ラテン語とギリシア語 風間喜代三著 1998/03/20 三省堂

ラテン語とギリシア語 風間喜代三著 1998/03/20 三省堂

命名(学術名)

一昔前までは、欧米では大学でラテン語が必修だったようです。日本で漢語(漢文)が必修の時期もあったのではないでしょうか。日本の漢文に相当するのがラテン語です。

現在では学問が多岐にわたり、各分野とも細分化しているので事情は違ってきたが、かつてはこの古典語の素養が大学に学ぶすべての学生に求められた。ちょうどひと昔前のわが国で、漢学のわきまえが識者のしるしであったのに似ている。とくにラテン語はローマカトリック教会の権威と相まって、教会のみならず、ヨーロッパの学問の共通語として、中世はもとより近代に至るまで大学の講義に、そして著作にと重用された。(P.13)

新しい動植物が発見されたときに付けられる分類名は、リンネ以来今でも基本はラテン語です(『学名の秘密』スティーヴン・B・ハード著)。

生物学のみならず、物理学、化学などの学問でもそうですし、商品名や会社名も思いの外ギリシア語やラテン語(あるいはそれが基になっているもの)が多いです。「ネオ〜」の「ねお」はギリシア語の「νέοςネオス」です(ラテン語ではnevusネウス。その単数女性主格がnova。ただし発音はノワ)。

今は欧米の大学でもラテン語が必修ではないそうですが、命名するときにはどうしているんでしょうね。なんか、最近は英語の語尾をラテン語風に変えたものも多いような気が。

漢語とラテン語

本来は農民の文化から育ったラテン語が、堂々たる文学をもつギリシア語の豊かさを受けとるために、ローマの文人たちは大いに苦労した。(P.13)

識者がラテン語を知っていたということは、西欧の学者は出身地が違って母語が違ってもラテン語で意思疎通ができたということです。近代までの学術文献は(聖書も含めて)ラテン語で書かれていたので、ラテン語さえ知っていれば世界を手にする可能性があったということです。今はそれが英語に取って代わろうとしているようです。

東洋ではサンスクリットが似たような役割を果たしたし、中国・日本などでは漢語が同じ様な役割を果たしました。でも、日本における漢語とヨーロッパにおけるラテン語には大きな違いがあると思います。それは漢字が表意文字を多く含むのに対してアルファベット(ラテン文字)が表音文字だということです。漢字もその多くが表音文字だし、アルファベットもそのもとを辿れば表意文字らしいのですが、アルファベットはほとんどその表意性を失っています(『A is for ox』(バリー サンダース著『本が死ぬところ暴力が生まれる』の原題)は「A」が雄牛の象形文字だったという意味です)。

「山」という漢字は日本語では「やま」と発音して、ほぼ同じ意味を現します。北京に住む人と広東に住む人が同じ発音かどうかはわかりませんが、意味はほぼ同じでしょう。アルファベットは意味を表すのではなく、音(発音)を表すので、そういうわけにはいきません。同じインド=ヨーロッパ語といっても個々の単語や文法もちょっとづつ違っています。

インド=ヨーロッパ語には(英語ではほぼ壊れていますが)、名詞には女性・男性・中性があります(dogやcatやmountainにも性があったはずなのですが)。そして、それぞれに格があります(日本語は「てにおは」など付けることで名詞そのものが変化することはほぼありません)。ラテン語がギリシア語を取り入れるとき、元々ラテン語にあった語彙を「訳語」として使う場合と、ギリシャ語をそのままラテン語風に取り込んだものがあります。

サンスクリットの文献を漢語に直すときにも同じ様な事がありました。当て字と訳語です。その漢語を日本語に訳すときはどうだったでしょうか。ギリシア語をラテン語に訳すとき以上、サンスクリットを漢字に訳すとき以上の困難があったのではないか、と私は思います。言葉は文化です。同じものがあるときの普通名詞はそれほど問題はありません。山や川は問題ないのです。だから、漢字を取り入れても読みは大和言葉のままです。でも、日本にはないもの、文化にない抽象名詞は大和言葉の読みを当てはめられないのです。ネオスはネウスでいいでしょう。でも、もし日本に「やま」がなかったら、「山」は「サン」と言われていたでしょうし、「サン」と言われて「山」をイメージするのは難しいと思います。「キリン」と言われたら、「麒麟」より「動物園にいるgiraffe」を思い浮かべちゃうようなものです。仏教が伝来したときと、明治維新前後に西洋文化が流入したとき日本にはその大きな変動がありました。そして、消化されない(大和言葉や日本語にならない)外国語は日常を離れて学術用語として別の道を歩くことになりました。それを使うのは上流階級や特権階級で、高級でかっこいいけど、その意味を知っている人はほとんどいないという社会です。

この50年くらいのあいだに、翻訳は漢字を使うのを諦めてきました。始めは学術用語だけでしたが、最近は経済用語や政治用語なども英語をそのまま使うようになりました。ハラスメントやコンプライアンスの意味をわかって使っている人がどのくらいいるのでしょう。「法令遵守」と言われれば、なんとなく分かるような気がしますが、「遵守」は読めないし(笑)「法令」も英語の「low」ですが、その意味は「法(ダルマでもいいけど)」とは違います。

学術用語と日常語

ネオスでもネウスでもニューでもいいけど、西洋における学術用語は日常語の延長にあります。阿辻哲次さんが「風速計」というのはそのものを見たことがない人でも漢字で意味がわかる、「anemometer」はギリシア語の「ἄνεμος(風)」を知らない人にはわからない、と言っていました。でも、anemoはanimalの語源なので、西欧人ならなんとなく雰囲気がわかるのではないでしょうか。動くので動物ではなくて、神に「anemo(風)」、つまり「Ψυχή、πνεῦμα(息、生気)」を吹き込まれたものが「animal(動物)」なのだと思います。そうすると西洋絵画で神や天使が息を吹きかける意味もわかってきます。これが正しいかどうかは別として、西欧では日常生活で使われる語彙に学問的意味を付け加えるのが、古典ギリシア以来の伝統だと思います。それらは、従来の意味を持ちながら新しい意味も兼ね備えるのです。

サンスクリットを漢語にした伝統を日本の学術界も踏襲していました。それは、漢語ならそれをそのまま取り入れる、アルファベットに対応するものは、旧来の漢語にそれにちかい意味の語彙があるものはそれを使う、ないものは漢字の熟語として作る、という方法です。どれも漢字の持つ意味、あるいはその意味を重ねて新しい意味を表すというものです。でも、アルファベットをそのままカタカナで表すのは全く違うと思うのです。

もともと、漢語による学術用語は日常語とは離れたものでした。それは特権階級のものでしたが、それでも「翻訳する」ということは理解される、分かるということを含んでいたように思います。でも「コンプライアンス」はそういう水準ではなくて「理解されることを拒む」「特権階級のおごり・優越感」がもろに見えるのです。私はコンプライアンスに基づいて、不利益を被ったり、捕まったり、罰を受けたとしても、反論するすべがありません(笑)。

比較言語学

著者は比較言語学者の第一人者だそうです。比較言語学はラテン語やギリシア語やドイツ語などの、同じ語族の言語を比較して、同じところ(と違うところ)を見つけて、「元の祖語」を見つけるような、どちらかといえば時間的・歴史的な学問です。それに対して、対照言語学は現在の各種言語を比較して、「言語とは何か・言語の本質」を見つけ出そうとする学問だそうです。

どちらも、「同じ」と「違う」ということを探すのですが、比較言語学は「同じ」ということを前提として「違う」ということに重点があり、対照言語学は「違う」ということを前提として「同じ」ということに重点があると思います。でも、「同じ」は「違う」を前提にしているし「違う」は「同じ」を前提としています。

この「違う」と「同じ」ということが、分類学の基本です。違うところを見つけて分け、同じものを見つけて集めるのが分類学です。これがかんたんなようで難しい。ハードディスクにファイルが溜まると必要なファイルが見つけづらいのでフォルダを作って分類します。SNSで言うなら「タグ付」です。ある程度のフォルダを作ってそこに入れていくのですが、どのフォルダにも所属しないファイルが現れます。しかたがないので新しいフォルダを作ります。フォルダの数がどんどん増えていきます。それではフォルダを作った意味がないので、しかたなく「その他」のフォルダを作りたくなります。これが良くない。どんどん「その他フォルダ」のファイルの数が増えて収拾がつかなくなります。経験上それがわかっているので「その他フォルダ」を作らないで頑張ろうと思うのですが、そうすると「ちょっと違うかな」と思うファイルもなんかこじつけて「既存のフォルダ」に入れてしまいます。あとで、「なんでここに入れたんだろう」となります(笑)。

なぜこんな事が起こるのか、理由は簡単です。分類するようにファイルが作られていないからです。だから、ファイルを作る時点で分類(番号)を決めておけばいいのです。でも、動物や鉱物や言語は分類されるように作られてはいません。

「分かる」

日本語の「理解する」という意味の「わかる」というのは「分かる」という字を書くことからもわかるように、「分ける」から来ているという説があります(根拠を明示できない)。だれの訳語かはわからないけど「理解」というのも「理をもって解する(分ける)」という意味でしょう(「understand」は「under」下に、間に、「stand」立てる、衝立で隔てる、という意味でしょうか)。

同じじゃないものを分類することはできません。「アンドロメダ星雲」と「神」を分類することはできません。犬と猫は同じところがあるので、違いを言えば分類できます。猫も三毛猫とアメリカンショートヘアはその違いを言えば分類し、見分けることができます。そうやって、分類すること違いを見つけることが私の飼っている猫を知ることになります。「うちの猫は人懐っこくてねえ」というのは、人懐っこくない猫がいるからそう言えるわけです。人懐っこくない「熊」がいても自分の猫を「知る」ことには役立ちません。

でも、熊と猫が違うように、隣の猫とうちの猫は違います。ではどうして猫(あるいは動物)という分類が可能なのでしょうか。昨日の私と今日の私は違います。服装も、体重も、気分も違います。身体を構成している物質も違います。それでも同じ〈私〉だとどうして言えるのでしょうか。時間の経過にかかわらず(というか、時間を存在させるために)同じだということ、それが「自己同一性(原理)」です。

「同じ」と「違う」とは対立しながらも、お互いに補い合う原理です。一方がなければ他方もありません。でも、どちらに重点を置くのかは文化によって差がありそうです。西欧の文化はその「同一性」に重点を置くような気がしています。なぜかと言えば、まず〈私〉の同一性、つまり「主体」を大切にする文化だからです。〈私〉以外のものは「私と違うもの」、「対象」として扱うのです。対象として扱うことによってのみ、私は私と同じという「自己同一性」が可能になります。でも、「私は私と同じ」というのは何の根拠にもなりません。だから、とても不安です。そこで、「私は〜だ」「私は〜じゃない」というのを限りなく列挙したり、「私の中の他人」を探したりします。でも、限りなく列挙しても私を定義することはできません。定義するものとして〈私〉は存在しないのです。

〈私〉だけではなく、存在するものは定義することができないのです。うちの猫も、このりんごも定義することはできません。そこで、限定された存在としての「存在者(存在するもの)」を持ってくるのが最後の方法なような気がしますが、それも問題のすり替えのような気がします。存在者を定義する無限の羅列をすることは、存在が定義できないということを言っているのです。それがいつかできると思うのは、それによって〈私〉を定義したい(「私とは何か」「存在理由、レゾン・デートル」)ということの裏返しにすぎません。

そういう「主体の文化(エゴの文化)」が、あってはいけないとか、あってもいいとかを言うことはできません。それも存在のひとつだからです。ただ、その文化は私が中心で、他人を、他国を、他文化を〈私〉〈私たち〉とは違うものとして扱います。大切なものは〈私〉だするのは当然です。他者に対する眼差しは、同情や哀れみや倫理となります。そこでは「(隣人)愛」や「ボランティア」が叫ばれます。でも、それらは「自分の意志」「自主性」が尊重される限りです。少なくとも「強制」によって「主体性」が阻害されるのは許されません。逆に己を捨てなければ、競争も闘争も許される文化です(そのために、自由や平等が必要になります)。

平等であるがゆえの競争・闘争は、「強者」がほぼ勝ちます。勝つのも負けるのも、その責任は「個人」にあります。平等であるということは、そして自由であるということは、すべての責任が「主体的な決定権をもつ」「個人」にあるということです。「私が勝たなければ、私が負けていた」のです。今日に満足をしてはいけません。〈私〉は「明日は負ける可能性」があるのです。明日のために、今日は昨日より強くなっていなければなりなせん。明日は今日より強くなることが必要です。そして、明日もきっと「強いもの」が勝ちます。

いつも不安な〈私〉は、限りなく満たされない〈私〉です。知るための細分化は限界がありません。限界があってはいけないのです。同様に知識は物として蓄積されます。限りなく蓄積されます。未来はより細分化され、蓄積されるものとして現れます。未来は、より蓄積されねばならず、現在はつねに「未完成」です。過去は乗り越えられた現在でしかありません。新しいものが求められ、古いもの(古い人も含む)は乗り越えられる不完全でしかありません。

日本もそういう社会になりつつあります。少なくとも50年前よりそういう社会になっています。どの文化もそういう面はあるのかもしれません。そういう人はどの文化にもいるでしょう。でも、そういう人もそういう文化も「生きにくい社会」だと思うのです。特に始めから(生まれたときから)「弱い〈私〉」が勝つ可能性は殆どありません。乗り越えられる古い人間(老人)になってしまった私は、そう思っています。

[著者等]風間喜代三[wiki(JP)](かざま きよぞう、1928年12月9日 - )、日本の言語学者、東京大学名誉教授。 1926年、東京都生まれ。1952年東京大学文学部言語学科卒業、高津春繁の指導を受け、比較文法学を研究。ウィーン大学留学。帰国した後、名古屋大学助教授、東京大学文学部助教授を経て教授。1978年10月には「印欧語の親族名称の研究」を東大に提出して文学博士号を取得。1989年に東京大学を停年退官し、名誉教授となった。その後も法政大学第一教養部教授を1999年まで務めた。
ギリシア語とラテン語。西欧諸言語の文法のモデルとなり、かつ多くの語彙を供給した二つの古典語を概観する。二言語の骨格を浮かび上がらせ、言葉のしくみの面白さを縦横に説く入門書。
[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4385358338]

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