
わたしの考えを変革した本
このシリーズを読み終えたのは、多分1年半くらい前です。ずっと感想を書けずにいました。感想を書くにはあまりにもすごすぎる本だったからです。
- 『初期ギリシア哲学講義・8講』(シリーズ・ギリシア哲学講義 Ⅰ)晃洋書房 2012/10/10
- 『プラトニズム講義・4講』(シリーズ・ギリシア哲学講義 Ⅱ)晃洋書房 2012/06/10
- 『アリストテレス講義・6講』(シリーズ・ギリシア哲学講義 Ⅲ)晃洋書房 2012/04/20
- 『ヘレニズム哲学講義・3講』(シリーズ・ギリシア哲学講義 Ⅳ)晃洋書房 2013/04/20
- 『講演集 ハイデガーと西洋形而上学』(シリーズ・ギリシア哲学講義(別冊))晃洋書房 2015/06/30
それぞれは70ページから160ページほどの薄めの本です。確かに「ギリシア哲学の本」なのですが、単なる「哲学入門書」ではありません。ギリシア哲学を通して、著者の考えを語っています。逆に「ギリシア哲学の標準的入門書」を読みたい人にはおすすめしません(笑)。客観性や科学性、あるいは学問的中立性を装った本ではないのです。だからこそ面白いし、著者の思いが伝わってきます。
自由、平等、平和、民主主義、人権、共生、コンプライアンス、説明責任、これらの近代において過剰に礼賛されている諸原理こそ問われねばならないのであります。(別冊、P.48)
数年前の私なら、この一文を見ただけでこの本を投げ捨てていたでしょう。今回、ざっと読み直してみても、やっぱり素直に納得できるとは言えません。ただ、一緒に考えてみたいなあ、と思わせてくれるのです。なぜなら、私が考えたいことと問題意識がいっしょだからです。
主観性原理(Subjecktivät)とそれを駆動力とするグローバリゼーションはまさに存在を破壊する原理であり、破壊の推進なのであります。これが類的人間の個別化(これは人間本質からの人間の切り離しを意味します)、その結果としての人間相互の不信、人心の荒廃、家制度の破壊、核家族化、ケアの社会学、すなわち高齢者介護の外部か、通り魔殺人を含むほとんど理由のない殺人の日常化、地域社会の崩壊、農村社会の限界集落への凋落など、今日のわたしたちがまさに目にしている世界の諸相であります。さらに巨視的に見るなら、情報工学にもとづく金融市場の過度の肥大化による国家財政の事実上の破綻、産業エネルギーの肥大化した需要による原子力行政とその破綻、過度の工業化による環境破壊とその結果としての森の破壊、それによる自然災害の悪魔的巨大化など、すべては肥大化し先鋭化した主観性が生じさせたものであり、主観性原理の浸透の必然的結果であります。(別冊、P.43)
「〜べき」ということ
私は昔から強制されることが大嫌いです。「道徳」とか「倫理」という言葉が大嫌いなのです。だから、「〜するべきだ」と言われると必ず一回は反発します(笑)。それが「自由」だと思っていたし、「もっと自由でいたい(今は自由ではない)」と思い続けてきました。「自由であること」は私には「正しいこと」であって、「自由であるべき」なのでした。でも同時に思っていたのは、私には「正しいこと」「そうであるべきこと」であっても、それを他人に強いることができるのか、ということです。自分が強制されるのが嫌なのなら、他人に強制することは矛盾ですよね。
「自分らしくあること」「個人として自立すること」「自由で平等であること」等、戦後の「民主教育」で育った私は、それらを疑うことなく目指して生きてきました。
倫理学はおしなべて独善的であります。倫理学は主観性を発生根拠とする哲学だからであります。倫理学が哲学に取って代わろうとする不遜を許してはなりません。(Ⅱ、P.30)
正しいこと(科学的、学問的であること)
そして、『鉄腕アトム』に熱中した少年時代、私は「科学者になりたい」と思っていました。「科学的であること」が「正しいこと」でした。科学の勉強は楽しかったし、得意でもありました。そして、その「正しさ」をどうにか人に伝えたいと思っていました。だから、「科学的社会主義」という言葉は魅力的だったし、勉強もしました。でも、ついにその「科学性」には納得できませんでした。数学のように「論理的」に「証明」して納得することができなかったのです。現実の日本、資本主義社会である日本の悲惨な状況は「正し」くはないと思っていました(いまも思っています)。でも、公害が社会問題になっても、オイルショックがあっても、自民党政権はかわりません。もし、「民主主義」が正しく、「選挙制度」が正しく、「多数決」が正しいのであれば、多くの人が「自民党がいい」と思っているのです。「資本主義社会がいい」と思っているのです。「みんな」が正しく「私」は間違っているのでしょうか。
「正しさ」と「告発」は表裏の関係にあるのであります。近代の諸思想の中にあって、告発的性格に根底から規定された最も極端な例は社会主義イデオロギーですが、社会主義イデオロギーは自らの告発的性格によって窒息し、亡んで行きました。(別冊、P.26-27)
「浅間山山荘」の事件を、すべてのテレビチャンネルで延々と放送していたことを思い出します。
「私は正しいと思う」ということの証明があるのでしょうか。そもそも「正しい」とは何なのでしょうか。科学における「~である」という断定も、「正しいこと」の「存在」を前提としています。小学生時代、それに疑問を持つ同級生がいたなあ、と思い出します。当時はバカにしていたけど、「正しいって何?」と聞かれたら、答えられなかっただろうなあ。今でも答えられませんが。
ソクラテスの定義術はそれゆえ、暗黙の内に、善それ自体、正義それ自体、勇気それ自体、美それ自体の存在を前提とし、それらを予想しているのであります。これはたまたま採用された方法がその哲学の内容をも規定してしまった最も顕著な事例であります。(Ⅱ、P.20)
「善」「正義」・・・等々は、人間が定めたものです。それが客観的存在(存在者)として「ある」わけはないのです。「太陽」や「赤」と同じです。「抽象的概念」「一般」「普通名詞」・・・、「概念」自体が明らかに人間が定めたものです。
それでは「イヌ」とか「酸素原子」「新型コロナウィルス」というものは「ない」のでしょうか。固有名詞だけで話すことはできませんから、それらの言葉はありますし、固有名詞(「ポチ」とか「太郎」とか)だけの言語というのも考えにくいです。言葉自体が、ある種の一般化なのです。ゴルギアスが言うように、
われわれが人に伝える手段とするものは言葉であるが、言葉はそれが表現する対象とは異なる。したがってわれわれが伝えるものは言葉であって、その対象ではない。どうしてわれわれは言葉(音)によって色を伝えることができるであろうか。われわれの耳は言葉(音)を聞くが、色を聞くことはできないからである。また言葉や徴表によって作り出される表象がすべての人において同じであるという保証はどこにもない。それゆえわれわれは、たとえ認識したとしても、それを人に伝えることはできない(セクストス・エンペイリコス『諸学者論駁』Ⅶ 65-87より)。(Ⅰ、P.148-149)
言葉は象徴機能を持っています。それが自分のなかの「あるもの」(それは文化的なものです)とのつながりを見つけたとき、それが「意味」となります( 「pomme 」と言われてもフランス語を知らない人には「りんご」が頭に浮かばないでしょう)。だから、「聞き間違え」や「見間違え」が起きます。知らない言語(Βάρβαροι)で話されても、意味がわからないのです。
存在
著者はパルメニデス(Parmenides,BC515年頃-450年頃)の哲学について、
存在(τὸ ἐόν)に関する彼の洞察は今日の哲学においても一歩も越えられていません。(Ⅰ、P.56)
パルメニデスの哲学はシンプルであります。「
ある、そしてないはない」(ἔστιν τε καὶ οὐκ ἔστι μὴῖεἰναι)と考えることが真であり、「ない、そしてないもあらねばならない」(οὐκ ἔστιν τε καὶ χρεὠν ἐστι μὴ εῖναι)と考えるのは偽であるというのが、それであります(断片 B 2)。この簡潔な命題によってパルメニデスは、存在(τὸ ἐὸν)に関してはただ「ある」としか言うことができないということ、すなわち「ない」と言い、そのことによってあたかも非存在が一個の存在者として存立しているかのように語るのはそれ自身に矛盾する不合理であり、許されないという主張を行っているのであり、非存在(μὴ εῖναι, τὸ μὴ ἐόν)の端的な不可能性を説いているのであります。(Ⅰ、P.59)
「ゼロ」はインドで発見されたそうです(『零の発見 ー数学の生いたちー』吉田洋一著、岩波新書)。「ゼロ」は存在するのでしょうか。「ネコが1匹いる」というのは、「ネコが〈いる〉(1)」ということですが、「ネコが0匹いる」というのは、「ネコがいない」ということですよね。「いないねこ」が「いる」ということでしょうか。ゼロを考えた人はどう思っていたんでしょうか。
世界をブラフマンとアートマンの二大原理の戦いの場と見た古代インド人の知恵には深いものがあります。これこそ世界の真実を見据えた知恵であり、仏教のみの真理ではありません。彼らはブラフマンとアートマンの合体(梵我一如)を理想としましたが、しかし彼らはブラフマン(梵)にアートマン(我)を帰一させようとしたのであって、アートマン(我)にブラフマン(梵)を従わせるなど、彼らの思いもよらないことでありました。(別冊、P.64)
「梵我」についてはよくわかりませんが、ギリシア人とインド人とはものの見方・捉え方の「方向」が違うようですね。「梵(ブラフマン)」を古典ギリシアの「自然(ピュシス)」だとすると、「我(アートマン)」は古典ギリシア伝統のものではなかったということです。「我(アートマン」と「我(コギト)」は違いますが、自然は「対象」であり、我は「主観」に近いですね。そういう意味では対応ができます。
著者がいう主体性「Subjektivität」はラテン語の「subiectum」から来ています。それはギリシア語の「ὑποκείμενον」のラテン語訳のようですが、ギリシア語の「ὑποκείμενον」とラテン語の「subiectum」は同じ意味ではないようです。それぞれがそれぞれの文化(歴史)に基づく言葉ですから当然です。さらにそれが近代哲学用語の「Subjektivität」としてはまた全然意味が異なります。当然日本語の「主観性」とは全然違います。日本語の「主観性」は日常用語ではありませんが、それ以外は日常語、日本語でいう大和言葉に近いようです。(『西洋哲学の基本概念と和語の世界』古田裕清著、中央経済社、参照)
ピュタゴラス派の学統上にあった者を除けば、ギリシア哲学は全体として自然をはるかに大いなる存在と感じており、自然に対する畏敬の念と帰依の感情で満ちみちています。むしろ彼らは自然からこそ基準(ロゴス)を学び取ろうという態度で一貫しています。(Ⅰ、P.119)
コギトが近代世界を生み出す原理になりえたのは、その思惟性(cogitatio)にあったというよりは、その背後に潜むエゴ(ego)にこそあったのであります。
このピュタゴラスによる主観性原理のギリシアへの導入は当然ギリシア世界に深刻な葛藤をもたらさずにはいませんでした。東西いずれからであるかは必ずしも定かでありませんが、ピュタゴラスと共に主観性(Subjektivität)は前六世紀の後半にギリシアに出現したのであって、そのことによってギリシア哲学は存在(ピュシス)と主観性の相克と葛藤の修羅場と化しました。(別冊、P.56-57)
そしてこのピュタゴラス主義の上にプラトニズムが構築され、そのプラトニズムの上に西洋近代の科学的知の成立もありました。(別冊、P.56)
主観性
古典ギリシアにとっては「異質な考え」である「主観性」がもたらされて、ギリシア人は驚いたわけです。「主観性」は「私」・「エゴ」です。ギリシア人ははじめはその考えを(邪教として)あざ笑っていました。ソクラテスが有罪になったのはそのためです。そして、「恐れ」も抱いていました。イタリアでピュタゴラス学派の徹底的な弾圧があったようです。
主観性を持ってしまえば、自然(ピュシス、存在)は「対象」となって、主体(人間)との間に大きな「壁」ができます。主体は「鎧」をまとい、自然(ピュシス)と交わることはできません。ハイデガーの言葉でいえば、自然は「存在」であることを隠し、「存在者」となって主体(人間、現存在(Da-sein))に対峙することになります。逆ですね。現存在が「対象化」によって存在者を作り出すのです。
自然から切り離された主体(主観性)は孤独です。
ピュタゴラスが学派に沈黙を命じ、また自らを帳(とばり)の奥深くに隠さざるをえなかったゆえんのもの、それをエンペドクレスはあからさまに発声したのであります。そのゆえんのものとは何か。それは主観性原理の失楽園性格、その祝福のなさであります。主観性は自らの正体をよく知っているのであります。それゆえそれは警戒的、猜疑的であらざるをえません。自らを隠さざるをえないというのが主観性の、恐らく主観性自身にもどうしようもない傾向性なのでありましょう。(Ⅰ、P.103-104)
まさしく「アダムとイブ」の「楽園追放」です。私はそこにヘブライズムを強く感じます。『我と汝』(マルティン・ブーバー)が成立するのです。「我」と「汝」は「主観」と「対象」として、決して直接関係することはできません。その間に「対話」を持ち込もうと「愛」を持ち込もうと、その壁は決して消すことはできないのです。私の「コミュ障」はここに起源があったのですね。日本語ではその瞬間を「物心がつく」と表現します。親から切り離され、周りのものが「自分とは異質なもの・相容れないもの」と感じ、思春期に入っていきます。
現在の私たちは、自分たち「人間」が主観性・自我を持つことが当たり前だとおもっています。いや、むしろ主観性を完成できないこと、個人として独立できないこと、「一人前」になれないことに「焦り」や「いらだち」を持っています。私たちは「個性」を持ち「個人」である「べき」だからです。
個人として「永遠の未完成」でいるのは辛い。「汝(他者)」との「対話」がむずかしいのなら、いっそ「我」を捨ててしまいたい、そう思ってしまいます。
(・・・)主観性は一旦植え付けられるや、それを根絶することはもはや不可能なのであります。ここに西洋哲学の運命(ゲシック)のいわば発端がありました。さらに言えば、西洋世界、ひいては人類の運命(ゲシック)の発端がここにあったことがこの後の歴史の展開から知られます。(Ⅱ、P.3)
歴史
このあいだTVで、「白黒写真で色が見える男」という話題を取り上げていました。昔の白黒写真に色を付けることができる人です。正解の色はないのですが、その色を付けた写真を持ち主に見せると「そうそう。この色の服を着ていた!」と言うのです。すごいなあ、と思いました。昔私は、なんの不自然さも感じないで、あたりまえに白黒写真を見ていました。白黒テレビも。そういう経験が私にはありますから、昔は色が見えていたんじゃないかなあ、と考えました。そして、カラー写真やカラーテレビができたことでその能力を失ってしまったんじゃないかと。可怪しいですか。でも、カラー刷りの画集なんかない時代に、日本人の画家たちは粒子の荒い、白黒の雑誌に紹介された印象派やシュールレアリスムの画家達の作品をみて、「すごいなあ」と思ったんですよ。
「色が見える人」の話が本当かどうかはわかりません。というのは、彼の中に無意識にでも、昔の服の印象が残っている可能性があるし、見る人の記憶も怪しいのです。はっきりとした記憶がない時に「こんな色でしたよね」と言われたら、自分のイメージとよほど違っていない限り、「そうだ」と思ってしまいますから。
その真偽は別として、カラー写真ができたことで、白黒写真は、色の欠けた、不完全なカラー写真になってしまったということなのです。白黒写真が当時持っていた「全体性」が失われてしまったのです。写真は白黒であろうが、カラーであろうがそれ自体が一つのもの、ひとつの全体だったのです。ところが、カラー写真が「本物」、つまり「ひとつの全体」になったことで、白黒写真は「偽物」「部分」になってしまったのです。
進歩史観にとって歴史は克服された「過去」でしかないのであります。進歩史観ほど歴史に対して不当をなす歴史観はありません。(別冊、P.20)
「新しものは、いい」というだけではありません。旧石器時代より新石器時代、ギリシア・ローマ時代より近代、近代より現代のほうが「いい」あるいは「進んでいる」と思うのが「進歩史観」です。進歩と進化は違う、という人がいます。「社会ダーウィニズム」は間違っている、ダーウィンはそんな事は言っていないと。そうかも知れません。進化(evolution)の意味は、ここでは書きません。イヌや猫やサルより人間のほうが「進んでいる」、あるいは「優秀だ」という感覚を持っている人は多いと思います。「人間中心主義」です。親の時代より、自分の時代のほうが「進んでいる」と思う人も多いでしょう。「進歩史観」です。親の時代には、ケータイもパソコンもコンビニもありませんでした。今は「便利」で「いい」社会なのでしょうか。逆に言うと、昔は「不便」で「悪い」社会でしょうか。
これは、ひとによってまちまちなので一概には言えません。たとえば、新しいiPhoneが出たら欲しくなる人もいるし、5Gが使えるようになったら使っている(使えている)ケータイを買い換える人もいるでしょう。クラシック音楽よりテクノミュージックのほうがいいという人もいるし、そうじゃない人もいます。推しのアイドルが新曲を出したら聞きたいと思うし、新しく出た写真集は買いたいと思う人もいます。古い電化製品が壊れたとき、「直す」より「買い換える」事を考える人も多いでしょう。新しいほうが「性能がいい」と思って。直そうと思っても部品がなかったり、直す技術を持っている人が減っていることもありますが、製品そのものが「直す」ことを前提に作られていません。人間が作ったものでなければ、人間には直せません。工場が機械化されると、人間が直す事ができるようなそんな「非効率な」「不経済な」設計はされないのです。その結果、「(使った)物」は「直して使う」のではなく、使えなくなったら(使わなくなったら)「捨てる」ことが当たり前になってきています。
ひと(他人)のことを言っているのではありません。私自身のことを言っているのです。いまもテレビで「新しい」ドラマを観ていました。情報番組では、新しいスイーツを紹介していました。食べてみたくなりました。コマーシャルでは、「洗浄力アップ。新しい〜」「新発売のゲーム」・・・と宣伝しています。どれもこれも「新しい」のです。「感染者が過去最多」「記録的な豪雨」「世界新記録」・・・。
「過去は克服」されたのかもしれません。それは「今日」「いま」も「克服されるべきもの」としてあるということです。
満足できない社会
主観性は己に自足できない原理であります。主観性はそのままで己に自足できるような原理ではないのであって、わたしたちはここに主観性原理の失楽園性格、その祝福のなさを見ると言わねばなりません。これを言い換えれば、主観性は己によって生じた空白に苦悩せざるをえない原理なのであります。主観性が己を主張するとき、そこには必ず空白が生じます。その結果、主観性は己を弁明しつづけねばならなくなります。己の正しさ、さらには己自身を弁明しつづけねばならないという点に、主観性原理の宿業性があります。特に自己意識(自覚)にいたった主観性はこの宿業性をもろにわが身に引き受けざるをえないのであって、西洋近代の哲学は総じて主観性のこの宿業性の哲学的表現でしかなかったといって過言でないのではないでしょうか。(別冊、P.25)
私の本棚には読んでいない本がたくさんあります。買うときは(もらってくるときも)「読みたい」と思っているのですが、なんか手に入っただけで安心しちゃって。で、次の瞬間には「新しく欲しい本」が現れてしまいます。パソコンのハードディスクにもどんどん(未処理の)データが溜まっていきます。ハードディスクを買い足してきましたが、残された人生では「絶対に」処理できません。
「いま」「現在」に満足できないのです。もちろん、自分自身にも、です(それを「向上心」と呼ぶ人もいますが)。「存在(存在者)」がどんどん増えると、それだけ自分(人間)が小さくなっていきます。
対象的追求は個別化、細分化、精密化を結果せずにいないからであります。理念化、先鋭化、個別化、精密化、細分化が対象化的学知(科学)の本性に根ざす傾向性なのであります。(別冊、P.8)
専門化が進み、学問はどんどん細分化されています。「横断的学問」とか「学際的研究」とか言われます。気持ちはわかります。でも、だれもそんな事が可能だとは思っていません。「すべてを知る」ことが可能だと思っている人は「常識人」だとは言われないでしょう。でも、今の自分には満足できない、いや、満足してはいけないのです。不満足である「べき」なのです。
「無知の知」(ソクラテス)は「足るを知る(知足)」(『老子』第33章、世界の名著P.107)とはまったく違います。正反対と言ってもいいでしょう。
ソクラテスこそギリシア哲学を主観性の哲学に転換し、そのことによって西洋哲学を主観生の哲学と化したその張本人なのであります。(Ⅱ、P.5)
と、著者は言い切ります。
社会主義は世界を告発し、世界を非難することしか知りません。そこでは当然生は収縮せざるをえず、その結果社会の萎縮と無責任が世にはびこることになります。(別冊、P.27)
後期近代世界はなお依然として「正しさ」という観念に呪縛された社会でありつづけているのであって、「人権」、「差別」、「ハラスメント」、「禁煙」、「コンプライアンス」、「説明責任」、「フェミニズム」などに見られる近代社会の告発的性格とヒステリー性に気づかぬ人がありましょうか。あれら非難の諸カテゴリーはいずれも社会主義イデオロギーの変容形であって、主観性の告発的性格に発しています。後期近代社会を広く蔽うあれらの諸現象にわたしは見紛いようもなく主観性の救い難い本性を見るものであります。これらの非難の諸カテゴリーで呪縛された後期近代社会は総じて主観性がヒステリー化した社会であるといって過言でないのではないでしょうか。(別冊、P.27-28)
著者が社会主義のことをどのくらい知っているのか、喫煙者なのかどうかすら私は知りません。喫煙者であり、コミュニストを自称している私には、にわかには納得しづらいこともあります。でも、ここで「社会主義イデオロギー」と言われている状況は、まさに今の日本です。これらの言葉を聞かない日はありません。SNSでの非難・告発の応酬、それが「匿名性」という無責任な立場で行われています。「告発」は主観性に基づきます。それは、自己の不満足の告発、自足できない主観性(自己、自我)の悲痛なる叫びであると私は思います。
死
特に今日の後期近代世界は主観性が個的主観性としても立ち上がり、この事態を極限にまで昂じさせました。結果は荒廃の広汎な進行であり、ニヒリズムの世界的規模での浸透であります。存在から切れたところ、そこは荒廃の支配するところとならざるをえないからであり、存在が失われたところ、そこにあるのはニヒル以外のものでないからです。(別冊、P.41)
「個人たるべく」生きてきた私の「すべてのもの」が崩れ去ろうとしています。それは、歳をとったせいかもしれません。将来を考えることができなくなり、昨日より今日のほうが「いい」と思える日はありません。完全な「老人的うつ」状態です。
新型コロナウィルスのニュースのせいかもしれません。ボーヴォワールの『老い』のせいかもしれません。まあ、「原因と結果」「因果関係」というのも、いまは「問い」の中にありますが。
私が若いことから目指しながら「疑問を持っていたもの」「納得できなかったもの」の正体は、どうやらこの「主観性」だったようです。
実は死のみが本当の優しさを現出させうるのであります。と言うのも、それのみが主観性を破壊しうるからです。主観性の枠内で語られる「優しさ」や「愛」が真にわたしたちを納得させることはありません。近代の諸思想や政治的スローガンにおいて語られる「愛」や「人権」、「平等」や「命の尊さ」、「共生」などといったタームはたいていそのようなものであって、それらはむしろわたしたちに苛立ちと反撥の気持ちを起こさずにはいないものがあります。あれら押しつけがましい諸タームをめぐって社会に蔓延している苛立ちとシラケに気づかぬ人がありましょうか。(別冊、P.77-78)
むしろ真の優しさは主観性が破壊されるところにのみ現出しうるのであって、優しさもまた本来は自然的概念であり、対称的概念ではないのであります。(P.78)
私は、「我を忘れるような愛」「無私の優しさ」を持つことはできませんでした。それらを望んでいても、自分の中では「なにかわざとらしいもの」を感じていたのです。本当に人を愛することができない、とも感じていました。「ボランティア」や「同情」によって「優越感」を感じることを拒否してきました。それらはどこか「うそっぽい」感じがしたし、思い込みでもそうできる人が羨ましいとも思っていました。「愛する」ことが「愛しなくてはならない」になり、「優しさ」が「優しくなければならない」と私には映ってしまうのです。どうやらそれは、強すぎる「主観性」が原因のようです。どうにかそれから逃げ出したいと思いますが、「主観性は一旦植え付けられるや、それを根絶することはもはや不可能なのであります」(前出)と著者に言い切られると、そうなんだろうなあ、とも思います。でも、「諦められない」というのが今の実感です。かといって、宗教に近づく気はまったくありません。そこにしか「救い」はないのかもしれませんが。エポケー(判断中止)も私にはむずかしいです。
実は、他所でも述べましたが、存在は否定性であって、主観性が己の前に対象として引き立てることのできるようなものではないのであります。対象は存在者であり、肯定的定立であります。存在は肯定的定立とはなりえません。したがって対象とはなりえません。(別冊、P.28)
「・・・は・・・である」と肯定的に考察の対象とした途端に「存在(自然、ピュシス)」は隠れてしまいます(「存在者」になってしまいます)。そこに見えるのは反省(反射あるいは投影)された「私(主観性)」でしかありません。それが「我(ego)思う故に我あり」であり、〈我(エゴ)〉だけではなく「すべてがある」ということなのです。
ソクラテスは、判断することもなく、判断を保留することもなく、問い続けた。そのことに「正誤」はない。しかし、それを「書いて」しまったプラトンは、ソクラテスを台無しにしてしまった。ソクラテスを「存在者」にしてしまった。ソクラテスの「問い」は文字にされることによって、客観的存在となり、ソクラテスを主観にしてしまった。たぶん、イエスについても、ブッダについてもそうなんだと思う。
ですから、否定的にしか語ることができないのです。それなら可能なような気がします。
私は最近、何にでもケチを付けたくなります。ぐちも多くなりました。私がきらいだった「口うるさいおじさん(おじいさん)」になりつつあります。それはそれで「正しいあり方」なのかもしれません。
Books That Changed My Mind
I finished reading this series maybe a year and a half ago. I haven't been able to write my impressions for a long time. It was too great a book to write a review about.
- "Lectures on Early Greek Philosophy 8 Lectures" (Series Lectures on Greek Philosophy I) Koyo Shobo 2012/10/10
- "Lectures on Platonism 4 Lectures" (Series・Lectures on Greek Philosophy Ⅱ) Koyo Shobo 2012/06/10
- "Aristotle Lectures 6 Lectures" (Series Lectures on Greek Philosophy Ⅲ) Koyo Shobo 2012/04/20
- " Lectures on Hellenistic Philosophy, Lecture 3" (Lecture Series on Greek Philosophy IV) Koyoshobo 2013/04/20
- "Lecture Collection Heidegger and Western Metaphysics" (Series Lecture on Greek Philosophy (separate volume)) Koyoshobo 2015 /06/30
Each one is a thin book, about 70 to 160 pages. It's certainly a 'book of Greek philosophy', but it's not just an 'introduction to philosophy'. It tells the author's thoughts through Greek philosophy. On the contrary, I do not recommend it to those who want to read "a standard introduction to Greek philosophy" (laughs). It is not a book that pretends to be objective, scientific, or academically neutral. That's why it's interesting and conveys the thoughts of the author.
Liberty, equality, peace, democracy, human rights, coexistence, compliance, accountability, these over-hyped principles of modern times must be questioned. (Separate Volume, P.48)
A few years ago, I would have threw this book away after seeing this sentence. This time, even after re-reading it briefly, I can't say that I can honestly agree. It just makes me want to think about it together. This is because what I want to think about and the awareness of the problem are the same.
The principle of subjectivity (Subjecktivät) and the globalization driven by it are precisely the principles that destroy existence, and promote destruction. This is the individualization of human beings (which means the separation of human beings from their essence), the resulting distrust among human beings, the devastation of the human heart, the destruction of the family system, the nuclear family, the sociology of care, In other words, outside of nursing care for the elderly, murders with little reason, including random murders, have become commonplace, the collapse of local communities, the decline of rural communities to the marginal settlements, and other aspects of the world we are witnessing today. I have. From a broader perspective, we can see the virtual bankruptcy of national finances due to the excessive expansion of financial markets based on information technology, the bankruptcy of the nuclear power administration due to the increased demand for industrial energy, and the destruction of the environment and its consequences due to excessive industrialization. Destruction of forests as natural disasters, and the ensuing diabolical expansion of natural disasters, are all caused by bloated and sharpened subjectivity, and are the inevitable result of the permeation of the principle of subjectivity. (Separate volume, P.43)
The word "should"
I have always hated being forced. I hate the words "morality" and "ethics". That's why, when I'm told, "You should do that," I always resist at least once (laughs). I thought that was "freedom," and I kept thinking, "I want to be more free (I'm not free now)." "To be free" was "the right thing to do" to me, and "to be free". But at the same time, I was wondering if I could force others to do what is right and what should be done. If you don't like being forced, it's a contradiction to force others.
I grew up with a post-war “democratic education,” such as “being yourself,” “being independent as an individual,” and “being free and equal.” I came.
Ethics are generally self-righteous. This is because ethics is a philosophy based on subjectivity. Do not allow the irreverence of ethics to replace philosophy. (II, P.30)
Doing the right thing (scientific and academic)
When I was a boy, I was absorbed in Astro Boy. wanted to be a scientist. "Being scientific" was "the right thing to do." I enjoyed studying science, and I was good at it. And I wanted to convey that "correctness" to people somehow. That's why the term "scientific socialism" appealed to me and I studied it. But in the end, I couldn't accept the "scientific". It was not possible to "prove" logically and be convinced like mathematics. I thought (and still do) that the tragic situation in Japan, a capitalist society, was not "correct". But even if pollution becomes a social problem, even if there is an oil crisis, the LDP government will not change. If "democracy" is correct, "electoral system" is correct, and "majority voting" is correct, many people think that "the LDP is better." They believe that a capitalist society is better. Is "everyone" right and "I" wrong?
"Correctness" and "accusation" are two sides of the same coin. Among modern ideas, the most extreme example of a fundamentally accusatory character is socialist ideology, but socialist ideology was suffocated by its own accusatory character and died out. (Separate volume, P.26-27)
I remember that all the TV channels were broadcasting the incident of "Asamayama Sanso" endlessly.
Is there any proof that "I think I'm right"? What exactly is "correct"? The assertion “is” in science also presupposes the “existence” of “the right thing”. I remember when I was in elementary school, there was a classmate who had doubts about that. I was silly at the time, but if someone asked me, "What is right?" I probably wouldn't have been able to answer. I still can't answer that.
Socrates' defining art therefore implicitly presupposes and anticipates the existence of goodness itself, justice itself, courage itself, beauty itself. It is because we are doing it. This is the most striking example of how the method that happens to be adopted also defines the content of the philosophy. (Ⅱ, P.20)
"Goodness", "justice", etc. are determined by humans. There is no way that it "exists" as an objective existence (being). Same with "sun" and "red". "Abstract concepts", "general", "common nouns"... The "concepts" themselves are clearly man-made.
Then, is there such a thing as a "dog", an "oxygen atom", or a "new coronavirus"? You can't speak with only proper nouns, so there are words for those, and it's hard to imagine a language with only proper nouns (such as "Pochi" or "Taro"). The word itself is a kind of generalization. As Gorgias says,
Though words are the means by which we communicate, words are not what they express. Therefore, what we communicate is the word, not its object. How can we convey colors through words (sounds)? For our ears hear words (sounds), but we cannot hear colors. Nor is there any guarantee that the representations produced by words and signs are the same for all people. Therefore, even if we recognize it, we cannot communicate it (Sextus Empericus, Refutation of the Scholars, VII 65-87). (Ⅰ, P.148-149)
Words have a symbolic function. When it finds a connection with "something" inside of us (that is cultural), it becomes "meaning" "apple" doesn't come to mind). Therefore, "mishearing" and "misreading" occur. Even if it is spoken in a language I don't know (Βάρβαροι), I do not understand the meaning.
Being
On the philosophy of Parmenides (c.515-450 BC),
on existence His insight has not gone one step beyond today's philosophy. (I, P.56)
Parmenides' philosophy is simple. There is
, and there is nonot'' (ἔστιν τε καὶ οὐκ ἔστι μὴῖεἰναι) Yes, and "There must beNo, andNo" (οὐκ ἔστιν τε καὶ χρεὠν ἐστι μὴ εῖναι) That is why it is false to think that (Fragment B 2). By this succinct proposition Parmenides says that with respect to being (τὸ ἐὸν) one can only say is'', i.e.not'', and that Therefore, it is absurd and unforgivable to talk about non-existence as if it exists as a single being, which contradicts itself. ἐόν). (Ⅰ, P.59)
"Zero" was discovered in India ("Discovery of Zero -The Life of Mathematics-" by Yoichi Yoshida, Iwanami Shinsho). Does "zero" exist? "There is one cat" means "There is a cat (1)", but "There are zero cats" means "There are no cats”. Does it mean that "a cat that doesn't exist" is "a cat"? What did the person who thought of zero think?
There is great wisdom in the ancient Indians who saw the world as a battleground between the two great principles of Brahman and Atman. This is the wisdom that looks at the truth of the world, and it is not the truth of Buddhism alone. They idealized the union of Brahman and Atman, but they tried to unite Brahman with Atman, and atman with Brahman. ) to obey, something that they could never have imagined. (Separate volume, P.64)
I don't know much about Brahma, but it seems that the Greeks and Indians have different ways of looking at and understanding things. hey. If "Brahman" is the classical Greek "nature" (physis), then "I" (Atman) was not of the classical Greek tradition. I (Atman)'' and I (Cogito)'' are different, but nature is an object,'' and I is closer to subject.'' In that sense, we can deal with it.
The author's subjectivity, Subjektivität'', comes from the Latin word subiectum''. It seems to be a Latin translation of the Greek ὑποκείμενον'', but the Greek ὑποκείμενον'' and the Latin subictum'' do not seem to mean the same thing. It is natural that each language is based on its own culture (history). Furthermore, it has a completely different meaning from the modern philosophical term "Subjektivität". Of course, it is completely different from the Japanese word "subjectivity". "Subjectivity" in Japanese is not a daily term, but other than that, it seems to be close to everyday language, Yamato Kotoba in Japanese. (See "Basic Concepts of Western Philosophy and the World of Japanese Language" by Hirokiyo Furuta, Chuo Keizai-sha.) As a whole, they feel a much greater presence in nature, and are filled with feelings of reverence and devotion to it. Rather, they have a consistent attitude of learning the standard (logos) from nature. (I, P.119)
It is not so much the cogitatio that made the cogito as the principle that gave birth to the modern world, but rather the ego that lies behind it. It is because there was.
This Pythagorean introduction of the principle of subjectivity into Greece naturally brought about serious conflicts in the Greek world. It is not clear whether it came from the East or the West, but along with Pythagoras, subjectivity (Subjektivität) appeared in Greece in the second half of the sixth century BC, and Greek philosophy became the conflict between existence (pysis) and subjectivity. and turned into a shambles of conflict. (Separate volume, P.56-57)
Platonism was built on this Pythagoreanism, and modern Western scientific knowledge was established on Platonism. (Separate volume, P.56)
Subjectivity
The Greeks were given the idea of subjectivity, which was a foreign idea to classical Greece. I was surprised. “Subjectivity” is “I” and “ego”. The Greeks initially derided the idea (as a heresy). That is why Socrates was found guilty. I also had a “fear”. It seems that there was a thorough suppression of the Pythagorean school in Italy.
Once we have subjectivity, nature (physics, existence) becomes an object, creating a large wall between us and the subject (human being). The subject is "armored" and cannot commune with nature (physis). In Heidegger's words, nature hides its existence'' and becomes an being,'' confronting the subject (human being, existence (Da-sein)). It's the opposite. Existence creates existence through "objectification".
A subject (subjectivity) cut off from nature is lonely.
Pythagoras uttered it openly because Pythagoras had ordered the schools to be silent, and had to hide himself in the depths of his veil. I have. What is the reason for that? It is the paradise lost character of the subjectivity principle, its lack of blessing. Subjectivity knows its true identity. Therefore it must be vigilant and suspicious. It is a tendency of subjectivity, perhaps even subjectivity itself, to be forced to hide itself. (Ⅰ, P.103-104)
It is exactly the "expulsion from paradise" of "Adam and Eve". I feel a strong sense of Hebraism there. "I and Thou" (Martin Buber) is established. "I" and "thou" can never be directly related as "subject" and "object". Whether we bring in “dialogue” or “love” in the meantime, that wall can never be erased. This is where my "communication disorder" originated. In Japanese, that moment is expressed as momotsutsutsuki''. Adolescents are separated from their parents, feel that the people around them are different and incompatible with them, and enter puberty.
Currently, we think that it is natural for us “humans” to have subjectivity and ego. No, rather, I feel "impatient" and "frustrated" by not being able to complete my subjectivity, being unable to be independent as an individual, and not being able to become "a full-fledged person." Because we “should” have “personality” and be “individuals”.
As an individual, it hurts to be "perpetual incomplete". If "dialogue" with "thou (others)" is difficult, I would rather abandon "I".
(...) Once subjectivity is planted, it can no longer be eradicated. Here was the beginning of the fate (gesic) of Western philosophy, so to speak. Furthermore, it is known from later developments in history that the Western world and, by extension, the origin of the fate of mankind (Gesic) was here. (II, P.3)
History
The other day, there was a topic on TV about "a man who can see color in black and white photographs." Someone who can color old black and white photos. There is no correct color, but when I show the owner a picture with that color added, they say, "Yeah, I was wearing clothes in that color!" I thought it was amazing. In the old days, I used to look at black and white photographs without feeling anything unnatural. Also black and white TV. Since I have such an experience, I thought that I might have been able to see colors in the past. And with the advent of color photography and color television, I think I lost that ability. Is it weird? But at a time when there were no color books of art, Japanese artists saw the grainy, black-and-white magazines of Impressionist and Surrealist artists and thought, "Wow, that's amazing."
I don't know if the story of "people who can see colors" is true. This is because, even unconsciously, there is a possibility that the impression of the old clothes remains in him, and the memory of the viewer is also doubtful. When I don't have a clear memory of it and someone tells me, "It was that color, isn't it?"
Besides the truth, the advent of color photography has turned black-and-white photography into imperfect color photography, devoid of color. The "wholeness" that black and white photography had at the time was lost. Whether the photograph was in black and white or in color, it was a whole in itself. However, as the color photograph became the "genuine", that is, the "whole", the black-and-white photograph became the "fake" or "part".
For the progressive view of history, history is nothing more than the "past" that has been overcome. There is no historical view that is more unfair to history than the progressive view. (Separate volume, P.20)
It's not just that "new things are good." The “progressive view of history” is to think that the Neolithic age is better than the Paleolithic age, the modern age is better than the Greco-Roman age, and the present age is better than the modern age. Some people say there is a difference between progress and evolution. "Social Darwinism" is wrong, Darwin never said that. Maybe so. I won't write the meaning of evolution here. I think there are many people who feel that humans are "more advanced" or "superior" than dogs, cats, and monkeys. "Anthropocentrism". Many people think that their age is "more advanced" than their parents' age. "progressive view of history". In my parents' days, there were no mobile phones, computers, or convenience stores. Is it a "convenient" and "good" society now? To put it the other way around, in the past it was an "inconvenient" and "bad" society.
This varies from person to person, so I can't generalize. For example, some people will want a new iPhone when it comes out, and some people will replace their current mobile phone when 5G becomes available. Some people prefer techno music to classical music, others don't. If your favorite idol releases a new song, you'll want to listen to it. When an old electrical appliance breaks down, many people think of "buying a new one" rather than "fixing" it. I thought the new one had better performance. Even if you want to fix it, there are no parts available, and the number of people who have the skills to fix it is decreasing, but the product itself is not made on the premise that it can be "fixed". If it's not made by humans, it can't be fixed by humans. When a factory is mechanized, such "inefficient" and "uneconomical" designs that humans can fix will not be made. As a result, it is becoming commonplace to "throw away" (used) items when they become unusable (when they are no longer used) instead of "repairing and using" them.
I'm not talking about other people. I am talking about myself. I was still watching the "new" drama on TV. The information program introduced new sweets. I want to try it. In the commercials, it is advertised as "Increased detergency. New ~" and "Newly released game". Everything is "new". "The highest number of infected people", "Record heavy rain", "New world record"...
Maybe the past has been overcome. It means that "today" and "now" are also "things to be overcome".
An Unsatisfactory Society
Subjectivity is the principle of self-sufficiency. Subjectivity is not a self-sufficient principle, and we must say that here we see the paradise lost character of the subjectivity principle, its lack of blessings. In other words, subjectivity is a principle that cannot but suffer from the void created by itself. Whenever subjectivity asserts itself, there is always a void. As a result, subjectivity must go on defending itself. The inherent nature of the subjectivity principle lies in the fact that we must continue to defend our own righteousness and, moreover, ourselves. In particular, the subjectivity that has led to self-awareness (self-awareness) cannot help but take upon itself this stubbornness, and modern Western philosophy has generally been nothing more than a philosophical expression of this stubbornness of subjectivity. Isn't it an exaggeration? (Separate Volume, P.25)
There are many unread books on my bookshelf. When I buy it (or when I receive it), I want to read it. Then, at the next moment, "a new book I want" will appear. Data (unprocessed) accumulates more and more in the hard disk of the personal computer. I've bought more hard disks, but I can't "absolutely" handle them in the rest of my life.
I can't be satisfied with the "now". And, of course, to yourself (some people call it "improvement"). As the number of "existences (existences)" increases, the self (human being) becomes smaller.
Because the objective pursuit must result in individualization, fragmentation, and refinement. Idealization, sharpening, individualization, refinement, and segmentation are the tendencies rooted in the nature of object chemical knowledge (science). (separate volume, P.8)
As specialization progresses, academic disciplines are becoming more and more subdivided. It is called “transdisciplinary study” or “interdisciplinary research”. I understand your feelings. But no one thinks that is possible. A person who thinks it is possible to "know everything" would not be called a "common sense person". But I can't be satisfied with myself now, no, I shouldn't be satisfied. It "ought" to be unsatisfactory.
"Knowledge of ignorance" (Socrates) is completely different from "knowing sufficiency" (Laozi, Chapter 33, World Masterpieces, P.107). I would say the exact opposite.
Socrates is the person responsible for transforming Greek philosophy into subjective philosophy, and thus Western philosophy into subjective philosophy. (Ⅱ, P.5)
The author asserts.
Socialism only knows how to accuse the world and condemn the world. Naturally, life will have to shrink there, and as a result, social atrophy and irresponsibility will spread throughout the world. (Separate Volume, P.27)
The late modern world is still a society that is still bound by the concept of "justice," and it is a society where human rights, discrimination, and harassment are all issues. , no smoking,'' compliance,'' accountability,'' and feminism.'' All of these categories of accusations are transformations of socialist ideology, and they stem from the accusatory character of subjectivity. In those phenomena that broadly cover late modern society, I see unmistakably the irredeemable nature of subjectivity. It would not be an exaggeration to say that the late modern society, which has been cursed by these categories of criticism, is generally a society in which subjectivity has become hysterical. (Separate volume, P.27-28)
I don't even know how much the author knows about socialism or if he smokes. As a smoker and a self-professed communist, I find it hard to understand. However, the situation referred to here as "socialist ideology" is exactly what Japan is today. Not a day goes by without hearing these words. Responding to criticism and accusations on SNS, it is done in an irresponsible position of "anonymity". The "accusation" is based on subjectivity. It is, I think, an accusation of self-dissatisfaction, the wail of the insatiable subjectivity (self, ego).
Death
Especially in today's late-modern world, subjectivity has risen as individual subjectivity, and this situation has been exacerbated to the extreme. The result is a widespread devastation and a worldwide permeation of nihilism. For where existence is cut off, desolation must reign, and where existence is lost, there is nothing but nihil. (Separate volume, P.41)
My “everything” that I have lived “in order to be an individual” is about to collapse. Maybe it's because I'm getting old. There is never a day when you can't think about the future and feel that today is better than yesterday. It's a complete senile depression.
It may be because of the news about the new coronavirus. It may be because of Beauvoir's "old age". Well, "cause and effect" and "causal relationship" are now in the "question".
It seems that this "subjectivity" was the true identity of "things I had doubts" and "things I wasn't convinced" when I was aiming for it since I was young.
Actually, only death can reveal true kindness. For that alone can destroy subjectivity. "Kindness" and "love" spoken within the framework of subjectivity never truly convince us. Terms such as “love,” “human rights,” “equality,” “the preciousness of life,” and “coexistence” used in modern thought and political slogans are mostly of that kind. There is something that cannot help but arouse feelings of irritation and repulsion in us. Who is unaware of the frustration and frustration that is prevalent in society over those intrusive terms? (Separate volume, P.77-78)
On the contrary, true kindness can only appear where subjectivity is destroyed, and kindness is also inherently It is a natural concept, not a symmetrical concept. (P.78)
I could not have 'distracting love' or 'selfless kindness'. Even though I wanted them, I felt "something artificial" in myself. I also felt that I could never really love someone. I have refused to feel "superior" by "volunteering" or "sympathy." There was something about them that felt "false", and I was envious of people who were able to do so, even if it was just an assumption. "Love" becomes "must love", and "kindness" becomes "must be kind" to me. It seems that it is caused by too strong "subjectivity". I would like to escape from it somehow, but when the author asserts, "Once subjectivity is planted, it is no longer possible to eradicate it." . However, my current reality is that I cannot give up. I have no intention of approaching religion. There may be no "salvation" there. Epoché (suspension of judgment) is also difficult for me.
Actually, as I said elsewhere, existence is negativity, not something that subjectivity can set before itself as an object. The object is the being, the positive positing. Existence cannot be a positive thesis. Therefore, it cannot be targeted. (Separate volume, P.28)
As soon as ...is...'' is considered as a positive object of consideration, existence (nature, physis)'' It will be hidden (become a “present person”). What we see there is only the reflected (reflected or projected) “I (subjectivity)”. That is I think, therefore I am,'' and it means There is everything,'' not just I.''
Socrates went on asking without judging or withholding judgment. There is no "right or wrong" about it. But Plato, who "wrote" it, ruined Socrates. He made Socrates a "being". By putting Socrates's "question" into writing, it became an objective existence, making Socrates subjective. Maybe it's the same with Jesus, and it's the same with Buddha.
So I can only speak negatively. I feel like that would be possible.
I tend to be picky about everything these days. I also complained a lot. I'm becoming the "noisy old man" that I used to hate. That may be the "right way".
[著者等]
日下部/吉信
1946年京都府に生まれる。1975年立命館大学大学院文学研究科博士課程修了、博士(文学)。1987‐1988年、1996‐1997年ケルン大学トマス研究所客員研究員。2006‐2007年オックスフォード大学オリエル・カレッジ客員研究員。立命館大学文学部助教授、教授を経て、特任教授
初期ギリシア哲学講義・8講
第1講 ミレトス派
タレス(Thales、BC585年頃活躍)
「万物のアルケー(原理)は水(ὕδωρ)であるとタレスは言いました。哲学の誕生を告げる言葉として掲げるにはやや物足りなさを感じさせぬでもないテーゼではありますが、しかしこの命題によってタレスは神話(μῦθος)からロゴス(λόγος)への転換をなし遂げたのであります。」(P.2)
アナクシマンドロス(Anaximandros,BC610年頃ー546年頃)
「万物のアルケーは「ある無限な自然」(τινά μύσις άπειρον)であるというのがアナクシマンドロス哲学のテーゼであります。」(P.9)
アナクシメネス(Anaximenes,BC546年頃活躍)
「すなわちアナクシメネスの想定した万物のアルケーは空気(άήρ)でした。「一切は空気である」とアナクシメネスは主張します(ヘルメイアス『異教哲学者を諷す』7 [Dox.653])。アナクシメネスにとっては「空気」(άήρ)とその「永遠の運動」(κίνησις άίδιον)だけで十分なのであります。空気であるわれわれの魂がわれわれを統合しているように、気息(πνεύμα)、すなわち空気が全世界を包んでいる」(断片 B 2)というのがアナクシメネス哲学のテーゼであります。アナクシマンドロスの「無限なもの」(ト・アペイロン)の位置に「無限な空気」(άήρ άπειρον)を置けば、それがアナクシメネスの哲学なのであります。」(P.14)
第2講 ピュタゴラス派
ピュタゴラス(Pythagoras,BC532年頃最盛期)
「ディオニソス(Dionysos)は別名バッカス(Bacchus)とも呼ばれ、最初は植物一般の神とされ、不死の象徴でしたが、植物の中でも特に葡萄の神と目されるようになり、最後には酒の神になった神であります。ディオニュソス崇拝においては(それは女性の祭典でしたが)、生きたまま羊が引き裂かれ、その生肉を食らい、ぶどう酒に酔い痴れた婦人たちの狂乱怒濤の乱舞が繰りひろげられるのでありました。そのことによって忘我(έκστασις)の境地に達することが追求されたのであります。エクスタシス(έκστασις)というのは脱我というほどの意味であり、自分から脱出することを意味します。ディオニソスの秘儀においては、魂を閉じ込めている墓である自分の身体から脱することによって、神と合体することが意図されたのであります。これは当時すでに国教化していたゼウスを中心とするオリュンポス一二神への正統的信仰によってはもはや満たされない民衆の生の宗教的情念の発露と言うことができるでありましょう。」(P.21)
「これは哲学史上最初に現れたカテゴリー表とも言うべきものであります。」(P.29)
第3講 ヘラクレイトス(Herakleitos,BC500年頃活躍)
「万物は流れる」(πάντα ῥεῖ)(P.35)
「これと指さした瞬間には、それは別のものになっています。このようにすべては変転極まりない流転の中にあります。「同じ川に二度入ることはできない。それらは散らし、また再び集める。それらは近寄り、また離れて行く」(プルタルコス『デルポイのEにつて』18p.392B)。「同じ川にわれわれは入って行くのでもあり、入って行かないのでもある。われわれは存在するのでもあり、存在しないのでもある」(文法家のヘラクレイトス『ホメロスの比喩』24)と、ヘラクレイトスは弁証法的な表現によってその深遠な思想を語っています。(LF)何ものもあるとはいえません。ありかつないと言わねばなりません。すべては生成・消滅の不断の流れの中にあります。そして、このように生成流転して止まない世界の全体を彼は火(πύρ)であるとしました。生成・消滅を繰り返し、流転・変転して止まない不断の運動状態にある世界の実相は、ヘラクレイトスによれば、すべてを焼き尽くすかと思えば、また新たに創造し、消えて行くかと思えば、また燃え上がる永遠に生きつづける火なのであります。「この世界はすべてのものにとって同じであり、神々にしろ、人間にしろ、誰かが造ったと言うようなものではない。むしろ一定量だけ燃(FF)え、一定量だけ消えながら、永遠に生きつづける火として、それは常にあったし、今もあり、また将来もあるであろう。」(クレメンス『雑録集』Ⅴ105)と言います。(LF)それゆえ、ヘラクレイトスが万物の原理は火であると言うとき、ミレトス派の人たちが万物のアルケーは水であるとか、ト・アペイロンであるとか、空気であると言ったのとはまったく異なる次元において語られているのが理解されるでありましょう。」(P.36-37)
「否、ヘラクレイトスはやはり「世界大火」を語っていたとわたしは思います。彼の思想の過激さからして、これはもうほとんど確信と言えます。主観性を滅ぼすためであれば、世界全体を焼き滅ぼしても彼には悔いはなかったでありましょう。むしろ主観性も世界も共に灰燼に帰されねばならないのであります。「火がやってきて、すべてのものを裁き罰さねばならない」(ヘラクレイトス、断片B66)のであります。ここにヘラクレイトスのテーゼの核心があります。主観性が滅ぼされなければ、存在の真理が立ち現れることはないでありましょう。ヘラクレイトスによれば、世界が焼き尽くされても、それによって一切が無に帰してしまうわけではないのであって、むしろそのような灰燼の中からこそ存在の真理は、たち現れてくるのであります。すなわち灰燼の中からこそロゴスと調和は立ち現れてきます。」(P.39)
「しかし対立するものの闘争の中にもし何らの一致も調和もなかったなら、世界はやはり瓦解してしまったことでありましょう。対立するものも、より全体的な観点から見れば、同一性によって結ばれ(FF)ヘラクレイトスの炯眼はこれを見逃しませんでした。「上り道と下り道とはひとつの同じ道」(ヒッポリュトス『全異端派論駁』Ⅸ 10)なのであります。また「生と死、目覚めと眠り、若さと老いは同じである。このものが転化してあのものとなり、あのものが転化してこのものとなるのだからである」(擬プルタルコス『アポロニオス宛の弔意書簡』10 p.106E)。「善と悪も同じである」(ヒッポリュトス『全異端派論駁』Ⅸ 10)とまでヘラクレイトスは語ってます。」(P.41-42)
「対立するものがこのように闘争し合いながらも互いを滅却し合わないのは、そこに一定のロゴス(理)があるからであるとヘラクレイトスは考えました。生成流転する現象の背後には一定のロゴス(λόγος)が存在し、万物を支配しているのであり、それがために世界は片時も休むことなく対立し、闘争し、生成・消滅を繰り返しながらも、全体としては美しい調和(ἀρμονία)を保っているのであります。」(P.42)
「この調和は表面には現れません。「自然は隠れることを好む」(テミスティオス『弁論集』5 p.69)からであります。ヘラクレイトスによれば、現象の雑多と喧騒の背後にこのようなロゴスの支配を見る者が哲学者(φιλόσοφος)であります。このロゴスを彼は「共通の神的なロゴス」(ό κοινός λαί θείος λόγος)と呼んでいます。(LF)したがって、知恵(哲学)と言うべきはこの「共通の神的なロゴス」の認識でなければなりません。ハイデガー流に言えば、存在の知でなければなりません。ヘラクレイトスの洞察によれば、存在の知は共通であり、公的であります。言い換えれば、主観性を越えており、主観性の内に拘束されるようなものではないのであります。したがって「知恵とは〔自然に〕耳を傾け、自然に即して真実を語り行うこと」(ヘラクレイトス、断片 B 11)でなければなりません。」(P.43)
「人間どものみならず、「哲学」もまたそれを理解しようとしません。理解しないのみならず、世界のロゴスを無視し、それに対立してすらいます。世界のロゴスと不仲になっているという洞察こそ、ヘラクレイトスの「哲学」に対する根本的な疑義ですが、これは近代の哲学思想全体に当てはまる疑義と言うことができるでありましょう。ヘラクレイトスの哲学は、全体として、近代哲学をこそ批判し(FF)ているのであります。言い換えれば、近代世界をこそ批判しているのであります。だとすれば、ヘラクレイトスの哲学に対してしばしば示される近代の哲学者たちのあのシンパシーの表明は一体何を意味するのでしょうか。その実質意味するところは、近代人は近代を認可していないということではないでしょうか。だとすれば、近代人は近代世界を疑問視しつづけているということであり、じつに不幸なことと言わねばなりません。「彼らは、彼らが絶えず交わっているもの、すなわち全宇宙を管理しているロゴスと不仲であり、日々出会っているものが彼らには疎遠に思われるのだ」(マルクス・アウレリウス『自省録』Ⅳ 46)。」(P.44-45)
「哲学はそれほどにもすでにピュタゴラスの影響に晒されていたのであって、ヘラクレイトスはこれを許すことができませんでした。哲学を主観性の汚染から守るために彼は死力を尽くして戦いましたが、しかし主観性は、今日においてもそうであるように、当時においてもすでに強力な原理であり、結局彼の言葉に、ある種の感銘はうけながらも、耳を傾ける者はいなかったのであります。」(P.45)
「理性(ロゴス)は、したがって、ヘラクレイトスによれば、実はわたしたちの中にある一能力に過ぎないものなのではなく、本来は世界の周辺を取り巻く原理であり、この世界の周辺を取り巻く「共通の神的なロゴス」(ό κοινός καί λόγος)を呼吸と共に吸い込むことによって初めてわたしたちは知的となるのであります。したがって「われわれのなかの知性(ヌース)」(ὁ έν ήμίν νούς)は「周辺を取り巻くロゴス」との交流を不断に保持していなければならず、それから切り離されるなら枯渇してしまいます。知性(ヌース)は、それゆえ、常にその故郷である周辺部のロゴスに憧れており、それを「窓から覗くように感覚の通路から」覗き見ています。そしてそれとの交流を回復するなら、炭が火に近づいて灼熱するごとく、またふたたび輝き取り戻すと言います(セクストス・エンペイリコス『諸学者論駁』Ⅶ 127-129)。世界の原理とも言うべきこのロゴスの概念がユダヤのピロン(Philo Judaeus,前二五年頃ー後五〇年頃)を経由してキリスト教の中に流入したとき、「神はロゴスであった」というあのヨハネ伝の表現となって結実したのであります。」(P.46)
第4講 エレア派
クセノパネス(Xenophanes、B.C.570-475頃)
「批判性、冷笑性は故郷喪失性の一表現だったのであります。クセノパネスの哲学とその境涯は、故郷を喪失したものは深い矛盾を内に抱えざるをえず、ために二度と再び故郷を見出しえないことをわたしたちに教えています。」(P.55)
パルメニデス(Parmenides,BC515年頃-450年頃)
「存在(τὸ ἐόν)に関する彼の洞察は今日の哲学においても一歩も越えられていません。」(P.56)
「パルメニデスの哲学はシンプルであります。「ある、そしてないはない」(ἔστιν τε καὶ οὐκ ἔστι μὴῖεἰναι)と考えることが真であり、「ない、そしてないもあらねばならない」(οὐκ ἔστιν τε καὶ χρεὠν ἐστι μὴ εῖναι)と考えるのは偽であるというのが、それであります(断片 B 2)。この簡潔な命題によってパルメニデスは、存在(τὸ ἐὸν)に関してはただ「ある」としか言うことができないということ、すなわち「ない」と言い、そのことによってあたかも非存在が一個の存在者として存立しているかのように語るのはそれ自身に矛盾する不合理であり、許されないという主張を行っているのであり、非存在(μὴ εῖναι, τὸ μὴ ἐόν)の端的な不可能性を説いているのであります。」(P.59)
「それゆえ、パルメニデスによれば、非存在は存在に対立する何かなのではありません。対立するならそれは存在しておらねばなりませんが、それは矛盾だから。かくして、存在は何ものによっても制限されないのであって、無制限かつ永遠不変に「ある」であります。存在は「一であると共に全体であり、連続」(ἕν καὶ πᾶν καὶ συνεχές)であって、その内に空虚(κενόν)の入る余地はありません。空虚は非存在そのものであるがゆえに、不可能だからです。ここからパルメニデスは生成(γένεσις)、消滅(ὄλεθρος)の不可能性を説きました。生成は非存在から存在への移行であり、消滅は存在から非存在への移行ですが、非存在は存在しないからであります。また運動(κίνησις)も不可能です。運動は空虚を必要としますが、存在はいかなる非存在によっても破られないがゆえに、存在の内に空虚は存しえませんから。さらにまた多(πολλά)も不可能です。ものが二つに分割されるためには、その間に空虚が介在しなければならないからであります。このようにしてパルメニデスは、現象において見られる生成、消滅、変化、運動、空虚、多のすべてを仮象であり、「死すべき者どものドクサ」(βροτῶν γ῀οξα)に過ぎぬものとして、退けました。(LF)かくして、パルメニデスによれば、世界には存在というただひとつの永遠不変に静止した一者しか存在しないのであります。」(P.60)
「運動性そのものである自然(ピュシス)を唯一の実在と考えるアリストテレスにとって、パルメニデスの運動抹殺の哲学は狂気の沙汰としか言いようがなかったのでしょう。」(P.63)
「プラトンはパルメニデスの前掲のテーゼに比較的誠実に対処した人ですが、その彼のなしえたことも結局はパルメニデスのテーゼに目をつむることでしかありませんでした。」(P.64)__あることを証明するより、ないことを証明することのほうがむずかしい。というか、ないことを証明することは事実上は不可能である。そして、理論上も不可能ではないかというのがパルメニデスのテーゼ。「永遠はあるか」。ないものを見つけるとないものはあるものになる。
「憎きソピストを断罪するためにプラトンは彼自身ある種の印象を持って受け止めていたパルメニデスの「存在のテーゼ」を一時棚上げにしたわけであります。哲学を犠牲にしてでも断罪しなければなかったところにプラトンのソピストへの憎しみの深さが窺われます。わたしたちはこのプラトンのソピストへの憎しみの内にギリシア的知の構造のひとつの断層を見なければなりません。この断層がギリシア哲学における幾多の軋轢と動揺の震源となったのであります。」(P.66)
「「存在はさまざまな意味で語られる」(τὸ ἒν λέγεται πολλαχῶς)(『形而上学』第七巻、第一章)というのがアリストテレスの「存在のテーゼ」であり、彼の存在論の出発点ですが、これはパルメニデスの「存在のテーゼ」の黙殺宣言以外の何ものでもありません。パルメニデスを黙殺することによって初めてアリストテレスは自らの存在論をスタートさせることができたのであります。哲学者アリストテレスの誠実生を疑わざるをえません。」(P.67)
「しかし、いずれにせよ、この黙殺によって初めて西洋形而上学が可能になり、哲学が救い出されたのであります。」(P.68)__「ゼロ」はあるか。
「ハイデガーも指摘するように、西洋形而上学は総じて存在を存在者としてしか取り扱ってきませんでした。これをハイデガーは「西洋形而上学の存在忘却」として糾弾しますが、しかし西洋形而上学の存在忘却を告発してやまないハイデガー自身ですらどこまで存在としての存在に正当に対処しえたか疑問なしとはなしえません。」(P.69)
「パルメニデスの「存在のテーゼ」は人間の知性をその限界に当面させずにいないのであって、パルメニデスによって知性は存在に対してもうそれ以上進むことができない点にまで達していたのであります。」(P.69)
「このことからしても近代は神を封じることによって初めて成った世界であることが確認されます。」(P。70)
ゼノン(Zennon,BC450年頃活躍)
「ゼノンに世界に対する恨みは見られません。世界否定のパトスを見るや、必ずそこに世界に対する怨恨を見ようとする近代哲学の品性の低さにわたしは辟易します。近代哲学は否定性を怨恨という主観性の枠内でしか捉えられなくなっているのであり、ここにも近代の哲学が総じて主観性の哲学でしかなくなっている状況が端的に現れています。」(P.78)
メリッソス(Melissos,BC441年頃活躍)
「パルメニデスの存在思想の真髄は、存在についてはただ「ある」としか語りえず、それにたいして否定の述語を付加することは不可能であるとする、その消極的な規定にあるのであって、このことによってパルメニデスは存在が肯定(ある)と否定(ない)の対立する次元を超えた規定不能な何ものかであることを示唆したのでした。もし存在に否定の述語を付加して「ない」と言えば、非存在の存在が定立されていることになり、これはそれ自身に矛盾する不合理だからであります。それゆえ「非存在は存在しない」とパルメニデスは主張しました。このことによって彼は、ある存在者にある非存在者を対立させるように存在に非存在を対立させることは不可能であること、それゆえ存在は肯定と否定の対立が可能な次元(思惟も客観的な存在者もすべてこの次元のもとにある〕を超えた何ものかであるということを示唆したのであり、換言するなら、肯定(ある)と否定(ない)の対立が可能となる統一の次元(カントの言う「統覚の超越論的統一」の次元)において初めて成立しうるわたしたちの思惟や言語によっては存在を積極的に捉えることはできないということを示したのであります。」(P.82)
第5講 エンペドクレス(Empedokles,BC494年頃-BC434年頃)
「エンペドクレスは四元素説を唱えることによってギリシア哲学史上初めて明確に多元論的原理を導入した人として知られます。すなわち彼は火(πῦρ)と空気(ἀήρ)と水(γαῖα)の四元素を万物の原理(アルケー)としました。」(P.87)
「結合する原理として「愛」(Φιλότης)を、分離する原理として「争い」(Νεῖκος)を導入しました。」(P.88)
「ここに語られているのは失楽園のあの決定的な感覚であり、根源的な孤独感であります。エンペドクレスは突然自分を自然に忌み嫌われる存在と感じるようになったのであります。自らをすべてに忌み嫌われる存在と感じるというこのことにはある原体験が語られているのであって、エンペ(FF)ドクレスにおいては自然との幸福な調和、存在との一体感は完全に失われています。自然存在が通常有する祝福感覚、祝福に包まれているという全体感覚が完全に失われているのであります。何がそれを失わせたのか。主観性であります。主観性の自意識、自責意識であります。主観性こそわたしたちの生命の拠り所である周辺部の「共通の神的なロゴス」との交流を断ち切るものであるとの認識はすでにヘラクレイトスにありましたが、エンペドクレスはまさにこのことを実体験したのであります。主観性によってエンペドクレスは自然(ピュシス)から切れたことを決定的に感じ取ったのであり、世界から打ち捨てられたとの意識を持ったのであります。自らをすべてに忌み嫌われる存在と感じるというこの根源的孤独感、これは主観性が初めて自覚されたときのもっとも衝撃的な感覚であります。それはまた自らを異邦人としか感じられない主観性の自己感覚でもあります。」(P.95-96)
「神の臨在を感じ取ることがで(FF)きなくなった人間は主観性でしかなく、もはや人間とは言えません。このもはや人間とは言えなくなったような者が人権などと己を主張し始めたところに世界が変調をきたしだした最大のポイントがあるのであります。自然は人権を笑います。」(P.101-102)__Nota Bene !!
「ピュタゴラスが学派に沈黙を命じ、また自らを帳(とばり)の奥深くに隠さざるをえなかったゆえんのもの、それをエンペドクレスはあからさまに発声したのであります。そのゆえんのものとは何か。それは主観性原理の失楽園性格、その祝福のなさであります。主観性は自らの正体をよく知っているのであります。それゆえそれは警戒的、猜疑的であらざるをえません。自らを隠さざるをえないというのが主観性の、恐らく主観性自身にもどうしようもない(FF)傾向性なのでありましょう。」(P.103-104)
第6講 アナクサゴラス(Anaxagoras,BC500-BC428)
「他のすべてのものの中にはすべてのものが混入されているが、知性(ヌース)だけはそれらから独立し、もっとも純粋で、何ものも自己の内に混入させていなかったというのは、知性(ヌース)の非物質性、観念性を語ったものでありましょう。それゆえアナクサゴラスにとって初めて自然の説明に知性(ヌース)という観念的原理が導入されたということができます。(P112)__二元論の始まり
機械仕掛けの神 Deus ex machina
「すべての存在物をアナクサゴラスは知性(ヌース)を持つか否かによって区別しました。このことによって彼は生命を持つものと生命を持たないものを区別したのであり、これは原理によって生物と無生物を区別した最初の理論であります。」(P118)
「ピュタゴラス派の学統上にあった者を除けば、ギリシア哲学は全体として自然をはるかに大いなる存在と感じており、自然に対する畏敬の念と帰依の感情で満ちみちています。むしろ彼らは自然からこそ基準(ロゴス)を学び取ろうという態度で一貫しています。」(P.119)
「ソクラテスとは異なり、人間から学ぼうなどとはアナクサゴラスは全然考えていないのであって、彼は人間をほとんど見ていません。偉大な哲学は人間など見ないのであります。人間しか見ない哲学は卑小です。彼の哲学が多少浮世離れしたものになったとしても、止むを得ない仕儀ではありました。自然に対する畏敬の念と帰依の感情こそアナクサゴラスの哲学が全体として伝えているものであって、この帰依の念を大方のギリシア人はアナクサゴラス哲学と共に自らのものとして共有していたのであります。」(P.120)__主体性という鎧
「啓蒙的自己解体の過程にあったアテナイがもはやアナクサゴラスに耐えられなくなっていたとしても、不思議でありません。主観性は伝統に対して嫉妬深いのであります。」(P.122)__Nota bene!!
「「権力は必ず歴史を偽造する」とは梅原猛氏の言ですが、主観性も歴史においてはひとつの権力であったということでしょうか。否、この上もない権力であったということでありましょう。」(P.123)
第7講 原子論
「原子論者としてはレウキッポス(Leukippos,前五世紀の人か)とデモクリトス(Dokritos,BC460頃-BC370年頃)の二者が挙げられます。レウキッポスを原子論の創始者、デモクリトスをその完成者と見なすのが大方の哲学史家の一般的見解であります。」(P.125)
歴史的に確か__文字として残っている=>事実ということではない
「原子論は、もはやそれ以上分割しえない最小の単位としての充実体(τὸ πλῆρες)、すなわち無数の原子(ἄτομα)と、原子がそこにおいて運動する空虚(τὸ κενόν)を世界構成の基本要素とします。」(P.128)__充実体=密なるもの(τὸ ναστὸν)=イデア(ἰδέα)=存在(τὸ ὄν)
形態(σχῆμα)、配列(τάξις)、位置(θέσις)。格好(ρυσμος)、並び(διαθιγή)、向き(τροπή)
「原子論者たちは原子の集合離散を徹頭徹尾機械論的に説明するのであって、そこに目的ないし生命的ないかなる原理も混入させることを拒否しました。」(P.130)
「事物の一切の性質はそれを構成する原子の形や大きさや配列や向きによって決定されていますが、それらの性質の中には事物そのものに属する真の性質と、知覚する主観に事物が作用することによって主観の側に生み出される習慣的な性質との区別が存すると言います。形、大きさ、重さ、密度、硬さなどは前者に属し、甘さ、辛さ、温かさ、冷たさ、色などは後者に属します。それゆえデモクリトスは視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚といった感覚を「闇の認識」(σκοτίη γνώμη)として、「真正の認識」(γνησίη γνώμη)である思考から区別しました(セクストス・エンペイリコス『諸学者論駁』Ⅶ 135,138)。したがって物の真の姿は感覚によっては捉えられず、思考(διάνοια)によって初めて把握されるのであります。」(P.133)
明朗さ(εὐθυμια)、節制(σωπροσύνη)
「その極端な合理的自然哲学からすれば、彼にそういった側面があったことはむしろ必然的であって、と言うのも、彼の言う「原子」はもはや自然存在ではなく、ほとんど数学的存在と化してしまっているからであります。すなわちピュタゴラス哲学の影響を強く受けたデモクリトスの原子論においては「自然」(ピュシス)はほぼ完全に抜き取られているのであります。」(P.135)
「ピュタゴラス派(ピロラオス)ないしはプラトン(『ティマイオス』)において、四元素(火、土、空気、水)は、それぞれ正四面体(三角錐)、正六面体(立方体)、正八面体、正二十面体といった幾何学的立体に還元され、その抽象化、脱自然化が計られましたが、デモクリトスの「原子」もそれと同じ自然学的原理と化されたということができます。彼の体系に機械論的な必然性や偶発性ないしは偶然性が説明原理として入ってくるゆえんであります。機械論的な必然性や偶然性が説明原理として入ってくるというこのことこそ、原理が外面的、故郷喪失的になったことの何よりの証拠なのであります。ここで「必然」(ἀνάγκη)と言われるものも「偶発」(αὐτόματον)あるいは「偶然」(τύχη)と言われるものも同種の原理であり、いずれも相互に無関心的な数学的存在の説明原理なのであります。ヘーゲルの表現を借りて言えば、「外面性」(Äußerclhkeit)が説明原理として登場しているのであります。外面性こそ向自有たる数的存在の本質であります。言い換えれば非自然的原理の本質であります。そしてそれらの実質意味するところはまさに本質性、本性性、故郷性、すなわちヘーゲルの言う「内面性」(Innerlichkeit)の反対なのであります。元素という本来は自然学的な原理が「原子」という数学的原理の形を取り、「偶然」によって説明されることによって、一挙に内面性、故郷性から開放されたので(FF)あります。」(P.137-138)
自然性を排除した合理性の体系においては自然(ピュシス)は不合理という姿を取って歪な形で現れ出てくるのであって、デモクリトスにおいて魔術や錬金術、魔術がかった医術といった非合理性によって、顕在的意識は潜在的無意識によって補償されねばならないのであります(ユング『タイプ論』、『自我と無意識』参照)。
第8講 ソピスト
雄弁術(ρητοριχὴ τέχνη)
「ロゴス(λόγος)もレーマ(ρῆμα)も、訳してしまえば、どちらも「言葉」になってしまいますが、ロゴスは法則性と実在性を具えた言葉であるのに対して、レーマは存在から遊離した言葉としての言葉を言います。ロゴスが存在の基盤を失うとレーマとなるのであります。」(P.142)
プロタゴラス
「この命題によってプロタゴラスは、真理、認識に客観的な基準は存在しないことを主張しました。すなわち、各人が万物の尺度であり、意見が一致しない場合、それに照らして、ある人が正しく、ある人は正しくないと言いうるような客観的、絶対的真理といったものは存在しないと言うのであります。」(P.144)
「要するにプロタゴラスのテーゼは神に関しては判断停止、認識に関しては主観主義、相対主義であり、彼のテーゼの語らんとすることは絶対的・客観的知識の否定、そういったものに向かう指向性の否定なのであります。」(P.145)
ゴルギアス(Gorgias,BC484年頃-375年頃)
「(1)何ものも存在しない。(2)たとえ存在したとしても、人間には把握されない。(3)たとえ把握されたとしても、ひとにそれを伝えることができない。」(P.146)
「われわれが人に伝える手段とするものは言葉であるが、言葉はそれが表現する対象とは異なる。したがってわれわれが伝えるものは言葉であって、その対象ではない。どうしてわれわれは言葉(音)によって色を伝えることができるであろうか。われわれの耳は言葉(音)を聞くが、色を聞くことはできないからである。また言葉や徴表によって作り出される表象がすべての人において同じであるという保証はどこにもない。それゆえわれわれは、たとえ認識したとしても、そ(FF)れを人に伝えることはできない(セクストス・エンペイリコス『諸学者論駁』Ⅶ 65-87より)。」(P.148-149)
ヒッピアス
「彼は法(νόπος)の権威に対して懐疑を表明したそピストとして知られます。」(P.149)
プロディコス
「ケオス島のイウリスの人、プロディコス(Prodikos,やはりソクラテスの同時代者)は伝統的な宗教に対して懐疑を表明しました。」(P.150)
アノニュムス・イアンブリキ(Anonymus Iamblichi)と二通りの論(Δισσοί λόγοι)
我欲(πλεονεξια)、順法(εὐνομία)、違法(ἀνομία)
トラシュコマス(Thrasymachos,前四三〇年頃アテナイに来る)
「彼の主張によれば、法はすべて強者の法であって、実定法はすべてその時々の権力者が自己の利益のために制定した勝手な規定に過ぎないと言います。法や正義は力があって、それを制定することのできるものが自らの利益のために作ったものであるがゆえに、もしそれが不利益となれば、いつでも廃棄してよいものであるとしました。」(P.153)
カリクレス(Kllikles,生没不詳)
「すなわち、人間どもの中で力があって余計に取ることのできる者を恐れさせて、自分たちより余計に取ることのないように、余計に取ることは醜いことであり、不正なことであると思わせる弱者の方便が法であると言うのであります。」(P.154)
アンティポン(Aiphon,ソクラテスと同時代のアテナイ人)
「それゆえアンティポンはこういった人為的な規定に過ぎない法を遵守しなければならないという必然性はまったくなく、人は安んじてそれを破ってよいとしました。ただし誰にも見られないことが肝要であると言います。」(P.155)
クリティアス(Kitias,前四〇三年没)
「しかし彼らにも当然帰されるべき歴史上の功績はあります。それは探求の眼を自然存在から人間存在に向けたことであります。彼らの関心はもはや自然ではありませんでした。彼らは、たとえそれが詭弁的傾向を有するものであったにしても、人間を有徳にすると受けあい、そしてそのために努力したのであります。そこから人間の吟味が始まり、人間存在の本質への問いが起こるのはごく自然なことでした。この人間存在こそソクラテスの思索の対象をなします。「自然存在()から人間存在()への転換」、これがソピストたちに帰される哲学史上の功績であります。」(P.157)
あとがき
「古代ギリシア人の思索を根源層から駆動していた原理は自然(ピュシス)であり、初期ギリシア哲学やアリストテレスの哲学は自然(ピュシス)の根源層からの呼び声に呼応したそれぞれの哲学的表現とでも言うべきものでした。それがギリシア哲学の本体なのであります。」(P.159)__どうして、私の若い頃にこういった本と巡り合わなかったのか、と残念におもうけど、この本が出版された10年前にこの本を読んでも、「なんて右翼的な考えなんだ」くらいに切り捨てて、深く考えることはなかったでしょう。(LF)自然から人間への移行はたしかに主観性の結果だけど、「古代ギリシア人の思索を根源層から駆動していた原理は自然(ピュシス)」であるというのは、主観性から見たものですね。主観性が自然を「対象(性)」とみなすのです。人間を対象にするというのも主観性があるからです。
プラトニズム講義・4講
第1講 ソクラテス
はじめに プラトニズム概説
「これはまさに戦慄すべき出来事であって、主観性は一旦植え付けられるや、それを根絶することはもはや不可能なのであります。ここに西洋哲学の運命(ゲシック)のいわば発端がありました。さらに言えば、西洋世界、ひいては人類の運命(ゲシック)の発端がここにあったことがこの後の歴史の展開から知られます。」(P.3)
「主観性は「前に立てる」(Verstellen)原理であるだけに常に対象志向的であらざるをえず、基本的にイデア的な意味対象を志向します。」(P.4)
ソクラテス(Sokrates,BC470-399)
「ソクラテスこそギリシア哲学を主観性の哲学に転換し、そのことによって西洋哲学を主観生の哲学と化したその張本人なのであります。」(P.5)
生涯
ソクラテス研究の資料
「天才は天才によってしか理解されないように、哲学者は哲学者によってしか把握されません。」(P.15)
思想
「すなわち個々の事例の帰納から普遍的な概念規定(定義)を獲得せんとするのがソクラテスの方法なのであります。」(P.19)
「ソクラテスの定義術はそれゆえ、暗黙の内に、善それ自体、正義それ自体、勇気それ自体、美それ自体の存在を前提とし、それらを予想しているのであります。これはたまたま採用された方法がその哲学の内容をも規定してしまった最も顕著な事例であります。」(P.20)__「善」・・・等々は、人間が定めたものです。それが客観的存在(存在者)として「ある」わけはないのです。「赤」と同じです。「抽象的概念」「一般」「普通名詞」・・・、「概念」自体が明らかに人間が定めたものです。それでは「イヌ」とか「酸素原子」というものは「ない」のでしょうか。固有名詞だけで話すことはできませんから、それらの言葉はありますし、固有名詞だけの言語というのも考えにくいです。言葉自体が、ある種の一般化なのです。ゴルギアスが言うように、「われわれが人に伝える手段とするものは言葉であるが、言葉はそれが表現する対象とは異なる。したがってわれわれが伝えるものは言葉であって、その対象ではない。どうしてわれわれは言葉(音)によって色を伝えることができるであろうか。われわれの耳は言葉(音)を聞くが、色を聞くことはできないからである。また言葉や徴表によって作り出される表象がすべての人において同じであるという保証はどこにもない。それゆえわれわれは、たとえ認識したとしても、そ(FF)れを人に伝えることはできない(セクストス・エンペイリコス『諸学者論駁』Ⅶ 65-87より)。」(P.148-149)言葉は象徴機能を持っています。それが自分のなかの「もの」(それは文化的なものです)とのつながりを見つけたとき、それが「意味」となります(だから、「聞き間違え」や「見間違え」が起きます)。
「それゆえ単に美しいものを知るだけでは未だ美の知識を持つとは言えないとソクラテスは言うのであります。時と場所によって変化するような知は知識(エピステーメ)の名に値しないのであります。」(P.21)
「美しい人(美しい少年や美しい女性)への思慕は、実は美しい人を通しての、永遠の美それ自体への憧れに他ならないと言うのであります。真理への憧憬である哲学(愛知)もまたエロスの行為に他なりません。ソクラテスもまたエロスの人でした。」(P.23)
「ソクラテスによれば、善それ自体を知ることと道徳的に善であることはイコールなのであります。善それ自体を知って、善でないことは不可能だからであります。ソクラテス的観点からすれば、人が不徳であるのは、意志に起因することではなく、未知に由来することなのであります。(LF)ギリシア語の徳(ἀρετή)というの語は邦語の「徳」より広い意味を有する概念であり、そのものに固有する卓越性ないしは性能一般を意味しています。」(P.24)
ソクラテス的志向性の問題性
「定義は自体的存在そのもののロゴスでなければならないがゆえに、定義の試みと自体的存在の定立はほとんど同義なのであります。」(P.25)
「ところで、本質規定をひたすら目指してきたプラトン、アリストテレス以来の西洋形而上学もまた自体的存在を当然の前提とするソクラテス哲学の延長線上にあり、この呪縛のもとにあり続けていたのであって、このことはフッサール現象学にいたるまでそうであり、デリダの「現前の形而上学批判」によって初めて哲学はこの呪縛から醒めるを得たのであります。概念規定を本質とする西洋形而上学がソクラテス以来連綿としてつづいてきたのであります。これを言い換えれば、西洋形而上学はロゴスが支配する哲学であったと総括せざるをえないでありましょう。これはたまたま採用された方(FF)法がその哲学の内容を規定してしまった最も顕著な事例であります。」(P.26-27)__『グラマトロジーについて』
(・・・)「このことによってソクラテス的志向性はイデア的意味対象(自体的存在)との関係の内に拘束されることになります。」(P.27)
「ソクラテスは、ひとりの哲学者と言うよりは、イデア的意味対象と主観性の志向性の固い結合関係そのものなのであります。」(P.27)
「ここでは二つの異なる志向性が対立していたのであります。物事に即する「テクネー的志向性」とイデア的意味対象に向かう主観性の「超越的志向性」であります。これもまた「存在の思索」と「主観性の哲学」の対立と言い換えることができるでありましょう。超越的志向性の発生根拠は主観性以外のものではないからであります。プロタゴラスとソクラテスの対立においてもまたわたしたちは、他の多くの場合においてもそうであるように、存在と主観性という二大原理の対立と抗争を見るのであります。」(P.28)
「主観性は自らをそのままで是認できる原理でないだけに、自己反省的であらざるをえず、常に自責意識を伴っています。そしてそれは他に対しては告発的眼差しとならずにいません。主観性には常に強い自責意識があり、主観性は常に「正しさ」の観念に付きまとわれています。主観性は常に自己ならびに他者に対して正しいかどうかを問題とせずにはおらず、告発的であらざるをえないのであります。倫理的志向性は基本的にこの主観性の自責意識と告発意識に基づく志向性であります。彼の哲学の底流にあるピュタゴラス的要素もまた彼が主観性であったことを雄弁に物語っています。」(P29)__告解、告悔、懺悔、告発。「我思う故に我あり」。主観性=客観性=デカルト。倫理。道徳。
「倫理学はおしなべて独善的であります。倫理学は主観性を発生根拠とする哲学だからであります。倫理学が哲学に取って代わろうとする不遜を許してはなりません。」(P.30)__私は正しい「と思う」以外の証明はありえない。科学における「~である」という断定も、「正しいこと」の「存在」を前提としている。それに疑問を持つ小学生がいるよなあ。
「物事に即したテクネー的志向性は事物との応答の内に開示されるいわば存在の思索であります。そういった志向性はそれ自身において自足しているのであって、他者を告発する必要性などそこにはまったく生じません。常識的知、自然的知はそれなりに安定しているのであります。それに対してイデア的意味対象に向かう主観性の志向性は絶対的なものを希求する激しい志向性であり、自らの内に自足することはできません。主観性の本性には空白性があるのであります。主観性は常に空白に晒されています。あるいは苛まれています。それゆえにこそ自足を衒うという現象もまたそこに生じてくるのであって、ソクラテスにもそのような風が見られるし、ストア派においてはそれが特に顕著です。自足を衒うという現象は空白意識そのものである主観性が充足である存在を装うということであります。主観性の内には実は存在に対する憧れと妬みがあるのであります。存在を攻撃して止まないにもかかわらずにであります。しかし主観性は存在でないがゆえにどこまで行っても主観性が自足にいたるということはありません。」(P.31)__自己に対する不満。
「彼はいわば道徳の使徒と化していました。まったく迷惑な話であります。」(P.31)
「ソクラテスのイロニーは主観性に発する否定性であり、攻撃性を蔵しています。」(P.32)__『プロタゴラス』の不気味さ。神話を語るプロタゴラスに対するソクラテス自身の憤り。
第2講 小ソクラテス学派
アンティステネス(Antisthenes,BC445年頃~365年頃)とキュニコス派
アリスティッポス(Aristippos,BC435年頃~355年頃)とキュレネ派
「ソクラテスの「よく生きる」(εὖ ζῆν)は「善く生きる」こと、すなわち有徳に生きることを意味すると同時にまた「快く生きる」こと、すなわち幸福に生きることも意味しています。前述のように、アンティステネスはこの前者の面を採り、ソクラテスの命題をその方向において極端化し、徳を人生唯一の目的であるとして快を捨てましたが、これに反してアリスティッポスは後者の面を捉え、ソクラテスの命題をアンティステネスとはちょうど逆の方向にやはり極端化したわけであります。彼は快を人生の目的としました。」(P.39)
「アンティステネスは「所有するものは所有される」と考えましたが、アリスティッポスは「所有しても、所有されない」()ことを身上としたわけであります(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』Ⅱ 75)。
エウクレイデス(Ekleides,BC450年頃~BC380年頃)とメガラ派
「ところで定義はすべて類的、概念的性格を有しています。」(P.44)
「ところで、概念は個物に対して類的統一をなすものであります。個物は多ですが、概念は一です。」(P.45)
パイドンとエリス、エレトリア派
第3講 プラトン(Platon,BC427-347)
「今日世界を覆い尽くしつつあるアメリカ発のグローバリゼーションは主観性原理の地球規模での浸透に他ならず、プラトニズム(FF)による世界支配の企図と言えなくもありません。」(P.51-82)
生涯
「前三四七年、プラトンは八〇歳の高齢をもって没しました。一説では書きながら死んだと言われています(キケロ『大カトー』5,13)。生涯独身でした。哲学に捧げた生涯だったのであります。」(P.59)
学説
イデア論
「それゆえプラトンのイデア論は普遍が自体的存在(αὐτὸ τὸ ὄν)として具体化されて、天上界に設定されたものと言うことができるでありましょう。」(P.62)
「プラトンはイデア界を存在(τὸ ὄν)とし、現象界を非存在(τὸ μὴ ὄν)とします。イデアは自体的存在なるがゆえに生成することも消滅することもない永遠不滅の存在であるのに対し、現象は生成・消滅を繰り返し、何ひとつとして同一ではありつづけないからであります。イデア界と現象界の区別によってプラトンはパルメニデスの存在思想とヘラクレイトスの万物流転思想を両立可能にしたのであります。(LF)生成・消滅し、運動するものを非存在(τὸ μὴ ὄν)とし、存在と言われる限り、それは永遠に不変でなければならないと考えるギリシア人の考え方はわたしたちに多少奇異の念を抱かせますが、彼らが存在(τὸ ὄν)というとき、大抵は本質的存在(esse essentiae)の意味で語っており、現実的存在(esse existentiae)の意味で語られているのはむしろ稀であるということに留意するとき、この奇異の念は解消します。ギリシア語の存在(ある)を表現するεἰπίはラテン語のsumや近代語のbe、sein、êtreと同様、本質的存在(esse essentiae)(・・・である)の意味でも現実的存在(esse existentiae)(・・・がある)の意味でも語られます。εἰπίはただ「ある」と言うだけで、その「ある」が「・・・である」という意味の「あ(FF)る」なのか、「・・・がある」という意味の「ある」なのかは、それ自身によっては明瞭に区別されません。したがってその分詞の中性形であるὄνも同様に本質的存在を意味する存在(「・・・である」という意味での存在)としても、現実的存在を意味する存在(「・・・がある」という意味での存在)としても語られるのであります。ところで、わたしたちが邦語で存在というとき、わたしたちはそれを現実的存在の意味における存在として語っているのが普通です。机の存在というとき、わたしたちは通常「机がある」という意味における存在として語っています。ところが、これに反して、ギリシア人が存在(ὄν)というときは、むしろ大抵は本質的存在の意味において語られているのであります。「机の存在」と彼らが言うとき、「机がある」という意味において語られているのはむしろ稀で、たいていは「机である」という意味での机の存在が語られているのであります。」(P.63-64)__「This is a pen」「これはペンです」は「ここにペンがあります」ではなさそうです。「He is a student」は、「彼は学生という存在です」ということでしょう。「学生」は属性と言うより「idea」なんですね。「beautiful flower」は「美しい」という「idea」を見せてくれる「存在」。「ギリシア人」=ギリシャ哲学?=西欧人?ギリシア「語」の問題?印欧語はそういう面が強い?
知識論
「またプラトンは、知識(エピステーメ)はイデアに関してのみ可能であり、現象の歌詞的世界に関してはドクサがあるにすぎないとしました。」(P.65)
「換言するなら、感覚が提示するものは常に個物であって、普遍ではありません。」(P.66)
想起説
「それゆえプラトンは対象の認識は感覚によって得られるのではなく、想起(ἀνάμνησις)によって得られると考えました。」(P.67)
分有説
「このようにプラトンは、離れて存在する一者たるイデアと個々の個物との関係を、分有(μέθεξις)とか模倣(μίμησις)、あるいは分取(μετάληψις)、臨在(παρουσία)といった概念によって説明しました。」(P.68)
魂の不死説
(P.69)__角と三はいっしょに「おぼえ」る。
哲学は死の準備である。
善のイデア
弁証法(διαλεκτική)
「弁証法には、個々の概念を総合することによって普遍的な概念を目指す総合(上昇の道)と、一定の概念を分割してそれ以上分割しえない最下の概念にまでいたる分割(下降の道)の二つの方向があります。この上昇と下降の道を通って然るべき概念規定にまでいたらんとする概念の方法が弁証法(ディアレクティケー)であります。」(P.71)
プラトンの構想する世界構造
英知界(νοητά)、存在(τὸ ὄν)、知(σοφία)、知識(ὲπιστήμη)、悟性知(διάνοια)、可視的世界(όρατά,δοξαστά)、非存在(τὸ μὴ ὄν)、生成(γίγνεσθαι)、消滅(φθείρεσθαι)、臆見(δόξα)、所信(πίστις)、想像(είκασια)
「存在、イデアへの憧れが哲学(φιλλσοφία)なのであります。プラトンもソクラテス同様、哲学(FF)をエロスの行為としました。」(P.73-74)
洞窟の比喩
哲人王説
四基徳
「統治階級の徳は知恵(σοφία)ないしは思慮(φρόνησις)であり、軍人階級の徳は勇気(ἀνδρεία)であり、農・工・商の徳は節制(σωφροσύνη)であります。それぞれの階級が自己の徳を最もよく発揮することによってのみ、国家の安泰は保たれるとプラトンは考えました。(FF)それゆえ各階級がそれぞれの徳を最大限に発揮して全体がうまく調和するところに正義(δικαιοσύνη)があるとしました。知恵(σοφία)、勇気(ἀνδρεία)、節制(σωφροσύνη)、正義(δικαιοσύνη)の四つをプラトンの四基徳(four cardinal virtues, vier Kardinaltugenden)と言います。」(P.75-76)
デミウルゴス
プラトンの後期思想
「このように後期のプラトン思想においては、批判的、分析的、現実的傾向が顕著であり、この方向は次のアリストテレスによってさらに押し進められることになります。
アカデメイア
第四講 新プラトン哲学
新プラトン主義への前奏
新ピュタゴラス派とピュタゴラス化したプラトン学徒
アレクサンドリアのピロン(Philon,BC25年頃ー50年頃)
「それゆえロゴスは、ピロンによれば、神に次ぐ地位に位置する原理であり、イデアの中のイデア、天使の長、神の初子、第二の神であります。ロゴスは世界の諸物を創造する力であり、諸物は質量の混沌の中にロゴスが浸透して行くことによって形成されるのであります。ロゴスはいわば世界という身体を着衣した魂であります。(LF)世界における悪の原理は物質(質料)でありました。人間においては肉体が罪の源泉であります。」(P.95)
不動心(アパテイア)
「彼はさらに魂を高めることによって神の知性であるロゴスに達し、遂にはロゴスをすら絶して忽然として忘我()のもとに神と合体せんとします。」(P.95)
「ピロン哲学においては、結局、最後には(FF)ユダヤ的要素である他力の要素が勝っているのであります。」(P.95-96)
新プラトン派
学派
学説
一者
「知性の成立には思惟にありますが、思惟においては思惟するものと思惟されるものが区別されるからであります。」(P.98)
流出(emanatio)
「そもそも一者があるものを創造しようと意志したということはありえません。一者は自足的であるがゆえに、他の何ものも必要としないからであります。それにまた、前述のように意志は一者には属しません。意志のみならず、意識すら一者には属さないのであります。もし一者が意識したとするなら、一者に対立するものが何もない以上、それは必然的に自己意識でなければならないでしょうが、そうすれば、意識する一者と意識される一者が区別されることになり、それはもはや一者とは呼ばれえないことになろうからであります。」(P.102)
「真の無限は有限と無限の対立を止揚した無限でなければなりません。ヘーゲルの言う「真無限」という意味において、一者は無限なのであります。」(P.103)
知性
「流出する最初のものは知性(νοῦς)であります。知性の成立は思惟にあります。と言うよりは、むしろそれは思惟そのものであります。」(P.104)
魂
「知性から魂(ψυκή)が生み出されます。魂は知性のロゴス的表現であります。」(P.106)
自然、感性界
「魂が観照することによって生み出されるこの観照像が自然(φύσις)であります。」(P.107)
質料
「感性的世界における可変性、無常性、醜悪性、不浄性の根拠は質量(ὕλε)以外のものではありません。質料は、既述のように、流出の末端であり、光の完全な消滅、闇であります。」(P.109)
一者への帰還
「一者、神との合体においては、わたしたちは前後を忘却し、思考も言語も失って、恍惚(エクスタシス)のものとに光に満たされると言います。」(P.112)__わたしたちは、(論理的)思考も言語も失っている時間がほとんどである。「私はいつでも(意識的に)思考している」という傲慢な偽意識。
新プラトン主義の諸派
プラトニズムと中世
「精神の交代は歴史を根底から覆す大変動であり、ローマ末期から中世初期のヨーロッパ史が凄惨なものにならずにいなかったゆえんであります。当然(FF)ヘブライズムが西洋の基幹精神となるためにはまずヘレニズム(ギリシア・ローマ文化)を否定しなければなりませんでした。」(P.114-115)
「初期のキリスト教において採用されたギリシア哲学はギリシア哲学の中でも超越的志向性の強いプラトニズムであります。プラトニズムの超越的志向性が一神教というキリスト教の超越性に合致していたのでありましょう。プラトニズムとキリスト教は、哲学か宗教かという違いはあるにしても、その志向性が超越的であるという点では一致しているのであります。プラトニズムもキリスト教も主観性の哲学の一形態なのであります。」(P116)
「中世は三七五年の西ゴート族のローマ侵入から二−三世紀間にわたってつづいたゲルマン民族の大移動によって完全に祓い清められた新生ヨーロッパに一から作り直された世界ですが、その新生ヨーロッパにその後のヨーロッパ人の考え方の基礎となる教(FF)えを授けた人物こそアウグスティヌスなのであります。アウグスティヌスが「ヨーロッパの教師」と呼ばれるゆえんであります。中世をわたしたちは神聖ローマ帝国成立(ヴァティカンにおけるカール大帝の戴冠)の紀元八〇〇年を分水嶺にして前半と後半に分けることができると思いますが、その前半のキリスト教哲学はプラトニズムにもとづく教父哲学であったわけであります。ちなみに中世の後半を支配した哲学はスコラ哲学(philosophia scholastica)ですが、スコラ哲学はアリストテレスの理性主義の哲学をベースとする哲学であります。したがって中世を紀元八〇〇年を境に二分するなら、大雑把には、前半はプラトニズムであり、後半はアリストテリズムが支配したと言うことができます。しかし近世になると再びプラトニズムが復興し、近代哲学は、コギトの哲学という装いを取りながらも、全体としてはプラトニズムであり、主観性の哲学と総括することができます。ルネッサンスは、これを哲学的に見れば、プラトニズムの復活なのであります。」(P.116-117)
あとがき
アリストテレス講義・6講
第1講 アリストテレス一般 生涯・著作・学問分類
生涯
著作
学説
アリストテレスの学問分類
人間の基本的営為は「見る」(θεωρείν)、「為す」(πράττειν)、「作る」(ποιεῖν)であります。すなわち「観照(考察)」(θεοπία)、「実践」(πρᾶξις)、「制作」(νοίησις)が人間の基本的営為であり、したがってこれらのそれぞれに学的探求があると彼は言います。観照(考察)に係わる学は「理論的学」(θεωρητική)であり、実践に係わる学は「実践的学」(πρακτική)であり、制作に係わる学は「制作的学」(ποιητική)であります。そして「理論的学」はさらに「離れてあり、かつ不動であるもの」を対象とする学と「離れてはあるが、変化するもの」を対象にする学と「不変ではあるが、離れては存在しないもの」を対象とする学に区別されます。第一は「神学」(θεολογική)ないしは「第一哲学」(πρώτη φιλοσοφία)、あるいは単純に「知恵」(σοφία)と呼ばれるものであり、第二は「自然学」(φυσική)、第三は「数学」(μαθηματική)であります。「論理学」(λογική)は、これらの学を遂行する上で必要とされる思考を整えるための道具という観点から、この学問体系の外に置かれます。」(P.11)
第2講 論理学
概念
範疇
「このように、「何であるか」(τί ἐστιν)(実体)を「幾つあるか」(πόσον)(量)や「どのようにであるか」(ποῖον)(質)に還元することはできないし、また逆に「幾つあるか」(πόσον)(量)を「どのようにであるか」(ποῖον)(質)や「何であるか」(τί ἐστιν)(実体)に還元することもできません。範疇とは、したがって、もはや互いに他に還元されない述語の最高の諸類と言うことができます。」(P.16)__理解できないから、だんだん面倒になってきた。(笑)
命題(判断)
「アルストテレスは文(λόγος)と命題(ἀπόφανσις)を明確に区別しました。命題とはあるものについて肯定ないしは否定することによって必ず真か偽かであるものです。」(P.16)
「命題は一般に主語(ὑποκείμενεν)と述語(κατηγορούμενον)からなります。命題が真であるのは、それが存在における同じ関係に対応することによってであります。存在におけるこの同じ関係は一般的には(FF)実体()と付帯性()の関係であります。」(P.16-17)
推論(三段論法)
論証
「前提命題そのものは推論以前の知であり、そういった知をわたしたちが獲得するのは、帰納(ἐπαγωγὴ)によるか、直知(νοῦς)によるかであります。」(P.30)
「このようにアリストテレスはすべてのものが論証されることを否定し、わたしたちの認識はすべて何らかの既知なるものから出発しなければならないことを説いています。」(P.30)
「した(FF)がって認識はすべて感覚(αἴσθησις)から出発しなければなりません。感覚がわたしたちにとって可知である最初のものだからであります。アリストテレスによれば、感覚とは、対象から質料を抜きにして、形相だけを受け取る能力であります。」(P.30-31)
第3講 形而上学
『形而上学』の成立と構成
イデア論批判
「これに対してアリストテレスは、普遍を個別から切り離して、それだけで存在すると想定するのは不合理であると考えます。」(P.36)
「これを要するに、プラトンのなしたことは、存在するものの数を二倍にしさえすればそのものの原因が説明できると考えて、説明されるものと同数のもうひとつの存在を持ち込んだだけのことであると言います。これがプラトン哲学に対するアリストテレスの総括であります。」(P.37)
形相論
「アリストテレスは形相に独立した存在性を拒みはするが、その他の点では結局プラトンのイデアが有していたのと同じ機能を形相に与えています。形相は普遍であるとともに物事の本質であり、永遠に不変であります。それゆえそれは、質料同様、創造されることはありません。作り出されるのは形相と質料の結合体、すなわち個物であります。」(P.40)
四原因説
「アリストテレスはすべての原因を次の四通りの原因に還元します。(1)質料因(causa materialis, τὸ έξοὖ)、(2)形相因(causa formalis, τὸτίἦνεἶναι)、(3)動力因(causa efficiens, τὸ ὑπός)、(4)目的因(causa finalis, τὸ οὖ ῏ενεκα)。」(P.41)
可能態と現実態
「可能態とは未だ形相が潜在的であって、その実を発揮していない状態を言い、現実態は形相が自己を発揮している段階を言います。形相が自己を完全に発揮し終えて目的に到達した段階が、完全現実態であります。」(P42)
存在の多義性
「このように真や偽は認識する主観とその対象との関係の内に成立する事態であって、真なる存在や偽なる非存在があるわけではないのであり(FF)ます。」(P.43-44)
範疇の諸形態としての存在
「すなわち範疇とは「・・・である」という繁辞的存在に内容を与える最高の諸類なのであります。それゆえにこそ、これらの範疇を存在(「ある」)が統括するのであります。」(P.45)
実体
(P47)__実体と理解を同一視している。
(P48)__客体の認識 「我思う」<ー>「離れてあるこのもの」
「それにまた、そもそも普遍は「このもの」(τόδε τι)ではなく、「このようなもの」(τοιόνδε)、何らか質的なものなのであります。」(P.49)
「したがって「類の種」の統一力、言い換えれば、種的形相の統一力こそ、事物に内在して、そのものを一つの実体たらしめているものなのであります。」(P57)
「この方向でのアリストテレスの実体概念は後にヘーゲルによって「客観的概念」として展開されることになります。」(P.57)
「質料は本質を持たない可能態であり、そこに現実態である形相ないし本質が加わることによって具体的な成立があるのであります。本質ないし形相は生成消滅の過程にあることなしに存在し、質料において現実化されます。したがって生成の要因は生成する事物と同種の他の事物に内在する種的形相ないしは本質であり、自然的存在である本質が不断に同種の事物を生み出して行くのであります。「人間が人間を生む」のであります。こういって自然的威力である種的形相こそ、アリストテレスが特に実態という概念によって追求しているところのものであって、アリストテレスの実体規定の議論は、その最終段階において、実体を自然存在に求める方向に大きく舵をとっているのであります。」(P.58)
実体概念について
「ウシア(οὐσία)はεἰμί(ある)の分詞の女性形οὐσαに由来する語であります。その中性形が通常存在を意味するオン(ὄν)であります。」(P.59)
「このようにウシア(οὐσία)は一方では「実体」(substantia)を意味するかと思えば、他方では物の「本質」(essentia)を意味します。アリストテレスにおいてはウシア(οὐσία)という一語で表現されていたものが、ラテン世界に入ったとき、substantiaとessentiaの二概念に分裂しました。」(P.62)
(P.63)__天板をのぞく。天板にケンザンを置くと机ではなくなる。
不動の動者
「アリストテレスの神学は神学化された目的論以外のものではありません。彼の神は目的因以外の何ものでもないのであります。」(P.66)
第4講 自然学
自然存在
自然存在()は運動及び静止の原理を自らの内に有するものを言います。これが自然存在に対するアリストテレスの第一の定義であります。」(P.69)
天上の世界と月下の世界
(P.71)__地上の円運動
アイテール(αἰθήρ)(P.72)__エーテル?
天体
時間、空間、無限、空虚
「無限は可能態としてのみ存在し、現実態としては存在しないというのがアリストテレスの無限についてのテーゼであります。」(P.76)
(P.77)__二次元と三次元の区別
転化
自然の合目的性
「それゆえアリストテレスは、すべての運動の第一の原因である不動の動者は目的としての原因、すなわち目的因(causa finalis, τὸ οὐ ἕνεκα)でなければならないと考えました。目的のみが動くものから影響を受けることなく、物を動かす原因たりうるからであります。」(P.83)
「自然は決して偶運(τύκη)によって生起するのではなく、また単なる必然性(έξ ἀνάγκης)の見地からだけで説明しうるものでもなく、その本質を捉えるためにはそれが何のために(τίνος ἕνεκα)あるのかということ、すなわち目的の見地から考察しなければならないというのがアリストテレスの自然哲学の一貫した立場でありました。自然存在のすべてがその内奥の本質においては目的性によって貫かれているのであり、それゆえ「自然は何ものも無駄には造らない」(『政治学』A1.1253a9)のであります。」(P.84)
動物
「質料より形相、部分より全体が先であるというのがアリストテレス哲学の一貫した立場でありました。(LF)それゆえ、動物身体の各器官(ὄργανον)については、それが何のためにあるのかということ、すなわちその働き(ἔργον)を捉えることが重要な視点となります。」(P.85)
(P.88)__分類
魂(プシュケー、ψυχή)
「記憶する能のあるもののみが経験(ἐμπειρία)を有しえます。そしてこの経験を介して、技術(τέχνη)や学問(ἐπιστήμη)が獲得されます。」(P.92)
「それゆえ、アリストテレスによれば、魂のすべてが不死なのではなく、その思考的部分のみが、しかも受動的ではなく、能動的な部分のみが、すなわち能動的知性のみが不死なのであります。」(P.93)
第5講 倫理学
倫理学は精密科学ではない
「また彼は世上一般の意見、いわゆる世論(FF)(τὰ φαινόμενα)も、そこにも何がしかの真理は表現されているとして、尊重しました。」(P.95-96)
人間的善、最高善
機能、活動
「このようにアリストテレスは幸福を快楽や富や名声といった外的善に求めるのではなく、そのものに固有する機能(ἔργον)ないしは活動(ἐνέργεια)にもとめました。」(P.98)
徳(卓越性)
知性的徳(知性的卓越性)および最高の生活
(P.101)__今の私の状態
倫理的徳(倫理的卓越性)
「知性(ヌース)は実は、アリストテレスによれば、元々からわたしたちの内に具わっていたものではなく、外からわたしたちの中に入ってきたものなのであります。」(P.102)
徳は性状(ヘクシス)である
「すなわちヘクシス(ἕξις)とは、活動が繰り返されることによって固定化された静止的な状態ないしは所有態を言います。」(P.103)
習慣づけ
中庸
「例えば、勇気は恐怖と平然の中であり、・・・」(P.106)
思慮
選択と責任
快
美しさ
「またアリストテレスは道徳的行為の道徳的ゆえんはその美しさにあるのであって、何らかの効用にあるのではないと考えた点においても典型的なギリシア人であったと言うことができます。」(P.111)
正義
国家
第6講 制作術・学派・中世のアリストテレス哲学受容
制作術
「これら六つの要素のうち、悲劇にとって最も大切なものは筋であります。なぜなら悲劇は人物の模倣ではなく、行為の模倣、すなわち生涯と、その幸・不幸の模倣だからであり、そして行為の模倣は筋だからであります。」(P.126)
ペリパトス派
中世のアリストテレス哲学受容
「アリストテレスの哲学は中世の後半にはほとんど絶対的な権威となりますが、それは中世カトリック教会の権威を支えるスコラ学の基礎にはアリストテレスの哲学が据えられたからであります。」(P.130)
「一般にこの時代のイスラムの哲学者たちのアリストテレスの扱いはアリストテレス哲学の上に新プラトン主義の流出論を置き、その上にユダヤ・イスラム的創造論を置くというものであります。彼らの哲学がパルテノンの上に築かれたモスクと言われるゆえんであります。しかしイスラム世界最大の学者と言われるアヴィセンナ(Avicenna,イスラム名、イブン・シーナIbun Sina,九七三/八〇年頃ー一〇三七年)になるとアリストテレス哲学が全面的にその学問の基礎になるにいたっています。」(P.132)
「このような事態にいたって遂に当時のパリ司教はアリストテレスを異端と宣告し、これを読むことを禁じます。しかしいったん知られてしまったこの巨大な学問体系をいつまでも封印しつづけることができるわけもなく、アリストテレスは密かに研究され、次第にパリ大学に浸透して行きます。そしてむしろこの巨大な学問こそが当時衰退しつつあってキリスト教精神に再度活力を吹き込む力になりうることを洞察した人物こそが若きパリ大学教授アルベルトゥス・マグヌス(Albertus Nagnus,一一九三/一二〇〇年ー八〇年)であります。彼はドミニコ会の修道士であったにもかかわらず、自らの講義の中で大胆にアリストテレスを取り挙げ、講義しました。そしてその講義を熱心に聴講していたパリ大学の一学生が若きドミニコ会士トマス・アクィナス(Thomas Aquinas,一二二四/二五年ー七四年)でありま(FF)す。やがて彼らによってアリストテレス哲学が全面的にキリスト教神学の中に取り入れられることにあり、そのようにして後にスコラ神学と呼ばれるようになるキリスト教神学が形成されたのであります。その記念碑的な作品がトマスの『神学大全』(Summa Theologica)であり、これが今日も一二億以上存在すると言われるカトリック教徒にとっての唯一の公式上の真理なのであります。」(P.134-135)__『薔薇の名前』
あとがき
ヘレニズム哲学講義・3講
はじめに
「ヘレニズムというのは一般にアレクサンドロス大王の死(前三二三年)からローマ共和制の終結(前三一年のアクティウムの戦い)に至るまでのほぼ三世紀にわたるギリシア・ローマ時代を言います。」(P.ⅰ)
「アレクサンドロスによる世界帝国の建設は、それまでのギリシア人の生存及び思索の基盤であってポリス社会を崩壊せしめ、彼らから生活・文化両面にわたる精神的支柱を奪い去るにいたりました。その結果、コスモポリタンとなって広大無辺な世界に投げ出され、拠り所を失った人々が必要としたものがもはや形而上学的な世界説明でも公民的な道徳思想でもなく、もっぱら個人(FF)の生き方に指針を与える主観的な実践哲学でしかなかったとしても、それはむしろ当然のことと言わねばなりません。広大な世界に投げ出されたとき、個人はむしろ自己に反省し、自己意識となるのであります(マルクス)。こうした時代背景のもとに登場してきた学派がストア派とエピクロス派であります。彼らの哲学もまた論理的部門や自然哲学を有してはいますが、それは彼らの実践哲学を根拠づけるためのものでしかありませんでした。」(P.ⅰーⅱ)__ポリスとの一体感の喪失。「せかい」は彼らの住んでいたギリシア・ローマにすぎない。
第1講 ストア派
学派
「絵画柱廊」(στοὰ ποικίλη)、「柱廊の人々」(οἱ Στωικοί)
「ストア哲学の創始者はキュプロス島のキティオン出身のゼノン(Zennon,前三三四年頃ー二六二年頃)であります。」(P.1)
学説
論理的部門
規準論(認識論)
「表象の真偽は表象そのものから知られるというこの主張は、一見したところ、独断的な断定としか思えませんが、しかし対象も魂も物質であるという点では同じであり、本質的に異ならないとするストア派の汎自然酒義的な世界観からすれば、これはきわめて当然な主張なのであります。ストア学徒によれば、後述するごとく、魂や表象など精神的と思えるものもすべて物体であり、それらは物体の精妙な流れ、気息(πνεῦμα)であります。」(P.9)
弁証論
「これは存在するのは物体的な個物のみであり、抽象的な普遍は空虚な言葉でしかないとする彼らの唯名論的な存在思想からの当然の結果であります。」(P.12)
自然的部門
「ストアの自然哲学はこのように存在するすべての実在を物体とする唯物論思想としてまずその姿を現します。」(P.14)
「したがって諸物の間には宇宙的な共感(συμπάθεια)が存します。事物も魂も人間も動物も植物も、すべては生ける同一の自然の部分ないしはアスペクトでしかないからであります。諸物の中に見られるこの広範な共感をストア学徒たちはまた調和(σύμπνοια)とか協調(συντονία)といった表現によっても語っています。魂が表象の真実性を知る把握()の理論がこの共感に基づく理論であってことは既述のとおりであります。ストア学徒によれば、それゆえ、世界は神々や人間や動物や植物や諸物によって構成された一つの「巨大なポリス」(μεγαλόπολις)なのであります。人間を男女の差、身分、家柄、貧富、国家といった違いを超え、さらにギリシア人や異民族といった民族的差異性をすら超えた「世界市民」(κοσμοπλίτης)として捉える世界市民主義(Kosmoplitismus)がストアの世界観を貫く基調でした。」(P.17)
倫理的部門
「ストア学徒によれば、自然はそれ自体がロゴス(理性)でした。それゆえその過程は厳格な理法(ロゴス)によって貫かれています。自然の一部であるわたしたちの人生もまたこの自然の理法(ロゴス)にしたがわなければなりません。しかも単にしたがわねばならないというだけでなく、自然の理法(ロゴス)にしたがうというまさにそのことが人生の目的(τέλος)であるとストア学徒たちは考えました。」(P.18)
第2講 エピクロス派
学派
エピクロス(Epikouros, 前三四一年ー二七一年)
「彼らは、ストア学徒たちが「柱廊の人々」と呼ばれたように、「庭園での人々」(οἱ ἀπὸ τῶν κήπων)と呼ばれました。」(P.27)
学説
「「人間のどんな苦悩も癒やさないような哲学者の言葉は空しい。なぜなら、身体から病気を追い払わないような医術が何の役にも立たないように、哲学も、もしそれが魂の苦悩を追い払わないなら、何の役にも立たないからである」(断片2の54)とエピクロスは言います。」(P.30)
規準論
「かくして、エピクロスによれば、感覚は何ものによっても反駁されず、また何らの正当づけも必要としないのであって、常に真であります。感覚の明証性(ἐνάργεια)こそすべての表象の基礎であり、真理の最終の標識であります。」(P.31)
自然学
「普通に生成や消滅と言われているものは原子の結合・分離に他ならず、原子そのものには(FF)生成も消滅もないのであります。「何ものも有らぬものから生じることはないし、また有らぬものに消滅していくこともない」(μηδ´ν τε ὲκ τοῦ μὴ ὄντος γίνεσθαι μηδὲ εἰς τὸ μὴ ὄν φθείρεσθαι)と言うのがこの派の自然哲学の大原則でした。否、これはエピクロスの自然哲学の原則であっただけでなく、ギリシア自然学共通の一般的原則でもありました。」(P.35-36)
「この偏倚(παρέγκλισις)の考えは、それが突然の偶然を自然に導入するものであるがゆえに、当時から多くの議論を巻き起こしてきた教説ですが、エピクロスにしてみれば、原子に衝突を起こさせ、事物(FF)を生成させるためにどうしても要請される想定でありました。しかしこういった自然哲学上の観点もさることながら、倫理的観点からしてもエピクロスは偏倚の想定を必要としていたのであって、彼の真の意図はむしろそちらの方にあったと言うべきかもしれません。すなわち彼は人間に自由を保証するために偶然を必要としていたのであります。」(P.37-38)
「エピクロスは時間(χρόνος)も偶発性のひとつと考えました。彼にとっては時間は、空間とは異なり、世界の実在を構成する構成原理ではありませんでした。」(P.39)
「それゆえエピクロスは時間を「偶発性の偶発性」(σύμπτωμα συμπτωμάτων)と呼びました。このようにして彼にとっては時間はなんら根本的な原理ではなく、ましてや自体的に存在する実在ではなく、それ自身偶発性である現象に付随する偶発性でしかありませんでした。」(P.39)
「キリスト教徒をはじめ、大多数の人にとっては、死後も少なくともこのわたしの魂は存続すると思うことがこの辛い人生を生きる上での慰めですが、エピクロスにとっては、身体も魂も死と共に消滅してしまい、死後何も残らないということが慰めだったようであります。」(P.41)
倫理学
「わたしたちが徳を求めるのは、徳そのもののためでなく、それがもたらす快ゆえであって、「快こそが祝福ある生の始めであり、終わり(目的)である」(τὴν ήδον`ν ἀρκὴν καὶ τέλος εἶναι μακαρίως ζῆν)(『メノイケウス宛書簡』)とエピクロスは主張します。」(P.43)
「それゆえエピクロスは前者の肉体的、積極的な快を、それらがもたらす不快のゆえに避け、より純粋で混ざりけのない生涯にわたるような永続的な快を追求すべきことを説きました。「性交が人を益することはけっしてない。もしそれが害を加えなかったなら、それで足れりとすべきである。」(断片2の8)と彼は語っています。」(P.45)
「同じく快を人生の目的にしたと言っても、キュレネ派のアリスティッポスの追求した快が肉体的、享楽的な積極的快、運動における快()であったのに対し、エピクロスの求めた快は静止的な快()、すなわち肉体において苦痛なく、魂にお(FF)いて煩いがないという消極的な状態でありました。」(P.45-46)
「エピクロスによれば、正義はそれ自体で価値のある何かなのではなく、それがもたらす安心のゆえに尊ばれるべきものなのでありました。」(P.51)
(P.52)__友情(φιλία)
「明らかにエピクロスの哲学は人間の内面のある種の真理を語るものでありました。それは恐らく私的空間に真理を見出すようなタイプの人間の哲学なのでありましょう。人間が私的であることが普遍性を有する限り、エピクロスの哲学は普遍性を持ちつづけます。」(P53)__Nota Bene !!
第3講 懐疑派
「すなわち、どのような学説にもそれと反対の内容の学説が対置されるし、また感覚にしろ、思考にしろ、事物のそう見えること、そう思われることは教ええても、それがそれ自体においてもそうであるということまでは教ええない以上、いかなる定説的な学説も独断論(Dogmatismus)に陥らずしては説きえないと懐疑論者たちは考えるのであって、(FF)それゆえ哲学者の取りうる唯一の正しい態度は、認識を断念して、いかなる事柄に対しても判断を差し控えること、すなわち判断中止(ἐποχή)であるとしました。そしてこのように判断を中止するとき、もはやどのような学説にも見解にも与しないのですから、すべての執着から離れることになり、その結果平静な心境が形に影がそうように実現されると懐疑論者たち(Σκεπτικοί)は説くのであります。」(P.55-56)
「ニヒリズムは主観性の哲学の特殊近代的表現であって、ギリシアに真の意味でのニヒリズムの哲学は存在しませんでした。」(P.57)
古懐疑派
「懐疑哲学の創始者はエリスの人、ピュロン(Pyrrhon,前三六五年頃ー二七五年頃)であります。」(P.58)
中アカデメイアにおける懐疑
「たとえわたしたちが真実を知っていたとしても、わたしたちはそれを確かめることができないであろうと言います。このようにアルケシラオスは知識の可能性を否定し、この立場から、ピュロンと同様、事物に対してわたしたちの取りうる唯一の正しい態度が判断中止(エポケー)以外にありえないことを説きました。」(P.61)
新懐疑派
(P.63)__ラリッサのピロン(Philon,前一四八年頃ー七七年頃)、スカロンのアンティオコス(Antiochos,前六八年頃没)、アイネシデモス、アグリッパ(Agrippa,紀元一世紀の人)
ハイデガーと西洋形而上学
第1講 ハイデガーと西洋形而上学(其のⅠ)
はじめに
(P.1)__「哲学史」は「書かれた歴史」(有史)ということです。主観性の哲学が成立した要因のひとつは、「書かれた」、つまり「残された」ということです。これは、断片も含めて「書かれた文字」が残っているということだけではありません。思想、思索、あるいは「言葉」が「残っている」、つまり、「存在としてある」ということです。言葉を発することも文字にすることも、どちらも「自己の発出」ですが、決定的な違いは、それが「存在(外在化)」となり「自己に対峙する(対象になる)」ということです。そこに「自己(主体)」が発生するのです(サルトルの言う「対自」的な存在が発生する)。自己を離れて独立した「存在」となった文字は、自立します。それを書いた人や、書かれた時、状況などの「全体性」がなくなり、「部分」が残るのですが、部分は部分だけでは存在し得ないので、それがひとつの全体となります。(LF)全体性から切り離されることで、それは蓄積が可能となります。文字が持つ全体性というのは、「幻想の全体性」だからです。(全体をそのまま蓄積することはできません。物を書く人はその事がよくわかります。みなさんもラブレターを書こうとすれば、あるいはLINEで一文を送るときにでも、思いがそのまま伝わらないので、悩んだことがあると思います。私はいつも思います。どうして思っていることがうまく文章にできないのかと。そして気がつくのです。実は自分はわかっていないんだと。そして、私が思っていることは言葉に出来ないことなのだと。言葉にすると、何かが失われるのだと。)。(LF)
主観性の形而上学
「超越は主観性の志向性に基(FF)づいて初めて開かれる霊的領野であり、超越的一神教の背後にある原理もまた主観性なのであります。主体性の哲学は必然的に超越の構造をとります。それに対して存在の哲学はデポジット構造となります。」(P.3-4)__デポジット:保証金、沈殿、下に置く、put down、 Latin depositus
「主観性の超越的志向性は当然イデア的意味対象を思考せずにおらず、主観性とイデア的意味対象との間に固い結合関係を生じさせます。」(P.4)
「今日の世界を主導する原理は、ブラフマン(存在)ではなく、アートマン(主観性)であります。」(P.5)
西洋形而上学(プラトニズム)と科学
「「死」や「生命」や「心」や「自然」といった本来対象となって前に立ちえない存在をすら対象として前に立て、「研究」します。そしてそのことによってそれらを逸します。本来対象となりえない存在を対象として立てれば、必然的にその捉え損ない、逸失にならずにいないからです。」(P.6)
「世界には「存在者の領分」もあれば「存在の領分」もあるのに、「存在の領分」を一切無視して世界を「存在者の領分」一色に塗りつぶすのが科学的志向性の本性なのであります。」(P.7)
「対象的追求は個別化、細分化、精密化を結果せずにいないからであります。理念化、先鋭化、個別化、精密化、細分化が対象化的学知(科学)の本性に根ざす傾向性なのであります。」(P.8)__細分化することによって、対象的知が蓄積し巨大になるにつれて、個人(自己)はどんどん小さく「部分」になっていき、全体性から遠ざかる。
主観性原理によって出現した超越の巨大な構造(中世世界)
「中世世界に作動していた原理は主観性(Subjektivität)であって、神そのものがヘブライズムの系譜においては巨大な主観性だったんであり、中世キリスト教の哲学はなんにもまして主観性の哲学なのであります。しかも極端な主観性の哲学であったと言わねばなりません。だからこそキリスト教は「愛」を説きつづけねばならなかったし、今も説きつづけねばならないのであります。」(P.9)__「我と汝」の存在は愛を必須とする。
「主観性(Subjektivität)は存在から実在性を奪い取る原理であり、主観性原理が強まるとき、存在は必ず貧困化します。」(P.9)
西洋形而上学の近代における現れ(認識の哲学)
(1)デカルト
「デカルトから始まる西洋近代哲学において哲学を主導し、推進していたものは知に確実性を求める主観性の志向性であり、デカルト哲学と共に西洋形而上学の内的原理である主観性がその姿を赤裸々にしたと言うことができます。その結果、近代哲学は全体として認識の哲学に堕していきました。」(P.12)
(2)カント
「このようにしてカントが真理として確保しえた知は結局先天的認識、コギトが自らの内に見出す知でしかありませんでした。」(P.13)
「カント哲学は、哲学が主観性の自己確信の欲求に囚われつづける限り、それが見出しうる知はコギトの内に見出される知以外のものとはなりえないことを結果として示した哲学なのであります。主観性が確信をもって確認しうる知は先天的認識以外ではありえないからであります。言い換えれば、コギトが己の内に見出す知でしかありません。カントの「批判哲学」(die kritische Philosophie)もまた自己確信という主観性の我執の一表現なのであります。」(P.14)
「カントには「純粋」への偏愛が見られますが、純粋性は内容を犠牲にしてしか実現されません。内容は多様を含み、純粋性に収め切れるものではないからであります。多様の濁りを伴わずにはいない経験はカント哲学においてはどこまでも嫌われものでしかありませんでした。しかし実はこの濁った経験の中にこそ豊穣な知恵と内容豊かな哲学があったとすればどうでしょうか。人類の経験を捨て去った哲学とは一体何でありましょうか。空虚な学知でしかありません。そのような哲学はもはや「存在の哲学」とはなりえず、人類という存在を考究する哲学とは到底なりえません。」(P.14)
(3)フッサール
「幾多の遍歴を重ねる中で彼がいたった一つの方法が「超越論的還元」(die tranßendentale Reduktion)の方法でしたが、超越論的還元の方法というのは、要するに、すべての知を意識(コギト)の事実性に還元する方法であります。知の確実性を意識の確実性(コギトの明証性)に基づけて確保しようとする方法であり、この超越論的還元の立場に立つ限り、意識への内在を離れたような知はエポケーされるべき知として括弧に括られねばなりません(フッサール『イデーン』Ⅰ参照)。」(P.16)__エポケー:判断保留、停止、中止、中断
「ノエマは対象ではあるにせよ、あくまでも意識領野内の対象であります。その結果、現象学は他我を確認することすらできなくなってしまいました(『デカルト的省察』第五省察 参照)。他我経験については、現象学者の間で幾多の議論が費やされたようですが、現象学が意識(コギト)という自らの立場にとどまる限り、現象学は他我を確証するいかなる手段も持たないとわたしは思います。コギトが確認しうるのは結局己のコギトのみであって、他のコギトはどこまでも仮定でしかないからです。コギトはコギトを飛び出すことができません。「感情移入」(Einfülung)は他我を説明する理論であるどころか、むしろ他我経験の説明の断念ないし放棄の宣言以外の何ものでもないのであります。」(P.17)
「モナドロジーのモナドロジーたるゆえんは、意識(コギト)はいかんとしても観念界を飛び出すことはできないということ、このことであります。「単子に窓はない」(『単子論』)のであります。この簡潔な命題に込められたライプニッツ哲学のテーゼの強力さを遁辞でもってごまかすようなことがあってはなりません。」(P.18)__とんじ:言い逃れ、逃げ口上
「フッサール現象学は、確実性(確信)の欲求に囚われる余り、世界を貧困化するどころか、世界(存在)への通路すら失ってしまった近代的主観性のもっとも極端な事例なのであります。」(P.18)
主観性の自己意識(自覚)
「そしてその原理は大抵歴史に根ざしています。と言うのも、そもそも歴史とは原理の作動以外の何ものでもないからです。」(P.20)__ヘーゲル的。「歴史」そのものを問う=>書かれたもの、「有史」を問う。
「進歩史観にとって歴史は克服された「過去」でしかないのであります。進歩史観ほど歴史に対して不当をなす歴史観はありません。」(P.20)
「主観性は一切を「自らの前に立つ」(Vorstellen)原理であり、主観性はすべてのものを己の前に立つ対象と化さずにいません。その結果、認識と対象の間に亀裂が生じ、意識はその間に開いた距離、空白、欠如にさらされることになります。当然そこでは「認識と対象の間の一致・不一致」が問題となって浮かび上がってこずにはおらず、認識の正しさが問われねばならないことになります。特に自己意識(自覚)にいたった主観性は、そこでは、認識と対象の間に開いた距離の結果、己の知の正しさに対する疑念が芽生えずにいないがゆえに、己の知の正しさに対する不安に苛まれざるをえないことになります。己の知の正しさに対す(FF)る疑念と不安に苛まれつづけるというのが、自己意識(自覚)にいたった西洋近代の主観性のいわば運命(ゲシック)なのであります。」(P.20-21)
「ここに近代哲学の運命(ゲシック)がありました。のみならず近代世界全体の運命(ゲシック)がここにあります。ここに近代世界の故郷喪失性の原点があります。」(P.21)__ニヒリズム。「不可能性」あるいは永遠<=客観を「前に立てる」=主観を前に立てること。自らを客観視すること。前に立て続けることになる。
「主観性によって生じた空白にデカルトは駆り立てられていたのであって、デカルトは近代の主観性の「窮迫」(Not)の一表現なのであります。主観性の本性である虚無性の一帰結なのであります。それを何か哲学の使命ででもあるかのように語るところに、デカルト哲学の欺瞞性があります。」(P.22)
「正しさ」の哲学(真理の頽落態)
頽落、たいらく
「主観ー客観、認識ー対象、ノエシスーノエマの対立構造がい(FF)わば西洋近代哲学の鋳型ですが、この鋳型は「前に立てる」(Vorstellen)ことを本質とする主観性の超越的構造が生み出したものだあり、この構造の中に存在(Seyn)が入ってくることはありません。存在(Seyn)は主観性の前に立つようなものではないからです。」(P.24)
「「認識と対象の一致」(adaequatio intellectus)は「正しさ」(Richtigheit)ではあっても、「真理」(Wahrheit)とは言えず、いわば「真理」(Wahrheit)の頽落態であります。存在の現出こそが「真理」、すなわちギリシア的意味での「真理」(Ἀλήθεια=Unverborgenheit〔非隠蔽性〕)なのであります。」(P.24
「主観性はいわば距離を伴って存在しているのであって、否、むしろ「距離」(FF)そのものなのであって、その距離から解放されるといったことは、その原理が主観性である以上、ありえないことなのであります。」(P.24-25)
「主観性は己に自足できない原理であります。主観性はそのままで己に自足できるような原理ではないのであって、わたしたちはここに主観性原理の失楽園性格、その祝福のなさを見ると言わねばなりません。これを言い換えれば、主観性は己によって生じた空白に苦悩せざるをえない原理なのであります。主観性が己を主張するとき、そこには必ず空白が生じます。その結果、主観性は己を弁明しつづけねばならなくなります。己の正しさ、さらには己自身を弁明しつづけねばならないという点に、主観性原理の宿業性があります。特に自己意識(自覚)にいたった主観性はこの宿業性をもろにわが身に引き受けざるをえないのであって、西洋近代の哲学は総じて主観性のこの宿業性の哲学的表現でしかなかったといって過言でないのではないでしょうか。」(P.25)
「不信は距離意識の実存的表現であります。」(P.26)__ゲーデルの仮定、前提以外の論理も自己破綻する可能性=>他の人に任せよう
「正しい哲学」と後期近代世界
「「正しさ」と「告発」(FF)は表裏の関係にあるのであります。近代の諸思想の中にあって、告発的性格に根底から規定された最も極端な例は社会主義イデオロギーですが、社会主義イデオロギーは自らの告発的性格によって窒息し、亡んで行きました。」(P.26-27)__連合赤軍のイメージか?
「社会主義は世界を告発し、世界を非難することしか知りません。そこでは当然生は収縮せざるをえず、その結果社会の萎縮と無責任が世にはびこることになります。」(P.27)
「後期近代世界はなお依然として「正しさ」という観念に呪縛された社会でありつづけているのであって、「人権」、「差別」、「ハラスメント」、「禁煙」、「コンプライアンス」、「説明責任」、「フェミニズム」などに見られる近代社会の告発的性格とヒステリー性に気づかぬ人がありましょうか。あれら非難の諸カテゴリーはいずれも社会主義イデオロギーの変容形であって、主観性の告発的性格に発しています。後期近代社会を広く蔽うあれらの諸現象にわたしは見紛い(FF)ようもなく主観性の救い難い本性を見るものであります。これらの非難の諸カテゴリーで呪縛された後期近代社会は総じて主観性がヒステリー化した社会であるといって過言でないのではないでしょうか。」(P.27-28)__インターネット、匿名
「実は、他所でも述べましたが、存在は否定性であって、主観性が己の前に対象として引き立てることのできるようなものではないのであります。対象は存在者であり、肯定的定立であります。存在は肯定的定立とはなりえません。したがって対象とはなりえません。パルメニデスはこの真理をいち早く洞察した哲学者でした。「ないはない」(οὔκ ἔστι μὴ εἰναι)(断片B 2)のであります。すなわち「ない」(μὴ εἰναι)を思惟の対象として立てることは「ない」を「ある」にしてしまうがゆえに自己矛盾した行為となってしまうからであります。主観性がいかに存在を対象にし、その真理を語った積りでいても、それはある定立物であり、したがって存在ならざるもの、すなわち存在ではないのであります。」(P.28)
「むしろ対象とされれば、対象たりえない存在はそれからすり抜け、その背後に隠れてしまいます。」(P.29)
「西洋近代の主観性の哲学は総じて「正しい哲学」ではあっても、「真理の哲学」ではなかったのであります。」(P.29)
「いずれにせよ、ここに近代がひとつのイデオロギーでしかなかった事実が端的に示されています。」(P.29)
「偉大なものによってしか人間は救われません。己にこだわりつづけるだけのあのような卑小な精神によって人間が救われるなどと思うのは、人間がえらく見くびられたものであります。人間はもっと大きくあるべき存在であります。存在(Seyn)にとって人類などどうでもよいことかもしれませんが、ここでは敢えてこう言っておきたいと思います。哲学は近代に拘束されつづけてはなりません。己にこだわることに拘束されつづけてはなりなりません。また「正しさ」の呪縛に拘束され続けてもなりません。脱近代は何よりもこの呪縛と不安からの解放でなければなりません。同時に告発意識への囚われからの解放でなければなりません。後期ハイデガーがひたすら「脱存」(Ek-sistentz)を説いた精神もここにあります。」(P.30)
「ロゴス(存在)の到来こそが救いの訪れなのであります。主観性によっては人は救われません。」(P.30)
ヘーゲル哲学
「ヘーゲルにいたって主観性は遂に自らを存在そのもの、世界そのものと宣言するまでになったのであります。」(P.31)
「精神とは主観性の実体化された表現以外のものではありません。」(P.31)
「ところで「意識」(Bewußtsein)とは、ハイデガーも指摘するように(『ヘーゲルの経験概念』)、Bewußt-seinであるということ、すなわち(FF)「知っている」ないし「知られてある」ということであり、「知」(Wissen)と「存在」(Sein)が合体した概念であります。ヘーゲルの「意識」(Bewußtsein)は「知」(Wissen)と「存在」(Sein)という両面を具えているのであり、このどちらの面を強調するかでヘーゲル評価が異なってきます。」(P.32-33)
「さてヘーゲルは『精神現象学』以降ではこの「意識」(Bewußtsein)を「精神」(Geist)として実体化し、これを歴史に埋め込みます。」(P.34)
「しかし否定性を弁証法という論理の中に組み込んでしまったために、否定性(存在)の真理そのものを取り出すまでにはいたりませんでした。彼の場合には、否定性は論理のなかの一項でしかないのであります。」(P.34)
「歴史の発展とは、彼によれば、精神の発展、換言すれば精神の自己意識(自覚)の諸段階であります。それがまた同時に自由の実現の諸段階でもあると彼は言います。しかし精神とは、前述のように、実体化された主観性以外のものではありません。そして自由とは精神の述語であります。」(P.35)
「存在を精神の中に組み込むヘーゲル哲学と同じ暴挙はすでにシェリング自由論のNature in Gottという概念においても見られます(シェリング『人間的自由の本質』参照)。この概念の実質語るところは自然(ピュシス)を精神の中に位置づけるということなのであり、これはまさに自然(ピュシス)と主観性の転倒であります。」(P.36)
「ドイツ観念論哲学の実質意味するところは、存在と主観性の転倒なのであります。」(P.36)
アートマン、ブラフマンを飲み込む
「西洋近代の哲学全体を覆ったイデオロギーは「正しさ」(Richtigheit)という主観性のイデオロギーですが、このイデオロギーのもとでは当然存在の真理は「正しさ」によって歪められずにいませ。この哲学が捉えるのは世界の半面でしかないのであります。「存在の真理」(Wahrheit des Seyns)は「正しさ」(Richtigheit)に尽きるものでないからであります。このような哲学に対しては存在は自らを閉ざさずにはいないのであって、哲学は今や存在を見失った故郷喪失的学知でしかありません。」(P.37)
西洋形而上学の帰結としての近代世界(ハイデガー対世界)
「ところで、このゲステルの世界においては、一切が「用立て」(Bestellen)の機構の中に投げ入れられます。ここでは、人間も含めて、すべてがBestand(用材、在庫)であります。この機構においては、機構内における意味、すなわち用立ての相互関係、効用、有用性が唯一の意味なのであります。」(P.40)
「バタイユの哲学をもって言えば、「死」は本来「聖なるもの」であるはずです。それを商業活動に組み込むことによって「俗」にしてしまっているのであります。バタイユが近代世界を罵る理由のひとつは、近代は「聖なるもの」から徹底的にその存在の場を奪い去ったということであります。」(P.40)
「特に今日の後期近代世界は主観性が個的主観性としても立ち上がり、この事態を極限にまで昂じさせました。結果は荒廃の広汎な進行であり、ニヒリズムの世界的規模での浸透であります。存在から切れたところ、そこは荒廃の支配するところとならざるをえないからであり、存在が失われたところ、そこにあるのはニヒル以外のものでないからです。」(P.41)
「アメリカ発のグローバリズムの進行の過程で世界のいたるところで露呈している崩壊的な諸現象はまさにこの故郷喪失、「存在棄却」(Seinsverlassenheit)の現象諸形態以外の何ものでもありません。グローバリゼーションは市場主義の徹底化の推進という形で現れていますが(TPPもそのひとつです)、市場主義は主観性の論理のラディカルな一表現であり、グローバル・スタンダードとは主観性の基準原理を地球的規模で語ったものに他なりません。そしてその政治的、社会的論理がデモクラシーであります。」(P.42)
「交換価値は価値の数学化であり、このような貨幣を媒介にした等価交換の価値体系は、数学が存在から遊離した抽象的学知であらざるをえないように、存在にもとづく諸価値から遊離した故郷喪失的価値体系とならずにいません(貨幣を媒介にした等価交換の近代的価値体系の問題についてはバタイユないしはボードリヤールの議論を思い出していただきたいと思います)。また主観性は本来類的存在である人間を個に解体し、個として立ち上がらせ、そのことによって人間をバラバラにします。むしろ類に反抗させます。それを彼らは「人権」と称します。」(P.42)
「主観性原理(Subjecktivät)とそれを駆動力とするグローバリゼーションはまさに存在を破壊する原理であり、破壊の推進なのであります。これが類的人間の個別化(これは人間本質からの人間の切り離しを意味します)、その結果としての人間相互の不信、人心の荒廃、家制度の破壊、核家族化、ケアの社会学、すなわち高齢者介護の外部か、通り魔殺人を含むほとんど理由のない殺人の日常化、地域社会の崩壊、農村社会の限界集落への凋落など、今日のわたしたちがまさに目にしている世界の諸相であります。さらに巨視的に見るなら、情報工学にもとづく金融市場の過度の肥大化による国家財政の事実上の破綻、産業エネルギーの肥大化した需要による原子力行政とその破綻、過度の工業化による環境破壊とその結果としての森の破壊、それによる自然災害の悪魔的巨大化など、すべては肥大化し先鋭化した主観性が生じさせたものであり、主観性原理の浸透の必然的結果であります。」(P.43)
「人間は、いかに主観性を原理として誇ろうとも、ファンダメンタルにおいては依然として自然存在であり、自然をカットした数学的空間の中で正常に生きつづけられるわけがありません。」(P.43)
「ところで、今日の「倫理」においてはこの問題は解決されません。と言うのは、近代の倫理は主観性の倫理に堕してしまっているからであります。」(P.44)
「アナクシマンドロスの思索においては、存在(Sein)と当為(Sollen)はまだ分離していませ(FF)ん。ないしは、同じことですが、当為(Sollen)はまだ主観性の中に閉じ込められていません。近代人にとっては倫理的と映るような事態も存在のひとつのあり方なのであって、当為はまだ主観性内の意志の規定根拠に過ぎないものなのではありません。当為が主観性の中に閉じ込められて主観に対する定言命法となり、存在から切り離され、あまつさえ存在に対立するようになったのは、哲学が主観性の哲学に堕した結果であります。」(P.44-45)
「世界は全体として相互に不正の償いをしつつ存在している、すなわち罪障を償いつつ倫理的に存在しているというのがアナクシマンドロス哲学のテーゼなのであります。」(P.45)
「近代の倫理は世界の半面を切り取ったものであり、それを近代人は「道徳」と称していますが、ニーチェは「徳の半身不随」と呼んでいます。りんり(Sollen)をヒューマニズム(人間中心主義)の下に置く不遜を犯してはなりません。」(P.46)
「存在は倫理を排除しません。それを包含します。否、むしろ存在(Sein)と倫理(Sollen)は本来一体のものなのであります。「ある」(es ist)ということは「あるべくある」(es soll sein)ということであります。」(P.47)
「当為(Sollen)の主観性への拘束を意味するカントの倫理学はまた人間を特権化する倫理としても機能しました。人間のみが「自立的存在」であるがゆえに、すなわち「倫理的存在」なるがゆえに、人間は「人格」(Perzönlichkeit)であると言うのです。人格は常に目的として扱われねばならず、決して手段とされてはならないとカントは言います。この近代によって過大に礼賛されている思想は実に許(FF)しがたい思想で、人間を特権化するこの思想が他のすべての存在を食料とする行為を免罪化しました。」(P.47-48)
「自由、平等、平和、民主主義、人権、共生、コンプライアンス、説明責任、これらの近代において過剰に礼賛されている諸原理こそ問われねばならないのであります。」(P.48)
存在の故郷への望郷
「存在の現れに対する主観性の過敏性、警戒(FF)心には驚くものがあります。」(P.49-50)
「実はピュタゴラスと共に主観性(アートマン)はギリシアに出現したのであって(ピュタゴラスの「魂転生説」参照)、ギリシア哲学は直ちにそれとの激しい戦いに巻き込まれています。むしろ主観性原理との厳しい相克と葛藤の関係こそピュタゴラス以降のギリシア哲学の全体的性格なのであります。」(P.51)
第2講 ハイデガーと西洋形而上学(其のⅡ)
はじめに
主観性原理(Subjektivität)の登場
「政治や経済は哲学の結果であります。政治や経済のみで歴史や社会を説明する解説が紙上では一般的ですが、皮相です。近代世界は西洋二五〇〇年の形而上学の帰結なのであります。」(P.55)
「そしてこのピュタゴラス主義の上にプラトニズムが構築され、そのプラトニズムの上に西洋近代の科学的知の成立もありました。」(P.56)
「コギトが近代世界を生み出す原理になりえたのは、その思惟性(cogitatio)にあったというよりは、その背後に潜むエゴ(ego)にこそあったのであります。(LF)このピュタゴラスによる主観性原理のギリシアへの導入は当然ギリシア世界に深刻な葛藤をもたらさずにはいませんでした。東西いずれからであるかは必ずしも定かでありませんが、ピュタゴラスと(FF)共に主観性(Subjektivität)は前六世紀の後半にギリシアに出現したのであって、そのことによってギリシア哲学は存在(ピュシス)と主観性の相克と葛藤の修羅場と化しました。」(P.56-57)
「これはまさに戦慄すべき出来事であって、主観性は一旦植え付けられるや、それを根絶することはもはや不可能なのであります。」(P.58)
存在(ピュシス)と主観性(Subjektivität)の抗争
「ここに「ピュシスとイデアの戦い」、「存在と主観性の抗争」という西洋二大原理の戦いの構図が出現しました。これをプラトンは「存在をめぐる巨人闘争」(γιγαντομαχά περὶ τῆς οὐσίας)(『ソピステス』246A)と呼んでいます。」(P.63)
「魂の輪廻説は自我の自責意識と永生を希求する自我個体の欲求が裏で手を結んだ主観性の論理の極限形式ですが(罪障を償うためにこの世に何世もとどまりつづけねばならないというのは何という理屈でしょうか。この論理の中には、自らを責めながらもなお生きようとする自我個体の執念のような低意が隠れています)、この極限形式とともにアートマンがギリシアに入ってきたのであります。」(P.63)
「世界をブラフマンとアートマンの二大原理の戦いの場と見た古代インド人の知恵には深いものがあります。これこそ世界の真実を見据えた知恵であり、仏教のみの真理ではありません。彼らはブラフマンとアートマンの合体(梵我一如)を理想としましたが、しかし彼らはブラフマン(梵)にアートマン(我)を帰一させようとしたのであって、アートマン(我)にブラフマン(梵)を従わせるなど、彼らの思いもよらないことでありました。」(P.64)
σῶμα - σῆμα - theory(身体即墓説)と魂(プシュケー)
「この「カ」があのおびただしいミイラの現象を出現させました。それに対してギリシアの伝統的な魂観は魂を自然学的な生命原理とするものであって、そこに個体意識は含まれません。ないしは個体意識は極めて希薄であります。ギリシアの魂は未だに自然学的生命原理であったのに対し、エジプトの「カ」は明らかにエゴであり、主観性なのであります。」(P.66)
「バーネットがそう思いたがっているように、ソクラテスを誤解して嘲笑したのではありません。ソクラテス哲学をよく理解した上で笑ったのであります。要するに軽蔑したのであります。(LF)(FF)魂を人格的なものとして説いた点にことソクラテス哲学の最大の功績があるというのが後世の評価ですが、わたしたちを当惑させるのは、この点をギリシアの哲学者アリストテレスがまったく評価していないことであります。彼はそういった魂概念を、一顧だに値しないと言わんばかりに、完全に無視し去っているのであります。反論すらしません。そして彼が魂(プシュケー)と言うとき、それは何よりも生命の原理、アニマであり、初期ギリシア哲学以来の自然学的原理でしかないのであります(アリストテレス『デ・アニマ』参照)。」(P.67-68)
「魂の転生説のギリシア世界への導入と共に、魂は個別となり、人格的な魂概念が形成されたのであります。転生する以上、魂は個体でなければならないからであります。あるいは魂が娘的なものとなっていなければ、魂の転生は説かれいません。また説く意味もない。そしてこの事によって魂が自我(FF)(アートマン)となったのであります。魂が自我(アートマン)と合体するところにのみ魂の輪廻説は成立するのであって、魂輪廻説の実質意味するところは魂と自我(アートマン)の合体なのであります。あるいはこれを自我個体(エゴ)に魂(アニマ)が吸収されてしまったと表現することもできるでありましょう。」(P.69-70)
「もともと魂はソクラテスにとって不死だったのであります。と言うのも、それはエゴ(自我)だったからです。エゴは死にません。なぜならエゴは自然的概念ではないからです。死ぬことができるというのは根源存在である自然(ピュシス)に出自を有する存在であることの証であって、自然存在の特権です。エゴはそのような特権に与れる概念ではないのであって、それと言うのも、エゴは主観性であり、自然存在に真っ向から対立する原理だからです。」(P.71)
「西田はこのようなギリシアの魂転生説は死を対象論理的に見たもので、真の死を語ったものではないと批判しています(『場所的論理と宗教的世界観』参照)。ここには「死の自覚」というものがない。そして「死の自覚」がないということは、そもそもそこに「個の自覚」がなかったからであると西田は言います。」(P.74)
「要するに、ソクラテス・プラトン哲学には、「個」はあったかもしれませんが、「個の自覚」がなかったということであります。初期ギリシアの哲学にはその「個」もありませんでした。近代には「個」しかありません。」(P.75)
「主観性の前では死は消え去ってしまいます。主観性の前に死は現れません。死が主観性の前から消え去るのは、存在一般がそうであるのと同様です。実は死は主観性には永遠に謎なのであります。それゆえソクラテスは自らの死に気づきえませんでした。そして彼が自らの死に気づかなかったというのも、彼はエゴそのものだったからであります。エゴは死にません。したがってそれは死を知りません。それゆえそこには後に残される者のことを慮るといった優しさもまた出てきません。死を自らの本性として知る自然存在に対して初めてそういった優しさを持ちうるのであって、それというのも死は自然的概念だからであります。自然存在のみが死を知りえます。換言すれば、死を悲しみえます。。」(P.77)
「実は死のみが本当の優しさを現出させうるのであります。と言うのも、それのみが主観性を破壊しうるからです。主観性の枠内で語られる「優しさ」や「愛」が真にわたしたちを納得させることはあ(FF)りません。近代の諸思想や政治的スローガンにおいて語られる「愛」や「人権」、「平等」や「命の尊さ」、「共生」などといったタームはたいていそのようなものであって、それらはむしろわたしたちに苛立ちと反撥の気持ちを起こさずにはいないものがあります。あれら押しつけがましい諸タームをめぐって社会に蔓延している苛立ちとシラケに気づかぬ人がありましょうか。」(P.77-78)
「むしろ真の優しさは主観性が破壊されるところにのみ現出しうるのであって、優しさもまた本来は自然的概念であり、対称的概念ではないのであります。」(P.78)
ギリシアの主観性
「それは前五世紀後半以降のアテナイが脱自然化された都市空間だったからではないでしょうか。アテナイという特殊な環境(FF)がイタリアで徹底的に否定されていたピュタゴラス主義の復活を、それよりも大規模な復活を可能にしたのであります。ペリクレス時代後半以降のアテナイはまさに大理石を敷き詰めた都市空間であり、脱自然化された都市環境でした。脱自然化という点で、アテナイはギリシアにおいても稀有な空間だったのであります。そのような都市環境においては主観性が肥大し、先鋭化せずにいないのであって、そのことは近代の大都市空間においても見られるところであります。」(P.61-62)
「主観性は主観性にしか関心を示さないことがソクラテス哲学から確認されます。また脱自然化された環境の中にあって自立した主観性の志向性が現出させた世界、それがプラトンの理念的世界であります。ある哲学が生み出される、その基礎にあるものは環境なのでありま(FF)す。」(P.82-83)
「自然(ピュシス)の方がなお巨大であり、依然として隠然たる存在であって、その支配力はなお圧倒的でありつづけていたのであります。そしてそれがそうであるのは、ギリシア的意識がその言語の発生以来持ちつづけていたφυ-語根の呪縛に囚われつづけていたからであります。」(P.85)
「ギリシア的知性はより強大な「無限な存在」(ト・アペイロン)に包まれているという漠然とした意識に囚われつづけ、そしてその中でまどろみつづけ、その中で精々眼前のものを対象としたにすぎません。」(P.85)
「要するに彼らは人間はほとんど見ていないということであります。ここに人間しか見なくなったソクラテス哲学との差が鮮明に現れています。言い換えれば、「近代哲学」との差が鮮明に現れ出ています。人間しか見なくなった哲学は卑小です。」(P.86)
ヘブライズムの神の出現(巨大な主観性の登場)
「いまや自然は神という名の巨大な主観性の前に立つ一対象でしかありません。」(P.87)
「と言うのも、今や自然は神によって創られた一個の「被造物」(ens creatum)でしかないとされたからであって、このような対象物にどのような呪縛力がなお残りうるというのでしょうか。自然はいまや極めて明快な対象であり、その上さらにギリシア的知性がそれに加担するにいたって、自然はいよいよもって明確に規定された合理的対象、すなわち物体世界としてその姿を現すことになります。その最終形態がデ(FF)カルトの「延長する物体」(res corporea extensa)の世界であり、近代的な物質的世界であります。ここに近代のテクノ・サイエンスが己を全面的に展開しうる空間が開かれました。」(P.87-88)
「近代的自然概念(nature)が古代的自然観念(ピュシス)と異なる最大の点は、それらはもはや対象的存在以外ではありえないということであります。」(P.89)
「このあわれな主観性は神の前に自らを虚しくすることによって神の主観性に参与し、そしてそのような御位から自己を育んでいる母なる自然に向き直り、それに手をかけるにいたったとは。近代人が自然を操作対象とするとき、実は彼は神の御位から自然を見ているのであります。ここでは事実上人間が神の位置に立っているのであります。」(P.90)
「この主観性の前には何ものもその前提とされてはならず、すべてはその制作物でなければならないからです。言い換えれば、被造物(ens creatum)でなければなりません。」(P.91)
「Machenschaft(工作性)はヘブライズムの第一命題であり(『モーゼ五書』の第一命題は「神が世界を造った」ということであります)、それゆえ、(FF)Machenschaft(工作性)、およびそれをベースとするテクノロジーそのものは、決して文化論的ないし技術論的概念ではなく、形而上学的概念であるということです。」(P.91-92)
「したがって、この「世界の無からの創造」(creatio ex nihilo)のテーゼは自然学的命題の表明ではありません。哲学的命題ですらありません。それは己を圧倒することを何ものに対しも許さぬという断固たる要求の表明以外のないものでもなく、すべてを己の前に対象として置かずにいない肥大化した主観性の自己主張なのであります。それゆえ、これを認めるかどうかは、いかに声高に真理が叫ばれようとも、認識の問題ではないのであって、ある要求にしたがうかどうかという政治的問題なのであります。」(P.92)
「一般に語られるヘレニズムとヘブライズムの差異性は、その根本は構造的自然概念と主観性の差異性であり、言い換えれば、存在と主観性の対立意識なのであります。宗教観の相違、世界観の相違、文化の相違は、それからの結果でしかありません。(LF)それにしてもどうしてあのような巨大な主観性がシナイ半島から立ち現れてきたのでしょうか。それは要するに、その地が砂漠だったからでありましょう。砂漠であるために自然性が希薄だったのであります。そのような環境においてはすべては「作るもの」と「作られるもの」の関係において現れ(FF)ざるをえず、自生的な存在といった観念は希薄とならざるをえません。それでもそこに世界はあるのであり、したがってそれは「作られたもの」(ens creatum)でなければならないことになります。ところで、このような巨大な自然世界を作るものは巨大な主観性である他ないし、主観性である以上、唯ひとつです。言い換えれば、唯一の神でなければなりません。そして自然世界も、主観性の対象である以上、ひとつでなければなりません。ここにヘブライ的一神教の発生のメカニズムがあります。「神は唯一である」といテーゼの意味するところは「神は主観性である」ということであります。一神教のエネルギーは主観性に発していたのであります。その攻撃性、排他性もまたそうであります。ここではすべてが主観と対象の関係、したがって相克の関係とならざるをえず、すべてが支配するか支配されるかの政治的環境がその一般的状況であります。なぜことさらに「愛」が説かれねばならないのか、その秘密もここにあります。」(P.93-94)
「そこにあるのはむき出しの野心か失意でしかなく、そこに真の生の充溢はありません。アドラーがしばしば生の充溢と取り違えられる誤解はあるにしてもであります。また共感も許しもありません。そしてそれと裏腹に「人権」や「平等」、「命の尊さ」や「共生」がことさらに叫ばれるのであります。それに対して自然味が豊かな土地においては、伝統ないしは因習に隠然たる力があって、そこでは個々人は問題ともされませんが、したがって人権主義者、ヒューマニスト、進歩的知識人、フェミニストからは封建的、前近代的、「遅れた土地」として指弾されずにいませんが、しかしそれでもそこには神々が輪舞し、大地の諸霊が鳴動しているのであります。」(P.95)__「アドラー」がわからない
「諸民族や諸地域に見られる祭りは、現れ方としては多様ですが、それらはおしなべて根強い歴史性を示しています。歴史性は存在性であります。(LF)(FF)以上のごとく、多神教の発生母体は自然(ピュシス)であり、一神教の発生根拠は主観性であります。宗教の二大形態においても、存在(ピュシス)と主観性が覇を競っていたのであります。」(P.95-96)
「自然と主体の統合」(the integration of nature and subject)というテーマについて
「第一に自然(ピュシス)も主体(主体性)も原理であるということです。原理に統合も融合もありえません。」(P.96)
「なぜなら「存在の哲学」はギリシア以来のヘレニズムの伝統の上に立つ哲学であり、まさにこの「存在の哲学」が全体主義を生み出したからであります。」(P.97)
「「思考」(thinking)の対象は概念であり、概念は類であるがゆえに、そこでは個々の人間は人間という類に解消されずにいません。この哲学が個人を全体性の中に没し去る全体主義の基礎理論となりました。ナチスの哲学の基礎はアリストテレスのウシアの哲学であり、ヘーゲルの概念の哲学なのであります。ハイデガー(FF)の「存在の哲学」のみがナチズムを支える哲学であったわけではありません。ましてやアルフレート・ローゼンベルクの『二〇世紀の神話』などではありません。ヘレニズムの伝統の上に立つ「存在の哲学」や「概念の哲学」の立場に立つ限り、全体主義の哲学、ナチスの哲学は破壊されません。」(P.97-98)
「「普遍」に対する「個」、「必然」に対する「偶然」が、哲学的に確証されねばなりません。ところが個体論は実は中世一〇〇〇年の議論をもってしても決着を見なかった論議なのであります。」(P.98)
「またレヴィナスは「存在の他者」(l'autre d'être)を語ろうとしていますが、その都度絶えず存在に絡め取られてしまっています。と言うのは、他者であれ、何であれ、「・・・である」と言ってしまえば、それは結局存在のロゴスだからであり、哲学である限りこの存在のロゴスから逃れることはできません。」(P.99)
「存在は単なる抽象概念ではなく、conatus(力)であることを、彼ほど思い知らねばならなかった人はなかったでありましょう。」(P.100)
「第二に「自然」(ピュシス)は、ハイデガーも言うように、「存在」(das Sein)であって、「存在者」(FF)(das Seiende)ではありません(『形而上学入門』参照)。したがって対象とはなりえない原理であるということです。したがってこれらの両原理を対象と対象を結びつけるというような仕方で統合するといったことは原則不可能であります。」(P.100-101)
「それからもうひとつ。「自然と主体の統合」を社会システム論で実現しようとする試みがありますが、それも不可能です。システムは論理の一種であり、論理は原理には通用しません。」(P.101)
「むしろ論理は原理の後についてくるところのものなのであります。」(P.101)
「人間は、たしかに一方では主観性ですが、他方ではどこまでも自然存在であり、自然(ピュシス)は、何度も申しますが、原理であって、他に還元不能なものなのであります。」(P.102)
存在の脱去(Seinsverlassenheit)
「ところが『寄与』においてハイデガーは自然(ピュシス)もギリシア人にとっての現前性(Anwesenheit)のひとつでしかなかったと突然言い始めます。すなわちピュシスもイデアも存在(Seyn)がギリシア人に送りつけてきた存在の現前性に過ぎないと言うのであります。言い換えれば、存在のペルソナ(仮面)でしかなかったと言うのであります。」(P.104)
「従来のハイデガー哲学では、存在(Sein)はes gibtであり、贈与の原理でした。存在は「送り届けてくる」(schicken)原理であり、存在が送ってきたものが運命(Gesichk)であり、または歴史(Geschichte)でした。」(P.105)__わからないけど、「存在」を定義することができるのだろうか。定義できないとすれば、それをペルソナだと棚上げすることによって「存在(自然、ピュシス〕」と「主観性(自我、ego)」とを対立的に捉えることが可能になるのかもしれない。まあ、そうすると日下部氏の言う「原理」という意味が曖昧になるし、「現前性ではない存在」「存在としての存在」が堂々巡りになる可能性はある。その時、「存在について語ることの不可能性」があらためて問われるのかもしれない。
「問題はやはり主観性にこそあります。主観性という原理の悪魔的肥大化にこそあります。私たち自身がそれであるこの宿業的な原理にこそ、問題の根はあるのであります。このように考えるとき、悪の起源を人間の「自由意志」(liberum arbitrium)に見たアウグスティヌスのテーゼがあらためて想い起こされます。」(P.109)
第3講 西田とギリシア哲学
哲学者、西田幾多郎
西田とギリシア哲学
西田の軌跡
純粋経験から自覚の立場へ
「「思惟する」という行為が「思惟してある」という存在と同一であるという洞察、言い換えれば、「思惟(FF)と存在は同一である」という洞察がフィヒテの「事行」(Tathandlung)の概念には込められていますが、これはドイツ観念論哲学全体を支える最も基本的なテーゼであります。」(P.118-119)
「カントの偉大さは意識が超越論的であることを発見した点にあります。すなわち「わたしは考える」(Ich denke)という意識が実体のカテゴリーを超えていることをカントは洞察したのであります。「意識する者」があって初めて「意識」があるのではなく、「意識」はそういった実体(意識する者)を超えており、むしろ意識する者と意識される物の対立、主観と客観の対立がそこにおいて初めて成立する場こそが「意識」(Bewußtsein)だと言うのであります。」(P.119)
「フィヒテにとっては、もはやプロティノスの「一者」(τὸ ἕν)もカントの「物自体」(Ding an sich)も必要ありませんでした。「わたしという意識」、言い換えると、「自覚」が存在の端的な開始なのであります。それには何ものも先行せず、そこから認識も存在も始まるのであります。それは世界の絶対的な開闢であり、世界の一切がそこから展開される真実在なのであります。」(P.120)
自覚の立場から場所の論理へ
「「自覚」の哲学は意識の深底にまで深化する哲学ではありますが、やはりそれはなお「意識の哲学」であり、言い換えれば「コギトの哲学」なのであります。」(P.125)
「すべてのものがそこにおいて成立する「於いてある場所」であります。そしてその「於いてある場所」を西田は、アリストテレスとは異なり、主語面ではなく、述語面に求めます。」(P.127)
「そういった「対立的無」(意識の野)をさらに下って、その底の底に西田はただ「無」としか言いようのない境地、「絶対無の場所」を見出したのであります。」(P12)
絶対無の哲学
「世界を一般者の自覚的体系として記述していく上で西田が武器とした概念装置はフッサールの「ノエシスーノエマ」概念であり、「ノエシスーノエマ」の構造分析がある意味で世界を一般者(無)の自覚的体系として語ることを可能にしました。」(P.129)
「「無を自覚する」ということで(FF)はありません。「無が自覚する」ということです。「無が自覚する」ということは、無の自己限定ということであります。無が自己限定することによっていわばそこに世界開闢の瞬間とも言うべきビッグ・バンが起こりました。これが世界の開闢、一切万物の発端です。そして無が自覚する諸段階、「絶対無の自覚的限定」の諸段階として、世界の諸相、世界の諸段階が語られるのであります。」(P.129-130)
「西田の後年の表現で言えば、絶対的に矛盾するものは一致するのであります。「絶対矛盾の自己同一」であります。」(P.130)
弁証的一般者の哲学
西田と宗教
「主観性が自己意識(自覚)にいたった哲学、個が自覚にいたった哲学こそが西洋近代の哲学であり、西田哲学も「個の自覚」の(FF)立場にたった哲学であり、そう意味においては紛れもなく近代の哲学でありました。」(P.135-136)
「そして「絶対無の自覚的限定」ということは絶対無の自己否定ということであり、絶対無の自己否定の極限の姿が個的存在たる人間なのであります。」(P.139)
「人間が死に接すればするほど、煩悶すればするほど、悲惨に極まれば極まるほど、逆対応的に仏は人間に接してくるのであります。ここにひたすれ救いを求めて名号不思議を奉ずる衆生と衆生を救おうとする絶対悲願の仏の逆対応的関係が生まれます。」(P.140)
「肯定的に神や仏に利益を求めるものは、宗教ではなく、ペテンであるとまで西田は語っています。宗教を安心立命の問題に還元するのは、西田に言わせれば、宗教に対する冒涜であります。自己の死、自己の悲惨に直面して自己の絶対的非力を自覚した衆生が己を捨て去るところにこそ、宗教的局面が生まれるのであります。」(P.140)
「死はあくまでも「わたしの死」であり、西田にとって死は一回限りであります。「一度死んだものは永遠に生きない。個は繰り返さない」と西田は語っています。ここには「死」をある意味で再生の中でしか哲学してこなかった西洋的死生観に対する西田の原則的反論があります。西田の哲学はあくまでも「個の自覚」、「個としてのわたしの死の自覚」、「二度と繰り返さない己の絶対的死の自覚」の上に立つ東洋の哲学なのであります。」(P.143)
