仕事と日 ヘーシオドスἩσίοδος著 松平千秋訳 1986/05/16 岩波文庫

仕事と日 ヘーシオドスἩσίοδος著 松平千秋訳 1986/05/16 岩波文庫

読みやすい

ヤフオクで購入。200円+送料185円。別の本を探していて、たまたま見つけたので買ったのですが、もっと安く買えたかも。

とても読みやすいです。一行が短くて、行間も広い。現代仮名遣いですが、(叙事)詩の格調高さもある名訳です。届いたその日に読んでしまいました。

ニートの家族?

ニートというか、働かずに親から引き継いだ財産を使い果たしてしまった弟がまた無心(強請)に来て、その弟と訴訟になっていたヘーシオドスが弟に向けて書いた人生訓です。私は、貧しい農民が日々の労働の辛さを書いたものだと思っていたので意外でした。

書かれたのは紀元前700年頃です。そんな時代から財産争いで訴訟が行われていたのですね。ヘーシオドスの父親は貿易事業に失敗してギリシャ本土に移り住んだということです。農業を営み、その死後にその土地について裁判になりました。

裁判になるほどの土地をもっていたこと、裁判を起こすほどの教養を身に着けていた(というか、字を書けた)のですから、「貧農」ではないですね。「使役人を持て」と言っています。男と女と。男は「四十歳の頑健な」(P.63)「世帯を持たぬ男を一人」(P.80)、女は「子のない女の働き手を一人」。なぜなら、「子持ちの女は世話がやける」(P.80)(笑)。つまり、兄も弟も使用人を二人以上持てる身分なのです。牛も農機具も自前で持て、と言っています。

当時ギリシアでは市民でなければ奴隷を持てなかったはずだし、訴訟を起こしたということは「市民」だったのだと思います。ギリシアに流れてきた父親はどうやって市民になったのでしょうか。

女性は諸悪の根原?

(『神統記』では)それをまたプロメーテウスが盗んで人間に与えたために、ゼウスはその罰として「女」を創造して人間(男)を悩ますことになる。(P.148)

(ゼウス)わしは火盗みの罰として、人間どもに一つの災厄を与えてやる。

人間どもはみな、おのれの災厄を抱き慈しみつつ、喜び楽しむことであろうぞ。(P.18)

これを男尊女卑だという人もいるでしょう。そうならば、ギリシアあるいは西欧では文献が残っている最古の時から、男性中心社会だったということになります。時代は下りますが、それに反するようなアリストパネスの『女の平和』は有名です。私はどちらも、近代人の感覚で判断してはいけないと思っています。

ヘーシオドスは女性について、ゼウスは

(ヘーパイストスに命じて)その顔は不死なる女神に似せて、

麗しくも愛らしい乙女の姿を造らせた。

またアテーネーには、さまざまな技芸と、精妙な布を織る術を教えよと、

黄金のアプロディーテーには、乙女の頭に

魅惑の色気を漂わせ、悩ましい思慕の思いと、四肢を蝕む恋の苦しみを注ぎかけよと、

また神々の使者、アルゴス殺しのヘルメイエースには、

犬の心と不実の性(さが)を植え付けよ、とお命じなされた。(P.18-19)

私はヘーシオドスの女性に対する切ない思い(想い)を感じます。「麗しくも愛らしい」女性に勝てるわけがないのです。なにせ、神が造り給うたものなのですから。これは事実上の敗北宣言です。

でも、ヘーシオドスは女性と分かり合うことができません。弟ですら分かり会えないのです。そこでヘーシオドスは言います。

良妻に勝るもらいものはなく、

悪妻を凌ぐほどの恐るべき災厄もない、

食い意地がはり、いかに頑健な夫でも、

火も使わずに焼き焦がし、早々と老いこませてしまうような嫁のことじゃ。(P.91-92)

私の今の気持ちと同じです(笑)。ヘーシオドスの妻はどんな人だったのでしょうか。ソクラテスの妻は「悪妻」で有名ですが、ヘーシオドスも妻を悪妻だと思っていたのでしょうか。

女を信用するような男は、詐欺師をも信用する。(P.55)

あはは。

鉄の種族

かくなればわしはもう、第五の種族とともに生きたくはない、

むしろその前に死ぬか、その後に生まれたい、

今の世はすなわち鉄の種族の代なのじゃ。(P.32)

訴訟する身内(弟)、詐欺師、盗賊、そして女。ヘーシオドスの周りには心を許せる人がいなかったようです。

そして冬の寒さ、夏の暑さ、気まぐれで父を破産させた海。当時の地中海の自然はヘーシオドスにとって過酷だったようです。人間や自然の中で孤立するヘーシオドス。ある種、絶望の中にあったのかもしれません。

しかし、ヘーシオドスは神を信じ、厳しい自然の中で生きようとし、その術(すべ)を弟に、そして当時のギリシアの人々に伝えようとしました。そして、その目・術は自然に逆らおうというのではなく、その自然を「知る」ことに向けられていたように思います。「自然と共に」生きようという気持ちはあります。でも、そこに「生を楽しもう」という気持ちは伺えません。そこにはヘーシオドスの絶望感(諦め)や猜疑心、悲観主義的な性格(マイナス思考)があったと思います。そのマイナス思考と文才(詩を作る才能)がこの本を書かせたのでしょう。その思考に、私は東方(ヘブライズム、砂漠の思考)の影響を感じてしまいます。

厳しい自然や人間関係の中で生きる術、この著作の中には現代にも通じる重たい言葉が散らばっています。西欧において、これが読みつがれたことは西欧人の多くに共鳴することが多かったからに違いありません。でもヘーシオドスには土地もあり、使用人を複数雇う経済力もあり、また、ホーメーロスのような盲目であったわけでもありませんでした。使用人の女に機を織らせ、男に犁を引かせ、種を蒔かせるのです。ヘーシオドスが額に汗して農作業をするかように書かれていますが、彼が行う仕事は監督労働なのです。マネージメントです。農事暦はマネージメント術です。同じように、人生訓も人間のマネージメント術なのです。

その人生訓や農事暦を「勤労のすすめ」として単純に受け取るのはあまりにも危険だと私は思います。

ヘーシオドス(補論)

ギリシア語の母音の長短を示さぬことが、今日ではむしろ通例になっているが、本訳では音引きを用いた。語調を整えやすいこともその理由の一つである。(P.5)

これがこの訳書の格調高さになっているのですね。原書の詩としての美しさを伝えようとした気持ちがよく現れています。多分原書はギリシア語の吟遊詩人独特の韻を含む「うた」なのでしょう。ホメーロスの叙事詩のように「六脚律」なのでしょうか。その韻律に合わせるために、「掛詞」や「枕詞」、単語の言い換え等によって口頭で詩を作る技術が西洋にも東洋にもあります。日本の俳句や短歌もそうですね。それはその言語特有の「言葉の美しさ」です。そして、その背景には文化があって、その文化の中でのみ言葉は意味をなします。

文字と発音ということでいえば、ヘーシオドスは「ヘースィオドs」でしょうか。ゼウスも「ゼウs」でしょう。日本語で「箪笥(たんす)」は tansu でしょうか、tans でしょうか。「箪笥の中」は tan(g)s no naka に近いのではないでしょうか。「箪笥を開ける」は tansu o akeru に近いような気がします。関西と関東では違いがありそうですが。そのうち「箪笥を開ける」も tans o akeru (炭素開ける)になるのかもしれません。フランス語のリエゾンのように公的な会話やアナウンサーのみが「文字通り」に話をするようになるかも。tanso akeru と tans o akeru の違いは「音」ではなくて、アクセントやイントネーションなどの違いになります。

この「文字通り」というのがくせ者です。文字を知っていると、言葉を文字で解釈してしまいます。「しりつがっこう」の「しりつ」を解釈するときに、「私立?市立?」と文字を浮かべる人も多いでしょう。「わたくしりつ?いちりつ?」と聞き返すこともありますし、話の流れや自分の知識からどちらなのかがわかることもあります。

ローリング・ストーンズの「Satisfaction」を50年以上聽いていますが、「I can't get know」はいまだに「I can get know」に聞こえます。歌詞カードを見れば「can't」となっているので、そう思って聞くとなんとなく言っているような・・・。『空耳アワー』の世界です。英語が話せるわけではありませんが、「I don't know」を「ai donto no-」と言うより「ai don no」とか「ai dn(g) no」と言ったほうが通じるかもしれません。

なにが言いたいかというと、話し言葉を表したのが文字で、文字を話しているわけじゃないということです。ところが、話し言葉よりも文字が優先する文化が優勢になりつつあるということです。とくに表音文字は音価(音素)をそのまま表している、あるいは「表しているべきだ」と思われがちです。そして、それは「声」の代わりとなり、ことばの意味をそのまま持っている(全体性である)はずだという思い込みに繋がります。

紀元前700年頃に書かれたこの本は、紀元前からさまざまな注釈書が書かれています。この翻訳書の最後にも参考文献がいろいろ載っていますが、その多くは近年(19世紀以降)に書かれたものです。紀元前の注釈書と現代の注訳書、どちらが「正しい」あるいは「原書に忠実(原書の意に近い)」なのでしょうか。

しかし農事暦で語られる程度の知識は、怠惰で勤労の経験のないペルセースならしらず、一般の農民たちにはおそらく常識以上のものではなかったであろう。(P.187)

別の言葉で言えば「当たり前のことは本には書かない」のです。逆の言い方をすれば「本に書かれたことは、当時の常識ではない」と言えるかもしれません。みんなが当たり前だと思っていることは、書くまでもないし、書いても誰も読みません。私の平凡な(?)毎日をダラダラと書いても、私のこの文章と同様(!)誰も読まないでしょう。

繰り返しになりますが、言葉はそれが発せられた文化の中で(時間や状況を含めた環境の中で)のみ、その全体性、つまり「意味」をなします。その時間、状況、文化、アクセントやイントネーション、話し手(書き手)の知識や経験、聞き手(読み手)の知識や経験を離れた「文字」が、独立して意味を成すという錯覚をそろそろ捨ててもいいのではないでしょうか。

希望を悪の甕に置いたのは、首尾一貫せぬといわれればその通りであるが、伝説や昔話の類をすべて合理的に解さねばすまぬという態度は正しくない。(P.151)

そんな結論になるのかもしれません。

[著者等]松平千秋[wiki(JP)](まつだいら ちあき、1915年9月13日 - 2006年6月21日)は、日本の古代ギリシア文学者・西洋古典学者。
餓えをしのげるよう神々が我々に与えたもの、それが仕事すなわち農耕である。こうヘーシオドスは説き、人間が神ゼウスの正義を信じ労働に励まねばならぬことわりを、神話や格言を引きつつ物語る。古代ギリシアのこの教訓叙事詩からは、つらい現世を生き抜く詩人の肉声が伝わってくる。『ホメーロスとヘーシオドスの歌競べ』を付載。

[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003210727]

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