数の発明 ― 私たちは数をつくり、数につくられた ケイレブ・エヴェレット著 屋代通子訳 2021/05/06 みすず書房

数の発明 ― 私たちは数をつくり、数につくられた ケイレブ・エヴェレット著 屋代通子訳 2021/05/06 みすず書房

ダニエル・エヴェレットの子息

著者の父は『ピダハン』を書いたダニエル・エヴェレットです(『ピダハン』の訳者も屋代通子さんです)。

『ピダハン』は面白かったなあ。そこに著者(ケイレブ)のことは何度もでてきます。著者の生まれは多分アメリカ。つまり「数」のある国です。そして、幼少期に父とともにピダハンや、いろいろな部族と過ごしました。それは彼にとって決して楽なことではなかったでしょう。お母さんがマラリアで死にかけたり、結局父母は離婚し、父親はキリスト教を捨てます(母は宣教師の娘)。そんな家に育った心境はどうなんでしょうね。

人類学や言語学をやっているということは、単に父親を軽蔑したり反発したりしたわけではないでしょう。彼の経験は本書の中でも遺憾なく発揮されていると思います。でも、私にはどうも父親に対する気持ちは尊敬だけではないように思えます。母への気持ちも複雑でしょう。

最近、私は本の著者の心情を考えて本を読んでしまいます。それは、書かれたことをそのまま読むことができないということで、いいのか悪いのか。でも、書いたのも人間だし(AIじゃない)、書いたものにすべてが表現されているわけでもありません。当然ながら、読む時には読む人の思い(気持ち)が入るのですから、それ以外の「客観的」な読み方などはないのかもしれません。そして、「客観的」だと言われている「数字」だって、絶対的な真実ではないし、それをどう受け取るかは、人によって違います。戦争や事故(火事、事件)で「子ども〇〇人を含む✗✗人」が「真実」かどうかはわからないし、そうだとしても、それの受け取り方は人それぞれです。「女性〇〇人を含む✗✗人」という報道がされなくなりました。どうしてされなくなったのでしょう、どうしてされていたのでしょう。

数がある文化とない文化

普段、数に囲まれて暮らしているわたしたちは、「数がない」文化というものを想像することは難しいと思います。数は「当たり前」にあるので、数というものが客観的に(普遍的に)あるように思ってしまいます。一つ一つの物(たとえばリンゴ)はあったとしても、「二つのもの(二つのリンゴ)」というものがあるかどうかは別です。「リンゴが二つある」ことと、「二つのリンゴがある」こととは違います。この本で扱っているのは前者の「二つ」です(私は英語(外国語)が苦手なので Google さんに翻訳してもらったら、どちらも「 There are two apples 」でした。正確に訳すとどうなるのでしょう)。

一般的に、ある文化が別の文化の数体系を採り入れる場合、採り入れる側の文化にも数というものが何かという観念くらいは少なくともある。ところがピダハンにとっては、数は全くの未知の領域だった。両親が教えようと試みたポルトガル語の数詞にとどまらず、数を的確に言い表しうる言葉の存在、さらに致命的には、数の言葉が表す量の認識すらも未知の世界だったのである。

幼かったわたしには、ピダハンの大人たちが数を覚えようとして四苦八苦するのが不思議でたまらなかった。不思議だったのはなんといっても、彼らが学習障害のような問題を抱えてはいないことが子ども心にもわかっていたからだ。(P.121-122)

早速ピダハンがでてきました。幼い著者がどう見ていたのかが想像されます。「え〜?どうしてわかんないんだろう?」という目で見ていた著者には明確な数の概念があったということです。そしてピダハンの大人たちが森や狩りのことは著者(とその父)をはるかに超える知識と技術を持っているのを知っていたので、「ピダハンは馬鹿なんだ」とは思わなかったということです。「学習障害」というのは、それが障害だと思われる社会に生きているということにすぎません。

言い換えると、大切な家族のひとりがいるかいないかを認識するために数を正確に把握できる必要は、必ずしもないわけだ。(中略)ピダハンの子供は数としてではなく、ひとりの人として記憶されているのである。(P.139)

それぞれを「人間ひとり」ではなく「ひとりの人間」として捉えればいい、ということですね。そこに人間の尊厳や、個人の尊重を見ることもできますが、私は固有名(単独性)の問題として捉えたいのです。そして、単独性と捉えたときには、もう数は関係ないのです。たとえドッペルゲンガーがいたとしても。それを数として捉えるときには、「私ではないあなた」としての「二人の人間」が前提されていると思うのです。ドッペルゲンガーの恐怖は、「私以外に私がいる」ということで、その私が「他者(わからないもの)」として現れるということです。

つまり、数の概念の裏には主体性が潜んでいるということです。

神経(脳)のなかの数

本書に多くでてくるのは「生物」にとっての数です。たとえば、赤ちゃんは数をどう見るのか。実験結果は言葉を覚える前の赤ちゃんも、数(量)を認識しているようです。しかし、

つまりこれらの実験の結果からは、生まれて数ヶ月の乳幼児の数的思考に、多種多様な文化がいかに影響を及ぼすかについては、ほとんど何もわからないのである。(P.163)

では、数の認識は文化的なものではなくて、生物学的なものなのでしょうか。

だがそのような認識があるからといって、アリが数量を概念として理解できるとは言えまい。(P.187)

著者は「認識すること」と「概念」は違うと言っているのです。

言葉は本質的に、のちに登場する概念が入るべき場所を示す目標の役割を担う。(P.174)

数を習得する道筋は概念に名前をつけるプロセスではなく、すでにある「名前に概念を付与」していくものだ。(P.175)

以前からある概念を使って新たな概念を生み出し、まだ意味が十分に形になっていない言葉を理解しようとするプロセスのことを、「概念の靴紐結び」と呼ぶことがある。(P.176)

これは「経験の定義」と似ていますね。

あとになってそれに該当する感情を経験したときに、「ああ、これが(あの物語で知っていた)恋愛というものなのね」と得心することを「経験の定義」といいます。あらかじめ知っている概念がなければ、経験に名前をつけることはできません。(上野千鶴子、鈴木涼美著『往復書簡』幻冬舎、P.76)

経験より先に概念、概念よりさきに言語(名前、ことば)があるということです。本当にそうでしょうか。

ここで思い出されるのは、「唯名論」です。唯名論といってもさまざまな考えがあるようなので、Wikiから例を挙げると「実在するのは類の概念の形相(フォルマ)ではなく、具体的な個物(レース)、つまり個々の具体的な人間やイヌや薔薇であると考えた」。この立場からすると、「太郎」や「次郎」はいるけど、「人間」というもの(種)や「二人の人間」というのは名前にすぎない、ということになります。私の例でいうと「リンゴが二つある」とは言えても「二つのリンゴがある」とは言えないということです。Wikiによると唯名論の対義語は実在論です。「人間」だって「二つのリンゴ」だって実在するじゃないか、という立場です。逆に著者の立場から言えば「2(に、ni、two)」という言葉(名前)があって、「2」という概念ができる。そして「2」という概念があって、「2」という経験をする、ということになるでしょうか。

難しいのは、「2」ということを経験したとしても、それを「言葉」(指を二本立てるのも同じです)でなければ表現しようがないということです。アリに「2」という概念がないのは、「2」という言葉がないから、ということになります。そして、言葉がなければ「2」という経験もない。ピダハンは「2」を経験していないのです。

いやいや、概念がなくったって、言葉(語彙)がなくったって「2」はあるし、経験だってしている、というのがプラトン以来の実在論の立場です。ただ、プラトンは個物とは別に「イデア」があると考えたのに対し、アリストテレスは、個物の「質料」と「形相(イデア)」は切り離せない、と考えたのでした。

擬人化(擬自分化)

ここで確認しておきたいのは、アリに、サルに、「数がわかるのか」という質問は、どう答えようと、それらを擬人化しているということです。同様に、乳幼児やピダハンに「数がわかるのか」という質問も、自分の感覚(感情)を投影し、その中で理解しようとしています。

そしてその感覚というのは「自分の感覚」だ、ということです。ふつうわたしたちは、外界を「五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚)」で捉えているといいます。でも、同じリンゴを見ても、他の人達に同じように見えているかはわかりません。「赤」というのが文化によってさまざまな意味をもっている(情熱だとか、反体制的だとか)のはもちろん、赤にふくまれるものの範囲も異なります。「赤いリンゴを買ってきて」と言われた人はスーパーに行って果物のコーナーに行くでしょうが、そこにはさまざまなリンゴがあります。緑色や黄色のリンゴはだめですね。でも、赤いリンゴといっても、黄色っぽいものからえんじ色ぽいものまでさまざまな色のリンゴがあります。どこからどこまでが「赤」なのか。赤を客観的に表示するために、「分光光度計」などを使って、色を周波数(波長)で表します。「〜ヘルツから〜ヘルツまでを赤」と決めるのです。つまり、「数字化」することで「赤」を客観的に決めることができる、と考えるということです。そうすると可視光線の赤より波長の長い色(赤外線)や紫よりも波長の短い色(紫外線)があることになりますが、それは目に見えません。音も同じです。可聴音域よりも低い音(超低周波)や高い音(超音波)があります。ある種の動物はそれらの色や音を認識しています。コウモリやイルカは「なぜ人間は超音波を使わないのだろう」と言っているかもしれないし、植物は「なぜ紫外線で光合成をしないのだろう」と思っているかもしれません。

この「認識」というのがミソで、これを「見えている」「聞こえている」と捉えるのは擬人化です。でも、「感じている」というとまた違います。だけでも外で太陽に当たれば「日焼け」します。これを「紫外線を感じている」と普通はいいません。それによって、皮膚が赤くなったり、ヒリヒリした時に「紫外線」を意識します。

また、鼻をつまんで(目をつぶって)食事をすると味がしなかったり、旨味を感じられなかったりします。五感は独立しているわけではありません。

さて、ここまでは「五感」の話でしたが、動物や植物が「感じている」のは五感だけでしょうか。私にはわかりません。五感以外のもの(第六感のことではありません)があったとしても、私には認知しようがないからです。

農耕と数

人間の集団を用語で分類することには限界があるものの、とはいえ、生産様式と数体系の複雑さには明らかな相関関係がある。(P.238)

著者は農耕に与えた数体系の影響を重視します。

むしろ提起したいのは、確固とした数体系が、過去においても現在でも、農耕習慣を定着させるのに重要な要素になっている(た)だろうということだ。ただ最終的には、数体系と生産の様式は手を携えて発展しただろうことを主張しておきたい。(定住農耕のように)ある種の生産様式は、それ自体が数の様式をさらに高度化する圧力要因になったであろうと考えられるからだ。(P.238)

農耕、定住、都市化(都市の形成)が文化の指標であることを否定するつもりありはありません。「数の発明」と「農耕の開始」はどちらが原因で、どちらが結果なのかはわかりません。著者の「手を携えて」という言い方は微妙です。この関わりをいくらか詳しく説明している箇所があります。

数の上限が大きくなったおかげで、シュメール人をはじめ、農耕に携わるようになった人々は、畑の大麦の畝が何本あるか正確に数えられるようになり、冬に向けて貯えておかなければならない穀物の量も的確に計量できるようになった。数がなければ困難どころか、そもそも不可能な作業だ。今自信を持ってそう言い切ることができるのも、この本で取り上げてきた、近年の実験を伴う調査研究のおかげだ。このように、数のおかげで農耕が可能になり、大規模な定住社会ができた。規模の大きな社会はやがて、言語を共有する知的共同体を広げ、それによって新たな計数の道具もたちどころに広まるようになっていった。(P.240-241)

う〜ん、微妙です。貯えがいくらい必要かは、数がなくてもできると思います。むしろ「計数」はやはり、課税のためと考えたほうがいいのではないでしょうか。カインのように農作物は神に捧げられました。神が王に変わった時(王が神になった時)、供物は租税となったのではないでしょうか。

著者が指摘するように、農耕(らしきもの)は狩猟採集社会といわれるところにも広くあります(農耕が不可能な北極圏は銅なのでしょう)。さらに、狩猟採集社会でも、食料のうちで狩猟が占める割合は低いという調査もあります。狩猟が「生きるための必要に迫られた仕事」のように思うのは、近代西欧人が自分の「仕事」を投影しているだけで、むしろそれは近代西欧で言う「遊び」に近いのではないでしょうか。私は、採集も農耕も遊びなのではないかと思います。狩猟採集や農耕という文化は「遊び」なのです。

文化はその根源的段階においては遊ばれるものであった、と。それは生命体が母体から生まれるように遊びから発するのではない。それは遊びのなかに、遊びとして発達するのである。(ホイジンガ著『ホモ・ルーデンス』中公文庫、P.355)

著者が現代の西欧文明(近現代科学)から、他の文化、あるいは歴史、動植物を見ていることは否定できません。それは仕方がないことです。他者の目で見ることはできないのですから。ましてや彼は学者で、両親も高名な学者です。

数が生み出した世界のなかで、彼は生きています。数と文字の関係についてはあまり書かれていませんが、数と文字(視覚化)は密接な関係があります。数が客観性を持つ大きな要因は、それが身体感覚としてること、それも視覚化されていることです。農業よりも文字と権力の関係のほうが密接です。文字が持つ魔術性と政(祭り事)は結びついています。

数を感じること

わたしたちは体を通じて量を把握するからだ。(P.80)

身体感覚に基づいた比喩や虚構移動は、どちらも数学的推論を組み立てるのに必須の要素だ。(P.219)

身体感覚は言い換えれば「経験」ということです。

言い方を変えると、われわれは、1や2や3は正確に、それ以外の量はおおまかに捉えるように生まれついているのである。(P.109)

だとすれば、わたしたちは「大きな数」を経験しているのでしょうか。あなたは幾つまで数を数えたことがありますか。眠れない時に「羊を数えると眠くなる」と言われます。私も何度か試したことがありますが、眠くならないので結構大きな数まで数えてしまいます(2〜300くらいはすぐに達します)。結局は面倒になって諦めてしまうのですが、10000まで達したことはないと思います。私は数字に弱いのかもしれませんが、1億と1兆の違いを実感できません。仕事でそういう数を扱ったことはありますが、実感はないのです。銀行に勤めている人はお札を数えて、私以上に実感しているのでしょうか。そうかも知れません。逆に、それを「お金」という感覚を持ってはいけないのかもしれません。お札はただの紙切れとして、数字は概念として捉える必要があるのかもしれません。「これで美味しいものが食べられる、好きなものが買える」と考えることは横領につながるのではないでしょうか。

知識(概念)が物、あるいは経験と離れている現在を著者がどう思っているのか。「言葉と物」、数詞と数字の違いをもっと知りたいと思いました。

教科書的

まず最初に総論的な文章があり、全体の要約もあります。各章にも「結論」があって、とても読みやすく書かれています。

著者は、民俗学、考古学、言語学、心理学など、膨大な知識と経験を元に、専門的な内容をわかりやすく書いています。参考文献のほとんどは邦訳されていないので、読んで確認することは私にはできませんが。数学的にではなく「数」を扱った書籍としては、とても意味があると思います。






[著者等]

ケイレブ・エヴェレット(Caleb Everett)
マイアミ大学人類学部教授、同学部長。専門は人類学・言語学。言語と非言語的な
認知・文化・環境の相互作用に関心を持つ。著書にLinguistic relativity: Evidence
across languages and cognitive domains(De Gruyter Mouton, 2013)がある。父
は『ピダハン』(屋代通子訳、みすず書房,2012年)の著者のダニエル・L・エヴェ
レット。幼少期に、宣教師の父とともにピダハン族の村で過ごした。本書はSmithsonian
誌が選ぶ「2017年の10冊」に選ばれ、同年の米国出版社協会の学術出版賞The PROSE
Awardを受賞した。

屋代通子(やしろ・みちこ)
翻訳家。訳書にキム・トッド『マリア・シビラ・メーリアン』、ダニエル・L・エヴェ
レット『ピダハン』(以上、みすず書房)、トリスタン・グーリー『ナチュラル・ナ
ビゲーション』『日常を探検に変える』(以上、紀伊國屋書店)、ケン・トムソン『外
来種のウソ・ホントを科学する』、デヴィッド・G・ハスケル『木々は歌う』(以上、
築地書館)など。自然科学系翻訳に取り組む傍ら、被暴力体験のある若者の自立支
援に携わり、その方面の仕事ではイギリス保健省・内務省・教育雇用省『子供保護
のためのワーキング・トゥギャザー』(共訳・医学書院)などがある。

人は長い間、量がどこまでも数えらえるものであることを知らずに生きてきた。しかし、世界各地で数の言葉が発明されると、数の言葉はその社会で広がり、受け継がれていった。そして現在、社会も大多数の個人も、数を知らなかった頃のことを忘れ、意識まで数に浸されて生きている。ピダハン族などの数を持たない人々の社会や、乳幼児と動物の量の認識、世界の言語に残る痕跡を通じて、数の発明という忘れられた人類史の転換点を探る書。



[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4622089643]

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