量子重力理論とはなにか 二重相対論からかいま見る究極の時空理論 竹内薫著 2010/03/20 講談社ブルーバックス

量子重力理論とはなにか 二重相対論からかいま見る究極の時空理論 竹内薫著 2010/03/20 講談社ブルーバックス

数式の多いブルーバックス

「ブルーバックス」といえば、数式が殆どできない人にも分かる科学啓蒙書、というイメージですが、この本は結構数式が多いです。数学に弱い私なんかはもうちんぷんかんぷんです。まったく理解できなかった。残念です。

なので、これは数学に詳しい人には読んでほしくない感想文です。

空間や時間には最小限がある

光は波の性質と粒子の性質があるということは、皆さんも御存知でしょう。光の色の違いは、光(電磁波)の周波数の違いとして表されます。そして、光をエネルギーとしてみた場合、そのエネルギーは連続ではなく、途切れ途切れの値を取ります。それが粒子としての光、光子です。

だとすれば、空間や時間も連続していると考える必要はありません。そう思ってググっていたら、「ループ量子重力理論」というのを見つけました。同じようなことを考える人がいるもんですね。

これはようするに、幾何学単位系での自然な長さや重さがどれくらいかという問題だ。第3章に出てくるが、幾何学単位系では、長さの「1」は約10-33センチメートルのプランク長さであり、重さ「1」は約10-8キログラムのプランク重さになる。プランク長さやプランク重さは「究極」の長さや重さを意味する。宇宙を極限まで分解したときの長さや重さの基準なのだ。(P.28-29)

なお「コトバンク」によると、1プランク時間は約10-43秒だそうです(「ループ量子重力理論」)。計算をしていませんが、長さを光速(約秒速30万キロメートル=3✕1011センチメートル)で割ると出てくるのかな?また、時間も空間も「連続していない」ということになります。

いずれにしても、想像のつかない小さな物です。

たとえば、重力は距離の二乗に反比例します。そうすると、距離がゼロに近づけば重力は無限大になってしまいます。物理学では、それを回避するために重力以外の要素を考えてきたのですが(そんなに近づけないだろうという大胆な説もあったような)、無限に近い距離が存在しなかったり、あるいは0次元的な「点」が存在しなければ、問題を回避できるかもしれません(重力以外の要素を考えなくてもいいということではなく、問題自体を変える必要があるということ)。相互に影響を及ぼし合う力は、すべて同様でしょう。

真空(空虚、無)

時空が連続していないということは、その最小単位どうしの「間(あいだ)」はどうなっているのでしょうか。

アリストテレスは「自然は真空 κενὸν を嫌う」と言いました(『自然学』第4巻第8章、未確認)。原子論者にとっては、物質(原子)が運動するためには、「物質がない」空間(空虚)が必要です。これに対してアリストテレスは、真空がなくても、運動は可能だとしました。運動というのは「場所(コーラ)」の移動であり、物質の入れ替えであるとします。たとえば、ある物質が水(空気)がある場所に移動すれば、その場所にある水(空気)と物質が入れ替わるのです。「アルキメデスの原理」を思い出します(ちなみに、アルキメデスがその原理を発見した際に叫んだとされる言葉 ηὕρηκα! は「エウレーカ」ではなくて「ヘウレーカ」です)。

(・・・)しばしば、たとえば水が容器から転化〔移動〕するように転化しうるとの理由で、これら〔包むものと包まれるものと〕の中間のすきまがなにものかであるようにも考えられる、しかもあの置き換えられる物体とは別の或るなにものかとしてあるかのように。だが、そのようななにものかはどこにも存在せず、かえって、そうしたすきまには、置き換えられうるところの・且つ〔それを包むものと〕接触するようにその本性上そうできているところの・諸物体のうちの任意の物体が、〔入れ替わりに〕はいりこむ。(『自然学』211b、岩波旧全集第3巻、P.135-136)

さらに、物が移動する際に受ける抵抗力はその通過する際に置き換わる物質(媒体)の濃度(密度)に反比例します。もし真空があれば、そこでの抵抗はゼロであり、速度は無制限になってしまいます。

のみならず、もし或る物体が最も疎なる媒体を通して或る一定の時間のうちに或る一定の距離を移動するとすれば、その物体が空虚を通して移動するとした場合、その移動の速さは全く比例関係を絶しているだろう。(『自然学』215b、岩波旧全集第3巻、P.154)

そのほか、アリストテレスは空虚がないという理由をいくつか挙げています。光が「波」だといわれていた頃は、その波を伝える「媒体」が必要でした(たとえば、音の波はそれを伝える空気が必要です)。それが「エーテル(アイテール・αἰθήρ、ギリシア神話に神として出てくる)」という仮説です。

後のアリストテレスの四元素説では、それぞれの元素に固有の場所があるとされ、このため「土」と「水」がその自然な場所である下へと引かれ、「火」と「空気」が上へと昇るとされた。また彼は、存在しないものが存在することはないという考えから、虚空(真空、ケノン)の存在も認めず、それに基づく原子論も否定した。こうした立場をとったアリストテレスにとっては、永久に天上を巡るかに見える恒星や惑星にそれらを導く別の元素が必要であるのは論理的な必然であった。その天上の第五の元素にアイテールが割り当てられた[4]。 元素にはそれぞれ固有の性質があるとされ、アイテールは天体の動きに見られるように、変形せず永遠に回転し続ける性質をもつとされた。 こうしたアリストテレスの考えによってエーテル(アイテール)は天界を満たしている物質として後世まで広く認知されることになった。 (Wikipedia「エーテル」)

アリストテレスが「存在しないものが存在することはない」と考えていたかどうかは不明ですが、真空が発見され、光速不変の原則でエーテルの存在も否定されました。

無限

時空が量子であるとすれば、あるもの、たとえば半径1cm円の中にある「空間の数」は「数えうる」ということになります(「1cm」という長さも、数えうる)。円の面積(あるいはπ)を求めるために、円の中に(円に接するように)四角形を描き、それを五角形、六角形・・・と無限に増やしていけばいい、と考えられていました。でも、空間が有限なら、ある半径の円においてはある一定のn角形で限界があるということになります。つまり、πの小数点は有限ということです。すなわち、πは有理数ということになります。同様に半径2cmの円にはその固有の有理数としてのπがあることになります。「一般的なπ」を考えたときには、それを無理数ということもできますが、特定の円においてはπは有理数です。πは√2などの代数的数であるどころか、有理数なのです。

特定の範囲(たとえば0から1)においては、長さや面積は有限ですが、無限の直線や平面では、空間は可算無限です。「アキレスと亀」で有名なゼノンのパラドックスや、アルキメデス・エウドクソスが考えた図形を可能無限に分割して面積(体積)を求める方法は、あくまで抽象論であり、その分割は加算の範囲内に収まる有限です。数字で考える限り、人は数字(数えること)の範囲の中にいます。

空間や時間は連続しているのか

連続していなくても(隙間がなくても)運動は可能です。あるもの(エネルギーでも物質でも)は、Aという場所から「隣の」Bという場所にあるものと入れ替わって、移動することが可能だからです。アリストテレスの説の復活とも言えるかもしれません。

ある場所におけるエネルギー(あるいは質量)を測定しようとすると、場所(位置)とエネルギーとの積はある限界内の誤差を必ず含みます。位置を正確に特定しようとするとエネルギーが不確かになり、エネルギー量を確定しようとすると位置が不正確になります。いわゆる不確定性原理です。その不確定さの積の値が h(プランク定数)あるいは バー (ディラック定数)で表されます。つまり、時空が粒子で非連続であることと、不確定原理は同じことを現しているということになります。

量子理論では、質量(エネルギー)の存在は、確率(可能性)という数字で表されます。とすれば、空間や時間も確率で表さるようになるでしょう。

皆さんに馴染みのある「数直線」を考えてみましょう。そこには1,2,3・・・という整数の「場所」があります。さらに、1/2、1/3、1/4などの分数の場所もあります。これらが有理数です。さらに、πや√2などの無理数があります。合わせると実数です。さて、この数直線は実数で満たされている(数直線から有理数と無理数を取り除くと数直線が無くなる)のでしょうか。だとすれば、「数直線は実数のみで連続している」ということになります(数学的にこれを現したのが「連続体仮説」でしょう)。

でも、この問は意味がないのです。数直線を「すべての数」と定義し、無理数を「有理数じゃない数」と定義すれば、実数を取り除くと数直線は消えます。でもこれは、「数直線は連続である」ということとは関係ありません。そこで出てくる問いは「すべての数は数直線で表しうるか」ということであり、「数とは何か」ということです。さらには、「数えるとはどういうことなのか」ということです。

「3個のりんご」という「言葉」が「3個のりんご」という実体のすべてを表しているわけではないように、「りんご」も「3」も「概念(イデア)」であって、「実体(存在)そのもの」ではないということです。それを「りんごは存在する」「3は存在する」と思いこむことは、「神は存在する」と同じように、自分たちが作り出したもの(定義)であることを忘れ、それに支配されるということです。

数も神も人間が作り出したものだとすれば、数の持つ神秘(ゲマトリア、数秘術)の根拠も明らかになります。

世界的に見れば、「神の存在を信じる民族(文化)」もあれば、「数の存在を信じる民族(文化)」もあります。また、その逆の民族(文化)も多いでしょう。

間主観

ただし、それは観測者の主観だけで観測結果が決まるものではなく、ローレンツ変換により、他の観測者にも「他人がどう観測するか」が理解できるような理論構造になっている。つまり、主観と主観の「間」の関係が明らかになっているから相互理解が可能なのだ。このような理論を(哲学用語では)「間(かん)主観的」な理論と呼ぶ(共同主観も同じ意味である)。(P.67)

数字も科学も、そして神も哲学も人間が作り出したものです。その証拠に、それを持たない民族(文化)もたくさんあります。それらの文化を「遅れている」「劣っている」と思うのは、それらをもっている一部の民族(文化)の一部だけです。それらを客観的存在(実在、存在そのもの)だと思っているのも一部です。サルが計算をしたり、馬が足し算に蹄の音で答えると、「凄い」と思います。「動物に数の認識があるか」という研究はずいぶんなされたようです。でも、それは数を持つ文化の優越感でしかありません。

もちろん「主観」も人間が作り出したものです。「人間が」というのは「私が」「あなたが」ということではありません。西欧文化でいう「主観」を持たない文化もたくさんあります(西欧に住む人だって、主観だけで生きているのはないと思いますが)。

いくら勉強したとしても、いくら経験をしたとしても、その基になっている「自分」は自分が作ったものではありません。「親」が作ったわけでも、「社会(文化)」が作ったわけでもありません。「自分(私)」は私が気がついたとき、あるいは気が付かなくても「すでに」あります。何らかの体を持ち、日本語(母語)で話し、考える自分は「作る」わけでも、「発明」するわけでもありません。せいぜい「発見」するだけですが、自分自身のことを「分かっている」という人がいるのでしょうか。私はこの歳になっても、わからないことだらけです。わからないから、自己を統御することができません。何をしたら楽しいかもわからないし、意志とは関係なくお腹は減るし、排泄をやめるわけにもいきません。唯一自分を統御する可能性は「死」のような気もしますが、その感情(思考)ですら「自分で作った」とは思えないのです。

では、それら(私など)は「作られた」のでしょうか。全ては神によって作られたと思うこともできるでしょう。すべては「ある」だけです。それを「神が作った」ということは可能でしょうが。

科学(あるいは数)によって、世界を理解できる、あるいは世界を支配(統御)できる、あるいは可能であるという「思い上がり(幻想)」から抜け出ることができなければ、西欧的主観は幸せにはなれないと、今私は考えています。






[著者等]

竹内 薫

1960年、東京都生まれ。東京大学理学部物理学科卒業。カナダ・マギル大学大学院博士課程修了。理学博士。ノンフィクションとフィクションを股にかける 科学作家。小三から小五までニューヨークの現地校に通ったせいで、帰国後、カルチャーショックに悩まされ、学業も落ちこぼれる。現在は妻子とともに裏横浜 に在住(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『思考のレッスン』(ISBN-10:4062165082)が刊行された当時に掲載されていたものです)

最先端の「時空の物理学」にチャレンジしよう。時空と重力の基本原理である相対性理論と、素粒子と原子を記述する量子力学。この2つの原理を満たす時空の理論(=量子重力理論)は、はたして可能なのか? そもそも「時空を量子化する」とは、どんなことなのか? 物理学最先端の研究とその雰囲気をあえて数式を使って解説する。(ブルーバックス・2010年3月刊)

量子化される時空
最先端の「時空の物理学」にチャレンジしよう
時空と重力の基本原理である相対性理論と、素粒子と原子を記述する量子力学。この2つの原理を満たす時空の理論(=量子重力理論)は、はたして可能なのか?そもそも「時空を量子化する」とは、どんなことなのか?物理学最先端の研究とその雰囲気をあえて数式を使って解説する。
物理学最大の問題の1つ、それは時空構造の追究、つまり空間と時間の構造の数理モデルを作ることです。その条件は、時空と重力の原理である「相対性理論」と素粒子・原子などのミクロな理論「量子力学」が共に成り立つことです。では、「相対論と量子力学が共に成り立つ」とはどういうことでしょうか?それが「時空の量子化」です。



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