silent 2022日 風間太樹、高野舞、品田俊介演出

silent 2022日 風間太樹、高野舞、品田俊介演出

大人気ドラマ

とっても人気があったようですね。面白く観ました。

第一話を観たときに、すぐ『恋です!〜ヤンキー君と白杖ガール〜』(2021、日本テレビ)を思い出しました。強度の弱視の少女を杉咲花が好演しています。その作品では主人公の視界を強いボカシで表現していました。私はその作品を見ながら「次は聴覚障害を音声無しで表現するかも」と冗談を言っていました。ですから、このドラマは「音声なし」を期待したのですが、違いました。つねに音声はあるし、「Official髭男dism」の主題歌『Subtitle』が印象的で、今でも頭の中に流れています。

クライマックスの手話シーン(最終話)でもBGMが雰囲気を盛り上げていたのですが、どうなんでしょうね。たしかに「聴覚障害」という点を除けば「よくある恋愛ドラマ」です。「オキマリの恋愛の障害」として「聴覚障害」があることになります。『ロミオとジュリエット』などと同じです。Official髭男dismの曲も「静か(silent)」というよりは「若い人の恋愛」に向いているような気がします(歌詞はわからないけど)。

クライマックスの手話シーンを無音にしたら、各品全体の印象がまったく変わったはずです。そして「silent」という主題がより明確になったような気がするのですが。

もうひとつ特徴的なのは、「善人しか出てこない」ということです。最近そういうドラマが多いですよね。善人が良かれと思ってやっていることが主人公の恋愛の邪魔となります。「勧善懲悪」でもないし「悪人に見えて実は善人」というのでもありません。鈴鹿央士なんかは「いい人すぎ」て、彼の真意を描ききれているのか心配になりました。あんな「優しさ」を女性から求められたらたまりません(笑)。

言葉は何のためにあるのか

私は「聴覚障害」よりも「言葉」という主題に注目していました。想の作文が提起しているからです。「言葉は何のためにあるのか。何のために生まれ、存在し続けるのか。なぜこの一つの星に、複数の言語が存在するのか」(第一話ほか)というのは「バベルの塔」以来のキリスト教文化(ユダヤ教文化、西欧文化)の課題だからです。

人と対話ができなくなるのは言語を失ったということ(失語症者)と同じではありません。知らない言語の文化のなかに投げ入れられたとき、ことばが「通じない」ときに私は言語を失ったように感じるでしょう。

手話で会話する人のなかに投げ入れられたときも、同様の感じを受けると思います。ことばは音声(だけ)じゃないのです。表情やジェスチャーも重要だという意味ではなくて、手話も音声言語とまったく同じだという意味です。

手話も音声言語でも通じないときに「文字」ならどうでしょうか。このドラマでも筆記(メモ)やスマホの「文字起こしソフト(『UDトーク』だそうです)」が活躍しています。「思い」を伝えるには技術が必要です。そして文字はイントネーションやアクセント、スピード、そして身振りやジェスチャーや表情がない分、より技術が必要でしょう。「伝える技術」。ことば、そして「伝えること」自体が社会的事柄です。つまり文化的に決められています。表情やジェスチャーも文化によって異なります。文化が違えば伝わる可能性は低くなります。

それでは、同じ文化のなかで、同じ言語を話し、同じ教育を受け、同じテレビドラマを観て育った人同士はどうでしょうか。「わかり合えない」あるいは「わかり合えるかもしれないけどそれはすごくむずかしい」と普通思っているのではないでしょうか。このドラマでも「生まれ育った環境が違うんだから、全部わかり合えなくて当然じゃない?」という「言い訳」のようなセリフがあったと思います。

私も、何十年も一緒にいる親子や夫婦の間でも「わかり合えないこと」を痛感しています。むしろ「わかり合えないこと」「違うこと」が増えている気さえするのです。私が〈私(自我、主体)〉であるかぎり、〈あなた(汝、他者、他人)〉とは「わかり合えない」と思います。

障害者は可哀想?

前記の『UDトーク』も「コミュニケーション・ツール」ですが、さまざまなコミュニケーション・ツールが作られています。それらで「私とあなた」がわかり合えるようになったでしょうか。SNSが原因と思われる中高生の自殺、さまざまな告発・非難合戦、防犯カメラという名前の相互監視・・・、「私とあなたの間の溝」はより多種多様になり、その溝は深まりこそすれ、減ってはいないように私には思えます。

補聴器や義足あるいは眼鏡のように、「障害がある人の障害を取り除くツール」はたくさんあります。それらがないと、障害者は「健常者」のような生活ができない「可哀想な存在」だと思ってしまいます。

「健常者の基準」が決められます。視力検査や聴力検査が行われ、基準に達しない場合はメガネや補聴器が勧められます。視力検査は近視・遠視・乱視の検査だけではなく、色覚異常、動体視力、深度測定などどんどん増えています。それらが基準値から離れていると「病気」が疑われたりするのですが、その基準や「正常値」というのは何なのでしょうか。

私の見え方とあなたの見え方は違います。いや、違うかどうかはわかりようがないのです。ピカソの見え方とモネの見え方は視力検査ではわからないでしょう。隣の人には見えているのに自分には見えていないという経験はよくあると思います。

見え方は文化によっても違います。東洋人は東洋人同士の顔の違いに敏感です。現代人と、平安時代の人と、縄文人とではきっと見え方が違うでしょう。

聴覚や臭覚も同じです。痛覚も人によって違うでしょう。それなら、痛み、悲しみ、苦しみ、楽しみ、幸福感なども違うのではないでしょうか。感覚や感情を比べることができる、数値化することができると思うのは、単に「自己を基準にする」という思い上がりではないでしょうか。

中途障害者

私は三週間くらい前に右腕を骨折しました。いまだに右腕を固定しているので、パソコンの入力に何倍も時間がかかってしまいます。骨折当時は横になって寝ることもできず、動くたびに右腕が痛みます。「人間の体って繋がってるんだなあ」と実感しました。左手を動かすと、それに対応して右腕も無意識に動くのです。そのうちに左手をどう動かせば右手が痛くないのか、歩くときにはどう足を動かせばいいのかなどを体が憶えていきます・・・、などと骨折をある意味で楽しんでいられるのは、「治る(元にもどる)」と思っているからです。

想は高校卒業ころから耳が聞こえなくなった「中途障害者」です。ドラマでは生まれながらの聴覚障害者と中途障害者の違いにも着目しています。今まで(極端な場合は昨日まで)できていたとができなくなったとき、焦りや苛立ち、悔しさなどさまざまな感情に囚われます。結果、自暴自棄になることもあります。想は紬の存在で、過去にとらわれることから逃れて現在(と未来)に目を向けることが出来るようになりましたが。

「聞く」というのは、努力してできるようになる、というようなものではありませんが、努力してできるようになったことができなくなったときには、その感情がより強いかもしれません。

「できる(出来る)」は「でく(出来)」の連体形です。「出て来る」、つまり今までなかったものが現れる、という意味です。また「可能」は「あたうべき」に当てた漢字の音読みで、明治期の新漢語です(『日本国語大辞典』)。どちらも比較的最近にできた言葉です。ちなみに「努力」という言葉が一般的に「effort」の意味で使われるのは明治以降です。

そういう言葉がなかったということは、そういう概念がなかった、少なくともそういう意識はなかったということです(そう感じていなかったかどうかはわかりません)。

その考え方の基礎にあるのは、「努力してできるようになる」「発展(発達)する」ことは「いいこと(価値がある、善)だ」、という考えです。「昨日より今日は良くなっているはずだ(べきだ)」ということであり、「歴史は一方方向に(直線的に)進む(はずだ、べきだ)」という考えかたです。「歴史は繰り返す」ものだとしても、螺旋状に上昇している(はず、べき)なのです。ヘーゲル流にいえば、それが「神の意志の実現(過程)」であり「歴史」です。それを「進化」と呼ぶならば、ダーウィン流の正統派進化論です。新しいものが正しいのです。親より子のほうが正しい(笑)。

私は「老人」と呼ばれる歳になりました。上野千鶴子さんの言うとおり、「老いる」ということは、今の社会では中途障害者になる、ということです。昨日できていたことが今日はできなっています。明日、それができるようになることは期待できません。むしろ、今日よりできなくなっているかもしれない、他のこともいつできなくなるのだろうか、という不安の中で生きています。

障害者という幻想

障害者に対する差別や同情、哀れみは、「人間は平等であるべきだ」という「理念(理想、イデオロギー、思い込み)」があるからです。でも、人間は一人ひとり「生まれも育ちも違う」のです。そして、「個人」は独立して自由でなければなりません。「個人の尊重(人権)」と「万人の平等」をどう両立させるか。近代西洋はさまざまに模索してきました。「法の下での平等(あるいは人権)」は「神の前での平等」の変形で実効性はないのですが、ともかくも「自分たち以外のもの(あるいは権威)」を想定することで、とりあえずの両立を図ろうというのです。「自分たち」つまり「(絶対的な)主観性」に対する「(絶対的な)客観的なもの」の想定です。それが「基準」です。

視力は「1.0以上」とか、聴力は「30db以下」とか、血圧は「130以下」とかの様々な数値は人為的に決められた基準です。「人為的」というのは、客観性(科学的)を装いながらも変えうるし、実際に変えられてきたからです。基準を満たさない場合は対応が迫られます。血圧であれば薬などの治療が求められるし、視力ならメガネ、聴力なら補聴器を勧められます。

「正常:異常」「健常:障害」「健康:病気」等はどのように判定するのでしょうか。それらの絶対的基準はありません。AさんとBさんは「絶対的に」違います。でも現代社会において、それに「勝ち負け」「優劣」をつけるのは「客観的数字」であり、その数字は(客観的)科学に基づいているとゆうよりも、その人が働けるか、もう少し正確にいうと、その人を雇ったときに利益が上がるか、という事実に基づいています。障害や病気の程度などどうでもいいのです。

血圧の基準が160から130に切り下げられたとき、一夜にして数千万人が「病人」になりました。でもその人達の殆どは、つぎの日もそれ以降も働いています。数値の切り下げで儲かったのは、製薬会社と医者です。基準で引っかかった人は次の日から薬を飲み続けるということを強いられました。基準とはそういう物です。

幸せになる技術

病院や障害者をその基準まで引き上げる事は、テクノロジーが補ってきたし、今後もその技術は開発されていくでしょう。病人や障害を持つ人にとっては、その事はとても大切なことです。私も今回の骨折で今も鎮痛剤を飲んでいます。でも鎮痛剤が私の骨を治すのではありません。薬が病気を治すという思い違いは、メガネが目を直す、補聴器が耳を直す、と同様に、障害者を幸せにするという思い違いとつながっているように思います。

そしてテクノロジーの発達を優先するという考えは、縄文時代人よりも今の人間が優れている、犬や猫よりも人間が優れている、などと同様な主観性の思い上がりだとおもいます。

病気は自分の体が治します。痛みを感じることも含めて、それがイリイチ流に言えば「生きる技術」です。それは同時に「幸せになる技術」です。縄文人や犬猫が持っていて、現代人が失ったものはその技術なのではないでしょうか。

鎮痛剤を飲んでいても腕がうずき、時々痛みます。一文字打つごとに、骨の治りが遅くなるかもしれません。今一文字打つことが大切か、それ以外のことが大切か。それは薬が決めることでも、医者か決めることでもありません。でも、それを決める「技術」を私は持っていないようです。






[スタッフ・キャスト等]

演出:風間太樹[wiki(JP)] 高野舞[wiki(JP)] 品田俊介[wiki(JP)]
プロデュース:村瀬健[wiki(JP)]
脚本:生方美久[wiki(JP)]
音楽:得田真裕[wiki(JP)]
主題歌:Official髭男dism[wiki(JP)] 『Subtitle』[wiki(JP)] 制作プロデュース[wiki(JP)] 唯野友歩[wiki(JP)]
<出演>
川口春奈[wiki(JP)]:青羽紬
目黒蓮[wiki(JP)]:佐倉想
鈴鹿央士[wiki(JP)]:戸川湊斗
桜田ひより[wiki(JP)]:佐倉萌
板垣李光人[wiki(JP)]:青羽光
藤間爽子
井上祐貴
山崎樹範
夏帆[wiki(JP)]:桃野奈々
風間俊介[wiki(JP)]:春尾正輝
篠原涼子[wiki(JP)]:佐倉律子
<ゲスト出演>
佐藤新(第1,3,6,8話)

高校時代に彼の声と紡ぐ言葉に惹かれた青羽紬(川口春奈)は3年の時に佐倉想(目黒蓮)と同じクラスになる。
中学からの幼馴染である戸川湊斗(鈴鹿央士)の紹介もあり、二人は音楽という共通の趣味をきっかけに仲良くなり、愛おしいかけがえのない時間を過ごしていた。

大学進学というタイミングで東京と群馬で離れ離れになるも、何も心配することはないと思っていた紬だったが、紬は想から一方的に別れを告げられてしまう。何が理由なのかもわからないまま振られた紬。
8年という時が過ぎ、紬は心残りはありながらも、今は大型CDショップで大好きな音楽に囲まれて働きながら、湊斗と幸せな日々を送り、2人の将来を考えるようになっていた。

しかし、そんなある日、駅で想の姿を偶然見かける。
思わず声をかける紬だったが、彼にはその声が届いていなかった。なぜなら彼は…



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