ジェンダー ーー女と男の世界ーー I.イリイチ著 玉野井芳郎訳 1984/10/23 岩波現代選書

ジェンダー <s>  </s>女と男の世界<s>  </s> I.イリイチ著 玉野井芳郎訳 1984/10/23 岩波現代選書

本書について

Ivan Illich, Gender (1983, Marion Boyars) の翻訳です。著者の要望にしたがって、ドイツ語版(Genus, 1983, Rowwohlt )との異同も示されています。ちょうど40年前です。

400ページほどの本(原書は192ページ)ですが、書抜が11万字以上になりました。書き抜きの掲載は著作権違反になりそうです(岩波さん、許して。個人的なもので、誰もこのページを見てないから)。それくらい重要な著作だと感じました。

講義用の原稿が元になっているようで、半分以上を「注解」が占めています。そこには膨大な参考文献が記載されていて、とても一生の間に読めるものではないと感じました。

ジェンダー

最近でこそ「ジェンダー」という言葉は大流行です。この翻訳書でそのことばは当時から流行っていましたが、私は意味も分からず、日本で流行ることはないだろうな、と思っていました。

「ジェンダー」というのはイリイチの造語ではありません。印欧語文法で、性の区別をつける言葉として、専門家は使っていたんでしょうね。男性名詞・女性名詞とかいうやつです。英語ではあまり明確ではありませんが、中学校で英語を習ったとき、変なものがあるなあ、と思った記憶があります。「dogはhe・catはshe」とか、最近は崩れてきているかもしれないけど、フランス語やドイツ語では明確に品詞には男性・女性・中性の別があります。そこでは犬や猫の「生物学上の性別」は関係ありません。イリイチはその「生物学上の性別」を「セックス」と呼んで、ジェンダーから明確に分けています。日本語には品詞の性別はありませんから、この二つを区別するのは難しいので、ジェンダーを生物学上の性別と混同して使うのも仕方ないと思います。一般的には「男女の性別」を生物学上の性別とし、ジェンダーを「社会的につくられた性差」として捉えられているようですね。

ジェンダー

① 文法で、性の区別。② 男らしさ、女らしさといった、社会的・文化的につくられた性差。生物学上の雌雄を示すセックスとは区別される。(精選版 日本国語大辞典

ドイツ語やラテン語では「genus」。英語にはフランス語の gendre,genre として入ってきました。「ジャンル」です。印欧語根は「genə-」。

命を与えること、子孫を作ることを表す印欧語根。また、繁殖に関係することや、家族・部族に関係することを表す。重要な派生語は、engine, general, gentle, king, nature, 接尾辞-gen(生成物を表す)など。(ハイパー英語辞書

「男女平等」と「ジェンダー平等」

「ノンバイナリー枠」(「当別を駆ける。未来へ架ける。『当別スウェーデンマラソン2023』 国内大会初ノンバイナリー枠の設置」公式ホームページ、「陸上=ボストン・マラソン、選手性別で「ノンバイナリー枠」新設」ロイターも参照)を設けた『当別スウェーデンマラソン』が実施されました。

2018年にスタートした『当別スウェーデンマラソン』。

今年は、10月22日(日)の開催に向け、現在エントリーを募集中です。

そのエントリー枠に、今年は変化があります。ハーフマラソンのエントリーにおいて、新たに「ノンバイナリー枠」を設置しました。当別町というひとつの町のマラソン大会から、未来につながる好循環を広げたい。その想いで、「サステナブルな大会」を目指す私たち。この大会がジェンダーフリーに誰もが輝ける場となることを願って、未来のために取り組んでいきます。

国内大会初ノンバイナリー枠の設置


すべてのランナーが等しく、マラソンを楽しめるように。今年の開催から、国内大会初のノンバイナリー枠を設けることとなりました。

ノンバイナリーとは、身体的性に関わらず自身の性自認や性表現を男性・女性にあてはめようとしないセクシュアリティのこと。ノンバイナリー枠の設置により、男性・女性という性別にとらわれないエントリーが可能となります。(『当別スウェーデンマラソン2023』公式ホームページ



「ノンバイナリー」。いろんな新しい言葉を使いますね(「ノンバイナリーとは?【Xジェンダーやクィアとの違いは?】」ジョブレインボーMagazine)。意味が分からなくても流通するのは、日本語の持つ「カタカナ語」の威力です。漢字とともに漢語が日本語に入ってきてからの伝統です。「性」は「せい」という音読みと「さが」という訓読みがありますが、誤解を恐れず言うなら「せい」は「sex」、「さが」は「ジェンダー」とでもしておきましょうか。「人間性」と「ひとのさが」の違いといったほうがわかるでしょうか。

「男女平等」が「ジェンダー平等(ジェンダーフリーでもいいけど)」に置き換わったのは最近です。なぜでしょうか。理由はわかりません。それまで日本人に「ジェンダー」という言葉が浸透していたとは思えないからです。明治維新以来の「ハイカラ」、欧米にたいする劣等感がジェンダーという言葉を「かっこいい」と思わせているとしか思えません。

「性自認」と関係なく出られるんなら、そして優勝をめざすんなら、(生物学上の)男性は「ノンバイナリー・コース」に出たほうが有利ですよね。そして、優勝したい(生物学上の)女性はきっと「女性コース」に出るでしょう。それが「ジェンダー平等」につながるんでしょうか。私は、「なぜ優勝したいのか」こそが問われるべきだと思います。

ヴァナキュラーなジェンダー

私はこうしたジェンダーという言葉を用いて、行動上のある特性、すなわちヴァナキュラーな文化における普遍的な特性を明示することにした。ジェンダーによって、男にかかわる場所、時間、道具、課題、話しことばの形、動作、知覚と、女にかかわるそれらとが区別される。このかかわりこそが、時間と場所に固有なものであるために、社会的ジェンダーというものを形成する。私はこれをヴァナキュラーなジェンダーと呼んでいる。というのは、男と女にとってのこうしたかかわりは、ヴァナキュラーな話しことばがそうであるように、土地の古風な人びと(ラテン語で gens)に固有なものだからである。(P.2)

ラテン語の vernaculum は、家で生まれたもの、家で紡がれたもの、家で飼育・栽培されたり作られたりしたもの、これらすべてを指示する言葉であり、購買によってのみ入手することができるものと対立関係に置かれている。(P.145)

イリイチにとって、「ヴァナキュラー」と「ジェンダー」というのは切り離せないものだと思います。どちらも日本語にしにくい言葉です。「ヴァナキュラー」というのは、「話しことばの、日常口語の」という意味もありますが、「その土地特有の」という意味でしょう。私は「土着の」という日本語を当てたいと思うのですが、どうでしょうか。それは、土地という「特定の空間」と結びついていますが、それだけじゃなくて「特定の時間」とも結びついています。イリイチは、「ヴァナキュラーな話しことば」と「教えられる母語」を区別します。

ヴァナキュラーな話しことばとは、自分自身の心を語る人々との日常的な接触をとおしてわれわれが成長してゆくものであり、教えられる母語とは、もっぱらわれわれの話しことばのために雇われる専門家をとおしてわれわれが習得するものである。キーワードは、教えられる母語の特徴を示すものだ。(P.7)

前者は「方言」にあたり、後者は「標準語(共通語)」あるいは「公用語、法律用語、文章語、翻訳語、科学用語」などにあたるでしょうか。前者は、生活そのものと密接に結びついているので、多くを語る必要がありません。その土地(場所)、その時間が多くを語ってくれるからです。逆に、それはその場所でしか通用しません。教えられる母語は文章化が可能です。だから、時間や空間を越えて通用します。その代わり、長くなりがちです。その言葉(文字)を成り立たせている時間や空間がない分、たくさんのことを書かなければなりません。イリイチはバリー・サンダースとの共著で『ABC  民衆の知性のアルファベット化』という本を書いていて、翻訳も出ているので、詳しくはそれに譲りますが、教えられる母語と「識字」の関係を扱っています。

セックス(セクシズム、セクシスト)

産業社会が存立するためには、単一の性(ユニセックス)の前提が押しつけられねばならない。男性も女性もともに同じ労働=仕事ができるようにつくられており、同じ実在知覚をもち、些細な外見上の違いはあっても、ニーズは同じであるというのが、この前提である。そして経済学にとって根本的な、稀少性=欠如性の前提は、それ自体論理的にいってこの単一の性の公準に立脚するものである。(P.9)

セクシズムの第一種類を、私はモラル・セクシズムと呼び、これを個人的にも集団的にも、常習的実行者たちの性格のせいとみている。(中略)セクシズムの第二種類は、もっと根本的なものである。私はこれを認識上のセクシズムと呼ぶ。これは、正統的な科学の概念と方法の外に、男と女というジェンダーをしみ出させる(注解46,52を見よ)。(P.152)

これは単純なことでいえば、「お金には男女の別がない」ということです(男用の貨幣と女用の貨幣をつくると面白いかも)。すべてを単一の性、「人間一般」に還元してしまうことが産業社会(商品社会)には必要です。それを作った人も、それを買う人も性別は問われません。「出来ればいい」し「売れればいい」のです。それが貨幣という単一の数値になればいいわけです(「男(女)が作ったもの」「男(女)が使うもの」という区別はまだあります。でも、それを「女(男)が作ること」「女(男)が使うこと」が禁止されているわけではありません)。これをイリイチは「経済的中性者(a neutrum oeconomicum)」と呼びます。

平等

以上のような理論構成から、私は、ヴァナキュラーなジェンダーの支配経済を媒介とするセックスの体制と呼んでいる二つの存在のあり方を対置させようと思う。右の用語そのものからもわかるように、このどちらの存在の仕方も二元的であり、しかもその二元性は本質的にきわめて相異なるものだ。社会的ジェンダーということばで、私は、すぐれて地域的な、また時間的に限定される二元性を考えたい。この二元性によって、男と女は、同じことを言ったり、したり、望んだり、知覚したりすることのできないような状況と条件のもとに区分けされる。これにたいし経済上の、または社会的セックスということばで、私は、女と男のあいだの経済的・政治的・法律的・社会的平等という幻想的な目標を求めて前進する二元性を考えたい。現実(レアリティ)をこのようにもうひとつ別に構成してみると、これから明らかになっていくように、平等性というのは概して根拠のないものである。(P.15)

この新しい、ジェンダー不在の意味を獲得した現代の<sex>は、<sexuality
>といったことばとなって、はっきりとあらわれている。このようにキーワードとしてはたらくようになると、セックスは、逆説的なかたちでジェンダー不在のことばとなる。こうしてジェンダーなき性が完成すると、それはホモエコノミクスの出現にとって必要な前提条件となってくる。まさにこのような理由から、私は、ヴァナキュラーなジェンダー経済によって媒介されたセックスとを対置させるのである。私は、前者を指して、対照的に相互補完的な二元性と呼び、後者を指して、ある共通な特性の分極化と呼ぶことにしている。(P.29-31)

科学は二重の意味でセクシストである。すなわち科学は雄性支配の事業であるとともに、ジェンダー不在の(客観的)範疇と手続きの構築物である(注解52を見よ)。(P.152)

男と女は「生物学的にちがっている」けれど、「人間(人間一般)」の一部であり、人間として平等だ、というのが Homo oeconomicus です。私には「違うけど平等(同じ)」というのがうまく納得できません。一般化(概念化)すれば同じだというのは、頭ではわかります。でも実感できないのです。大人と子供は平等でしょうか。「人間」というふうに一般化すれば同じです。人間と牛は平等でしょうか。「動物」と一般化すれば同じです。人間と枝豆と大腸菌は平等でしょうか。「生物」と一般化すれば同じです。でも、平等だとは思えないのです(むしろ、私には人間とぬいぐるみのほうが平等感がつよい気がします)。

フェミニストは、ジェンダーのない経済のもとで性役割の強制から解放されたいという夢をいだいている。左翼には、だれも平等に人間的[4 人間=人類]だという主題をもつ政治経済学の夢がある。また未来主義者には、現代社会のもとでは人間は可塑的な存在であり、歯科医、男性、プロテスタント、遺伝子処理の専門家と、どれもみな同じように尊敬に値するものだとみる夢がある。(P.9)

私が経営者なら、男女は関係ありません。より会社にお金を持ってくる人を雇います。そのお金を「色気」で稼ごうか、「体力」で稼ごうが、あるいは「忍耐力」で稼ごうかは関係ありません。生物学的性(セックス)は副次的な意味しかもちません。学歴や家柄も副次的な意味しかもちません。会社に利益をもたらす限りで、平等なのです。

シャドウ・ワーク

イリイチのもうひとつの主要な(有名な)著作に『シャドウ・ワーク』があります(11月に岩波文庫になります)。私は未読ですが、それも誤解されているかもしれません。

私がシャドウ・ワークと呼んでいるものは、消費者が、買い入れた商品を使用可能な財に転換する労働のことである。買い入れた商品に、それが使用に適するようになる価値を付加するために支出されねばならなぬ時間、煩労、努力を、シャドウ・ワークと名づけるのである。それゆえ、シャドウ・ワークとは、人々が商品を媒介に自分たちのニーズをみたそうとすればするほど従事しなければならぬ活動、ということができる。(P.94)

シャドウ・ワークが成立しうるようになったのは、家庭が、使用上の価値不足の商品の格上げをもたらすという経済的機能をそなえたアパートに転化するようになってからのことである。シャドウ・ワークがまちがいなく女性のしごととして確立しうるようになったのは、男性のしごとが家から工場や事務所に移ってからのことである。それからというもの、家庭は給料でまかなえる範囲でやっていかねばならなくなった。(P.96)

シャドウ・ワークは女性がやる仕事というわけではありません。男がやると(ハウス・ハズバンド)シャドウ・ワークでなくなるわけではありません。そして、

今や、生産に投入される時間は急速に減少する一方、社会における商品集中度の増大によって消費に必要な投入時間は増加する。同時に、ますます多様な形の消費が<必要事項>となってきた。こうした消費は、時間利用をめぐって満足かどうかというのではなく、手段的なものとなっている。たとえば、ジョーンがドライブするのは、ドライブが好きだからでもなければ、仲間たちと同じようにドライブしたいからでもなく、実はドライブということが彼にとって避けがたいものとなっているからである。(P.102)

産業社会(商品社会)にとって、生産至上主義は否定できません(「サーヴィス」も生産されます)。物でもサーヴィスでも、「商品」として販売し、それが「貨幣」の姿をとらなくてはならないからです。本当に資本集積が行われている(生産性が上がっている)のかどうかはわかりません。利潤率が上昇しているのか低下しているのかも、どうでもいいのです。問題は、すべてのものが「商品」となり、すべてのものが「稀少性=欠如性(scarcity)」になっていること、そして「生(サブシステンス)」ではなく「商品を所有すること」をめざす人間の誕生こそが問題なのです。商品に依存する割合が増えれば増えるほど、「シャドウ・ワーク」の割合も増えてゆくのです。

所有欲ある個人とはジェンダーなきものであり、人類学的には単にセックスとして中立的なものと解釈される。私が主張するように、所有欲あり、そしてジェンダー不在の個人のみが、いかなる政治経済学もそこに依拠するに相違ない稀少性=欠如性の仮定に適合しうるものなのである。ホモ・エコノミクスの制度上の<アイデンティティ>はジェンダーを除外するのだ。彼は経済的中性者(a neutrum oeconomicum)である。それ故、社会的ジェンダーの喪失こそは、稀少性=欠如性の歴史の不可欠な部分であり、また、この歴史を形づくる諸制度の不可欠な部分でもある。(P.25)

今日という時代の、ジェンダーなき、所有欲ある個人という、経済主体は、限界効用の考慮に立脚する諸決定によって生活している。すべての経済決定は、稀少性=欠如性の意識の中に埋め込まれており、したがって過去には知ることのなかった一種の羨望・ねたみへの方向をとっている。同時にまた現代の生産的諸制度は、ねたみ心を起こさせる個人主義を醸成し、その仮面でおおっている。それはとりも直さず、過去のすべての時代にあったサブシステンス志向の諸制度が減じるようにつくられた何ものかにほかならない。」(P.25-26)

男も女も「お金」を求める文化、そレが近代以降の西欧社会です。そして現代、消費はサブシステンス(生存)のために行われるのではありません。消費そのものが目的となった消費なのです。

稀少性=欠如性(欠乏、scarcity)

今日、政府は受験費用や受験のための塾代を補助する方向で検討に入りました。私は「勉強するために勉強する」塾というのは行ったことがないし、行きたくもありません。高校までは、学校も大嫌いでした(大学は好きな勉強ができたので、楽しかったですが)。学校(勉強)の稀少性については、イリイチが『脱学校の社会』で書いてるんでしょうね(未読)。好きでもない(そして役にも立たない)勉強をしに、いじめが氾濫している学校に、変質者がうろつく通学路を通って、なぜ行かなければならないのか、なぜ親は無理をしてまでいかせたいのか、納得できませんが、それは「避けがたい」必然として(商品として)、私たちの社会に存在しています。親たちは(そして多分子どもたちも)求めざるをえないのです。ドライブも、流行りのスイーツも、コンビニも、病院も同様です。

そんなものがなくたって、生きることが可能なことは、みんなわかっているでしょう。親や祖父母は、そういうところで生活していたし、していたからこそ、私たちが「いる」のですから。私は戦後の「食糧不足」を、何度も親から聞かされました。テレビでも何度も聞きました。それが「嘘」だとは思いません。でも、戦後の一時期は除いて、日本は本当に生きることが大変だったのでしょうか。水道も電気もコンビニも病院も学校もなかった時代は「生きづらかった」のでしょうか。逆にいうと、いまは「裕福」なのでしょうか。

今日では、<貧しい(poor)>という語は、<金持ち(rich)>という語と対比されている。中世では明らかにそうではなかった。貧しき者(the poor)は、力ある者(the powerful)と対比されていたのである。(P.132)

こうした意味の移り変わりと相対して、いわゆる根底的な断絶の発展過程のなかで、貧困の近代化が生じる。貧困は今日では消費のピラミッドの下層に住みつくことを意味する。近代的貧困は稀少性を前提している。(P.133)

少なくとも、今の貧困は「物がない」がゆえの貧困ではありません。物はある、テレビでは毎日新しいものが推められる、しかしそれは稀少性=欠如性のもとで、それを「求めざるをえない(desire)」がゆえの貧困です。そして、その欠如性(欠陥)は、自分が決めることではないのです。

国民国家の枠組は、財の生産と取引が民間の手にゆだねられているところでさえ、サーヴィス生産を独占化する傾向があるが、こうした枠組みのなかで、プロの専門家たちは、「無秩序と疫病という民衆の恐怖を利用し、故意に神秘的な専門用語を使い、民衆の自助の伝統を、遅れて非科学的なものと嘲り、こうして、彼らのサーヴィスにたいする需要を創るか、ないしは強化したのである。」Christopher Lasch, The New York Review of Books (November 24, 1977):15-18を参照。この文脈では、専門的職業の体制は、科学的意見によって<欠陥>を定義し、この科学的意見を確認する研究を実行し、<診断>によってこれらの欠陥を具体的な個人のせいにし、全体の人口集団を義務的に検査の対象にし、矯正、治療、改善の必要ありと認められた者に治療を施すという能力を獲得してことになる。(P.167-168)

ジェンダーと性役割

所属するというのは、何が自分たち仲間の女性に、何が自分たち仲間の男性に、ふさわしいものかがわかるということにほかならない。われわれが異性の領分の仕事とみなすものを、もしも誰かがやるとすれば、その人はよそ者であるに違いない。そうでなければ、すべての人間的威信を剥奪された奴隷であるにちがいない。ジェンダーは足どりや身ぶりのすべてにあらわれているのであって、股間にだけあるのではない。(P.141)

ジェンダーというのは、セックスとは異なるだけでなく、はるかにそれ以上のものなのである。ジェンダーは、二つの場所〔初期の草稿では「場所と時代」となっていた〕に同じものはありえないという根源的な社会的両極性を指している。人としてやれないこととか、やらねばならないことは、地域ごとに異なっているものだ。(P.142)

「股間にある」のは、セックスであって、ジェンダーではありません。

ヴァナキュラーなものとして、ひとは生まれ、そして育って、男となり女となる。これにたいし性役割は、後天的に獲得されたものである。<割り当てられた>性役割や教えられた母語にたいして、ひとは親や社会を非難することはできるけれども、ヴァナキュラーな話しことばやジェンダーについては、文句をいうすべはなにもないのである。

ヴァナキュラーなジェンダーと性役割のちがいは、ヴァナキュラーな話しことばと教えられた母語とのちがい、生活の自立・自存と経済本位の生活とのちがい、になぞらえることができる。(P.171-172)

このように、イリイチはジェンダーと<割り当てられた>性役割( "assigned" sex role )を明確に分けています。今のマスコミの用語としてのジェンダーは、この両者を混同しているのです。

ジェンダーという概念を文化に対置させることによって、「われわれは自然そのものを、政治的不平等という犯罪の共犯者とさせてしまった」(コンドルセ)。(P.294)

ジェンダーの回復

イリイチの用語においては、「ジェンダー平等」などという言葉は存在しようがありません。ジェンダーは、すでにセックスに取って代わられているのですから。

しかし私は、ジェンダーの世界では、文化の物的要素ばかりか、その文化の認知とシンボル的推論にさえもジェンダーが存在しているという点を重ねて強調しなくてはならない。女が観察し把握するその広がり、展望、色合い、そして対象物は、男によって観察され把握されるものとは異なっている。(P.292)

モテなかった私は、女性が理解できませんでした。理解しようと思っていたつもりなのですが、そこには大きな壁が立ちはだかっていました。

Will somebody please tell my why

Women look so easy telling lies(坂本龍一『バレエメカニック』)

どうして「同じ(平等な)人間」なのに、理解できないのか。それは、自分はどうして人間嫌いなのか、どうして「他者」と解り合えないのか、よりも切実な問題でした。私は「セックス」として女性(他者)を考えていたのです。それは、ココロ(精神)とカラダ(肉体)の分離でした。

最近、少しわかってきました。「分からない」ということが分かってきたのです。もっと単純にいうと、「違うものは同じじゃない」ということです。モテたいがために(他人とわかり合いたいために)、無理に自分と「同じ」だと考えようとしていたのです。独我論(「私が独我論とよぶのは、けっして私独りしかないという考えではない。私にいえることは万人にいえると考えるような考え方こそが、独我論なのである。」柄谷行人『探求Ⅰ』講談社学術文庫、P.12)です。

どこにおいてもヴァナキュラーなジェンダーは、金銭のつながりによって消滅させられており、ヴァナキュラーな話し方は、識字化、学校化、テレビによって消滅させられてきている。(P.301-302)

経済人として経済社会に生まれた私たちは、もうジェンダーを取り戻すことはできないのでしょうか。たまたまイリイチは日本を採り上げています。

しかし今日ですら、世界の多くの地方で、男女の話す事柄は違っている。それだけでなく、違う理由として、言語自体がこれを求めるということがある。たとえば日本の女性は、オフィス、工場、政治の場以外の所では、男に特有の話題をとりあげることが少ない。ヨーロッパの女性にくらべて、より少ない。だが、とりあげるとしても、違った事柄について語る。この相違はあまりにも大きくて、男と女の話しことばのなかで等しい語句を探し出すのは意味がないほどである。たいていの場合、話す内容が表現のしかたと同じくらい異なっているからである。女たちが庭とか祭りとかを話題に五分間ばかり話し合いをしなくてはならないような場合、男たちなら、同じことを話し合うのに、言葉にもならない言い方で二言三言述べるだけで片付いてしまい、それ以上になろうものなら、面目をつぶすことになる。(P.299)

どう思いますか。そのような差もだんだんと無くなってきているように思います。とくに公式の場(例えば討論)では、英語教育の影響もあって、自己主張をするためにはその差を表現しないようになってきているのではないでしょうか。

「嫌よ嫌よも好きのうち」なんていうのは、死語になるのでしょうか。

私は、母から祖母の話を何度か聞いたことがあります。考え方はだいぶちがったようです。そして妻の話はもっとちがいます。母の話は、半分は「ぐち」ですが、どこか尊敬のような感情があるように思いました。

「男女平等でしょ」という言葉と「だって女だもん」という言葉を同一人物から聞けるうちは、まだジェンダーの回復(あるいは新しいジェンダーの創造)が可能なような気がします。

それゆえジェンダー研究の課題は、日常のなかにジェンダーの残骸を見つけ出すことでもある。それは、ジェンダーの残骸をロマンティックに誇張させるのでもなければセックスの特徴だけに限定するものでもなく、それを社会的に認知させるよう助けることである。(P.290)

ジェンダーが全く消えることはないような気がします。

私にとって、ヒューマンな現象としてのホモサピエンスについて独自な点は、ジェンダーというあの象徴的人間性が人間の姿をとって不断に顕現しているということである。(P.160)

イリイチにあるのは、弱者にたいする慈愛の気持ち、人間愛だったように思います。それは、彼の宗教心から出ているのかもしれないし、そしてそれは、他者を愛すると同時に自己を愛したいという気持ちでもあったでしょう。それは宗教をも超えてしまいました。そして、彼は終生カトリックの神父だったのかもしれません。

イリイチを支えたのは、その人間にたいする信頼であったろうし、私もやっぱりどこか、民衆と対立している自分がいながらも、それを一途の希望として共有したい気持ちがあります。

歴史

最後に、イリイチの歴史観について一言。

最後に、ベルクゼンも述べているように、イリイチ歴史理論の主眼は、西欧のたどった道のりが一回かぎりのものだったということを明らかにすることにあることをあらためて強調しておかねばならない。それは、<特殊歴史性>という歴史認識の別の表現であり、また次のような確信ある彼のことばの裏づけとなるものであろう。「自分としてはとくに、人類の三分の二が現代の産業時代を経験するのを避けることが、いまでも可能であるということを明らかにしたい」( Tools for conviviality, 1973, p.ⅸ)(P.428、訳者解説)

私が学校で習った歴史は、進化論とペアになっているもので、単線的で因果論的な発展(高度化)です。生物であれば、その頂点に人間がいて、人類の歴史であれば、原始(未開)から発展をとげて、西欧文化(自由、民主主義、資本主義あるいは社会主義、科学など)がその頂点にある、というものです。他の文化は「遅れている」、すなわち「劣っている」とみなされます。

強力な諸企画が試みられたのは、過去が現在の起源、つまりその原型となってあらわれるようにすることだった。いいかえると、過去の言語、慣習、諸制度は、われわれに身近な現代の言語、慣習、諸制度の真の祖先、その未発達な形態にほかならないものだと思わせることだった。(P.392)

ロシアがウクライナに侵攻したかと思えば、イスラエルがガザ地区を攻撃し始めました。これが「頂点」といわれる西欧文化の姿です。そろそろこの歴史観の不思議さに気がついてもいいのではないでしょうか。

私は、最近の動物行動学の人たちが行っている観察所見と言い争ってみるつもりはない。だが、ジェンダー不在の現代の人間たちが、ほとんどサルと同じように振舞っている事実を見ると、セックスの世界は非人間的であるという私の命題を確認するものといえる。(P.160-161)

イスラエルは「なお、現代イスラエルの公用語であるヘブライ語は、古代ヘブライ語を元に20世紀になって復元されたものである。全くの文章語となっていた言語が復元されて公用語にまでなったのは、これが唯一のケースである。上記の理由から、現代ヘブライ語の方言はないとされる」(Wikipedia)。これはイリイチの言葉で言えば「ヴァナキュラーな話しことば」がないということです。象徴的ではないでしょうか。

注解121で言及されているアリエスの著書にこうあります。

(生、死、性、出生、等・・・引用者)これらの現象は生物学的なものと考えられ、従って文化以外の自然の性質に属し、変化しないものとみなされたために、現在にいたるまで歴史家に採り上げられないでいたのである。だが、私はこれらの現象も動き変化することを知ったのだ!(フリップ・アリエス『<子供>の誕生』みすず書房、P.1)

「生物学的なもの」「自然の性質」が不変であること、これが近代(西欧)科学の基礎です。でも、ここからは進化論的歴史観は生まれません。実際、生物も自然も(つまり客観的世界)は変化しています。日本には「輪廻(輪廻転生、生まれ変わり)」という考えがあります。古代ギリシアにもあったようです。ところが、キリスト教は終末論です。世界には始まり(『創世記』)があって、終末(末日)に向かって直線的に進んでいきます。

社会というものには過去が必要だ。現在についてのセンスを確定するために、生きているものは自己に適した過去を要求する。創世の神話を社会がもつことなしに、複数の第一人称は存在しない。つまり<われわれ>というものは存在しない。いついかなる時代でも、二つのジェンダーよりなる<われわれ>が生きてこられたのは、それぞれの社会に儀式、祭、タブーがあったからだ。産業社会もまた、創世の神話を必要としており、これなしに産業社会の存在はありえないであろう。それだから産業社会は、特別な制度を創造し、各家庭に<新情報>と、不変の意味をもつ<過去>を送り届けている。過去は、産業活動の一つとなったのである。

産業社会がその過去を量産的に作り出そうとする企ては、歴史学の名で呼ばれてきている。約一〇〇年間にわたって、歴史学によってジェンダーなき現在とジェンダーある過去とのあいだに連続性がつくりだされ、セックスはジェンダーを継承するものだという正当化が組み立てられた。(P.391)

どの文化にも、「世界の成り立ち」や「世界の構造」に関する神話はありそうです。『古事記』にも『ギリシア神話』にも、わたしたちの感覚からすると「非論理的」なところがあります。『創世記』だって同じです。キリスト教(ユダヤ教、ヘブライズム)をギリシア哲学(論理学、ヘレニズム)に適合させるために、中世の神学者は並々ならぬ努力をしたのでしょう。「学者」は論理的に考え述べる必要があります。

私が疑問に思うのは、この書物における因果律思考である。それは徹底的に考え抜かれ、極端に定式化された文明化過程の最終目標からその歴史を描き出して評価を下し、それを直線的な因果連鎖のなかに置いて、ひとつの原因、すなわちジェンダーの消滅から推論しようとする試みである。

イリイチはここで自分自身がたたかっている思考圧力に屈しているのだろうか。(P.415、ベルクゼン)

私はむしろ、訳者玉野井市の意見に同意したいと思います。

イリイチ理論は、ベルクゼンのいうように、<ひとつの原因>から出発した<因果的思考>というよりも、ジェンダーからセックスへという歴史の連続性をむしろ否定することに力点をおいている。(P.421)

それは「歴史の断続(断絶)性」ということではありません。因果律という西洋論理そのものの否定です。それは、過去と未来の連続性を前提とし、過去から未来を照射するということです。

未来に関して彼(イリイチ・・・引用者)は何も語らない。「私は提示すべきいかなる戦略をも持ち合わせてはいない。可能ないかなる処方箋についても考えをめぐらすことを拒否する。私としては、現に存在し、またこれまで存在していたものを把握しようとつとめる概念の上に未来の影が投げかけられるのを避けたいのである。」(P.416-417、ベルクゼン)

ベルクゼン自身が引用しているイリイチの言葉は、まさしくこの事を指しているのではないでしょうか。






現代文明の鋭い批判者であったイリイチの代表作.産業的商品に完全に支配された生活様式に特有の「セックス」とは異なる,本来的な人間関係のあり方に考察を進める.時間と場所に応じて多様な形をとる女と男の世界=「ジェンダー」を歴史的に分析し,その喪失がもたらした現代社会の荒廃を厳しく批判した.



[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4000262576]

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