シリーズ・ギリシア哲学講義 日下部吉信著 2012/10/10〜2015/06/30 晃洋書房


わたしの考えを変革した本

このシリーズを読み終えたのは、多分1年半くらい前です。ずっと感想を書けずにいました。感想を書くにはあまりにもすごすぎる本だったからです。

  • 『初期ギリシア哲学講義・8講』(シリーズ・ギリシア哲学講義 Ⅰ)晃洋書房 2012/10/10
  • 『プラトニズム講義・4講』(シリーズ・ギリシア哲学講義 Ⅱ)晃洋書房 2012/06/10
  • 『アリストテレス講義・6講』(シリーズ・ギリシア哲学講義 Ⅲ)晃洋書房 2012/04/20
  • 『ヘレニズム哲学講義・3講』(シリーズ・ギリシア哲学講義 Ⅳ)晃洋書房 2013/04/20
  • 『講演集 ハイデガーと西洋形而上学』(シリーズ・ギリシア哲学講義(別冊))晃洋書房 2015/06/30

それぞれは70ページから160ページほどの薄めの本です。確かに「ギリシア哲学の本」なのですが、単なる「哲学入門書」ではありません。ギリシア哲学を通して、著者の考えを語っています。逆に「ギリシア哲学の標準的入門書」を読みたい人にはおすすめしません(笑)。客観性や科学性、あるいは学問的中立性を装った本ではないのです。だからこそ面白いし、著者の思いが伝わってきます。

自由、平等、平和、民主主義、人権、共生、コンプライアンス、説明責任、これらの近代において過剰に礼賛されている諸原理こそ問われねばならないのであります。(別冊、P.48)

数年前の私なら、この一文を見ただけでこの本を投げ捨てていたでしょう。今回、ざっと読み直してみても、やっぱり素直に納得できるとは言えません。ただ、一緒に考えてみたいなあ、と思わせてくれるのです。なぜなら、私が考えたいことと問題意識がいっしょだからです。

主観性原理(Subjecktivät)とそれを駆動力とするグローバリゼーションはまさに存在を破壊する原理であり、破壊の推進なのであります。これが類的人間の個別化(これは人間本質からの人間の切り離しを意味します)、その結果としての人間相互の不信、人心の荒廃、家制度の破壊、核家族化、ケアの社会学、すなわち高齢者介護の外部か、通り魔殺人を含むほとんど理由のない殺人の日常化、地域社会の崩壊、農村社会の限界集落への凋落など、今日のわたしたちがまさに目にしている世界の諸相であります。さらに巨視的に見るなら、情報工学にもとづく金融市場の過度の肥大化による国家財政の事実上の破綻、産業エネルギーの肥大化した需要による原子力行政とその破綻、過度の工業化による環境破壊とその結果としての森の破壊、それによる自然災害の悪魔的巨大化など、すべては肥大化し先鋭化した主観性が生じさせたものであり、主観性原理の浸透の必然的結果であります。(別冊、P.43)

「〜べき」ということ

私は昔から強制されることが大嫌いです。「道徳」とか「倫理」という言葉が大嫌いなのです。だから、「〜するべきだ」と言われると必ず一回は反発します(笑)。それが「自由」だと思っていたし、「もっと自由でいたい(今は自由ではない)」と思い続けてきました。「自由であること」は私には「正しいこと」であって、「自由であるべき」なのでした。でも同時に思っていたのは、私には「正しいこと」「そうであるべきこと」であっても、それを他人に強いることができるのか、ということです。自分が強制されるのが嫌なのなら、他人に強制することは矛盾ですよね。

「自分らしくあること」「個人として自立すること」「自由で平等であること」等、戦後の「民主教育」で育った私は、それらを疑うことなく目指して生きてきました。

倫理学はおしなべて独善的であります。倫理学は主観性を発生根拠とする哲学だからであります。倫理学が哲学に取って代わろうとする不遜を許してはなりません。(Ⅱ、P.30)

正しいこと(科学的、学問的であること)

そして、『鉄腕アトム』に熱中した少年時代、私は「科学者になりたい」と思っていました。「科学的であること」が「正しいこと」でした。科学の勉強は楽しかったし、得意でもありました。そして、その「正しさ」をどうにか人に伝えたいと思っていました。だから、「科学的社会主義」という言葉は魅力的だったし、勉強もしました。でも、ついにその「科学性」には納得できませんでした。数学のように「論理的」に「証明」して納得することができなかったのです。現実の日本、資本主義社会である日本の悲惨な状況は「正し」くはないと思っていました(いまも思っています)。でも、公害が社会問題になっても、オイルショックがあっても、自民党政権はかわりません。もし、「民主主義」が正しく、「選挙制度」が正しく、「多数決」が正しいのであれば、多くの人が「自民党がいい」と思っているのです。「資本主義社会がいい」と思っているのです。「みんな」が正しく「私」は間違っているのでしょうか。

「正しさ」と「告発」は表裏の関係にあるのであります。近代の諸思想の中にあって、告発的性格に根底から規定された最も極端な例は社会主義イデオロギーですが、社会主義イデオロギーは自らの告発的性格によって窒息し、亡んで行きました。(別冊、P.26-27)

「浅間山山荘」の事件を、すべてのテレビチャンネルで延々と放送していたことを思い出します。

「私は正しいと思う」ということの証明があるのでしょうか。そもそも「正しい」とは何なのでしょうか。科学における「~である」という断定も、「正しいこと」の「存在」を前提としています。小学生時代、それに疑問を持つ同級生がいたなあ、と思い出します。当時はバカにしていたけど、「正しいって何?」と聞かれたら、答えられなかっただろうなあ。今でも答えられませんが。

ソクラテスの定義術はそれゆえ、暗黙の内に、善それ自体、正義それ自体、勇気それ自体、美それ自体の存在を前提とし、それらを予想しているのであります。これはたまたま採用された方法がその哲学の内容をも規定してしまった最も顕著な事例であります。(Ⅱ、P.20)

「善」「正義」・・・等々は、人間が定めたものです。それが客観的存在(存在者)として「ある」わけはないのです。「太陽」や「赤」と同じです。「抽象的概念」「一般」「普通名詞」・・・、「概念」自体が明らかに人間が定めたものです。

それでは「イヌ」とか「酸素原子」「新型コロナウィルス」というものは「ない」のでしょうか。固有名詞だけで話すことはできませんから、それらの言葉はありますし、固有名詞(「ポチ」とか「太郎」とか)だけの言語というのも考えにくいです。言葉自体が、ある種の一般化なのです。ゴルギアスが言うように、

われわれが人に伝える手段とするものは言葉であるが、言葉はそれが表現する対象とは異なる。したがってわれわれが伝えるものは言葉であって、その対象ではない。どうしてわれわれは言葉(音)によって色を伝えることができるであろうか。われわれの耳は言葉(音)を聞くが、色を聞くことはできないからである。また言葉や徴表によって作り出される表象がすべての人において同じであるという保証はどこにもない。それゆえわれわれは、たとえ認識したとしても、それを人に伝えることはできない(セクストス・エンペイリコス『諸学者論駁』Ⅶ 65-87より)。(Ⅰ、P.148-149)

言葉は象徴機能を持っています。それが自分のなかの「あるもの」(それは文化的なものです)とのつながりを見つけたとき、それが「意味」となります( 「pomme 」と言われてもフランス語を知らない人には「りんご」が頭に浮かばないでしょう)。だから、「聞き間違え」や「見間違え」が起きます。知らない言語(Βάρβαροι)で話されても、意味がわからないのです。

存在

著者はパルメニデス(Parmenides,BC515年頃-450年頃)の哲学について、

存在(τὸ ἐόν)に関する彼の洞察は今日の哲学においても一歩も越えられていません。(Ⅰ、P.56)

パルメニデスの哲学はシンプルであります。「ある、そしてないはない」(ἔστιν τε καὶ οὐκ ἔστι μὴῖεἰναι)と考えることが真であり、「ない、そしてないもあらねばならない」(οὐκ ἔστιν τε καὶ χρεὠν ἐστι μὴ εῖναι)と考えるのは偽であるというのが、それであります(断片 B 2)。この簡潔な命題によってパルメニデスは、存在(τὸ ἐὸν)に関してはただ「ある」としか言うことができないということ、すなわち「ない」と言い、そのことによってあたかも非存在が一個の存在者として存立しているかのように語るのはそれ自身に矛盾する不合理であり、許されないという主張を行っているのであり、非存在(μὴ εῖναι, τὸ μὴ ἐόν)の端的な不可能性を説いているのであります。(Ⅰ、P.59)

「ゼロ」はインドで発見されたそうです(『零の発見 ー数学の生いたちー』吉田洋一著、岩波新書)。「ゼロ」は存在するのでしょうか。「ネコが1匹いる」というのは、「ネコが〈いる〉(1)」ということですが、「ネコが0匹いる」というのは、「ネコがいない」ということですよね。「いないねこ」が「いる」ということでしょうか。ゼロを考えた人はどう思っていたんでしょうか。

世界をブラフマンとアートマンの二大原理の戦いの場と見た古代インド人の知恵には深いものがあります。これこそ世界の真実を見据えた知恵であり、仏教のみの真理ではありません。彼らはブラフマンとアートマンの合体(梵我一如)を理想としましたが、しかし彼らはブラフマン(梵)にアートマン(我)を帰一させようとしたのであって、アートマン(我)にブラフマン(梵)を従わせるなど、彼らの思いもよらないことでありました。(別冊、P.64)

「梵我」についてはよくわかりませんが、ギリシア人とインド人とはものの見方・捉え方の「方向」が違うようですね。「梵(ブラフマン)」を古典ギリシアの「自然(ピュシス)」だとすると、「我(アートマン)」は古典ギリシア伝統のものではなかったということです。「我(アートマン」と「我(コギト)」は違いますが、自然は「対象」であり、我は「主観」に近いですね。そういう意味では対応ができます。

著者がいう主体性「Subjektivität」はラテン語の「subiectum」から来ています。それはギリシア語の「ὑποκείμενον」のラテン語訳のようですが、ギリシア語の「ὑποκείμενον」とラテン語の「subiectum」は同じ意味ではないようです。それぞれがそれぞれの文化(歴史)に基づく言葉ですから当然です。さらにそれが近代哲学用語の「Subjektivität」としてはまた全然意味が異なります。当然日本語の「主観性」とは全然違います。日本語の「主観性」は日常用語ではありませんが、それ以外は日常語、日本語でいう大和言葉に近いようです。(『西洋哲学の基本概念と和語の世界』古田裕清著、中央経済社、参照)

ピュタゴラス派の学統上にあった者を除けば、ギリシア哲学は全体として自然をはるかに大いなる存在と感じており、自然に対する畏敬の念と帰依の感情で満ちみちています。むしろ彼らは自然からこそ基準(ロゴス)を学び取ろうという態度で一貫しています。(Ⅰ、P.119)

コギトが近代世界を生み出す原理になりえたのは、その思惟性(cogitatio)にあったというよりは、その背後に潜むエゴ(ego)にこそあったのであります。

このピュタゴラスによる主観性原理のギリシアへの導入は当然ギリシア世界に深刻な葛藤をもたらさずにはいませんでした。東西いずれからであるかは必ずしも定かでありませんが、ピュタゴラスと共に主観性(Subjektivität)は前六世紀の後半にギリシアに出現したのであって、そのことによってギリシア哲学は存在(ピュシス)と主観性の相克と葛藤の修羅場と化しました。(別冊、P.56-57)

そしてこのピュタゴラス主義の上にプラトニズムが構築され、そのプラトニズムの上に西洋近代の科学的知の成立もありました。(別冊、P.56)

主観性

古典ギリシアにとっては「異質な考え」である「主観性」がもたらされて、ギリシア人は驚いたわけです。「主観性」は「私」・「エゴ」です。ギリシア人ははじめはその考えを(邪教として)あざ笑っていました。ソクラテスが有罪になったのはそのためです。そして、「恐れ」も抱いていました。イタリアでピュタゴラス学派の徹底的な弾圧があったようです。

主観性を持ってしまえば、自然(ピュシス、存在)は「対象」となって、主体(人間)との間に大きな「壁」ができます。主体は「鎧」をまとい、自然(ピュシス)と交わることはできません。ハイデガーの言葉でいえば、自然は「存在」であることを隠し、「存在者」となって主体(人間、現存在(Da-sein))に対峙することになります。逆ですね。現存在が「対象化」によって存在者を作り出すのです。

自然から切り離された主体(主観性)は孤独です。

ピュタゴラスが学派に沈黙を命じ、また自らを帳(とばり)の奥深くに隠さざるをえなかったゆえんのもの、それをエンペドクレスはあからさまに発声したのであります。そのゆえんのものとは何か。それは主観性原理の失楽園性格、その祝福のなさであります。主観性は自らの正体をよく知っているのであります。それゆえそれは警戒的、猜疑的であらざるをえません。自らを隠さざるをえないというのが主観性の、恐らく主観性自身にもどうしようもない傾向性なのでありましょう。(Ⅰ、P.103-104)

まさしく「アダムとイブ」の「楽園追放」です。私はそこにヘブライズムを強く感じます。『我と汝』(マルティン・ブーバー)が成立するのです。「我」と「汝」は「主観」と「対象」として、決して直接関係することはできません。その間に「対話」を持ち込もうと「愛」を持ち込もうと、その壁は決して消すことはできないのです。私の「コミュ障」はここに起源があったのですね。日本語ではその瞬間を「物心がつく」と表現します。親から切り離され、周りのものが「自分とは異質なもの・相容れないもの」と感じ、思春期に入っていきます。

現在の私たちは、自分たち「人間」が主観性・自我を持つことが当たり前だとおもっています。いや、むしろ主観性を完成できないこと、個人として独立できないこと、「一人前」になれないことに「焦り」や「いらだち」を持っています。私たちは「個性」を持ち「個人」である「べき」だからです。

個人として「永遠の未完成」でいるのは辛い。「汝(他者)」との「対話」がむずかしいのなら、いっそ「我」を捨ててしまいたい、そう思ってしまいます。

(・・・)主観性は一旦植え付けられるや、それを根絶することはもはや不可能なのであります。ここに西洋哲学の運命(ゲシック)のいわば発端がありました。さらに言えば、西洋世界、ひいては人類の運命(ゲシック)の発端がここにあったことがこの後の歴史の展開から知られます。(Ⅱ、P.3)

歴史

このあいだTVで、「白黒写真で色が見える男」という話題を取り上げていました。昔の白黒写真に色を付けることができる人です。正解の色はないのですが、その色を付けた写真を持ち主に見せると「そうそう。この色の服を着ていた!」と言うのです。すごいなあ、と思いました。昔私は、なんの不自然さも感じないで、あたりまえに白黒写真を見ていました。白黒テレビも。そういう経験が私にはありますから、昔は色が見えていたんじゃないかなあ、と考えました。そして、カラー写真やカラーテレビができたことでその能力を失ってしまったんじゃないかと。可怪しいですか。でも、カラー刷りの画集なんかない時代に、日本人の画家たちは粒子の荒い、白黒の雑誌に紹介された印象派やシュールレアリスムの画家達の作品をみて、「すごいなあ」と思ったんですよ。

「色が見える人」の話が本当かどうかはわかりません。というのは、彼の中に無意識にでも、昔の服の印象が残っている可能性があるし、見る人の記憶も怪しいのです。はっきりとした記憶がない時に「こんな色でしたよね」と言われたら、自分のイメージとよほど違っていない限り、「そうだ」と思ってしまいますから。

その真偽は別として、カラー写真ができたことで、白黒写真は、色の欠けた、不完全なカラー写真になってしまったということなのです。白黒写真が当時持っていた「全体性」が失われてしまったのです。写真は白黒であろうが、カラーであろうがそれ自体が一つのもの、ひとつの全体だったのです。ところが、カラー写真が「本物」、つまり「ひとつの全体」になったことで、白黒写真は「偽物」「部分」になってしまったのです。

進歩史観にとって歴史は克服された「過去」でしかないのであります。進歩史観ほど歴史に対して不当をなす歴史観はありません。(別冊、P.20)

「新しものは、いい」というだけではありません。旧石器時代より新石器時代、ギリシア・ローマ時代より近代、近代より現代のほうが「いい」あるいは「進んでいる」と思うのが「進歩史観」です。進歩と進化は違う、という人がいます。「社会ダーウィニズム」は間違っている、ダーウィンはそんな事は言っていないと。そうかも知れません。進化(evolution)の意味は、ここでは書きません。イヌや猫やサルより人間のほうが「進んでいる」、あるいは「優秀だ」という感覚を持っている人は多いと思います。「人間中心主義」です。親の時代より、自分の時代のほうが「進んでいる」と思う人も多いでしょう。「進歩史観」です。親の時代には、ケータイもパソコンもコンビニもありませんでした。今は「便利」で「いい」社会なのでしょうか。逆に言うと、昔は「不便」で「悪い」社会でしょうか。

これは、ひとによってまちまちなので一概には言えません。たとえば、新しいiPhoneが出たら欲しくなる人もいるし、5Gが使えるようになったら使っている(使えている)ケータイを買い換える人もいるでしょう。クラシック音楽よりテクノミュージックのほうがいいという人もいるし、そうじゃない人もいます。推しのアイドルが新曲を出したら聞きたいと思うし、新しく出た写真集は買いたいと思う人もいます。古い電化製品が壊れたとき、「直す」より「買い換える」事を考える人も多いでしょう。新しいほうが「性能がいい」と思って。直そうと思っても部品がなかったり、直す技術を持っている人が減っていることもありますが、製品そのものが「直す」ことを前提に作られていません。人間が作ったものでなければ、人間には直せません。工場が機械化されると、人間が直す事ができるようなそんな「非効率な」「不経済な」設計はされないのです。その結果、「(使った)物」は「直して使う」のではなく、使えなくなったら(使わなくなったら)「捨てる」ことが当たり前になってきています。

ひと(他人)のことを言っているのではありません。私自身のことを言っているのです。いまもテレビで「新しい」ドラマを観ていました。情報番組では、新しいスイーツを紹介していました。食べてみたくなりました。コマーシャルでは、「洗浄力アップ。新しい〜」「新発売のゲーム」・・・と宣伝しています。どれもこれも「新しい」のです。「感染者が過去最多」「記録的な豪雨」「世界新記録」・・・。

「過去は克服」されたのかもしれません。それは「今日」「いま」も「克服されるべきもの」としてあるということです。

満足できない社会

主観性は己に自足できない原理であります。主観性はそのままで己に自足できるような原理ではないのであって、わたしたちはここに主観性原理の失楽園性格、その祝福のなさを見ると言わねばなりません。これを言い換えれば、主観性は己によって生じた空白に苦悩せざるをえない原理なのであります。主観性が己を主張するとき、そこには必ず空白が生じます。その結果、主観性は己を弁明しつづけねばならなくなります。己の正しさ、さらには己自身を弁明しつづけねばならないという点に、主観性原理の宿業性があります。特に自己意識(自覚)にいたった主観性はこの宿業性をもろにわが身に引き受けざるをえないのであって、西洋近代の哲学は総じて主観性のこの宿業性の哲学的表現でしかなかったといって過言でないのではないでしょうか。(別冊、P.25)

私の本棚には読んでいない本がたくさんあります。買うときは(もらってくるときも)「読みたい」と思っているのですが、なんか手に入っただけで安心しちゃって。で、次の瞬間には「新しく欲しい本」が現れてしまいます。パソコンのハードディスクにもどんどん(未処理の)データが溜まっていきます。ハードディスクを買い足してきましたが、残された人生では「絶対に」処理できません。

「いま」「現在」に満足できないのです。もちろん、自分自身にも、です(それを「向上心」と呼ぶ人もいますが)。「存在(存在者)」がどんどん増えると、それだけ自分(人間)が小さくなっていきます。

対象的追求は個別化、細分化、精密化を結果せずにいないからであります。理念化、先鋭化、個別化、精密化、細分化が対象化的学知(科学)の本性に根ざす傾向性なのであります。(別冊、P.8)

専門化が進み、学問はどんどん細分化されています。「横断的学問」とか「学際的研究」とか言われます。気持ちはわかります。でも、だれもそんな事が可能だとは思っていません。「すべてを知る」ことが可能だと思っている人は「常識人」だとは言われないでしょう。でも、今の自分には満足できない、いや、満足してはいけないのです。不満足である「べき」なのです。

「無知の知」(ソクラテス)は「足るを知る(知足)」(『老子』第33章、世界の名著P.107)とはまったく違います。正反対と言ってもいいでしょう。

ソクラテスこそギリシア哲学を主観性の哲学に転換し、そのことによって西洋哲学を主観生の哲学と化したその張本人なのであります。(Ⅱ、P.5)

と、著者は言い切ります。

社会主義は世界を告発し、世界を非難することしか知りません。そこでは当然生は収縮せざるをえず、その結果社会の萎縮と無責任が世にはびこることになります。(別冊、P.27)

後期近代世界はなお依然として「正しさ」という観念に呪縛された社会でありつづけているのであって、「人権」、「差別」、「ハラスメント」、「禁煙」、「コンプライアンス」、「説明責任」、「フェミニズム」などに見られる近代社会の告発的性格とヒステリー性に気づかぬ人がありましょうか。あれら非難の諸カテゴリーはいずれも社会主義イデオロギーの変容形であって、主観性の告発的性格に発しています。後期近代社会を広く蔽うあれらの諸現象にわたしは見紛いようもなく主観性の救い難い本性を見るものであります。これらの非難の諸カテゴリーで呪縛された後期近代社会は総じて主観性がヒステリー化した社会であるといって過言でないのではないでしょうか。(別冊、P.27-28)

著者が社会主義のことをどのくらい知っているのか、喫煙者なのかどうかすら私は知りません。喫煙者であり、コミュニストを自称している私には、にわかには納得しづらいこともあります。でも、ここで「社会主義イデオロギー」と言われている状況は、まさに今の日本です。これらの言葉を聞かない日はありません。SNSでの非難・告発の応酬、それが「匿名性」という無責任な立場で行われています。「告発」は主観性に基づきます。それは、自己の不満足の告発、自足できない主観性(自己、自我)の悲痛なる叫びであると私は思います。

特に今日の後期近代世界は主観性が個的主観性としても立ち上がり、この事態を極限にまで昂じさせました。結果は荒廃の広汎な進行であり、ニヒリズムの世界的規模での浸透であります。存在から切れたところ、そこは荒廃の支配するところとならざるをえないからであり、存在が失われたところ、そこにあるのはニヒル以外のものでないからです。(別冊、P.41)

「個人たるべく」生きてきた私の「すべてのもの」が崩れ去ろうとしています。それは、歳をとったせいかもしれません。将来を考えることができなくなり、昨日より今日のほうが「いい」と思える日はありません。完全な「老人的うつ」状態です。

新型コロナウィルスのニュースのせいかもしれません。ボーヴォワールの『老い』のせいかもしれません。まあ、「原因と結果」「因果関係」というのも、いまは「問い」の中にありますが。

私が若いことから目指しながら「疑問を持っていたもの」「納得できなかったもの」の正体は、どうやらこの「主観性」だったようです。

実は死のみが本当の優しさを現出させうるのであります。と言うのも、それのみが主観性を破壊しうるからです。主観性の枠内で語られる「優しさ」や「愛」が真にわたしたちを納得させることはありません。近代の諸思想や政治的スローガンにおいて語られる「愛」や「人権」、「平等」や「命の尊さ」、「共生」などといったタームはたいていそのようなものであって、それらはむしろわたしたちに苛立ちと反撥の気持ちを起こさずにはいないものがあります。あれら押しつけがましい諸タームをめぐって社会に蔓延している苛立ちとシラケに気づかぬ人がありましょうか。(別冊、P.77-78)

むしろ真の優しさは主観性が破壊されるところにのみ現出しうるのであって、優しさもまた本来は自然的概念であり、対称的概念ではないのであります。(P.78)

私は、「我を忘れるような愛」「無私の優しさ」を持つことはできませんでした。それらを望んでいても、自分の中では「なにかわざとらしいもの」を感じていたのです。本当に人を愛することができない、とも感じていました。「ボランティア」や「同情」によって「優越感」を感じることを拒否してきました。それらはどこか「うそっぽい」感じがしたし、思い込みでもそうできる人が羨ましいとも思っていました。「愛する」ことが「愛しなくてはならない」になり、「優しさ」が「優しくなければならない」と私には映ってしまうのです。どうやらそれは、強すぎる「主観性」が原因のようです。どうにかそれから逃げ出したいと思いますが、「主観性は一旦植え付けられるや、それを根絶することはもはや不可能なのであります」(前出)と著者に言い切られると、そうなんだろうなあ、とも思います。でも、「諦められない」というのが今の実感です。かといって、宗教に近づく気はまったくありません。そこにしか「救い」はないのかもしれませんが。エポケー(判断中止)も私にはむずかしいです。

実は、他所でも述べましたが、存在は否定性であって、主観性が己の前に対象として引き立てることのできるようなものではないのであります。対象は存在者であり、肯定的定立であります。存在は肯定的定立とはなりえません。したがって対象とはなりえません。(別冊、P.28)

「・・・は・・・である」と肯定的に考察の対象とした途端に「存在(自然、ピュシス)」は隠れてしまいます(「存在者」になってしまいます)。そこに見えるのは反省(反射あるいは投影)された「私(主観性)」でしかありません。それが「我(ego)思う故に我あり」であり、〈我(エゴ)〉だけではなく「すべてがある」ということなのです。

ソクラテスは、判断することもなく、判断を保留することもなく、問い続けた。そのことに「正誤」はない。しかし、それを「書いて」しまったプラトンは、ソクラテスを台無しにしてしまった。ソクラテスを「存在者」にしてしまった。ソクラテスの「問い」は文字にされることによって、客観的存在となり、ソクラテスを主観にしてしまった。たぶん、イエスについても、ブッダについてもそうなんだと思う。

ですから、否定的にしか語ることができないのです。それなら可能なような気がします。

私は最近、何にでもケチを付けたくなります。ぐちも多くなりました。私がきらいだった「口うるさいおじさん(おじいさん)」になりつつあります。それはそれで「正しいあり方」なのかもしれません。







[著者等]

日下部/吉信
1946年京都府に生まれる。1975年立命館大学大学院文学研究科博士課程修了、博士(文学)。1987‐1988年、1996‐1997年ケルン大学トマス研究所客員研究員。2006‐2007年オックスフォード大学オリエル・カレッジ客員研究員。立命館大学文学部助教授、教授を経て、特任教授


西洋近代世界のルーツを知る。簡潔かつ平明なギリシア哲学史入門講義。


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