探究Ⅱ 柄谷行人著 1994/04/10 講談社学術文庫

探究Ⅱ 柄谷行人著 1994/04/10 講談社学術文庫

二〇年ぶりに再読

色々あって、また読んだのですが、やっぱり頭が混乱して終わりました(笑)。今回もほぼ二回読んだのですが、わかりません。前回の感想文を再掲します。

1度目に読んだとき、漠然ながら自分の生き方が見えたような気がして、もう1度読み直した。よくわからなかったが、自分は共同体の中にいて、共同体的な思考をせざるを得ないが、スタンスは共同体の外にあらざるを得ないのではないかと思っている。それが超越論的立場だ。外といっても、物理的な、あるいは空間的な外ではない。それは、他の共同体の中でしかない。共同体からはずれることはできないのだ。
 独我論を抜け出すには、自分(や自分以外の存在)の単独性を認めなければならない。単独性は「一般」に対する「特殊」ではない。私はかつてそれを「特異点」と呼んだ。それは固有名で表されるものであり、数に還元(抽象)され得ないものである。。そのような(固有名をもった)私というのは、探すものでもなく、見つけるものでもない。ただ他と交換不可能なものとして存在するだけである。それは、共同体性からはみ出している。そのはみ出した部分が社会的かどうかはわからない。それは、共同体としての自分から見た他者である。その他者との関係は非対称的である。それは、他人の中の他者との関係と同じである。同じ言語ゲームを共有しない関係なのだ。
 他者との関係は常に不確定である。そこには規則を想定できないのだ。関係が持ち得たときに、事後的に規則を想定できるだけである。
 私はそう生きざるを得ないとしても、それほど強い人間ではない。同時に心の安定を求めている。不確定な社会性の中で、心の平穏は得られるのだろうか。

前回のほうが理解していたかもしれません(汗)。頭が柔らかかったからね。

個(個別)と単独性

第一部は「固有名をめぐって」。

名文があります。

失恋の傷から癒えることは、結局この女(男)を、たんに類(一般性)のなかの個としてみなすことであるから。(P.15)

「女(男)なんで世界に何十億人もいるんだから」とは、失恋した友達を慰めるときの言葉です。ふられた相手は「女(男)一般」「女(男)という概念」のなかの「個(あるいは特殊)」ではありません。著者は単独性( singularity )と特殊性( particularity )を区別しています(P.11)。この辺がわかりにくいのですが、著者はこの辺の関係を「〈概念〉…一般性(類)  ー特殊性(個)」という軸と、「〈観念〉…普遍性  単独性」という軸に整理しています(P.150)。これならわかりやすい。ただ、「類( genus、general)」という全体に対する部分は「種( spicies、special )です。つまり、図式の前者は「全体(ホロス)に対する部分(メロス)」の関係です(古田裕清著『西洋哲学の基本概念と和語の世界』中央経済社、参照)。でも後者の「単独性」は「全体に対する部分」ではありません。

たとえば「ポチ(固有名)という犬(一般)」「この犬」は「ポメラニアン」という種類に属していたり、「オス」という性質を持っていたりします。でも、「この(かけがえのない)犬」は、ポメラニアンかどうかで規定されているのでもなければ、オスである必要もありません。ふられた相手も「女(男)」という性質はもっているでしょうが、それを越えた存在です。他にも「お金持ち」とか「可愛い顔」とかの性質(属性、attribute、category)をもっているでしょうが、「お金目当てだったんだな」とか「体目当てだったのね」と言われるのは心外です。

「好きになった理由」として「お金持ちだったから」とか「可愛かったから」とかのさまざまな理由(因果関係)を「あとから」言うことはできます。「女(男)だったから」ということもあるでしょう。でも、好きになってしまえば「女(男)であること」「お金を持っていること」「可愛いこと」などは、二次的なことがらです(場合によっては「でも、(残念なことに)女(男)なんだよね」と否定的な属性になることもあります)。

「二次的なことがらでした」と過去形で言ったほうがいいのかもしれません。「好きだ」というのは、「好きである」=「好きな状態になる(ある)」ということで「愛する」というような能動的主体(主語、主格)を必要としない(主格は存在しない)からです。

大体において、日本(和語)には「全体」とか「部分」といったような概念を表す言葉すらなかったのですから。

超越論的

第二部は「超越論的動機をめぐって」。

この「超越的」とか「超越論的」とかいう言葉がよくわかりません。日常でもたまに「彼のテクニックは人間業を超越している」というように使ったりしますが、それはたんに「越(超)えている( beyond ?)」という意味です。哲学用語としては超越論は「 transcendent 」の訳語で、

From Middle English transcenden, from Old French transcender, from Latin transcendere (“to climb over, step over, surpass, transcend”), from trans (“over”) + scandere (“to climb”); see scan; compare ascend, descend. (weblio

カントの「transzendental 」は元は「先験的」と訳されていたようです。

〘形動〙 (transzendental の訳語) 哲学で、経験に先だち、すなわち経験から独立して、経験を可能にするように条件づけるさま。一切の経験に先だって、認識の可能性を取り扱うことができるすべての原理のあり方のさま。超越論的。(『精選版 日本国語大辞典』先験的の項)

[形動]《〈ドイツ〉transzendental》
1 カント哲学で、対象にかかわるのではなく、先天的に可能な限りでの対象の認識のしかたに関する認識についていう。超越論的。
2 フッサールの現象学で、エポケー(判断中止)を行ったのちに残存する純粋意識の領域に関していう。超越論的。(『デジタル大辞泉』先験的の項)

私はカントもフッサールも読んだことがないので、なんともいえません。問題は「超越的」と「超越論的」の違いです。ちょっと気を抜いて読んでいると混同してしまいます(笑)。

デカルトは、ひとが完全にめざめる(夢の外に出る)ことができるなどとは考えない。つまり、彼は超越的な立場を斥ける。彼の方法は、カントやフッサールの用語でいえば、超越論的なのである。超越論的な方法によってしか、幻想を幻想とみなす、逆にいえば真理を基礎づけることはできない。が、超越論的とは、上方や下方に向かうことではない。それはいわば横に出ることなのだ。(P.106)

平たく言えば、「超越的」は「上から目線」、「超越論的」は「横目で見る」あるいは「斜に構える」ということでしょうか。

町を上からみるか下からみるかの違いがあらわれてくるのが、全体としての都市景観である。ヨーロッパの町は、外から全体として眺めると大変に美しい。具体的には、法律によって、一定の建築様式しか許されないようになっているところが多いが、それによって、町全体としての美しさをめざしている。日本では、高い建物の上からみて美しいと思える街は珍しい。(鈴木秀夫著『森林の思考・砂漠の思考』P.21-22)

「超越論的姿勢」というのは、神の視点に立って見下ろすのではなく、同じ地平に立って外から(自分自身すら)疑ってみるという視線です。

超越を否定しうるのは「超越論的」姿勢であり、主体(個)を否定しうるのは単独性なのだ。(P.187)

超越論的主観とは、外部的であろうとする"態度"そのものなのだ。(P.209)

そんな事ができるのでしょうか。

たとえば、日常的にもの(客観)が私(主観)の前にあるという考え方を否定するならば、ひとはまず生きていけない。その自明性をとりあえず還元(カッコ入れ)しようとするのが超越論的ということであって、本当にその通りに生きてしまえば、分裂病者になるだろう。(P.222)

これらの考え方は、経験的な私(主観)や自由意思を批判する。しかし、それは、主体を否定したり滅却したりすることではないし、そんなことはできはしないのだ。(P.226-227)

嬉しいです。最近、「我・自己・主体」を「仇」のように思って格闘してきたので、「そんなことはできやしないのだ」といい切ってもらうと、ちょっと心に余裕ができました。仏教の修行(後で書きます)じゃないんだから、「滅私」なんてことはできないに決まっているのです。夏目漱石の「則天去私」も同じような気持ちだったのではないでしょうか(その弟子?の芥川龍之介は、自分を殺してしまったけど)。

ついでにもう一つ今日元気をもらったのはローリング・ストーンズの「アングリー」。ぜひ聞いてください。

「滅私」も「超越論的」も「共産主義」も、達するべき目標(目的)ではなく、「態度」であり、「実践」なのです。

目的は、まさに全体を見通す視点から来るからである。(P.174)

スピノザの『エチカ』のオプティミズムは、フロイトのこのペシミズムとちょうど表裏の関係にある。それは希望の物語をもたないがゆえに絶望をもたない。それは意味・目的をもたないがゆえに無意味をもたない。一方では、希望・意味をもたないがゆえにペシミズム・ニヒリズムにみえ、他方では、絶望・無意味をもたないがゆえにオプティミズム・信仰に映る。(P.189)たとえば、マルクスやニーチエが何といおうと、ひとは(彼ら自身も)"目的論的"に生きている。それを否定することはできない。だが、それをカッコにいれることはできる。(P.222)

いいかえれば、超越論的主体は、世界を構成する主体=主観ではなく、そのような世界の外部に立とうとする実践的な主体性においてしかないのである。超越論的であることは、主体的であることであり、その逆も然りである。(P.227)

「的」「性」

日本語訳においての「論」は英語やドイツ語のどこに当たるのでしょうか。「 al だ」ということはできますが、それは動詞を形容詞化しているだけですよね。「超越的」の「的」も同様です(名詞の形容詞化)。「人間性」の「性」も同様。これらは多分、私のなかでの「和語」では説明できないし、理解出来なんだろうな、と思っています。

これらは、印欧語がもつ定冠詞や複数形、あるいは「能動・受動・中動(もう英語にはなくなってるけど)」から導かれたもので、日本語(和語)にはならないんじゃないでしょうか。これらの言葉は、知っている日本語(和語)から類推することはできず、「そのもの」として覚えるしかないと思うし、もともと「受け入れる素材」としての文法構造がないのですから、受け入れるのはとても困難です。

学者は、原書を読みます。文法構造と一緒に言葉を覚えるので、分かる(分かった気になる)のかもしれません。直前の引用文のなかにある音読み漢字二文字の言葉、目的・全体・視点・希望・絶望・主体・世界・・・、日常的に使う言葉も多いのですが、それらは翻訳のための造語だったり、仏典・漢籍から転用されたものです。たとえば「目的(目標)」に相当する古典ギリシャ語は「 τέλος 」でしょうが、目的とテロスは当然同じではありません。それは、使う人によって意味がちがう(学説的にちがう)ということではなくて、文法構造、あるいは思考形式として日本語とはちがうのですが、日本人は何となく「こんな意味かな」として使っています。もちろん、言葉はそれが意味する対象をそのまま表しているわけではありません。でも、それとはまったくちがう意味でちがうのです。

著者が「デカルトが意味するのはこういうことだ」「ライプニッツはこういう意味で使っている」などというのはとても面白いのですが、デカルト・ライプニッツ・カント・フッサールの差を知ることに加えて、原書を読めない(邦訳も読んだことがない)私には、印欧語と日本語という溝があるのです。逆に、私が柄谷さんの著作や、デカルトの翻訳書を読むときには、二重に気をつけなければいけません。柄谷さんやデカルトが何を言っているのかだけではなく、それらの言葉が西欧でどのように使われてきたのかをも考えなければならないのです。でも、翻訳文化の日本には、そういう読み方をする気運があまりに少ないと思います。なので、「自由・平等・権利」などという言葉がよそ行きの言葉として流通するし、「ジェンダー・ソーシャル・プライベート」などという横文字が何となく流通します。西欧では、哲学用語(専門用語)の多くはギリシャ・ローマから続く(変化してきた)日常語です。それは文法構造とともに流通しているので、考えることと哲学することの間がシームレスです。一般人と学者(専門家)の間も同じです。日本語における哲学用語は「硬い」「公式な」「よそ行きの」言葉です。一般人と学者(専門家)の関係もそうですね。結果として、日本においては西欧以上に専門家が「力」をもつし、一般人が学問や政治・経済に口を挟むことができません。

「内部」と「外部」

第三部は、「世界宗教をめぐって」。

「世界宗教」は、どこでも、共同体を脱構築する運動としてあらわれたのだ。それが犠牲者(外部に放逐される者)の側に立つようにみえるのは、ヒューマニスティックだからではなく、それ自体が内と外の区別がないような空=間の回帰としてあったからである。(P.289-290)

ここでのキーワードは「内部と外部」「共同体と社会」です。

日本の建物は、玄関、軒下、縁側など、「内(うち)」と「外(そと)」の間に緩衝帯のようなものを設けています。グレーゾーンです。これは建物の構造とも関連しています。日本の建物は「柱」が重要です(いちばん重要なのは大黒柱)。柱を立てて、それが屋根を支え、周りに壁を作ります(洋館や最近のツーバイフォーはちがいます)。西欧の建物は、壁をレンガや石で作り、そこに屋根を載せます(北方の木造家屋は別です)。屋根は壁が支えていて、壁は「内」と「外」を明確に区切ります。日本の壁は、雨風を防ぐものではありますが、西欧の壁ほど内外を明確に区切っていません。同じことが言語構造にも言えます。明確な主格の存在(表示の義務)が、主格と述格の主客構造を作ります。そして明確な「主体(主観)」と「客体(客観)」を作ります。その明確化が言語的に義務付けられているのです。日本にも当然「内と外(そと、ほか)」があります。「うちの家族は」「うちの会社は」と言いますが、これが「 my family 」「 my company 」と違うのは、そこに「私」がいるかどうかです。「うちの家族(会社)は」といったとたんに、じぶんはその家族や会社と一体化して(溶け込んで)、しまいます。でも、「 my family(company)」というときには、family や company は my の延長(外延 extention )です。

延長 extention デカルトにおいて重視された近代哲学史における基本的な概念。感覚的自明性として物体は長さ,広さ,深さに広がっているものとみることができるが,物体のこのような空間上の広がりを延長という。デカルトの二元論において,物体は精神とともに実体であり,延長は物体の本性とされる。スピノザにおいても物体の本性として延長はとらえられ,またロックも第1性質として延長の実在性を認めた。このように,延長を客観的実在性として物そのものに帰属させる立場に対して,カントは延長を純粋直観の形式としてとらえ,これに経験的実在性のみを認めている。(ブリタニカ国際大百科事典「延長」の項)

自分の体は一番身近な自分の延長です。それが実在しているかどうかは別としてもそれは自分の「外部」です。そこには明確な区別があります。外部であるからこそ、臓器移植が可能になります。「免疫機構」を考えるときも、「自己と非自己」の問題として捉えます(多田富雄著『免疫・「自己」と「非自己」の科学』NHKブックス、等参照)。外部であれば、所有や処分ということが問題になってきます。「身体的束縛」や「自由」などの意識も生じえます。

戦後まで、日本では庶民は一般的に家の鍵を締めていなかったと思います(長屋などで、鍵やかんぬきをかけているとなんかあったんじゃないかと心配されるような)。TVドラマを観ていて、家(アパート)に帰ってきたとき、ドアに鍵をかけないことが私は気になってしょうがないのですが、それは演出の問題なのでしょうか。高度成長期頃から「子供部屋」なるものが必要とされるようになりましたが、それまでは親と子供は同じ部屋に寝ていたし、そこで親はセックスもしていたようです。それは「住宅事情」というだけではないような気がします。

「無限定」と「無限」

私は「無限」をイメージできません。「偶数と整数は同じ無限だけど、整数と実数は違う」と言われても、「偶数と奇数を合わせて整数なんだから、整数は偶数のニ倍」、つまり「違う」と思ってしまいます。「一対一対応」とか「射影」などを使って「同じ」ことを証明することはできるけど、自分で納得はできていません(笑)。

「無限」を前提すると、有限(内部)と無限定(外部)という区別そのものが無効にされてしまうだろう。」(P.162)

「無限」は、無際限な超越者ではない。それは、そのような超越がもはやありえないという意味で、世界を閉じるものである。その時、内部と外部、本質と現象、真理と幻想、精神と肉体といった二分法が静かに止めをさされたのである。(P.168)

はてしないが有限である宇宙。この深遠な認識は、実際のところ、簡単な球面のモデルで考えられたものだ。いいかえると、「無限」は、なんら神秘的なものではない。それは、無限定なものが閉じられていることを意味する。それは、限定された内部(コスモス)と無限定の外部(カオス)という分割を無効にする。(P.337)

アインシュタイン(以降)の「相対性理論」は、数学的にはわからないけど、その意味するところは何冊か解説書を読んでいるので、何となくわかります。球面上(地球上)で平行なニ直線(=円周)が交わることもわかります。きっと宇宙は「はてしがないが有限」なのでしょう。

著者がいいたいのは、無限においては「内部と外部」の区別そのものが意味がなくなるということです。同様に、「中心」というものもなくなります。「端っこ(周縁)」がないのですから、その中心もありません。それでも中心を仮定することはできます。私がいる場所、あるいは「私(自己、主体)」です。

「我思う故に我あり」

近代的自我の先駆者といわれるデカルトの「我思う故に我あり」を著者はこう解釈します。

だが、「疑う」ことはたんに「思惟する」こととは違う。デカルトによれば、「疑う」ことは、意志の働きであって、知性の働きではない。(P.113)

だが、「われ疑う、故にわれ在り」というとき、話はちがってくる。この場合、「われ在り」は、共同体の外部に出ること、つまり実存することを意味するからである。要するに、私は、デカルトにとって「疑う私」は、一般的な私(主観)に解消されないといいたいのだ。(P.116)

「疑う」ことを強いる差異、絶対的な差異あるいは差異の絶対性ことが神だといってもよい。

いいかえれば、「疑う」ことには、最初から、他なるもの、つまり他者の他者性がひそんでいる。(P.122)

他国(オランダ、共同体の外部。デカルトは暖炉の前でじっとしていたらしい)で、デカルトは「他者」に出会います。

ヘーゲルは、レヴィナスのいい方でいえば、すべてを構成しうる「全体性」の哲学の系譜にあり、一方、デカルトは、けっして構成しえない外部性(無限)を見出した哲学者だからである。(P.128)

「疑う」という意志は、共同体(システム)あるいは同一性から外に出ることを意味するのであり、それは単独的かつ外部的な実存である。ニーチェならは、この意志を「力への意志」とよぶだろう。それは狭義の方法などではありえない。それはいわば倫理である。スピノザの『エチカ』はこのようなデカルトの線上に書かれる。

くりかえしていおう。「われ思う故にわれ在り」が証明でないとすれば、「無限(神)が在る」ということもコギトの明証性から導き出される証明ではない。逆に、無限があるからこそコギト(外部的実存)が可能なのであり、「われ在り」とは、いわば「無限のなかで疑いつつわれ在り」ということである。(P.129)


「共同体」と「社会」

著者が無限を取り上げるのは、共同体を規定するためです。共同体は、その内部とそれ以外の外部を持ちます。共同体は「閉じられた社会」であるからこそ、外部をもつのです。

共同体といえばふつう村落が考えられているが、"個人"もまた内部と外部をもつかぎりに置いて一種の共同体なのだ。それらは、思念の上では、内的な同一性を保持しているが、実際には、社会的な交通の文脈(コンテクスト)に属している。いわゆる「未開社会」もまた同様である。(中略)共同体とは、社会的なものに対して、自らを閉ざし、まるで自立した世界であるかのように在るシステムのことである。(P.347)

私は著者のいう共同体を「ゲマインシャフト」、社会を「ゲゼルシャフト」と考えると分かる気がします。私という個人はそれが外部をもつかぎり、それは共同体的です。私という中心があって、その延長として(外部に)身体や客観的な事物があると考えるとき、「私」は共同体なのです。

規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体とみなすことができる。共同体の外とか間という場合、それを実際の空間のイメージで理解してはならない。それは体系の差異としてのみあるような「場所」である。(P.237)

共同体とは同じ言語ゲーム(話すー聞く、書くー読む)が成り立つ場であり、それに対して言語ゲームが成り立たない(教えるー学ぶ)関係にある「単独者」は「他者性」を持ちます。

われわれは、個ー共同体という対と、単独者ー社会という対とを区別しなければならない。(P.198-199)

始めに取りあげた図式で言えば、

〈概念〉…一般性(類)  同一性  特殊性(個)  共同体  異者」<=>〈観念〉…普遍性  (絶対的)差異  単独性  社会  他者(性)」

ということになります。

「冷たい社会」であろうと「熱い社会」(レヴィ=ストロース)であろうと、共同体にとって肝心なのは、内と外の境界を保持することであり、いいかえれば、社会的な交通から身を閉ざすことである。(P.348)

私の頭に浮かんだのは「引きこもり」(つまり私のこと)です。引きこもりは自意識過剰で、承認欲求が強いといわれます。鍵をかけて自分の部屋(内)にこもったとしても、絶対に「外部」があり(あるからこそこもるのです)、その外部との交通(インターコース、交際、性交)が「自分」の存在のためには不可欠です。食べたり飲んだりしなければならないし、排泄もしなければならない。「生きている」ということが「外部とたえず交通」しているということです。歳を取って体が動かなくなってきたり、病気や怪我をしたときに「自分の体」を実感(意識)します。「四苦(生老病死)」は、自分が肉体という「外部」をもつがゆえに生じます。西欧と同じ印欧語を話すインドでブッダは、「対象としての肉体」をつねに意識していたのではないでしょうか。

えてして「自分の殻を破る」ことは勧められても、「境界を侵す」ことは禁止されます。どちらも共同体の「堺」を越えることです。

超越や神判といった主題は、内部(閉じられたシステム=共同体)の存続にとって不可欠なのである。越境は不可能であり、かつ不可避である。だが、このことに深遠な意味などない。というよりも、この深遠さ、この神秘性こそが、内部と外部の分割にもとづいているのだ。(P.333)

無限の発見は、内部と外部の境が「概念によって作られたもの」だということを示します。それは、「主格と述格」「主客構造(主観と客観)」という印欧語の文法構造です。私はもう一つ考えています。それは「視覚重視」ということです。鈴木秀夫氏の言葉で言えば、「森林の思考・砂漠の思考」ということになります。地平線まで見渡せる砂漠では、遠くを「見る」ことが、生き残るために必要です。森のなかでは山や木が邪魔で遠くを見ることができません。そこで大切なのは、野生動物(的か味方かは別として)の声や動きに伴う音です。それは、危険を知らせるものだったり、食料の在り処や季節の変化を教えてくれます。日本人は鳥の声だけじゃなく、「香を聞」いたり、「聞酒(利き酒)」したりします。視覚は間に壁などの遮るものがあれば見えません。箱の「内側」に何があるのかを見ることはできません。でも、振ることによって、重みを感じたり音がしたりします。聴覚重視の文化と視覚重視の文化では「内部・外部」に対する思いも違うのではないでしょうか。レントゲンや電子顕微鏡で「見たものは存在する」というのは、聞いたもので存在するというのとには(認識論的にも存在論的にも)大きな差があると思います。

「世界」と「宇宙」

著者は、ジョルダーノ・ブルーノ( Giordano Bruno, 1548年 - 1600年2月17日)についてこう言います。

彼の考えでは、宇宙(天)は一つであり、「諸世界を含む無限の普遍空間」である。このことは、「世界」とは共同体であり、「宇宙」とは社会であると理解すれば、すこしも難解ではない。つまり、一共同体を中心とする思考は、たかだか一つの「世界」でしかないというのである。それがどんなに「普遍的」であるようにみえても、一共同体(世界)のものでしかない。(P.163)

私にはわかりません(ブルーノも読んだことないし)。著者はこういう意味で使っているということです。共同体の「内部」と「外部」が一つの「世界」をつくっています。でも、新大陸が発見されて、世界(地球のこと)には「端がない」ことがわかりました。それによって世界は閉じられてしまったのです。西欧は閉じた世界(地球)の外側を求め始めます。宇宙開発です。想定性理論によって宇宙が「閉じられ」てしまった今、「宇宙の外側」を探すことになるのでしょうか。

世界宗教

今日、世界宗教とみなされている宗教は、キリスト教、イスラム教、仏教である。(Wikipedia

「世界宗教」は、どこでも、共同体を脱構築する運動としてあらわれらのだ。それが犠牲者(外部に放逐される者)の側に立つようにみえるのは、ヒューマニスティックだからではなく、それ自体が内と外の区別がないような空=間の回帰としてあったからである。(P.289-290)

現在のキリスト教、イスラム教、仏教が著者のいう「世界宗教」なのかどうか、宗教にまったく興味がない私にはわかりません。ただ、ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ、あるいはインドとパキスタンの戦争などを見ていると、それらの信徒が世界宗教を信じているようには思えません。私は戦争という暴力を非難しているわけではありません。それぞれが「正しいのは私達」と思っていること(唯我論)、相手国を「外部(異者)」だと思っていることが世界宗教と異なると思うのです。それはあくまでも「異者」であって「他者」ではありません。少なくとも「戦争」という同じルールを共有しています(それを「ルール」と言えるかどうかは微妙ですが)。国際犯罪というものを認める国、あるいは国連に参加する国々はそれぞれが共同体であり、それらの集合も共同体的です。「教えるー学ぶ」の関係にあるとき、他者はルールを知りません。その他者にルールを教えようとすること、相手を共同体に引き入れようとすること自体が共同体的発想なのです。

だが、他人を強制する権力に転化しないような神秘主義などありえない。なぜなら、それは「実在」(真理)を握っているからであり、万人がそれに従わねばならないからである。また、「真理」の実現をさまたげている者は排除されねばならない。この意味で、「理性」が、魔術を排除し非理性(狂気)の領域に追放したなどというのは当たっていない。理性やイデアというものは、むしろ魔術に由来し、魔術的に機能するのである。(P.324)

理性にもとづく合理的な「科学(学問)」そして「貨幣(お金)」は、それが万人に通用するものだと思われているかぎり、それは今の世界宗教と同様「共同体的」なのです。

鳩を轢く、性的暴力

今日、朝の情報番組で「鳩を轢き殺したタクシー運転手逮捕」というニュースが流れていました。まだ有罪になったわけではありませんが、顔も名前も全国に晒された彼はどうなるのでしょう。「動物保護法」ってなんなのでしょうか。「人を殺すこと」と「鳩を殺すこと」は同じ「悪」なのでしょうか。私は何となく今の日本人は「鳩の自由・(人)格・(人)権」を見ているような気がします。

エリアーデは、シャーマニズムに宗教の普遍的基礎を見たが、世界宗教はそれを否定することなしにありえなかったのである。世界宗教は、商人と同じように共同体の外の「世界」において「他者を愛する」ことを説くのだから。しかるに、魔術は自己愛的であり、人間中心主義的であり、「感情移入」(ヴォリンガー)的であるが、実際は他者(外部)をもたず、かつけっしてそれに出会わないような思考なのである。(P.323)

ウィルヘルム・ヴォリンガー(ドイツ語:Wilhelm Worringer、1881年 - 1965年)、20世紀ドイツの美術史家で、ヴォリンゲルとも表記する。 (Wiki

自分が「死ぬのは嫌だ」「痛いのは嫌だ」・・・と思うことを鳩に投影(感情移入)しているのです。ところが、自分が食べる野菜、魚(クジラを含めて)、牛や豚にはそういった感情を抱かないようです。犬や馬は「笑う」と言われます(それに比べると猫は笑わないようです)。だから犬や馬は「仲間(同胞)」だったり「友達」だったりするのかなあ。最近は「植物にも感情がある」と言われることもあります。『堤中納言物語』に「虫愛づる姫君」という話があります。日本人にはそういう心がある、ということではありません。イギリスにおけるペットの扱いは日本と異なるそうです。足を骨折した競走馬に対する態度、スペインの闘牛など、動物に対する感情は異なります。「生類憐れみの令」を受けとった江戸時代の人と、「動物保護法」の精神は同じとは言えません。鳩を轢き殺した人の気持ちはわかりません。それよりもボーガンで鳩を撃ち殺した人の気持ちのほうが、私には分かる気がします。私にとって、どちらが他者性が強いのでしょうか。フジテレビが報道した背景にはどういう国民感情があるのでしょうか。

昨日、NHKで「男性の性暴力被害」の特集をしていました。「本人の同意なく体を触ること」も性暴力だそうです。加害者の性別も関係ないそうです。私は「〇〇ハラスメント」という言葉にどうしても違和感があります。私が年寄りだからでしょうか。「ハラスメント法」は幾つかありますが、従来の犯罪と違うのは、加害者の「加害意識」が問われないということです。受けた側が「ハラスメントだ(嫌だなあ)」と思うことが犯罪の成立条件です。法は「主体性」同士の関係を調整するために設けられた共同体の規則です。

検事と弁護士は、敵対関係にあるのではない。彼らはいずれも法的な言語ゲームを修得した者たちであり、したがって役割を換えることもできる。このように役割を換えられるということは、法廷論争においては、法的な言語ゲームを共有した諸個人がいるだけで、他者はいないということを意味する。むろん、裁判官の判決は、判例として、法的言語ゲームを変えて行くが、それは言語ゲームの外部に出ることにはならない。(『探究Ⅰ』P.238)

ハラスメントも一つの言語ゲームで、加害者を「異者(異端者)」として共同体からはじき出します。

共同体がその努力を傾注するのは、内部の同一性(アイデンティティ)を保持すること、つまり自律的であるかのようにすることだからである。実際にはそのような自律性などありえないが、まさにそうだからこそ、共同体な内部的自律性を脅かすものを、"外部"に追放し、かつ"外部"に由来するものとみなす。

しかし、このような"外部"は共同体の"内部"に対して相対的にあるにすぎない。それは実は、共同体の一部なのである。この不気味(ウンハイムリッヒ)な外部(フロイト)は、親密(ハイムリッヒ)な内部の自己疎外にすぎないからだ。このような外部(異界)や、そこに属する異者(ストレンジャー)は、すでに共同体から見られたものであり、したがって共同体にとって不可欠な一環である。コスモスとカオス、中心と周縁の弁証法なるものは、かくして、共同体存続のメカニズムそのものである。(P.348-349)

著者が一番避けたいのは、自分が思っていること(考えていること)が「一般的」だと思われることだと思います。でも、この文章を読む人は現代文化を一般化しているように思うのではないでしょうか。いや、私のような一般人が著者の本に求めるもの自体が、「なにか新しい知(真実)」なのかもしれません。

たとえば、同じ川の水は二度とないと語ったヘラクレイトスは、「この水」あるいは「この私」の単独性(一回性)にかんする痛烈な意識をいだいていたはずである。むしろ、哲学(形而上学)とは、ここから同一性・一般性によって逃避しようとする懸命な意志にほかならない。(P.25)

(現代)哲学者も同じです。西欧の哲学者、あるいは西洋哲学に依る学問をする日本の学者(知識人)の多くも、西欧人の目から、他の文化を見、その文化を解釈し、自文化のなかに「結果(事後)的に」それを見つけているのです。区別(差異化)と同一視(同一性、概念化)、それらは特殊西洋の思考方法ではないでしょうか。学問そのものを否定することになるのかもしれないけど、学問は西欧思考方法による知です(それが翻訳され、日本に輸入されるときに、日本語の色を帯びる)。その学問を守らなければならないとは一概に言えないのです。

西欧の知(科学)が、日本人の生活を「便利」「楽」にしています。楽(便利)の観念、あるいは死の観念、楽の観念、それらは特殊歴史的で特殊地域(文化)的なものです。そこに「自我(主体)」という特殊な視点をもつ文化・時代だけにある特殊な観念だと思うのです。

はっきりとした他者をもたない日本語話者が、他者との関係の仕方を理解するのは難しいことです。ハラスメントに対する私の「うろたえ」とは正しくそのことです。でも、ハラスメントという「概念」のもとで育った人たち(Z世代?)が持つ感覚は違うのかもしれません。見知らぬ動物と接するように「おっかなびっくり」”他人”と触れなければならない人たち。その人たちには「他人」は「他者」なのかもしれません。

子供

最後に、子供、「まだ何者でもない人たち」について一言。

だが、他方で、レヴィ=ストロースは幼児を重視する。それは、幼児のなかに「未開人の思惟」を見出すからではなく、そこに多形的社会性( social polymorphe )を見出すからである。(中略)しかし、この多形的社会人としての幼児は、一つの共同体のなかで成長するとき、その"社会性"を失うほかない。(P.356)

子供(幼児)は一つの言語をおぼえることによって、それ以外の言語を話すこと(発音すること、聞き取ること、理解すること)ができなくなります。言語学者のように頑張ればいくらか可能になりますが、基本的にはできなくなるのです。私が今から外国語を身に着けようと思っても不可能でしょう。子供はおとなになれますが、おとなが子供になることはできません。子供を「未完成のおとな」と見る見方は、近代以降に始まったものです(『〈子供〉の誕生』。同じ見方が、古代社会や未開社会に対してもなされます。また、「進化論」も(それが「社会ダーウィニズム、社会進化論」であるかどうかに関係なく)同じ見方に基づきます。

歴史的な構造として理解できるものがわれわれにとってなお規範となりうるのは、それが二度と反復しえないからだ。それは、反復しえないものの反復としてのみ活きている。(P.23)

今西錦司氏は言います。キリンの首が長いのはどうしてか。

キリンが高い木の葉を食おうという欲求をもち、そのための努力をつづけたかどうかというようなことは、実証のかぎりではない。しかるに、そういう説明で子供もおとなも納得するということは、じつは自分をキリンのおかれた環境に投影して、自分だってそんな状態におかれたら、要求を実現さすための努力をしたであろう、とおもうからこそ納得するのである。そしてこれが、さきほどの引用にもあった、現在の科学の排斥する「擬人主義」である。(今西錦司著『主体性の進化論』中公新書、P.25)

移動せずに踏みとどまって、高い木の葉を食うのも、もちろん気候変化に対応した生き方として、結構なのではあるけれども、それはおとなのキリンにたいしていえることであって、キリンでも子供のときは、そんな高い木の葉は食えないであろう。その場合、子供を飢え死にさせたのでは、種が絶滅してしまうではないか。子供に高い木の葉を食わないでも生きられる方法があったのなら、おとなのキリンだって、おなじ方法をとることができたのではないか。現在キリンが高い木の葉を食っているのは、首や足が長くなり、高い木の葉が食えるようになったから、食っているのに、すぎないのでなかろうか。(同書、P.26-27)

簡単にいうなら、理性が発達してきて、人間が理屈っぽくなりだしたからであろう。これは、フランス革命の前後から目立ってきた、近代的人間の特徴の一つであって、科学の発達も、もちろんこのことと無関係ではないばかりか、進化論というものもまた、この風潮に便乗して、現れてくるようになったのである。(同書、P.37-38)

痛快・明快です。氏は突然変異や生存競争、適者生存などを否定します。それは西欧の「因果律」そのものの否定のように思います。それではどうして進化が起こるのか。氏は「変わるべくして変わる」という禅問答のような答えをします。子供についても、

環境を無視しようというのではないけれども、この個体にみられる成長という現象は、もともと私の身体にそなわった自発的現象であり、これをはたからみたら、私という主体のあらわす一種の自己運動である。

すると進化において、種が変わらないままで変わってゆくということも、環境に誘発されたり誘導されたりしなくても、もともとその種にそなわった一つの自己運動である、というようにみなせないものだろうか。時間のスケールにちがいがあることはもとよりだが、成長も進化もこれを時間軸に沿った一つのコースとみるかぎり、いずれも主体のあらわした自己運動の軌跡である、と見なしてよいのでなかろうか。」(同書、P.206)

これを「主体」と呼ぶのはどうなのかとも思いますが、生物の種同士は「棲み分け」を行って、「生物社会」を作っています。この「社会」を柄谷氏の「社会」と捉えれば、個々の種は単独者で、他の種は他者(種の中は共同体と個?)、ということになるかもしれませんが、そんな野暮な解釈はやめましょう。

子供の成長(多形的社会性の喪失)、それは生物進化における特殊化と似ていると私は思います。

けれども、いったん特殊化への道へはいったものは、もうなににでもなれるという適応放散のスタートへはもどれず、特殊化のすすむにつれて、変化しうる可能性の幅がおのずと限定され、完成とはつまりもうそれ以上は変化しようがない、という状態を指すものであろう。(今西『ダーウィン論』中公新書、P.132)

そこには優劣も善悪もありません。「なるべくしてなる」のです。歴史についても、柄谷氏と同じように表現します。

進化とは一種の歴史である。宇宙や地球の歴史と人間の歴史とをつなぐ一種の歴史である。歴史に法則性があるかどうか、私にはよくわからないが、すくなくとも進化というのは、この地球上では繰りかえしのない、一回きりのものだという点では、なによりも歴史に似ている。(『ダーウィン論』、P.129)

そしてここで、進化ということを、自然現象とみるか、それとも歴史とみるか、という、ものの見方のちがいが、問題となってくるのである。自然現象とみればなにか納得のゆく説明がほしくなってくるであろう。しかし、歴史としてみるなら、説明は与えられていなくとも、首尾一貫でよいのではないか。(同書、P.131)

子供が「社会性」を失って、「共同体性を身につける」ということについても、その「いいわるい」あるいは「原因結果」を考えても仕方ないのではないでしょうか。

私が「自我(主体性)」を捨てられずに悩んでいるように、今の子供達は私より強い(つまり西欧的な)自我を持っているように思います。私はそれがいいことだとは思いませんが、どんな環境(文化)においてもそこで生きるしかありません。他国に行くことは簡単になりました。でも、日本語を始め、それまで培われたものはなくなることはないでしょう。未来や過去に生きることができないように、他人(他者)を生きることはできません。

「はっきりとした他者をもたない日本語話者」というのは同時に「はっきりとした西欧的自我」をもたないということです。そして、日本にはそうした「自我(主体性)」を受け入れる社会的基盤がありません。むしろ「自己主張」が嫌われる風土です。

それをそれぞれが自覚し、欧州の理念信仰が培ってきた科学技術と法律を道具だと割り切って使いこなしていけば、世界の未来は多少、明るくなるだろう。(古谷裕清著『西洋哲学の基本概念と和語の世界』中央経済社、P.199)

私にはそうは思えないのです。西欧の歴史とは、それをしくじった(そしてそれを柄谷氏がいう「共同体」が隠蔽した)歴史じゃないかとすら思うのです。日本文化はあるときは急に、あるときはゆっくりと変化していくでしょう。でも、それがなくなってしまうことはありません。科学技術や法律を「道具」として使うためには、その基盤が必要なのです。日本が西欧化のために経験しなければならないだろう、あるいはしている苦しみを経験するよりも、日本文化独特の(バナキュラーな)な文化をめざすことのほうが幸せだと思うし、日本がそのような道を選ぶことで、他の文化も独自の道を作ることにつながるのではないでしょうか。それは「共同体」でも「社会」でもない文化です。私にはそんな夢が唯一の希望です。






[著者等]

柄谷行人[wiki(JP)]

1941年兵庫県生まれ。東京大学経済学部卒。同大学院英文科修士課程修了。現在法政大学教授。漱石論により群像新人文学賞、『マルクスその可能性の中心』で亀井勝一郎賞受賞。著書に『畏怖する人間』『意味という病』『批評とポスト・モダン』『日本近代文学の起源』『終焉をめぐって』『内省と遡行』『隠喩としての建築』『反文学論』『言葉と悲劇』『探究1』など多数。

『探究1』で、独我論とは私にいえることが万人に妥当するかのように想定されているような思考であると指摘した著者は、『探究2』では「この私」を単独性として見る。単独性としての個体という問題は、もはや認識論的な構えの中では考察しえない。固有名や超越論的コギト、さらに世界宗教に至る各レベルにおいて、個(特殊性)―類(一般性)という回路に閉じこめられた既成の思考への全面的批判を展開する。



[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061591202]

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