世界認識の臨界へ 吉本隆明著 1993/09/15 深夜叢書社


この本について

図書館のリサイクル本(もらった本)で、お風呂本(お風呂で読む本)です。

対談集です。詩や文学(村上春樹、村上龍、吉本ばなな、俵眞知子など)、日本語や日本人、吉本氏自体の若い頃の話から発展して労働運動、政治、経済、資本主義、社会主義、国家論、死など、様々な話題に触れています。

詩、文学

私は詩に興味がありません。わからないからです。ただ、いまTwitterに毎日投稿されている、谷川俊太郎さんの『詩めくり』はとっても面白いです。本があれば買うのになあ、と思ったり、毎日ひとつづつだからいいのかな、とも思ったりしています。七月十一日の詩を引用したいけど、きっと著作権の問題があると思うので、リンクだけ張っておきます。「日本語」あるいは「日本語の詩」を英語(ヨーロッパ語)に「翻訳する」ことの本質、というか、違う言語で思考することの本質を4行で表している気がします。「詩」ってすごいなあ、と思わせてくれます。

それでも私が「詩」を好きじゃないのは、「ダダの詩」に代表される「意味を拒否する詩」を読んじゃった、「僕の後ろに道は出來る」(高村光太郎『道程』)のような「説教臭い詩」なんかを学校で教えられた、などの原因があると思いますが、とにかくこの本の初めの方は、頭が理解しようとしませんでした。この本で扱われている詩人の本は1冊も読んでいないので、何を言っているのか理解できませんでした。

文学、いわゆる小説も基本的には読みません。唯一村上春樹だけは例外ですが。吉本の春樹に対する評価は見事だとおもいます。

吉本ばななの評価は、たぶん、そのとおりなんでしょう。批評家としての立場と、どこか父親として娘を心配する立場が伺えて、とてもいいと思います。

日本語、言語

日本人はどこから来たとか、日本人て何だというようなところから、少し自分なりにやってみたいんです。(P.293-294)

気持はよくわかるんです。たんなる「ルーツ探し」的なことではなくで、「自分」がここにいる「ワケ」を知りたいという気持ちはわかります。「レゾンデートル」です。物理的には、「親がエッチなことをしたから」です。それ以外は何もありません。

日本人とは何か、日本語とはどういう言語か、等を「知りたい」「理解したい」という願望は、「私は何か」を知りたいということです。それは、〈自己〉、つまり「わたし」と「私とは何か」の同一性、つまり、アイデンティティを求めているということです。

ですから、感覚的な表現にはとてもいいんだけど、論理的な表現にはとても駄目ではないか。あるいは形而上学的な表現にはいまのところ完成度が足りな過ぎるのではないでしょうか。あるいは、歴史が浅すぎるのではないでしょうか。そういう実感をもちますね。

ただ、反復性としては日本語は鍛えられている言葉ですね。論理的なじゃなくて、反復的なんだとおもいますね。つまり、論理的でない感覚的な、あるいは感性的な言い廻し、表現方法を長い年月やってきているから、それで鍛えられている一種、系譜性はそれなりにあるんじゃないでしょうか。けれど、論理的ではない気がします。ある系譜性といいますか、蓄積性といいましょうか、反復による蓄積ですね。それがひとつの系列をなしているという意味では、一貫性はあるような気がします。でも、それは論理ではないんじゃないでしょうか。論理というのは、西欧的、あるいはギリシャ発生的なものでしょうから、論理性はないですよね。(P.295)

指摘としてはとても鋭いんだけど、その日本語に「欠けている」論理性というものをどう考えているのかというのが、よく分かりません。別の文章を引用します。

つまり、日本語は観念的な表現が不得意な言葉なわけですが、それにもかかわらず、戦後の言葉は一方ではそういう観念的な表現を可能にしました。そのためにイメージを喚起する文体の領域が拡張した、ということがひとつあるんですよ。それから、話体も同じなんです。要するに、それはただの拡張なんですよ。(P.281)

「観念的な表現」というのは、どういう事を言っているのかは分かりません。でも、たとえば「民主主義」「自由」などの観念的な概念なら、明治以降ずっとあったわけです。西周はこの「観念」を「idea」の訳語にしました。

それまでの日本語にも「観念」という言葉はありました。いまでも「観念しろー」と言いますね。それは、「空想しろ」という意味ではありません。もともとは仏教用語で「真理を見通す」というような意味です。それえを「idea」の訳語にしちゃったもんですから、「ややこしい」ことになってしまいました。「空想の」「頭で考えただけの」「実在しない」「絵空事」というような意味が付け加わったのです。

「idea」は「美しい」とか「善」とかの「実在しないもの」を指すこともありますが、「机」や「イヌ」などの「idea」もあります。「idea」は「logic(論理)」とは、直接関係がありません。ただ、「idea(ιδέα、イデア)」を考える時には「logic(λόγος、ロゴス)」が当然前提とされているのです。そして、「ロゴス」は「ことば」なのです。つまり、西欧人にとって、「ことばで考えること」「ことばを発すること」が「論理」そのものなのです。ですから、西欧人にとっては「idea」は「論理的なものの一部」であって、「絵空事」ではありません。たまたま、西周が「reality(実在、これも論理的なものの一部)」とペアになる語として「観念」を取り入れたので、「観念」は「実在しないもの」ということになりました。「実在」というのがまた面倒で、日本語では「実在の人物」とかいう使い方で「実際にいる、ある、存在する」という意味ですから、「idea」は「実際には存在しない」という意味になってしまいます。「idea」にも、そういうニュアンスがありますが、西欧においてはどちらも「logic」がおおもとにあります。ですから、西欧人にとっては「idea」も「reality」も「論理的」なのです。もっというと、「人間が話すこと」は「論理的」なのです。逆にいうと「論理的でない人」は「人間じゃない」のです(ただし、近代、あるいはルネサンス以降)。

ギリシャ人が「バルバロイ(βάρβαροι)」と呼んだ異民族を「ロゴスが不完全な人」としたのではないか、というツヴェタン・トドロフなどの考えは、18世紀以降に西欧で「人間」が「再発見」されたことを忘れている議論です。

それをふまえて、吉本氏の「観念的」という言葉がどういう意味なのか。やっぱり分かりません。「論理的」とも「空想的」ともとれる気がします。「情緒的」という意味ではないですよね。

かつて言葉からとり外されて日常性をもっていた大衆、あるいは大衆の原像というものが、現在は言葉に取り囲まれちゃっている。その取り囲まれ方は、かつてだったら言葉の表現の秩序の側から伸びていく足どりが、書かれた言葉で大衆を取り囲んでいく。そうするとそこでは原像としての大衆は、それを否応なしに食べさせられた。それを食べる以外に食べる文化はないんだという形で、もっぱら言葉を受け入れるものとして取り囲まれてきたとおもいます。(傍点引用者、P.193)

私の考えとは近いようで、いろいろ食い違います。

吉本氏は、「話し言葉」と「文字」を混同しているように思います。この私が書いている文章は、「話し言葉」ではなく「文字(書き言葉)」です。「日本語は論理的じゃない」というのと「論理的な(日本語の)文章」というのは、全く異なるのです。文章を「論理的」に書くことは日本語でもある程度可能です。「味もそっけもない言い廻し」(P.295)になったとしても、吉本氏の文章を西欧語に翻訳することは可能なのです。

著述者や学者が忘れがちなのは、その違いです。この本のような対談集が文字であるのは明らかです。文字起こしをして、校正をするたび、話しことばの要素は消えて「書き言葉」になっていきます。でも、その対談をラジオで流したときには、どうでしょう。表情が見えませんよね。話されている状況(雰囲気)もわかりにくいです。それでも「話し言葉と同等だ」とおもうでしょうか。それをテレビで放送したらどうですか。画質のことは問わないとしても、今度は話者や聞き手の表情は見えます。でも、その時に話者や聞き手が見ているものがわかりますか。それは、私ではなく「カメラ」です。話者や聞き手の反対側には、カメラや照明などのスタッフがたくさんいます。そして、視聴者は一人もいないのです(大抵は)。そこには明るく照らされたスタジオセットとは異なる暗闇のような空間しかありません。ドラマで部屋のなかのシーンを撮影しているとき、その反対側の「壁のない空間」をどこまで想像して観ることができますか。しかも、テレビでみえるのは、監督(製作者)が「見せたい」ものだけです。刑事ドラマでは、犯人につながる証拠がアップで映り、「街角インタビュー」で映るのは製作者側が意図的に選択したものだけです。製作者が用意した「演者」である可能性だって否定できないのです(最近は、「忖度して」製作者の意図に沿った回答をする傾向もあるようですが)。

つまり、それらは「文字」あるいは「文字の文化」であるということです。半世紀前はいまより「話し言葉」が溢れていたような気がします。いまは、話し言葉は減り(ワンマンカーや無人レジ、テレビの前に無言でたむろする家族等を想像してください)、そのかわりにあふれるような「音(デジタルミュージックや合成された音声)」と「映像」に囲まれています。そしてそれらは、対等な人の対話ではなくて、(対等ではない)支配的な側が意図をもって作ったものです。

「製作者」や「支配的な側」の意図というのは、スタッフや官僚や政治家の意図ということではありません。私もあなたもその気になれば、製作者の側に立つことができます(ツイッターで「発言」することは簡単です)。官僚や政治家が「支配」や「搾取」の意図をもっているということでもありません。ほとんどの人が、「みんなのために」と思っていると思います。「自分のため」すら「みんなのため」なのです。自分も「みんな」の一部ですから。

まず、いまの文化が「ことば優先」であるということは明らかです。しかしそれは「書かれたことば」、つまり「文字」優先の文化であるということです。文字はいまや「デジタルデータ」となっています(新しくつくられる映像もほとんどがデジタルデータです)。書かれた文字がもっていた筆者の「個性」(筆跡)すらそこにはありません。それは、大昔、話し言葉が書かれた瞬間、そしてそれが話し言葉と「同等」だと思われた瞬間から始まっていたことです(いまもつねに再現されています。円城塔著『文字渦』がそれを面白く表現しています。もちろん、中島敦著『文字禍』も)。

ことばは、「音」だけじゃありません。表情や身振り手振り、話し手と聞き手の間隔、話された時間などの状況すべてで意味をなします。「身体性」という言葉の意味はわかりませんが、ことばと体は「別のもの」ではないのです(ろうあ者のことば、手話などを考えてください)。もちろん、人間(生物)には「適応力」とか「順応力」、あるいは「ゆとり」がありますから、目がみえなくても、耳が聞こえなくても、相手の感情に共感することができます。本やテレビを見て(情報の制限や欠如にもかかわらず)「共感」「感動」できるのは、それによるものだと思います。

文字文化は、テレビや映画、スマホなど、私たちを取り囲んでいます。でも、その中に話し言葉(口承文化)の残存、〈原像〉はあります。私たちは、その「かけら」から、「全体」を再構成する柔軟性(それを「文化」と呼んでもいいかもしれない)を持ちます。でもをそれを認識し、伝えていくこと、それが〈原像、原形〉(話し言葉)を保存することだとおもいます。その柔軟性が逆の力を持つことも認識しなければなりません。「文字の社会」においては、テレビから聞こえることばは、友人が発したことばと同じ言葉に聞こえるだけではなく、文字が発したことばとして、友人が発したことば以上の「力」をもつということです。

評論家

その「ウソー」という言葉のなかには、いろいろな要素が含まれているのとおなじで、言葉では説明できないとか、説明しないという、それだけの違いで、そういう意味ではあまり違いがないとおもうんです。

専門の批評家は何かというと、普通の人が感じているのだけれどもいえないことを、ちゃんと分解していえる人だと逆に定義してもいいくらいです。特別なことをいうのが専門家ではなくて、ごく一般の人が「いい」とか「これはだめだ」といってしまうことを、なぜだめなのかということを微細に分解していえるというのが批評家だと、定義してもいいとぼくはおもいます。(P.290)

評論家というのは、「分解」「分析」を行って、それを論理的に言葉にできる(記述できる)人です。物質や現象を、とにかく「分解」して「分析」します。そしてそれを「数式」や「文章」にする、「科学者」と同じですね。

そこには二つの前提があります。一つは、分解したものを統合したものが、「元の全体」であるということ。つまり、全体は部分の集まりであるということです。大切なのは、そして理解したいのは、まず「個」「部分」です。「社会」と「個人」でいえば、大切なのは「社会」ではなくて「個人」です。そして、その「個人」というのは〈自分〉なのです。いま「社会を考えている自分」です。

もうひとつは、静止していること、変わらないことです。評論家が評論する間に、その対象が変わってしまっては評論になりません。つまり、(少なくとも)評論する(認識する、理解する)あいだは対象は変化してはいけないのです。評論家が評論するのは、「文章(文字)」です(映像でもいいけど)。それは、「固定」されたものです。「動いているもの、動向、なんかも対象になる」と言われるかもしれません。その「動き」や「動向」そのものが、ひとつの対象として「止まって(一定して)」いなければならないのです。

いろいろの現象を分析するばあいの科学の根本的な戦略は、まず不変なるものをさがすことなのである。すべての物理的法則はーーすべての数学的展開も同様であるがーー普遍的な関係を明確に述べたものである。科学のもっとも基本的な命題は、普遍的な保存という公準である。どんな例を選ぼうとも、そこで保存されている何か不変なものによって表されないかぎり、ある現象を分析することは、じっさいには不可能なのである。(『偶然と必然』J.モノー著 渡辺格、村上光彦訳、みすず書房P.116)

つまり、「AはAである」という「同一律(同一性)」、つまり「アイデンティティ」です。でも、「A=A」は、何も言っていないのと同じです。「我思う故に我あり」というのは、実は何も言っていないのです。AがAであるためには、「AはBであって、非Bではない」「AはCであって非Cではない」・・・(これらは、「排中律」と「無矛盾律」に分けることも可能です)。そして「A=B」「A=C」・・・の総和として、「A=A」つまり「私は私である」と言うことができます。

でも、「私は人間である」「私は日本人である」「私は男である」・・・等の「総和」が「わたし」でしょうか。西欧人(印欧語母語者)なら多くが「そうだ」というかもしれません。今は日本人の多くもそう考えているでしょう。それが、「全体は部分の集まりだ」という考えです。

音声に映像を足して、色を足して、臨場感を足して、3D 、4D・・・デジタルデータを足していけば、現実が再現できる(現実と置き換えが可能である)という考えは、とても西欧的だと思います。本当にそうでしょうか。アイドルのライブに「行く」のは、そのライブのDVDを「観る」のとは違うのではないでしょうか。ライブ会場では推しのアイドルが小さくしか見えず、DVDではアップで顔の細かい表情まで見えたとしても。会場では隣の声援がうるさくてアイドルの歌が邪魔されたとしても。

民衆の正義

もし大衆が合意しなければ資本はそれ以上のことはしようがないわけで、十倍でだめなら二十倍でどうですかっていうか、二十倍でだめなら三十倍でどうですかっていう以外には、資本にはそれ以上の権限はないです。(P.147)

これは、「地上げ」のことです。これにはいくつかのことが関連しています。国家(法律)による規制、土地の国有化(公有、共有)、生活と経済などです。もちろん「地上げ」には「(暴力団などの)暴力」の介入がありますが、「物理的暴力」「経済的暴力」「精神的暴力」など、わたしにはまだ整理できません。

「地上げ」は法律で規制する(取り締まる)べきものなのでしょうか。実際に、地上げにかんする規制(法律)はあるでしょうか。暴力団の関与を防ぐ法律や、不正な方法での立ち退きを迫ることを取り締まるのは可能なようです。まあ、多くの人は「地上げされる土地」など持っていないので、直接は関係ないのではないでしょうか。地上げによって物価が上昇したり、暴力団が幅を利かせたりするのは困りますが。

民衆にとって大切なことは、むしろ「物価が上がらないこと」「商品が安いこと」です。この農薬は体に悪いから少し(?)高くても無農薬の野菜を買おう、と思えるのは、ある程度生活に余裕のあるお金持ちだけです。100円の野菜と80円の野菜があれば、80円の野菜を買うのです。新聞に山のように折り込まれているチラシをくまなく比べて、79円の店があれば、そこで買うのが民衆です(自家用車でガソリンを使ってでも)。地上げやウクライナ情勢や新型コロナウィルス、異常気象、CO2排出規制なんかより、キャベツが10円高くなる方が問題なはずです。それをマスコミは、キャベツが10円高くなるのはウクライナ情勢のせいだ、異常気象のせいだ、と宣伝し続けていますが。民衆は、ますます農薬の有無ではなく、「安い」キャベツを探します。農薬が入っている野菜を買うことは、ウクライナ情勢で正当化されます。異常気象やウクライナ情勢は「それが原因である」といわれると同時に、野菜の高騰、農薬入り野菜を買うこと、双方の免罪符となるのです。

だから、基本的に民衆的な立場からすれば、あるいは消費的な立場からすれば原則は簡単で、より安くてよりよい農産物が目の前に提供されたら、それを買って食べる。そんな原則は簡単で、これはどんなふうに止めようとしたって止まらない。民衆的立場に立てばそうですよね。それ以外の立場はよけいなことです。(P.131)

その時に、「無農薬野菜を買うべきだ」などということばは、金持ち・エリートの絵空事に映ります。ウクライナ情勢や異常気象は「やっと手に入れた免罪符」なので、手放そうとはしません。資本主義(資本制生産様式が支配的な社会)では、「高く売ること」「安く買うこと」が資本家にとっても、労働者にとっても、消費者にとっても、いわゆる「民衆の正義」なのです。

生活と経済

そもそも、生活が経済になっちゃっているというのはどういうことなのでしょうか。「生活力」は「経済力」と同じ意味で使われています。その社会の中でしか生活したことがないので、別の社会を想像するのはむずかしいです。「お金のない社会」を想像すると、「あれはどうなるんだろう、こういうときはどうしたらいいんだろう」と思うことだらけです。

お金がない世界は、いろいろな人が考えています。ユートピア社会主義者もそうですし、長島龍人さんの『お金のいらない国』シリーズなんかも面白いです。

私が言っている、経済中心の社会というのは、貨幣社会、価値が数値化される社会ということです。価値が価格(値段)で表される社会、あるいは「等価交換」の社会ということもできます。

「価値」に相当する言葉を持っている社会は多いでしょう。殆どかもしれません。まあ、それはこちらの社会の目で見ると「価値」に相当するのではないか、と思われる「単語」を持っている社会です。日本語の「価値」の由来は分かりません。「価値」は英語の「worth」に相当するのでしょうか、「value」に相当するのでしょうか。「価値って何」って聞かれると、生まれてから60年以上日本語だけを話してきた私も答えられません。そして、「価値」といえば、「貨幣価値」「価格」「値段」だとおもってしまいます。「いのちの価値」を「いのちに値段をつけるなんて」と怒りながら「生命保険」会社が最大規模の会社になっている社会に私は生きています。

価値と所有

すべてのものには価値があります。マルクスは、価値を「使用価値」と「価値(あるいは交換価値)」とに分けました。使用価値は、りんごには「食べる」とか「ジャムにする」とか「万有引力の法則を発見するきっかけとなる」という価値です。それは、どんな社会にもあります。

ところが、その物(たいていは「生産物」)が「商品」になった途端、それは「使用価値」とともに「他の商品(あるいはお金)」と「交換が可能である」という「価値(交換価値)」を持つことになります。ですから、資本主義社会(マルクスは、資本制生産様式が支配的な社会と言いました)は、「商品社会」なのです。それでは、商品はなぜ「価値(交換価値)」を持つのか。マルクスは、アダム・スミス流の経済学に則り、それを「人間の労働」が入っているからだ、としました。そこでマルクスにとって問題になったのは、労働が入っていない「土地(原野)」がなぜ価値を持つのか、ということでした。

労働価値説や、土地の価格については様々な学説があります。それは別の問題として、商品や土地が「売買」されるためには、それが「所有」されていなければなりません。マルクスの頭の中にあったのは「入会地(いりあいち)」です。それまでだれもが(無制限ではありませんが)そこに行って、薪を拾ったり、木の実などを採っていた土地が(そこは領主の領有地ではありましたが、領主の管轄外でした。というより、領主はその土地を支配していたけど、所有しているわけではなかったのです)、ある日から「立入禁止」になったり、「薪を拾うことは窃盗だ」といわれるようになったのです。その時に「所有」という概念が明確になったのかもしれませんが、「所有」「ものをもつ(もっている)」は、「領有」「占有」などに明確化(細分化)されます。それぞれに、新しい「権利」がつくられていきます。現在、ひとつの土地にいくつの「権利」が付けられるのかは知りませんが、それらは「労働」が入っている(投下されている)とは関係がありません。そして、それはいくらでも分割して増やすことができます。

ひとつの絵や写真、小説などの「創造物」にも、著作権や、出版権、翻訳権、肖像権など様々な権利が付けられてきたのは、多くの人が知るところです。

「土地」はだれにでも必要なものです。立ったり座ったりはもちろん、家をたてたり、狩りをしたり、農業をしたり・・・。生きていく(いる)上でなくてはならないものです。それが「誰かに所有される」ということは、大変な出来事です(いまでは当たり前だとおもっている人も多いのですが)。

だけど水はすでに交換価値を生じているっていう段階にきているわけです。いまにみててごらんなさい。すぐに空気がただじゃなくなるとおもうんですよ。一般的には吸うのはただなんですけど、都会のビルのなかとかそういうところに新鮮な空気を補給する場所が商品てことになってくるでしょうから、空気も交換価値があるってことになるのは、割合に近いっておもうんです。(P.271)

「水に所有権がある」ということを「異常」だと感じることができるでしょうか。いまや「海」には、様々な「権利」がついています。「漁業権」はもとより、海底資源の採掘権などもあります。そのために「領海」や「排他的経済水域」などを設定していますが、それは「先進諸国」と言われる国々が話し合いで決めたものです。アフリカ大陸を西欧の国々が「分割」したのと同じだと思います。

その分割に、アフリカ大陸に住んでいる人々は関係ないし、海の魚(や人魚?)にも関係ないのです。国際条約に参加していない国やそこに住む人々には関係ないのです。私が釣りをしたいな、と思っても川での釣りには結構規制があります。それを破ると逮捕されちゃいます。海のアワビやウニも採ることはできません。日本人が昔から食べていたクジラもいまは原則捕ることはできません。私にはそれがとても不思議で不満です。もし私がお腹をすかせていて、川や海の魚を獲ったり、山になっている果実を採ったりすることは「いけないこと」「犯罪」なのでしょうか。その「魚」や「果実」がスーパーマーケットにあったらどうでしょうか。私が「生きること」と「所有権」とはなぜ両立しないのでしょうか。

私がそういう社会に生きているから、といえるかもしれません。「それが嫌だったら、出ていけばいい」と言われるかもしれません。だけど少なくとも、「交換価値(価格)」や「所有されること」は「水」や「魚」や「果物」が本来持っている性質ではなくて、「社会的に決められたこと」であるということは多くの人の同意が得られると思います。いまのところは。

お腹が空いていて、目の前に食べ物がある。それを食べる。その時にお金を払うかどうか。その壁は高いように見えますが、乗り越えることは不可能ではありません。私には「生きる」と「死ぬ」のあいだの壁のほうが高い気がします。もちろん、そうじゃない人もいるでしょう。でも、その壁を作っているのは、「その物・お金を持っている(持ちえる)人」ではないでしょうか。

多くの人は、生きることは「買うこと」だと思っています。買わなくていいのは例外的な人で、ひとは羨みます。いまでは漁師も魚(あるいは漁業権、漁船なども)を買います。農家も野菜を買い(種子だけじゃなく)ます。工場で「生産」する人も、作った生産物を自分で使うためには買わなければなりません。私には不思議なことで、納得ができないことなのです。「所有する(される)」「権利」というものは、「もの」が持っている性質ではないからです。

私は裸で生まれてきました(たぶん)。何も持っていなかったのです。そして親からいろいろなものを与えられました。それを「所有権の譲渡」とはいえないでしょう。与えられたものは、親が魔法で作ったものではありません。働いて得たものですが、それももとを辿れば、「自然、nature」です。私たちは、「自然の恵」で生きています。私たちのからだも、「タンパク質でできている」というのは、人間がそれを見つけた(名前をつけた?)だけで、「自然からの借り物であり、いずれ返すもの」という人もいます。それはそれとして、私たちのからだは、私たちが「所有する」ためにあるわけではありません。それは「私の体が持っている性質」ではないとおもうのです。私たちが商品を買うためには、なにかを売らなければなりません。「なにも売るものを持っていなければ、からだを売れ(働け)」と言われます。でも、私のからだは私の所有物でしょうか。

私有と公有(国家的所有)、〈公(コモン)〉

だけど国家の存続しているところで私有財産を否定したら、ファシズムかスターリニズムになっちゃうんですよ。(P.144)

「私有財産」は「私的に所有(私有、private property)された財」です。これにたいして、個人的(individual)所有とか公(public)有、国(national)有などのことばがあります。「所有」については上に触れましたが、すべての所有に共通することは、所有する「主体」があって所有する「対象(客体)」があるということです。その「主体」が、私人であったり、個人であったり、国家であったり、「公(おおやけ、コモン)」「私たち」であったり、が違うのです。でも、私はおもうのです。その「所有されるもの」という性質は「客体」にあるのか、と。それは「主体」が「客体」におしつけたものではないでしょうか。

私は、「所有するもの」=>「所有されるもの」という図式は「A=>B」「A is B」という図式と同じだとおもっています。そういう図式を立てることができたとき、AはBになります。「私は私のからだである」とか「朕は国家なり」という言葉をどう感じますか。私が作った(創った、造った)ものが私になる、私の書いたものは私である、なども同じです。これを「外在化」とか「投企」とか「疎外」と呼んで、西欧哲学では昔から考えられてきました(けっして近代以降のことではありません)。でも、これは「A is B」という言語構造では難しいのです。文字で書くことは、それをさらに困難にします。「考えたこと(思っていること)」はそれを発した途端に「論理」になり、書いた途端に「外在的実在」となるからです。否応なしに、私は「主体」であることを規定されてしまいます。主体は、客体を生みださずには主体になれないし、その間には乗り越えられない壁が生じます。〈我〉は〈汝〉がなければ成り立たないし、〈我〉はけっして〈汝〉にはなれないのです。それはとても寂しくて、悲しいことです。日本語の「疎外」に近いイメージです。だから、それを「取り戻す」「回収」しなければなりません。それが「自己同一性」や「自我の確立」という形をとります。対象は、それによってますます「主体」から離れて(独立して)いきます。

唯心論は、その投企の否定であり、唯物論は回収の否定です。「神と人間」の関係も、その視点から見ると変わって見えると思います。「近代人が自然を操作対象とするとき、実は彼は神の御位から自然を見ているのであります。ここでは事実上人間が神の位置に立っているのであります。」(日下部信吉著『ハイデガーと形而上学』晃洋書房P.90)

一度確立してしまった「自己(主体)」自体を否定することは困難です。西欧では、古典ギリシャ以来その努力がつづけられてきたし、インドではアートマンとブラフマンの融合ということで解決が図られました。日本に「主観」「客観」という「哲学用語」ができたのは明治時代です。まだ150年ほどしか経っていません。「それは(きみの)主観的意見だろう」という言葉が、まだ「否定的」に響きます(これを西欧語に訳したら、彼らはどう感じるのでしょうか)。

しかし生というものに対しては逆に照射する唯一のものといいましょうか、自分の生をこっちからはみれない、向こうからみることができているものとしての死というのは、ちゃんとつかんでおかないと、生ということの構造自体が本当ははっきりできないんだという関心になってぼくにやってきたとおもうんです。(P.184)

人間はだれも本当には死ねていない、本当に死ねていない分だけ他者、近親あるいは友人でもいいわけだけど、友人の死というものを自分の死とみて、そういう悲しみ方みたいなものを惹きおこす。死する友人が本当に死んでいないものだから、その分だけ他者になにか心残りみたいなのが反映してしまうということになってる。本当に死ぬということができる可能性は、死をとにかくつくりだすことなんだ、つくりだすということをメタファーとしてではなく事実と仮に誤解してみれば、自殺する、自死するということでしょう。だけどブランショのいうのは一種のメタファーなんで、死をつくりだすという場合に、つくるという概念が不明でわからないところがありますが、死というものを、想像力を混じえて十全なものとして自分がここに出現さしてしまうということが重要なんだ、みたいな、そういう解釈になっているとおもうんです。(P.184-185)

私はブランショを一冊も読んだことがありません(たぶん)。日下部信吉さんの言葉を引用します。

実は死のみが本当の優しさを現出させうるのであります。と言うのも、それのみが主観性を破壊しうるからです。主観性の枠内で語られる「優しさ」や「愛」が真にわたしたちを納得させることはありません。(日下部信吉著『ハイデガーと形而上学』晃洋書房P.77-78)

私には当たり前に思えるのですが、〈私(自我、主体)〉がなくなるのは、私が死んだときだけです。でも、〈主体〉を持ってしまった人間は、「不死」「永遠の命」を求め、死後にまで〈自己〉の存在や、自分が生きた証、「歴史」を残そうとします。そして、「自分が作り出したもの」「自己が外化したもの」は、自己の死後も残るとおもってしまいます(私もそうおもってしまいます(汗)。確かめようもないのに)。

脳死の問題や、植物人間の問題も、ここから考えられるのではないでしょうか。彼らに「自我」、つまり「意識」があるかどうかで「生死」を判断したり、「人間(としての尊厳?)」を考えたりするのが、どこから生じているのかということです。

吉本氏は2012年に亡くなりました。彼の著作は今も残っています。そのなかの文字は、たしかに吉本氏の一部を表しています。でも、それは吉本氏自身ではありません。この本は対談集ですが、そのことばは(「歴史」と同様に)読む人によって「再構成(解釈)」されます。文字が持っているデジタル性(部分性)は読む人の中で、読む人の経験や状況、社会や文化、そして読む人の〈自己〉といっしょになって「ひとつの全体」とされるのです。

ただぼくが〈大衆の原像〉という概念をなぜつくったかというのは、やはり階級という概念の一種の危なさといいましょうか、階級という概念に包括されてしまう大衆というものは、やはりそれ自体が知のほうへ上昇していったり、知のほうへ包括されていったりして自分を動かいしてしまうという存在じゃないのかなというふうな問題意識があって、そことは違ったところで〈大衆の原像〉というものを絶えずくり込んでいかなければ、知の問題も理念の問題も閉じられる以外に、もう方法がなくなっていくんじゃないか。そう考えていったとおもいます。(P.190)

現在を考えてみればすぐわかりますが、書かれた言葉がもうすでにあり、それに包囲されていない大衆というものを考えることができなくなっています。それはますますそういうふうになっていくので、具体的なイメージを思い浮かべることはもうできないんです。でもどうしても保存しておくべき原形みたいなものとしてあって、その原形を絶えずくり入れてない限りは、知識や理念は閉じられてしまうほかないと考えられます。(P.191、前出)

私は、「知」と「文字」、「自己」と「概念」というものが「同じもの」に思えています。それに「包括」されていく「危なさ」に吉本氏は気がついていたのです。「詩」そして「日本語」というものの持つ「感受性」や「情緒性」がそれを可能にしたとおもうし、そして逆に、それを「書くこと」「文字自体」がその解決を難しくしたのではないでしょうか。

マスコミと現在

だから追い詰められたからそうなったといえばそうなんだけど、つまり残り五%の問題を一〇〇パーセントの問題に無理してすることによって、辛うじてなにかテーマを見つけてるったいうのが、進歩的あるいは左翼的な政党や知識人の一般的な姿じゃないでしょうか。(P.152)

最近、私はテレビを観ている時間が長いのです。ワイドショー(最近は「情報番組」と言うらしい)やドラマ、あとはクイズ番組でしょうか。どのチャンネルでもそれらばかりです。交通事故なんか単なる物損事故なのに、全国放送します。そして、「運転していたのは高齢者」だと言います。高齢ドライバーの事故は増えているのでしょうか。高齢者が増えているから、それも当然なのですが。私の高齢の母は、農村に一人で住んでいます。若者を中心にどんどん人口が減って、近くに一軒あった商店も店を閉じてしまいました。鉄道もバスもありますが、どんどん本数が減っています。それに、年寄は重い買い物の荷物を持って公共交通機関には乗れないのです。「運転できるうちは、運転しなきゃ」ということになります。窃盗事件もよく取り上げられます。「無人販売所で、お金を箱に入れずに商品を持ち逃げされた」という「店内の防犯カメラの映像」が流れます。たぶん、私が住んでいるところよりずっと都会です。庭からバイクが盗まれた、タイヤが盗まれた等の「防犯カメラ」の映像もよく流れます。まあ、「防犯になっていない防犯カメラ」と言うこともできますが、しっかりカメラに写っているのなら警察が逮捕すればいいのです。それなのに「被害者は、警察に相談しています」とか(笑)。撮影者はどうしてそのテレビ局にその映像を持ち込んだ(売った?)のでしょうか。

無意識が荒れていないっていう気がするんですよ。意識はぼくらでも統御できるんですが、統御できない無意識が若い世代は荒れていないんですよ。ぼくらは荒れてるために自分がそう思いもしないことをやってしまったりとか、思いもしないふうになっちゃったりとか。(P.257)

でもその垂直方向が無とか希薄だってことは、よい特性じゃないでしょうか。あんなものは無いっていうのが本当じゃないでしょうか。人間の精神状態の中で、垂直性っていうのは本当は無い。だがその垂直性ってなぜできるかっていったら、やっぱり無意識の部分が相当荒廃しているから垂直性をつくってしまう。垂直性ってものをつくろうとおもうのなら、逆に意識の上に無意識をつくればいいので、自分でもどうにもならないほど無意識が荒れて、垂直性がつくられたというのではなくていいのです。垂直性をつくるのなら、意識の流れの上につくれば、そのほうが本当なんじゃないでしょうか。(P.257-258)

学生運動とか、ヒッピー、アングラ劇団、前衛(芸術、党)などが一段落しちゃった1980年代後半の感想としては、「そうだろうなあ」という感じがします。「新人類」という言葉は、1986年の新語・流行語大賞に選ばれました。学生運動等を、横目で見ていた人たち(「ノンポリ」と言われていた)が、社会を担うようになってきていた時代です。無気力、無感動な空気が社会を覆ってきていました。「重い」「暗い」ことより、それらを「皮肉った」表面的には「軽い」「明るい」ことが若者には受けていたように思います。それが「バブル(1986-1991)」を作ります。まるで「高度成長期」の再現のようです。バブルが崩壊して(1991-1993)、残念ながら現在までバブルや高度経済成長などは起こらないままです。

というのは、マスコミが言っていることで、現実がちがうことは、自分自身の給料や、親の給料を考えればわかることです。

危機のときこそ資本は利潤を追求します。この新型コロナの流行の2年の間に、トップの資本家(GAFAあるいはGAFAMなどのトップ企業とその創業者)の資産は倍以上になったと言われています。株価は日米とも過去の最高値を更新し続けてきました。それがウクライナ情勢と前後して急落しましたが、基本構造はかわりません。株式投資をしたことがある人ならわかると思いますが、株価の全体の長期の高い安いが「儲け」につながるのではなく、その中にある短期の「波(の上下)」が「儲け」になります。金庫に入っている株券やタンス貯金は儲からないのです。株式市場全体の高低とは別に、資産は増え続けるのです。

斎藤幸平さんが言う「希少性」あるいは「相対的希少性」という「差異化」が「利潤」を生みます(全然マルクス的ではない気がしますが)。水道水と「六甲の水」「飛騨高山の水」あるいは「ペリエ」(どれも飲んだことがないけど)という、「ブランド」「希少性」「差異」が利潤を生み出すとともに、「水はただではない」という意識を植え付けました。「水」も「お茶」も「自動販売機」で買う「ペットボトル」の物、になってしまいました。前述の「水はすでに交換価値を生じているっていう段階にきている」(P.271)のです。

「無意識が荒れていない」というのは、学生運動などをやっていた若者と比較して言っているのでしょうけど、私は逆に、無意識まで統御されちゃっているような気がします。同じことかもしれないけど、意識外の世界が統御されちゃっていて、偶然のはいる隙間がなくなっちゃっているような気がします。私にはそれが「やる前から諦めちゃっている」ように見えてしまいます。親も含めて、大抵のものはすでに制御されちゃっています。学校もテレビも漫画も、まるでコンピュータゲームのように。そういう中で、彼らにとっていちばん制御できないのは「自分の体」だ、となるのではないでしょうか(統治、規律、「自己への配慮」フーコー)。自分の体は、「許されない」変化をおこします。熱を出したり、勃起したり、生理痛になったり。昔は、子供が熱を出すのも、おとながかぜをひくのも「あたりまえ」のことでしたが、いまは「オオゴト」、大変なことです。親は、慌てふためいて、ネットで小児科を検索するし、大人は「今日は仕事を休めない。休んだら同僚に迷惑がかかるし・・・」と、熱が出たことじゃないことで落ち込み、混乱します。「勃起」や「恋愛」も同じです。テレビや、小説で見たものが「社会という自然」の中に取り込まれるように誘導されます。それから少しでもはずれたものは「憐れむ」対象ではあっても「努力して理解する」対象ではありません。SNSに現れる「攻撃性」は、「怒り」などの感情以前のものなのではないでしょうか。新型コロナはいつ「自然」の中に組み込まれるのでしょうか。

「こうなったときには、こうする」というマニュアルはどんどん整備れていきます。「考える」などという「非効率的」なことは不要とされます。でも、「勃起」や「恋愛」が「社会のマニュアル」から外れることが間々あるように、「新型コロナ」もつねに「変種」が現れるのです。マニュアルはどんどん「複雑」になっていきます。人が憶えたり、考えたりすることができないほどに。「科学」などの学問的「知」と同じように。

元首相の銃撃事件が起これば、マスコミが一斉に取り上げ、「専門家」と称する人が意見を述べ、民衆の意識を纏め上げ、ある方向をもたせる。それに政治家と芸能人がコメントし、全体のマニュアルを整備・強化する。警備やファミレスのマニュアルと、意識のマニュアルです。

共産党と自民党の議員のいうことは同じなんだから、これほどあほらしいことはないです。どうしようもない。だけど日本人は、自分自身も含めまして基本的にほんとうの意味の革命みたいなことはできなような気がするんです。なしくずしがいちばん自然だという形で(笑)、自然に任せたらなしくずしになって結局はそうなる気がするんです。(P.131-132)

最大のマニュアルが、「法律」です。「五%の問題を一〇〇パーセントの問題」にすることで、法律が作られます。表向きは「少数者」のための法律(マニュアル)ですが、そのために「95%」の人に「新たな制約」が課せられます。たとえば、交通事故で死ぬ少数者のために、自動車に乗る人すべてがシートベルトを義務付けられるように。その一方で、95%の人が必要な「最低賃金の引き上げ」などは、物価上昇にも追いつきません。いまマスコミが騒いでいる「共同親権」や「夫婦別姓」よりも、婚姻制度そのもののほうが重大なのですが、国会では婚姻制度そのものに反対する論議はされないでしょう。根本問題にかかる見解は、自民党も共産党も同じなのです。

いま自分たちは左翼だとおもいながら小田実でも小中陽太郎でもいうことはもうだめですよ。もうそうなっています。自民党の農協出身のおっつぁん代議士がいうことと全部同じになってますからね。まあエコロジストもそうです。同じになってきている。それは何故かといったらね、国家というものの解体なしには社会主義っていう概念は成り立たないんですよ。(P.147-148)

先日、アルゼンチンのデモがニュースになっていました。民放では報道されたのでしょうか。世界各国では大規模なデモやストがしょっちゅう行われているようなのですが、日本で地上波放送と大手の新聞だけを見ていると伝わってきません。日本では「無意識が荒れていない」せいか、デモすらおこりません。それどころか、日本の物価高騰の原因はアルゼンチン労働者のストのせいだ、というような報道がなされたりします。「労働運動はテロだ」というような半世紀前の意識が、また復活しているとか。

なにか問題が起こったとき、民衆は「弱者」です。いま、また「弁護士物」のドラマが放送されています。「最終手段じゃなくて、問題が起こった時にどうして弁護士に相談しないのですか。法律は、皆さんを守るためにあるのです」みたいなセリフ(よく憶えていないのですが)がありましたが、問題が起こった時には司法に訴えたり、あるいは議員や代議士を通じて法律をつくればいいのでしょうか。国家は「頼る」ところで、「対立し追求する」ところではないのでしょうか。その問題は、その人「個人」の問題なのでしょうか。

そうだったらば、資本主義を否定する論理がない限りは、資本が十倍の金を出すからどうですかといわれていやだっていうかいいっていうかはもうその人の問題になってしまいます。そうじゃない、それはその人の問題じゃない、それはやっぱり大衆が資本に追い詰めれらていく問題じゃないかっていったら、それは資本主義自体の問題なんだっていうことなんです。で、資本主義自体の問題っていうのはどうやったら解けるんだっていったら、ぼくは組織労働者的課題とか社会主義進歩的政党とか社会主義政党の課題を、大衆の課題自体が凌駕できなければ、つまりそれらから自立できなければ、大衆っていうのは資本主義と直接に対面して、それと対抗することはできないとおもっています。(P.148-149)

「社会(の構造)」の問題を「個人」の問題にしてしまうことによって、「法治国家」「法の下の平等」が成立します。あえて言いかえれば、法治国家は「資本主義制度」なのです。西欧的〈個人〉は、他の個人(他人)と「共存」することはできても「和解」することはできません。「万人の万人に対する闘争」(ホッブス)が基本にあって、「和解」するのではなく「折り合いをつける」方法として「法の支配」があるのです。結果としてすべては「〈個人〉の問題」とされてしまいます。「親ガチャ」などと言っているのは、西欧人からは理解されない「甘え」でしょう。

逆にいえば、まだ日本には「甘えの構造」が残っているともいえます。それは、日本特有のものでしょうか。私はそれを「非西欧」として見るならば、多くの国にあると思います。西欧は、他国に支配されたり、自分たちが政府を倒したりの「民衆の歴史」があります。日本は、戦争末期にアメリカに攻撃され、その後支配された歴史くらいしか学校では教えてくれませんでした(縄文末期に何かがあったかもしれないけど)。

「日本はアメリカの属国になっている」、ある意味で私はそう思ってきました。バイデン大統領が来日したときの延々と一列に並んだ警備の光景をみると、属国が宗主国の首脳を出迎えるように私には映りました。岸田さんがアメリカに行っても、あんな風景はないと思うのですが。でも、その属国・宗主国の関係というのは基本的に「経済関係」です。でも、科学、知、法、選挙、民主主義、個人、論理など、支配されているのは私たちの「考え方そのもの」なのかもしれません。「生きること」が「経済」になっている以上、資本主義というのは政治体制ではなく、わたしたちの「生き方」「考え方」にならざるを得ないのです。

この本が出版されて30年が経とうとしています。それなのに、いま出版されたのではないかと錯覚してしまうような本質的な内容と先見的な内容があります。吉本隆明が「世界」(というのは「先進国」)で受け入れられることはあるのでしょうか。もしそれがあるとしたら、それは彼の「悪い半面」のような気がします。私は、その良い半面を「原像」として引きつぎたいと思います。

ぼくは、そういう外在的なことでは人類という種は滅びないとおもっています。それは生物学者はよく知っているけれども、人間という種が滅びるときには内在的に滅びるんです。(P.244)

風の音とか月の光とかいうのは言葉ではないですよ。それなのに、それで涙が出てしまうというのは、言語体験に近いように、それを受けとっている感覚があるからです。ですから、感覚語で極度に鋭敏だという面もある気がしますね。(P.298)

《終わり》






[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4880320007]

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