暗黙知の次元 言語から非言語へ マイケル・ポラニー著 佐藤敬三訳 伊東俊太郎序 1980/08/15 紀伊國屋書店


本書について

『The Tacit Dimension』Michael Polanyi、Routledge & Kegan Paul Ltd.,London,1966 の訳です。地元の図書館から「リサイクル本」としてもらったものです。

訳者の先輩(先生)である伊藤氏が「訳文は一見したところあるいは硬そうに見えるかもしれないが、内容は正確」(P.9-10)だと書いています。確かに一般書にしてはちょっと硬い感じですが、けっして読みにくい感じではありません。高橋勇夫さんによる新訳がちくま学芸文庫から出ていますが、私はとりあえずこれで十分です。

ナチスとスターリンの影

著者は1891年、ハンガリー(ブダペスト)出身のユダヤ系ハンガリー人です。第1次、第2次世界大戦を経験しています。ナチスの人種迫害を避けてイギリスに亡命しました。

本書は、ブハーリンとの会話の思い出から始まります。その会話をしたのは、ブハーリンの失脚の3年前ということですから、1935年位でしょう。その後スターリンが死ぬのが1953年です。1956年のフルシチョフ演説まで、スターリンの影響が続きます。

戦後のヨーロッパの思想界は、まずはナチス(ファシズム)を徹底的に批判・分析することから始まりました。ポラニーはその直接の被害者です。その批判・分析は現在も続いているようですが、私には詳細はわかりません。日本では「軍国主義批判」がおこり、「戦後民主主義」なるものと「一億総懺悔」が交錯しました。わたしは日本の軍国主義とナチズムは根本的に違うと思っていますが、どちらも民主的な選挙制度のもとで誕生したものです(日本で普通選挙法が成立したのは1925年。婦人参政権は1945年ですが)。ですから、西欧においてナチスは古典ギリシャ以来の西欧論理の一つの結果(結晶)であったわけです。それを批判することは、自分たちの思考基盤そのものを問い直すことになります。

マルス主義も、その後のレーニン主義、さらにはスターリン主義も西欧論理の一つの結晶です(もちろん、日本同様ロシアにおける文化が西ヨーロッパと同じではないことは明らかですが)。ですから、ナチスと対決しスターリン主義と対決するというのは徹底的な自己批判が必要なのです。

「知」

「知」は「knowledge」です。古典ギリシャ語では「ἐπιστήμη」、ラテン語では「scientia」、ドイツ語では「wissen(Wissenschaft)」。つまり、「知識」であり、「学問」であり、「科学」です。とても広い意味をもっていますし、各国語でそのニュアンスは違うようです。「エピステーメー」というギリシャ語はミシェル・フーコーによって一つの概念とされました。フーコーの『言葉と物』が刊行されたのが本書と同じ1966年です。

本書のタイトルになっている「暗黙知」は「Tacit knowledge」です。英語では、学問に対しては「science」という別の単語があるので、「knowledge」というのは「知る」という人間の活動(行為)に近い表現なのでしょう。日本語では「知識」と「学問」と「科学」は関係があっても、別のものです。でも、西欧ではそれらは「同じもの」または「一連のもの」なのです。

西欧の学者(人文学者scholarでも科学者scientistでも)にとっては、「知ること」そのものを否定することはできないのです。でも、その嫡出子(結末)であるナチズムとスターリニズムには対決しなければなりません。西欧において、「知」あるいは「論理(理性)」の確立が「人間」つまり、〈自分(自己)〉そのものの確立なのですが、その「知」がもつ恐ろしさについても考え続けていました。西欧における「中世」というのは、その「知ること」をむしろ「危険」であると考えていた時代なのではないでしょうか(ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』にはその葛藤が描かれています)。

暗黙の知

著者は、「外界の事物」と「感覚」と「知識(知ること)」を考察します。近代西欧においては、「感覚」を通して「外界の事物」を「知る」という時に、「外界の事物と得た知識は同じである」という前提に立つのが主流です。そして、その知識は「語る」こともできるし、「文字」にすることもできると考えます。それに対して著者は、

人間の知識について再考するときの私の出発点は、我々は語ることができるより多くのことを知ることができる、という事実である。(P.15)

といいます。

「語ること」ができるのは「意識していること」です。それ以上の「知」はフロイトの「無意識」とも言えるものです。人間はすべてを意識の中で知ることはできないのです。著者は様々な研究例を挙げていますが、わかりやすい例を一つ上げておきます。

一般的には、明示的な統合は暗黙的な統合によってかわることができない。自動車を運転する技能を、自動車にかんする理論の徹底的な習得でおきかえることはできない。(P.38)

私はこの文章を読んだ時に、今進められている「自動車の自動運転」のことが浮かびました。自動運転は、自動車自体に関する技術はもとより、運転にかんする技術を知識として蓄積し、人間の運転に置き換えようとするものです。ポラニーは「それはできない」と言っているようにも読めます。

創発(Emergence)

ポラニーは、無生物から、動物・植物、人間というものを階層でとらえます。

上位のレベルのはたらきは、下位のレベルを構成している諸細目を支配する法則によっては説明されいない。(P.60)

つまり、これらのレベルはすべて、生命をもたぬ存在のレベルの上に積み上げられており、そのためそれら上位のレベルがなしうる活動は、この生命をもたぬ存在を支配している物理学や化学の法則に、直接あるいは間接に依存する、ということである。そこで、もし個々の諸細目の各々を支配する法則からは、それより高いレベルの活動は導くことができない、という原理を適用するなら、その結果、これら生物としての活動は、物理学や化学の法則によって説明することができない、ということになる。(P.62)

うまくいいところを引用できませんが、物理や化学的なレベル、分子生物学的なれべる、生態学的なレベル、人類学的なレベルを設定します。そして、物理的なレベルの原則(法則)は生物学的なレベルの基礎となっているけれども、生物学的なレベルはそれ独自の原則(法則)をもっているということです。つまり、物理学をいくら掘り下げてもその原則(法則)だけで人間は説明できないということです。

つまり、上位のレベルは、下位のレベルで見られない過程、つまり創発とよべれるべき過程によってのみ、生みだされる、ということである。(P.72)

上位の原理は、それがはたらくためには、下位の原理に依存し、そのさい下位の諸法則をやぶることはない。そして、上位の原理は論理的に下位の原理によっては説明されえないので、上位の原理は、そのような下位の原理を通じてはたらくことからしくじりをおかす危険にさらされている。

生命の発生は最初の創発である。それは、より高い原理をもつますます高等な形態の生命を生みだす、その後の進化の全段階にとっての原形である。暗黙知がなしとげる創出(inventiveness)という概念を拡張し、私はそれにすべての段階の創発を含ませた。このような一般化は、より高い段階に向かって創発があらわれる光景によって確証される。つまりその光景は、我々が最初に暗黙知の力を認めたあの精神の諸力が、進化の最高のレベルの創発においてあらわれることを明らかにしているのである。(P.78)

だから、人間は石ころや植物以上に「しくじり(過ち)」をおかすことになります。

ナチズムやスターリニズムは「しくじり」か?

ルネサンス以降の西欧思想は「知」を「論理」と「倫理」に分離しました。そして、「論理」は人間の意図の入らぬ客観的なものとして「近代科学」となります。人間の意図は「倫理」「道徳」あるいは「宗教」となってゆきます。ガリレオが「それでも地球は回っている」といったとき、ガリレオの意図・信条とはべつの「科学」が誕生したのです。

ポラニーは、知に「主観性」を持ち込みます。最初に引き合いに出すのはプラトンです。

プラトンは『メノン』の中でこの矛盾を指摘したのであった。かれは、問題にたいして回答をさがしもとめることは不合理であるという。なぜなら、さがしもとめているものを知っているとすれば、その場合には問題など存在していないことになるし、また、もしそうでなければ、さがしもとめているものがないかを知らないのだから、なにを見出すことも期待することができない、というのである。(P.41)

『メノン』のパラドックスを解決することができるのは、一種の暗黙知である。それは、かくされてはいるがそれでも我々が発見できるかもしれないなにものかについて、我々がもっている内感である。(P.42)

つまり、発見について熟考しているときには、我々は発見を発見としてそれだけ見ているのではなく、発見によってその一面が明らかにされるある実在への手がかりとして、発見を見ているからである。(P.44)

この辺の論理はうまく読み取れませんでした。ただ、近代の科学の発展、そして近代的知が「ある意味で」プラトン以降、延々と続く西欧の思考であり、科学的発展に人間の意図があることを明らかにします。言葉にできない「知」を、そして「創発の頂点」としての「人類知」をふたたび取り戻そうとするのです。

より上位のレベルの創発である「人類知」は「しくじり」を犯すこともあります。それを防ぐにはどうすればいいのでしょうか。

生命と死、〈自己〉

人間を誕生させた宇宙のこの部分は、活動を喚起するポテンシャルの場で満たされているように私には思われる。非生命的物質においてこのように喚起された活動は、まだ貧弱で、おそらくまったく無意味でもあるだろう。しかし、死んでいる物質、つまり生きても死んでもいない物質は、生命を生みだすことによって意味をもちはじめる。それとともに、以前にはあやまりのありえなかった宇宙に一つの危険が登場する。つまり生と死の危険である。(P.132)

ポラニーにとっては、「死」は上位のレベルに至ったものの「運命」です。そして「生」も。

現代の諸問題にとって啓発的であると私が考えるのは、潜在的思考にとりかこまれた人間、というイメージである。これによって、我々が絶対的自己決定という愚かな観念におちいることは防がれる。(P.133)

「自己決定」をするんだけど、それは「絶対」ではないということです。自分で決めたように思っているだけなのです。

人間は永遠とかかわる目的を必要とする。真理は永遠とかかわりをもつ。我々の理想もまた同様である。これだけで十分としなければならぬだろう。もし我々が我々の明白な道徳的欠陥に満足しいうるなら、そしてまた、そのような欠陥が社会の活動に宿命的に入りこまざるをえぬことに満足しうるなら。(P.134)

「永遠」、そして「真理」「理想」を探求する人間。それは、サルトルの「自由の刑」「ルサンチマン」を連想させます。わたしはここに「絶対的自己」を見出します。どこまでも人間に取り憑いているのは科学でも、宗教でも、自由でもありません。それらを見つめて「知」を求め続けて、飽くことを知らない「個人の〈自己〉」です。だから、「絶対的」か「相対的」か「部分的」かはわからないけど、〈自己〉と「その対立物」を想定するかぎり、〈自己〉も「〈自己〉の自由」もなくなりません。「永遠の探求」「永遠の不完全」「永遠の不満足」がいつまでもつづくことになります。

おそらく、この問題は世俗的な基盤にもとづいてだけ解決されることは不可能である。しかし、この問題の宗教的解決は、宗教的信念がひとたび、宇宙についての愚かしい見方による圧力から解放されるならば、より容易に実現されるであろう。そうなれば、かわりに、有意味にして宗教との交感も可能な世界がひらかれることであろう。(P.134)

〈自己〉をもったままで、そういう宗教があらわれるでしょうか。ユダヤ教にその可能性があるのでしょうか。この本には書いていないし、わたしはユダヤ教についてはまったく知らないのが残念です。







[著者等]

ポランニー,マイケル
1891年、ブダペスト生まれ。ブダペスト大学で医学博士号・化学博士号取得。1933年、ナチスの人種迫害を避けて英国に亡命。マンチェスター大学物理化学教授(のち社会科学に転ずる)、オックスフォード大学主任研究員等を歴任。76年、死去




人間には、言語の背後にあって言語化されない知がある。「暗黙知」、それは人間の日常的な知覚・学習・行動を可能にするだけではない。暗黙知は生を更新し、知を更新する。それは創造性に溢れる科学的探求の源泉となり、新しい真実と倫理を探求するための原動力となる。隠された知のダイナミズム。潜在的可能性への投企。生きることがつねに新しい可能性に満ちているように、思考はつねに新しいポテンシャルに満ちている。暗黙知によって開かれる思考が、新しい社会と倫理を展望する。より高次の意味を志向する人間の隠された意志、そして社会への希望に貫かれた書。

序 (伊東俊太郎)

Ⅰ 暗黙の知

「独立した科学的思考活動の存在そのものにたいするこのような否定が、こともあろうに、科学の確実さにうったえることによって巨大な説得力を得ようとしている社会主義理論から生みだされた、という事実に私は衝撃を受けた。科学的見地が、科学それ自身にいかなる場所もあたえないような機械的な人間観、歴史観を生みだしたように思われた。それは思考活動にいかなる固有の力を認めようとはせず、また、思考のための自由を求める主張にいかなる根拠も認めようとしなかった。(LF)このような精神の自己犠牲が、強い道徳的な動機によって生みだされている、ということも私は見てとった。歴史の機械的な推移によって普遍的正義がもたらされるはずであった。これは全人類の友好関係を達成しようとするときに、物質的必然性だけしか信じようとはしない科学的懐疑主義である。懐疑主義とユートピア主義がこうして融合し、一つの新しい懐疑主義的狂信が形成された。」(P.14)__ブハーリン批判、ソヴィエト・ロシア批判、マルクス=レーニン主義批判。論理と倫理の分離。アリストテレス『倫理学』

「人間の知識について再考するときの私の出発点は、我々は語ることができるより多くのことを知ることができる、という事実である。」(P.15)

「しかもこの警察の方法を用いることができるのは、我々が記憶の中にもっている諸特徴を絵のコレクションの中の諸特徴といかに結びつけるべきかを知っているときだけである。しかし我々が実際どのようにそれらを結びつけているのかを、われわれは語ることができないのである。」(P.16)

「指し示して命名するこの方法は「直示的定義」(Ostensive Definition)と呼ばれているが、この哲学的な表現は、一つのギャップをおおいかくしている。そのギャップとは、単語がなにを意味しているのかを我々が教えたいと思っている相手方が、知的努力によってうめなければならぬものである。言葉を用いたとしても、我々には語ることのできないなにものかがあとにとりのこされてしまう。それが相手に受けとられるか否かは、言葉によっては伝えることができずにのこされてしまうものを、相手が発見するか否かにかかっているのである。」(P.17)

「これらには、いわば知的に知ると同時に実践的にも知ることの例が見られる。つまり、ドイツ人の言う"wissen"と"können"の両方が、またギルバート・ライルの言う「何であるかを知る」(knowing what)と「いかにしてかを知る」(knowing how)の両方が見られる。」(P.19)

「知覚はゲシュタルト心理学において関心の中心をなしていたが、いまや知覚はもっとも貧弱な形式の暗黙知と見られることになる。」(P.19)

「つまりその能力とは、二つの出来事があって我々がその両方とも知ってはいるが、語ることができるのはその一方だけであるような場合にも、我々はそれら二つの出来事のあいだになりたっている関係をとらえることができる、という力のことである。」(P.20)

「というのは、技能とは、詳細に明示することができない個々の筋肉の諸活動を、我々が定義することもできない関係にしたがって結合するものだからである。」(P.21)

(P.25)__スポーツ選手とトレーナー

「しかし我々が探り杖を使うことになれてくるにつれて、あるいは歩行用の杖を使うことになれてくるにつれて、杖が手にあたえる衝撃について我々がもつ感知は、我々がつついている物体が杖と接する点についての感覚へと次第に変化していく。これがまさに、意味をもたぬ感覚が、解釈の努力によって意味のある感覚へと変化する過程であり、またその意味をもたぬ感覚が、もとの感覚からはなれたところに定位される過程である。」(P.27)__脳の小人の話

「それらの諸性質とは、身体内の過程が我々にたいして意味するところのものである。そこでいまや我々は、身体内の経験が外界の事物についての知覚へと移行する現象は、意味が我々から遠ざかる移動の一例である、と考えることができる。」(P.29)__手が感じているのか、脳が感じているのか。

「こうして知覚も、探り杖の使用や潜在知覚の過程に見られるような感覚の移動の一例と考え(FF)ることができる。知覚についてのこのような見方は、外界の事物を見る能力が、探り杖の使用や潜在知覚の活動に似て、相当に骨の折れる学習の過程によって獲得されなければならない、という事実からも裏づけられる。」(P.30-31)__我々が見ているのは外界の事物か、網膜に映った映像か、脳がつくりだした映像か。バーチャルリアリティ。

「我々が自分の身体を外界の事物としてではなく、我々の身体として感じるのは、このように我々の身体を知的な活動の装置として用いることによるのである。」(P.32)

「この意味で、ある事物を暗黙知の近接項として機能させるときには、我々はそれを身体の内部に統合し、あるいはそれを包含しうるように身体を拡大し、結局我々は、その事物のなかに潜入する(dwell in)ようになる、ということができる。」(P.33)

「それは内面化されるべき道徳的な教えを、実践に適用された道徳的な暗黙知の近接項として機能させ、それによって、その教えと我々自身を一体化させることにほかならない。これは我々の道徳的な行為や判断のための暗黙的な枠組みを構成する。さらに、このような潜入は、科学の分野の活動でこれと論理的に似ている行為の中にまで見出すことができる。つまり、自然を理解するために理論に依拠するとは、理論を内面化することである。なぜなら、我々は理論から、理論の光によって照らされる事物へと、注目を移しているからである。我々はこのように(FF)理論を用いているあいだ、理論について感知している。しかし理論によって説明される状況という形式を通して、理論を感知しているのである。これが、数学理論はどうしてそれを実際に応用することによってのみ学ぶことができるのか、ということの理由である。数学についての真の知識は、それを用いる我々の能力の中に存在している。」(P.34-35)

「そこでいまや、際限なく明晰さをもとめることは、我々が複雑な対象を理解することにたいして妨げになる、ということが理解される。もし包括的存在の諸細目をこまかにしらべるならば、意味は消失し、包括的存在の観念は破壊される。」「部分をあまりに拡大してしらべるならば、パターンとか全体相が見失われることになる。(LF)しかし、このようにして破壊されたものは、周知のとおり、諸細目をふたたび内面化することによってとりもどすことができる。単語がふたたび正常な文脈の中で発音され、ピアニストの指がふたたび音楽に心をよせつつ用いられ、全体相の諸部分やパターンの細部がふたたび遠くからながめられるならば、それらはすべて生命をとりもどし、意味や包括的諸関係は回復される。」(P.36)__全体=>(分析)=>部分=>(統合)=>全体’。変化している。

「これらの例では、諸細目を注視することは、それだけでは意味の破壊を招くかもしれないが、しかしそれはその後の統合を満ち美つて引きとなり、こうして、より確実で正確な意味が確立される。(LF)しかし、細部を明確にすることによってそこなわれたものを、完全にとりもどすことは不可能であろう。」「より一般的に言えば、個々の細目はより確実にとらえられるのだから、諸細目を知ることによって事物について真の観念が得られる、と考えることは根本的にあやまった信仰なのである。」「分析によって包括的存在が破壊されることにたいして、多くの場合にとられる対抗策は、諸細目間の関係を明確に述べる、ということである。これは明示的な統合と言えるが、これが実現可能な場合には、この明示的な統合は暗黙的な統合の範囲をはるかにこえる」(P.37)

「しかしこれまでの例から明らかなように、一般的には、明示的な統合は暗黙的な統合によってかわることができない。自動車を運転する技能を、自動車にかんする理論の徹底的な習得でおきかえることはできない。」(P.38)__自動運転。それを、「知識の不足」で説明することもできるが、もともとの方法論が誤っていることを知るべきである。

「しかしよい問題にせよ独創的な問題にせよ、そもそも人間にはどのようにして問題が見えるということがおこりうるのだろうか。なぜなら、問題が見えるということは、かくれているなにものかが見えることだからである。それは、まだ包括的にとらえられていない諸細目のあいだに、まとまりがあるのではないか、という一つの内感(intimation)を(FF)もつことである。」(P.40-41)

「しかしプラトンは『メノン』の中でこの矛盾を指摘したのであった。かれは、問題にたいして回答をさがしもとめることは不合理であるという。なぜなら、さがしもとめているものを知っているとすれば、その場合には問題など存在していないことになるし、また、もしそうでなければ、さがしもとめているものがないかを知らないのだから、なにを見出すことも期待することができない、というのである。」(P.41)

「『メノン』のパラドックスを解決することができるのは、一種の暗黙知である。それは、かくされてはいるがそれでも我々が発見できるかもしれないなにものかについて、我々がもっている内感である。」(P.42)

「つまり、発見について熟考しているときには、我々は発見を発見としてそれだけ見ているのではなく、発見によってその一面が明らかにされるある実在への手がかりとして、発見を見ているからである。」(P.44)__学校で出されるような「正しい解答」のある問題ではない。答えがあるものは「問題」ですらない。

「なぜなら、そのような知識の行為とは、我々が注目してはいぬ、それゆえに我々が明示することのできない諸細目を、我々が内面化することに依存しているからである。さらにまたそのような知識の行為は、これら明示することのできぬ諸細目から、我々には定義できないような仕方でそれら書細目を結びつけている一つの包括的存在へと、我々が注目することに依存しているからである。この種の知識によって、問題、あるいは勘など、きわめて不確定的なものを知ることが可能となり、またそれによって『メノン』のパラドックスは解決される。しかし、このような能力を用いることがすべての知識の不可欠な要素であることが判明するとき、我々は、すべて知識とは問題を知るのと同じ種類の知識である、と結論せざるをえない。」(P.45)

「このような近づきつつある発見についての知識を保持するということは、発見することができるなにかが存在する、という確信に深く傾倒した行為である。それは、それを信じる人の人格を含んでいるという意味で、またそれは原則として孤独なものであるという意味でも、個人的である。しかしそこには自分勝手な気楽さはすこしも存在しない。」(P.46)

Ⅱ 創発

「われわれは事物の詳細目を内面化する。こうして、その事物の意味が、まとまりをもつ存在物というかたちでとらえられ(FF)る。かくして我々は、このような仕方で把握されるそ存在で満たされた、一つの解釈された宇宙を知的に、また実践的にも、形成するのである。」(P.51-52)

「これはちょうど、他人の心にかんする知識について以前に私が述べた問題と似た問題をひきおこす。それは、感覚的な諸性質を観察することから我々はいかにしてある恒常的な対象の存在を推論することができるのか、という問題である。」(P.55)

「したがって、上位のレベルのはたらきは、下位のレベルを構成している諸細目を支配する法則によっては説明されいない。」(P.60)

「つまり、これらのレベルはすべて、生命をもたぬ存在のレベルの上に積み上げられており、そのためそれら上位のレベルがなしうる活動は、この生命をもたぬ存在を支配している物理学や化学の法則に、直接あるいは間接に依存する、ということである。そこで、もし個々の諸細目の各々を支配する法則からは、それより高いレベルの活動は導くことができない、という原理を適用するなら、その結果、これら生物としての活動は、物理学や化学の法則によって説明することができない、ということになる。」(P.62)

「機械が故障する危険にさらされているということは、いわば、物質を支配する法則が関知するところではない機械の作動原理を、物質の中に実現することにたいして支払われねばならぬ代価なのである。」(P.65)

「我々は、下位レベルの成分をなす諸細目にたいして、上位のレベルの組織原理が行う制御を、周縁制御の原理(The Principle of Marginal Control)とよぶことができる。」(P.66)

(P.67)__人間原理だなあ。

「生命をもたぬ存在は自己充足的である。というのは、それはなにかをなしとげることもなければ、なにかに依存することもなく、したがってあやまりをおかすこともないからである。この事実は、非生命的存在からの生命の創発(Emergence)がもたらしたところの、もっとも本質的な革新を定義するものである。生命の機能、それは達成できることもあれば、達成しそこなうこともあるような一つの結果をともなっている。なにかを達成することが期待される過程は、価値をともなっている。その価値は、そのような価値をもたない過程によっては説明することができない。それが論理的に不可能であるのは、あらねばならぬことを現にあることについての(FF)知識から決定することはできない、という格言と結びつけて考えることができる。したがって、生命が誕生したときには、生命をもたぬ存在には見られない原理がはたらきはじめなければならないのである。」(P.71-72)__西欧にとって「価値」とはなにか。西欧と日本は違う過程である。西欧は日本を、日本は西欧を理解することができないのか。

「言いかえれば、いかなるレベルも、そのレベル自身の境界条件を制御することはできないのである。」「つまり、上位のレベルは、下位のレベルで見られない過程、つまり創発とよべれるべき過程によってのみ、生みだされる、ということである。」(P.72)

「その意味では、これらの固定化はいずれも、創造的な力の範囲をせばめはするが、しかし意のままに用いることのできる新しい道具をもたらすことによって、創造的な力を拡大もする。」(P.73)__固定されたもの、変化する可能性が減ったもの。

「しかし、私が包括と(FF)みなす種類の創発とは、新しい包括的存在を創造する行為である。それはベルグソンの生命の衝動と似ているが、ケーラーの動的均衡化とは対立する。ベルグソンやサミュエル・バトラー、そして最近ではティヤール・ド・シャルダンが、生物の進化においてこのような創発的作用が存在すると考えた。」(P.73-74)

「生存しつづける生命は、いかなる形式であれすべて、同じ生存上の価値をもっている。絶滅しつつあるもののみが、淘汰上の有利さを欠いていると言えるのである。この点では、人間は今日、実際におとった位置におかれている。なぜなら地球上で人間が生存しつづける確率は、昆虫が生存しつづける確率より低いと思われるからである。」(P.74)

「自然淘汰は集団にかかわるものである。それは、一人の人間の進化にはいかなる役割もはたしていない。」(P.75)

「上位の原理は、それがはたらくためには、下位の原理に依存し、そのさい下位の諸法則をやぶることはない。そして、上位の原理は論理的に下位の原理によっては説明されえないので、上位の原理は、そのような下位の原理を通じてはたらくことからしくじりをおかす危険にさらされている。(LF)生命の発生は最初の創発である。それは、より高い原理をもつますます高等な形態の生命を生みだす、その後の進化の全段階にとっての原形である。暗黙知がなしとげる創出(inventiveness)という概念を拡張し、私はそれにすべての段階の創発を含ませた。このような一般化は、より高い段階に向かって創発があらわれる光景によって確証される。つまりその光景は、我々が最初に暗黙知の力を認めたあの精神の諸力が、進化の最高のレベルの創発においてあらわれることを明らかにしているのである。」(P.78)__意識や論理が絶対のものではないという話から、暗黙知は意識や論理を超えたものであるような話になってきている。

「個体の中心は、動物的活動の成立とともによりいちじるしいものとなり、知性が行使されるにいたっていっそういちじるしくなる。人間では、それは人格のレベルにまで高められる。しかし、中心体に帰属する機能が増すごとに、中心体は新しい過失にたいする新しい責めを受けなければならなくなる。(LF)生命はすべて、成功と失敗にたいするその能力によって定義されるので、生物学はすべて、必然的に評価的性格をもつ。」(P.79)

「それはつまり、自分より偉大な人間に対して崇拝の念を抱くことができる、という能力である。もし、進化が人間と人間に付随するすべての高度な責任感の発生を含むのであれば、それはまた、人間的な偉大さの発生をも含まなければならない。」(P.81)__「自己維持」という主体的観念。訳がまちがっていなければ、変な考えだと思う。日本的にはこの「偉大さ」を「自然」というが、西欧ではそうはならないのであろう。

Ⅲ 探求者たちの社会

「そのようなレベルが各々、他のレベルの上部につみあげられて階層を形成し、こうして、生命をもつ存在が層状をなす光景があらわれてくる。層の形成というこの概念により、創発とはすぐ上のレベルを生みだす行為である、と定義するための枠組みが得られる。」(P.85)__「創発」なんて言葉を使うから、「自分」が介入してくる。人間中心主義への復帰。

「こうして創発は、根本的な革新を生みだす機能を暗黙知からひきついだのであった。しかし、創発が最後には人間の誕生に到達する上昇をつづけるとき、次第に創発は、我々がすでに論じた人間の知識という形態をとるにいたる。結局我々はそこで、人間の精神にふたたび対面したのであった。」(P.86)

「なぜなら、近代実存主義は既成社会の道徳を人為的、イデオロギー的、そして偽善的であるとして撃退するために、道徳的懐疑主義を用いるからである。(LF)道徳的懐疑主義と道徳的完全主義はこうして結合し、道徳の明示的な表現をすべて疑問視する。こうしてこの道徳的情熱は、みずからの理想にたいする侮蔑で満たされている。」(P.89)

「近代文学はその告白で満ちあふれている。(LF)この運動によって確立された道徳の観念においては、善と悪の区別が廃棄されている。したがって、道徳的非難によってこれに反対を表明することは意味をなさなくなる。(LF)ここでは、近代人の前例のない批判的明晰さが、同時に前例のない道徳的希求と融合し、その結果、怒りに満ちた絶対的個人主義が生みだされる。しかしこれと平行して、個人の全面的な抑圧を是認する政治的教説もまた、この融合によって生みだされる。こうして科学的懐疑主義と道徳的完全主義は結合し、道徳的な理想にたいするいかなる信頼をも不毛で不正直である、と避難する運動を協力して推進する。その完全主義は社会の全面的な変換を要求する。これはユートピアめいた計画であるが、しかしみずからをそう公言することは許されない。ユートピアの目的は、権力を求める闘争によって自動的に達成されると信じられ、そのためにこの運動のもつ道徳的動機はおおいかくされる。」(P.90)__マルクス主義とファシズム。社会主義から共産主義へ。

「こうして、世界を包みこむ一つの思想が生まれる。この思想において、道徳への疑惑は道徳的義憤へと激化し、この道徳的義憤は、科学的ニヒリズムで武装されている。」(P.91)

「そして我々は、ある世代からつぎの世代への知識の伝達は、主として暗黙的に行われざるをえない、と結論しなければならない。」(P.93)

「そして新しい一歩一歩の前進はすべて、この程度に、教師や指導者に自分をゆだねることによってのみ、到達することができる。聖アウグスチヌスが「信じなければあなたは理解せぬであろう」と説いたとき、彼はこのことを見ていたのである。」(P.93)

「科学者は事実にかんして、同業者である他の科学者の権威にはなはだしく依存しなければならない。」(P.96)

「発見とは、既存の知識が示唆している可能性を究明することによってなされる。」(P.101)

「ある堅固な対象の視覚像は、我々にとり探求可能なべつの側面や、かくれた内面をそれがもっていることを示している。」(P.102)__カラーで育ったひとは白黒に色を見ることができない。色とは、視覚的な波長ではなく、それに基づいて引き起こされる心象である!!

「そして、科学が成果を上げつづける理由は、科学が実在の本性にたいする洞察を生みだすものだからである。」(P.103)__本性が明らかにならない以上、「成果」を上げているかどうかを明らかにすることはできない。事実、そういう後戻りはつねにあった。公害問題など。

「科学の進歩と普及に奉仕しうるすべての制度は、一つの仮定に依拠している。それは、体系的な前進の可能性を秘めた領域が存在すること、そしてそれが個々の科学者の創意にもとづく努力によって開拓されるのをまち受けている、という仮定である。科学者はこのような信念をもつと期待される。それゆえに、科学者は生涯を通じて研究の遂行に任じられるのである。」(P.106)__キリスト教の修行と同じ。

「我々が、科学とその進歩、あるいはその歴史について語るとき、そして科学における基準について語り、それを「科学的」とよぶとき、我々は、だれ一人としてそのわずかの断片以上には知ることのない「科学」なるものに言及しているのである。科学の伝統は、経験をこえる実在に関係をもつことによって、それ自身の更新をもたらすことを、我々はすでに見た。」(P.110)

「相互批判の交換とはいずれも格闘のよなものであり、死活にかかわる闘争ともなろう。」(P.110)

「彼の行為には、彼があらわにしようとしているかくれた実在によって判決がくだされる。」(P.114)

「ある言明の妥当性を主張することは、たんに、それがすべての人によって受けいれられなければならない、と宣言することである。科学的真理を肯定することは、他の価値判断と共通な命令的な性格をもっており、我々自身がそれを尊重するゆえにそれは普遍的である、と宣言される。」(P.116)

「研究中の科学者の推測は発見をもとめる想像から生まれる。そのような努力は敗北する危険をおかすが、けっして敗北をもとめるようなことは(FF)しない。科学者に失敗の危険をおかさせるのは実に、成功を渇望する彼の痛切な欲求である。」(P.116-117)

「彼の自由とはたえざる奉仕である。」(P.119)__カント的。

「思考の進歩を育成するいかなる伝統も、つぎのような意図をもたなければならない。それは、そのときどきでの有力な観念とは、まだ知られていない真理にいたる諸段階であること、そうした真理は、発見されたあとではそれを生みだした教えそのものと対立するかもしれぬことなどを、教えようとする意図である。」(P.121)__永遠の未完成、不完全。永遠の一部、部分性。でも今が最前線。進化論。永遠の不満足。

「そして十八世紀の末以来、法的および社会的改革は、相互に関連しあう多くの仕方で生活の人間化を促進してきた。これが原因となって、今世紀に絶対的な懐疑主義と完全主義とが交配されることにより、小説、詩、音楽、絵画の新しい運動が生まれた。この運動は同時に、近代の狂気とそのあらゆる専横、残虐を予告する理論をも生んだと考えられるのであるが。」(P.122)__個人が一個の全体ではなく、つねに一部分である。不完全であるという思考。不満足であること。ハングリーであること。貨幣。

「もっとも革命的な精神の持主でさえ、彼の天職が文学や芸術であるか、道徳的、社会的改革であるかにかかわりなく、自分の転職としては小さな領域に限定された責任を選ぶべきである。」(P.124)

「社会は権力と利益の組織として一つのレベルを形成する。一方、社会の道徳的原理はその上のレベルに位置する。高いレベルは低いレベルに根をおいている。道徳上の進歩がなされるのも、権力の行使によって機能し物質的利益をめざしている社会、という媒体の中においてのみのことである。いかなる道徳的進歩も、そ(FF)れを実現しうる唯一の存在であるこの社会機構に毒されざるをえない、という事実を我々は認めなければならない。」(P.125-126)__ちょっと強引すぎます。

「自由な伝統の再生が保証されるのは、その基盤についての新しい自覚的な理解にもとづいて、そして完全主義と結合した近代の自己疑惑に抵抗する根拠にもとづいて、その伝統を確立することによってのみ、可能である。」(P.126)

「生命をもたぬ存在を制御するのは、物質をより安定な配置へと向かわせる力である。このことは、力学や熱力学においてもひとしく真理であり、また、炎や流れのようなひらいたシステムにもあてはまる。」「また、量子力学においては、確率の場による制御にのみ服する、原因なき原因の概念が確立されている。放射性元素の崩壊は原因なき原因の一つかもしれない。」(P.129)

「しかし発見は、非生命的出来事とは三つの点でことなっている。(一)発見をひきおこしそれを導く場は、安定な配置の場ではなく、問題がつくる場である。(二)発見はおのずとおこるのではなく、かくれたポテンシャルを現実化しようとする努力にもとづいている。(三)発見をひきお(FF)こすところの原因なき作用とはふつう、そのようなポテンシャルを発見しようとする想像力の発進である。」(P.130-131)

「人間を誕生させた宇宙のこの部分は、活動を喚起するポテンシャルの場で満たされているように私には思われる。非生命的物質においてこのように喚起された活動は、まだ貧弱で、おそらくまったく無意味でもあるだろう。しかし、死んでいる物質、つまり生きても死んでもいない物質は、生命を生みだすことによって意味をもちはじめる。それとともに、以前にはあやまりのありえなかった宇宙に一つの危険が登場する。つまり生と死の危険である。」(P.132)__「あやまり」という価値観。「生と死の危険」という価値観。

「現代の諸問題にとって啓発的であると私が考えるのは、潜在的思考にとりかこまれた人間、というイメージである。これによって、我々が絶対的自己決定という愚かな観念におちいることは防がれる。」(P.133)__どこまで〈自己(自我)〉がまとわりつくのか。

「人間は永遠とかかわる目的を必要とする。真理は永遠とかかわりをもつ。我々の理想もまた同様である。これだけで十分としなければならぬだろう。もし我々が我々の明白な道徳的欠陥に満足しいうるなら、そしてまた、そのような欠陥が社会の活動に宿命的に入りこまざるをえぬことに満足しうるなら。」(P.134)

訳者あとがき

「この分野の専門家であるオーンスタインは、『意識の心理学』の中で、この右半球の非言語的な精神活動に属するものとして、ポラニーの暗黙知をあげている。」(P.144)

昭和五十五年盛夏 佐藤敬三



[]

シェアする

フォローする