森林の思考・砂漠の思考 鈴木秀夫著 1978/03/20 NHKブックス

森林の思考・砂漠の思考 鈴木秀夫著 1978/03/20 NHKブックス

図書館のリサイクル本

最近、古い本ばかり読んでいます。お金がないこともありますが、終活として読んでない本を読もうかなと。(汗)

「森林の思考・砂漠の思考」という言葉は何度か聞いたことがありました。この考え方は著者から始まったんでしょうか。うまく記憶がたどれません。著者は、現在の砂漠や森林などから、その地方に住む人の発想(思考方法)を導くのではありません。地質学や気象学のデータをもとに、その発想の原点を探ります。

著者は「あとがき」で全体の要約を書いているので、ちょっと長いけど先にそれを引用してしまいます。

以上を要約してみよう。人間の思考方法は、森林的思考と砂漠的思考の二つに分けられること、それは、世界が「永遠」に続くと考えるか、「有限」であると考えるが、人間の論理にとってはどちらか一つに分かれることに根ざしているから、その二つにしか分けられないことを述べた。具体的には、森林的とは視点が地上の一角にあって、「下から」上を見る姿勢であり、砂漠的とは「上から」下をみる鳥の眼を持つことであった。「見とおしの悪さ」「見とおしのよさ」という対比でもある。「慎重」と「決断」の対比でもある。「専門家的態度」と「総合家的態度」の形容でもある。

そして、その森林的思考、砂漠的思考は、かならずしも森林に住むか砂漠に住むかによって分かれるのではなく、森林的思想ーー具体的にはたとえば仏教ーーのなかに育ったか、砂漠的思想ーー具体的にはたとえばキリスト教ーーのなかに育ったかということによるもので、好んで使われた図式、自然->生産関係->人間、すなわち自然は生産関係という中間項を媒介として人間に働きかけるという図式にならっていえば、自然->思考様式->人間、すなわち、自然によって生まれた思考様式をうけ継ぐことによって人間が自然にかかわっている、ということもできるであろう。しかも、思想は、それ自身の論理の力によって動くから、かならずしも現在の自然環境と対応して、森林的思考と砂漠的思考が存在しているのではない。むしろ、その起原は、五〇〇〇年前の乾燥化によって一神教が確立された時にある。(P.215-216)

反証と反論

データで示された「関係の主張」には「反証の余地がとざされてい」ます。

すなわち、分布図上の一致によって提示された関係の主張には反証の余地がとざされている。反論はできるが反証はできない。そうなると、右に使ってきた「関係」ということは何を意味するのか。分布が一致しているのだから相関関係は認めるが、因果関係までは認めることができないというようなことになるのかも知れない。因果関係と相関関係との関係に関する議論は同書でおこなってあるが、結論をいえば、因果関係は実在すると思うが、証明はできない。ただわれわれは相関関係を知ることができるだけであると思う。相関関係の提示によって、因果関係の存在を認めるか否かは、個々の決断の問題である。(P.194-195)

もちろん、そのデータを信じた上でのことですが。

著者は「相関関係」は「知ることができる」けど、「因果関係」は「証明」できない、と言います。その「知ること」、或るいは著者は明確に言っていないけど「証明すること」も「論理的」なことです。

あるものがあるものよりも勝るという人間の持つ論理の進展によって、人間は、多神から主神へ、主神から唯一神へと概念を発展させていったが、その唯一神が、万物を動かし、したがって万物を超越するものであるという認識が高まるにつれ、その万物のうちの一つである人間が、その超越者を直接的には理解し得るものではないという論理がさらに働くようになる。(P.80)

一神教は多神教よりも論理的であるから、イスラエルでの一神教の成立は、インドの多神教に衝撃を与えずにはいなかった。(P.106)

「論理とは何か」について、著者ははっきりとは述べていません。私が察するに、著者にとって「論理」は「人間的思考」とほぼ同じな自明的なものなのでしょう。

論理的(合理的)

そして、その論理は「発展するもの」らしい。つまり、一方方向に時間(歴史)は流れるということですが、それこそが「砂漠の思考」です。

五十年百年前より今の人間のほうが「論理的に発展」しているとは、日本人はあまり考えないのではないでしょうか。そして同時に「技術は発展しているが」と考えるわけです。矛盾しています。

「進歩」の思想をいだきながら、「天地創造」を受け入れないのは矛盾の例であるが、上からみる視点と下からみる視点とをあわせ持つことは矛盾ではない。(P.216)

矛盾ではなくても、「アンビバレント」ですね。

私は「論理」(ロジック、ロゴス)は「ことば」だと思っています。古典ギリシアにおいて「ロゴス」は「論理」や「真理」「ことば」の意味を持っていたと思いますが、それとは別に「プシュケー」がありました。プシュケーは「息」という意味で、それが「生命」や「魂」という意味を持っていて、「ロゴス」とは別なものだと考えられていたようです。ヘブライ(砂漠)の思想がギリシアに流れ込み、その二つがラテン語でいう「エゴ」に近づきました。そういう意味では、魂は自己であり、それは言葉にとなって「息」とともに表に現れます。だから、「自己は真実」なのです。それはそのまま近代まで引き継がれます。古代インドにおいて「我」(アートマン、これも語源は「息」)という考えが出てきたときには、著者のいう通り「砂漠の思考」の影響がすでにあったのかもしれません。でも、それが「ことば」や「真実」という意味を帯びたということは、私は知りません。「我」が「魂」と結びついたとは思いますが、「エゴ」ではないと思います。また、「言霊」という言葉があるので、ことばと魂は結びついていたかもしれません。でも、言葉が真実と同一視されたり、我と真実が結びついたりはしなかったのではないでしょうか。むしろ、著者の言うように

日本の宗教のなかで圧倒的に優勢であったのは、真言密教であるといわれる。真言とは口に唱える仏の言葉のことであり、密教とは秘密の教えであって、秘密というのは、日常的な約束にもとづく行動・思索ではなく、超越的な価値の世界から直接発動される行動に生きることで、その世界に生きていないものにとっては、秘されているということである。(P.108)

ここでいう秘密というのは、日本においては「秘すれば花なり」(世阿弥『風姿花伝』14世紀)というときの秘密です。語らないのです。語ることが出来ないのです。ヘブライでは絵にすることは出来ないと言われながら、なんと多く語っていることか。「はじめに言葉(ロゴス)ありき」ですから。今では日本でも「隠し事」は「悪いこと」とされているところがありますが、「真実」があったとしても、「我(エゴ)」があったとしても、それは語り得ないし、ある意味で語らないこと、秘す(かくす)ことが日本的なのだと思います。

能の舞にしても自転車に乗ることにしても、言葉で伝えることは出来ないにもかかわらず、言葉にすることによって「わかった」気になっているのが砂漠の思考だと思います。

真実

砂漠の縁辺で生まれたこの概念は、いうまでもなく、天地万物が神によって創られたという信念であるが、科学者自身も、その天地万物のきわめて微小な一部分であり、したがって、天地万物の総体について、それを創った神について、完全な認識を持つことはあり得ないと考える。「われわれには、物事がこうみえる」としかいいようがない。だからこそ、かえってなんの遠慮もいらず、大胆な、大仮説、大理論を展開することができ、そのうちあるものは、事実とよく一致することによって、大発見となる。(P.26)

後章でも述べるように、森林の民にとっては、自我が宇宙の中心であり、本質であり、仏教はその思考の発展の上に形成されたものであるから、その思想的風土の中にある科学者にとっては、真理とはつかむことのできるもの、探求し得るものと考えることは自然である。(P.27)

ソクラテスも「神の考えを知ることはできない」と言っています。ここでいわれている「われわれ」がよくわからけど、「私にはこう見える、私はこう考える」という時には、明確な「自我(エゴ)」があると思います。「真実はわからない・知ることがきないんだけど、こう見える」というのは、冒頭に書いた「反論・反証」のことです。

森林の民は、自分が宇宙の中心なのであるから、物事の説明、証明は本質的に可能であると思い、こつこつと事実を積み上げていくが、片々たる砂漠の民は一人の人間の存在すら証明することは出来ず、ただその存在を信ずるだけであると考え、また、積み上げによって事実が明らかになるのを座して待っていることはできず、与えられた少数のデータからだけでも全体を判断し、行動に移ることになる。(P.92-93)

著者はとても「論理的」です。事実を提示し(これは反証できない)そこから論理的に推論します(これは反論可能)。「真実はこれだ」というのではなく、「事実から私はこう思う」と言えばいいので、とても大胆に論理を展開することができます。

ただ、その「論理そのもの」はとても砂漠的だと私は思うのです。論理は「言葉(ロゴス)」です。つまり「インド=ヨーロッパ語」です。それがヘブライとインドで別々の性格を得たのです。そこに「砂漠的・森林的」な風土の影響があったとは思います。しかし、それは「印欧語以外」の言葉を話しているところとは全く異なると思います。

砂漠化と文字化

森林の思考が分析的だというのは納得ができません。部分を考えて、例えば「犬の足」「犬の首」「犬のしっぽ」・・・を調べることによって「犬」がわかるなどというのは、近代以前の日本人には無縁な気がします。分析的思考によって西洋近代の学問(知)は細分化されていきました。個々の個人(学者)はどんどん「部分」となります。学問(知あるいは科学)は「豊か」になっていったとしても、個々人はどんどん小さくなります。芥子粒である個人はどんどん小さくなるのです。それが一定程度を超えたとき、全体を把握できる個人はいなくなります。社会としては全体となるかもしれませんが、そこで大切なのはあくまでも個人(自己)なのが西欧の「自我(エゴ)」です。

小さくなった「自我」はいつも自分に不足(不満)を感じています。だからこそ「こう見える」ということを「主張(話す)」し続けなければならないし、「もっと知りたい」「もっと知らなくてはならない」と思いつづけます。「完全な認識」を持つことができないと考えながら、完全を求めつづけます。著者は西洋の近代科学が「究極の真実」を探求していないというのでしょうか。

自分や周りの対象を「分析」すること、つまり分割して分類することは「全体」を「部分の集合」にします。たとえば「人間は細胞の集合」「机は木材の集合」というように。でも、「細胞の集合が(は)人間」「木材の集合が(は)机」ではありません。そこで、「木材の集合を机足らしめているもの」を考えざるを得ません。それが「設計図」であり「ゲシュタルト」であり「形相」であり「イデア」です。「細胞の集合を人間足らしめているもの」は「魂」です。

これは、存在している物(ハイデガーの言葉で言えば「存在者」)を対象として、つまり自分(主体)とは別のものとして考える時に必然的に生じるものです。これが「分析的思考」です。分析の主体と、分析対象を設定するのです。

分解して分類していくと(それが「知」ですが)対象はどんどん増えていきます。それは「記憶」の容量をすぐに超えてしまいます。それを可能にするものは「記憶の外側に存在者を定在させること」、つまり「外化(外在化)させること」(サルトルの言葉で言えば「投企」)です。具体的にいえば、記憶を「目に見える・触る」ことができる物にすること、つまり「文字(データ)として書き残すこと」です。記憶の文化が「口承文化」ならば、書き残す文化は「文字文化」に対応します。

文字で残される「知」は記憶と違ってどんどん増えていくことが可能です。その知は対象(存在者)を求めて増え続けるのですが、存在そのもの(全体)からはどんどん離れていきます(そこに生まれるのが「ルサンチマン」や「ニヒリズム」です)。主体である自分(我)は、客体(対象、他者、汝)を知れば知るほどそれから離れて「芥子粒」のようにどんどん小さくなっていくのです。

記録

今、「世界卓球」と「世界バレー」が行われています。私は運動音痴なので、スポーツにはほとんど興味がないのですが、卓球女子と、女子バレーと、女子サッカーはテレビ放送があれば観ます。それと陸上短距離は男子を観ます。卓球やバレーボールは勝負です。私は「勝ち負け」よりも、いいプレーが観たい方です。でも、ただ観ているよりどちらかを応援したほうが楽しいですよね。私は点数が低い方にガンバれと思って観ています。でも、どうしても日本選手を応援してしまいがちです。「ニッポン40年ぶりの快挙です」とかのアナウンス、おかしいですよね。40年前に、今の選手が勝利したわけではありませんから。

陸上は「世界新記録」が出るかどうかを観ています。これは「20年ぶりの新記録」といっても、その選手が20年前に記録を出したわけではないのが明らかですから、許せます。

この記録こそが、前記の「文字」の賜物なのは間違いありません。そしてそれは、そのまま「優劣」をつけることになります。優劣をつけられるのは、それぞれが個人として独立しているからです。でも、その独立というのは「人間」という全体があるとしたら、その部分だからです。部分同士を考えることで比較が可能になります。犬と象を比べることはあまり意味がありません。犬とキュウリを比べることも意味がありません。もしそれが意味があるとすれば、犬や象を「動物」の一部として、犬やキュウリを「生物」の一部として考えたときです。

もっと簡単な例でいえば、「美味しいりんご」や「酸っぱいりんご」は「りんご」の一部として比較が可能になります。「美人」とか「頭がいい」とかも同じです。全体としてみる発想には「比較」や「優劣」は存在しません。「平等」とか「人権」とかも、個人を全体としてみるのではなく、部分としてみることによって存在します。「個人」「個物」という考え方そのものが、部分として人間や物をみるところから発生します。

「部分」と「全体」も同じです。すべてのものが全体ならば、部分は(全体も)存在しません。というか、「存在(ある)」を説明しようとするとき、その対立物としての「非存在(ない)」を考えてしまった時に全体性は失われます。

パルメニデスは「ある、そしてないはない ἔστιν τε καὶ οὐκ ἔστι μὴῖεἰναι」(断片B2)と言いました。でも、アリストテレスを受容した西欧哲学は「存在」を「実体と性質」として捉えて、ハイデガーの言う「存在者の哲学」に「頽落」させてしまったのです(日下部吉信著『シリーズ・ギリシア哲学講義』)。私はここに「砂漠の思考」の流入を感じます。

新しい氷河期

「砂漠の思考・森林の思考」という考え方は、世界史および西洋と非西洋の思考方法の違いを知るために、とても有効です。また、数字、あるいは分布図を使った「反証がありえない」論述の仕方もとても有効だと思います。

西洋の論理で西洋に「反論」するというのは、有効だし、それ以外の方法は考えにくいようにも思います。私も、こうやって文章を(文字で)書いています。これも西洋的な「論理」から逃れられないからです。

ただ、前述のようにハイデガーを始めとして西洋のなかにも、西洋論理を疑問視する思想が増えているように思います。日本でも西田幾多郎が西洋論理ではない独自の考えを著しているし、今西錦司のように「部分と全体」を超えた発想がある人もいます。著者も実感していると思いますが、「西洋論理」はとても強い。それは核兵器まで作り出していますから。

今日、北朝鮮のミサイルが日本の上空を通過しました(多分)。ネットでは早くも日本の「防衛」についての意見が溢れているようです。これは「砂漠の思想」の思惑通りでしょう。その議論の暗黙の了解になっているのは、日本の「国(国家)」です。近代国家ができて、まだ二百年ほどです。著者は、

それでは、どのくらいのタイムスケールで人間が変わり得るかという資料として、第五章以下、現在の日本人が、三五〇〇年前の縄文時代晩期、ないしは、二二〇〇年前の弥生前期の森林の影響をいまだに脱していないことを示した。(P.216)

といいます。

二百年なんて、大した時間ではないのかも知れません。でも、親の代と自分の代での考え方の違い、この十年二十年での世間の移り変わりを考えたとき、変化はもっと早いのかも知れません。

「地球温暖化」ということが言われています。最近の異常気象はマスコミの宣伝だと思いますが、「SDGs」は資本の投資対象以外の何物でもありません。「二酸化炭素排出量」は商品です。百年二百年ではなく、千年二千年、あるいは一万年十万年単位で著者のように考えたとき、温暖化は地球の砂漠化の指標なのでしょうか。また、次の氷河期に入りつつあるという話も聞いたことがあります。新しい高温期、あるいは新しい氷河期が来なければ、この強いと思われている西洋論理が世界を覆いつくしてしまうのでしょうか。

個人(我、エゴ)という枠で、国家という枠で、あるいは人間という枠での思考は、「全体と部分」という思考です。それが砂漠の思考・森林の思考のどちらに位置づけるかは、言葉と文字の位置づけとの兼ね合いで考える必要があると思いました。

[著者等]鈴木 秀夫(すずき ひでお)1932年12月19日 - 2011年2月11日日本の地理学者。東京大学名誉教授。日本地理学会名誉会員。
この本の結論はここにある。人間の思考方法は2つある。一つは森林的思考であり、もう一つは砂漠的思考である。すなわち世界が永遠に続くと考えるか、有限であると考えるかである。

[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4140013120]

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