人は遊ぶ ― ホモ・ルーデンス再考 石田春夫著 2000/12/20 近代文芸社

人は遊ぶ ― ホモ・ルーデンス再考 石田春夫著 2000/12/20 近代文芸社

著者について

著者についてはなにも知りません。精神科医のようです。1926年生まれですから、当時73歳。現在ご存命なら97歳です。

古本屋で110円。ちょうど『ホモ・ルーデンス』を読み終えたあとだったので、思わず買ってしまいました。

ホイジンガ(著者は「ホイジンハ」とオランダ語読みしています)の『ホモ・ルーデンス』という著書の「再考」というより、「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」という概念の再考です。内容的には、むしろカイヨワの『遊びと人間』再考に近いようです。

ホイジンハは遊びを、規則(きまり、ルール)にしたがって、しかもその中で自由に、ひとつの目的に向かって、緊張と喜びを満喫するものであると定義している。カイヨワはこのホイジンハの定義をさらに拡大して、賭や偶然の喜びを付け加え、遊びを「競技の遊び」「機会(賭)の遊び」「模擬の遊び」「眩暈の遊び」の四つに分類している。」LF)「競技の遊び」とは他者との勝ち負けの遊び、「機会の遊び」とは賭や宝くじのような偶然性の遊び、「模擬の遊び」とは仮面や擬態(カモフラージュ)や扮装の遊び、「眩暈の遊び」とはスキーやスケートのようなくるくる回る遊びである。(P.6)

簡潔でわかりやすい『ホモ・ルーデンス』と『遊びと人間』の要約です。

著者は、カイヨワによる遊びの分類を基礎にしながら、日本語、日本文化について、時には批判的に、様々なことをエッセイ風に書いています。

仕事は現実の人生の一部に過ぎないが、夢と遊びは人生のすべてを被うものである。夢は現実より古く、遊びは仕事より古い。(P.8)

これが著者の「あそび」に対する認識だろうと思います。

子供と遊び

著者は遊びと対になる言葉として「仕事」を考えているようです。「仕事と遊び」「真面目と不真面目」「ハレとケ」など、同じように対になる言葉はたくさんあります。「仕事をするのが大人、遊ぶのは子供」「子供は遊びの天才」など様々な言われ方がされます。

日常生活に疲れた大人たちにとっても、遊びはいつでも心を揺るがすものである。遊びのない心は次第に生命の力を薄め、やがて凝固していく。遊びは心の活力である。なぜなら遊びは、自然の地水火風と自己の地水火風とを、純粋に自由に響かせ合うものだからである。遊びを知らない心は次第に神経症的な枯渇に陥るであろう。(P.5)

いかにも精神科医的な言葉です。ホイジンガは

真に遊ぶためには人はふたたび子供にかえらねばならない。(高橋英夫訳『ホモ・ルーデンス』中公文庫、P.402)

と言っています。私は、そして多分著者も、「遊び」を考えるとき、自分の子供時代、仕事も、テレビゲームも、いやテレビすらなかった時代を考えます。私の実家は農家ではありませんが、育った小さな町にも舗装していない道があり、空き地がありました。そこには雑草が生え、いろんな昆虫がいました。草の一本一本、昆虫一匹一匹が遊び道具でした。ビー玉やメンコもありましたが、貧乏長屋の子供にとってはそれよりも石ころや、拾った釘などのほうが重要な遊び道具だったのです。

子供たちにも、高価な機械や、暴力や破壊そそのかすようなバーチャル映像などを与えることによって、彼らの自由で柔軟性に富んだ心の世界を損なっている。だが、忘れてはならない。子供たちは拾った一個の石や木の実や貝殻のなかに、想像の全世界を見ることが出来るのであり、それこそが遊びの原点なのである。(P.8)
物を持っていても役に立たす押しも聞かない。昔の遊具は使えば使うほど手になじんで捨て難くなったものだが、今の電動機械の類の遊具はいったん故障してしまうと、もうどうにもならないガラクタ粗大ゴミである。(P.10)

現代文明批判としては、20年前も今も変わらない言葉です。だだホイジンガは次のようにも言っています。

遊んでいる子供はけっして子供っぽくはない。子供っぽくなるのは、遊びが子供を退屈させたときとか、どうやって遊んだらよいのかわからなくなったときに、初めてそうなるのだ。(前掲書、P.417)

ここにはホイジンガの遊びに対する見方が現れているように思います。ホイジンガは遊びを「仕事に対する余暇」とは考えていないからです。

遊びと文化

「仕事」というのは、どの文化にも、どの時代にもあるものだ、と考えてしまいがちです。それを動物にも当てはめて、ミツバチが蜜を集めるのも仕事、ライオンがカモシカを捕らえるのを「仕事の原初形態」などと考えてしまいます。毎日仕事をして、年に何日かの祭りで「日常生活」のうっぷんを晴らす。毎日の仕事の後に酒を飲んだり、スポーツを観たり、パチンコをしたりする。それが文化だと思ってしまいます。遊びがそれぞれの文化の中で作られる、あるいは、文化から遊びを考えるのです。しかし、ホイジンガは違います。文化が遊びを作るのではなく、文化が遊びの中で生まれたと考えるのです。

何といっても、この遊ぶということが、すべての文化そのものの基礎なのだ。(前掲書、P.214)

だから、人間は「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」だというのです。さらに、

文化は遊びとして始まるのでもなく、遊びから始まるのでもない。遊びのなかに始まるのだ。(同書、P.165)

「「遊びから文化になる」ではない」「文化は遊びの形式のなかに成立したこと、文化は原初から遊ばれるもの」(P.110)だということです。だから、

遊びそのものは道徳規範の領域の外にある、とわれわれは冒頭で述べた。それ自体は善でもなければ悪でもないのである。(同書、P.431)

文化的なもの、科学・法律・哲学・道徳・倫理などは「遊び」の中に存在するに過ぎなく、「遊び」はそれらを越えたものです。だから、遊びは「人間そのもの(ホモ・ルーデンス)」なのです。

カイヨワは、ホイジンガの「遊び」を分類し、定義しようとしました(まだ半分しか読んでないけど、多分)。「遊び」を学問に矮小化しようとしたわけです。分類や定義できないところに「あそび」の本質があります。それは存在(人間存在)と結びついているものですから、分類・定義はできないのです。それはむしろ「存在そのもの(φύσις ピュシス、自然)」なのです。カイヨワはそれを「ノモス(νόμος)」として捉えようとしたのです。遊びを文化の中で捉えようとしたように思います。人間の側から自然を捉えようとすると、そこに必ず「人間」が映り込みます。ミツバチが蜜を集めるのも仕事だと思ったりするのです。

「人間は人間しか笑わない」。これは「笑い」についての考察を行った哲学者ベルグソンの言葉である。(中略)人間は猿を見て笑う。猿が可笑しいのではなく、猿が人間とまったく同じような仕草や格好や表情をするから可笑しいのである。(P.166)

言葉と文字

人間は言語(日本語や英語などの音声言語だけでなく、手話なども含めて)で思考すると言われます。むしろ言語で捉えることを思考と呼んだほうがいいのかも知れません。ちょっと考えれば分かることですが、わたしたちが言語(たとえば日本語)で状況などを考えることは限られています。殆ど無いと言ったほうがいいと思います。なにか音がして振り向く、なにか動いたのでそちらを見る、頭が痒いので掻く、・・・、それらを言語化して思考することはまずないのです。もし言語化するとしても、それは自分が起こした行動を反省するときです。「誰かに呼ばれたから振り向いた」「なにか動いたと思った」「ああ痒い」などと。そして、いつでも日本語で「考えている」ように思います(私は日本語しか知らないから)。

そしてそれらの言語は、その時々で消えていきます。それは、ある「できごと」を固定するには必要な作業です。さらに、

言葉は文字として記されることによって、音声のみの言葉とは違った性質を担うことになる。文字という形で視覚化されることによって、言葉は表現と伝達のためのより強力な道具となる。声は一過性で消えたら戻ってこないが、文字は何度でも読むことが出来る。声は分断できないが、文字は切ることが出来る。声は積み重ねることが出来ないが、文字は積み重ねが可能だ。声は貯めておくとが出来ないが、文字はいつまでも貯めて置ける。声は運びにくいが、文字は運びやすい。声は不確実だが、文字は確実な形をもっている。ただし深みや時間性に関しては、文字は音声言語のそれに劣り、表面的、空間的なものになったことは否定できない。
たとえてみれば言葉(音声言語)は水であり、文字は氷である。(P.106-107)

きっとそれは逆なんでしょう。文字が言葉を固定し、言葉が考えを捉える。文字より言葉が古いし、言葉より考え(感覚)のほうが古いのですから。だから、「文字が言語を規定する」「文化が言葉を規定する」や、「文化が遊びを規定する」、あるいは「人間が神(自然、ピュシス)をつくった」という言い方は間違いではないし、そういう発想も必要だとはおもいます。それらは相互に関係し合うとも言えるし、分けること自体ができないともいえます。

西洋文化は、それを「分ける(分類する)」ことを志向する文化です。カイヨワが行ったように、「遊び」を四つに分類するとしましょう。そうすると、個々の「遊び」をどれかに所属させることができます。それによって「遊び」というものが「わかった(分かるは「分ける」の自動詞?です)」ような気になります。でも、物事はそう単純ではないので、カイヨワも迷います。西洋文化で次に行うのは、その四つの関連を考えます。ある遊びは「競技の遊び」と「機会の遊び」の両方の要素をもっているけど、どちらの要素が強いか、などです。光の三原色(赤、青、緑。絵の具の三原色でもいいけど)を考え、次にある花の色を「赤みがかった青」などある特定の場所を振り分けるのと似ています。その花と「赤、青、緑という色」とどちらが古いかは明らかです(たいていは)。でも、「光の三原色」が実物の花よりまえに、「普遍的に」あったように考えるのが「イデア論」であり、「始めに言葉ありき」という聖書の言葉です。「人間が猿を笑っている」のです。

テレビゲーム

みんなが「遊びは文化に規定されている」と思っているときに、ホイジンガは「文化は遊びでできているんだよ」と言ったわけです。これを「コペルニクス的転回」と言っていいのかどうかはわかりませんが、主語と述語をひっくり返したわけです。そして、ホイジンガはそれ以上のことを明確には言っていないと思いますが、「遊び」という主語は定義(文化)を越えたところにある、と思っていたのではないでしょうか。

カイヨワはそれを定義、つまり文化のなかに引き戻そうとしました。そのことによってホイジンガの画期性は失われてしまうのです。それを私は「矮小化」と表現したのです。カイヨワのあとも様々な「遊び学」が出てきたでしょう。でも、それは学者という文化人が行う分類と定義の「細密化」「多様化」の域を出ないのではないでしょうか。それ自体が「遊び」だということであれば、それはそれでいいのですが。

それ自体が「無意味」だとも思いません。著者は精神科医という(科学)文化の中で考えていますが、彼が現代を憂い、現代に生きる人びと、特に子供を助けたいという気持は良くわかります。

しかしテレビゲームの機械は無言無表情の物ではなく、ゲーム者に反応し答えてくれるので、ゲーム者は人間を相手にしているような感じを抱き、機械への愛着を覚えるらしい。ただしその分だけ本当の人間から遠ざかるということが言える。その点ではハイテク一般における「人間嫌い」「人間の非人間化」というテクノストレス症候が起こる可能性を大いに含んでいるのである。機械との遊びはうまくなるが、人間との交流は煩わしくなり、イライラがつのる。(P.216)
機心とは、機械に毒されて心の自由を失った人間のことなのである。電子メールだ、インターネットだと夢中の人は、どうかくれぐれもご用心願いたい。
荘子のいうように、機械は人間を知らず知らずのうちに非人間化する。ということは、人間を容易に物化し、商品化するということだ。(P.218)
こうした機械遊びは、危険な遊びの中でも最も危険な遊びになるであろうことを、だれもが十分に思い知るべきである。(P.218-219)

私には二人の子供がいます(ふたりとももう社会人です)。上の子供には小さいころからパソコンをいじらせました。それが今の仕事に繋がっています。下の子供も理科系の大学に行き、その関係の仕事に就いていますが、とにかく毎日ゲームばかりやっています。どちらも私の影響です。私自身、パソコンが好きで、パソコンの黎明期にはゲームを作っていたこともるので、気持は良くわかります。私の人生は否定できない事実として強く存在しています。でも、それを反省することはできます。

今、電気がない生活は想像できません。それでも私には電気がなかった幼い頃の記憶がかすかにあるので、それで生きていけないとは思っていません。でも、子供たちはそこで生きていけるとは思えないでしょうね。パソコン(コンピュータ)は家のいたる所にあります。AI(どこまでを「AI」というのかはわかりませんが)も生活の一部になりつつあります。その時、「電機が人間を作った」「AIが人間をつくった」という考えに違和感がなくなるかも知れません。実際、西洋では数百年前(一部の人は今でも)「神が人間を作った」と信じていたではありませんか。

「文化が遊びを作った(規定している)」と思うか「遊びが文化を作った」と思うかは水掛け論なのです。ホイジンガの問いかけは、「遊び」と「文化」とはまったくレベルの異なるものだということです。文化は文化(科学・学問)の中で、定義や分類・分析をすればいい。でも、「遊び」はそうではないのです。それは「善でもなければ悪でもない」(ホイジンガ、前出)、善悪、倫理、道徳などの文化的な価値を越えたものなのです。

「人間とはなにか」という問いと同じように「遊びとはなにか」という問いにも「学問的に」多種多様な答えを出すことはできます。しかし、それらの答えはハイデガー流にいえば「存在者」に対する答えです。「存在」としての「人間」「遊び」に対する答えは、文化の中で、あるいは人間の意識の中で考えざるをえない以上、不可能なのかも知れません。不可能かどうかは別としても、その「問いの違い」があることだけは「文化」「学問」「意識」「存在者」の中に「居ざるをえない」ながらも気づかなければならないのではないでしょうか。

水たまり

最近、情報番組では不思議な事件が立て続けに起こっていると(休むことなく)報道されています。両親の自殺幇助をしたのではないかという事件、首がない死体、女性に噛み付いた市議・・・おかしな事件が多すぎて思い出せません(それに、続報はまずなされません)。最近は大雨の話題が多いのですが、雨が多いとすぐ川が氾濫し、土砂崩れが発生し、道路は冠水します。田中角栄を中心に日本で行われた「公共事業」ってなんだったのでしょう。今日は雨が降りはじめて、都内の道路に「水たまりができている」というニュースが流れていました。雨が降って「水たまり」ができるのが、なぜ全国放送のニュースなのでしょうか。ロシアとウクライナの戦争をはじめ、気になることばかりです。

日常の茶飯事が心のままにこなせること、こだわりなく生きられること、それが本当の神通力なのである。それがまた遊戯ということなのだ。(P.224)

情報番組のニュース一つ一つが気になり、腹を立てている私にはそういう境地に立つことはできません。だからといって、それらを聞き流していいとも思えないのです。なぜ、今の日本では人生を楽しんで生きることができないのか、一つ一つのニュースにはそのヒントがあるような気がします。「遊びとななにか」「人間とはなにか」・・・答えはでなくても、その問いが発せられ続ける社会、それを考えざるをえない時代に、ホイジンガもカイヨワも、著者も私も立っていることは間違いありません。






[著者等]

石田春夫[wiki(JP)](いしだ はるお、1926年5月12日- )は、日本の精神科医。

「遊び」に関する言葉、重力の遊び、「競争の遊び」と「賭の遊び」、笑いと可笑しみ、怖さの誘惑など、神話から川柳まで、楽しさ・怖さ・面白さといった、遊びと人間の本質を探りつつ、精神科医が語る「遊び」人間学。



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