善の研究 西田幾多郎著 1984/11/10 日本の名著47 中央公論社

善の研究 西田幾多郎著 1984/11/10 日本の名著47 中央公論社

『日本の名著』

図書館リサイクルでもらってきたものです。『日本の名著』は手軽に主要図書が手に入るので貧乏人には嬉しいです。各巻の編者による解説は、その著者の全体像がわかるようになっています。この本でも、上山春平さんによる80ページ以上の紹介がありますが、それだけで西田幾多郎入門には十分すぎるほどです。

ただ、二段組で字が小さいので、年寄りの目には辛いのが欠点です。実は、私は字の大きな全集(岩波書店)をもっています(焼き鳥屋1回分ほどの価格で手に入れました)。ただ、「旧漢字仮名遣い」です。ただでさえ難しい哲学書をつまずきながらよむと、さらに内容がわかりません。そこで、この本を思い出して読んだのですが、スムースに読める分、わかったような気になりました。読み直すと、全然わかっていなかったのですが。

そんなわけで、前半は全集に線を引き、後半は名著に線を引くという結果になりました。

『善の研究』

恥ずかしながら、私はずっと『禅の研究』だと思っていたのです。もちろんタイトルは何回も見ていて『善の研究』だということは知っていたのですが、無宗教で宗教に敵対心さえ抱いてた私は、読む気にはなりませんでした。「善」という言葉も、学校の道徳の時間に習った「善悪」のような気がして、そこに軍国主義的な匂いを感じていたのです。

最近になって、古典ギリシア哲学を少し読むようになり、「善」というのが「美」や「正義」とともに、古典ギリシア以来現在まで続く西洋哲学にとっての中心概念だということに気づきました。この本における「善」も基本的には西洋哲学の流れをくむ概念です。それは、日本的(仏教的)「善」とは似て非なるものです。かと言って、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの「善」とも違う厄介なものです。

統一

キーワードの一つは「統一」です。たとえば

しかるに意志は主客の統一である。意志がいつも現在であるのもこれがためである。(P.97)

それで、いかなる意識があっても、それが厳密なる統一の状態にあるあいだは、いつでも純粋経験である、すなわち単に事実である。これに反し、この統一が破られたとき、すなわち他との関係に入ったとき、意味を生じ判断を生ずるのである。(P.97-98)

といった具合に、たくさん「統一」という言葉がでてきます。

西田がどういう哲学用語としてこれを使っているのかはよくわかりません。一つ考えられるのは「総合 synthesis 」という意味です。これは通常「分析」と対を成す語で、ギリシア語では「 σύνθεσις 」、「複数のものをまとめて置く」、つまり「分解 analysis 」の反対語です。ギリシア語では「 ἀνάλυσις 」ですが、古典ギリシアおいては対語ではありません。たとえば幾何学(『原論』)では、基本作図(定理)があって、ある問題がその定理で証明可能だと仮定して(答えがあると仮定して)その定理の組み合わせを考えること、これが「分析」です。学校の数学の時間に、問題を考えるときにもこれが基本ですよね。そして、組み合わせて問題が解けることがわかった時に、事後的にその組み合わせ(論理の流れ)を整理するのが「統合」です。ですから、「善悪」や「美醜」などのような対概念ではありません。

同じような論理的思考方法が「帰納と演繹、induction / deduction」です。数学で見かけることが多いですが、日常語ではないですね。イメージとしては「いろいろな現象を観察して、そこに法則を見つけるのが「帰納」、逆に、その法則から各現象を説明したり、現象を予測したりするのが「演繹」」でしょうか。これはアリストテレスなどの用法とは違いますが、思考の流れとしては「分析と統合」と似ています。

またそれが「原因と結果」に類似していることも予想されます。西欧におけるこのような対概念のうちの一方をまとめて解釈したのが「統一」という言葉の意味だと思います。なので、この統一ということが「全体と部分」、「属性(観念)と実体(実在)」「主観と客観」などということと関係してきます。

さて、そこで上記の引用文ですが、西田はその対立を乗り越えようとしているのです。「統一」という心の作用を「人間的自然」と捉え、統一がなされているときには「快」というか、「何も考えない」状態だと思っているようです。

ふだんわたしたちは、考えているようでほとんど考えずに行動をしています。頭をかく時には、何も考えなくても手が勝手に動きます。うまく頭がかけたとき、事後的に「頭が痒かった」と思うこともありますが、それすら稀です。その時に腕に痛みを感じたとしたら、そのときには「統一」が破られ、「あれ?」と考え始めます。腕が痛い原因を考えたり、頭のかゆさを意識して、痛みの原因と痒い頭の解決法を考えるようになります。

人間関係にしても、社会と自己との関わりにしても、それらが「空気のようなもの」であれば、何も考えなくて済みます。そこに「他者」を感じたり「不自由・不満」を感じたりした時に、「統一」は破られ、「不快」が生じ、「意志(判断)」の必要性を感じます。「物心」がついて、全体性(万能性)から分離されるのが、最初の「不快」でしょうか。そのあと、その「他者性」や「不快」「不自由」「不満」が解決された時に「快」を感じるのです。

分析の「分」は日本語では「分かる」ということとつながります。区別も何も無い混沌の状態から、あるものを「区別する(分ける)」ということ、分析が「分かる(知る)」ということです。赤ちゃんが目に見える(経験する・知覚する)物の中から「親」を区別する、自然の中から「山」「川」「犬」等を区別することが分かるということです。そして周りから自分を区別することが最初の「自己」です。

統合の「統」は「統べる(すべる、まとめる、治める)」ということです。

私たちの社会は、分析(分類)することにあまりにも積極的で、統合(綜合)することをあまり気にかけません。その原因は、部分の集合が全体であるという発想であり、また部分(個、あるいはレベルの低いところ)を説明できれば全体を説明できるという「還元主義 reductionism 」であり、原因が別れば結果は自ずと分かるという因果律です。西田はその流れに意義を申し立てているのかもしれません。

この本が書かれた明治40年代には「総合」という言葉はかなり普及していたでしょう。でも、それは「 synthesis 」の訳語としてです。その後、「総合感冒薬」や「総合商社」など「総合」は(本来の意味とは別に)日本語の中に広がっていきますが。

直覚

「直覚」は、普段聞くことがない語です。多分西周が「 intuition 」に当てた訳語です。今の言葉で言えば「直感」に近いでしょうか。論理的(理論的、理性的、因果論的)に「頭で」で「分かる」のではなくて、「心で」あるいは「皮膚で」分かるという雰囲気だと思います。

ただわれわれをして物心そのものの存在を信ぜしむるのは因果律の要求である。しかし因果律によりてはたして意識外の存在を推すことができるかどうか、これがまず究明すべき問題である。

さらば疑うにも疑いようのない直接の知識とは何であるか。そはただわれわれの直覚的経験の事実すなわち意識現象についての知識あるのみである。現前の意識現象とこれを意識するということとはただちに同一であって、その間に主観と客観を分かつこともできない。(P.120)

「直感」というと、本人だけの「思い込み」や「予感」に近い不確かな意識のニュアンスがありますが、西田の「直覚」はもっと明確な知識です。それは経験(感覚)から直接に得られる知識です。そして、西田は「それしかないんじゃないの」といっているのです。なんせ、自分が意識(知覚)できるのは、自分の意識だけですから。他人がどう考えているかはわからないし、今何かを手にとってその存在を「感じる」としても、その感じているのも自分の意識でしかありません。「手が感じている」のではありません。棒で何かをつついた時、棒が感じているのではないように。手に触れていても、それに気が付かないことは、多々あります。

何かが「分かった」としても、それが「客観的真理」として万人に受け入れられるものではありません。他人が「知った」り、「分かった」りしたとしても、それが「客観的真理」ではないし、同じ経験を自分がするとは限りません。自分の経験と他人の経験は同じだとは言い切れないのです。典型的は「唯心論」かもしれませんが、ライプニッツの「モナド」とも共通するものです。

少しの仮定もおかない直接の知識に基づいてみれば、実在とはただわれわれの意識現象すなわち直接経験の事実あるのみである。このほかに実在というのは思惟の要求よりいでたる仮定にすぎない。(P.123)

意識が身体の中にあるのではなく、身体はかえって自己の意識の中にあるのである。(同)

潔いほどの唯心論です。

純粋経験

この直覚による経験が「純粋経験」です。

純粋経験においてはいまだに知情意の分離なく、唯一の活動であるように、またいまだ主観客観の対立もない。主観客観の対立はわれわれの思惟の要求より出てくるので、直接経験の事実ではない。(P.128)

これを空気の振動であるとか、自分がこれを聴いているという考えは、われわれがこの実在の真景を離れて反省し思惟することによって起こってくるので、このときわれわれはすでに真実在を離れているのである。(同)

主観客観とは一の事実を考察する見方の相違である、精神物体の区別もこの見方より生ずるのであって、事実そのものの区別ではない。事実上の花は決して理学者のいうような純物体的の花ではない、色や形や香をそなえた美にして愛すべき花である。(同)

最近、よく耳鳴りがするのですが、きっと常にいろいろな音が聞こえているのでしょう。心臓の音も常時しているはずです。もちろん、可聴範囲外の音で世界は溢れています。でも、それを意識するのは「事後的」です。

また、寝ているとき、失神しているときに「花」が存在するかどうか。「存在する」と考えるのが唯物論です。同じことが「能力」についても言えます。たとえば、建築技術(能力)をもっている大工は寝ているときも大工か。

アリストテレスは、大工が寝ているときの(可能としての)能力を「デュナミス  δύναμις 」、その能力を行使している時を「エネルゲイア ἐνέργεια 」と区別しています。TVドラマ『コタツがない家』で吉岡秀隆さんが演じる漫画家「深堀悠作」は11年間、漫画を描いていません。彼は漫画家なのでしょうか。アリストテレスなら、「そうじゃない」などと冷たくあしらうことはないでしょう。「デュナミス」としての漫画家です。西田はどうでしょうか。

かく意味というものも大いなる統一な作用であるとすれば、純粋経験はかかる場合において自己の範囲を超越するのであろうか。たとえば記憶において過去と関係し意志において未来と関係するとき、純粋経験は現在を超越すると考えることができるであろうか。(P.98)

と、問うた後、

たとえば思惟あるいは意志において一つの目的表象が連続的に働くとき、われわれはこれを一つのものと見なければならぬように、たといその統一作用が時間上には切れていても、一つのものと考えねばならぬと思う。(P.98-99)

と答えています。昨日の自分と今日の自分は違いますが、どちらも「自分」です。西田にとって存在は時空を越えたものとなります。そして、それを経験し、意味づけするのは「深堀悠作」ではなくて西田です。

われわれが外界における客観的世界というものも、吾人の意識現象の外になく、やはり一種の統一作用によって統一されたものである。ただこの現象が普遍的であるときすなわち個人の小なる意識以上の統一を保つとき、われわれより独立せる客観的世界とみるのである。(P.132-133)

ただ各人が同じくこれを認むるによりて客観的事実となる。客観的独立の世界というのはこの普遍的性質より起こるのである。(P.133)

主観的意識しかないんだけど、みんなが認めればそれは客観的なものとなるということですから、西田が認めれば深堀悠作は漫画家です。そして、みんなが認めるならそれは「客観的」なものとなります。他の人がどう思っているかはわかりません。「本当に私は見た」ということを証明できないように、客観的に存在することも証明することはできません。ただ、みんなが「深堀悠作は漫画家(実在)だ」と言えば、漫画家(実在)なのでしょう。

これを要するにわれわれの主観的統一と自然の客観的統一とはもと同一である。これを客観的にみれば自然の統一力となり、これを主観的にみれば自己の知情意の統一となるのである。(P.146)

西欧においてはこの主観が「吿解」の原因です。つまり、本人しかわからないので、本人が真実(秘密)を語り、語らせるのです。本人は「積極的に強制される」のです。

矛盾

実在には種々の体系がある、すなわち種々の統一がある、この体系的統一が相衝突し相矛盾したとき、この統一が明らかに意識の上に現れてくるのである。衝突矛盾のあるところに精神あり、精神あるところには矛盾衝突がある。たとえばわれわれの意志活動についてみても、動機の衝突のないときには無意識である、すなわちいわゆる客観的自然に近いのである。しかし動機の衝突が著しくなるにしたがって、意志が明瞭に意識せられ、自己の心なるものを自覚することができる。しからばいずこよりこの体系の矛盾衝突が起こるか、こは実在そのものの性質より起こるのである。(P.148)

実在の統一作用なるわれわれの精神が自分を意識するのは、その統一が活動しおるときではなく、この衝突の際においてである。(同)

先に書いたように、主観を感じるのは日常の中のほんの一瞬、特殊な場合だけです。普段あるいは赤ちゃんのときは感じないけど、不自然さや違和感を感じたとき、それが精神を生みます。手を怪我したとき、めまいがしたとき、痒かったとき、あるいは病気になったときや老化した(歳を取った)と感じるときなどです。そのとき感じた違和感(矛盾)を「統一」しようとするのが「精神」です。のちに西田が「絶対矛盾的自己同一」として表現した内容です。

かくわれわれの精神は衝突によりて現ずるがゆえに、精神には必ず苦悶がある。(P.149)

仏教の根本思想の一つとしての「四苦八苦」が思い起こされますが、それだけではないでしょう。当時、西欧哲学が流入してきた日本における、西欧思想と日本文化との「矛盾」であるようにも思います。西田哲学が難しいのは、その二つの矛盾が渾然一体として表現されているからではないでしょうか。

今日の進化論において無機物、植物、人間というように進化するというのは、実在が漸々その隠れたる本質を現実として現しきたるのであるということができる。精神の発展においてはじめて実在成立の根本的性質が現れてくるのである。ライプニッツのいったように発展 evolution は内展 involution である。(P.150)

「無機物、植物、人間」というのを「進化」として「価値的判断」をするような思考方法は日本にはありませんでした。それを「(精神の)発展(進化)」と捉えるのは、とてもヘーゲル的です。

われわれの精神は実在の統一作用として、自然に対して特別の実在であるかのうように考えられているが、その実は統一せられるものを離れて統一作用があるのではなく、客観的自然を離れて主観的精神はないのである。われわれが物を知るということは、自己が物と一致するというにすぎない。花を見たときはすなわち自己が花となっているのである。花を研究してその本性を明らかにするというは、自己の主観的臆断をすてて、花そのものの本性に一致するの意である。(P.150)

「西欧的知(知識・学問)」に対して、日本の思想を適用する試みです。夏目漱石の「則天去私」に通じます。西洋から流入した「個人(主義)」に対する日本的反応でもあります。

自己の全力をつくしきり、ほとんど自己の意識がなくなり、自己が自己を意識せざるところに、はじめて真の人格の活動をみるのである。(P.191)

自己の主観的空想を消磨しつくして全然物と一致したるところに、かえって自己の真要求を満足し真の自己をみることができるのである。一面よりみれば各自の客観的世界は各自の人格の反映であるということができる。いな各自の真の自己は各自の前に現れたる独立自全なる実在の体系そのもののほかにはないのである。(P.192)

禅の精神ですよね。「梵我一如」を「我」から見たものですが、「忘我(無我)・恍惚」といったほうが近いでしょうか。「ランナーズハイ」のようなものですね。最近人気のない「根性論(精神論)」にもつながります。日本では形式が重んじられるといわれます。芸事(たとえば茶道)では「形」が重要です。「なぜ」という説明(理由)よりも、まず形を叩き込まれます。楽器は典型でしょう。まず「弾けるようになる」ことが必要です。個性は、その先にあります。弾けなければ、演奏で個性の発揮のしようがないじゃないですか(弾けないことが個性と言えないこともないですが)。

戦後の民主教育は「個性(自主性)」を重んじて、形式を蔑ろにする傾向がありますが、最近私が感じているのは基礎(形式)の大切さです。デッサンが下手でも絵は描けます。茶道をしらなくてもお茶は淹れることができます。それどころか、今はお茶をいれることができなくても、ペットボトルのお茶が飲めるのが現代です。でも、それによってお茶を淹れることができない人が増えていきます。私は日本文化の衰退を嘆いているわけではありません。それによって失われるのは、「お茶を淹れる能力」です。冷凍食品は「料理をする能力」を衰退させます。その結果、「個人」はどんどん能力(生きる力)を失っていきます。そしてその分、「依存性」が増えていくのではないでしょうか。近代西欧が目指している「独立した個人」そのものがどんどん遠ざかっていることに西欧人は気づかないのでしょうか。

ただにいわゆる普遍的理性が一般人心の根底に通ずるばかりでなく、或る一社会に生まれたる人はいかに独創に富むにせよ、みなその特殊なる社会精神の支配を受けざるものはない、各個人の精神はみな社会精神の一細胞にすぎないのである。

前にもいったように、個人と個人との意識の連結と、一個人において昨日の意識と今日の意識との連結とは同一である。前者は外より間接に結合され、後者は内より直ちに連結するようにみゆるが、もし外より結合せらるるようにみれば、後者もある一種の内面的感覚の符徴によりて結合せらるるので、個人間の意識が言語等の符徴によって結合せらるるのと同一である。(P.138)

「サピア=ウォーフの仮説」のように読むことも可能ですが。

何かを行うということは、自分の属している文化の中で行動するということを逃れることはできません。「形式」というのは、過去の自分や過去の人々の中で行為が行われるということです。西田にとっては、過去も未来もふくむ現在があるのですから、形を学ぶというのは過去(現在・未来)の人たちや過去(現在・未来)の自分との対話です。個性というものがあるとすれば、形を身につけることによって、その中におのずと自己(個性)が表現されるということです。その時の「個性」というのは「西欧的自我」とはまったく別のものですが。

利便性

アナーキーな私は「前衛音楽」や「パンク・ロック」などが好きです。ギターやピアノが弾けなくても音楽をやりたいし、デッサンができなくても絵を描きたいのです。なんかそれが新しくてカッコがいい、と思ってしまいます。でも、有名になる音楽家や画家は、どんなに新しいことをやっているようでも実は音楽の教育を受けていたり、前衛芸術をやっていてもめちゃくちゃデッサンがうまいことが多いようです。そしてたいていは「壁」にぶち当たって悩みに悩んで「新しいスタイル」を作り出しているように思います。「形」を壊すのですが、それが可能なのは彼らが形を身に着けているからです。

私の場合は、デッサンの練習も、ギターやピアノの練習もするのが嫌で、手っ取り早く「抽象画」に手を出したりするだけです。楽(らく)したいだけです。「辛いこと、痛いことはしたくない」「面倒なこともしたくない」、利便性を求め、できるだけ手足を動かさずに過ごしたい。

将来的に、我々の自己意識を完全に情報化して身体から機械へ移し替え、我々が自己意識の上で死ねなくなる(情報空間場で永遠に生きつづける「人格」と化す)可能性が開かれ得る。可死的な身体を医学的に延命するより、このほうが技術的にも簡単となる時代の到来が予想される。そうなれば無痛社会への欲求は完全に充足される。(古田裕清著『西洋哲学の基本概念と和語の世界』P.173)

痛ければ鎮痛剤を飲めばいい。たしかに痛いことは苦痛です。鎮痛剤で痛みを抑えることは大切です。でも、その時に痛みと同時に忘れてしまうのは、「なぜ痛かったのか」「なぜ痛みがあるのか」ということです。極端に言えば、生きているから痛みがあります。もちろん「楽しみ」もです。

西田のいうように、「精神には必ず苦悶がある」(P.149)のでしょう。でも、その苦悩や苦痛は「社会的」なものです。文化や時代によって、何を苦痛(あるいは快楽)と考えるかは異なっています。極端に言えば、植物や鉱物に苦痛や快楽はあるでしょうか。「食用昆虫」が注目されることがあるかもしれません。かれらは痛いと感じているのでしょうか。農林水産省は世界的な「アニマルウェルフェア」の流れに沿って、2023年7月26日「畜種ごとの飼養管理等に関する技術的な指針」を公表しました(世界基準よりは明らかに低いです。そして法ではないので、罰則やペナルティはありません)。現在の対象は牛、豚、鶏ですが、将来は昆虫も加えられるかもしれません。それらは人間(自分)の感情を動物に見つけたものです。

他人が自分と同じ感情を持つと思いたい気持ちは私も同じです。でも、他者や多文化、動植物に勘定があるとしても、それは私の感情とは異なるものです。

狼に育てられた少年は狼の生き方を生きるしかないのです。立って歩くことすら文化に依存します。

生きる力

今年1月1日、能登半島で大地震が発生しました。正月(元旦)に大震災なんて。最近、なんだかそういう災害が多くなっているような気がします。自然災害は因果関係を問うてもできることはかぎられています。ただ今回TVは、「逃げてください」を強調していました。どの局も「自分の命を守ることを最優先にしてください」と言っていました。東北大震災以降、防災に関する研究が高まった成果とも言えますが、それ以外の要素も感じます。それはそれとして、被災地の人や心配している国民はどのように振る舞うのでしょうか。SNSにデマを流すのは論外として、自分たちが復旧を担っていこうと思うのでしょうか。コンビニで買物をしたことしかなく、家には包丁がないような若い人たちは、料理をするどころか、火を起こすこともできないでしょう。するとどうするのか、行政による支援を最優先に考えるでしょうね。

そこで行われるのはナオミ・クラインが『ショック・ドクトリン』で描いたような事態です。加賀は京都や大坂とともに徳川幕府と微妙な関係にあった場所です。ですから、その文化も東京とはちょっと違うような気がします。それを均一化しようとする圧力は働くでしょうね。『ショック・ドクトリン』で描かれた南米やアジアの民衆が自分たちで自分たちの生活を立て直そうとした「力」、それは「生きる力(技術)」です。それは阪神・淡路大震災のときには大いに発揮されました。それは大きく報道されました。東北大震災でも発揮されていましたが、あまり報道されませんでした(もちろん、そこで「ショック・ドクトリン」がなされたことも)。今回はどうなるのでしょうか。岸田政権の支持率は低迷していますが、多分政府と財界はこれを最大限利用しようとするでしょう。加賀百万石の石川県民気質が、それに対抗できるような「生きる力」を残していることに私は希望を託したいと思います。

自由

「道徳」とか「善悪」とか「倫理」という言葉が大嫌いでした。じゃあ、私はどうやって行動を決めて(選択して)いたのか。「自分が楽しい」「自分が楽だ」など、自分勝手な理由がほとんどですが、「正義感」や「善いこと」のために「やりたくないこと」をしたり「やりたいこと我慢」したこともそれなりにあります。ただ、避けてきたのはその「正義」や「善」を他人に強制することです。他者から強制される「善」は「偽善的」です。それは自分や他者の「自由」を制限します。自由について西田は、

自由には二つの意義がある。一はまったく原因がないすなわち偶然ということと同意義の自由であって、一は自分が外の束縛を受けない、おのれ自らにて働く意味の自由である。すなわち必然的自由の意義である。(P.164-165)

それでは、「こうしたい」という自由に基づく欲望はどのように生まれるのでしょうか。

すべてわれわれの欲望または要求なるものは説明しうべからざる、与えられたる事実である。われわれは生きるために食うという、しかしこの生きるためというのは後より加えたる説明である。われわれの食慾はかかる理由により起こったのではない。小児がはじめて乳をのむのもかかる理由のためではない、ただ飲むために飲むのである。(P.168)

これは、

変わらないというのは、言葉を変えたら、自己同一性(アイデンティティ)を保っているということであるから、私も種も、自己同一性を維持しながら変わってゆく、ということだろう。そして、自己同一性をもちながら、変わるべくして変わってゆくもの、あるいは自己運動によって変わってゆくようなもののことを、ここであらためて主体性をもったもの、と定義しよう。しかし、変わるべくして変わるということは、この空間的・時間的な世界に存在するあらゆるものについて、いえることではないか。(今西錦司『主体性の進化論』中公新書、P.209)

という考えにそっくりです。そこには因果関係も主客構造も乗り越えた日本的思想です。

善と美

かく考えてみれば意志の発展完成は直ちに自己の発展完成となるので、善とは自己の発展完成 self-realization であるということができる。(P.185)

ここにおいて善の概念は美の概念と近接してくる。美とは物が理想のごとくに実現する場合に感ぜらるるのである。理想のごとく実現するというのは物が自然の本性を発揮する謂いである。そこで花が花の本性を現じたるときもっとも美なるがごとく、人間が人間と本性を現じたときは美の頂点にあるのである。美はすなわち善である。(P.186)

また一方によりみれば善の概念は実在の概念とも一致してくる。(同)

してみれば、今自己の発展完成であるという善とは自己の実在の法則に従うの謂いである。(同)

われわれの善とはある一種または一時の要求のみを満足するの謂いでなく、ある一つの要求はただ全体との関係上においてはじめて善となることは明らかである。(P.187)

われわれの良心とは調和統一の意識作用ということとなる。(同)

ここでもまた「統一」がでてくるわけです。

宗教

仏教の根本的思想であるように、自己と宇宙とは同一の根拠をもっている、いな直ちに同一物である。このゆえにわれわれは自己の心内において、知識では無限の真理として、感情では無限の美として、意志では無限の善として、みな実在無限の意義を感ずることができるのである。(P.198)

人間はその意識を含めて自然の一部です。ですから、人間が考えることは自然を越えることはありません。それがどれほど空想的でも。自然を越えた人間があるわけではなく、人間が動植物より偉いなどということもありません。西田の発想は禅(仏教)的である以上に日本的です。自然が発想するものが自然を越えることはありえないし、自然の中で、同じことですが文化の中でその通りに考えるしかありません。越えようとするのは、自分が自然の一部であることを忘れているのです。自然や他者( or 歴史)を支配、制御できるというのは(近代)西欧の思い上がりです。自由の感覚、束縛の感覚、悲しみなどがあるのが現実ですが、その多くが社会(文化)に依るものであり、それを「越えよう」とするのは一種の「思い上がり」「幻想」です。

われわれは自己の安心のために宗教を求めるのではない、安心は宗教より来る結果にすぎない。宗教的要求はわれの已まんと欲して已むあたわざる大いなる生命の要求である、厳粛なる意志の要求である。宗教は人間の目的そのものであって、決して他の手段とすべきものではないのである。(P.202)

カントですね。

世界は個人のために造られたるものではなく、また個人的欲求が人生最大の欲求でもない。個人的生命は必ず外は世界と衝突し内は自ら矛盾に陥らねばならぬ。(P.203)

宗教的にそう言わざるを得ないことはわかるけど、「必ず」なのでしょうか。「歴史(有史)」的にはそうなのかもしれないけど、そこには文化的・社会的なものが大いにあると私は思うのです。痛みも、悲しみも文化的なものだから。それは西田自身もわかっていたのではないでしょうか。仏教が日本に入ってきたとき、人々は今と同じように苦しみ、悲しみ、宗教(仏教)を求めたのではないのではないのかもしれません。だから、為政者は仏教を広めようとしました。地獄や疫病を大いに描かせました。それは、今の朝の情報番組で「高齢者の事故」「幼児の死亡」「戦争の悲惨さ」を毎日放送していることと変わりないのではないでしょうか。「あなたがそうでなくとも世界は苦痛に満ちている。人間は不幸なのだ、そしてあなたも」。危機を煽ること、それがいつの時代にも為政者の統治の手段なのかもしれません。

確かに、今回の大震災のように多くの人が苦しむ状況はあります。飢饉もあったでしょう。でも、ほとんどの人の、人生の殆どの時間が「苦」に満ちているでしょうか。ゴータマシッダールタは出家するまで「不幸」だったのでしょうか。わたしたちが知っている「宗教」はほぼ「文献(聖典)」に基づくものです。そこに書かれているのは「今、眼の前で生きている」ブッダやキリストではありません。人々が不幸だから宗教(文献)があるのか、宗教(文献)があるから不幸なのか。それは西田のいうように「因果関係(因果律)」を超えた問題かもしれません。

たとえば、「不便だからコンビニができるのか」「コンビニがあるから不便なのか」、考えてみてください。コンビニがない時代の人は生きていけませんでしたか。不幸でしたか。苦に満ちていましたか。「学校があるから教育が必要なのか」「教育が必要だから学校があるのか」、あるいは「病気があるから病院があるのか」「病院があるから病気があるのか」・・・、当たり前に思えることでも考えるといろいろありそうです。






[著者等]

西田幾多郎(ニシダキタロウ)
1870年(明治3年)石川県出身。哲学者。京都帝国大学名誉教授。早くから勉学の才能を示していたが、実家の破産、家族との離別、学歴差別、不可抗力による失職など数々の困難に見舞われた前半生を送る。やがて禅に傾倒し、そこから着想を得て独自の哲学を拓いていく。代表作『善の研究』は戦中・戦後を通じてベストセラーとなった。1945年(昭和20年)没。

本書はいわゆる純粋経験の立場から哲学の全領域にわたって整然と組織された哲学体系である。のちの西田哲学の基礎となり、かつ純粋経験によって知識・道徳・宗教の一切を基礎づけようとする強靭な思惟に貫かれたこの処女作は、明治以後邦人のものした最初の哲学書と言われ、多くの人に迎えられて今日に及ぶ。



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