほうが真面目な気がするはずです。それじゃあ、京大の先生はふざけているか、というとそんな事はありません。内容が浅いわけでもありません。たぶん、関東の人は「話すこと」は「意思を表すこと」だと思い、関西の人は「話すこと」は「人を楽しくすること」だと思っているフシがあります。自分の思っていることを直球で伝えるのは「野暮(いけず?京都、関西弁は知りません)」だと思っているのかもしれません。

テレビドラマなんかでのニュアンスしかわかりませんが、「くだもの、なにが好き?」と訊いて「いちご」という言葉が返ってきたとき、答えたのが関東人なら「そうかあ」とそのまま納得するけど、関西人なら納得するのはちょっと保留して次の言葉を待つことが必要な気がします。場合によっては次に何か「オチ」がつづくかもしれないからです(思いつかない。「いちごいちえ」じゃだめだし・・・)。とくに大阪近辺なら「笑わせること」が「意思を伝えること」より大切なことかもしれません(偏見かもしれないけど)。

河合隼雄さんの講演なんか聞いていると、ほとんど「落語」を聞いているような気がします。それでいて、内容はとても深い。しっかりとした学問に基づいた理論を展開しているのです。それに比べて立花隆さんなんかは「まじめ」が話しているようです。どっちも「はっちゃけ」ているんですけどね。どちらも常識にとらわれてなんかいないのです。だから、常人のやらないことをやったと思います。

最近、本を読むとその著者がどこで生まれてどこで育ったのかが気になります。面白い発想の著者は関西出身の人が多い傾向があるような気がします。たとえば、同じ日本語学でも大野晋さんの『日本語の起源』と鈴木孝夫さんの『言葉と文化』との発想の違いはそこにあるのかな、と思ったのですが、鈴木孝夫さんは関東の人でした。まあ、「人による」ということですね。鈴木孝夫さんが関東の人だと知ると、その後の彼の著作の読み方がちょっと変わる気がしたりします。(笑)

シンポジウム

この本は、京大経済研究所が企画した「シンポジウム」です。岩井さんは別として京都大学の先生が中心です。「シンポジウム」の語源は古典ギリシャ語の「Συμπόσιον(シュンポシオン)」だと思いますが、これはプラトンの有名な著作『饗宴』のタイトルです。飲み食いをしながら楽しく話をする場ですね。『饗宴』を読んでもらえばわかりますが、日本で言う「ただの宴会」ではありません。楽しく話をしながら議論を闘わせる場です。『饗宴』ではちゃんと「お題」と「ルール」を決めて話をする様子が描かれています。お題にもとづいて、Aが話をしてその間は他の人は割り込まない、次にBが話す、という感じです。そして、議論が始まります。

現在日本で行われているシンポジウムも、「お題」と「ルール」が決められています。ただ、「飲み食い」はできないのが残念です(笑)。そして、それぞれが意見を発表したあとに「議論・ディスカッション」が行われるというのは古典ギリシャ以来の3000年の伝統ですが、議論が議論になることは少ないです。これは欧米と違う気がします。

最近は「ディベート」とかいう言葉が流行っているようです。「討論」と訳せばいいのでしょうか。「討つ、闘う」というニュアンスが強い気がします。相手を打ち負かす、というニュアンスです。それが日本では「ゲーム」にはならないような気がします。「和を以て貴しとなす」文化ですからね。私は、打ち負かしたあとの「関係修復」が苦手なので、どうも討論は好きになれません。欧米は対立して存在する個々人が社会の基礎を作っています。日本は「対立しない」人々が、なんか「共通認識」らしきものを抱えて集まって社会を作っています。もちろん、これも「程度の差」なのですが、どうも最近は日本も欧米化している気がします。

資本主義

「資本主義」とはないか、を岩井さんが端的にまとめています。

「貨幣で測った収入と費用を比較して、収入から費用を引くとそれが利潤になる。利潤がプラスであれば、さらに追加で投資をする。利潤がマイナス(損失)であれば、そこから資金や資源を引き上げる。それだけである。

資本主義は、基本的にこの原理だけで動いている。貨幣ですべての価値を一元的に測り、そしてあとは引き算で、プラスだったらゴーサイン、マイナスだったら撤退サイン、この原理だけで動いている。実は引き算は、算数のなかではもっとも簡単な計算であり、誰でもできる。だから資本主義はグローバル化するのである。」(P.46-47)

つまり、すべてを「数値化」する社会です。「なんでもお金に換算する(できる)」社会です。

これは「簡単」なように見えて、すこしも簡単じゃないのです。簡単に思えるのは、私たちがそういう社会の中で育っているからです。「1たす1は2」ということを徹底的に教え込まれているからです。そしてそう思わなければ「生きていけない」あるいは「とても生きにくい」社会に生きているからです。「私の家のタマ」と「となりの三毛」が猫だとして、「猫1匹たす猫1匹は2匹の猫」と言ってしまえば、そこでは「タマ」と「三毛」の個(別)性が無くなってしまいます。タマと三毛は交換できません。でも、「猫1匹」と「猫1匹」、あるいは「1万円」と「1万円」は交換できるのです。そして、「猫1匹」と「1万円」は交換できることになります。これが「資本主義」です。

「タマ」と「三毛」は別に対立しているわけではありません。たまには喧嘩をするかもしれないけど。ところがこれを「太郎」と「花子」という人間のようにみなすと、「太郎」と「花子」は別の人間、別の個性、別の人格、別の「自分(自己・自我)」です。「私とあなた(我と汝)」は対立している、というのが西欧(インド=ヨーロッパ語圏)の考え方です。そこには越えられない「絶対的な溝」がある、という考え方です。「和を以て貴しとなす」という発想とは根本的に違うと思います。

それじゃあ、対立している「太郎」と「花子」は仲良くなれないのか。いや、「ふたりとも同じ「人間」じゃないか」。そう、「人間」として同じなのです。それを猫にも当てはめます。「タマも三毛も猫としては同じ」。つまり、「タマも三毛も猫1匹」とみなすのです。それが「数値化(数量化)」であり、「交換可能性」です。

分類学、博物学、統計学

「私たち人間」、というのは「人間」という共通点を見つけているのですが、それは同時に「タマ、三毛」に「猫」という共通点を見つけるということでもあります。つまり、「人間」と「猫」の「差(差異)」を見つけるのです。世界が人間だけしかいなければ、「人間」という共通点は見つけられないのです。この「人間として同じ」ということが難しいのですが、余裕があれば補論で。

「人間」という分類ができれば、人間以外のものも分類されます。分類学の誕生です。分類学は詳しくありませんが、それなりに面白そうです(『学名の秘密 生き物はどのように名付けられるか』スティーブン・B・ハード)。カール・リンネの『自然の体系』が出版されたのは1735年です。

分類をし始めると、つねに「例外」が見つかります。「新種」もつねに「発見」されます。ルネサンス(14世紀ー)、大航海時代(15世紀ー)は世界中の珍しいものをヨーロッパにもたらしました。集まったものは学問的には「分類」しなければならないのですが、分類したものを保管・展示するのが博物館です。大英博物館は1753年の博物館法に基づいて作られました。

すべてのものが、分類されると数えることが可能になります。太郎と花子は「二人の人間」と数えることができます。それが統計学となります。ゴットフリート・アッヘンヴァルが『ヨーロッパ諸国国家学綱要』を出版したのが1749年です。「統計」の対象は、「人」です。人でなくても、クジラやタンチョウ、ヤンバルクイナ、ニホンタンポポ・・・何でも統計の対象にはなります。どれも数値化可能ですから。でも、統計学が『ヨーロッパ諸国国家学綱要』で始まったように、それは当初から「統治の技術」でした。国や町の人口を把握することから始まったのです。近代国家が統治の手法として採用したのが統計学でした。

そして、領内(市内)の住民の数だけじゃなく、食料状況、健康状態、平均寿命などを集計するだけでなく、過去の実績を基に将来の状況を予想をすること、これは確率であらわされることになります。ラプラスが『確率の哲学的試論』を出版したのは1814年です。

それぞれの学問は古典ギリシャの時代から、ヨーロッパだけじゃなく、インドや中国、その他の文化でも考え続けられていました。アリストテレスの自然学は有名ですが、ヨーロッパではローマ帝国が崩壊するまで、古典ギリシャの学問(ヘレニズム文化)は忘れられていました。ヘレニズム文化はアラブ人が引き継ぎ、帝国崩壊後にヨーロッパで「再生」しました。それが「ルネッサンス」です。その証拠に、私たちが「科学」と呼ぶものでは「アラビア数字(1、2、3、4)」を使っていますよね。ローマ数字(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ)を使うことはまれです。

私たちが「当り前」だと思っている「数値化」は、人間が「抽象化(象徴化)」能力を身に着けたときからあると思いますが、「何でも数えることができる」「価値を数字で表すことができる」などと考えるようになったのは近代になってから、つまり資本主義と軌を一にしているのです。

確率

新型コロナウィルスが流行ってから、私はとても気になっているのは、「何人が感染した」という数字とともに、「ワクチンの有効率が95%」だとか、治療薬の「重症化予防率が30%」だ、とかいう数字です。あと、「新規感染者が7日連続20人を下回った」「先週の同じ曜日に比べて150%」とかいう数字を垂れ流すマスコミです。「20人を下回った」のが「7日連続」なのが事実だとして、それに何の意味があるのでしょうか。「50人を下回った」のは「1ヶ月」かもしれないし、「1000人を下回った」のは「半年ぶり」かもしれません。それらの数字は意図的に出されたものです。「増加傾向にある」「減少傾向にある」ということを言いたいがために、「作られた数字」です。毎日、新聞に「世界の感染者数」がでていますが、「延べ」です。ほとんどの人が「回復(治癒)」する病気ですから、「現在感染している人」はぜんぜん違う数字です。まあ、「感染」の定義が各国でまちまちですから、もともと有効な数字じゃないのですが。

「有効率95%」と聞くと、すごいなあ、よく効くなあ、と思ってしまいます。95%に効く薬なんてないでしょうからね。あなたが飲んだ薬の何割が「効いた」と思いますか。私は効かなかったか、効いたかどうかわからない薬のほうが多いです。95%の内実はファイザーのホームページに載っていますので、ご自分で確かめてください。

ワクチンは、病気を治す薬ではありませんから、効いたかどうかはわからないのです。新型コロナウィルスにかからなかったとして、それがワクチンの効果かどうか、ワクチンを打ったからかからなかったのかどうかはわからないのです。そもそも、「感染者」と言われている人は人口の1%程度です(日本は1%以下です)。かからなかったのはワクチンの効果かどうかなんてわからないのです。新型コロナウィルスの話を始めると止まらなくなってしまうので、確率の話しに戻ります。

コインの表裏の確率は二分の一(50%)です。でも、目の前の現実のコインは「半分表」で「半分裏」なのではありません。「表」か「裏」のどちらかです。そんなことは誰でもわかっています。日本人の50%が「幸福だ」と答えたとして、「私は半分幸福」なわけではありません。それもわかっています。「日本人の平均寿命は84.36歳(2019年)」だとしても、私やあなたが84歳まで生きるわけではありません。84歳で死ぬ確率が一番高いわけでもありません。ところが、84歳まで生きる(生きたい)と思ってしまいます(ちなみに平均寿命は、0歳児の平均余命のことだから、2019年に生まれた人は平均84歳まで生きる「だろう」という意味で、私は60数年前の平均寿命を生きています。ところで平均寿命というのは、つねに検証されているのでしょうか)。

それじゃあ、平均寿命というのは誰にとって意味があるのでしょうか。まず思いつくのは生命保険会社ですね。保険金の10分の1の掛け金を11人から集めて1人が死ねば一人分の掛け金が保険会社の儲けとなります。もうひとつは「政策」に反映させることです。保険会社と、政府は持ちつ持たれつ、あるいは一心同体ですからね。保険というのは、全く物理的な商品の実体を持たない商売です。安心を売っているというか、不安につけこんでいると言おうか。そして、政府に手厚い福祉政策をされると、売上が下がる商売です。「将来に対する不安」をつねに持っていてもらわなければならないのです。逆に言うと、現状に満足してもらってはいけないのです。

順位付け

「ランキングにすると、ものごとが分かりやすくなる。」「資本主義化した世界では、認知的な節約のためになんでもランキングしようとする。」(内田 P.154,155)

大きい、小さいは物の属性でしょうか。AとBを比べてBが大きかったとしても、「大きい」はBの属性とはいえないのです。Bより大きいCがあれば、Bは「小さい」という属性を得ることになります。そんな議論をプラトンは彼のイデア論の説明でしています。そう考えちゃうと、「美」とか「善」とか「快」とかにも同じことがいえちゃいますよね。

順位づけ、あるいは優劣をつけるというのは「同じもの」のあいだにいえるのです。ラーメンは家ごとに、店ごとに味が違います。でも、同じラーメンであればAのラーメン屋とBのラーメン屋を比べることができます。でも、ラーメンとカレーライスの比較はあまり意味がありません。去年はオリンピックイヤーでした。金メダル、新記録、日本人初・・と日本中が騒ぎましたが、何故か男女で試合が分かれています。「男女混合」というゲームはありますが、男と女が競う試合はありません(たぶん)。短距離走で、人間の男と、オスのチータが競う試合もありません。不思議なことに、「体重別」というゲームはあっても、「身長別」というゲームはありません(多分)。年齢別(年齢制限)は一部のゲームにはあるようです。

「事業仕分け」で『一番じゃなきゃダメですか?』という蓮舫さんの言葉が有名になりましたが、コンピュータじゃなくて「日本はそろばんで一位になりましょう」という話にはなりません。

「同じ」という概念は、ほとんどの文化にありそうです。ただ、それがどこから生まれてきているのかには違いがあると思います。日本人は犬猫と人間は「同じ生き物」「同じ生命」あるいは「同じ魂」であって、それがたまたま「違って現れている」と考える傾向にありそうです(「輪廻」「一分の虫にも五分の魂」等)。古典ギリシャも似た傾向があります。どちらも多神教ですね。そして、歴史は「繰り返す」と考えます。でも、一神教の地域では、輪廻は考えるのが難しい。歴史は繰り返すのではなくて、「一方方向」に流れます。これはヘブライ(セム系)に強い考えです。宇宙はどこからか始まって、どこかに「楽園」または「最後の審判」があるという考え方です。ヨーロッパはこの両方の流れをくんでいるのですが、キリスト教というヘブライの宗教が支配した結果、「進化論」的な考えが生まれました。世界は「変化」するのではなく「進化」して、神の意志を実現しようとするのです。今の世界は不完全なのです。今の世界に満足することは、神の意志に反することです。「つねに不満足でいること」。それが神の意志に従うことなのです。

倫理

そのヘブライ的な思考がどうしてヨーロッパで受け入れられたのかはよくわかりません。原因として考えられる一つは、その言語構造です。「インド=ヨーロッパ語(印欧語)」は必ず主語を伴います(「主語」という概念がそもそも「印欧語」をベースにしています)。何でもかんでも主語をつけます。「It rains」「It's fine today」(雨が降っています。今日はいい天気だ。)の「It」ってなんでしょう。日本語ではそんな物は不用です。この「主語−述語」構造は、「主体−客体」構造と同じです。この構造が「私と私以外のもの(客体、他者)」と対応します。つまり、「私とあなたは違う」というところから、「私とあなたは同じ人間」という発想をするのです。日本人は「私とあなたは同じ人間だけど、違う」という逆の発想をしがちなのではないでしょうか。「平等」という言葉は仏教用語から来ているそうです。「平等院鳳凰堂」の「平等」です。でも、インドでの「平等」と日本人が考えていた「平等」は違うような気がします。

「輪廻」についても、ギリシャ=インドと日本では違う気がします。輪廻では「六道十界」を巡って、人間に生まれ変わることを大切にします。古典ギリシャでも、魂が再度人間の肉体を得ることを最上とします。でも、日本では、人間に生まれ変わることにあまりこだわらないのではないでしょうか。「お盆だから、じいちゃんが虫になって帰ってきたんだよ」って感じです。ヨーロッパでは、現実界に帰ってくるのは大抵「幽霊」です。「生まれ変わり」もたくさんいそうです。日本では、「生まれ変わり」って怖い気がします。

もうひとつの原因として考えられるのは、「文字」です。これについては省略します。

「自分とは違う他者」の存在は、つねに自己を脅かします。日本のように自然が豊かな地域では、他者を排除する必要はありません。とくに農耕を行う文化は、他者が自己の存立条件にすらなっています。牧畜文化では他者が自分の家畜の草を食べてしまっては、自分の家畜が育ちません。鈴木孝夫さんによるとイギリスで芝を大切にするのは、イギリスでは芝ぐらいしか育たないからだそうです。日本なら、ほっておくとすぐ「草がボウボウ」になります。他者とは「敵対関係」か、せいぜい「必要悪」としてしか存在しないのかもしれません。「同じ」だからではなく「違う」からこそ「自由・博愛・平等」という思想が出てくるように思うのです。

そこで、求められるのが「倫理」です。倫理は「道徳」とは異なります。もちろん、「論理」とも異なります。論理は、「主語−述語(あるいは主体−客体)」構造に基づくインド=ヨーロッパ語の構造を表したものです。それでは決して補えない部分をヨーロッパでは「倫理」として定立しなければなりませんでした。それは、自己と他者、思考と感情、人間と自然、近代以降では科学と宗教の対立としてあらわれます。日本では「道徳」の「道」が論理と倫理の両方を表しているのではないでしょうか。

岩井さんは

「私たちが生きている社会の構造を突き詰めていくと、倫理が必要なことが論理的に浮かび上がってくるためである。」(P.59)

などと、脳天気なことを言っていますが、いくら論理を突き詰めてもそこには倫理なんか浮かんできません。岩井さんは「信任関係のモデルとしての文楽」(P.63)を見つけて喜んでいるようですが、「文楽」にも「能」にも「歌舞伎」にも「倫理」や「論理」は見つけられないと、私は思います。

大学で学問をするということ

脳天気な岩井さんは別として、ほかの論者は自分の学問に「苦悩」しているように思えました。

内田さんは

「しかし、こうした議論をすること自体、資本主義的価値観に毒されているのかもしれない。何でもかんでもランキングしてしまって、こういう国が幸福で、こういう国が不幸ですよという流れに乗ってしまっている。」(P.158)

といい、生源寺さんは、

先ほどの推計には景観の形成や文化の伝承といった要素は含まれていない。経済計算には荷が重いというべきであろう。かりにも、文化の伝承の価値までもお金に換算しないと分からないとすれば、いささか情けない話ではある。」(P.97)

といいます。それで「飯を食っている」以上、学問そのものを否定することはできないでしょう。それでもどこか、「学問で学問を否定する」「論理で論理を否定する」というニュアンス、私にとっては希望、がある気がするのです。それは岩井さんの、「論理で倫理を導き出す」というベクトルとは全く違います。そして、それは「論理(近代)の関東」に対する京都(大学)の存立意義でもあると思うのです。

「ディスカッション」

「パネル・ディスカッション」というけど、少しもディスカッションになっていません。日本では、対談でも「同じ=共通認識」をベースにして、対談相手の機嫌をそこな寝るようなことはいわない傾向がある気がします。もちろんディベートにもなっていません。このようなメンバーですから、議論になりにくいということもあるでしょうし、岩井さんに対する遠慮もあるのかもしれません。出版社である東洋経済新報社に対しての配慮もあるのかもしれません。

このシンポジウムのあとの「打ち上げ」(饗宴)を収録したら、面白かったのかもしれません。





⟨impressions⟩

Kyoto University and the University of Tokyo ・ Kyoto-U OCW and the University of Tokyo TV / UTokyo TV (Youtube)

Kyoto, or rather Kansai people, and people from Tokyo (not born in Tokyo, but flowing to Tokyo) (Many people have come)) I think it's completely different.

Please compare Youtube of Kyoto University and Youtube of the University of Tokyo. Kyoto University seems to be more fun, and the University of Tokyo should be more serious. Well then, isn't that the teacher at Kyoto University playing around? The content is not shallow either. Perhaps Kanto people think that "speaking" is "expressing their intentions", and Kansai people think that "speaking" is "making people happy". You may think that it is "Yabo (I don't know Kyoto or Kansai dialect)" that conveys what you think in a straight ball.

I only know the nuances of TV dramas, but when I asked "What do you like about fruits?" And the word "strawberry" came back, the Kanto people answered " I'm convinced as it is, but I think it is necessary for Kansai people to hold back for a while and wait for the next word. In some cases, something "punch line" may follow (I can't think of it. "Ichigo Ichie" is no good ...). Especially in the vicinity of Osaka, "making people laugh" may be more important than "expressing their intentions" (although it may be a prejudice).

When I hear Hayao Kawai's lecture, I feel like I'm almost listening to "Rakugo". Still, the content is very deep. We are developing a theory based on solid scholarship. In comparison, Takashi Tachibana seems to be talking "serious". Both of them are "chucky". Neither is bound by common sense. That's why I think I did something that ordinary people don't do.

Recently, when I read a book, I wonder where the author was born and raised. I feel that many authors with interesting ideas tend to be from Kansai. For example, in the same Japanese linguistics, Susumu Ohno's "Origin of Japanese" and Takao Suzuki's "Words and Culture] ”, I wondered if there was a difference in the way of thinking, but Takao Suzuki is a Kanto person. was. Well, it means "depending on the person". When I find out that Takao Suzuki is from the Kanto region, I feel that the way he reads his work after that will change a little. (Laughs)

Symposium

This book is a "symposium" organized by the Institute of Economic Research, Kyoto University. Apart from Mr. Iwai, the main focus is on Kyoto University teachers. I think the etymology of "symposium" comes from the classical Greek word "Συμπόσιον (Shumposion)", which is Plato's famous book "The Symposium" (https://nomado.moo.jp/medias/2021/08/24/). 3333 /) ”title. It's a place to have fun talking while eating and drinking. As you can see by reading "Feast", it is not just a "banquet" in Japan. It's a place where you can have fun talking and fighting discussions. In "Feast", it is depicted that the "theme" and "rules" are properly decided and talked. Based on the subject, it feels like A talks, while others don't interrupt, and then B talks. And the discussion begins.

The symposium currently being held in Japan also has "themes" and "rules". However, it's a pity that I can't "eat and drink" (laughs). And although it is a tradition of 3000 years since classical Greece that "discussion / discussion" is held after each person announces his / her opinion, the discussion is rarely controversial. I feel that this is different from Europe and the United States.

Recently, the word "debate" seems to be popular. Should it be translated as "discussion"? I feel that the nuance of "defeat, fight" is strong. The nuance of defeating the opponent. I don't think it will be a "game" in Japan. It's a culture of "being precious with harmony." I'm not good at "repairing relationships" after defeating, so I just don't like the debate. In Europe and the United States, individuals who exist in conflict form the basis of society. In Japan, people who "do not conflict" gather together with something that seems to be "common recognition" to create a society. Of course, this is also a "difference in degree", but I feel that Japan has become westernized recently.

Capitalism

Mr. Iwai briefly summarizes whether or not there is "capitalism".

"Compare the income and expenses measured in money and subtract the expenses from the income to make a profit. If the profit is positive, make an additional investment. If the profit is negative (loss), then withdraw funds and resources from it. That's it.

Capitalism basically works only on this principle. All in money. The value is measured centrally, and the rest is subtraction. If it is positive, it is a go-ahead, if it is negative, it is a withdrawal sign. In fact, subtraction is the simplest calculation in arithmetic and anyone can do it. That is why capitalism is globalizing. "(P.46-47)

In other words, it is a society that" quantifies "everything. It is a society where "anything can be converted into money".

This looks "easy" and is not a little easier. It seems easy because we are growing up in that kind of society. This is because they are thoroughly taught that "1 plus 1 is 2". And if you don't think so, you are living in a society where you cannot live or are very difficult to live. If you say "one cat and one cat is two cats", assuming that "Tama in my house" and "next to the calico cat" are cats, then "Tama" and "calico cat" The individuality (separate) of is lost. Tama and calico are not exchangeable. However, "1 cat" and "1 cat", or "10,000 yen" and "10,000 yen" can be exchanged. And you can exchange "1 cat" and "10,000 yen". This is "capitalism".

"Tama" and "Mitsuge" are not in conflict. Sometimes I may have a fight. However, if you think of this as the human beings "Taro" and "Hanako", "Taro" and "Hanako" are different human beings, different personalities, different personalities, and different "self (self / self)". The idea of ​​Western Europe (Indo-European-speaking countries) is that "I and you (I and you)" are in conflict. The idea is that there is an "absolute groove" that cannot be overcome. I think it is fundamentally different from the idea of ​​"being precious with harmony."

Then, can "Taro" and "Hanako" who are in conflict get along with each other? No, "Isn't they both the same" human "?" Yes, it is the same as a "human". Apply it to cats as well. "Tama and calico are the same as cats." In other words, we consider both the ball and the calico cat to be one cat. That is "quantification (quantification)" and "exchangeability".

Taxonomy, natural history, statistics

"We humans" have something in common with "humans", but at the same time, "Tama, It also means finding the commonality of "cat" in "three hairs". In other words, we find the "difference" between "humans" and "cats." If the world is only human, we cannot find the commonality of "human". It is difficult to say that this is "the same as a human being", but if you can afford it, I will add it.

If the classification of "human" can be made, non-human beings will also be classified. The birth of taxonomy. I'm not familiar with taxonomy, but it seems to be interesting as it is ("How are secret creatures with scientific names named" Stephen B. Hard). Carl Linnaeus' Systema Naturae was published in 1735.

When you start categorizing, you will always find "exceptions". "New species" are always "discovered". The Renaissance (14th century) and the Age of Discovery (15th century) brought rare things from all over the world to Europe. The collected items must be "classified" academically, but the museum stores and displays the classified items. The British Museum was built under the Museum Act of 1753.

Everything can be counted once it is categorized. Taro and Hanako can be counted as "two humans." That is statistics. Gottfried Achenwall published the "European National Academic Guidelines" in 1749. The target of "statistics" is "people". Even if you are not a human, whales, Japanese cranes, Okinawa rails, Japanese dandelions, etc. are all subject to statistics. All can be quantified. But, as statistics began in the "European National Principles", it was a "technique of governance" from the beginning. It all started with understanding the population of a country or town. Statistics was adopted by modern nations as a method of governance.

And not only the number of inhabitants in the territory (city), but also the food situation, health condition, life expectancy, etc. are aggregated, and the future situation is predicted based on the past results. What you do, this will be represented by probability. Laplace published The Philosophical Essay of Probability in 1814.

Each discipline has been considered not only in Europe but also in India, China and other cultures since the days of classical Greece. Aristotle's physics is famous, but in Europe the classical Greek scholarship (Helenistic culture) was forgotten until the fall of the Roman Empire. Hellenistic culture was taken over by the Arabs and "regenerated" in Europe after the collapse of the empire. That is the "Renaissance". As proof of that, what we call "science" uses "Arabic numerals (1, 2, 3, 4)", isn't it? It is rare to use Roman numerals (I, II, III, IV).

I think that "quantification", which we take for granted, has been around since humans acquired the ability to "abstract (symbolize)", but "anything". It wasn't until modern times that I began to think that "it can be counted" and "it can express value numerically", that is, it is in line with capitalism.

Probability

Since the outbreak of the new coronavirus, I have been very concerned about the number of people infected and the effectiveness rate of the vaccine. It is a number such as "95%" or "the aggravation prevention rate of the therapeutic drug is 30%". Also, it is a media that spills numbers such as "the number of newly infected people has fallen below 20 for 7 consecutive days" and "150% compared to the same day of the week last week". If it is true that "less than 20 people" is "7 days in a row", what does that mean? "Less than 50 people" may be "1 month", and "less than 1000 people" may be "for the first time in half a year". Those numbers are intentional. It is a "number made" because I want to say "it is on the rise" and "it is on the decline". Every day, the newspaper says "the number of infected people in the world", but it is "total". Since most people have a "healing" illness, "currently infected" is a completely different number. Well, the definition of "infection" varies from country to country, so it's not a valid number from the beginning.

When I hear "effective rate 95%", I think it works great and works well. There is no medicine that works for 95%. What percentage of the medicine you took "worked"?I have more medicines that didn't work or I don't know if they worked. 95% of the details are listed on Pfizer's homepage, so please check for yourself.

Vaccines are not cures for illnesses, so I don't know if they worked. If you didn't get the new coronavirus, you don't know if it was a vaccine effect or if you didn't get it because you got the vaccine. In the first place, about 1% of the population is said to be "infected" (less than 1% in Japan). I don't know if the vaccine was effective or not. When we start talking about the new coronavirus, we can't stop, so let's return to the story of probability.

The probability of the front and back of a coin is half (50%). However, the actual coin in front of you is not "half front" and "half back". Either "front" or "back". Everyone knows that. Even if 50% of Japanese people say "I'm happy", it doesn't mean "I'm half happy". I know that too. Even if "the average life expectancy of Japanese people is 84.36 years (2019)", it does not mean that I or you will live until 84 years old. Nor is it the most likely to die at the age of 84. However, I think that I will live (want to live) until I am 84 years old (By the way, the average life expectancy is the life expectancy of a 0-year-old child, so people born in 2019 will live up to 84 years old on average. I live the life expectancy of 60 years ago. By the way, is the life expectancy always verified?).

So who does life expectancy mean? The first thing that comes to mind is a life insurance company. If one person dies by collecting one-tenth of the insurance money from 11 people, the insurance company will make a profit. The other is to reflect it in "policy". The insurance company and the government are either held together or united. Insurance is a business that has no physical product substance. Let's say that you are selling peace of mind, or that you are taking advantage of your anxiety. And if the government puts a generous welfare policy on it, sales will drop. You must always have "anxiety about the future." To put it the other way around, you shouldn't be satisfied with the status quo.

Ranking

"Ranking makes things easier to understand." "In a capitalist world, for cognitive savings. I try to rank anything. "(Uchida P.154,155)

Is big or small an attribute of an object? Even if B is larger than A and B, "large" is not an attribute of B. If there is a C greater than B, then B gets the attribute "smaller". Plato explains such an argument in his theory of ideas. With that in mind, the same thing can be said about "beauty," "good," and "pleasure."

Ranking or superiority or inferiority can be said between "the same things". The taste of ramen varies from house to house and from store to store. However, if you have the same ramen, you can compare A's ramen shop and B's ramen shop. But the comparison between ramen and curry rice doesn't make much sense. Last year was the Olympic year. The gold medal, the new record, the first Japanese ... and all over Japan made a noise, but for some reason the match is divided between men and women. There is a game called "Mixed Gender", but there is no match between men and women (probably). There is no match between a human male and a male cheetah in sprinting. Curiously, there is a game called "by weight" but not a game called "by height" (probably). It seems that some games have age-specific (age restrictions).

In "Business Sorting",Renho-san's words, " Do I have to take turns?" have become famous, but it is not a computer, but a story that "Japan will be number one in the abacus."

The concept of "same" is likely to be found in most cultures. However, I think there is a difference in where it comes from. Japanese people tend to think that dogs and cats and humans are "the same creature," "the same life," or "the same soul," and that they happen to "appear differently" ("reincarnation," "one minute." The soul of five minutes for insects "etc.). Classic Greece has a similar tendency. Both are polytheistic. And I think history "repeats". But in the area of ​​monotheism, reincarnation is difficult to think about. History does not repeat, but flows "one way". This is a strong idea for Hebrew (Semitic). The idea is that the universe starts somewhere and there is a "paradise" or "the Last Judgment" somewhere. Europe follows both of these trends, but as a result of the Hebrew religion of Christianity, the idea of ​​"evolution" was born. The world does not "change" but "evolves" and seeks to realize God's will. The world today is imperfect. Satisfaction with the world today is against the will of God. "Always unsatisfied." That is to obey the will of God.

Ethics

I'm not sure why that Hebrew thinking was accepted in Europe. One possible cause is its language structure. "Indo-European (Indo-European)" always accompanies the subject (the concept of "subject" is based on "Indo-European" in the first place). Add the subject to anything. What is "It" in "It rains" and "It's fine today"? Such things are unnecessary in Japanese. This "subject-predicate" structure is the same as the "subject-object" structure. This structure corresponds to "me and other things (objects, others)". In other words, from the point that "I and you are different", the idea is that "I and you are the same person." I think Japanese people tend to think the opposite way, "I and you are the same person, but they are different." The word "equality" comes from Buddhist terminology. It is "equality" of "Byodoin Phoenix Hall". However, I feel that "equality" in India is different from "equality" that the Japanese thought.

Regarding "reincarnation", I feel that Greece = India and Japan are different. In reincarnation, it is important to go around the "Rokudo Tenkai" and be reborn as a human being. Even in classical Greece, it is best for the soul to regain the human body. But in Japan, I don't think we are very particular about being reborn as a human being. It's like, "Because it's Obon, my grandpa came back as an insect." In Europe, it is usually "ghosts" that come back to the real world. There seems to be a lot of "reincarnation". In Japan, I feel scared of being reincarnated.

Another possible cause is "characters". I will omit this.

The existence of "another person different from yourself" always threatens oneself. In areas with abundant nature such as Japan, it is not necessary to exclude others. Especially in the farming culture, others are even a condition of their own existence. In pastoral culture, if others eat the grass of your livestock, your livestock will not grow. According to Takao Suzuki, the reason why turf is valued in the UK is that only turf grows in the UK. In Japan, the grass becomes a bow as soon as you leave it alone. It may exist only as a "hostile relationship" with others, or at best as a "necessary evil". I think that the idea of ​​"freedom, philanthropy, and equality" comes out not because it is "same" but because it is "different."

Therefore, "ethics" is required. Ethics is different from "morality". Of course, it is also different from "logic". Logic represents the structure of Indo-European language based on the "subject-predicate (or subject-object)" structure. In Europe, the part that could never be supplemented had to be established as "ethics". It manifests itself as a conflict between self and others, thoughts and emotions, humans and nature, and since modern times science and religion. In Japan, the "way" of "morality" may represent both logic and ethics.

Mr. Iwai

"When we pursue the structure of the society in which we live, it logically emerges that ethics are necessary. "(P.59)

, etc., is a brain weather, but no matter how much logic is pursued, ethics cannot be found there. Mr. Iwai seems to be pleased to find "Bunraku as a model of trust" (P.63), but "Bunraku", "Noh", "Kabuki", "ethics" and "logic" I don't think I can find it.

Studying at university

Apart from Mr. Iwai, who has brain weather, other theorists seemed to be "distressed" in his studies.

Mr. Uchida

"But this discussion itself may be poisoned by capitalist values. I'm riding the trend that such a country is happy and this kind of country is unhappy. ”(P.158)

, Mr. Shogenji

The above estimation does not include elements such as landscape formation and cultural tradition. It should be said that the load is heavy for economic calculation. It's a bit pitiful if you can't understand the value of cultural folklore without converting it into money. (P.97)

. Therefore, as long as you are "eating food," you cannot deny the scholarship itself. Still, I feel that there is some hope for me, the nuances of "denying scholarship with scholarship" and "denying logic with logic." That is completely different from Mr. Iwai's vector of "deriving ethics with logic." And I think that is also the significance of Kyoto (university)'s existence to "the Kanto region of logic (modern)".

"Discussion"

It's called "panel discussion", but it's not a discussion at all. In Japan, I feel that there is a tendency not to say that the other person in the conversation is in a bad mood, based on the "same = common understanding". Of course, it's not a debate either. Being such a member, it may be difficult to have a discussion, and there may be some refrain from Mr. Iwai. There may also be consideration for the publisher, Toyo Keizai.

It might have been interesting to record the "launch" (feast) after this symposium.






[著者等(プロフィール)]

岩井克人[wiki(JP)](イワイ カツヒト)
国際基督教大学特別招聘教授
1947年生まれ。東京大学経済学部卒業。マサチューセッツ工科大学よりPh.D.取得。エール大学助教授、ペンシルベニア大学客員教授、プリンストン大学客員准教授、東京大学経済学部教授等を経て、現在、国際基督教大学特別招聘教授。主な著書に『不均衡動学の理論』(岩波書店)、『経済学の宇宙』(日本経済新聞出版社)など。

生源寺眞一[wiki(JP)]
日本の経済学者(農業経済学)。福島大学食農学類長。

溝端佐登史[wiki(JP)]
日本の経済学者、京都大学経済研究所教授。



資本主義はどのような方向に向かっていくのだろうか――。
現在われわれは資本主義そのものをクールに見定める必要に迫られている。格差や環境破壊、経済危機などはいずれもが資本主義というシステムの成り立ちと深いかかわりをもっているためである。
倫理、農業、政治、教育等々の多様なバックグラウンドから、先端的識者により、資本主義がどこから来てどこへ向かうのかという鋭い問いかけがなされていく。
本書は京都大学経済研究所附属先端政策分析研究センターのシンポジウムをベースとしたものであり、発言者は多様な専門性を背景に、資本主義への洞察に富む問いを発し、検討の俎上に上げようとしている。
第一級の研究者たちの問いを通して、現代を取り巻く日常的な風景に新たまた様相を見出せるようになるであろう。

【主な内容】
序 資本主義の本質と分断社会をこえるビジョンーー本シンポジウムの趣意ーー 溝端佐登史
第Ⅰ部 講演
 講演1 経済の中に倫理を見出す―資本主義の新しい形と伝統芸能― 岩井克人
 講演2 社会を支える農業・農村―新潮流と変わらぬ本質― 生源寺眞一
 講演3 資本主義経済をつくる―体制転換30年を振り返る― 溝端佐登史

第Ⅱ部 討論
 話題提供 日本社会における資本主義と倫理 内田由紀子
 パネル・ディスカッション
  パネリスト 岩井克人・生源寺眞一・溝端佐登史・内田由紀子
  司会    小嶋大造
あとがき
著者略歴




序 資本主義の本質と分断社会をこえるビジョンーー本シンポジウムの趣意ーー 溝端佐登史

__よくわかんないけど、統計やグラフを持ち出す点で、すでに「ポリス」の思考であることがわかっていないんだなあ。それで問題提起したと思ってる。フーコーが死んで40年も経とうとしているのに。統計であらわすこと、人(あるいは存在)を数であらわすこと、それが資本主義の・西洋論理の本質である。

講演1 経済のなかに倫理を見出すーー資本主義の新しい形と伝統芸能ーー 岩井克人

「貨幣で測った収入と費用を比較して、収入から費用を引くとそれが利潤になる。利潤がプラスであれば、さらに追加で投資をする。利潤がマイナス(損失)であれば、そこから資金や資源を引き上げる。それだけである。(LF)資本主義は、基本的にこの原(FF)理だけで動いている。貨幣ですべての価値を一元的に測り、そしてあとは引き算で、プラスだったらゴーサイン、マイナスだったら撤退サイン、この原理だけで動いている。実は引き算は、算数のなかではもっとも簡単な計算であり、誰でもできる。だから資本主義はグローバル化するのである。」(P.46-47)__軽く言ってのけるところが、岩井らしい。どうして価値が貨幣化(数値化)できるのか、あるいは「できる」と仮定されるのか、それこそが問われなければならない。それこそがマルクスが「労働価値説」に求めたものだ。労働価値説が正しいというのではない。しかし、価値そのものを問わない経済学は単なる「科学」あるいは「論理ゲーム」であって、「人間の学」ではない。

「したがって、この資本主義に対抗する、抵抗する、あるいは何か修正を加えようとするならば、できるだけ普遍的な原理で理論武装しなければ勝負にならないのである。」(P.47)__そのと売り出し、本人はそれをやってきたつもりなんだろうけど、普遍的な原理というのは「簡単な原理」ではない。「根本的な原理」であるはずだ。それは「契約関係VS.信任関係」(P.47)であるかもしれないが、それは「原理」つまり「価値規定」を「放り投げる」ことで得られるような単純なものではない。その根本的な原理を無視して進めた話は、「〜しなければならない」という〈強制〉〈支配・被支配〉の原理から逃れられない。

「繰り返しになるが、忠実義務とはある人間が自分利益ではなく、他者の幸福のために忠実に働くということだ。忠実義務は倫理性の要求にほかならない。」(P.58)__「利益と幸福」。利益とは何か。

「私たちが生きている社会の構造を突き詰めていくと、倫理が必要なことが論理的に浮かび上がってくるためである。」(P.59)__「対称な関係」などない。岩井は牧師か?

信任関係のモデルとしての文楽(P.63)__文楽だけを取り上げて「信任関係」を説明するあたりが、岩井っぽい。たしかに便利なモデルだけれども(岩井は「見つけた!」と思ったろうな)、せっかくなんだから「能」や「歌舞伎」も含めた伝統芸能に共通なものを取り上げて「数値化」について考えてほしい。そのときに新作歌舞伎にたいする是非の目も生まれてくるだろう。

社会を支える農業・農村 ーー新潮流と変わらぬ本質ーー 生源寺眞一

「典型的には先ほど紹介したエンゲル係数、すなわち消費支出に占める飲食費の割合が高いのは、農業の非効率・高コストによるといった議論がある。品目によっては妥当な指摘であろうが、全体として見れば、飲食費に占める国内の農業・水産業の原材料の比率は一割強(九.四兆/七三.六兆円)にとどまっている。」(P.85)

「多くの税金を支払うことで、農業は国の発展を支えてきたのである。先ほどの農業関連産品の輸出による外貨とともに、農業に支えられた税制収入が近代化のための投資に向かったわけである。(LF)資本主義と農業・農村の関係を考える場合に、長期の視点で事実を把握しておく必要がある。現在の農業・農村は政府の補助金によって支えられている部分が多いが、かつては財政を支える側にあったことは忘れてはならない。」(P.90)

「新規就農者といえばなんとなく若者のイメージがあるが、図表11にあるとおり、新規就農者のほぼ半数が六〇歳以上なのである。」(P.92)

「けれども、情報による消費者への働きかけが環境保全型農業な拡大に貢献するなら、外部不経済の是正の筋道が市場経済に内在化される点で、地味ではあるものの、社会システムのイノベーションの意味をもつことになる。」(P.96)

「ところで農業の多面的機能については、一九九九年に制定された食料・農業・農村基本法によって定義されている。すなわち、「国土の保全、水源のかん養、自然環境の保全、良好な景観の形成、文化の伝承等農村で農業生産活動が行われることにより生ずる食料その他の農産物の供給の機能以外の多面にわたる機能」とされている。先ほどの推計には景観の形成や文化の伝承といった要素は含まれていない。経済計算には荷が重いというべきであろう。かりにも、文化の伝承の価値までもお金に換算しないと分からないとすれば、いささか情けない話ではある。」(P.97)__捨てられる牛乳。飲めといわれてもね。日本人には牛乳を分解する腸内細菌が歴史的に育たなかった。私の子ども、孫の世代は「伝統」=「古い」=「捨てるもの・新しいもので取り替えられるもの」としか見えないのかもしれない。私の若い頃もそうだったし。

「他方の頭数維持のもとで牛の数を増やすならば、その牛飼いは9の利益を得ることになるからである。こうした逸脱行為の想定が、コミュニティの厳しい罰則にもつながっている。」(P.104)

「経済学には、それが有効な領域とともに、有効ではない領域も存在することを自覚している経済学、それが農業経済学なのである。このように経済学の限界をよくわきまえているという意味では、農業経済学は「謙虚な経済学」といえるかもしれない。」(P.105)__謙虚でない岩井(笑)。ただ、「有効な領域」が何なのかは、深く考える必要がある。たぶん、それを考えたとき、経済学が虚構に基づくものであることが明らかになるだろう。

資本主義経済をつくる ーー体制転換三〇年を振り返るーー 溝端佐登史

第Ⅱ部 討論

話題提供 日本社会における資本主義と論理 内田由紀子

「マクロは個人の欲求を抑えつけるものではなく、実はマクロが欲求や感情そのものをたきつける装置にもなっている。(LF)つまり、資本主義という制度的環境があるからこそ、私たちはものを購入したいと思うのかもしれない。別の言い方をすれば制度的な環境が異なれば、人間の心そのものも変わっていく。」(P.150)__フーコー。そして購入しても満足することはない。

「こうした研究の背景にあるのは、社会保障を通じて幸福をどう追求していくかではなく、個人がどういうふうに幸福を追求すべきか、それを社会がどう支えるのかという問題意識である。」(P.151)

「幸福の研究には、感情的な幸せであるHappinessと、社会保障、社会福祉を含めた意味のWell-beingの二種類がある。」(P.152)

「しかし、こうした議論をすること自体、資本主義的価値観に毒されているのかもしれない。何でもかんでもランキングしてしまって、こういう国が幸福で、こういう国が不幸ですよという流れに乗ってしまっている。」(P.158)

(CTRA遺伝子)「つまり主観的なレベルでは独立性がはたらきやすさにつながっているにもかかわらず、生理的には根強く協調性の効果があるのである。こうしたことからも、制度が変わってもなかなか文化や心は変わらないということが見えてくる。」(P.162)

「私たちは集合活動を通してある種の倫理観を構築していると言える。」(P.163)

「人々のつながりは勝手にできるのではなく、先ほどの集合活動にしても誰かが積極的に呼びかけないと廃れてしまう。つまり、コミュニティにおける倫理観や価値観の形成のためには、ある種のプロフェッショナルを育てていくことが大切だ。」(P.164)

「一般的な信念として、資本主義が社会発展を導いてきたと考える意見が大多数であれば、また資本主義に基づいた制度が再生産されてしまうかもしれ(FF)ない。」(P.164-165)__「社会発展」とは何か。物質的発展と同じか。50年前のりンゴ(津軽とか。いまは甘くて大きいりんごがたくさんある。台湾バナナとフィリピンバナナ)より今のりんごが「美味しい」か。

(P.166 白紙)__自由がいいというけど、あなたは「自由で良かった」ことがありますか。「自由」を支持するのは自由(らしきもの)の恩恵にあずかった人だけではないですか。もし、あなたがそうなら、それは本当の「自由」ですか。あなたにとっての自由は「他の人にとっても自由」でしたか。大学の自由がなければ一生懸命勉強することもない。嫌な学校に行く必要もない。就職活動をする必要もない。一生懸命就活をして「この会社に就職してよかった」「この仕事が天職だ」と思っている人が何人いますか。いないとはいわないけど、宝くじ以上、交通事故いかの確率ではないではないでしょうか。そして、そう思っている人のその思いは、その会社に入る前に考えていたものと同じでしょうか。お金がなければ生きていけない社会は「自由」ですか。

パネル・ディスカッション パネリスト 岩井、生源寺、溝端、内田 司会 小嶋大造

(岩井)「これから契約と信任をつなぎ合わせた社会が重要になると述べましたが、今の資本主義は私の言葉でいう「ポスト産業資本主義」に移行していきます。知識が重要になってきます。アダム・スミスは資本主義の発展を分業の発展と捉えていました。ところがF・A・ハイエクはそれを分業ではなく、「Division of Knowledge」、つまり分知(知識の分業)の発展と読み替えて、その仕組みの深化の中で市場社会や資本主義の発展を捉える見方を出しています。その見(FF)方に立てば、ポスト産業資本主義になって知識が重要になればなるほど、知識が分業化することになります。」(P.168-169)__産業のない資本主義なんてありえない。生産が必要な社会であれば、そこで生産がなくなることなどありえないのだ。前の講演でも述べていたように、「計算が資本主義」という見方は、生産と経営の分離、あるいは労働と管理との分離があることが前提である。「みんなが大家さん」にはなれないのだ。知識と技術とも分離する。家でワインを飲みながら(あるいはパソコンの画面を見ながら)、そのワインやパソコンがどこから来たのかを考えないんでしょうね、岩井さんは。産業がなくなるように見えるのは、それが単に南の国々に移行しているだけ。そのおかげで、先進国は株ゲームで楽しむことができる。知識の分業化は、ルネサンス以降に発生した。そしてそれが「学問の分業」と言えるようになるのは18世紀。契約をできる「私人」「自由人」という発想。契約(法)を守る法はない。それは暴力だけ、という西欧の発想。

(岩井 P.170)__本人は真面目に話しているんだろうな・・・

(岩井)「もちろん日本にも格差があることは否定しません。しかし、それは人口の高齢化や子供を抱えた母親単身世帯や単身老人世帯数が増えたためです。」「日本の格差拡大は、社会保障の不備による貧困の拡大という面が大きい。この認識を間違えると、政策的な対処の仕方も間違えてしまいます。」(P.172)__誰か止めろよ。内田さんは呆れている感じだけど。

(生源寺)「農業界には内向きで、閉ざされた社会の色彩が強いので、外部からの批判は大事なことでした。」(P.176)

(生源寺)「タイムスパンが短く、日々刻々の勝負という世界の思考方法で農業界を批判するのはいかがなものなのか、という疑問を拭えません。」「市場経済の枠組みとは異なる人間社会の結びつき、つまり自発的な形での結合体(アソシエーション)である協同組合から学ぶことも大切だと思います。」(P.177)

「どのようなやり方で民営化を実施しても公正さの担保は容易ではありません。その結果、転換後に市場経済化政策を実施する段において、市場のルールに反応する、あるいは公正さを反映するプレーヤーが必ずしも誕生しないということにな(FF)ります。そういう経営者は国家との結びつきで利益(レント)を稼ぐ行為を当然視することにもなりますし、簡単に国家に経営責任を求めます。」(P.179-180)__日本の国鉄やNTTもそう。

(溝端)「個人の発明はみんなのものとされ、個人のインセンティブは満たされなかったわけです。たとえば、フロッピーディスクはハンガリーで生まれましたが、企業経営者に商品化する目利き・能力がなかったために、また自ら起業する条件がなかったために、最終的に日本のメーカーが商品化し大儲けすることになりました。つまり、社会主義経済とは、自分の知識が商品化され社会に使われることで、国民の生活が豊かになるという意識がもともと希薄な社会でした。」(P.181)__何重もの意味がある事実。当時、さまざまな国でさまざまな記憶媒体の開発が行われていたが、ハンガリーの「Hungarian Budapest Radio Technology Factory (BRG)」の研究員 Marcell Jánosi が開発した3インチのディスクが最先端だったことは間違いないようだ。

(溝端)「友人などの人間関係も密で、どれだけ新自由主義的な市場経済化を進めていても、ミニマムの共同体意識は残っているといえましょう。」「資本主義化で身軽になった個人が、ばらばらにならないためのよりどころとなったものが家族であり、精神性という点ではそれは宗教であったかもしれません。」(P.182)

(内田)「一律に平均値だけとってみても、国民が全体的に幸せになっているのかよくわかりません。」「また、アメリカでは「幸せでなければいけない」という価値観があり、実際よりももしかすると幸福度を高く回答する傾向があるのかもしれません。その一方で、逆に個人が現世的幸せを追求することはあまりよくないと考える文化もある。ブータンは「幸せな国」として知られていますが、実はそこで定義されている幸せとは快楽的な幸せではなく、もっと「足るを知る」的な意味での充足感です。これは獲得志向的な幸せで測定される幸福度とはずいぶん異なります。」(P.184)

(内田 エマニエル・トッド『世界の多様性 家族構造と近代性』)「トッドによれば、その家族構成が資本主義とか宗教とかけ合わさったときに、社会が大きく変化していくというのです。」(P.186)

(P.188)__経済学は統計学

(岩井)「忠実義務とは個人が一人一人内面で持つ倫理というよりは、ある個人がある「役」を引き受けていると、その「役」の目的に対する義務を負うことを意味します。」(P.160)__Persona

(岩井)「個人がますます流動化し強くなっていく中で、昔の封建社会に戻らずに、社会に対する(FF)安定化の軸をどこに見出すか。ヒントになるのが、役を演じる、つまり伝統芸能の人形浄瑠璃の役者がやっていることではないでしょうか。」(P.191)__封建社会に戻りたくないのは、岩井の気持ちだろうけど、その根拠は?今井にとっては今のほうが「進歩」している「良い社会」なんでしょうね。それじゃあ、芸能は昔が良くて、今が悪い理由はどう説明するのでしょうか。

あとがき

「資本主義について、ドイツの代表的な知識人であるユルゲン・ハーバーマスは、二〇〇八年秋に起きたことは資本主義の歴史で初めてのことであったという。なぜなら、金融市場を動因にした世界経済システムの中核が破局から救われたのは、納税者の与える保障のおかげであったからである。換言すれば、納税者がシステム破綻を防ぐ保証人の役割を演じなければならなかったからである。そしてハーバーマスはこう断言する。「資本主義は自分の力で再生することができない」。」(P.205)__どの文脈でのハーバーマスの文章かわからないが、ここでいう「自分」とはなんだろうか。納税者のいない(資本主義)社会などはありえない。納税者、労働者もふくめて社会体制(経済体制=近代社会)なのだから。資本家<=>労働者、支配者<=>被支配者、国家<=>国民、等の対抗軸を抑えることと同時に、近代以降の西欧社会においては「他者としての資本家・支配者・国家」ではなく、自分自身を含んだ社会として考えざるをえないところに「生政治」論が生まれる。資本家・支配者・国家は存在しない。少なくとも労働者や被支配者、国民がいるようには実在しないのだ。その存在性はかろうじて「構造」として捉えられるだけである。だから、「社会が変われば個人が変わる」でもないし「個人が変われば社会が変わる」でもない。しかもそのどちらでもある。

(P.204に書いた書き込み)__コインの表裏の確率は二分の一(50%)である。でも、目の前の現実のコインは「半分表」で「半分裏」なのではない。「表」か「裏」のどちらかだ。そんなことは誰でもわかっている。日本人の50%が「幸福だ」と答えたとして、「私は半分幸福」なわけではない。それもわかっている。「日本人の平均寿命は84.36歳(2019年)」だとしても、私やあなたが84歳まで生きるわけではない。84歳で死ぬ確率が一番高いわけでもない。ところが、84歳まで生きる(生きたい)と思ってしまう(ちなみに平均寿命は、0歳児の平均余命のことだから、2019年に生まれた人は平均84歳まで生きる「だろう」という意味で、私は60数年前の平均寿命を生きている。ところで平均寿命というのは、つねに検証されているのだろうか)。(LF)私の人生は一回きりである。それが表だったか、裏だったか。何ごとにもいい面と悪い面があるという考えを持てないのか。「表は良いことだ」「表でなければいけない」という発想はおかしい。いいだけの人、悪いだけの人はいない。「蜘蛛の糸」。日本的発想か。




[ ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4492961582 ]

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