対話する人間 河合隼雄著 1992/06/30 潮出版社

図書館リサイクル

もらった本です。1992年ですから、ちょうど30年前に出版された本です。図書館からもらったのは10年くらい前でしょうか。

短いエッセイを集めたものです。一般向けに書いたものですから、難しい内容はありません。身近な話題をあるときは心理学者らしく、あるときは昭和のお父さんらしく(笑)、語っています。

そう言われると、「そうだなあ」と思うことばかりで、とても楽しく、面白く読みました。

著者のことは、もちろん昔から知っていましたが、著作を読むようになったのは最近です。それまではサル学者(霊長類学者)の河合雅雄氏との区別がつかない程度でした。(汗)

著者の講演のYoutube(音声のみ)が凄く面白かったのです。関西弁なので、聞きにくいところもありましたが、「京大は面白い人が多いなあ」と思ったのです。河合雅雄氏も面白い人ですし、阿辻哲次氏もユニークな人です(それに比べると、東大は真面目すぎて面白くない人が多い気がします)。そのユニークさ、面白さは関西人特有なものだと感じるし、独特の発想も生まれるのでしょう。この本も、そのユーモアと科学性が同居しているような面白さがあります。

心と身体

著者は心理学者ですし、今は心理学は学問として研究されています。私の記憶する限り日本では、心理学は錬金術と同様な「非科学的」なものとして捉えられていましたが、フロイトの紹介で「科学」として捉えられようになったものの、その一部が医療(精神科)として捉えられる一方、多くの部分は「非医療」のままのような気がします。私の街や、周りの街には「精神分析」を行う医師はいないと思います。著者はに日本臨床心理士資格認定協会の設立に尽力しました。日本では医療はあくまでも「物質としてのからだ(身体)」を対象にするもので、「物質ではない心」は医療の対象とはなりにくいのです。

人間存在を心と身体とに分ける。そして、心のはたらきのなかでも、その知的側面が重視されてきたところに、近代の特徴がある。近代の心は自然科学を生み出し、多くのことを可能にしてきた。そのため、人間の知的機能についての評価が極めて高くなってきた。このこと自体は別にどうということもないのだが、ものごとは何でも行きすぎると困ってしまう。

それに知的なコントロールによって、人間の身体の暴発を防ぐというイメージが妙に汎化されると、人間社会においても管理がゆきとどいてしまって、画一的なパターンに誰もがはめこまれていって、例外的な動き(実はそれが創造につながることもあるのだが)が許されなくなる。(P.72)

「どういうこともない」というところが著者らしいと思うのですが、私はそれこそが原因だと思います。その分離が「何でも行きすぎる」原因だからです。

心(主観)と身体(客観)を分けて考えるのが西欧近代の思考法です。それが観察者(私、心)と観察対象(客観)との西洋科学の基本理念です。科学は客観的でなければいけないのです。心は人ごとに違います。他人がどう感じ、何を考えるのかは知ることができません。「直角三角形」(というイデア)は誰にでも同じです。でも、同じ花を見て「同じく感じている」かどうかはわかりません。色覚障害(と言われている)の人には、花と葉っぱが同じ色に見えているかもしれません。

われわれが人に伝える手段とするものは言葉であるが、言葉はそれが表現する対象とは異なる。したがってわれわれが伝えるものは言葉であって、その対象ではない。どうしてわれわれは言葉(音)によって色を伝えることができるであろうか。われわれの耳は言葉(音)を聞くが、色を聞くことはできないからである。また言葉や徴表によって作り出される表象がすべての人において同じであるという保証はどこにもない。それゆえわれわれは、たとえ認識したとしても、それを人に伝えることはできない(セクストス・エンペイリコス『諸学者論駁』Ⅶ 65-87より)。(『初期ギリシア哲学講義・8講』日下部吉信著、晃洋書房、P.148-149)

これはソピストとして知られるゴルギアスの言葉です。不可知論、懐疑論、ニヒリズムにもつながるような発想です。プラトンのイデア論と真っ向から対立するような発想ですが、これは存在論としてずっと西洋で問われてきたものです。

これは解決できない問いです。なぜなら「対象」として存在を考えることそのものが、主観を持つことに由来しているからです。主観(私)として存在(他者、対象)に向かうと、その存在は「わかり得ないもの」とならざるをえません。「自分(主観)とはなにか」だってわからないじゃないですか。自分(主観)について考えるというのは、自分(主観)を思考の「対象」にすることだからです。考えれば考えるほど深みにハマります。だから、どこかで「こんなものだろう」と諦める(「我思う故に我あり」)か、どこまでも細分化して深く考えるかどちらかです。

個性

主観(自我)にこだわる西洋は、「個人」にこだわります。個人は、個性を持って自立している理性的な人間です。主観は自立していなければなりません。なぜなら他者はわかり得ず、主観は何ものにも頼ることがない(individualな)存在だからです。何かに付属しているような存在は主観ではないのです。もし女性が自立していなければ、それは主観ではなく、個人ではありません。つまり、人間ではないのです。人権もありません。子どもも自立していないので人間ではありません。だから、西洋では子供の躾が厳しいのではないでしょうか。自立させるべく親は厳しく子どもを教育します。そのかわり、一人前になったときには全面的に人間として尊重します。親子という関係は人間同士の関係に変化します。いい人間か、悪い人間かよりも、自立しているか、していないかのほうが問題なのです(だから、社会福祉が批判されたりします。たぶんこれはルネサンス以降、近代以降のことだと思います)。著者は、

適切に依存し、依存の自覚と感謝のある人こそ自立していると考える。ただやたらに他と離れるのは、孤立であって自立ではない。(P.26)

と言います。これは西洋的な自立とはまったくちがう考え方です。

もうひとつ人間である条件は、主観がそれを人間だと認識できるということです。人間だというのはどうしたらわかるのでしょうか。それは「理性(ratio、λόγος)」をもっているということです。理性をもっているというのは、最低でも話が通じるということです。理解できない言葉を話す者は人間とは認識できません。次には「論理(logical、λόγος)的」であるということです。論理的で言葉が通じれば、それは生きているかどうか、人間の姿かたちをしているかどうかに関わりなく人間です。チンパンジーが言葉を持っているかが問題になります。オウムが論理的かどうかが問題になります。ロボット(AI)は論理的で、最近は会話もできます。AIは人間でしょうか。

わかり得ない他者は、自分とはちがう存在です。自分と同じものは自分以外にありえません(自己同一性)。リンゴとミカンが違うように、私とあなたは違うのです。それが「個性」です。「人間存在を心と身体とに分け」たように、

個人(individual)ということはいくら分割していったも分割し得ない最終単位という考えが、その英語の単語から察せられる。そして、それはものごとを「分割」すること、「区別」することに重きをおく姿勢に支えられている。(P.268)

近代科学の方法は、まず、観察者と現象を「切断」することを前提としているので、そこからは、「関係性」というものが失われる。人間が物に対してそれを操作するときにはそれでもいいだろうが、人間が人間に対するとき「関係性」の失われたところで、どういうことが行われるのであろうか。(P.239)

こう考えると、個性というものの本質、その意味について相当な思索が必要と思われる。ましてや、自由な競争によってこそ個性が磨かれる、という西洋近代に通用したモデルを二十一世紀の教育を考える場でふりまわしてみても、それはあまり実のあるものになるとは考えられないのである。(P.270)

キリスト教、愛

主観は独立していなければなりませんが、主観以外のものは主観を成り立たせる限りにおいて、そのためにだけ存在します。あくまでも大切なのは主観(ego)なのです。木も草も山も川も、水も空気も、豚も牛も、他の人間も、主観(人間)を成り立たせる限りにおいて意味を持ちます。豚や牛は人間が食べるために存在しますから、殺して食べます。山も川も、人間のためにあるのですから、もっと役立つために崩したり、流れを変えたりします。ただ、人間(と認めたもの)だけは殺して食べることができません。では、協調(共生)すればいいのですが、それも主観が邪魔をします。主観はそれだけで自立していなければならないからです。他の主観を認めるのも、主観を成り立たせる限りにおいてだからです。他の主観に依存することは主観が許しません。「万人の万人に対する闘争」(ホッブス)が始まります。

豚や牛の上に、人間は存在します。でも人間同士に上下(優劣)はつけられません。ですから、人間同士は平等だと言わなければなりません。ただし、「神の御前においては」。人間(主観)は最高の存在なのですが、それはその上に「対象(存在)ではないもの」を置くことによって「存在の中の最高の存在」として平等であることができるのです。神を思考の対象(存在)にしてはならないのです。「神を問うてはならない」し「信じる者は(のみが)救われる」のです。

そして、人間同士の関係は「(神の御意志としての)愛」あるいは「隣人愛」でなければいけません。

私は、「我を忘れるような愛」「無私の優しさ」を持つことはできませんでした。それらを望んでいても、自分の中では「なにかわざとらしいもの」を感じていたのです。「ボランティア」や「同情」によって「優越感」を感じることを拒否してきました。それらはどこか「うそっぽい」感じがしたし、思い込みでもそうできる人が羨ましいとも思っていました。「愛する」ことが「愛しなくてはならない」になり、「優しさ」が「優しくなければならない」と私には映ってしまうのです。

主観性の枠内で語られる「優しさ」や「愛」が真にわたしたちを納得させることはありません。近代の諸思想や政治的スローガンにおいて語られる「愛」や「人権」、「平等」や「命の尊さ」、「共生」などといったタームはたいていそのようなものであって、それらはむしろわたしたちに苛立ちと反撥の気持ちを起こさずにはいないものがあります。あれら押しつけがましい諸タームをめぐって社会に蔓延している苛立ちとシラケに気づかぬ人がありましょうか。(『講演集 ハイデガーと西洋形而上学』日下部吉信著、晃洋書房、P.77-78)

私の愛を阻害していたのは、社会でも、親でも、女性でもなく「私自身(主観)」なのでした(笑)。

「対話」のヒント

わが国は西洋の文化を急速に取り入れ、成功したかの如く見える。しかし、果たしてそうだろうか。極端なことを言う人は、西洋の「物質文明」などと言う人がいるが、これはまったく馬鹿げている。西洋の文化を支えるためにキリスト教の精神がどれほど大きい役割を果たしたかを、われわれを知るべきである。といって、日本人がキリスト教徒になることをすすめているのではない。これほどのすさまじい文化的な変化に見合う、心の在り方という点で、われわれはもっと深刻に考え、悩むべきだと言いたいのである。それを通じてこそ新しい文化状況にふさわしい心の在り方も見いだされてくるのではないだろうか。(P.219-220)

でも、著者は科学者です。私は著者の本を数冊しか読んだことがないので、著者の主観(アイデンティティ)をどう思っていたのかはわかりません。

物か心かと二者択一的に考え、心を取って物を捨てる式の「心の時代」ではなく、物も心もどちらも大切であるが、物のほうが目に見え過ぎるので、目に見えない方を強調するために「心の時代」というのだ、と考える方がはるかに妥当であろう。そうでないと「心の時代」というキャッチュフレーズのもとに、復古主義や、硬直した保守主義がのさばり出してくることになる。(P.215-216)

著者は「たましい」という言葉を使います。「魂」や「霊」ではありません。その意味を私が理解しているつもりはありません。それを文章(言葉)で表現することもできません。それは神話や昔話やファンタジーや宗教的なものではありません。それらに現れているけど、それらを超えたもの、存在(存在者)としてではなく、主観と客観が分離する以前のもの、存在そのものなのではないかと思います。

著者は文化人類学についてこう言っています。

観察者が現象の外に立ってみた「普遍的」事実は、ただ変わった事実のみが明らかになっただけであった。それに対して、一人の研究者が、自分の存在をそこに投げ入れ、その「個性」を通じて見出してきたことは、立派に「普遍的な」意味をもってきたのである。個を除外して得る普遍性と、個を通じて得られる普遍性という考えをもってくると、後者の場合は「人間知」につながることが多いことに気づかれるであろう。(P.241)

あくまでも「知(学知、科学)」の立場にたった記述ではありますが、自分(主観)を対象の中に投げ入れることが書いてあります。

主観性を持ってしまった私(人類?)は主観(エゴ)を捨てられません。捨てられない〈私〉をもったまま、それを「対象に投げ入れる」ことができないかと、今、私はもがいています。







[著者等]

河合隼雄 (1928-2007)兵庫県生れ。京大理学部卒。京大教授。

日本のユング派心理学の第一人者であり、臨床心理学者。文化功労者。文化庁長官を務める。独自の視点から日本の文化や社会、日本人の精神構造を考察し続け、物語世界にも造詣が深かった。著書は『昔話と日本人の心』(大佛次郎賞)『明恵 夢を生きる』(新潮学芸賞)『こころの処方箋』『猫だましい』『大人の友情』『心の扉を開く』『縦糸横糸』『泣き虫ハァちゃん』など多数。


中学生から大人まで、こころの宇宙を読み解く対話の処方箋。

人が自分の人生を創造するとき、悩み、迷いながらさまざまな問題に立ち向かうとき、どうしても必要なものに「対話」がある。本書は、家族関係など人間関係の問題、生きがいや老いなど生き方や心の問題に直面したときに、まさに「対話」ができる1冊である。親と子、男と女、日本人と外国人、病と癒し、夢と現実などなど、ここには、魂にとどく対話がいたるところに盛りこまれている。


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